2015年12月20日日曜日

スター・ウォーズ :エピソード7/ フォースの覚醒

「ターミネーター/ジェニシス」は、あまりにひどい出来で、コメントする気すら失せてしまったが、このスター・ウォーズ エピソード7 は、お金を払って、映画館で見る価値はあると思う。

物語も前作(エピソード4~6)の流れを受け継いでいるし、懐かしい顔も出てくる。

First Order(帝国軍)のTIEファイターとレジスタンス軍のXウイングの空中戦、ライトセーバーの闘いも、見どころ十分。

若干気になったのは、物語が暗いことだが、これは、前作同様、父と息子という関係を描いているせいかもしれない。

エンドロール後の次回展開を思わせるような映像はないので、せっかちな人は、すぐ帰っても問題ありませんよ。

#エンドロールで、ディズニーの社名が出たので、あれっ?と思ったら、ルーカスフィルムは、2012年に、ウォルト・ディズニー社に買収されていたらしい。

2015年12月19日土曜日

彼女が演じた役/片岡義男

この本は、片岡義男が、原節子が出演した56本の映画のうち、戦後に出演した11本の映画を観た感想をまとめた本だ。

原節子という女優の魅力は何だったのか、当時の日本の社会は彼女に何を期待していたかを、 片岡は、「大きさ、華やかさ、自立した美しい女性」と表現している。

片岡は、彼女が出演した小津監督以外の作品を、ほとんどが他愛ないものと切り捨てているが、それらの映画の中で、彼女の役柄が、令嬢(自立した美しい女性、ただし、経済的に自立していない)、理想に燃える美しい独身の先生(性的でない)に固定されていたことに対し、

 「美しさ、明るさ、華やかさ、色気、上品さ、才気、直感の正しさ、程の良さなど、あらゆる肯定的な価値を、単なる美や女らしさなどではなく、強い意志、つまりくっきりと確立された自我として、日本の人たちは原節子のなかに見ていた」と述べている。

そして、片岡義男が観た結論としては、「原節子のためには小津がいて本当によかった」と述べている。

「紀子三部作(晩春、麦秋、東京物語)への出演は、原節子という女優にとって、最初にして最大の、そして最後でもある、映画的な幸福だった。彼女は、そのクリエイティヴな能力を、全開にして発揮することが出来た」と。

片岡は、 原節子は美人だが、扱いには細心の注意が必要な美人であったことを指摘している。

「不機嫌だったり、不愉快だったりする状態を表現する時の原は、手の付けようのないほどに批判性をたたえた怖いと言っていいほどに強い意志をあますところなくおもてに出してしまう」と。

そして、小津は、晩春で、原のそのような表情を撮ってしまったが、以後の麦秋、東京物語では、一切、そのような表情の原を撮らなかった。

私は、この片岡の文章を読んで、その昔、笠智衆が、小津の映画に出る前は、感情がすぐに顔に出るたちの役者だったが、小津監督から、「僕の映画に表情はいらない」と言われ、あの独特の穏やかな微笑をたたえるようになったというエピソードを思い出した。

原節子の笑顔も、笠智衆の微笑と同様に、どこか判を押したように同じ表情ではないだろうか。
それは、そのような安定した表情が小津の映画作品の中では極めて重要な要素であることを意味していると思う。

ちなみに、この本は、原節子を語ると同時に、小津作品の批評も書いていて、片岡は、小津監督を、「映画というものをよく知っている」と称賛しつつも、非常にクセがあること(片岡はそれを対置と呼んでいる)、例えば、「晩春」と「秋日和」の物語がまるっきり同じであることや、小津の作品の中で出てくる、会社のオフィスの様子が、「こんなものだろう」といういい加減な思い込みのもとに撮られている点などを指摘していて、面白い。

それと、小津作品が、常に性的な視点で描かれている点を指摘しているのも、新鮮な捉え方だ。

東京物語の最後の方で、紀子が周吉に、「私はなにかを待っている、このままなにごともなく日が過ぎてゆくのが怖い。…私はずるいんです」と言ったことに対し、

「紀子が、性の自由な使途の可能性を、自覚している。その自覚は、監督の頭のなかでは、疑似的な姦通なのではないか」と指摘していたり、

「秋日和」における未亡人の三輪秋子の着物姿について、

「秋子が夏のスカートをはいていたなら、彼女が画面からあたえる印象はどうなっていたかを考えると、…脚があらわとなる。足どりは着物の場合とくらべて、比較にならないほど自由になるはずだ。足どりだけではない。雰囲気のすべてが、アヤ子(娘)とほぼ対等になる。秋子の下半身が、自由なものとして、誰の目にも存在してしまう」ことを取り上げていたり、

同じく「秋日和」での男たち三人の会話「きれいな奥さんをもらうと男は早死にする」、「かゆいところ」など、露骨に性的な意味が含まれている点も取り上げている。

原節子の私生活には目もくれず、ひたすら、スクリーンの中の彼女の姿を追求している点も、とても好感が持てる本だ。


2015年12月13日日曜日

雨月物語・上田秋成 円城塔 訳/日本文学全集11

序文に記されている漢文(訳文あり)が面白い。
水滸伝の作者の家には、障害のある子が生まれ、源氏物語の紫式部も、地獄に落ちたものと思われる。 二人とも、真実であるかのような迫力のある作り話で人を惑わしたからだ。

でも、自分が口に出してみたこれらの奇妙な話は杜撰なものだから、誰も本当だとは思うまい。
自分が罰を受けることはないだろう。

雨が止み、月が朧に照らす夜、原稿を出版社に渡すにあたり、私は、この物語を雨月物語と名づけることにした。
 というような序文である。

古人の才能を讃えながらも、才能のない自分には神罰は当たらないだろうと、しれっと述べている当たり、実に洒落ている。

おまけに、今で言う、フィクションの断り書きみたいなものだと思うが、最初から意気込んで読もうとする読者に対し、「あなた、こんなものを本当の話だと信じちゃいけませんよ」と人をはぐらかしているような印象を受ける。

しかし、その後に続く9つの物語は、円城塔の良訳のせいもあるだろうが、どれも現代の小説と比較しても引けを取らない腰の据わった構成と文章で描かれていて、怪奇、神秘を十分に感じさせてくれる。

私にとって、「雨月物語」は、それは、ずっと溝口健二の映画でしかなかったので、特に関連のある「浅茅が宿」と「吉備津の釜」、「蛇性の婬」を興味深く読んだ。

原作を読んで、奥行きがある物語なのだなと改めて感じさせられた。

2015年12月12日土曜日

好色一代男・井原西鶴 島田雅彦 訳/日本文学全集11

世之介の7歳から60歳までの54年間の色事の記録。

世之介の1歳ごとの成長とともに、約2ページの好色な物語が54個あり、それを8巻でまとめている。

関係した女性の数は3,742名、男性も725名という途方もない男女関係。

ほとんどがプロの女性を相手にしてのことだが、身持ちの堅い人妻や巫女にまで手を出そうとして酷い目にあう。

あまりの放蕩ぶりに、親からも勘当され、みじめな生活を強いられた年代もあるが、三十四歳の時に、親から500億円もの遺産を相続し、以後、その資金を使いきろうと好色に邁進するが、ついに使いきれないまま、物語は終わる。

世之介が日本の津々浦々、旅をして、行く先々の色町、女性と関係する物語を読むことで、読者は、その土地の風俗事情を知ることが出来たのかもしれない。

パロディめいた物語や、旅をベースにした好色な要素は、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、鈴木春信の春画などにも影響を与えた意外と重要な作品なのかもしれない。

1682年というと、五代将軍 徳川綱吉の時代である。
この時代、すでに町人の井原西鶴が、このような小説を書いて、庶民が喜んで読んでいたとすると、日本社会の識字率は相当高かったのだろう。

そして、平和な時代、で日本人は本当に好色だったようだ。

島田雅彦の翻訳は、よくいうと読みやすく、悪くいうと印象に残らないという印象。


お金を現代の価値に換算している点は、よいと思った。


明らかに嘘の金額もあるが、太夫の指名料が十万円なんてところは、当時の金銭感覚がリアルに感じられる。

2015年12月6日日曜日

ラオスにいったい何があるというんですか?/村上春樹

 本書では、「遠い太鼓」で村上春樹が生活していたミコノス島を再訪しているが、今回は旅行者として訪れていることもあり、あまり印象に残らなかったが、アイスランドの章は、実に面白かった。

「アイスランド語」という独自の言語があることも知らなかったし、動物も独自の進化を遂げているという話(羊にしっぽがない等)や、パフィンという鳥(こんな鳥でした。ペンギンみたいな鳥ですね)の存在も興味深かった。


ちょっと前まで、ビールが禁酒扱いになっていたことや、コンビニでもクレジットカードを使う習慣があることや、地味な造花の話も興味深かった。

村上春樹の美しい風景に対する態度というか姿勢も共感するものがある。
いったんカメラのレンズで切り取られてしまえば、あるいは科学的な色彩の調合に翻訳されてしまえば、それは今目の前にあるものとはぜんぜん別のものになってしまうだろう。そこにある心持ちのようなものは、ほとんど消え失せてしまうことになるだろう。だから我々はそれをできるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込むしかないのだ。そして記憶のはかない引き出しにしまい込んで、自分の力でどこかに持ち運ぶしかないのだ。
「できるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込み、自分の力でどこかに持ち運ぶ」という姿勢は、旅の基本かもしれませんね。そういえば、紀行集というのに、写真の数が少ないのは、上記のようなポリシーが貫かれているのかもしれない。

この他、表題にもあるラオスの托鉢の話や、ニューヨークのジャズ・クラブ事情、トスカナのワイン事情なども面白かったが、各国で乗ったレンタカーの車種(韓国車、イタリア車)について語る言葉は、いかにも楽しげだ。

村上春樹の紀行文は、数は少ないが、読んでいて、はずれと思ったことがない。
そこをいくと、小説は、好みの問題があって、読んでいて、これは駄目だなとか思ってしまうことも多々あるのだが、紀行文にはそれがない。

「遠い太鼓」のほのぼのとしたギリシアの田舎の人々や、ローマの盗難リスク、駐車事情、個性的なイタリア車など、未だに記憶から消えていないし、「雨天炎天」のアトスの山中にある修道院の質素な様子や、険しい山中、レモンを齧った際の感触とか、そういうものがぱっとイメージとして浮かぶ。

この人は、マラソンが趣味だが、ゆっくりとしたスピードで景色が変わってゆく動的な立ち位置から物事を見ることに、喜びを感じる性質なのかもしれない。

リラックス感が全体に漂っていて、読んでいるこちら側にも伝わってくる。

2015年12月4日金曜日

素数ものさし/BSプライムニュース

今日のBSプライムニュースを見ていたら、「ロボットに新たな使命 終着点は“不完全”? 人間との共存哲学とは」というテーマの内容だった。

http://www.bsfuji.tv/primenews/schedule/index.html#ThuBox

面白いのは、何でもこなしてしまうロボットではなく、人に頼ってくるようなロボットを研究しているという。それによって、そのロボットに愛着が湧いたり、人間らしさを感じることが出来るという。

さらには、人間の能力が活性化されるというメリットもあるらしい。

例として挙がっていたのは、カーナビ。
カーナビを使うと、人は道を覚えなくなるというが、確かに本当ですね。

でも、 カーナビで道案内されていたら、「もう分かりません (・_・。) 」と匙を投げられるのも困っちゃうと思うけど。

その流れの中で、京都大学デザイン学ユニット特定教授の川上さんという人が紹介していた「素数ものさし」という定規が面白かった。

この川上さんは、不便益システム研究所という組織で、不便なものを研究しているらしい。
何ともユニークだ。
 
名前のとおり、目盛には素数の数字しかない。だったら、4cmはどう計ればいいのだろうと考える。

ある人は、2の目盛2つ分という計り方をする。
また、ある人は、7と11の間が4cmだということに気づく。
あるいは13と17の間かもしれない。

なるほど、これは頭を使う定規ですね。面白い。

おまけに、値段も素数 の577円。(消費税が上がった時に困ったらしい)
ただ、京大の生協でしか買えないらしい。

東急ハンズとか丸善に置いたら、意外と売れるかもしれない。

2015年12月1日火曜日

水木しげるさんの死

池澤夏樹は、ガルシア・マルケスが亡くなったときの追悼文に、彼が死んで地球の重力が変わったような気がするという趣旨の文章を書いたが、水木しげるの死を聞いたときは、同じような気分を感じた。

たくさんの妖怪たちや死と隣り合わせだった先の大戦の記憶、そういった今の日本から消えたかのような別世界を、彼はこつこつと書き続けていたような気がする。

それは年々軽くなってゆく日本の重しになっていた、というのは言い過ぎだろうか。
少なくとも、私はそんな気分を味わった。

私が、水木しげるさんの世界に最初に触れたのは、子どもの頃に読んだ少年向けの妖怪辞典のような本だった。

まず、絵が独特な雰囲気を持っていた、彼が描く黒でべた塗りした闇の世界と田舎の風景。
そして、そこに、ユーモアな姿でありながら、どこか何を考えているかわからないような妖怪。



ひょっとしたら、そんな生き物がいるのかもしれないという好奇心と少しの恐怖を抱いたような気がする。

そして、大人になってからの出会いは、「コミック 昭和史」である。
これは、水木さんの作品のなかで一番好きな作品かもしれない。

この作品は、水木さんの重い戦争体験がコアの部分にあるのだが、次々と襲い掛かる不運、暴力、貧乏に決して負けることがなかった水木さんの生きる力というか精神的な余裕が、全編に感じられるところが魅力的だった。

水木さんのような絵を書く人は、もう出ないでしょうね。
また、昭和の巨人が去った。

今までありがとう。水木さん。


2015年11月29日日曜日

水はみどろの宮 西南役伝説・抄 タデ子の記 新作能「不知火」 石牟礼道子/日本文学全集24

決して分かりやすい作品ではなかったが、これらの作品が再現している世界に憧憬を覚えた。
一度読みだすと立ち去りたくなくなるのだ。この世界から。

水はみどろの宮は、両親を亡くし、船頭の祖父と一緒に暮らす幼いお葉が、山犬のランと絆を結び、山の中に入り、森の霊主と思われる白狐のごんの守や、やはり霊力のある片耳の猫 おノンと交流するという話だ。

物語は、第5章 水はみどろの宮 から、幻想的な世界に傾いてゆく。
ここでお葉とごんの守が歌を交わし、互いに接触を深めてゆく様子が美しい。

六根清浄
六根清浄
水はみどろの
おん宮の
むかしの泉
むかしの泉
千年つづけて 浄めたてまつる
千年つづけて
浄めたてまつる

昔の世界のようでもあるが、文中、「六十年ばかり前、海に毒を入れた者がおって、魚も猫も人間も、うんと死んだことがある」という会話があるので、水俣以降の話のようにも思える。
幼稚なたとえだが、この作品には、宮崎駿監督が作った「もののけ姫」とどこか通じる世界観がある。

西南役伝説・抄は、熊本県阿蘇郡のいまは廃校となった上田小学校の沿革史を作るところから話が始まり、キリスト教徒の迫害の見聞、明治への時代の変化、そして、西南戦争を経験した大分と熊本の県境あたりの人々の伝承をまとめた作品だ。
農民のひとたちからすれば、西郷率いる反乱軍も官軍も、どちらに義理する理由もなく、どちらも等しく迷惑な存在だったことが伝わってくる。

タデ子の記は、戦争孤児のタデ子を引き取った女教師の話だ。女教師の家族や周りの人々が迷惑に思い、やがて、タデ子を手放さざるを得なくなる時が来る。
戦争孤児とは、こういう存在だったのかと思う一方、今日の世界ではたくさんの戦争孤児が生まれているのだろう。

新作能「不知火」は、石牟礼が書いた能の脚本だ。
龍神の姉弟が不知火の空と海を浄める仕事に殉じ、死して転生を誓う物語になっている。
きらきらとした漢字と切れのある文語体が組み合わさった美しい文章に詩情が湛えられているせいだろうか、実に神々しい雰囲気に満ちている。

ここにも「水はみどろの宮」同様、人間が汚した世界を浄める神がいる。

しかし、それは神でありながら、同時に、汚れた世界を受け止めた人々の声なき声の化身ではないのか。

石牟礼道子の作品は、自然と人間との関係という大きな背景に、弱者に立った人たちの声を拾い上げ、つむぎだしたものだ。それらの作品は、国境、言語を超えた力と普遍性を持っている。

実は、彼女こそ、この混迷した時代のノーベル文学賞にふさわしい日本の作家なのかもしれない。

2015年11月23日月曜日

シリーズ東日本大震災 追跡 原発事故のゴミ/NHKスペシャル

福島駅から南相馬市に向かうバスは、途中、飯館村を通る。
無人の村で、まっさきに目につくのは、黒い大きなごみ袋だ(フレコンバックと言うらしい)。

今年9月の関東・東北豪雨で、飯館村に仮置きされた汚染廃棄物が川に流され、中身が流出してしまったのは記憶に新しいが、今もその置き場所は何も変わっていない。田んぼの脇の空き地などに雨が降ると水につかりながら置かれたままだ(人による監視は強化されているかもしれないが)。

でも、大熊町と楢葉街にまたがる場所に広大な(広さは渋谷区に相当するらしい)中間貯蔵施設の場所が決定したはずではないのだろうか、と思う人もいるだろう。

しかし、この番組によると、貯蔵施設を作るには、2,365人の地権者の同意を取らなければならず、そのうち、14名しか同意が取れていないという絶望的な状況が説明されていた。

県外に避難した人の跡を追うことが困難であること、また、所有権の名義書き換えがなされていないため、明治時代近くの過去にさかのぼって、地権者の相続人を探し出す作業を続けているという。

いつ終わるのかの見通しは全く立っていない。
(私見だが、強制的に国が買い上げることができる法律を立法し、地権者には、一定の金銭賠償をするしかないと思う)

今、除染作業はかなり進んでいる。
しかし、除染作業で出た大量の汚染廃棄物を処分するための行き場はない。
仮置き場では収容がおさまらず、人家のそばの所々に黒いごみ袋が目につく。

中間貯蔵施設はこんな状況だが、最終処分施設に至っては、全く目途がたっていない。
日本国政府の方針は、8000ベクレル以上の指定廃棄物の処理は、各県の責任で進めるということらしいが、全国のどの県でも地域住民が徹底して反対しているから、一向に進展していない。

福島から離れた関東圏でも、廃棄物の問題は他人ごとではない。
横浜市では、8000ベクレル以下の廃棄物の処理も、埋め立てようとしたところ、住民の反対で処理ができず、保管管理している。(今までにかかった費用は26億円)

100ベクレル以下になるまで廃棄しないということらしいが、放射能の濃度が下がるのは150年ほどかかるという。

8000ベクレル以上の指定廃棄物を、一般ゴミと混ぜて焼却し、1㎏当たりの放射能を薄める“混焼”というやり方や、1300度以上の高熱で、ゴミから放射能を分離し、汚染ゴミの体積を二十分の一にする“減容”というやり方も模索されているが、事態の解決策にはなっていない。

 “減容”を提案している東大アイソトープの児玉さんが言っていたことばが重い。

「遠くのよそへ押し付けちゃえばいいっていう格好での大都市のエゴみたいなもののままでは片づかない問題があるんじゃないか」と。

そして、東京も、あの福島原発の電力の利用者だったのであれば、汚染廃棄物の引き取りについて、しかるべき負担を負うという考え方がきっと必要になる、と言っていたが、その考え方は筋が通っていると思う。

(これは、沖縄の基地問題と全く同じ構造ではないだろうか?)


原子力発電が低コストのエネルギーというのも、全くの嘘だ。
核ゴミの処分すら道筋が見えないことに加え、一度、事故が起きたら、途方もない労力と費用を払わされる。しかも、そのリスクを負わされる可能性が高いのは、今の大人たちではなく、子供たち以下の世代だ。

闇金融に金を借りた主債務者が借金をさんざんぱら使い倒して逃げ切り、その家族や連帯保証人がツケを払わされているのに似ている。

原発再稼働を推進している人々は、4年経ってなお、放射能に悩まされいてる福島の現実を直視すべきだ。

2015年11月15日日曜日

初めてのデート(再掲)

ジュールとシンシアが、夜明けの街を二人で歩く。

そんな風情が、パリには相応しい。

初めてのデートの時、相手がどんな服装で、どんな風に現れるのかは、やはり気になることだと思う。
だから、相手が現れる前に待ち合わせ場所に行って、ドキドキしながら考えているほうが、絶対に楽しいと思う。

映画「DIVA」のなかで、郵便配達員のジュールが、憧れているオペラ歌手のシンシア・ホーキンスと初めてデートをする時のシーンがとてもいい。

シンシアは、パーティーが別にあって、ジュールとの待ち合わせには来ないかもしれないというシチュエーション。ジュールがカフェバーで待っていると、彼女は笑いながら、夜店のアクセサリー売りの男を伴って現れる。
彼女が連れてきたというより、売り子が彼女の魅力に惹かれてついて来てしまったという感じだ。

シンシアが「お店ごと、買っちゃった」と笑いながらいうと、売り子は彼女を「アフリカの女王だ」と評す(シンシアは黒人です)。それに対して、彼女に恋しているジュールは「夜の女王だ」と訂正する。

私が、このシーンにとても惹かれるのは、シンシアの登場のしかたが意表をついていて、かつ、贅沢な印象を受けるからだと思う。

初めてのデートの時に、こんな風に彼女が現れたなら、まず間違いなく恋に落ちてしまうような気がする。

その後の、夜明けのパリの街を二人で歩くデートのシーンも、音楽・映像ともに、すごくいい。
映画「DIVA」のなかで、一番好きなシーンです。



2015年11月14日土曜日

椿の海の記 石牟礼道子/日本文学全集24


作者が熊本 天草で過ごした四歳までの記憶が濃密に再現された作品とでも言うべきだろうか。

普通の大人であれば、幼児期の記憶はおぼろげだ。ましてや、歳を経るにつれ、その記憶は失われていく。

しかし、石牟礼道子は、四十代後半になって、この作品を書きはじめたにもかかわらず、過去に彼女が生きていた世界全てを文章の中に再現するという、およそ不可能と思われるようなことを成し遂げてしまったようだ。

それは、五歳にも満たない“みっちん”が大人の道子の心の中に生き続けていて、当時、彼女が体験した天草の自然、人々、ことば、そこで起こった事件、思いを彼女と交感することによって、文書能力を身につけた大人の道子が再体験して書き上げたといっていいような完成度に達している。

もうひとつ、この作品が稀有だと思われるのは、彼女が再現した豊饒な自然に包まれ、その中で生き生きと暮らす良識のある人々のいる社会は、すでに喪われてしまった世界であるという事実だろう。

これは、ひとつの理想郷ではないだろうか、そう思ってしまうほど、“みっちん”が暮らす天草の世界は、人々の暮らしや思いが自然と溶け合っている官能的な世界だ。

かつての日本には、そんな世界が実在していたのだ。

例えば、

…三角形の新聞紙の袋から、茶色いその飴をとり出そうとして、女籠の下の地面に落としてしまったりすると、春乃は、
「よかよか、今日は地(じだ)ん中んあのひとたちのご馳走ばい」
という。地の中のあのひとたちとは、蟻とか、もぐらとか、おけら、蛇などのたぐいをいうらしかった。

 …草むらのかたわらに、半ばは溶けた飴玉がころがっていて、その下に、お祭御輿さながらに寄り集まった蟻たちが、わっしょとそれを持ちあげながら移動している情景によく出逢った。わたしはそのゆくえが気にかかり、日が昏れて見えなくなるまで、ちいさなまるい飴玉の御輿の後をかがみ歩きしながら、ついて行くことがよくあった。蟻たちの担ぐ御輿は、鍛冶屋の裏の、大きな無花果の根元にもぐって行ったりした。風が吹けば厚みのある葉がばさりと落ちて来て、昏れてゆく枝の間から木の乳が降って来る。夏になれば蜜を保ちきれぬ果実が、したたるようにいくつもいくつも割れて来て、繁りあった葉の間をさしのぞいていると、幹のわかれ目のところに、くちなわが絡まっていたりするのだった。
(第三章 往還道)

2015年11月4日水曜日

口訳万葉集・折口信夫/百人一首・小池昌代/新々百人一首・丸谷才一/日本文学全集 2

日本最古の歌集である万葉集を国文学者であり歌人でもあった折口信夫が口訳した「口訳万葉集」。

藤原定家が編み、最も日本人に親しまれている和歌集「小倉百人一首」を詩人であり作家である小池昌代が口語訳し、読み解いた「百人一首」。

作家であり、批評家である丸谷才一が、五十歳を過ぎてから二十五年かけて自ら編んだ「新々百人一首」。

読み比べてみると、なるほど、これはうまく配列されているなという感じがする。

折口信夫の「口訳万葉集」は、万葉集のどちらかと言うと、ストレートな朴訥な歌を、子供でも分かるように平易な言葉で語りかけるような言葉遣いで訳されている。

例えば、
しるしなく 物思はずは、一杯(ひとつき)の濁れる酒を 飲むべかるらし

(訳)役にも立たないのに、色々考え込んでいるよりは、一盃の濁った酒を飲んだ方がよいにきまっている。
春日すら、田に立ち疲る君は悲しも。わかぐさの妻なき君は、田に立ち疲る

(訳)ただ一人春の田に立って、一所懸命に働いているお前さんはいとしい人だお前さんは、妻もなしに、この長閑な春の日を、田で働いている。
折口信夫の小説「死者の書」は難解だったが、この「口訳万葉集」は、とても分かりやすかった。

佳作、傑作など、深い理由を述べず、バシッと評価を決め打ちしているところも面白い。

そして、小池昌代の「百人一首」は、実にオーソドックな口語訳と解釈だと思う。 万人向け。
今来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな/素性法師

 (訳)
すぐに逢いにいく
そうあなたが言ったばかりに
待っていたのですよ
なのに 待って 出会えたのは
九月の空の
有明の月
あなたではなく
 「あなた」が結局来なかったので、こうして、明け方の月を仰ぎ見ている今、自分はまるで月を待っていたかのように月と出会っている、というわけである。月と目をあわせている図は、なんだか、とてもユーモラスだ。女(作者)の視線は、男ではなく、とりあえず月に向かっている。そこに余裕がある。
歌人の素性や生涯にも触れていて、若干、教科書的な印象でもあるが、それは、あの折口と、あの丸谷に挟まれているのだから、仕方がないだろう。

丸谷才一の「新々百人一首」は、和歌を深読みして、そこまで深読みするのかと思うほど、丸谷らしい独自の解釈を執拗に述べているところに特色がある。(これは、読む人によってかなり好き嫌いがあると思う)

印象的だった箇所をあげると、後深草院二条の和歌

ひとりのみ片敷きかぬる袂には月の光ぞ宿りかさぬる

を取り上げ、二条のパトロンである後深草院と恋人 藤原実兼の三角関係を述べたところだ。理知的な英文学者が評した鋭利な刃物のような印象が残る。
 彼らにとって、互いに黙認しあうこの三角関係は、普通の恋よりも情趣に富むものだったのである。それゆえ二条の返歌は、うわべはいちおう言いまぎらわす体裁でありながら、しかし内実では密通を認めるという、入り組んだ形で詠まれなければならなかった。
 そういう作歌術は王朝和歌では珍しいものではない。第一に和歌は社交の具でありながら、しかしそれよりもさきに本心を述べる形式であった。第二にそれは三十一音で、極度に短かかった。そして第三に、本歌どりや歌枕など、韜晦のために好都合なレトリックに不自由しなかった。これらの条件が重なるとき、真実と偽りを二つながら表現する詩が可能になったし、それゆえこの種の書簡詩の受信者は、普通、その二つの層を理解する解読の方法を身につけていたのである。
それと、 「小倉百人一首」の、あの有名な一首

秋の田のかりほの庵(いほ)の苫(とま)をあらみわが衣手は露にぬれつつ/天智天皇

の和歌を取り上げ、
ふつう、天皇が農事の辛さを思いやった歌とされているが、それはいはば表で、その裏には、女に身をやつしての、「農民の袖のようにわたしの袖は泪に濡れている――あなたに飽きられて」という閨怨の歌、恋歌が秘められてあるに相違ない。
 と、仰天するような解釈をしている。

この三者三様の和歌の解釈を比較するだけでも面白い。
しかし、たった三十一文字で、ここまで語りつくせる和歌の世界は奥深いですね。

2015年10月27日火曜日

若者よ、マルクスを読もう/内田 樹 石川康宏

本書は、プロイセン王国(現ドイツ)出身のカール・マルクスが書いた著書が、いかに知的な刺激に満ちているかを、哲学者の内田 樹さんと、経済学者の石川康宏さんが、代わりばんこに、その魅力を説いている本だ。

マルクスといえば、あの「資本論」を書いた人だから、てっきり経済学者とばかり思っていたが、哲学者だった。

その程度の知識しかないのは、私が無教養だからだとは思うが、今振り返っても大学時代、少なくとも「マルクス」を読もうという空気は周りになかった。

1989年のベルリン崩壊と、それに引き続いて起きた東欧諸国の民主化の流れと1991年のソ連崩壊。

マルクス主義を掲げる社会主義国家が次々と崩壊していったことは、マルクスの考えが間違っていたという事実が証明され、これは終わった思想であるという認識を、私も漠然として持っていたような気がする。

しかし、本書では、 内田さん、石川さんともに、その「政治的主張」の正しさではなく、マルクスのダイナミックな思考プロセスに着目していて、

「何かおもしろい視角がないかなあと研究のヒントを探しに行くというような関係」

「マルクスを読むと自分の頭がよくなったような気になる」

「マルクスを読んでいると、自分の思考の枠組み(檻)を外側からがんがん揺さぶられて、檻の壁に亀裂が走り、鉄格子が緩んでくるような感じがする」

と、その知的な効用について、もっぱら述べられている。

マルクスの魅力について、最も端的に本書で述べられていたのは、著書「ドイツ・イデオロギー」から取り上げられたマルクスの箴言について、 内田さんが語っているとことだ。

「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」

史的唯物論を代表するこの箴言について、内田さんは、 こう述べている。
人間が何ものであるかは、その人が「何であるか」という本質的な条件によってではなく、「なにを生産し、いかに生産するか」によって決定される。

その人が「ほんとうは何ものであるか」 なんて、極端な話どうでもいいよ、と。マルクスはそう言っている訳です。どれほど根がヨコシマでも善行をすれば善人。どれほど根が善良でも悪いことをすれば悪人。

ぼくはこれを読んで、心底「ほっ」としたことを覚えています。
(この考えって、司馬遼太郎の考え方にも通じるものがありますね)

「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。」
かっこいいですね。「AがBであるのではなく、BがAなのだ」という修辞法はマルクスの得意とするところでした。
 これと同じ修辞法は他の雄弁家によっても用いられます。
「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、 あなたが祖国のために何をできるか考えてほしいのです」(J・F・ケネディ)
というような説明を聞くと、俄然、マルクスへの興味が湧いて来る。

しかし、内田さんも、石川さんも、本当に本がボロボロになるまで、マルクスの著書を読み、その言葉が自分の身体の一部になるまでになったから、こういう解説ができるのでしょうね。

自分の考えに自信が持てなくなった時とか、あれって思うような思想的事件に巻き込まれた時に、立ち戻ることができるホームグランドのような、あるいは解毒剤となるような古典的思想を身につけるといいだろうな、と個人的には強く憧れを感じた。


本書はまだ、マルクスの初期の著書までしか触れていないので、是非、「資本論」までの続編を読んでみたい。

と思ったら、 2巻が出ていた…

http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/wa/0714.html

2015年10月18日日曜日

神と人との間/谷崎潤一郎

この作品は、当初あまり良いイメージがなかった。

原因は、丸谷才一の小文を読んでいたせいで、そこには、関西移住前の谷崎は、ずいぶんとひどい文章を書いていた例として、この作品の冒頭にある一節を取り上げていたのだ。

…夜が更けたのか部屋の中がしんしんと寒い。宵に雨戸を締めたのだけれど、借家建てのぎしぎしした普請なので、隙間洩る風がぞくぞくと身に沁みる。…

(確かに、これら擬音の組み合わせは幼稚な感じがする)

しかし、今回改めて読んでみると、谷崎の自伝的な小説「神童」「鬼の面」「異端者の悲しみ」と比較しても質的に劣らないし、本書をこれら自伝的小説に加えても違和感はないように感じた。

本書を自伝的という 意味は、もちろん、谷崎と、その妻 千代、そして彼の友人であり、詩人/小説家の佐藤春夫との間の三角関係だ。

本書では、谷崎が添田という悪魔主義的な小説を書く作家に、千代は、その夫から妻として愛せられていない元藝者の朝子を、佐藤は若い時分に添田と朝子と三人でつるみ、実は朝子を愛していた気の弱い元医者で「失恋詩人」の穂積に、置き換えられている。

穂積は、添田も朝子を愛しているという告白を聞いてしまい、実は朝子も穂積の方が好きだったにもかかわらず、身を引くばかりか、添田と結婚するよう朝子に熱心に薦めてしまったのだ。

(この藝者時代の三人の関係は、鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」の中砂と小稲、青地の関係に似ている。)

興味深いのは、物語が穂積の目線で進んでゆくところで、添田が幹子という女優に入れあげ、夫を愛する朝子と彼女を慕う穂積に対して、その忠節や憐憫の情を悪辣なまでに踏みにじる姿が存分に描かれているところだ。

一方、それに対して、穂積のいじけっぷり、ネクラな描写にも容赦がない。まだ、添田の方が人間的に魅力的に感じてしまうほどだ。

(佐藤春夫は「田園の憂鬱」を読んだことがあるが、詩人らしく、繊細な文章を書く人である。この小説の穂積の描写にはちょっと傷ついたでしょうね。)

面白いのは、作中、添田が、悪魔主義的な小説として、添田、朝子、穂積、幹子を模した人物を登場させ、夫が邪魔になった妻の首をひねり殺してしまう小説を書き、世間の非難を浴びるという場面を描いているところだ。
あらかじめ、この小説が公表された時のことを予想して書いたのだろうか。

そして、この小説では、穂積が、いつまでたっても朝子と結ばれず、添田に利用され続けることに絶望し、添田が精力増進のために飲んでいた西班牙の蠅に毒を盛り、腎臓炎を発症させて、彼を殺してしまうという結末に向かう。

病床で、穂積や朝子に懺悔する添田は、ひょっとすると、「俺を殺さないでくれ、このとおり詫びるから」、という谷崎の本心が仮託された姿なのかもしれない。

同時期に書いた「肉塊」でも、欧米風の混血の女の子に入れあげ、家庭を顧みず、好き勝手に映画制作に取り組む夫が、自分の仕事上の相棒に妻の美しさを発見され、自分の映画制作を脅かされるという内容だ。

この時期、谷崎自身も、自らが招いた三角関係に精神を脅かされていたことが感じられる。

2015年10月13日火曜日

私/谷崎潤一郎

この小説で描かれている “私”は、やはり、一高時代の谷崎潤一郎の姿が浮かんでくる。
裕福な環境にある友人 中村や樋口と比較して、貧書生の身分にいる谷崎。

ある日、その友人たちとのおしゃべりの中で、最近、寮の中で盗難が頻発している事実が話題が上がる。

目撃談によると、犯人は「下り藤」の家紋が入った紋付を着ているらしいのだが、同じ家紋が入った紋付を着ている “私”は、その話を聞いて嫌な顔をしてしまう。

“私”を敵視している平田という頑強な体の友人が、ちらりと “私”に目を走らせたからだ。

平田は、 “私”を「ぬすッと」と疑っており、依然として止まない盗難事件に、平田以外の学生たちも、“私”に対する嫌疑を深めてゆく。

善良な友人の中村は “私”を庇うが、 “私”は、感激したように涙を流し、「僕は平田を尊敬している。僕よりも、よっぽどあの男の方が偉いんだ。僕は誰よりもあの男の価値を認めているんだ」と、逆に中村を諭す。

そんなある日、“私”は誰もいない自習室に行き、平田の机の傍に立つ。
そして、“ぬすッと”が誰かが明らかになる…

以上が、この短い推理小説?のあらすじだが、読者は、あくまで“私”の目線で、この物語の展開をみていくことになる。

“私”が語る「ぬすッと」の心情が奇妙なユーモアに包まれているのは、不義理を重ねた若い谷崎自身の面影が濃く映っているからだろう。

しかし、こういう友人は持ちたくないというのが本音である。

2015年10月12日月曜日

途上/谷崎潤一郎

会社員の男が帰宅の道すがら、探偵の質問を受け、そこから、徐々に男が妻を殺すための数々の犯罪が明るみになる。
男がとった殺人方法は、直接的に妻を殺すことでなく、妻を病気になりやすい、あるいは事故に遭いやすい環境に置くこと。そうして、妻の上にいくつもの危険の可能性を積み重ね、偶然的危険を必然的危険に近づけていくことだった。

探偵と男の会話のやりとりの中で、可能性(possibility)の犯罪を巡るロジックの応酬があり、物語には理路整然とした緊張感がもたらされる。

1920年(大正9年)に書かれた推理小説とは思われないほど、完成度が高い。

それと、大正時代の生活のレベル 例えば、乗り合い自動車(バス)で、しばしば衝突事故が起きていたこと、東京 大森の飲み水が悪く、チフスにかかりやすい環境であったことも、興味深い。

探偵と犯人を東京の街を歩かせながら、物語を進めているところも動きが感じられていい。

金杉橋から新橋、銀座通りを抜けて、京橋、日本橋、そして水天宮まで約5㎞の真っ直ぐな道のり。

東京の要所を用いた歩いて1時間程度という現実的なルートの舞台装置も、いかにも谷崎らしい。

2015年10月11日日曜日

輝ける闇 開高健 /日本文学全集 21

ベトナム戦争をテーマにした作品というと、映画では、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」、コッポラの「地獄の黙示録」、小説では、ティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」 、トマス・ピンチョンの「ヴァインランド」ぐらいしか、浮かんでこない。

(NHKドラマの「夢帰行」でも、べ平連、学生運動に触れた回があったと思う)

面白いことに、この日本文学全集 21で取り上げられた日野啓三と開高健は、日野は読売新聞、開高は朝日新聞の記者として、ベトナム戦争を取材するために南ベトナムに行き、それぞれ、この戦争に影響を受けた小説を書いた。

特に開高健は、米軍が支援する南ベトナム軍に兵士として従軍し、反政府ゲリラの機銃掃射に遭い、大隊200名のうち生き残ったのが17名という死地を経験する。
「輝ける闇」は、彼がその死地を経験するまでの戦争の日常を包み隠さず生々しく描いたものだ。

一見緩慢とした戦争の日常、米軍兵士との交流や、現地でのベトナム人女性との恋人関係、強烈な湿気が全てを海綿のように腐らせてしまう情景を描き続けるその目的は、自らを死地に追いやるための前準備のようにも思える。

客観的にみれば、 開高がこの戦争に従軍する意味はないはずだった。それが日本とベトナム戦争の距離感だったと思う。かかわらず、彼は命の危険を顧みず、自分の身を戦争へと投じた。

日野啓三が日常からはみ出した別の世界を求めていたように、開高も平和な日本では得られない体験を求めていたのかもしれない。

しかし、正直なところ、私はその思いに共感できなかった。

戦争のプロでもない彼が出兵することはお荷物でしかなく、別の兵士が危険に晒され、敵兵も死ぬかもしれない。
たとえ、その死地を経験しなければ書けない文章であったとしても、そうまでする価値が本当にあったのだろうか。

そういった思いが邪魔したせいだろうか、池澤夏樹がいう、この作品は「傑作」という評価には、正直、共感が出来なかった。

2015年10月7日水曜日

職業としての小説家/村上春樹

谷崎潤一郎は、四十八歳の時に、日本の国民に向けて、彼の考える文章の読み書きの要諦を「文章読本」としてまとめ、丸谷才一も、五十二歳の時に、ほぼ同じ趣旨の内容の本を、同じ題名で書いた。

日本語の変化など、日本の社会的環境の変化が、この二人にこのような本を書かせたのかもしれないが、もう一つ共通しているのは、この二人がそれぞれ作家としての地位を確立し、プロフェッショナルな専門家として自信をもって文章について語ることができる時期に、この本を書いたということだ。

村上春樹が今年六十六歳に書いたこの「職業としての小説家」にも、彼のそのような自信を垣間見ることができる。

本書は、まるで小説家を目指す人への指南書のようにも見えるが、表紙の帯にあるように「自伝的エッセイ」という側面が強くにじみ出ている。
・第一章 村上春樹が考える小説家としての資質

・第二章 小説を書こうと思いたったきっかけ

・第三章 「風の歌を聴け」を書いたときに獲得した文体と書き直しのプロセス

・第四章 芥川賞やノーベル賞などの文学賞に対する思い

・第五章 オリジナリティとは何か

・第六章 何を書けばいいのか

・第七章 長編小説の書き方

・第八章 基礎体力をつけることと規則正しい生活の重要性

・第九章 日本の学校・教育がかかえる問題(読書の重要性)

・第十章 登場人物の多様性、一人称から三人称への切り替え

・第十一章 村上作品の海外進出の舞台裏

・第十二章 臨床心理学者 河合隼雄との思い出
という内容なのだが、私が興味を惹かれたのは、「小説の書き方」から若干距離がある第九章と第十一章だった。

 第九章は、日本の教育システムのかかえる問題と関連させて、「原発事故」について語っている。
想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。 数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想からでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。
想像力の対極にあるものが「効率」という視点は、どこか真実味がありますね。

第十一章は、「ニューヨーカー」での作品掲載を足掛かりに、四十代前半の村上春樹が、新人作家のような立場で自ら足を運び、アメリカのエージェント、大手出版社、担当編集者を選び、自分の作品をアメリカで売り込んでくれる営業体制を構築した苦労話が語られている。
欧米での販売チャネルが出来た後、彼の作品を訳してくれる優れた翻訳者が、どんどん増えてゆき、今では五十を超える言語に訳されているという。

明日発表となるノーベル文学賞に毎回ノミネートされる背景には、もちろん村上作品のテクストとしての力があってのことだろうが、上記のような地道な「営業努力」があって、海外での読者層が拡大している環境も大きく寄与しているに違いない。

2015年10月5日月曜日

巨大災害 MEGA DISASTER Ⅱ 日本に迫る脅威 第3集 火山列島 地下に潜むリスク

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20151004

2011年3月11日の東日本大震災を受けて、北海道から九州まで、日本の活火山が活発になってきているらしい。

あの大地震により、東北地方が大陸が東に引っ張られ、岩盤に隙間ができて、マグマが噴き出しやすい環境になってしまっているという。
しかも、この大陸を引っ張るエネルギーが、今後百年経っても、ほとんど減少しないものだという。

北海道の十勝岳、福島の吾妻山。箱根山の大涌谷。九州の新燃岳などで、地面の膨張が観測されているという。

番組では、今、一番危険と言われている桜島と阿蘇山を中心に取り上げていたが、最も被害が及ぶリスクとして、“カルデラ噴火”を取り上げていたが、その威力がものすごい。

番組では、過去に起きた阿蘇山の“カルデラ噴火”が現在に起きた場合をCGで再現していたが、800度の火砕流が、時速900kmで押し寄せる。福岡市など、九州の都市が壊滅的な被害を受け、その影響は九州全体に及ぶだけでなく、大阪では30cm、関東でも5cmの火山灰がつもり、交通機関などに影響が及ぶ。

カルデラ噴火の場合、マグマが地表に噴き出すことで、地下のマグマだまりに空いた隙間に、カルデラの岩盤が崩落し、その勢いで、マグマだまりにある多くのマグマが噴き出てしまうことから被害が特に甚大になるらしい。

カルデラが意外な場所にあることも分かった。
阿蘇山の場合、今はカルデラの中に街があるらしい。
桜島の場合は、鹿児島湾がカルデラで、北海道、東北の大きな湖もそのときに窪んで出来たものらしい。

しかも、このカルデラ噴火、過去6500年に一度の頻度で発生してきたが、これまで7300年間、何事もなかったため、いつ起きても不思議はないということだった。

番組では、噴火を予知する取り組みとして、人工地震を使った解析によって地下のマグマの位置や大きさを特定したり、人工衛星が搭載しているレーダで、地表の凹凸を数cmの精度で観測し、2週間に一度、同じ場所を比較することで、地表が膨らんでいないかなど、差異を分析する方法を紹介していた。

私が一番懸念したのは、今、政府が積極的に進めている原発再稼働の動きだ。
もし、阿蘇山で、あるいは桜島でカルデラ噴火が起きたら、川内原発はどうなってしまうのか。

この日本列島の火山の活発化を見たら、どう考えても、原発は再稼働すべきではない。

2015年10月4日日曜日

終物語/おうぎフォーミュラ 其ノ壹・ 其ノ貳 そして「傷物語」の予告!

西尾維新原作の「物語シリーズ」も、いよいよ、ファイナルシーズンのアニメ化が始まり、昨晩、「終物語」が放映された。

今までは、放送前日の読売新聞の朝刊一面に新聞広告が掲載されていたが、今回は掲載がなかったので、あやうく、放映を見逃すところだった。

すでに原作は読んでいたが、ほとんどストーリーを忘れていた自分に驚いた。

学校の教室に、下の階と比較すると明らかに寸法がおかしい視聴覚室がある。ある日、神原駿河の紹介で、転校生の忍野 扇が、その謎を阿良々木暦に相談するところから、物語がはじまる。

二人が、その視聴覚室を訪れると、見覚えがない教室があり、中に入った途端、扉が開かなくなり、閉じ込められてしまう。

忍野 扇の問いかけが進むうちに、阿良々木暦は、その教室が、阿良々木暦が高校1年の時の教室であることを思い出す。

それは、彼が 「友人を作ると人間強度が下がる」というようになるきっかけとなった事件が起きた日の放課後の教室だった…

というような物語で、登場人物は、阿良々木暦と忍野 扇、そして、その事件の中心人物である老倉 育がメインで、ちょっとだけ顔を見せている神原駿河、戦場ヶ原ひたぎ、羽川翼がいる。

この物語は、ある「事件」をめぐって、クラス全体で犯人探しを行うという推理小説めいた内容になっているせいか、めずらしく、メインの登場人物以外のクラスメイトの名前が出てくる。

このクラスメイトを、どんな風にアニメでは表現するのだろうと思っていたが、ほぼ予想どおりだったのは、若干残念だった。

阿良々木暦の心象風景だからと言ってしまえばそれまでだが、クラスの中で行われた議論や、老倉育が不登校になってしまった事の重みみたいなものが十分に伝わってこないという点は否めないだろう。

※この番組の最後で、ついに、あの「傷物語」の2016年1月の劇場公開が予告されていた。(2012年の告知から実に3年)。しかも3部作に分けるという。原作は、そんなにボリュームはなかったと思うが、どんな膨らませかたをするのやら。

http://www.kizumonogatari-movie.com/

2015年9月27日日曜日

ふしぎな球 日野啓三 /日本文学全集 21

私の場合、ベトナム戦争経験者であるという先入観を捨てて読んだ方が、この人の作品に近づきやすかった。

最初に読み切ることが出来たのは、眉村卓のショート・ショートSFのような雰囲気のある「ふしぎな球」。

自分の子供でありながら、妙におとなしい二番目の息子に違和感を感じる父親。

そして、その父親が、ある日、人気のない都心の街を歩いていたときに感じる「色褪せて、内部の輝くを失って見え」る「人間にじかに作られたのではない物が、人間がいなくなってその本性をにじみ出している」感覚。

ある日、二番目の息子は、その父親が感じる街の違和感を物質化したようなガラス玉を拾ってくる。

ガラス玉なのに、光を通さず、明らかに吸い込んでいるような、ブラックホールのようなガラス玉。

息子に問いただすと、街の空間の至るところに穴が空いていて、そこから、ガラス玉を取り出せるという。

 こんな不思議な物語なのだが、その後の短編「牧師館」「空白のある白い町」「放散虫は深夜のレールの上を漂う」「ホワイトアウト」「イメージたちのワルプルギスの夜」など、いずれを読んでも、この作家の主題とトーンは同じように感じた。

日常生活において、別の世界を見ようと、感じようとする。
目の前の現象に、精神の触覚を広くめぐらす。


そして、感じようとすれば、その別の世界の入口は、確かに自分の日常生活の中でも、いくつも転がっているような共感を覚える。

2015年9月23日水曜日

日本霊異記・伊藤比呂美/今昔物語・福永武彦/ 宇治拾遺物語・町田 康/発心集・伊藤比呂美/日本文学全集 08

個人的な感想としては、この本は“買い”である。

仏教の説話文学を集めたという本書であるが、片苦しい雰囲気なのは、鴨長明の「発心集」だけで、他の作品には、性の猥雑さが放胆に力強く溢れている。

なかでも、町田 康が訳した「宇治拾遺物語」は、群を抜いて面白い。

私は、電車の中で読んでいて、何度か爆笑しそうになるのを堪えるのが辛いほどだった。

こぶとり爺さんの原作と思われる「奇怪な鬼に瘤を除去される」(鬼に瘤取らるる事)の鬼の会話が、まるで今風のヤンキーの言葉づかいなのも笑えるが、

町田康訳「奇怪な鬼に瘤を除去される」(『宇治拾遺物語』より)


極めつけは、「中納言師時が僧侶の陰茎と陰嚢を検査した話」(中納言師時、法師の玉茎検知の事)と、「藤大納言が女に屁をこかれた」(藤大納言忠家物言ふ女放屁の事)だろうか。

とにかく性の猥雑さと馬鹿馬鹿しさに溢れた鎌倉時代初期の物語を、今の世に生き生きと復活させた町田 康に拍手を送りたい。

ただ、 この「宇治拾遺物語」のインパクトが強すぎて、残りの物語の印象が薄まってしまったのは実感としてある。

とくに、「宇治拾遺物語」の後に控える長明の「発心集」に至っては、長明の「まとめ」のことばを読んでいると、なにを「真面目くさって」という反感のようなものさえ、湧いてくる始末だった。
 (日本霊異記(平安時代初期)も、最後のほうで仏法の理を説くが、語り口がすぱっとしていて、読んでいて心地よい)

話の面白さとしては、やはり、今昔物語(平安時代末期)が粒ぞろいのような気がする。

芥川龍之介の「藪の中」の元ネタである「大江山の藪の中で起こった話」(妻を具して丹波国に行く男、大江山において縛らるること)をはじめとして、物語として読ませるものが多い。

ちなみに、この「今昔物語」については、水木しげるのマンガ「今昔物語」もある。

本書には収められていないが、「かぶら男」や、「安倍晴明」(映画「陰陽師」の)、「引出物」(谷崎の「少将滋幹の母」の元ネタと思われる)など、楽しめるものが多いので、興味がある人はぜひ。

2015年9月19日土曜日

9月18日 国会前の安保法制抗議集会

18日、仕事帰りに国会のデモに参加してきた。

参議院の特別委員会で行われた「強行採決」、というより「採決」があったとも言えない異常な事態が生じた17日、国会内のテレビ中継に交じって遠くから聞こえるデモの声を聞いたとき、みんな雨が降る中で頑張っているなと思った。明日は行こうと思わずにはいられなかった。

行ってよかったと思う。
少なくとも、自分と同じように今回の事態に怒っている人は多いのだなと認識できた。

平日のデモは、自分のように仕事帰りの人々や、小学生くらいの子供たち、子連れのお母さんたち、大学生、お年寄りなど、本当に様々な人がいて、いかに、この法案に反対する国民の裾野が広いことが分かる。

荷物をコインロッカーに預け、手ぶらだったのだが、「9条壊すな(青)/戦争させない(赤)」の紙が配られていて、それをもって、国会正門前に向かった。

しかし、すでに人々が溢れていて、自分は途中で立ち止まって、何度か、繰り返させる「コール」に声をあげた。

昨日のデモは、2つの団体によって統制されていて、ひとつは「総がかり行動実行委員会」、ひとつは「SEALDs」

「戦争法案絶対反対」
戦争法案今すぐ廃案
「安倍政権はただちに退陣」

といったスタンダードなコール。
いつも姿が見えず、凛とした女性の声だけが印象に残るのだが、調べたら、 菱山南帆子さんという方だった。



一方、SEALDsのコール(奥田さん)は対照的で、アジテーター的な雰囲気が漂う。

「ア・ベ・ハ・ヤ・メ・ロ」
「勝手に決めるな」
「国民なめんな」
「賛成議員を落選させよう」


と生々しい。


 抗議集会では、作家の島田雅彦、慶応大学の金子教授、学者会、ママさん代表の方、一昨日、横浜の公聴会で意見を述べた2人の公述人 広渡清吾氏、水上貴央氏も参加していた。

本来であれば、公述された内容はその後の審議や採決で適切に参酌されなければならないのだが、議事録にも記載されず、特別委員会は質疑を打ち切った。
明らかに形だけの公聴会だろう。

今日の参議院本会議 安保法案の審議で民主党の福山氏も述べていたが、今回の安保法案の法制化のプロセスが、最初から最後まで、ルール違反、手続き無視で行われたことの証明だろう。

しかし、今日、国会に行って感じたのだが、この反・戦争法案で芽生えた、今まで受け身一辺倒と思われた日本国民の政治に対する意識の変化は、今後も止まらないだろう。

そこに、明るい希望を感じる。

おかしい事は、おかしいという。
立憲主義という言葉が高校生の口から飛び出す。
普通の人がデモに参加して、声をあげる。
大体、私自身、本来、デモなんかに参加する人間ではないのだ。

SEALDsのコールに、

「民主主義ってなんだ?」

「これだ!」

という応答がある。

これは、意外と今回の国民の意識の変化の流れを象徴的に示したものなのかもしれない。

*つい先ほど、安保法案が参議院で可決・成立した。

2015年9月15日火曜日

安保法案を巡るさまざまな動き

驚いたことに、自民・公明の与党と野党3党が今日になって、安保法案の修正合意をしたという。

http://mainichi.jp/select/news/20150916k0000m010089000c.html

ただ、野党といっても、「次世代の党」(議員数7名)、「日本を元気にする会」(議員数5名)、「新党改革」(なんと1名)という弱小野党で、修正合意というのも、法案を修正するのではなく、野党3党が主張する修正案を尊重するという国会の付帯決議と閣議決定をするだけのものらしい。

そんな拘束力のない合意が「修正」と呼べるものなのか、甚だ疑問だが、与党側が、「強行採決」と言われる事態を、極力薄めたいという意思が感じられる。
あいかわらず姑息なやり方だ。

問題の修正の内容だが、 これが、いかにも中途半端な内容になっている。


図で分かる通り、日本が直接攻撃を受けていない事態(存立危機事態など)に、例外なく、国会の事前承認を求めること、また、自衛隊派遣後も180日後に、派遣を継続するか、国会の承認を求めるなど、国会の関与を強める修正になっている。

しかし、今の自民・公明が過半数を維持している状況で、これが歯止めになるとは思えないし、第一、自衛隊を派遣したあと、国会が否決したので撤退しますなどと、同盟国に本当に言えるのかという疑問が生じる。

現場の自衛隊からすると、国会審議の行方では、派兵後、わずか半年で撤退させられる可能性もあるということを考えて活動するということになるのだろう。
私が自衛隊員だったら、こんな不安定な制約を付けて腰の据わった活動などできるか、と言いたいところだ。

自民党も、よくも、こんな中途半端な修正を飲んだものだと思う。
信念がないに等しい。

この安保法案の最大の問題は、憲法違反の疑いが濃厚ということだが、その点については、この修正合意では触れられていない。
もっとも、触れていたら、修正合意などあり得ないと思うが。

一方、国会では、中央公聴会が開かれ、野党推薦の4人(SEALDsの奥田さんも参加)が反対の意意見を、与党推薦の2人が賛成の意見を述べた。

http://mainichi.jp/select/news/20150916k0000m010084000c.html

小林節さん(慶応大教授)の
国の雇われマダムにすぎない政治家たちが、憲法を無視するということは、今後、何でもできる独裁政治の始まり。我々が常々おかしいと批判している北朝鮮と同じ体制」
の言葉と、

SEALDsの奥田さんの
「私たちは決して今の政治家の発言や態度を忘れません」
という言葉が印象に残った。

そして、国会前では、連日、多くの人々が、安保関連法案の反対デモを行っている。

http://mainichi.jp/select/news/20150916k0000m040130000c.html

そんな中、与党は、明日16日にも参議院平和安全法制特別委員会で締めくくりの質疑を行い、同委員会で16日もしくは17日に強行採決を行い、週内に法案成立を図ることを決めたらしい。

国民の半数以上が望んでいない法案を、何のために、誰のためにという疑問が改めて心に浮かぶ。

アメリカのため、安倍の私的な感情に基づいた政治目標の達成のため、といったところだろうか。

2015年9月6日日曜日

NHKスペシャル 巨大災害 MEGA DISASTER Ⅱ 日本に迫る脅威 第2集 大避難 ~命をつなぐシナリオ~


地球温暖化のせいなのか、年々、台風が最強となる地点が北上しつつあり、このままでいくと、東京に、2013年にフィリピンを襲った風速80m以上の勢力を持つスーパー台風が上陸する可能性が高くなっているという。

もし、スーパー台風が東京に上陸した場合、発生した高潮により、荒川と江戸川にはさまれた江戸川区、葛飾区と足立区は、海抜ゼロメートルの地域にあることから、3mの高潮が襲った場合、ほとんどが床上浸水の被害にあうという。

しかし、従来の避難勧告のタイミングで避難しても、道路の渋滞や駅の混雑などで思うように避難は進まず、かつ、氾濫した川から逃れる高所も限られていることから、多くの人が逃げ遅れ、被害に遭う恐れがあるという。

番組では、サイクロンに襲われたアメリカの都市の避難計画を参考に、従来よりも極端に早い上陸の3日前からの避難が有効であることが述べられていた。

最初は、要介護者、一人住まいの高齢者など、最も逃げ遅れる危険性がある人から移動させ、車も街に繋がる道路は外に出る方向の一方通行に規制し、 鉄道やバスもラッシュアワー時並みにフル稼働させ、人を外に運び出す。

そうすれば、何とか、高所に逃げる人も溢れることなく、大多数の人が助かるという避難計画だ。

しかし、3つの区から逃げた先はどうするのかとか、 ラッシュアワー時並みに公共交通機関を稼働させることが出来るのかなどは、まだ検討段階なのだという。

日本には、地域ごとの災害対策という思想中心で、広域災害対策という概念はまだ根付いていないらしい。

以上が番組の前半で、後半では、南海トラフに襲われた際の避難について取り上げられていた。

南海トラフ大地震が起きた際、静岡県焼津市には、最速5~6分程度で津波が街を襲うらしい。
地震が起きても、すぐには避難できない。揺れが収まるのに4分。
そこからわずか2分しかないのに、どうやって、市が指定する避難所に逃げることが出来るか。

焼津市では津波タワーという建物を各所に建設などしているのだが、足が悪いお年寄りなどは、500m以上離れた避難所に、たった2分の時間では到底たどり着けない。

番組では、大学教授と地元の高校生が協力し、どうすれば、逃げ遅れる人々を救うことができるか、検討していたが、一つの有効な代替策としては、市の指定する避難所に拘らず、身近にある3階建て以上の鉄筋コンクリートの建物に逃げるのが有効であることが説明されていた。

これは、東日本大震災で倒壊せずに残った建物を割り出した結果、3階建て以上の鉄筋コンクリートの建物であれば、ある程度の安全性があるということが分かったということだった。

津波が来たら自分は死ぬしかない。

そんな思い込みをしている高齢の人が、高校生のアドバイスで、災害時にどう生き残ることができるかの可能性を見出す姿は興味深かった。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20150906 

2015年8月30日日曜日

8月30日 国会前安保法案抗議集会

戦後70年談話が終わった後から、お盆休み明けを過ぎ、妙に安保法案の国会審議が静かになってしまったような気がする。

現在、安保法案は参議院で審議中だが、9月14日から衆議院で再可決すれば、法案を成立できる、いわゆる「60日ルール」が使えるようになる。
野党の国会議員は、最後まで力を尽くして、廃案にすることを諦めないでほしい。

私たち一般市民も、どうせ、反対しても、と思う人もいるだろうが、それでも声を出して、最後まで諦めずに廃案を主張し続ける人たちも大勢いる。

今日、午後1時から、国会前では、大規模な抗議活動が行われ、参加してきた。


午後1時過ぎ、地下鉄日比谷線 霞が関で降りると、すでに大勢の人たちが国会への道沿いを列を作ってならんでいた。

やはり、年配の人が多いような気がしたが、学生と思われる人たち、子連れの主婦の姿も少なくなかった。外国人の姿もちらほら見えた。

人が多すぎて、ひょっとすると国会前には、たどり着けないかと思ったが、警察官の誘導を無視して、前に進むと、少しずつ、国会議事堂の姿が見えて来た。

沿道では、公明党の支持者(創価学会の人たちか?)も居て、自民党に、いいように使われている党の現状に反対する署名活動をしている姿も見受けられた。

国会議事堂の右側あたりで、SEALDsのひとたちも居て、聞きなれたコールを連呼していた。

「戦争法案絶対反対!」
「9条守れ!」
「戦争反対!」
「安倍政権は直ちに退陣!」

色々な場所から、コールが上がっていたが、こういう混雑した場所だと、かけ声は、やはり凛とした女性の声の方が、皆が声を出しやすい。

ようやくたどり着いた国会議事堂前では、「安倍やめろ」の横断幕が、白黒の風船につるされて、国会議事堂に向かって提示されていた。

あいにくの雨模様だったが、それほど本降りにならなくて幸いだった。
(参加者12万人と主催者側は発表している)

http://mainichi.jp/graph/2015/08/30/20150830k0000e040122000c/003.html

今日は、全国200カ所以上でデモや集会を実施されたらしい。 
http://www.sankei.com/politics/news/150830/plt1508300016-n1.html

これだけの数の国民が反対する法案は、近年ない。
そして、それを真っ向から無視して強行採決を行う政権も。

事前に以下のブログを読んで準備していったのだが、とても参考になったので紹介しておこう。
http://ossanhitorimeshi.net/?p=21460

2015年8月23日日曜日

行人/夏目漱石

行人(こうじん)は、夏目漱石晩年(45歳ごろの作品。彼の死は49歳)の作品で、有名な「こころ」の前作に当たる。

物語は、四部構成になっていて、切り離しても別々の作品として成立しそうな内容になっている。

最初のパート「友達」は、明治時代の高等遊民と思われる二郎が、友達と大阪で行き合い、高野山に登るのを約束し、その待ち合わせ場所として、かつて、二郎の家に書生として住み込んでいた岡田の家に泊まる場面から始まる。

ここでは、なかなか来ない友人 三沢を待つため、数日泊まる中で、いかにも善良そうな岡田と仲睦まじい妻のお兼さんの関係が描かれている。

そして、このパートの後半では、実は胃潰瘍で入院していた友人 三沢を見舞う二郎が、同じく入院している美しい若い女を見つけ、三沢と何らかの関係があるということが次第に分かるという筋書きになっている。

2つ目のパート「兄」は、大阪にいる二郎のところに、兄の一郎と、その妻の直、母が訪れ、一緒に観光することになる。この中で、一郎と直の関係が不和であることが明らかになるが、学者で神経を病んでいると思われる一郎は、妻が自分を愛しておらず、実は二郎を愛しているのではないかという疑いを持つ。
そして、一郎は、妻の節操を試すために、二郎に直と一緒に旅に出て一泊してくれと頼むことになる。
二郎は、ためらいつつも、直と一緒に旅に出て、天候の急変もあり、本当に一泊してしまうことになる。

帰ってから、 一郎は、二郎に結果を問いただすが、二郎は直の心根にやましいところはないことを告げる。

3つ目のパートの「帰ってから」は、家族が東京に帰ってからの様子を描いたもので、物語に、父と二郎の妹の重子、そして、下女の貞が出てくる。ここでの印象深い出来事は、父が話した父の友人であった書生と関係した下女がその後盲目になってから再会した際の話と、妻への疑いが晴れない兄 一郎に疎まれた二郎が家を出て、下宿することになったことだろうか。

4つ目のパート「塵労」は、さらに神経を病んでいく兄 一郎に焦点が当てられている。妻だけではなく、家族からも離れていく一郎を心配し、二郎は知人のHさんに、気分転換に兄を旅行に連れ出してほしいと頼む。一郎は、H氏に自分の悩みと思想を語り、H氏がそれを手紙で二郎に報告するという内容になっている。

弟と兄嫁の危うい関係を描いているが、どことなく、ユーモアを交えて、エロチックな要素を減殺しているのは、やはり新聞連載小説という意識が漱石に働いたせいだろうか。
どこか優柔不断な二郎は、「三四郎」に若干似ているような気がする。

物語はゆるゆると進みながらも冗長な部分がなく、文章はとても読みやすい。
まだ、時代的な制約がありながらも、直という飄々とした兄嫁の描き方もうまいし、蚊帳の話や次男より長男の威厳を気遣う母親の存在など、昔の日本の家庭の面影を感じられるところも興味深かった。

しかし、 最後の「塵労」は、漱石自身の神経衰弱と体調不良が如実に作品に現れていて、どこか暗い影が漂っている。

2015年8月18日火曜日

姦通の記号学/大岡昇平

大岡昇平の「武蔵野夫人」を読んで、「姦通罪」という刑罰が気になって調べてみたところ、明治時代(1880年)から戦後(1947年)の日本国憲法成立の時まで、旧刑法では、「姦通罪」という刑罰が定められていた。

これが、すこぶる男女不平等な内容で、夫がいる妻が姦通をした時だけ、 その妻と相手の男が刑罰(重禁固、その後懲役2年に変わった)を受けるという内容だった。

夫が他の婦女と関係しても、姦通罪は適用されなかった。

 「武蔵野夫人」でも、道子の夫 秋山が、大野の妻 富子を口説く際、姦通罪の廃止をほのめかす場面が出てくる。

 「姦通の記号学」という大岡のエッセイも、夏目漱石の「それから」と「門」などの作品を取り上げ、姦通について語っている。

私は、はじめて大岡のエッセイを読んだが、考えてみれば、 大岡ほど、頭が切れる人がこういう面白いエッセイを書くのは至極当然のことだと今頃、気づいた。

大岡は、この文章のなかで、漱石は好んで姦通文学を書いた小説家であり、明治政府の検閲が厳しい時代に、新聞という大衆的な枠内で、姦通小説を書いた珍しい男と評している。

(今、朝日新聞では「それから」を再掲載しているが、本書では、代助が自分の愛する女である三千代を親友の平岡に譲ったことについて、夫(代助)は妻の姦通者を容認する立場にあり、姦通するために結婚させると解説している)

そして、
「それから」が姦通そのものよりも、代助の生活環境、「自己本位」の実行として、正面から離婚を要求し、結婚によって「姦通」を実現しようとすること、父の政略的結婚強制の拒否によるブルジョアのエゴイズムの摘発など、姦通以外の社会的条件とそれへの対応の描出で成り立っている…
漱石に姦通の感情的高揚、エロスの昂進の描写はなくてもよいのだ、と納得した次第です。
 と評している。

この漱石のスタイルは、18~19世紀の西洋の姦通小説の要件

1.姦通そのものを描いたものではなく、それを取り巻く状況を描くことによって成立している
2.権威としての父親の役割の重さは次第に減少し、シニカルな姦通肯定論をぶつ人物が登場する
3.現実の事件は離婚で終わるけれど、小説はそれで終わるものではない。

に、当てはまっているということらしい。

しかし、まさに、ぴたりと当てはまっているのは、 大岡の「武蔵野夫人」ではないかと思ったが、姦通そのもの(性の描写)も控えめではあるけれど書かれているので、1.からは若干ずれるかもしれない。

他にも、漱石の「行人」、一葉の「われから」、トルストイの「アンナ・カレーニナ」「クロイツェル・ソナタ」、ゲーテの「親和力」、フローベルの「ボヴァリ―夫人」 、ジョイスの「ユリシーズ」(ブルム夫人の独白)、ドストエフスキーの「白痴」などの作品における「姦通」について、自在に語っていて、とても面白い。

2015年8月17日月曜日

武蔵野夫人/大岡昇平

大岡昇平の小説は、俘虜記、野火、レイテ戦記を読めば分かるとおり、戦争がその主要なテーマになったものが多いが、この武蔵野夫人は、姦通(今で言う「不倫」だと思うが、「姦通」の方が罪が重そうな響きがある)をテーマにした恋愛小説である。

ただ、戦争の影はやはりあって、人妻 道子の従弟の勉が、ビルマの復員兵士として登場する。
物語は、武蔵野(国分寺と武蔵小金井近く)の「はけ」(湧き水の溜まるところ)と呼ばれる土地に住む、道子とその夫でフランス文学者の秋山、そして、道子と親類関係にあり、闇物資を扱うビジネスをしている大野と、その浮気性の妻 道子が主な登場人物である。

古風で堅い性的不感症な道子と、一見純粋な勉が精神的に愛し合うが、それを、夫である秋山が自分は富子に言い寄る一方で勉が道子に接近するのを邪魔し、富子も勉に関心を持ち、性的な誘いをかける一方、自分に関心を持つ秋山をけしかけ、道子と勉の距離を遠ざけようと邪魔をするという物語だ。

ドロドロした男女関係、そして、純粋な二人の恋愛が悲劇になってしまう物語を、大岡の乾いた筆は、感情過多になることなく、客観的に描き出している。

それは、一見、脇役のような秋山や大野が実は物語の重要な鍵を握っていたという描き方をしていることからも明らかだ。




2015年8月16日日曜日

安倍首相の戦後70年談話全文を読んで

安倍首相が、閣議決定を経て、戦後70年談話を発表した。

戦後50年の村山談話、60年の小泉談話が1200字程度だったのに対して、3000字以上(A4用紙5枚)に及んだというのは、いかに、安倍政権が、この談話を注視する関係者への配慮を盛り込むか、苦心した表れともいえる。

その結果、一読すると、いわゆる安倍首相的な考えと、それに相反するような考えが所々に見られる不思議な談話になったというのが、私の印象だ。

まず、安倍首相的なものを取り上げてみる。

1. 日露戦争の肯定
 この談話のはじまりで、日露戦争を肯定するような表現で取り上げている。
司馬遼太郎が日露戦争を「祖国防衛戦争」だったと評していることを私自身も否定するものではないが、安倍首相が語っているこの文脈では、日露戦争のような戦争であれば肯定されるのだ、という思いが伝わってくる。

しかし、この日露戦争の勝利が、日本人をして、日本国が絶対負けない神の国であり、世界において一等国という妄想を軍部および多くの国民に植え付け、戦後得た満州の権益を守るため、国全体が植民地支配と侵略戦争に乗り出し、太平洋戦争に突き進んだことを考えれば、その罪深さが分かるだろう。

2.太平洋戦争の原因は、世界恐慌と欧米諸国の経済ブロック化
私は、日本の軍国化に経済の困窮が影響したことを否定するつもりはないが、この2つの要素だけ取り上げることについては違和感がある。
太平洋戦争の原因は、何といっても、 日本の軍部が、日露戦争の勝利によって得た満州の権益を守ること、ソ連の侵攻を防ぐことを重視し、憲法の不備を突いて、暴走していったこと、そして、それを盛んに焚き付けたマスコミの影響が大きいと思う。

この「経済のブロック化」は、談話の最後の方でも述べられていて、「国際経済システムを発展」(おそらくTPPだろう)にかかってくる。中国への牽制という意味合いもあると思う。

3.アジア諸国への侵略、植民地化について、誰がどこで何をしたかは説明を省略
日露戦争時まで遡っておきながら、日本が西洋列強の真似をして、植民地支配と侵略戦争に乗り出したところは、実にさらっと流している。「事変、侵略、戦争」という単語だけを並べて済ましているところも、違和感がある。文脈から読むと、日本のことを指しているのは分かるのだが、単に一般論として、これらの行為は許されないとも解釈できてしまう。

なぜ、こんな曖昧な文章に終始したのか。それは、つまり、はっきりと言いたくなかったのではないか、とも推測できてしまう。

 4.「痛切な反省と心からのお詫び」から、「歴代内閣の立場は揺るぎない」までの距離
 「痛切な反省と心からのお詫び」が過去形の中で表明されたこともそうだが、「こうした歴代内閣の立場」の「こうした」には、「反省とお詫び」というより、「戦後一貫して(日本が)、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました」という文章を指しているような気がする。
安倍政権が今後考える「平和と繁栄のために力を尽くす」ことには、もちろん、今、国会で審議している安保法制も入るのだろう。
談話の最後の方の「積極的平和主義」が、その意図をさらに強調している。

いずれにしても、安倍首相としては、「もう、謝罪は止める」という意図が透けて見える。

5.中国と韓国は、寛容の心を持て。未来永劫、謝罪を続けるのは御免だ
談話では、日本が国際社会に復帰できたのは、戦争被害者に寛容の心があったからだと訴え、ついで、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と断言している。
この言葉は加害者から言うべきものではないだろう。加害者から、もう私は謝罪しないという一方的な宣言は、被害者に対しては全く通用しない身勝手な言い草に過ぎないと思う。

たとえ、「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたち」であっても、被害者が許さない限り、謝罪せざるを得ないというのが、歴史上の責任(無限責任)ということなのだと思う。

以上、安倍首相の考えが現れている部分を取り上げてみたが、従来の談話には見られない点(慰安婦を思わせる表現、女性の人権)に触れているところは、評価できると思う。

しかし、談話の文中にある以下のような考えを本当に持っている首相であれば、憲法も改正せずに、今の安保法案を強行採決することなど考えられないと思うのは、私だけだろうか。
「いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。」

「先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりまし た。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。」

「我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し」

2015年8月6日木曜日

NHKスペシャル きのこ雲の下で 何が起きていたのか

かなり目をそむけたくなるような内容だったが、これが現実だったのだと思いながら、番組を見た。

番組では、原爆投下の3時間後、爆心地から2キロのところにある「御幸橋」の上で撮影された白黒写真にフォーカスして、そこに写っていた生存者の証言等から、動きと声と色を付け、当時の悲惨な状況を再現していた。

犠牲者を病院に連れていく軍のトラックでも、怪我人の選別が行われていたという証言も生々しかった。トラックに助けを求めた少女に対して、女・子供は乗るなと軍人は言い放ったという(戦力になる若い男性を優先して救助したらしい)。

この番組で初めて知ったが、原爆の犠牲者の大半が、十二、三歳の子供たちだったらしい。
彼らは、大人たちが国家により戦争に駆り出されている間、勤労動員で市内のあちこちで働かされていたのだ。

戦争という悲惨は、直接の責任がない子供たち、女性、一般市民に容赦なく降りかかってくるという現実は忘れてならないことだと思う。

そんな広島への原爆投下の日から70年目の日本の現状を考えると、気持ちが暗くなる。

本来ならば、思いをあらたに平和を希求すべき時なのに、日本は戦争が出来るようにするための法制化を進めているのだ。

平和式典に出席した安倍首相の挨拶では、戦後日本が堅持してきた「非核三原則」(核兵器をもたず、つくらず、もちこませず)には触れなかったという。

昨日の国会審議で、問題の安保法案が、核兵器の運搬も排除されないという認識を中谷防衛大臣が述べた後、慌てて、「非核三原則があるので、想定していないしありえない」と強調していたが、今日の安倍首相の態度を見ると、法案で核兵器の運搬が出来る以上、政府の態度も変わる可能性があるということだろう。

2015年8月4日火曜日

何かに呼ばれるように、自民党議員からの暴言が止まらない

今度は、武藤貴也さんという人が、安保法案に反対する大学生の団体SEALDsに対して、
彼ら彼女らの主張は「だって戦争に行きたくないじゃん」という自分中心、極端な利己的考えに基づく。利己的個人主義がここまで蔓延したのは戦後教育のせいだろうと思うが、非常に残念だ。
と、Twitterでコメントしたらしい。

率直に言って、SEALDsの主張を全く理解していないと思う。

彼らのスピーチをまともに聞けば、第一に反対しているのが、安倍政権が今、国民の反対を押し切って進めようとしている集団的自衛権の行使容認であり、立憲主義と法的安定性を軽んじる憲法解釈の変更だということは、すぐに理解できる。

その主張が、なぜ、「だって戦争に行きたくないじゃん」(なぜ、語尾が「じゃん」なのだろう)という乱暴なまとめ方になったのかが理解できない。

SEALDsの学生たちが恐れているのは、戦前の日本で跋扈した軍国主義の復活であり、ふたたび戦争へと突き進んでしまう歴史上の過ちを何とか止めたいという必死の思いから主張しているということも容易に理解できる。

ただ、以下のブログの内容が正しければ、この武藤貴也さんは、相当、根深いところで、今の日本国憲法が提供する価値観を否定したい考えの持ち主であることがわかる。

http://ameblo.jp/mutou-takaya/entry-11937106202.html

ご丁寧に、日本国憲法の三大原理(国民主権、基本的人権の尊重、平和主義)を一個ずつ否定している。

この記事を読むと、武藤貴也さんは、戦前の日本の価値観に戻ることが正しいという考えを持っているとしか理解できないが、そうだとすると、上記のSEALDsに対するコメントも納得がゆく。

私は、世の中には、こういう人もいるのだろうなと思っていたが、しかし、こんな特殊な考え方を持った人が国会議員になるのは、いかがなものかと思う(国会議員には憲法尊重擁護義務がある)。

自民党が、どの程度、この人物を調べて「公認」したのかは知らないが、 今の自民党および安倍政権の顔ぶれを見ると、武藤貴也さんと、相当共鳴するものがあったのかもしれない。

私は、この発言をニュースで知って、内田樹さんが先日、ブログに書いていた以下の文章が頭を過った。
世界平和を求めるとか、平和憲法を維持するとか、「きれいごと」を言うのはもうやめよう―。そんな不穏な心情が法案成立を目指す安倍政権を支えている。
表に出すことを禁じられたこの「邪悪な傾向」が七十年間の抑圧の果てに、ついに蓋を吹き飛ばして噴出してきたというのが安倍政権の歴史的意味である。
彼らに向かって「あなたがたは間違ったことをしている」と言い立てても意味がないのは、彼らが「間違ったこと、悪いこと」をしたくてそうしているからである。
http://blog.tatsuru.com/2015/07/17_1352.php

礒崎総理補佐官の謝罪に思う

礒崎首相補佐官が、安保法案に関し、

「法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要かどうかを気にしないといけない」とか、

「法的安定性で国を守れますか? そんなもので守れるわけないんですよ」と発言したことに関して、

参議院の参考人招致の場で謝罪し、発言を取り消したらしい。

ちなみに、法的安定性とは、法律の内容や解釈を安易に変えてはならない、という原則のことだ。

しかし、礒崎さん本人からすれば、何故、俺が謝らなければならないのだろうという思いが、心中去来したに違いない。

礒崎さんが言っていることは、まさに、この安保法案で、安倍政権がやっていることを正確に説明したに過ぎないからだ。

彼の言葉を言い換えれば、
 「歴代内閣が積み上げてきた憲法9条の解釈を今までどおりに守って、国を守れますか?そんなもので守れるわけないんですよ」ということであり、

これは、今まで国会で、野党が憲法9条の法的安定性を守るべきだと追及してきたことに対して、安倍首相が繰り返し答弁してきたことの総論に過ぎない。

そんな安倍首相の言葉を言いかえただけの礒崎さんに、野党はともかく、安倍首相が注意をしたり、謝罪を強いるのは、どうかしている。

It doesn't make sense.(筋が通らない)とは、このことだ。

さすがに、辞任までは求めることができなかったようだが、自分に忠実な部下に泥をかぶらせて、白を切る上司は、人間としても尊敬されないと思う。

2015年8月2日日曜日

最近の報道機関に思うこと

マスコミは、権力が暴走しようとしたときこそ、権力と距離をとって、公平な報道を行うべきだと思う。
つまり、そういう時にこそ、真価が問われるのだ。

今回の安保法案をめぐる各社の報道の対応がくっきりと分かれたせいで、私のニュースソースもすっかり変わってしまった。

以前は、テレビのニュースはNHKのニュース 特に、ニュースウオッチ9を見ていたのだが、最近は、すっかり見なくなってしまった。

政権に批判的な情報は流さないし、キャスターはニュース後もノーコメント。
見ていると、拍子抜けしてしまうのだ。

ひどい内容の国会審議が流れたあと、何かひとこと言いたくなるのがふつうじゃないですか?

以前は、控えめながらも、大越さんのはっきりとした個性が感じられるコメントがあった。
残念ながら、今のキャスターは、つるっとした、のっぺらぼうみたいに無個性だ。

もちろん、今の籾井会長のせいであることは、想像がつく。

安倍政権の行った人事は、政権の考えに賛同したり、いいなりになる人間を選択していることが、いずれも顕著に表れている。

NHK会長しかり。百田のNHK経営委員しかり。日銀総裁しかり。法制局長官しかり。


現場としては、反抗しづらいのだろうが、最近は、原発に関するNHKスペシャルも報道されなくなったりして(川内原発の再稼働前の時期だからだろうか)、視聴者としては本当にがっかりしている。

NHKの報道とは対照的なのが、テレビ朝日の報道ステーションと、TBSのNEWS23、報道特集、サンデーモーニングだろう。

(一つの目安として、国会前の安保法制反対の抗議集会の様子を定期的に報道している報道機関は、権力と距離をとっていると思う)

報ステは、癖があるけど、古館さん、NEWS23・サンモニは、岸井さん(写真下)が頑張っている。
(サンモニは、この件があるまで、若干重たい感じがしてあまり見ていなかったのだが、こういう硬派な話題になると、寺島実郎さん等、他のコメンテーターも、安心して話を聞くことが出来る人が多い)


報道特集は、最近で言うと、中曽根元首相が、戦時中、インドネシアで慰安婦所開設を推進した人間であることをスクープするなど、硬派な報道番組だと思う。
(しかし、こういう事実があるのに、慰安婦問題で、安倍政権が執拗に謝罪を拒否する資格が本当にあるのだろうか?)

フジテレビは、BSフジ プライムニュースだけは見る価値があると思う。
(反町理キャスターの、したり顔風の「ナルホド!」を見ていると、不思議にクセになる)

日テレは、手厚いのは、芸能と皇室のニュースぐらいだろうか(ある意味、NHKなみに統制されていて、スカスカの情報しか報道していない)

テレ東は、最近で言うと、「池上彰の戦争を考えるSP」の番組がよかった。

ナチスが最も民主的な憲法といわれていたワイマール憲法の下で新しい法律をつくり、憲法の効力をなくしてしまう憲法の解釈を変えたと説明しているあたりなどは、とても参考になった。

池上さんは、数日前のテレ朝の番組でも、本来、政権のチェック役である内閣法制局長官を、内閣総理大臣の権限で変更できてしまう制度的問題を問うていた。

私は、これらの番組を見たせいで、すっかり、 池上彰さんにリスペクトを置くようになってしまった。


新聞でいうと、全国紙では、毎日新聞が頑張っていると思う。

読売新聞は、早朝から読んでいてムカムカする記事が多いのだが(特に社説)、その記事に騙されてたまるか、という思いがムクムクと知性を刺激するので、ある意味、ボケ防止にはいいのでは、と最近は思うようになりました。

2015年7月31日金曜日

出征/大岡昇平

読書の快楽は、小説であれば、第一に物語の面白さに負うところが大きいのだろうが、私の場合は、何といっても、美しい読みやすい文章で書かれていることが前提として必要になってくる。

そのような高い基準を満たす作家の一人に大岡昇平も入る。

彼は、太平洋戦争の時に、徴兵され、フィリピン レイテ島に送りこまれ、戦争に参加し、過酷な戦場で死ぬ一歩手前、米軍の捕虜になり、生き残ることができた。

彼の戦争体験記は、野火、俘虜記、レイテ戦記といった主要な作品の大きなテーマになっている。
決して明るい話ではないが、それでも、不謹慎ながら、私は、大岡の文章を読んでいて、その美しい無駄のない文章に気持ちが晴れる思いがする。

この出征も、そんな作品の一つだ。

東京の予備兵として徴集された大岡が、除隊の予定の日、何故か、自分の名前が呼ばれない。
呆然とする一部の兵隊たちとともに残され、南洋の前線に出征することを告げられる。

戦争に行くにも、色々な段取りを踏む。
遺書を書き、家族と別れの挨拶をし、千人針を受け取り、電車に乗り、門司まで行き、そこでしばらく待たされ、南洋行きの輸送船に乗る。

限られた時間のなかで、妻と子供に会いたいが、上京の負担をかけることと会っても無駄だという思いが交差する、その葛藤。

外洋へと向かう船から、あの島を通過すれば、二度と日本を見ないだろうという思いが去来する。 
私に何か感慨があったかどうか、わからなかった。
しかし、その時の私の中の感情は、私が出征によって、祖国の外へ、死へ向かって積み出されて行くという事実を蔽うに足りない、と私は感じた。
 大岡の文章は、常に正確に自分の心情を捉えようとする。

2015年7月27日月曜日

靴の話/大岡 昇平

大岡 昇平の実話に基づいた戦争体験を書いた短編小説。

題名のどおり、まさしく、軍靴の話だ。
日本軍の軍靴は、ゴム底鮫皮の靴だったらしい。

ゴム底は、フィリピン島の草にすべりやすく、鮫皮はよく水を通すという欠点があり、大半の兵士は行軍で靴をすり減らし、満足な靴を持てなかった。


そのため、靴の盗難が頻りに起こったという。
本来であれば、軍が支給すべき“靴”が、兵隊個人の私物となっていたということに、日本軍の乏しい物資補給が浮かび上がってくる。

*水木しげる氏の戦記でも、死んだオーストリア軍兵士の立派な軍靴を盗んでしのいだ話が書かれている。

大岡もひどい靴を履いていたが、マラリヤに罹って死んだ僚友が大事にしていたゴム底鮫皮の予備の靴を、秘かに手に入れる。

その後、熱病にかかった大岡は、靴をテントで包み、横になりながら、彼が靴を盗ったことを非難する兵士のやり取りを聞き、自分の心情を分析する。

そして、あれこれ、自分の心情を探りながらも、
結局靴だけが「事実」である。 こういう脆い靴で兵士に戦うことを強いた国家の弱点だけが「事実」である。
 と結論付けている。

物語は、その後、捕虜として捉えられた大岡が、その靴を所有していたことで、 捕虜仲間から貴族扱いされ、(捕虜の多くは靴を所有していなかった)、鮫皮の靴が、捕虜の病院で、唯一の日本軍の軍備として、重宝されたエピソードが語られている。

病人の履く靴としては、アメリカが支給するサイズが大きすぎる靴より、軽く、ゴム底も柔らかで履きやすかったという。
しかし、大岡には、死んだ僚友の靴であるという重荷があったため、サイズが合う靴が手に入った段階で土に埋めてしまう。

その埋めた靴も掘り起こされ、誰かに盗まれたことを後日知る。
彼は、多くの兵士がいまだサイズが合わない靴を履いている事実を忘れていたことを述べ、こう締めくくっている。
収容所でも戦場と同じく「事実」だけが「正しく且重要であった」のである。
欠乏のあるところ常に 「事実」がある。
最も基本的な装備である靴すら、満足に支給できなかった日本という国家が、兵士に対してそれでも戦うことを強いた「事実」が、大岡の頭からは離れることはなかったのだと思う。

2015年7月26日日曜日

ザ・クリスタルボール /エリヤフ・ゴールドラット

原題“Isn't it Obvious”は、当たり前でしょう? または 見れば分かるでしょう?だろうか。

例によって、問題を抱える業績の振るわない会社が、めざましく改善してゆく物語なのだが、この作品では、ホームテキスタイル(家庭用繊維製品の意味)を取り扱っているチェーン店が舞台だ。

テーブルクロスやカーペット、シーツなどを取り扱う小売業なのだが、日本でいうと、どんな会社なのだろう?(近いのはニトリだろうか?)

その不振のチェーン店で、水道管の破裂事故が発生し、地下倉庫が使えなくなってしまう。

店には、商品在庫が置けなくなってしまったことから、20日分の最小限の商品だけを店に残し、残りは地域倉庫(メーカーからエリア内にあるチェーン店への物流の中間に位置し、商品を保管する倉庫)に預けてしまう。空いた棚には別の商品を並べる。そして、商品が必要になった都度、地域倉庫から小分けに商品を届けてもらう。

そんな通常では行わないような緊急措置対応をしたところ、 エリア10店舗で8位の成績だった店が、いきなり、1位の成績を残す結果になる。

店長のポールは、その偶然から、 売上と在庫のジレンマを解決するクリスタル・ボール(魔法の水晶玉)のようなソリューションを、地域倉庫のマネージャー、仕入担当責任者の妻などの力を借りて見つけ出し、やがて、それを全てのチェーン店に導入することを計画する。

客が欲しい商品を、常に用意・提供し、売れない商品は、極力、在庫として持たない。
いつもながら、エリヤフ・ゴールドラットのロジックは本当なの?と疑ってしまうくらいシンプルだ。

私は、この小説を読んで、アマゾン・ドット・コムとか、巨大な倉庫を有する企業をイメージしました。

日本では、売上・利益率向上のためには、接客サービスの向上とか、高機能な商品の開発とか、人的な努力に力を注ぎそうですが、物流や在庫管理に目を向けているのは、いかにもアメリカらしい。

2015年7月23日木曜日

天鵞絨の夢/谷崎 潤一郎

個人的な感想で言えば、谷崎の作品のなかで、最も耽美的な小説だと思っている。

谷崎は「人魚の嘆き」や「魔術師」といった技巧的な幻想小説を残しているが、これらの作品は、挿絵に使われた水島爾保布(におう)の絵ほど、読者に耽美的な印象を与えていないような気がする。


その原因の一つは、谷崎が徹頭徹尾、明快な文章と思考をもって、物語を書く小説家であったことが影響していると思われる。

確かに、谷崎は、非日常の世界とも思える様々なかたちの性や犯罪、女性崇拝を題材とした小説を描いているが、そこに登場する美しい女性は常に具体的な姿形で表現されており、また、その女性の美に翻弄される男の感情や思考、運命にも曖昧模糊なところがない。

多少誇張されているとはいえ、どっしりと地に足を付けた現実的な人物が谷崎の小説の登場人物であり、 人魚や半羊神といった架空の生物は、彼のスタイルには馴染まなかったのかもしれない。

そこをいくと、この「天鵞絨の夢」(びろうどのゆめ)は、谷崎の現実主義的な作風が、最も耽美的な世界に近づくことのできた小説のように感じる。

物語は、中国 杭州の西湖のほとりに別荘を持つ富豪の温秀卿が、その美しい愛人ととともに、自分たちの「歓楽の道具」として人買いから買った美しい容貌の男女の奴隷の証言で構成されている。

この物語では三人の奴隷の話が取り上げられ、それぞれが関連性をもって、後の話に続くが、やはり、一人目の琅玕(ろうかん=ひすい)洞に閉じ込められた美少年と、その少年に会いにゆく二人目の少女の話が美しい。

琅玕洞は、温秀卿の美しい妾(女王)の阿片部屋として使われていて、少年は、女王が阿片の夢を心地よく見るため、お香の準備などを行う役割の奴隷だ。そして、美しい幻想のために、琅玕洞の天井は透明なガラスで仕切られた池になっている。

 この琅玕洞は、さながら、水族館の透明な水槽のように天井一杯に広がっていて、晴れた日には、美しい魚群のほかに、日の光がさらさらと入ってくる。

少女は、女王が美しい夢をみるために、魚が池の底、すなわち琅玕洞の天井にたくさん現れるよう、池の表面を叩く役割を持った奴隷だったが、ある日、好奇心に負け、池に飛び込み、少年と出会うことになる。

やがて、少年と少女は、ガラス越しに愛し合うようになる。
少年の告白

少女というものが現れてから、女王に対する崇拝の情とは全く異なった甘いなつかしい愛情が湧き上るようになったのです。それは阿片の夢を喜ぶ煙のように果敢ない頼りない心地ではなく、どうかして彼女の体へ抱き着いてやりたいと願うほどにも熱烈な力強い欲望でした。
少女の告白

私はよく、硝子の板へ俯伏しになってわざと唇を大きく明けて動かしながら、
「わたしはあなたを恋して居ります。」
と、そう云って見たりしましたけれども、其の言葉は声にはならずに、真珠のような泡となって数珠の如く繋がりながら、水の中を上の方へ昇って行ってしまうのでした。

阿片と香の煙が漂う閉ざされた琅玕洞のなかで美しい女王は阿片の夢にふけり、その傍で少年と少女は隠れた恋愛を楽しんでいたが、やがて女王が二人の関係に気づき、少女に対して恐ろしい罠をかけることになる。

実に退廃的な世界だが、その映像は想像すると美しい。

2015年7月22日水曜日

或る少年の怯れ/谷崎 潤一郎

「少年」、「小さな王国」、「二人の稚児」そしてこの「或る少年の怯れ」を読むと、谷崎は、いわゆる少年ものを書くのが上手い作家だったのかもしれない。

両親を早くに亡くし、歳が離れた兄 幹蔵に育てられる芳雄は病弱だったが、兄と結婚した義姉に可愛がられる。

しかし、 義姉が流産をした後、芳雄は、偶然、医師である兄が、義姉と共通の友人である女性と浮気をしている現場に立ち会ってしまう。

そこから、 兄と芳雄の間に溝ができるのだが、義姉が二度目の流産の後、病弱になり、兄が打った注射で容体が急変し、突然死んでしまう。

芳雄は、兄の表情にあやしい影を感じ、兄も弟から疑われていることを感じる。
そのうち、芳雄は、義姉の霊を感じるようになり、真夜中、義姉の部屋に行き、三味線を鳴らしたり、兄がかつて浮気していた女性と再婚する際、義姉を思い出して悲しんだりして、ますます、兄との溝が広がってゆくのだが、だんだんと病が重くなる芳雄に注射を打とうとした兄に、「僕は死ぬのはいやですから」と言い放ったことで決定的になる。


おそらくは真実を見抜いていたであろう芳雄は、最後、罪を犯した兄を許し、穏やかに臨終を迎えたと思われる場面で物語は終わる。

歳の離れた兄弟という微妙な関係に少しずつ異和が生じ、病弱な弟の秘めた憎しみに怯え、追い詰められてゆく兄を描いているこの作品も、「小さな王国」同様、子供の恐ろしさを描いている作品と言っていいだろう。

2015年7月21日火曜日

安全保障関連法案に反対する学者の会の抗議声明 plus あれは安倍政権によるクーデターだった/石川教授

ようやく、安倍政権の支持率が下がり出した。

毎日新聞の世論調査で、支持35% 不支持51%

共同通信は、支持37.7% 不支持51.6%

テレビ朝日は、 支持36.1% 不支持47.0%

しかし、憲法違反の法案の強行採決をやりながら、いまだに支持率35%以上を維持していることに驚く。

一方で、ニュースを見ると、安保法案の強行採決に対する批難の声は日に日に大きくなってきている。

今日は、 安全保障関連法案に反対する学者の会が、記者会見を開き、廃案を求める声明を発表した。

 →安全保障関連法案に反対する学者の会からの抗議声明 

常識的な判断力を持っている人であれば、これだけの学者(憲法学者以外の学者もたくさんいる)が自分の考えに反対の意見を述べていれば、まず、謙虚に自分を疑うでしょうね。

しかし、安倍首相をはじめとした安倍政権の人々は、狂信的な使命感からなのか、利害関係からなのか、動機は分かりませんが、すでに自分たちの行動を疑うという理性的な態度は捨て去り、虚仮の一念で、この法案を成立させるつもりなのでしょう。

東京大学の石川教授(憲法学者)は、今回のこの事態――安倍政権が、国民の支持のないまま、法秩序の連続性を破壊する行為を、「クーデター」と呼んでいる。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150718-00010001-videonewsv-pol

この現在進行中の「クーデター」を止めるために、とりあえず、考えられることは、一人でも多くの人が、この法案に反対の意思表示を明確に行い、安倍政権の支持率を30%未満に落とすことでしょうね。

反対の人たちは、何故、今更、こんな当たり前のことを言わなければならないのかという疑念が、日々頭をかすめるでしょうが、我々が戦っている相手は、容易には理屈が通らないです。

安倍政権の力を削ぎ、廃案にするまで言い続けるしかありませんね。

2015年7月20日月曜日

2015年7月13日 宮崎駿監督の外国記者との会見

宮崎駿さんが、外国記者との会見のなかで、安倍首相を非難するメッセージを語っていたのを思い出し、記者会見の様子を改めて動画で見ていたのだが、 質問が、安保法制、70年談話、日本国憲法、国公立大学の人文科学系学部の見直しの動き、先の大戦、中国、アメリカとの関係、原発再稼働の問題、沖縄の基地問題、最近手がけているアニメの話など、多岐に渡っていて、ついつい全部見てしまった。

まず、宮崎さんが沖縄の普天間基地の辺野古移設に反対する運動を支援する「辺野古基金」の共同代表に今年5月に就任した理由について、沖縄復帰前に、沖縄の友人がパスポートと検疫の紙をもって東京に来なければならなかったのを本当に申し訳なく思うと感情を込めて話していたのが印象に残った。

また、沖縄の基地問題について、民主党の鳩山首相が述べていた、米軍基地の県外移設について、
「米軍基地は­日本全体で負担すべきだ」という言葉はまだ生きていると考えていますというコメントも印象的だった。

意外に思ったのは、中国を脅威として見ているか、という質問に対して、

「中国は膨張せざるを得ない内圧を持っています。それをどういう風に時間をかけてかわすか、 というのが日本の最大の課題だと思います」 

と述べたところだ。

実に現実的な目線で中国と日本の関係を捉えている。

現実的と言えば、今の自民党政権についても、「自民党は過半数の支持を得たのではなくて、多くの人間が投票しなかったことによって天下を獲ったんです。ですから、また変わります。永続的なものではないと思います。」とバッサリ切っているところも、その通りですね。

他のコメントでも感じたが、宮崎さんという人は、最近の政治情勢のように右往左往している人たちの目線より、長いスパンで物事を見ている人ですね。

(ちょっと内田樹さんと考えが似ているように感じました)

2015年7月19日日曜日

富美子の足/谷崎 潤一郎

谷崎後期の傑作「蓼食う虫」と晩年の傑作「瘋癲老人日記」の原形のような作品だ。
書生の青年が、遠縁の老人の変わった死を、谷崎に手紙で告白するという構成になっている。

画家を目指す青年が、質屋を営んでいた隠居の老人と、その妾の富美子と知り合った経緯を語る。

この作品は、いかにも隠居の好きそうな、下町趣味の注文に嵌まった、いなせな、意気な女である富美子のなよなよとしてなまめかしい体の線や、顔立ちのこと細かな描写からはじまる。

そして、富美子の美しさに惹かれ頻繁に老人の元を訪れるようになった青年は、老人から、汚れた素足を手拭いで拭いている女の美しい姿を描いた国貞の浮世絵を示され、同じ姿勢で富美子の姿を描いてほしいという注文を受ける。

ここで青年は、富美子の体の最も美しい部位が足であったこと、そして、老人が極度の足フェチであることに気づく。

富美子の足の描写もすごい。歯並びのごとく整然と並んでいる指、真珠の貝を薄く細かに切り刻んでピンセット植え付けたかのような可愛い爪、丸くふっくらとした、つやつやとした踵。象牙のように白くすべすべとした肌の色。

そして、青年自身も、そんな富美子の踵に踏まれる畳になりたいと思う、足フェチであることに気づく。

糖尿病と肺病を患い、寝たきりになってしまう老人は、自分の代わりに青年に犬の真似をさせ、富美子の足にじゃれつかせ、顔を足で踏まれる姿をみることによって、強い快感を味わう。そして、青年も、頼まれもしないような真似を演じ、同じく、幸福を感じる。

壮絶なのは、危篤に陥り、食欲も無くした老人が、唯一、富美子の足の指に挟んだガーゼに染み込ませた牛乳やスープを、貪るがごとく、いつまでも舐る姿だろう。

そして、臨終のとき、富美子の足に顔を踏まれながら老人は歓喜のうちに息を引き取る。

人間の性に対する底なしの欲望と愚かさを描いている点は、谷崎の終生のテーマであったと言えるだろう。

2015年7月18日土曜日

美食倶楽部/谷崎 潤一郎

食欲と性欲。

この人間の三大欲のなかでも、ひときわ始末に負えない欲望を、恥ずかしげもなく追及して止まない男たちの奮闘努力を描いているこの作品を読むと、人間の業の深さと退廃的な雰囲気を十分に味わうことが出来る。

谷崎のバラエティに富んだ初期の作品の中でも、とても好きな作品だ。

物語は、美食と女色を好む美食倶楽部の説明から始まる。

料理は藝術の一種であって、詩よりも音楽よりも、藝術的効果が最も著しいように感じている彼ら会員5名は、いずれも、美食を毎日のように食べているため、でぶでぶに肥え太り、三人までが糖尿病にかかっているが、死ぬまで食べることを止めることはないフォアグラ用のアヒルのような境遇にいた。

暇と金を持て余している彼らは、東京の目ぼしい料理屋はすべて征服してしまい、すっぽんが食べたくなれば京都へ、鯛茶漬けが食べたければ大阪へと遠征を重ねていたが、ついには日本料理も支那料理(中華料理)も食べ飽きてしまう。

そんな美食に飽きてしまった会員たちの中で、最も財力と無駄な時間を持ち合わせているG伯爵が、偶然、支那人たちが極秘裏に開いている宴会を知り、その中に潜入し、様々な形式の支那料理の様子を観察する機会を得る。

そして、そこから、インスピレーションを得たG伯爵は、驚くべき料理を会員たちに振る舞う。

例えば、「火腿白菜」。
まず、真っ暗な部屋に立たされた会員の顔や口元を涎が止まらなくなるほど、女性の手が撫でまわす。 そのうち、女の指が口の中に入るが、不思議と甘い塩気を含んだような味が広がり、やがて、それがハムの味であることに気づく。思わずその指を噛むと、潰された部分の肉は完全な白菜と化す。

「高麗女肉」 も強烈だ。
これは、仙女の装いをした女性が食卓の中央に運び込まれるが、実は天ぷらのころもを纏っており、会員は女肉の外に附いているころもだけを味わう。

物語の最後では、味わうでもなく、食うでもなく、「狂」った美食倶楽部のその後の美食の献立が八つほど紹介されているが、それを漢字四文字で読者に想像させるという仕掛けも面白い。

たとえば、 「咳唾玉液」 と 「紅焼唇肉」 なんかは妖しいイメージが湧いてきますね。

大正8年(1919年)の作品だが、 この頃の谷崎の創作活動は、第一期黄金時代と呼んでも差し支えないかもしれませんね。

2015年7月17日金曜日

7月16日 安保法案の衆議院強行採決と、新国立競技場のデザイン見直し

ニュースによると、安倍首相は今日、新国立競技場の建設計画の見直しを正式表明したそうだ。

数日前の国会審議では、

「もう時間的に見直す余裕はない」

と答弁していたのに、なんでなの?

と思ったら、どうやら、安倍政権は6月に入ってから、すでに新国立競技場の計画見直しを検討していたらしい。

最大の障害は、老害とはこういう人を言うのかと思わせる森 元首相

だったと思われるが、明らかに、この計画見直しを、政権支持率回復の道具として、発表の時期を伺っていたことが感じられる。

大体、今まで、新国立競技場の建設計画に関して、安倍首相は、自分が責任者であるというような発言を何もしてきていない。

誰が責任者か分からないと散々騒いでいたではないか。

それが、ここに来ての、俺の手柄だみたいな見直しの発表。
責任者なら、謝罪の一言もあってしかるべきだが何も無し。

しかも、16日衆議院で安保法案を強行採決した翌日だって。
笑っちゃうぐらい、見え見えなんだけど。

国会で、しらを切って嘘を言うあたりは、さすがに国会審議を軽視している首相という感じだけれど。

計画見直しは、常識的に考えれば、当然のことだ。
それを発表のタイミングをわざと遅らせて、憲法違反の法案の強行採決の尻拭いに使うとは、なんて、姑息な男だろう。

本当に、この安倍という男は信用ならない。

2015年7月16日木曜日

2015年7月16日 衆議院本会議

15日、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案を審議していた平和安全法制特別委員会において審議が打ち切られ、自民党と公明党の与党のみの採決で可決されてしまった。

明日の16日には、衆議院本会議で採決を行い、参議院に送る予定だという。

憲法学者の大多数が、元最高裁判事が、内閣法制局の歴代の長官らが、「違憲」と言っているこの法案を、

国民の大多数が反対の意思を表明しているこの法案を、

今、本当にこのタイミングで国会において承認するんですか?と率直に問いたい。

自民党および公明党の衆議院議員に。

胸に手を当ててよく考えてほしい。

国会議員は、立憲主義に則り、憲法を遵守して政治を行う義務があるのであって、憲法違反の法律を国会で承認することではないはずだ。

政治家の仕事とは、国民の意見をよく聴いて国民のために政治を行うのであって、アメリカのためとか、一総理大臣個人の信念や野望の成就のために政治を行うことではないはずだ。

日本は、すでに、大日本国憲法に定めていた「統帥権」を濫用したことで戦争に突き進んだ過去を持っている。

その苦い経験から、平和主義を掲げる今の日本国憲法を作ったはずである。

GHQ主導だったのかもしれないが、70年間、日本国民は日本国憲法の平和主義の理念を尊び、遵守してきた。
我々がその平和主義を誇りにしてきたのは、日本だけでなく、2回の世界大戦を経験した世界共通の理念だからだ。


つい最近まで何の疑念もたなかった、その憲法の理念を壊し、民主主義の根幹である立憲主義まで否定して、憲法違反の法律を成立させようというのか?

そして、血を流す戦争に突き進もうというのか?

私は、 自民党および公明党の衆議院議員に問いたい。

国会議員として、日本人として、本当に胸を張って、この法案に賛成できますか?と。

明日(すでに今日か)、どれだけ良識を持っていた“造反者”が出るか、そこに期待したい。

2015年7月14日火曜日

「憲法と戦争 - 日本はどこに向かうのか」/内田 樹

内田 樹さんのブログに載っていた「琉球新報」での講演内容に感銘を受けたので紹介したい。

http://blog.tatsuru.com/2015/07/13_1100.php

論点が多岐に及んでいるので、安保法制の問題だけに絞ると、以下の言葉が印象に残った(紙だったらカラーペンを引いている)。

 ・日本の三権分立が事実上、成立しておらず、とりわけ、立法府(国権の最高機関である国会)の威信が落ちている。そして、立法府の威信低下によって相対的に行政府(内閣)の威信がどんどん上がっている。

・重要法案の審議が十分であったかどうか、その指標が「審議時間」だけでしか測れない。
 今の日本人はもう数値化されたものでしかものごとの価値を判断できなくなっている。

・ 「戦争ができる国になって、アメリカのために自衛隊員が死ぬ」ことの代償として、安倍首相はアメリカから「日本が非民主的な国になる許可」を引き出すつもりでいる。
具体的には「東京裁判は間違っていた」と公言する権利、「ポツダム宣言は受け容れ難い」と公言する権利、「日本国憲法はアメリカの押しつけた醜悪な憲法 だ」と公言する権利、「日本国民には民主制も市民的自由も要らない」と公言する権利、それと引き替えなら「自衛隊員を差し出す」つもりでいる。

・ 自民党の改憲草案を読むと分かりますが、ここに描かれている国家像は近代市民革命以前のものです。

・現行憲法では99条に「公務員の憲法尊重擁護義務」が明記されています。「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」とある。自民党草案にはこれがないんです。代わりに国民に憲法尊重義務が課されている。
いずれ法律や条令によって、憲法尊重擁護義務に違背した国民を処罰する気でいる。その権限を確保するために、こんな条文を入れたのです。

・改憲草案の中で一番気になるのは第九章の「緊急事態」です。これは現行憲法には存在しない条文です。そこに仔細に記してあるのは、どういう条件で憲法を停 止できるかです。憲法を停止して、内閣総理大臣が全権を持つための条件を細かく規定している。間違いなく、この憲法草案の中で一番力を入れて書かれた部分がここです。

・よく読むと分かりますけれども、いったん緊急事態を宣言したら、運用上は未来永劫に内閣総理大臣が独裁権を行使し、立法権も司法権も全部停止できるように なっています。その期間は内閣の発令する政令が法律を代行する。完全な独裁体制です。

・これほどひどい草案を掲げて安倍政権は改憲に臨もうとしているわけですけれど、これに対してメディアはほとんど効果的な抵抗を組織できていない。NHKも讀賣、朝日、産経はもう御用新聞、政府広報化している。

2015年7月13日月曜日

柳湯の事件/谷崎 潤一郎

谷崎が大正7年(1918年)に書いた犯罪小説だが、彼の変態的な性癖(触感)が遺憾なく発揮された作品になっている。

物語は、作者が高名な弁護士の事務所を訪れていた際、一人の病的な青年が「今、人殺しをしてきたかもしれません」と告白するところから始まる。

油絵を描くことを職業としている青年には、 血統的に精神病の気があり、糖尿病も患っているが、駆け落ちした元藝者の女の淫奔と多情、我儘に悩まされ、ひどい神経衰弱に罹っている。彼は徐々に気が狂い、女を殺す寸前まで折檻するようになる。

ある日、青年は、立ち寄った銭湯で、不思議な体験をする。それは、湯船の下に、ヌラヌラした流動物の塊のようなものが漂っていることを、足の裏で感じる。そして、それを執拗に確かめていくと、彼が折檻した女の死骸であることに気づく。

汚い銭湯にありがちな風呂場のヌルヌルとした不気味な触感に快感を覚える青年が持つ、蒟蒻、心太、水飴、蛇、蛞蝓、太った女性の体、腐ったバナナ、洟水に対する愛着の念、そして、ヌラヌラとした女の死体の触感を足の裏で感じることに陶然とする青年を、いかにも谷崎らしく描いている。

物語の最後に、青年が犯した本当の犯罪の姿が明らかにされるが、その笑い話のようなオチが、さらに、この物語の毒々しさを増している。

2015年7月12日日曜日

小さな王國/谷崎 潤一郎

この小説では、彼の主題である美しい女性への崇拝という要素がなく、一見、異類な作品にも見えるが、人の愚かさを描いているという点では、谷崎らしい小説とも言えると思う。

子だくさんの貧乏な小学校教師 貝島が受け持つ教室に、沼倉という一見して卑しい顔立ちの貧乏そうな少年が転校してくる。

成績の悪い不良少年かと思いきや、成績も相応で、性格も温順、無口でむっつりと落ち着いた少年で、いつの間にか、クラスでも餓鬼大将的な地位を占めるようになる。

そのうち、貝島が授業中おしゃべりをしている沼倉を注意して立たせようとしたところ、クラスの全員が彼をかばい、懲罰を止めてしまう事件が起きるが、それは後に、沼倉が、自分の部下たちがどれだけ彼に忠実であるかを試験するために故意に起こした事件であるという事が分かる。

この沼倉という少年の描き方が面白い。

戦争ごっこをやらせると、威厳のある大将として少ない兵数でも勝ちを収めてしまう。
太閤秀吉になることを公言し、度量の広い、人なつかしいところがあり、自分の権力を濫用することもなく、逆に弱い者いじめをしている者に厳格な制裁を加える善政も行うため、人望も厚い。
「先生がこう言った」というより、「沼倉さんがこう言った」というほうが、生徒たちの胸には遥かに恐ろしくピリッと響く。

貝島は、この沼倉のクラスに対する統率力を巧妙に利用し、クラスの規律強化を図る。
その効果は目覚ましいものがあったが、その弊害として、沼倉の生徒たちへの管理体制が一段と強化されたことが、そのうち分かる。

生徒一人一人の素行点を着け、遅刻・欠席などを行った生徒に理由を申告させるとともに、嘘がないかを調べるために密偵を用意する。
また、腕力のある者を監督官に任命し、出席簿係り、運動場係り、遊戯係りといった様々な 役人を作り、大統領である沼倉を補佐する副大統領を設け、これらの副官、従卒ができる。裁判官もいる。よい行いをした者には勲章を授ける。やがて、沼倉が印を押した貨幣が流通し、市場が出来る…

そして、物語は、この小さな王国で、金に窮した貝島が、沼倉に貨幣を分けてもらい、自分の子供のミルクを購入するという不気味なシーンで終わる。

この作品で谷崎が提示した子供の王国は、一見すると、大人の社会を戯画化しただけのようにも見えるが、谷崎が何故こんな作品を書こうと思ったのか、その背景を考えると意外と面白いかもしれない。

谷崎は少年時代、「神童」と呼ばれるほどの頭脳の持ち主だった。彼から見れば、学校、特にそこで権威を振るう教師は、時に馬鹿にしたくなったり、首を傾げることも多い存在だったのではないだろうか?

力と智慧がある子どもは、愚かな大人(教師)よりも優れている、と彼が秘かに考えていたとしても不思議ではない。

そして、そんな彼の積年の思いを具現化した世界が、この小説なのかもしれない。

この作品も、大正7年(1918年)の作品だが、この頃の谷崎の小説は、バラエティに富んでいて読んでいて飽きない。

2015年7月11日土曜日

金と銀/谷崎 潤一郎

谷崎が大正7年(1918年)に、二人の画家の微妙な関係を描いた小説であるが、後半から犯罪小説に変化している。

青野は、人を騙し、借りた金を返さず、友人の物は盗み取り、性に関してはマゾヒストという不徳な男であるが、彼が描く絵画には天才がある。

一方、青野の友人である大川は、財産を有し、社会からも受け入れられる篤実な性格の持ち主で、秀才肌の画家であるが、青野の稀有な才能を誰よりも理解しており、彼を助けるパトロンのような役割を演じながら、その実、誰よりも深く彼の才能に嫉妬している。

そういう複雑な関係の二人だが、大川が、偶然、展覧会に出展する作品のモデルとしていた女性を、青野も同じくモデルにして、絵画を制作しようとしていたことを知る。そして、自分の絵と、青野の絵のどちらが優れたものになるかを知るために、女性に金を渡し、青野の絵のモデルになることを依頼する。

二人は絵画の制作を進めるが、大川は青野が描く作品の出来がどうなっているのかが気になり、ついに我慢できなくなって、青野に絵を見せてくれるよう懇願する。青野は金と引き換えに絵を見せるが、その藝術は大川の絵とは比較にならないほど優れていた。

絶望に突き落とされた大川は、ついに青野を殺す決意を持つ。

ここからは、 大川がいかに逮捕されることなく犯罪を犯すかということが描かれていて、文中、シャーロック・ホームズの「緋色の研究」に出てくる、ホームズが語る探偵の資格に必要な三要素(観察、智識、帰納法)も引用されている。

大川の殺人方法は、それ程、特異なものではないが、襲撃される青野の混乱した様子や、物語の結末は、やはり上手いと思う。

しかし、人物の描き方や二人の関係、物語の展開は、あまりにも映画「アマデウス」 のモーツアルトとサリエリの関係に、似ているような気がする。

年代的にいって、「金と銀の」方が先に作られているので、実は「アマデウス」 のネタ本だったと言われても、私は驚かない。

2015年7月8日水曜日

白晝鬼語/谷崎 潤一郎

作中、ポーの「黄金虫」や、ホームズとワトソンといった名前が出てきたりするので、明らかに、谷崎がこれらの作品の影響を受けて書いた推理小説ということが分かる。

ちなみに、この「白晝鬼語」は、1918年(大正7年)に発表されている。

江戸川乱歩が、最初の作品を書いたのが、1923年(大正12年)なので、日本の推理小説の黎明期に書かれた作品と言って間違いないだろう。

とはいえ、谷崎が書いているので、クオリティは高い。

日本の推理小説にありがちな、怪奇な要素とか、田舎や旧家の奇習とか、ごたごたした人物描写がなく、頭にすっと人物の様子とあらすじが入ってくる。なにより文章が読みやすい。

本当のところ、谷崎は、探偵小説を書きたかったのかもしれないが、まだ「探偵」という仕事じたい、当時の日本では認知されていなかったのかもしれない。

本書では、ホームズ役に、金持ちで暇を持てあまし、一人暮らしをしている精神病の気味がある男 園村を、ワトソン役に、園村の友人で常識的かつ若干臆病な作家 私が配置されている。

物語は、ある日、園村が、「今夜、東京の或る町で人殺しが行われる」と、私に連絡をしてくるところから始まる。

園村は、映画を観た際に、ある美しい女が男と交わしていた秘密の暗号文を拾い、ポーの「黄金虫」の知識で読み解き、その情報を入手する。その解読文は以下のとおりだ。

in the night of the death of Buddha, at the time of the Death of Diana, there is a scale in the north of Neptune, where it be committed by our hands.

仏陀の死する夜、ディアナの死する時、ネプチューンの北に一片の鱗あり、彼処に於いて其れは我々の手によって行われざるべからず。

ここから言ってしまうと、ネタバレになってしまうので止めておくが、日本の暦、東京の地名をうまく使っていたりして、推理小説としての創意工夫も感じられる。

しかし、いかにも谷崎らしいと感じるのは、コナン・ドイルが、ホームズが死を賭してモリアーティ教授と対決する物語を書いたのに対し、この物語では、園村が命の危険を感じながらも恐ろしい犯罪者である美女に魅了され、不用意に近づいていってしまうという愚かさを描いているところだろう。

そのせいで、日本における推理小説の先駆けのようなこの作品が、いきなり、反・推理小説のような様相を呈することになる。

谷崎にとっは、冷徹な推理のロジックより、美しい女性が犯す恐ろしい犯罪のスリルのほうが、よほど魅力的だったに違いない。

2015年7月7日火曜日

評価と贈与の経済学/内田樹 岡田斗氏夫

大江健三郎の「人生の親戚」で描かれていた、ゆるやかな他人との関係。

それを想っていたら、この本に書かれていたネットカフェの話を思い出した。

内田樹さんが、ネットカフェ難民の取材を受けたときに、「ここで一か月以上寝泊まりしている人がほかに30人います」という記事を読んで驚いたという。
なんであと3人に声かけて、「ねえ、一緒に部屋借りない?」って言えないんだろう。ネットカフェの利用料ってそのときで一日1500円なんだ。畳一枚ぐらいのスペースに月45000円払ってるわけですよ。ルームシェアする仲間をあと3人見つけて、4人で暮らせば、18万円でしょ。都内だって10万円もあれば、風呂付の部屋が借りられるよ。
そこに2段ベッドを2つ入れて4人で寝たほうが絶対いいですよね。
そうすれば住民票も手に入るし、病気になっても「薬買って来て」とか頼めるし、「面接あるからスーツ貸して」とかありなわけでしょ。
最初、読んだとき、あまりの正論に確かに!とは思ったものの、私には、こういう発想が出来なかった。

そんな私のような人間を含め、何の疑いもなくネットカフェに住み続けている人たちを、内田さんは、こんなふうに述べている。
 「他人に迷惑をかけたくない、他人に迷惑をかけられたくない、だからネットカフェでひとりで暮らす」というのが彼らにとっては「正解」なんだよね。どれほど生活上の不自由さに耐えても、「自己決定しているオレ」は正しい生き方をしていると思っているんだよ。これって、もろに1990年代以降の「自己決定・自己責任」イデオロギーの帰結だよ。発想そのものを切り替えないと。
まるで自分の心の中を言い当てられたような気がして、正直ドキッとしましたが、家族以外の他人を利用する相互扶助の生き方は、もっと必要になってくるだろうし、これからは当たり前のことになるんでしょうね。おそらく。

※この本、他にも、なるほどと気づかせてくれることが書いてあり、お薦めです。


2015年7月6日月曜日

人生の親戚 大江健三郎 /日本文学全集 22

正直、これほど、面白い作品とは思わなかった。

この物語で語られている「まり恵さん」の人生に圧倒された。

何より、大江健三郎の小説で、これだけ魅力的な中年女性を描いているということにショックを受けたのかもしれない。(はじめ、お婆さんの話だと思いこんでいた)

この小説は、主人公が知り合ったまり恵さんの半生をその死まで描いているのだが、彼女には、様々な苦難や過酷な試練が襲いかかる(それは本当に死ぬ間際まで続く)。

しかし、精神的にも肉体的にも打ちのめされながら、彼女はあっけらかんとした明るさと気丈さを失わない。

そして、まり恵さんが性的にも魅力的に描かれていて、セックスのエピソードが始終絶えないというところ(そこにはもっと深い意味があるのかもしれない)にも意外な印象を覚える。

「説教 性欲の処理」で述べられている女性の性欲についての、あまりにあっけらかんとした、まり恵さんの言葉が、かえってすがすがしい。

それと、もっと驚くのは、この小説が書かれたのが1989年ということだ。

この物語では、まり恵さんが様々に関わり合う他人との緩やかなつながり(コミュニティ)が描かれており、この小説のタイトルにもなっている「人生の親戚」は、それを暗示させるものになっている。

まり恵さんの生き方は、家族という枠組みを超えて、人々がこれからどう暮らしていけばよいのかということについて、ひとつのモデルケースを提示しているようにも読める。

そういう意味で、今読んでも、全く違和感がない。
(唯一あるとすれば、「まり恵さん」の強さだろうか。こんな強い女性が果たして現代にいるのだろうか。)

池澤夏樹が2000年を過ぎて書きはじめたテーマを、バブルがはじける前にすでに書いていたことを思うと、大江健三郎の視野は相当に遠いところを見定めているのかもしれない。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309728926/

2015年7月5日日曜日

狩猟で暮らしたわれらの先祖 大江健三郎 /日本文学全集 22

読み終わった後に、ざらっとした感触が残る物語だ。

そのざらっとした感触は、池澤夏樹が、この日本文学全集に多く取り上げている作品に共通している日本の前近代の匂いだ。

この物語では、「山の人」がその象徴だ。
ある日、突然、中流家庭が住む住宅街に、「山の人」の家族が現れる。

「山の人」たちは、四国の山奥で狩りをして暮らしていたが、戦時中、 脱走兵が森林地帯に逃げ込んだ際、国家意識が希薄な彼等が脱走兵を匿うことを予防するために、二十世帯の全家族が強制的に国民学校の校庭でのテント生活を強制される。

しかし、事件が解決した後、山林地主が結束して彼らの追い出しを図り、「山の人」たちは、森に戻れなくなり、日本中を流浪することになる。

主人公には、かつて校庭でテント生活をしていた「山の人」を嘲弄した記憶が残っており、精神病を患っている彼は、最初、自分に会いに彼らがこの街に来たのではないかと怯えるが、幼女を犬に噛まれたことを口実に所有者の土地に住みだした「山の人」たちと徐々に接触を交わしてゆく。

犬を食べたり、当たり屋のような事故を起こして指を失った暴力的な若者がいたり、もぐりの酒屋と売春宿を営んだり、深い竪穴を掘ったり。

そんな奇行を繰り返す 「山の人」たちに、主人公は惹かれ、やがては、トラブルを起こした街の人々から彼らを守るような立場まで引き受けるが、その関係も断絶するような事件が起きる…

真夜中、主人公が、「山の人」の長と焚火にあたりながら、ウイスキーを飲み、遠い昔に行われていた狩りの話をしながら、精神的な安定感を得る場面が印象に残った。

主人公が「山の人」に対して感じる憧れと安定感は、私には理解できる。
それは、「山の人」に象徴される前近代がかつてあったのに、そこから遠く離れ、決して戻ることはないことを私が感じているからだと思う。

2015年7月3日金曜日

人面疽 / 谷崎潤一郎

谷崎は、大正時代、娯楽小説と言ってもいいくらい、面白い小説をたくさん残している。その中には、探偵小説や怪奇小説も含まれていて、この「人面疽(じんめんそ)」もその一つだ。

物語は、アメリカ帰りの映画女優 歌川百合絵が、自分が主人公として出演しているという、ある不思議な映画が東京の場末の映画館で放映されているという噂を聞くところから始まる。

その映画は、日本語で「執念」、英語では「人間の顔を持った腫物(できもの)」 という題名で、百合絵が演じる菖蒲太夫という華魁が、彼女に恋い焦がれる乞食の青年を騙し死に追いやった後、膝頭に腫物ができて、そのうち人の顔のような形になり、やがて乞食の顔を生き写した「人面疽」になるという不気味な物語だ。この「人面疽」は、卑しく泣いたり、下卑に笑ったり、喜怒哀楽の表情をリアルに浮かべながら、彼女の運命を迫害してゆく。

菖蒲太夫は、この「人面疽」の存在を隠し通すが、ついに、夜会で彼女が踊っている満座の中、「人面疽」がガーゼを食い破り、長い舌を出し、目から鼻から血を流しながらゲラゲラと笑っている姿を暴露してしまう。
絶望した彼女はナイフを胸に突き刺し、死に至るが、「人面疽」は、なおも生きているらしく、笑い続ける場面で映画は終わる。

しかし、不思議なことに、百合絵には、この映画に出演したという記憶が全くない。彼女は、映画会社の外国映画に詳しい社員に、この映画について尋ねるが、その社員から、乞食役の男優が何者なのか全く分からないという話と、ある気味の悪い噂を聞く。
それは、この映画を夜遅く一人きりで見ていると恐ろしい出来事が起きるという噂だった…

というのが、「人面疽」の大体のあらすじである。

映像に怪奇が写っているという、我々にもなじみのあるホラー映画のあらすじのようでもあるが、この時代、すでに谷崎が発案していたことにまず驚く。

そして、谷崎の巧みなところは、読者に対し、映画業界特有の事情をもっともらしく説明し、百合絵が知らない間に、このような映画が作られてしまう可能性や、「人面疽」が特撮技術を用いて撮影された可能性もないことはないと思わせるところだ。

この物語を常識的に解釈する基準線を一本書いたことで、読者は、逆にその線の中にはおさまらない現象があることを認めざるを得ないことになり、恐怖を感じる。

谷崎は、「亡友」などでも取り上げていたが、人の肉体の醜い部分、例えば、下から見上げる鼻の穴だったり、腫物の存在を、嫌々そうで、その実、熱心に観察していた。

特に、赤い膿のような腫物は人の欲望が鬱積した現象であるかのように。
その谷崎特有の即物的な感覚と怪奇趣味が結びついたことで、 この傑作が出来上がったのだと思う。

2015年7月1日水曜日

「新聞つぶせ」発言にも「言論の自由」の恩恵はあるのか?

自民党議員の勉強会で、安倍首相と仲がいい百田尚樹氏が、沖縄二紙の新聞をつぶせと発言をし、世間から非難を浴びていることについて、

現 大阪府知事の松井一郎氏(維新の党顧問)が、「百田さんにも表現と言論の自由はある」と擁護し、さらに「ここぞとばかりに復讐だな。朝日(新聞)と毎日(新聞)は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか。」と発言していたことが気になっていた。

http://www.asahi.com/articles/ASH6V728TH6VPTIL02K.html

気になっていたというのは、表現(報道)の自由を否定するような人間の発言も、表現の自由の恩恵を受けることが可能なのか?という漠然とした疑問だった。

第一、そんなことを言ってしまったら、権利侵害の発言は、ちっとも止まず、ますます、社会に害を及ぼすではないか?

この松井氏の発言に、知識人から真っ当な反論があったのかどうかしらないが、今日、たまたま、読んだ、内田樹さんのブログの内容は、これに対する有効な反論だと思うので紹介したい。

http://blog.tatsuru.com/2015/07/01_1542.php 
今問題になっているのは、「国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう」という「国民の叡智」に対する信認の存否である。
いくつかの新聞を挙げて「つぶれた方がいい」と言った人間はその新聞の読者たちに向かって「おまえたちは新聞に騙されているから、間違った判断を下すだろう」と言っているのである。
「私が代わりに判断してやるから、お前たちは私が『読んでもよい』というものだけ読んでいればいい」と言っているのである。
この考えに深く同感。勉強会に出席した自民党議員の発言にも、上記のような驕りを感じる。

ちなみに、報道機関を「懲らしめる気はある」 と再び発言した大西議員に至っては、記者団とのやり取りの内容を読んだが、支離滅裂すぎて何を言っているのかが理解できない。

http://www.asahi.com/articles/ASH6Z5QFGH6ZUTFK00R.html

伝わってくるのは、「自分は悪くない! マスコミが悪い!!」ということだけである。

しかし、安倍首相と仲が良かったり、彼を熱心に応援する人って、なんで、こんな人たちばかりなんでしょうね?

安保ひとつとっても、作家で言えば、反対派には、大江健三郎さんや、瀬戸内寂聴さんなどの錚々たる顔ぶれが居て、賛成派は今回の百田氏ぐらいでしょう。


作品の品質だけでも格段の差があるのに、人間的な品格も雪と墨ほどの違いがある。

やっぱり、「類は友を呼ぶ」なんだろうか。

2015年6月30日火曜日

女人神聖/谷崎 潤一郎

谷崎 潤一郎の初期の小説の中でも、この「女人神聖」は、とても好きな作品だ。

相場師の父と無学で贅沢好きの母の間に産まれた、由太郎と光子の兄妹。
ともに美貌にめぐまれ、母親に甘やかされて育つが、由太郎は歳と共に少しずつ女らしい美しさを失ってゆく自分に焦りを感じている。

父の急死を機に、二人の兄妹は伯父の家に引き取られるが、男として冷遇される由太郎に対し、引き続き欲しいままの贅沢を与えられ、美しさを増してゆく光子。二人の運命は大きく変わってゆく。

なんといっても、この物語の面白さは、性格の悪い美少年  由太郎が、これまた性格の悪い美少女の妹に負けじと、自分に歓心を持った人間を、その魅力で落とし、好きなことをし放題するのだが、それに見合った罰を受ける過程にあるのだと思う。

また、谷崎にはめずらしく男同士の同性愛を描いている部分もあるのだが、谷崎の美的感覚からすると、やはり、男同士の恋愛は美しくないものと考えていたようだ。

由太郎は、自分に恋する年長の秀才の男子学生 濱村との恋愛を、もう一方で自分を恋する藝者の巴と比較して、こんな風に述べる。
 由太郎は濱村と交際して居た時分、いかに親密を装うても、いかに愛情を注ぎ合っても、始終其処に物足りない、不自然な蟠りがある事を感ぜずには居られなかった。濱村も自分も、絶えずお互いに感情を誇張し、芝居をして居る心持ちを、拭い去る事が出来なかった。二人の関係は美しいようで、その実醜い、拙いものである事を、忘れる譯に行かなかった。
そう述懐した由太郎は、藝者の巴を食い物にして、金をむしり取る一方、従兄と仲良くなった妹に対抗するため、伯父の資産に目をつけ、従姉の雪子に狙いを定めて毒牙にかけるが、やがて、雪子にも、巴にも愛想をつかされてしまう。

由太郎は、光子の策略もあり、被害にあった女性たちからの手ひどいしっぺ返しを受け、「宿無し犬」としてどこかに遁走してしまう一方、光子はめでたく従兄と結婚し、「才色双絶の年若き貴婦人」として都下に響き渡る。

男に宿る美貌は、その男を不幸にし、ろくな結果を生まないが、女の美貌は、その女を幸せにして、社会において神聖化される。

そんな極端な図式が分かりやすいのも、この小説の面白いところかもしれない。

2015年6月29日月曜日

鳥 大江健三郎 /日本文学全集 22

大江健三郎が二十三歳の時に書いた短編小説。
 
二十歳の誕生日から部屋に引きこもり、鳥たちと暮らす青年。
ある日、母親の紹介で心理学をやっていると称する男が青年の部屋を訪れところから物語は始まる。

はじめ、狂人だと思われた青年がこの物語の中で実は一番まともだったのではないかと思わせるような結末になっている。

読んだ直後は、たいした小説ではないかなと思っていたが、≪鳥たち≫とは何を象徴しているのか、青年の変わりようなどの理由を色々想像してみると、だんだんとこの小説が面白くなってきた。


作者の若い時の作品だけあって、とても勢いが感じられるところも面白い。

2015年6月28日日曜日

2015年6月27日 戦争法案に反対する ハチ公前アピール街宣 by SEALDs

SEALDs (シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)が主催した「戦争法案に反対する ハチ公前アピール街宣」に参加してきた。

報道ステーション等で取り上げられていたが、安倍政権が進める安保法案を阻止しようと活動している日本の学生たちの団体だ。

http://www.sealds.com/

夕方の4時から、ハチ公前で行われた街宣は、109などの大型ビジョンからの映像と音が暴力的に響く中でも、学生たちのこの安保法案に対する危機感と廃案にしなければならないという決意が十分に伝わってきた。

彼らは、自分の名前を公表したうえで、自分たちの等身大の言葉で、正々堂々と安倍政権を批判しているのだ。

その勇気と行動には、本当に頭が下がる。

BGMやラップ、シンプルなプラカードといった学生らしい手法にも好感が持てた。



2015年6月27日土曜日

自民党の憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」

安倍政権は、早く、安保法案を撤回した方がよい。

憲法学者の違憲発言で劣勢になってしまった状況を、なんとか立て直そうと、自民党の憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」は、知恵を出し合おうとしたのかもしれないが、偏向した考えしか受け付けない人々が議論をすれば、なおさら事態が悪化することは目に見えている。
出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」との声が上がった。
 http://www.nikkansports.com/general/news/1497679.html 

という、憲法第21条に規定されている「表現の自由」を侵害するような発言は、先日、NHK、テレ朝を呼びつけた自民党の情報通信戦略調査会といい、自民党の体質になってきているような気配を感じる。さらに言えば、経団連を使って圧力をかけるという品性を疑うような発言が、内輪とはいえ、安倍政権のお膝もとで行われている事実に愕然とする。

おそらく、安保法制について、どうすれば、国民の理解を得られるかということが、会議の目的だったと思われるが、建設的な方向には話が進まず、溜まったストレスの発散の場になってしまったのだろうが、権力にいる立場の人間の注意義務としてはお粗末すぎる。

自民党総裁の安倍首相は、自分の肝入りの法案で、どれだけ部下が税金を使って馬鹿な会議をやっているかを、ちゃんと確認したほうが良い。

おまけに、呼んだゲストも悪かった。
安倍首相と仲が良い作家の百田尚樹氏。
ある意味、期待通りだったのかもしれないが、「沖縄の2つの新聞(琉球新報と沖縄タイムス)はつぶさないといけない」とか、「普天間基地近くに居住した人は金目当て」といった、これまた、無茶苦茶な発言があったらしい。

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/043b46d087dea3d928f036c9dbb3b2c2


百田氏発言をめぐる琉球新報・沖縄タイムス共同抗議声明
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244851-storytopic-1.html

こんな変な会議に、自民党の若手議員や安倍首相と仲が良い作家が出席し、おかしな発言をして世間を賑わしているのは、安倍政権や自民党にとってもマイナスだろう

そんな事に時間をつぶすなら、法案を早々に撤回し、自民党全体で、立憲主義とは何か、基本的人権とは何か、国会議員の憲法尊重擁護義務とは何かについて、せっかく縁ができた長谷川教授を呼んで、一から日本国憲法を学び直した方がよい。(長谷川教授を参考人招致したことは、安保法案に関して、今国会の自民党が唯一行ったGood Pointだと思う)

また、日本の敗戦からの沖縄の歴史と基地問題の現実を学び直し、県民がどういう思いを日本政府に対して持っているかも、沖縄の人々の声を直に聞いてみるのがよい。

2015年6月25日木曜日

BSフジ プライムニュース  「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理

2015/7/20 石川教授の動画「あれは安倍政権によるクーデターだった」を追加
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あの日、日本でクーデターが起きていた。そんなことを言われても、ほとんどの人が「何­をバカな」と取り合わないかもしれない。しかし、残念ながら紛れもなくあれはクーデタ­ーだった。そして、それは現在も進行中である。


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以下、元の記事

今日、プライムニュースで特集していた 「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理が、とても面白かった。

http://www.bsfuji.tv/primenews/

就中、参加していた東京大学の石川教授(憲法学者)の説明が面白かった。

石川教授は、今の安保法制を、「ホトトギスの卵」と評していて、
(ホトトギスは、ウグイスの巣に卵を産み付け、ウグイスは、ホトトギスの卵とは知らずに育てるが、やがて、孵ったホトトギスの雛は早く大きく育ち、ウグイスの卵や雛を巣から蹴落とす)
政府は、昨年5月に閣議決定した安保法制を、いかにも現行憲法で認められた範囲の個別的自衛権(ウグイス)と実質的に変わらないものとして、国民に説明してきたが、今年6月4日の憲法審査会の憲法学者の違憲見解を機に、本当は、集団的自衛権(ホトトギス)であることがばれてしまって、にっちもさっちもいかない状況になってしまったのが現状だと説明していた。

実にたくみな比喩だと思う。

国内向けには、ウグイスと説明して、アメリカには、ホトトギスと説明している(アメリカ議会上下両院での安倍首相の演説、日米防衛協力指針ガイドラインの改定)という指摘も、いちいち納得がいく。

また、政府が、砂川判決を、集団的自衛権が認められる根拠として主張しているが、何が争点となっていた事件なのか、その文脈を無視して、判決文のテキストの都合のよい部分だけを拾い上げるのは、全くのナンセンスだということも説明していた。

石川教授は、政府側も、この砂川判決に根拠を求めることに無理があることは分かっているが、憲法学者の違憲見解が出てしまったために、そこまで無理をしないと、依って立つ根拠がない状況になっているのだろうとコメントしていたが、おそらく、それが事実なのだろう。

さらに、この砂川判決の有名な法理論である統治行為論「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という基準に照らすと、今の安保法制は、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められ」る可能性が非常に高い法案だという事も述べていた。

最後のほうで、石川教授は、憲法学者が安全保障環境の変化の脅威には全く意識を払っていないという批判に対し、目先の脅威に対応するために、国民の自由(憲法によって政府の権力から国民の基本的人権を守る)を犠牲にして、政府が暴走するというリスクもあるので、安全保障という観点とは異なるが、自由を守る(ルール〈憲法〉を守ることによって保障される)ことに意識を払うのは当然であると主張していたのも非常に納得がいく説明だった。

石川教授も言っていたが、実態がホトトギスである以上、ホトトギスとして育てることができるように、憲法改正を行うのが、やはり、適正な手続きなのだ。

国会は、過去最長となる95日間の大幅な会期延長を決議してしまったようだが、この安保法制だけに関して言えば、入口から間違えてしまったのだから、一度、撤回してしまったほうがよい。

安倍さんのアメリカに対するメンツはつぶれてしまうのかもしれないが、国民の自由を守ることの重要度とは比べものにならない。

2015年6月23日火曜日

亡友/谷崎 潤一郎

高い品性と道徳感を持ちながら、同時に抑制しがたい程の情欲を併せ持ったら、人間はどうなるか?
それが、この小説のテーマだと思う。

そのテーマとなった男が、作者の友人である大隅君なのだが、風貌は男っぽいのに、

「ややともすれば少しく淫靡にさえ聞こえるくらいの、甲(かん)の高い艶麗な聲でよくからからと笑いながら物を云う癖があった。若しも彼の容貌が、彼の一生を貫いた道徳の象徴であるとしたら、彼の聲は正しく彼の他の一方面、即ち情欲の象徴であったかも知れない」

と描写し、彼の中に二つの相反する性質が同居していたことを暗示している。

この大隅君が、作者の誘導に応じて語った女性経験が生々しい。

七歳の時に、子守の娘の性的玩具になり、十三、四歳で女中と初体験をし、中学二年(今の十七歳ぐらいか)で、二人目の女中と経験する。


作者(谷崎)と異なり、発表した詩が文学雑誌に取り上げられ、女性からもラブレターが来るという、藝術においても恋愛においても勝者であった大隅君だったが、一面では神の存在を欲して宗教の道を望み、一面では娯楽的な要素が不可欠な芸術の道にも惹かれ、どちらの道を選ぶのかで苦悶していた。

彼の二面性は、クリスチャンとして教会に行く傍ら、遊郭にも足を向けてしまうということからも分かるが、その二面性により、大隅君が、結婚前日に、かつて、彼のほうから別れた女性と肉体的な関係を結んでしまう事件が起こってしまう。

この事件は、作者の協力で事なきを経て、無事結婚することができたが、結婚したことがさらに大隅君の寿命を縮めることになる。

死因が丹毒もしくは面疔(化膿)と、性病をイメージするようなものになっており、作者は、抑制しきれない性欲と、その罪悪感に神経を病んだことが死の本当の原因ではないかと推測している。

この小説に描かれている大隅君は架空の人物であろうが、モデルは他でもない谷崎自身ではなかったのでないかと私は思う。

谷崎は、少年期に宗教と哲学への高い関心を持ち、聖人となるべく志を持っていたが、女性の美への強い憧れと欲望のために、次第にその軸足を詩や小説といった藝術のほうに変えている。

もし、自分が、違った運命をたどり、青年期に、強い宗教への志を維持し続けると同時に、それと同じくらいの強さの性欲に刺激され続けたなら、どうなるか、という一種の実験的なケースを想定して書いた小説ではないだろうか。

2015年6月22日月曜日

鬼の面/谷崎 潤一郎

谷崎の自伝的小説3部作の中で、中間に位置する本作は、彼の第一高等学校(今でいう大学)時代の作品だ。

彼(本作では壺井耕作)が進学のために家庭教師として住み込んでいる設定と、その住み込み先の津村家の家族の構成は、前作に当たる「神童」とほぼ近い。

物語は、 壺井が、津村家の女主人の命令で、鎌倉の別荘に滞在している子供たちの監視のために、性格の悪い女中のお玉と汽車で向かうところから始まる。

壺井と歳の近い兄の荘之助と妹の藍子は、荘之助は前作のいじめられていた玄一とはイメージが変わり、女中のお玉や壺井にも嫌がらせができる存在になっており、藍子は前作の鈴子が美しく成長した存在になっているが、両者とも性格は悪い。

壺井は、親に隠れて恋愛をしている兄妹の行動を影から監視し、女中のお玉に告げ口するという、どうしようもない役割を担っている。

女性の美しい肉体への憧れと、勉学にいそしみ過ぎて醜くなってしまった自己の容姿への幻滅が、壺井の心を波立たせ、 勉学にはほとんど身が入らない。

この鎌倉生活の中で、兄妹が、自分たちの手紙を検閲する女中のお玉への意趣返しに、夜中、彼女が寝ている時に、その寝顔にいたずら書きをするという事件を、壺井が目撃し、その行状に激しい情欲を覚えるエピソードは、いかにも谷崎らしい。

そして、藍子の恋愛を見ているうちに、壺井に漠然とした恋愛への憧れが生じ、自分が堕落してしまったのは恋愛をしていないことが原因だと思うようになったのは、ある意味自然な成り行きかもしれない。

壺井は、津村家に奉公に来ていた女中を、自らの恋愛の対象に選び、恋文を出し、そのやり取りが津村家の主人に露見し、家を追い出されてしまう。(学費の補助も打ち切られた)

この事件は谷崎に実際に起きた事件であるから、壺井のその恋愛に対する自己検証が興味深い。

相手の女中は、愛嬌のある善良な性格で、壺井はそこに惹かれたらしいが、貧書生の自分に相応の相手として選んだという側面が強く感じられる。彼の女性の好みから言えば、性格が悪くても美しい藍子のほうだったのかもしれない。

いわば、恋愛に憧れ、無理に恋愛を演じている男という雰囲気が強く感じられる。相手の女中も、結婚の約束を口にしながらも、現実味のない壺井を、ついには拒絶してしまう。

失恋し、学費の支払いにも窮し、新たな職も見つけられない壺井は、さらに堕落してゆく。

偶然出会った金持ちの息子の友人から学費と称してお金を騙し取り、遊興にふけっているらしい壺井を、両親が半ば諦め、かつての恩師や旧友がその堕落を気の毒がる場面で、この物語は終わるが、この状況は、そのまま次の「異端者の悲しみ」に引き継がれていく。

この作品は、「神童」、「異端者の悲しみ」と比べると若干、質は落ちるかのしれないが、谷崎が作家として身を固める前章にあった堕落と彷徨を描いている点で、谷崎作品の中で貴重な位置を占めていると言って間違いないと思う。

2015年6月21日日曜日

神童/谷崎 潤一郎

谷崎の自伝的小説として、「神童」 、「鬼の面」、「異端者の悲しみ」の3部作がある。

 「神童」は、谷崎の小学校から中学(今の中高一貫校)までの時代を描いていているのだが、とても面白い興味深い小説だ。

第一に、題名にもあるが、谷崎(この物語では瀬川春之助)の「神童」ぶりがすごい。

学期試験が毎回首席というのはもちろんだが、小学4年の時の作文の時間に、五言絶句の漢詩を作り、教師を驚かせ、高等2年(今の小学校5、6年生)の頃には、四書五経を読み、儒教の感化を受け、仏教の教本まで手を伸ばし、寺に仏書を借りに行く。
さらに英訳のプラトン全集を古本屋で購入して熟読し、ドイツ語も独学で学び、ショーペンハウエルまで手を伸ばす。

その知力にも驚くが、谷崎が少年時代、実は哲学に傾倒していたというのも意外な感がある。(学校では「聖人」というあだ名だった)

第二に、 彼が中学進学の学資を得るため、家庭教師として住み込んだ木綿問屋の人々が面白い。

木綿問屋の主人の後妻的立場にある藝者あがりの美しいお町、その娘のこれも美貌の鈴子、家庭内で権力を持つお町に追従する女中のお久とお新、そして、先妻の子供のせいか、お町や女中から迫害を受けている落ちこぼれの玄一と、唯一実直な女中のお辰。

贅沢と物欲、陰険な人間関係に溢れた家の中で、その悪徳を認識しながらも、その悪の魅力に共感し、手下のように追従し、哀れな玄一を迫害するような行為をする自分の心持ちを、客観的に(どちらかというと偽悪的に)描いているところが、いかにも谷崎らしい。

第三に、年頃になって、性に目覚めつつある自分の体と心を、ほとんど隠そうともせず、実に明け透けに描いているところもすごい。顔中に出来てしまったニキビや、女性の美に対する憧れ、自慰の習慣。
そして、そのせいか、彼が築きあげてきた知力や聖人となることの意志にかげりが見えはじめる。

第四に、そんな自己の変容ぶりを、実にポジティブに転化させている結末だ。
「恐らく己は霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌うために生まれて来た男に違いない」
そう自己分析し、詩と藝術に没頭することを決意する自分を讃美しているようにも見える。

谷崎がいかに自分の天才を疑わず、自信家であったかがくっきりと表れている。

谷崎の初期の作品のなかでも、ひときわ、谷崎らしい小説と言ってもいいかもしれない。

2015年6月20日土曜日

おとなのけんか/ロマン・ポランスキー

原題:Carnageは、大虐殺、修羅場の意味。

映画は、冒頭、公園で遊ぶ子供たちが険悪な雰囲気になり、一人の男の子が枝で別の男の子を殴るシーンが遠景で映し出される場面からはじまる。

そして、殴られた方の男の子は前歯が2本折れてしまい、その和解のために、2組の夫婦が、和解文書を作るシーンに切り替わる。
 
殴った方の男の子の夫婦は、始終、仕事の電話ばかりしている弁護士の夫(クリストフ・ヴァルツ)と、 投資ブローカーのきれいな妻(ケイト・ウィンスレット)、殴られた方の男の子の夫婦は、金物屋を営む温厚そうな夫(ジョン・C・ライリー)と、アフリカの紛争について本を出している作家らしい妻(ジョディ・フォスター)。

この4人が最初は温厚に互いの息子たちについて話し合うのだが、徐々に雰囲気が悪くなってくる。
そして、緊張に耐えきれなくなったケイト・ウィンスレットに起きたハプニングをきっかけに、4人は、うわべだけの礼儀を捨て、酒の力も借りて本音で話しはじめ、相手方だけでなく、自分の夫・妻に対しても悪態をつきはじめる。

物語は密室劇で、4人の関係が悪化し、言動が段々とエスカレーションしていく様子を、多少コミカルに描いている。


私が一番面白かったのは、 ケイト・ウィンスレットが気持ち悪くなってしまったところに、ジョディ・フォスターが、何故か、ぬるいコーラを飲ませたことだ。
吐き気にコーラ?と思って、調べたら、なんと、本当にそういう対処療法があるらしい。
http://d.hatena.ne.jp/yasagray12/20120915/1347686953

2015年6月19日金曜日

お艶殺し/谷崎 潤一郎

谷崎の小説に出てくる女性は、堅気の女性も含め、ほとんどが玄人っぽい雰囲気を持っている。

それは、谷崎の好みが、男を怖がらず、対等以上に振る舞う気の強い女性に偏っていたからかもしれないが、そのせいか、皆、すれっからしの藝者のような言葉を使う。

これは、まだ、明治・大正・昭和初期という時代では、実際、男と対等以上に張り合うことができたのは、水商売の玄人しかいなかったからかもしれないが、例えば、夏目漱石は、現実にそんな女性はいなかったとしても、現代の自立した女性に近い雰囲気を持つ、虞美人草の藤尾や三四郎に出てくる美禰子を描いている。

しかし、そういった健全な女性は、おそらく、谷崎のマゾヒティックな性的欲望を満たしてくれる対象ではなかったのだろう。彼は、やはり、「刺青」に出てくるような悪女に強く惹かれていた。

この「お艶殺し」 に出てくるお艶も、その系譜にある女性だ。大きな呉服屋の主人の娘でありながら、男を手玉に取るような悪女ぶりを発揮し、悪人に騙され、本物の女郎に身を落としながらも、売れっ妓の藝者になる。そして、その犠牲者、肥しとして、お艶に唆され、駆け落ちし、人生を狂わされ、人殺しになってしまう男が使用人の新助だ。

読んでいて感心するのは、そういう悪女を描く場合、どこかしら、現実味のない、地に足つかない女性に陥りがちなのだが、 この物語で描かれているお艶は、どっしりとしていて、年季の入った悪女ぶりを感じさせてくれる。

それは、彼女が男に対して放つ女郎言葉が、堂に入ったものに感じられるからかもしれない。
たぶん、谷崎には、そんな江戸の風情を残した色っぽい言葉を話す女性と付き合う機会があったのでしょうね。

2015年6月18日木曜日

憎念/谷崎 潤一郎

私は「憎み」という感情が大好きです。「憎み」ぐらい徹底した、生一本な、気持ちのいい感情はないと思います。人を憎むと云う事は、人を憎んで憎み通すとう事は、ほんとうに愉快なものです。
という、のっけから正直で真っ直ぐな感情が披瀝されている。
谷崎は、やはり人生をいかに楽しく生きるかの天才だと思ってしまう。

実は憎んでいる友達がいたとしても、その友達とは絶対に絶交せず、表面は親しく付き合いながら、腹の底では、軽蔑し、意地悪い行動をとったり、散々愚弄しぬいてやる…

一見、憎い者に対する復讐心のようにも思えるが、この作品で語られている「憎み」は、非常に即物的で、その者の皮膚の色、肌理の具合、鼻の形、手足の格好に向けられている。

例えば、嫌われている男が他人に殴られている時の歪んだ顔、鼻の穴、黄色い肉附きのいい足の裏に対して。
「何と云う醜い、汚らしい、鼻の孔だろう」と
ふつう、嫌いな人間に対しては、嫌な感情を抱いて、目を合わさず、関わらない、遠ざかるのが常だと思うが、谷崎は、とてもポジティブで、嫌な人間に自分の感性の快楽を誘う魅力を見つけて、秘かに楽しんでしまうのだ。

恐ろしいくらいの人生の達人ですね。

2015年6月17日水曜日

治療塔 大江健三郎 /日本文学全集 22

大江健三郎さんの小説は、今まで縁がなく、今回はじめて読んだのだが、このSF小説。

しかし、池澤夏樹がこの作品を選んだ理由もなんとなくわかる。
ここには、あまりにも現代に近い未来が描かれているからだ。

核戦争、原発事故による放射能、そして環境破壊で汚染され、資源も乏しくなった地球。人類には、エイズと新しい癌が蔓延し、その危機感から、ついに、人類の一部「選ばれた者」が、巨大な宇宙船団を組み、地球を離脱し、「新しい地球」を目指し、宇宙に旅立つ。

一方、地球に残された「落ちこぼれ」に属する人々は、文明のレベルを1960年代に落とし、「高度なものは、より高度ではない方へ」、「難しいものは、易しい方へ」、「複雑なものは、単純な方へ」といった方向に文明の舵を切っている。

ところが、「選ばれた者」が、「新しい地球」から、突然、地球に戻ってくる。
そして、「落ちこぼれ」に属する主人公のリツコは、「選ばれた者」に属するいとこの朔と会うことになるが、朔が出発する前にl比べ、はるかに若返っていることに気づく。


物語は、なぜ、「選ばれた者」が地球に戻ってきたのか、なぜ、朔(「選ばれた者」)は若返ったのかという謎を徐々に明らかにしてゆくとともに、リツコと朔が恋仲になることで、「選ばれた者」が社会を支配し、「落ちこぼれ」との格差を作ろうとしていることが明らかになってゆく。

そして、タイトルの「治療塔」の謎も明らかになる。(「2001年宇宙の旅」と似てるといったら、ネタバレだろうか)

女性主人公に物語を語らせている設定だが、文章も自然だし、読みやすいと思った。

セックスの描写もあるが、いやらしさがなく、 そういう意味で、池澤夏樹の小説と似たタッチを感じた。特に、リツコと朔が北軽井沢の農場で集団生活を行うあたりの雰囲気は、池澤夏樹の小説にも出てきそうな内容だと思う。

(些末な部分だが、「テレビ」を「テレヴィ」と変に語尾を伸ばしているは、近未来だからなのか、大江さんの感性なのか、若干気になった)

2015年6月16日火曜日

飈風/谷崎 潤一郎

飈風(ひょうふう)、つむじ風の意味だと思う。

「惡魔」同様、谷崎が神経を病んでいた時期に書かれた短編小説で、そのテーマも、いかに過度な性欲、淫蕩が、男を駄目にするかという点で共通している。

物語は、二十四歳の日本画家 直彦が、 吉原で知り合った芸者と経験を持ち、それに耽るうちに、「だんだん血色が蒼褪め、頭が晦くなって、何事をするにも慵い億劫な気分になり、遂には全く生活の興味や張り合いを持たなくなって、あれ程体内に根を張って居た欲求の力さへも失って」しまうところから始まる。

直彦は、自分の命の危険を感じ、それから遠ざかるために、東北に旅に出ることにする。
温泉につかり、滋養のある食べ物を食べ、部屋でごろごろする。

「蓄積された○○をabuseしないように、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、丁度一杯に満たされた羹の器を捧げるような気持で眠った。」
(○は、原文でも伏字されている)

その甲斐あって、彼の欲望は復活するが、今度は何をしても、それ以外考えられなくなってしまう。
しかし、恋人との約束があるため、旅先での女関係を持つことができない。

そんな中、汽車の車中で、癩病(ハンセン病)を患っている兄妹を見つけ、直彦は親身になって、宿の手配などをしてあげるが、彼の頭の中には、「娘の器量の人並み勝れて美しい事も、水々しい肉附きも、癩病と云う越ゆべからざる垣根のある爲に、安心して近寄ることが出来るように思われた」という打算があった。

彼の禁欲の旅はその後も続くが、一番の危機は、臀の下に出来た腫物の膿みを絞り出す作業を行った宿の女との関係だったろう。

しかし、それも我慢し、 直彦は、ついに半年後、恋人の元に戻る。
彼の堪え続けた欲望は頂点に達していた。そして、それを解放した時…。

女性の鼻の穴、白い肌、腫物に対するフェティシズムは、谷崎がその後書いた物語にも出てくるが、特に、この物語では、真っ赤になった腫物の描写が、生々しく描かれており、直彦の抑えきれない激しい欲望を暗示している。

同時期、東京日日新聞の連載小説として書いていた「羹」 が、明治末期の青年のごく常識的な生活を描いている一方、この「飈風」は、性欲の制御という、昔も今も変わらないテーマに正面から取り組んでいるせいか、前者に比べて、圧倒的な迫力を感じる。

2015年6月15日月曜日

惡魔 續惡魔 /谷崎 潤一郎

谷崎が二十五、六の頃に書いた短編小説。

この頃、 谷崎は神経衰弱に悩まされていたらしいが、この作品の主人公 佐伯の行動にその様子が反映されていているものと思われる。

「惡魔」は、東京の大学に入学することになった佐伯が、残暑溢れる新橋の駅に降り立ち、下宿先として住むことになる本郷の叔母の家を訪ねる場面から始まる。

この叔母の家には、歳の近い従妹の照子と、書生の鈴木がいる。
そのうち、大学に行くことにも飽きてしまった佐伯が二階の部屋で寝ていると、頻繁に照子が訪れるようになる。彼女には悪魔的な魅力があり、その無神経な行動が佐伯の神経を悩ませることとなり、同時に彼女とかつて関係を持ったという鈴木から、手を引くようにと脅迫を受けることになる。

佐伯は、照子が鼻をかんだハンカチを隠し持ち、それを舐めるという変態的な行動に快感を覚える。

「續惡魔」は、その続編で、ますます神経を病んだ佐伯が、大地震の発生を恐れるようになる。
(この作品が書かれたのは大正2年。関東大震災が起きるのはその10年後である)

その佐伯に、ますます照子は接近し、自らの魅力で彼を力でねじ伏せてしまう。(たぶん、関係してしまったと思われる)

その二人の様子を見た鈴木が佐伯に対し、姦通の罪を宣言し、謝罪を迫るが、佐伯は受け付けない。そして、鈴木は叔母あてに、二人の関係を告発し、佐伯に対して即刻家を立ち退くことを要求するとともに、従わなければ、暗い所に気をつけろという脅迫めいたな内容の手紙を残し、家を出ていってしまう。

この後、便所の裏に潜んでいた鈴木を発見し、ついにやりあうことになるのだが、その結末は、佐伯が好んで読んでいた講釈本のように、残酷でグロテスクなものだった。
(その結末を、佐伯が望んでいたのではないかとも思える)

若い頃の谷崎は、制御しきれない性への欲望と、その副作用として頭が馬鹿になるのではないかということについて真剣に悩んでいたらしい。

しかし読んでいる限り、本人の心配は杞憂だったと思われるくらい、谷崎の文章はちっとも曖昧なところがない上質なものになっている。

2015年6月14日日曜日

赤線地帯/溝口健二

久々に、溝口健二監督の「赤線地帯」を見た。

赤線とは、売春が行われていた地域の俗称のことで、その語源は、警察が地図にその地域を赤線で囲んだことに由来しているらしい。

売春禁止法施行直前の吉原の売春宿で働く娼婦の姿をリアルに描いている作品だ。

主役がいない映画で、若尾文子と京マチ子が若く美しい悪女として描かれていて、やはり目立っているが、町田博子、三益愛子、木暮実千代といった家族にも恵まれず、生活に疲れ果てた中年女性を描いているところに現実感がある。

特に、木暮実千代は、溝口監督の祇園囃子では、美しい品のある芸者を演じていたが、この作品では、眼鏡を掛け、ラーメン屋では足を開きながら幼い子供の世話をしたり、病弱な夫が自殺未遂で死にきれない中、私はどんな事があっても生き抜いてみせると意気込んだり、ひどく生活じみた演技で、逆に光っている。
(しかし、昭和30年頃は、こんなに貧乏な暮らしをしていた娼婦が多かったのだろうか)

溝口監督の作品の中では、それほどの傑作とは言えない作品だが、彼が撮った昔の日本の風俗と女性には、いつも惹きつけられる。こういう映画はもはや見ることはかなわないだろう。

2015年6月13日土曜日

PACIFIC HIGH / ALEUTIAN LOW / 一十三十一

タイトルの「太平洋高気圧 / アリューシャン低気圧」が面白い。

PACIFIC HIGHに夏の歌3曲、ALEUTIAN LOWに冬の歌4曲という構成のミニアルバムだが、全体的に夏っぽくてこれからの時期にぴったりだと思う。

聴いていると、心地よい風に吹かれているような気分になる。

ブルーライト~♪という節が、まるで歌謡曲のように不思議な味わいのある1曲目の「硝子のサマーホリデー」もいいけれど、個人的には、6曲目の「羽田まで」がいいですね。

2015年6月12日金曜日

憲法学者が非難される時代

先週行われた憲法審査会で、3人の憲法学者が、今の安保関連法案は違憲であると発言したことは、実に大きかったと思う。

憲法学者が、ここまで存在感を発揮したのは、戦前、天皇機関説を主張し、軍部と右翼から非難を受けた憲法学者の美濃部達吉以来ではないだろうか。

違憲を主張する憲法学者を非難し、蔑ろにしようとしている安倍政権のこれまでの発言と、一部の新聞社の記事を見ていると、日本がこれから物騒な時代に入ろうとしている警告音のように感じる。

憲法というのは国の根幹だ。
平和、自由、平等、幸福追求。

今では当たり前すぎて、空気のように何も感じないが、それが無くなると大変なことになる我々の生活の基盤のようなもの。

今の日本国憲法を、アメリカから押しつけられた憲法であるかのような発言を目にするが、仮にそうだとしても、そこに謳われている価値観を否定する必要がどこにあるのだろうか。
戦後70年、我々が平和に暮らすことができたのは、間違いなく、この憲法が日本を戦争から遠ざけてきたおかげである。

その憲法の重要な要素である平和主義を骨抜きにして壊そうと、憲法違反の法律を強引に成立させようとしているのが今の安倍政権だ。

大臣、国会議員を含む公務員は、日本国憲法 第99条に基づき、憲法の尊重擁護の義務を負っている。もし、強引に、この安保関連法案を成立させようとするならば、彼ら自身が憲法違反を侵したことになるだろう。

安倍政権が、唯一できるのは、正面から、憲法改正を発議し、国民の信を問うことである。
私は反対だが、これで憲法が改正されるのであれば、それはやむを得ないことだと思う。

2015年6月7日日曜日

The Affair of Two Watches / 谷崎潤一郎

谷崎潤一郎が二十五歳の時に書いた自伝的な作品だ。

今読むと、後の自伝的小説「異端者の悲しみ」の原形のような作品だったことが分かる。

金のない放縦な大学生活、死への恐怖と飲酒癖、家族との葛藤。

その中でも面白いのは、寝起きの悪い谷崎(この作品では山崎禄造という名前)を起こそうとする父母とのやり取りである。

谷崎の父母は生粋の江戸っ子だったから、その口調は文字にしても実に活き活きとしていて、聞いている側が楽しくなってしまうような魅力がある。

谷崎がわざと寝起きを遅くしていたのは、親への反抗心もあるのだろうが、この一際、ことばに敏感だった男は、両親が歯切れよく放つ話し言葉を聴くことに一種の快楽を覚えていたのではないだろうか。

特に相場師だった父親について、谷崎はその日常の仕草を面白おかしく取り上げているが、実直な好人物だったことが分かる。

相場師のくせに、女を買わず、借金をせず、嘘を言わず、極めて融通が利かない。
料理のできない妻に代わって、本を読みながら料理を作ったり、訪問販売の男が主婦と怪しい関係になる「出歯亀事件」が起きているという記事を新聞で読み、たまたま化粧品を売りにきた苦学生を追い返してしまう。

向田邦子が描いた昭和初期の頑固な父親への愛情のこもった視線と変わらないようものを、そこに感じる。

本作のタイトルは、金のない二人の学友と共に、その場しのぎの欲望のために質に入れてしまった2つの時計の事を指しているが、ジェローム・K. ジェロームの「ボートの三人男」(Three Men in a Boat)にちなんで、Tree Men with Two Watchesという小説を書いてみたらどうか、という戯言から付けたらしい。

 「ボートの三人男」は、丸谷才一訳で読んだことがあるが、いかにもイギリス小説らしい、ほのぼのとしたユーモア小説である。
谷崎も、この時、すでに原文で読んでいたのだろうなと思うと、 いい加減な生活を送っていたようで、読むべきものは読んでいた彼の学生生活が想像される。

2015年6月6日土曜日

酒宴 吉田健一/日本文学全集 20

吉田健一の作品には、酒がテーマになっているものが多いが、彼がいかに酒を飲むのが好きだったのかが伝わってくるものが多い。
本当をいうと、酒飲みというのはいつでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。
という、ある意味ものすごいことを、さらっと述べている「酒宴」もその一つだ。

作者が、銀座の蕎麦屋「よし田」で、灘の酒造会社の技師と意気投合し、場所を八重洲に移し、朝まで飲み続け、勢いで、灘の酒造会社の工場を見学することになる。見学も終わり、その会社の関係者と宴会を行うことになるのだが、皆、酒豪揃い。「献酬」という、差しつ差されつという表現では甘いと感じるほど、壮烈な杯の交わし合いがはじまる。

そんな、のっぴきならない状況の中でも、吉田健一の心の中は至って平静で、可笑しいのは、心の中で、周りにいる猛者たちを、酒量によって、七石、四十石、七十石とあだ名をつけて、酒が体に流し込まれる様子を工場のタンクに大量の酒が流し込まれるようなイメージで描いているところだ。
こうなると、酒はもう飲むというものではなくて、酒の海の中を泳ぎ廻っている感じである。海は広くても、それが飲み乾せるし、又飲み乾したいと思う所に、普通の海と酒の海の違いはあるのだろうか。海はどこまでも拡がっていて、減った分だけ又自然に湧いて来るから、飲み乾したくて飲む喜びは無限に続き、タンクが幾つあっても足りることではない。
酒を飲むという行為を、こんな壮大なイメージで、かつ上品に文章に表すことができたのは、吉田健一だけかもしれない。