2011年11月27日日曜日

大人のための残酷物語/倉橋由美子

余計な心理描写のない感傷を排した小説は何かと問われたら、ハードボイルド小説と答えてしまいそうだが、倉橋由美子が書いた大人のための童話に比較したら、まだ甘ったるいカクテルのようなものかもしれない。

「大人のための残酷物語」は、アンデルセン童話、グリム童話、日本昔話など、有名な童話や昔話から題材を得て、作者曰く、「論理的で残酷な超現実の世界を必要にして十分な骨と筋肉だけの文章で書いてみよう」という試みから生まれたものです。

因果応報、勧善懲悪、自業自得の原理が支配する世界。

読んでいて残酷な話が多いが、なまじ中途半端な同情心やヒューマニズムより、残酷な真実を示されたほうが、精神衛生的には良いのかもしれません。

また、全体に共通しているのは、「大人のための」というだけあってエロチックな描写が多いことと、物語の最後に短い教訓がつけられていることだ。

思わず笑ってしまいそうな結末も、「教訓」を読むと素直に笑えない、かなり毒性が強い物語もある。そういう意味でも、「大人のための」といってもいいかもしれない。

作品の中には、谷崎潤一郎の「春琴抄」、中島敦の「名人伝」、カフカの「変身」も題材として取り上げられており、強烈なアレンジがほどこさているので、興味のある方は、原作と読み比べてみるのも面白いかもしれません。

2011年11月25日金曜日

SOLARIS / Stanislaw Lem

スタニスワフ・レムの「SOLARIS」は、SFといっても、だいぶ趣が違う作品だ。

赤と青の二つの太陽をまわりを回っている惑星ソラリス。

地球よりも直径が二割ほど大きいが、陸地はヨーロッパ大陸よりも面積が小さく、広大な海を持つ。酸素はなく、生命はないと思われていたが、その広大な海が、知性を持っているのではないかと思われる様々な現象が起こる。

その惑星ソラリスを観測するため、ソラリスの海の海面500mの中空にある観測ステーション。
ここが小説の舞台だ。

主人公は、心理学を専門とする実直な性格の科学者ケルビン。彼はその宇宙ステーションにすでに滞在している他の科学者二人と、人類以外の知性 ソラリスの海 と接触することになる。

しかも、その接触は、主人公が以前付き合っていて自殺してしまった恋人との再会(といっていいのか)という思いがけない形で行われる。

ソラリスの海が、ステーションにいる人間が寝ている間に、その意識に深く入り込み、その人が心の奥底で思っている記憶を実物どおりに複製してしまうのだ。

ソラリスの海が、何故そんなことをするのか、人類に対して何を伝えたいのかは一切わからないまま。

主人公は、科学者としての理性を持ちながらも、再び現れた恋人に深く思い悩まされることになるのだが、その過程は、恋愛小説のようでもあり、人間の尊厳という哲学的・道徳的な側面まで触れられている。

50年前の1961年に発表された作品だがその魅力は色褪せていない。

以下、余談です。

☆アンドレイ・タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」は、この原作をベースに、タルコフスキー独特の美しい映像で表現していて、また、別個の作品に仕上がっているような気がします。

★2002年にもジェームズ・キャメロン製作の映画「ソラリス」がありますが、こっちは、ちょっと恋愛的な部分にフォーカスを当て過ぎていて、原作の持つ深みが感じられなかった作品でした。

2011年11月23日水曜日

書行無常/藤原新也

藤原新也の書行無常展を見てきました。

銀座線 末広町を降りて、ちょっと裏通りを歩くと、3331 Arts Chiyoda という学校のような建物が会場だった。

建物に入ると、会場受付前には、右手にカフェ、左手に子供のおもちゃのバザーが行われているという何とも不思議な空間だった。

受付で、チケットを買おうとしたら、受付のテーブルで、藤原新也本人が「書行無常」の本に、ひたすらサインを書き込んでいた。

考えれば、初めて本人を見たのだ。
私のイメージよりも小柄な方で、一見すると優しそうな普通の初老のおじさんだった。

いきなり、本人を見て舞い上がってしまったせいで、展示物を逆の流れから見てしまった。

展示物は、1.中国、2.日本、3.印度、4.三陸円顔行脚、5.死ぬな生きろ、6.福島桜の順だったのだが、いきなり、6.から見てしまった。

展示物は、書籍「書行無常」に掲載されている書と写真でしたが、
大書された言葉と大きく引き伸ばされた写真を間近にみると、やはりパワーをもらったような気がします。

以下、印象に残ったもの。

6.は原発事故後の福島三春町の満開の桜。

5.青木ヶ原樹海に立てられた「死ぬな生きろ」と書かれた108つの卒塔婆と、大きく引き伸ばされた赤ちゃんのアップの写真。
(渋谷109の大型ビジョンに「死ぬな生きろ」を表示するあたりは、藤原さんは、やはりパフォーマーだなと感じるコーナーでした。)

4.見ていてこちらも微笑んでしまうような子供たちの円顔の絵。

3.「苦楽苦楽苦楽」の書がガンジス川に流れていく。

2.人間書道 晶エリーの髪で書かれた「男」、乾き亭げそ太郎の「断捨離」
  (振り返ると、このコーナーが一番好きでした)

1.上海万博 中国館前の「万世(バブル)一夜の夢の如し」
  会場展示の書は、何故か、バブルの振り仮名は黒い点に変わっていました。
  中国の雄大な風景に負けない藤原新也の「書」がすばらしい。

都合がつかなかったため、瀬戸内寂聴さんとのトークショーが見られなかったのは残念。

展示会は、今週日曜日までの開催です。

2011年11月21日月曜日

逃亡者の気持ち

映画「ターミネーター」シリーズよりも、何故かTVドラマとして放映されていた「サラ・コナー・クロニクルズ」が好きである。

サラ・コナーの機械から逃亡する生活を、映画より細かく描いているところが好きなのだろうなと自分では思っている。(続編はないのだろうな・・・)

だから、サラも物語に出てこない、逃げる個人にフォーカスを当てていない映画「ターミネーター4」に関しては、全く面白さを感じることができなかった。

彼女 サラ・コナーの生活は、常に機械に追われる恐怖から、緊張感が消えることがない。
隣人に笑顔を向けるときも、どこか警戒心が残る。

恋人と仲良くなっても、一定期間、その地に長居したら、いずれ消え去らなくてはならない。
いわば、非常時の生き方だ。

丸谷才一氏の小説「笹まくら」も、太平洋戦争時に徴兵忌避した主人公の逃亡生活を、主人公のその後の退屈な閉塞的な実生活と交互に描いていて、非常に面白い物語です。
(憲兵に尋問されているときに、砂絵を作るシーンとか、すごく好きです)

笹の葉が奏でるかさかさとする音に、やり切れない不安を感じる主人公。

逃亡者当人にとっては、紛れもなく不幸な生き方だと思うが、それでも逃亡者の生活には余人を引きつける不思議な魅力があると思う。

それは、緊張感に支配された生活と、束の間に訪れる幸せを味わうときの刹那な感じなのかもしれない。

2011年11月20日日曜日

カフカの「城」

カフカの作品の中で、最も長い長編です。

物語は、主人公のKが深い雪に覆われた村に到着する場面からはじまる。

居酒屋で寝ていたKは、「城」の執事の息子から、自分の身分をたずねられ、「城」のベェストベェスト伯爵からの依頼でやってきた測量士と名乗る。

しかし、クラムという「城」の高官から測量士に雇うとの手紙を受け取り、指定された上司である村長を訪ねてみると、Kを雇ったのは何かの手違いであり、村は測量士を必要としていないと告げられ、代わりに小学校の小使いの役割を与えられる。

彼のそばにいるのは、「城」から派遣されてきた「蛇」のように見分けのつかない、役に立たない二人の弟子だけ。

この物語では、主人公Kの素性や行動も明らかにおかしい。
測量士と名乗ってはいるが、村には測量の道具も何も持ってきていない。プライドが高そうにみえるのに、小学校の小使いという屈辱的な仕事を、わりと簡単に引き受けてしまうところも変だ。

また、自分に仕事を与えてくれた「城」の高官クラムの愛人フリーダと関係を持ってしまう。そのくせ、彼は村での就職をあきらめてはいないし、フリーダの世話役の居酒屋の女将に対しても、議論を戦わせる。
フリーダが嫌う姉妹の家を訪れ、親しげに長々と会話をする。

嫌味な小学校の教師に散々注意されたにもかかわらず、子供たちが登校するまで寝過ごし、だらしのない格好をみせてしまう。

二人の弟子に対しては、邪魔になると深い雪の残る建物の外に追い出し、ほとんど動物並みの扱いをする。

カフカの描く「城」や村は、「審判」でも出てくるような奇妙な制度・奇妙な役割をもった人々が多く登場するが、この「城」においては、それにもまして主人公Kがおかしい。
村のほとんどの人々に悪意を持たれているのも仕方がないような気がしてくる。

もし、この物語の目的が、主人公Kを罰することにあるのだとしたら、非常に納得できてしまう。
主人公Kが近づこうとしても、いっこうに辿り着かず、遠ざかっていく「城」は、Kにとって「赦し」「恩赦」のようなものなのかもしれない。

■以下、余談です。

※ミヒャエル・ハネケ監督の『Das Schloss(城)』は、原作にかなり忠実に作られた映画(テレビ映画らしい)です。主人公Kと、フリーダ役のスザンヌ・ロタールのイメージが、私的にはピッタリです。

♪ ORIGINAL LOVEの『カフカの「城」』は、ジャズっぽいアップテンポな歌で、聴いていて気持ちがいい歌です。

2011年11月19日土曜日

Modernism: A New Decade

スタイル・カウンシルの最後のアルバムは「Confesstions of A Pop Group」(1988年)だと、ずっと思っていた。

このアルバムは、ピアノをベースとしたA面と、ポップソングをベースとしたB面の2つから構成されている。(個人的にはA面の曲が好きです)

当時、おそらく、スタイル・カウンシルの音楽は、これから、ピアノをベースとしたジャズっぽいものを追求していくのだろうなと期待していたのだが、新作のアルバムは発表されず、いつのまにかバンドも解散。

その後、ポール・ウェラーがソロ活動をはじめ、最初のアルバム「Paul Weller」を発表したのは1992年のこと。このアルバムは、「Wild Wood」ほど明確に’脱ポップ’を意識した作りにはなっていないが、その予兆を感じさせる内容になっている。

しかし、その空白の4年の間に、実はレコード会社のポリドールに拒絶されてお蔵入りになってしまったアルバム「Modernism: A New Decade」(1989年、但し日本のみ2001年発表)があったのだ。

この音楽を聞いたとき、スタイル・カウンシルがその後目指していた音楽が、自分が想像していたイメージと全く違っていたことに、かなりショックを受けた記憶がある。

「これじゃレコード会社からNGが出るのもしょうがないかも」と冷たく思ったりもした。

でも、このアルバムは、個人的に嫌いな曲もあるが、今聞いても古臭い感じがしない曲が多い。
タイトルからして守りではなく攻めにいった野心的なアルバムであることを感じさせる。

もし、ポリドールが「Modernism: A New Decade」の販売を認め、それほど売れずとも、話題作になっていた場合(その可能性は十分ある)、スタイル・カウンシルは解散せず「Modernism」の路線を突き進んだのだろうか?

ポール・ウェラーが結果として、’90年代、スタイル・カウンシルが最後に描いた「新しい十年」とは正反対の方向に舵を切った音楽活動をしたことが、今思うと、とても面白い。

2011年11月16日水曜日

自然体

イギリスのロックバンド「スタイル・カウンシル(The Style Council)」が解散し、ボーカルのポール・ウェラーがソロ活動をはじめた時、かなり違和感を感じたのを覚えている。

ジャズやソウル、ファンクなどが融合した洗練されたポップから、突然、アコースティックで地味な曲調に変わったのが、スタイル・カウンシルのファンであった私には不満だった。

何故、こんな地味な曲ばかり作り続けるのだろうと疑問に思いながらCDを聞いていた。

その良さが分かりはじめたのは、8作目の「As Is Now」あたりからで(遅い!)、過去に買ってほとんど聞いていなかったCDを聞きなおしてみたら、じわじわと伝わってきた。

一度聞いて「買って失敗!」と思った5作目の「Heliocentric」などは、今は結構好きなアルバムです。

ソロになってからの彼の音楽は、なにより自然体なのだ。

気どりや気負いを感じさせないボーカル。

ドラム、ベース、ギターという最小限の楽器で演奏されている曲が多いけれど、聴いていて本人が楽しんで演奏しているのが伝わってくる。

ポール・ウェラーが五十を超えて今だ元気に音楽を続けていられるのは、まさにこの自然体にあると思う。

2011年11月13日日曜日

カフカの「審判」

一読して、どことなく村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の、世界の終わりの雰囲気に似ているなと思った。

不条理な法に支配された世界なのだが、細部に関しては奇妙に理路整然としており、主人公がその細部にとらわれ、少しつず現実的な考え方を失っていくところなんかは、よく似ていると思う。

無礼な監視人、主人公Kの職業すら把握していない予審判事、浮気っぽい廷丁の妻、目的を見失い弁護士に支配されているような被告人、ガラクタ置き場にいる苔刑吏、屋根裏にある裁判所事務局、裏口からの無罪の勝ち取り方をすすめる裁判所の画家、請願書を一向に書かない弁護士、裁判所とつながりがある僧、執行人と思しき男たちが、次々と主人公Kの前に現れる。

誰ひとりとしてその存在する意義は不明であり、彼らの真の目的もわからない。

結局、主人公Kは、高級裁判所にも行きつくことができず、裁判官にも会えないまま、なぜ自分が突然、訴訟に巻き込まれたのかも分からぬまま死んでいく。
(「世界の終わり…」では、主人公は最後は諦めて自分の死を迎えるが、不条理な死という点でも似ている)

カフカは、プラハ大学で法律を学んだというが、物語の後半で、裁判所とつながりがある僧が主人公Kに対して言った言葉は奇妙に説得力があるように感じた。

「…裁判所はあなたになにも求めはしないのだ。あなたが来れば迎え、行くならば去らせるだけだ」

2011年11月12日土曜日

マーロン・ブランドという男/夏の朝の成層圏

池澤夏樹の最初の長編「夏の朝の成層圏」は、遠洋マグロ漁船から誤って海に落ちた主人公が、南の島に漂着し、文明から離れた生活を体験するという作品だ。

単純な漂流記になっていないところが面白い小説で、主人公が殆ど無人島に近いこの南の島で別荘を持つアメリカ人の映画俳優と出会うところから物語は少しずつ変わっていく。

マイロン・キューナード。

アメリカ人にしては無口で、アルコール中毒の治療中。
「この島は裏返されたニューヨーク」と分析する鋭さもある反面、倣岸な印象もある。

名前も似ているし、読者は自然とマーロン・ブランドをイメージする。

マーロン・ブランドといえば、私にとっては「ゴッド・ファーザー」、「地獄の黙示録」である。
このフランシス・コッポラ監督の2大傑作の中でも、ものすごく存在感がある俳優だ。

「ゴッド・ファーザー」では、シチリア系マフィアのドン(首領) ヴィト・コルレオーネとして、父親の持つ威厳と愛情、首領としての深謀と非情を持つという複雑な男を魅力的に演じている。

私が「夏の朝の成層圏」でイメージするマイロンは、倣岸な肥満気味の丸坊主の中年男だが、部下や原住民からは神のように崇拝されている「地獄の黙示録」のカーツ大佐のイメージに近い。

実際に、マーロン・ブランドは1967年にタヒチ諸島の環礁テティアロアを所有していたらしい。
また、アマチュア無線家でもあったという。
(小説の中でも、無線機を使うマイロンが描かれています)

そんな妙にゴシップ的な部分も、「夏の朝の成層圏」の面白いところだと思う。
(池澤夏樹の作品では他、思い当たらない)

2011年11月10日木曜日

サラサーテの盤

夏目漱石のマイナーポエットな作品(不思議、不気味系)の雰囲気を引き継いだ弟子の一人に、内田百閒(ひゃっけん)がいて、その代表的な作品の一つに短編「サラサーテの盤」がある。

読んでいただくと分かるが、鈴木清順監督の映画「ツィゴイネルワイゼン」は、この短編の持つ不気味な雰囲気を実にうまく映像化している。

物語の隠喩的な役割として出てくるサラサーテ演奏のレコード「ツィゴイネルワイゼン」の中で、サラサーテが一瞬何かをつぶいている声が聞こえるのだが、それが何のか分からない。

(こういうレコードって昔はありましたよね。私が記憶しているのでは、岩崎宏美の「万華鏡」がそうでした)

役者も、最近亡くなった原田芳雄、藤田敏八、大谷直子、大楠道代、麿赤児、樹木希林と、名優が揃っている。

鈴木清順監督の映画の中では、一番好きな作品です。

鎌倉が舞台になっていて、この映画をみると藤田敏八が猫背で歩いていた「釈迦堂切通」とか、行きたくなってしまいます。

でも、サラサーテは何てつぶやいているんですかね…(3分36秒あたりです)

2011年11月9日水曜日

TPPに思う

T(盗るアメリカ)P(パクルアメリカ)P(ポシャル日本)  Shinya talk/藤原新也 より

を見たときは思わず笑ってしまったが、今日のニュースで報じられていたJAグループが中心になって開いたTPP(環太平洋連携協定)の反対集会の様子を見ると、参加している多くの人たちの思惑は上記の駄洒落の感覚に近いのではないだろうか。

しかし、素人目にみても、日本の農産物は海外の輸入物に比べたら、相当品質が高いような気がする。

少なくとも、ただ安い!ということだけで日本の農産物が売れなくなるということはないと思うのだが、考えが甘いのだろうか。

一方で、今の日本の農業は、後継者不足、耕作放棄などが止まらない状況で、閉塞感に覆われているのは事実だと思う。

TPPへの参加で原則関税が撤廃されるが、これは、日本に輸入される場合にだけに適用される話ではなく、当たり前の話であるが、日本から外国に輸出するときも同じ話である。

海外へ日本の高品質の農作物が輸出されことで商機が増え、今まで国内市場にだけ目を向けていた農業ビジネスが活発化するということは楽観的な考えなのだろうか。

日本は、これからも人口が減っていき、高齢化社会を向かえるのだ。
TPPは農業分野にとっても、ひとつのチャンスだと思うのだけれど。

よく、ピンチはチャンスといいます。

TPPは、日本の保護産業にとってピンチをもたらすものかもしれませんが、それを構造改革のチャンスととらえて対応したほうが、今後のことを考えると前向きな選択ではないでしょうか。

2011年11月7日月曜日

Night and Day

昔、Sister Qという3人組みの女の子が歌う「Night and Day」という歌が好きでCDまで買って聞いていたことがある。

原曲は、アメリカの作詞・作曲家であるコール・ポーターのスタンダードナンバーであることが分かったのは、ずいぶん後になってからである。
Night and day, why is it so
That this longing for you follows wherever I go 
In the roaring traffic's boom
In the silence of my lonely room 
I think of you
day and night 
夜も昼も、どうしてだろう
どこに行ってもあなたへの想いが離れない 
騒々しい往来のなかでも
ひとりきりの部屋の静けさのなかでも  
あなたのことを想っている
昼も夜も
歌詞もいいですね。
恋に落ちるとこんな感じですね…




2011年11月6日日曜日

カフカの「失踪者」

カフカの「失踪者」は、女中に誘惑され、その女中に子どもが出来てしまったことで、両親にドイツからアメリカへと放逐された十七歳のカール・ロスマンの放浪を描いた作品である。

ニューヨーク港に着いて船旅を終えたカールが、船室に傘を忘れてきてしまったことから、彼のアメリカでの第一歩が狂いはじめる。

運良く、アメリカで成功している上院議員の伯父に助けられたものの、ふとしたことから、その伯父を怒らせてしまい、絶縁を宣告され、さらに彼の運命は狂っていく。

カフカの小説を読んでいて、いつも驚くのは、まるで未来を予見していたかのように、現代につながるような情景を描いていることだが、それは、この作品の随所にも出てくる。

伯父が経営する代理業、仲介業務の会社は、何をやっているのかよく分からない所と、情報の伝達という点で、今のIT企業を彷彿とさせるし、無駄な会話もなく挨拶すら廃止された合理化された仕事の進め方は、生産性をとことん追及するメーカー系の工場のようだ。

カールが迷い込んだホテル・オクシデンタルの、求める食べ物が一向に手に入らない騒音と慌しさに満ちたビュッフェは、今のファーストフード店のようでもある。

とりわけ、印象に残っているのは、カールがイカれた三人組みに捕まり、召使いにさせられそうになっている部屋の隣に住んでいる学生だ。
昼間はモントリー・デパートの売り場で働いている学生で、夜はブラック珈琲を飲みながら、ベランダで夜中の二時ごろまで勉強している。
カールに対し、外に職を探しに行くより召使いのほうがいいとアドバイスする。

彼には将来の見込みも見通しもない。勉強も喜びはなく、ただ、しめくくりがつかないから続けているだけだと言っている。(こんな若者は、今の都会にも大勢いそうな気がする)

こんな、どうしようもない状況にカール青年は巻き込まれながら物語は進むのだが、まるで長い不思議な夢の途中で、ふっと目覚めてしまったように物語は突然終わる。

怪しげなオクラホマ劇場の技術労働者に採用され、アメリカの見知らぬ山岳地帯を通過する列車に乗ったまま、十七歳のカールは読者の前から突然失踪してしまう。

※ちなみに、日本の法律では、不在者が7年間生死不明の場合、利害関係人が家庭裁判所に請求することにより失踪宣告が出され不在者は死亡したものとみなされます。

2011年11月5日土曜日

加速度

その昔、母と姉が、さだまさしが好きで、何回かコンサートに付き合わされた。

さだまさしのコンサートというのは、ご存知の方もいると思うが、歌よりもMCで会場をわかせるという、一歩間違えば、「綾小路きみまろ」みたいなノリなのだ。
(興味がある人は、噺歌集という本を読むとよくわかると思います)

複数回、コンサートに足を運んだにもかかわらず、正直、ルックス的にも、「関白宣言」にも興味をもてなかったが、この「加速度」という歌はわりと印象に残っている曲です。

今聞くと終わりのほうが、ビートルズの「While My Guitar Gently Weeps」っぽい感じがします。


2011年11月4日金曜日

櫻の園

11月だというのに、いつまでも暖かいせいだろうか。
なぜか、桜のことを考えた。

毎年行っているお花見も、今年は震災のこともあって行けなかった。
また、毎年4月頃に見ている映画「櫻の園」も、その気になれなかった。

映画「櫻の園」は、吉田秋生の漫画を映画化したもので、毎年、創立記念日にチェーホフの「桜の園」を演じる女子高の演劇部を舞台に、その「桜の園」の公演日に起こる色々な出来事を描いた作品です。

この作品の魅力は、何といっても自然な感じで演じている色々なタイプの女の子たちだろう。

キスマークを上手くごまかす、ちゃっかりものの城丸。

部長でありながら、公演当日にパーマをかけたり、知世子を好きになってしまう由布子。

女主人を上手く演じられない、いつもは男役の知世子。

タバコを吸った友達といて補導されてしまい「桜の園」の中止騒ぎを起こしてしまうが、どこかクールな杉山。

後輩にも手厳しいリーダー格の麻紀と取り巻き的な真由美。

いつも仲良しの志摩子と敦子。

その他etc…

日本映画の中でも、好きな作品の一つです。

桜のひらひらと散っていく美しさとはかなさのイメージが、物語と彼女たちの自然な演技にぴったり、はまっている気がします。

実際にこれらを演じた女優さんたちと年齢も近いせいか、その後を知ると、なんか同級生の近況を知ったような気分になりました。

志水由布子:中島ひろ子…小栗康平監督の「眠る男」にも出演されていました。
杉山 紀子:つみきみほ…ちょっと鋭さがなくなっていますが、当時の面影が。
倉田知世子:白島靖代…ヤクルトの土橋と結婚したんですねー。
久保田麻紀:梶原阿貴…大人の女性っぽくなりましたね。
城丸香織:宮澤美保…バイクと書道が趣味とは意外!

2011年11月3日木曜日

川端康成の「掌の小説」

銀の池と緑の池、鼻血…。中学生の頃に読んだ短編「骨拾い」。

祖父の葬式に立ち会った少年の陰鬱な感情が何故か、ずっと記憶に残っていて、久々に「掌の小説」を読んでみた。

①ちょっとエロチックな情景を描いた「指輪」「滑り岩」「士族」

②差別された部落の少年少女との淫乱な思い出を描いた「二十年」

③少年少女ものの「男と女と荷車」「バッタと鈴虫」「雨傘」

④人の顔をじっと見る癖がついてしまった男と恋人の情景を描いた「日向」

⑤どこかユーモラスな雰囲気がある「帽子事件」「死顔の出来事」

122編の短編が収められているが、自分の好みで選ぶと上記の作品がいい。

やはり、川端康成は、①②のようなエロチックな風情を描いた作品が上手な気がします。

ただ、全体的にみて、歳月の傷みにさらされている作品が多いような気がします。
特にいわゆる新感覚派といわれるような詩的な感じをねらった作品は、正直、うーんという感じです。

私にとっての川端康成は、ノーベル文学賞の作家というより、
敗戦を受けて語った以下のような言葉を残した作家であることのほうが、はるかに存在感を感じます。

「私の生涯は『出発まで』もなく、そうしてすでに終わったと、今は感ぜられてならない。古の山河にひとり還ってゆくだけである。私はもう死んだ者として、あはれな日本の美しさのほかのことは、これから一行も書こうとは思わない。…」 

(「新しき幕明き」…共産主義的人間/林達夫)より

2011年11月2日水曜日

ヨーロッパ退屈日記

伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」は、作者が二十代後半、1965年当時に書いたエッセイだが、今読んでも面白い本だ。

文章にもったいぶったところがなく、洒落っ気に満ちていてテンポもよく、内容もある。

エッセイでありながら、私にとっては半分、実用書でもあった。

美味しいカクテル、おつまみのつくり方、スパゲッティを上手にフォークに巻きつけて食べる方法、強風の中でマッチが消えない方法、英語の発音などなど。

異能の人…。改めて、この人は才能があったんだなと、しみじみ思います。