2013年12月30日月曜日

競売ナンバー49の叫び/トマス・ピンチョン

池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」で紹介されていた一冊で、以前から読んでみたかったのだけれど、かろうじて最後までたどり着くことができた。

ページ数は決して多くない。中編というには短いかもしれない。しかし、読み進めていけばいくほど、迷路にはまっていく感覚が強まってくる。

物語のきっかけも、奇妙ではあるが、シンプルだ。
ある夏の午後、かつての恋人で、カリフォルニアの大富豪だったピアス・インヴェラリティから遺言執行人として指名されたことを知った主婦のエディパが主人公。

彼女は共同執行人の美男の弁護士メツガーと出会い、不倫する。
そこから少しずつ普通の現実が崩れはじめる。

まず、彼女が目にしたものは、夫からの手紙の封筒にスタンプされていた奇妙な言葉の政府の広告スタンプと、ピアスが創設した軍需企業と思われるヨーヨーダイン社の社員で構成される郵便配達員、トイレの落書きに書かれていた暗号めいたメッセージと奇妙な形のラッパの落書きだった。

そして、彼女に、国の独占事業である郵便制度とは別に裏の郵便制度があるのではないかという疑念が生まれ、その思いをますます強めるような出来事を目にする。

池澤夏樹の解説では、この物語を読み解くキーワードとして、二分されたアメリカの社会、パラノイア(妄想)、エントロピー(放っておくと事態は秩序から無秩序に向かう)という概念、レメディオス・バロ(Remedios Varo)の三枚の絵が挙げられている。

一読してもよく分かりませんでしたが、これらのキーワードを思いながら物語を読み進めると、少しずつ、その意図が分かってくる、そんな物語です。

タイトルの「競売ナンバー49の叫び」は、物語の最後に、ピアスの残した切手コレクションがナンバー49として競りにかけられる場面が出てくるのだが、そのときに値段を付けるための掛け声が「叫び」という意味をなしているらしい。

読み切ってはみたが、まだ意味が分からない部分が多過ぎて、何度も何度もページをめくってしまう。主人公エディパのように迷路にはまってしまうような怖さを覚える本だ。

2013年12月29日日曜日

参拝

西尾維新原作の「恋物語」では、ちょっと不気味な中年男 貝木泥舟が、神様となった中学生少女 千石撫子がいる北白蛇神社にお参りする。

彼の目的は、戦場ヶ原ひたぎの恋人である阿良々木暦と彼女自身を嫉妬から殺そうとする千石撫子を騙し、彼らの命を守ることにある。

見ていて面白かったのは、千石撫子を騙す際に、貝木が言った、願いを叶えたかったら、その願い事は決して人には喋ってはいけないという言葉だった。

もうすぐ初詣の時期だが、確かに神様に拝む行為には、そういう一面はあるかもしれない。
金儲け、合格祈願、健康、病気完治、幸運、恋愛、結婚、そういう様々な願望が頭の中にひしめいているけれど、ほとんどの人はその内容をあえて口にはしないのではないだろうか。


安倍首相の靖国神社参拝も、そういう意味で興味深い。

この件に関しては、中国、韓国のみならず、EUやロシア、同盟国のアメリカにまで批判されて四面楚歌の状態にある安倍首相ではあるが、こうなることは彼自身も十分に予測していたはずのことだと思われる。

彼が心中ひそかに期した思いは、案外、マスコミに語った、諸外国への言い訳めいた当たり障りのない内容とはかけ離れたものだったのかもしれない。

2013年12月25日水曜日

ポール・ウェラーのCM

アイススケートのテレビ中継を見ていたら、なんと、ポール・ウェラーのCMではないか!
(ちなみに、DAKSとは、イギリスのファッションブランドらしい)



ちょっと、ポール・ウェラーの老け方に驚きつつも、そばに映っているきれいな女性も気になったので調べたら、なんと、リア・ウェラーという二十二歳の娘であることが分かった。

しかも、スタイル・カウンシル時代にボーカルをしていたDee C Leeとの間の娘さんらしく、かつてのスタイル・カウンシルの一ファンとしては非常に感慨深かった。


でも、やはり、歌がいいですね。

You do something to me
Something deep inside…

2013年12月24日火曜日

難民探偵/西尾維新

この本を読んだのは、勿論、猫物語(白)の原作者が西尾維新だからである。

この歳でライトノベル?と、いつも、書店の一角を占める西尾維新のコーナーを遠巻きに見ながら、近寄るまいと心に誓いながらも、正反対に、Tokyo mx テレビの『傾物語』、『恋物語』をついつい見てしまう自分。

『傾物語』はあまり興味が引かれず、やはり『猫物語(白)』が特別だったのかという気持ちに一時期、落ち着いたが、戦場ヶ原ひたぎと貝木泥舟の奇妙な関係を描いた『恋物語』を見てからというものの、やはり、その独特の世界観に惹かれてしまった。

ということで、これは一度、原作者の本を読んでみようと思い立ち、見ているアニメ「物語シリーズ」とはまったく関係がない小説を図書館で借りたのがこの本だった。

まず、ぱらぱらと開いて安堵したのは、読み手をひきつける表現は別として、わりとしっかりした文章が書かれているということだった。
赤川次郎みたいな文章だったら、たぶん読む気をなくしていたと思う。

ストーリーは、こんな感じ。

主人公の窓居証子(まどいしょうこ)という就職活動に失敗した女の子が、生活難から住むところもなくし、金持ちの作家の叔父 窓居京樹(きょうき)の家に、秘書兼雑用係みたいな役割で居候することになる。
この叔父の京樹は携帯電話を持つが(自分では電話・メールを受けない)、ネット社会には無縁の変わり者で、豪勢な武家屋敷に住み、狭い茶室を仕事場にして、リラックスするという理由からDVDを見ながら作品を書いている。また、お金にも鷹揚で、証子に月30万円の手当てをあげようとしたり、キャッシングをすると、自動的に寄付する仕組みのクレジットカードを使っている。

その叔父の携帯電話の電話番をしている証子は、ある日、京都府警からの電話を取り次ぐことになる。用件は、叔父の友人である根深陽義(ねぶかようぎ)という人物の身柄引取り。
この根深陽義は、五年前に警察を退職した優秀な警視だったが、今はネットカフェ難民でその日暮らしの探偵をしているという、やはり変わり者。
そして、彼が警察に保護されたのは、ある殺人事件を通報したからなのだが、根深が巻き込まれてしまったこの事件に、証子も巻き込まれてしまい、事件の解明に迫っていくというミステリ仕立てになっている。

一気に読むことはできたが、感想はというと、まあまあというところだろうか。
たぶん、西尾維新という作家でなければ、途中で読む気をなくしたかもしれない。

不満な点を挙げると、人物の描き方が平板だということ。
証子も、京樹も、陽義も個性的なキャラクターなのだが、あのアニメと違って今ひとつビジュアルに迫ってこない。個性的なくせに意外に言っていることがマトモすぎるということもあるかもしれない。そのせいか、物語の最後まで感情移入しずらかった。

それと、ミステリの重要なポイントである事件の真相が地味でオーソドックスなものだったということと、これまたミステリ特有の男女関係的なものが一切排除されているということだ。

証子は出会う男たちに対して、女性としての感想を述べない(オジサンが多いからかもしれないが)。彼女は、ちょうど会社に来たインターンのように社会見学的な感想を述べるのだが、これも意外に言っていることがマトモすぎる。
また、証子に出会う男たちも、証子に対して女性的な魅力を求めない。そのせいか、読者も証子に対して魅力をそれ程感じないことになってしまう、ということではないだろうか。

改めて思ったのが、今、アニメで見ている「物語シリーズ」の魅力である。
アニメ(映像)の力は、やはり大きかったのかもしれない。

インターネットで調べると、アニメの監督の新房 昭之氏は、市川崑監督の影響を受けているようなことが書かれていたが、私などは、『猫物語(白)』と『恋物語』には、鈴木清順監督の作品やリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」の美意識を随所に感じていた。

この美意識と、オタクっぽい美少女キャラが、どことなく、しかめつらしい意外にマトモなことを言うモノトーンの西尾維新の物語に化学反応した結果の魅力なのかもしれない。

もっとも、私がたまたま選んだ「難民探偵」が、西尾維新の作品のなかで、それ程の出来ではなかったのかもしれないが。

2013年12月15日日曜日

緑の影、白い鯨/レイ・ブラッドベリ

どこか幻想的な題名に惹かれて読んだ本だったが、全く予想に反した内容だった。

『華氏451度』で有名なSF作家であるレイ・ブラッドベリが、三十代の頃に、映画監督のジョン・ヒューストンから、彼が映画化するメルヴィルの「白鯨」の脚本化を依頼され、アイルランドで半年間、仕事をしたときの実話に基づいた作品だ。

当時、赤狩りが席巻していたアメリカを嫌い、アイルランドに移住していたジョン・ヒューストンは、知的な一面もありながら、酒と女とギャンブル、馬と狩りを好むマッチョな映画監督だった。

一方、レイ・ブラッドベリはイリノイ州の田舎町に生まれた生真面目な青年。
以下の写真(前者が右、後者が左)が、いかにも二人の雰囲気を表している。



才能はあるけれど、周りへの配慮はほとんどない。自分の思いつきで行動し、周りの人も巻き込み翻弄し、時には深い考えもなく人を傷つける言葉を吐く。(作品中、ブラッドベリも何度かその被害にあう)

そういう人が雇い主の下、難解な「白鯨」(完読率が極端に低い本らしい。私も読み切れていません)を脚本にするという難事業。

そんなブラッドベリの慰めになったのは、アイリッシュパブの酒と音楽を愛する常連のアイルランドの人々だったらしい。

しかし、そんなlittle helpがあったとしても、1年のうち329日も雨が降るという陰鬱な気候で、日曜の午後の過ごし方も途方にくれるという退屈なアイルランドのダブリンの片田舎で、何のロマンスもなく、半年間よくぞ耐えて仕事を完成させたね、ブラッドベリさん!というのが、読んだ率直な印象だ。

作中、一番面白かったのが、ジョン・ヒューストンの悪行の数々、そして、それに翻弄される彼の妻やブラッドベリの描写ということを思うと、ブラッドベリには、もともと、そういったことも楽しめる、ある種のマゾっぽい感覚があったのかもしれない。

物語の最後のほうで、ブラッドベリが、パブの人に「いつかは戻ってくるかね?」と聞かれ、はっきりと否定したように、彼は二度とアイルランドの土地は踏まなかったのではないだろうか。

そして、その気持ちはとてもよく分かる。
(映画の脚本家の仕事も、これ以降、引き受けなかったらしい)

2013年12月14日土曜日

彼方へ/丸谷才一

丸谷才一が1961年2月に書き上げた中編小説。

年代的には、最初の長編小説 『エホバの顔を避けて』 と、次の長編小説 『笹まくら』の間に位置することになる。

丸谷氏の作品に、このような小説が存在していたことは知らなかったので、興味本位で買ってみた。

物語は、1960年10月21日の夜、会社のタイピスト(もはや死語か)として勤める二十六歳の女性の一人きりの夜の部屋でふける物思いからはじまり、不倫関係にある四十三歳の会社重役の男、大久保の応接間の風景に移り、将来に不安を持つ新劇(これも死語か)俳優の子供も妻もいる三十五歳の弟がいて、所属する劇団では人間関係に苦労しながらも、コメディアンの夫を持つ女優との密会を楽しんでいる…という具合に物語が、二人の大久保兄弟を中心に少しずつ広がり交互に話が進んでいく。

ここまでは、ちょっと好色の中年の兄弟のごく普通の物語だが、物語の冒頭、タイピストの女性が大久保に語った死後の話から生じた死への恐怖が常にこの物語の中心にある。

この死後の話というのが、ある意味、的外れではないかというぐらい奇妙で、不気味な考え方なのだが、どこかに老いを感じはじめていた二人の兄弟は穴に落ちていくように、その死の呪縛に自ら陥っていく。

物語は、1960年12月2日、兄は死んだ友人の四十九日(正確には四十三日)の法要の帰りに代議士の友人と寄ったクラブで起こった事件で、弟は所属する劇団が演じるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の公演が終わりひとくぎりついたところで、意外な展開を迎える。

大久保兄弟は、兄には『笹まくら』の浜田、『たった一人の反乱』の馬渕の面影があるし、弟には、同じく『たった一人の反乱』の貝塚の面影がある。

また、死の恐怖という呪術的なところでは、『横しぐれ』、『樹影譚』につながるところもあり、丸谷氏の代表的な作品につながっていくプロトタイプのような作品ともいえる非常に興味深い小説だ。

2013年12月12日木曜日

ドライブ・マイ・カー/イエスタディ/村上春樹

どういうつもりで、ビートルズの曲を題名にした短編を連作しているのだろうと思ったが、考えてみれば、村上春樹には、すでに「ノルウェイの森」という代表作がある。

「ドライブ・マイ・カー」は立ち読みで、「イエスタディ」は文藝春秋を買って読んでみた。

「ドライブ・マイ・カー」は、女優の妻を病気で失った初老の俳優が、自分の愛車を運転することになった一風変わった若い女性運転手に心を開き、妻が生前浮気していたこと、そして、なぜ妻は、その男に惹かれたのかを知るために、その男と友達になり、執拗にその理由を探ったことを告白する物語。

読んだ当初は、そうでもなかったのだが、未だに物語のアウトラインや登場人物が、ざらりと記憶に残っている。

妻に対する執着というか、自分の愛したもの(愛車のサーブもそう)に対する強い執着と、それを他人に扱わせたとき(ドライブ・マイ・カーはまさに比喩)の男の奇妙な厳しさが印象に残った作品。

「イエスタディ」は、完璧な関西弁をしゃべる、生まれも育ちも東京都田園調布の浪人生と、ほぼ完璧な標準語をしゃべる神戸の芦屋で育った大学生の僕が友達になり、複雑な理由で僕と浪人生の彼女がデートをすることで三人の関係が変わってしまったという物語。

真実は見えているのに、人はふとしたことで終わりない回り道をしてしまうという、ちょっと悲しい物語だ。

浪人生が付けた「イエスタディ」の関西弁の詩が何となく哀愁を誘う。

昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

村上春樹の短編は、やはり上手い。
次回作も期待したい。

2013年12月2日月曜日

特定秘密保護法案に思う

多くの国民が、国民の知る権利の阻害、人権侵害の恐れという懸念を抱いているこの法案。

自民党の石破幹事長が、国会前の特定秘密保護法案に反対するデモ活動について、「単なる絶叫戦術はテロ行為と本質においてあまり変わらない」という驚くべきコメントを、自分のブログに書いたらしい(今日訂正したようだが)。

ナチス憲法発言の麻生副総理と言い、自民党の主要なポストにいる政治家は、どうも、国民に自分たちの政策を批判されたり、騒がれたりするのが嫌いらしい。

そんな人たちが、この法律を運用したら、自分たちに都合の悪い事実を次から次へと特定秘密に指定していくのではないのか?
国民の懸念はまさにそこにあるのだ。

それにしても、思わず本音が出てしまったのかもしれないが、民主主義を象徴するようなデモ活動をテロ行為とは。
中国ですら、そんな発言をする政治家はいないのではないだろうか。

こんな信頼できない政治家たちで、こんな法律を制定しようと急ぐことに賛成するほうがどうかしている。

2013年12月1日日曜日

NHKスペシャル 汚染水~福島第一原発 危機の真相~

こと、原発問題に関して、NHKスペシャルの取材・調査能力は非常に高い。

いまだ解決していない福島第一原子力発電所の「汚染水」問題に関して、何が問題なのかがよく分かった。

そもそも、「汚染水」というものがどこから生まれるのか。
「汚染水」は、いまだ熱を持っている核燃料棒を冷やすために格納容器に注がれている。
核燃料に触れた水は「汚染水」となる。
本来なら格納容器に溜まるはずの水が、破損箇所から漏れ出し、外へと流れ出し、地下水と混じり、海へと流れていく。

どこが破損箇所なのかを突きとめるため、カメラを積んだ小型ボートが格納容器近くを撮影したところ、滝のように流れ出している汚染水が撮影された。

破損箇所も一部見つかった(しかし、他にも破損箇所がある可能性もある)が、一箇所はサンドクッションドレン管という、結露の水分を流すためのものなのだが、そこから勢いよく水が漏れ出している。その部分はパイプの付け根付近なのだが、どこが破損しているかを見定めるためには、5cmほどの隙間から見るしかないという(現場は2シーベルトという人間が3時間いれば死に至るという高い放射能)。

専門家の意見では、ロボットの開発にかかっているというが、その間にも1日400トンもの汚染水が生まれている。すでに汚染水を入れるタンクは1000基に達している(しかも、そこからも水漏れしている)。そして、汚染水からは、トリチウムは20年間、セシウムは40~50年は出続けるだろうとのこと。

もうひとつの問題は、破損箇所から漏れた「汚染水」がどこから、外に漏れて地下水と混じってしまうのか、場所を突きとめられずにいること。
疑われていたトレンチをコンクリートで固めても、湾内のセシウム137の濃度は、一時期、下がったものの、いまだ下がらず、国の基準を超える時期もあるという。
建屋にも破損箇所があり、そこから漏れている可能性もあるのだが、地下水より建屋の汚染水の水位を低くするという対策では十分ではなかったようだ。

さらに、海への流出を防ごうと地下で固る水ガラスを海岸沿いに流し込んだが、これでも、湾内のセシウム濃度は下がらなかった。原因は、弧を描くように複雑な動きをする地下水の流れにあるらしい。

もっと怖いのは、現在多く検出されているトリチウムの次に、セシウム、ストロンチウムが、これから遅れて流れてくるという事実があるらしい。つまり、汚染はこれから拡大していくのだ。

国もようやく本腰を入れ、1号機から4号機までを地下水路よりさらに深く、凍土壁を埋め込み、汚染水の流出を防ごうというプロジェクトを始めたらしい。
しかし、まだ、試験段階のようで、仮に上手くいったとしても開始してから完成するまで1年はかかるということらしい。

この途方もない作業を、日々年間被爆量と戦いながら作業者3000人のうち約半数は、地元福島の人だという。本当に現場で働く人たちの健闘を讃えたい。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1201/index.html

汚染水は完全にコントロールされていると誰かが言ったような気もするが、そんなたやすいことではないという事実をよく分からせてくれた番組だった。