2016年3月27日日曜日

安土往還記 辻邦生/日本文学全集19

イエズス会の宣教師を送り届けるために日本を訪れたジェノヴァ出身の船乗りが語る“尾張のシニョーレ(大殿)”織田信長の物語だ。

この物語の特質すべき点は、この船乗りと宣教師たちが信長にある種の共感(シンパシー)を持っていたことを描いている点だろう。

信長のような権力を持った強靭な信念の持ち主に対しては、服従と畏敬、あるいは反抗と否定を持つ人々に分かれる。

日本史の中でも、信長ほど、エピソードと物語性に富んだ人物はいないと思うが、彼を取り巻くほとんどの人々は上記のうちの二者択一だったと思う。

この物語で語られるのは、元亀元年(1570年)から天正十年(1582年)までの最も精力的に活動していた時期の信長であり、数多くの敵に囲まれながら、抜群の才覚で何度も死地を潜り抜ける有能な指揮官の姿を見せる一方、比叡山焼き討ち、石山本願寺との闘い、自分を裏切った荒木村重の親族に対する処罰など、自分の敵に対しては、宗教者、女子供といえども徹底的に容赦のない殲滅を行った非情な支配者の姿である。

何故、平和と愛を説くべきはずの宣教師たちが、この非情な信長に共感を持っていたのか。

一見、穏やかな素性に見える宣教師たちも、故郷での安穏な生活を捨て命がけで新世界を探す船旅に参加し、たどり着いた言葉も分からぬ新世界でキリスト教を普及させる情熱を傾けていた人々である。そして、この物語の語り部である船乗りも、妻の裏切りから犯罪を経験し、自分を飲み込もうとする運命を自分の意志で押さえつけたいいう強烈な願望を持った男だった。

こういうある種のビジネスの達成を人生の目標にしている人々や果断な意志の信奉者にとって、信長という男の考えと行動は実に明確だったのではないかと思う。

そして、信長も、堕落しきった実利を伴わない仏教の宗教者を弾圧する一方、命がけで仕事を成し遂げようとする宣教師たちを理解するとともに、彼等が有していた当時最先端の西洋の武器、産業、科学を貪欲に吸収し、その合理性を理解した。

信長は、華麗な安土城と同じ青い瓦を用いた宣教師館を安土に建築することを許した。セミナリヨ(小神学校)も設立され、自然科学、数学の教育も行われた。

この栄華を極めた信長の一代を終わらせるのは、明智光秀だったが、この物語では、皮肉なことに、信長が最も信頼を置き、その仕事ぶりに共感すら感じていた光秀が、信長の苛烈な精神に見つめられることに疲れ切っていた姿を描いている。

光秀の行動は人間的な弱さに起因するものであり、そこを見抜けなかった信長の死はやむを得なかったとも思う一方、もし、本能寺の変が起こらなかったら、信長はどういう日本を作り上げていたのだろうかという日本人であれば誰でも思うこの疑念が心を過る。

この問いは、語り部の船乗りが、自身の思いも乗せた一つの強靭な精神が死んだことを悲しみ、本能寺の変の後、日本を離れ、インドのゴアで失意のうちに暮らす中でも繰り返し去来したものであったに違いない。

2016年3月20日日曜日

紫苑物語 石川淳/日本文学全集19

石川淳の文章は、たとえて言うなら、居合術で鋭く空を切る日本刀と似ている。

気合いがみなぎっているというのだろうか、下卑な事柄を取り上げているときでさえ、その文章にはたるみがなく、品がある。

そのくせ、文章はしなやかで、リズムよく前へ前へと引っ張ってゆく力に満ちていて、読んでいて心地よい。

明治以降の小説家のなかで間違いなく、五本の指に入る名文家の一人である。

この紫苑物語は、その物語も躍動感に満ちている。

歌詠みの父を持ち、勅撰集の撰者にもなれるほどの詩才を有していながら、その道を捨て、父と断絶し、遠い国に左遷されながらも弓矢をもって狩の道に突き進む宗頼。
信長あるいは詩人のランボーのような強い個性の持ち主だ。

その宗頼に絡んでくる周りの人々も負けずと個性が強い。

みにくい顔立ちと赤黒い体を持ちながら、手あたり次第、男と関係を持ち、性の快楽を追い求め続ける正妻のうつろ姫。

宗頼の伯父で弓矢の師匠でありながら、狼に憑かれた心根の持ち主である弓麻呂。

宗頼に弓を射られ、その仕返しに色をもって精を吸い取り、陰謀をもって宗頼の治政を壊そうとたくらむ狐の千草。

宗頼と弓麻呂を争わせ、国を乗っ取ろうと企む家臣の藤内。

宗頼と相似する精神力を持った仏彫師の平太。

宗頼は、殺生の是非を問わず、これら強敵に弓矢をもって対峙する。

宗頼が放った弓矢が平太の彫った仏を貫き、そのエネルギーが尽きることなく、最後には鬼の歌へと変化してゆく物語は、一定の速度を保ちながら、まるで一筆書きのように流れてゆく。

2016年3月14日月曜日

樹影譚 丸谷才一/日本文学全集19

丸谷才一の傑作と言って間違いない短編小説で、はじめて読んだときは、小説でこんなことが出来るのかと驚いた記憶がある。

物語は三部構成になっていて、まず第一部で、わたし(丸谷本人なのかもしれない)が、壁に映った樹の影を見るのが好きだという述懐からはじまる。なぜ、自分は樹の影が好きなのか、その性癖は何によるものなのか、わたしは検証を重ねるが答えを導き出せない。職業作家として、この性癖を題材にした短編小説を書くことを思い立つが、ナボコフがすでに同じ趣向で短編小説を書いていたため、これも着手できずにいた。しかし、わたしが、ナボコフの短編小説を読み直そうと、心当たりの作品を読んでも見当たらない。ナボコフの翻訳者に聞いても知らないという。加えて、わたしがぼんやりと記憶していたあらすじを検証してみると、ナボコフだったら、取り上げないだろうという致命的な欠陥があることに気づく。そして、わたしは、これから、書こうとする話が誰かの作品に似ているふしがあるかもしれないと断りつつも、樹の影を題材にした短編小説を書くことを宣言する。

第二部は、わたしの書こうとした短編小説の主人公の説明である。
主人公は、 明治の終わりに生まれた七十歳代の古屋逸平という小説家だ。
作風は、自然主義文学とは異にした硯友社の筆法をよみがえらせたと評されている。
そして、彼の文学観、代表作が紹介され、次いで、彼の仕事道具のスクラップ・ブックのページに視点が移る。古屋は、自分が書こうとしている姦通小説の道具として、樹の影を使うことを考えていて、かつて、フランスの雑誌から切り抜いたと記憶している樹の影の写真を探しているのだ。
しかし、その写真は見当たらず、古屋はそういえば、自分は樹の影が好きだったということに気づく。
樹の影にからむいくつかの思い出。そして、自分が過去に書いた小説にもいくつか樹の影を扱った場面があることに気づく。

第三部は、わたしの書こうとした短編小説の本編である。
古屋逸平が、故郷での講演を依頼され、それを引き受けたところから話ははじまる。

そして、彼が文芸評論を書くための草稿メモの内容。

捨子譚、継子譚に端を発した小説論、十九世紀半ばから後半までのヨーロッパ文学の身も蓋もない分類、志賀直哉と折口信夫に対するきわどい批評。

物語は本筋に戻り、古屋のもとに見知らぬ老女から、講演会の折に、自分の家で是非会ってほしいという速達が届く。 あまりに慇懃な内容に違和感を覚え、一度は断るが、その老女の姪からの取りなしの手紙もあり、会うことを約束する。

老女の家を訪れた古屋は、そこで自分によく似た男の子が知らない女性に抱かれている写真を見せられる。そして、老女は、その男の子が古屋であり、抱いているのが実の母だと告げる。そばにいた姪は写真を見て「マサシゲ童子に似てる」とつぶやく。その「マサシゲ童子」は、仏壇に写真が飾られており、写真に写っている男の子と似ている。そして、部屋の明かりが消え、ランプが灯されると、銀屏風に盆栽の樹の影がうつる。

「三つ子の魂百まで、でございますね。」。 老女は古屋の作品に樹の影が何度か取り上げられていることを指摘し、次いで、幼少の古屋が、この樹の影を見て、「キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ」と最初の言葉を発していたことを明かす(それは老年の古屋が無意識に発した独り言と同じだった)。

以上が物語の概要だが、実に凝った作りになっている。

第一部で、これから、なぜ自分が「樹の影」を題材にした小説を書こうと思ったのか、その動機を説明し、第二部では、その小説に登場する主人公のキャラクターを説明している。
いわば、第一部と第二部は、通常公開されることはない小説家の内的な思考のプロセスといっていい。そういう手のうちを見せておいて、さらに、冒頭に捨子譚、継子譚に端を発した小説論を紹介し、その論を見事に実証したかのような印象の残る本編が続くのが第三部である。

そして第一部では軽いタッチで語られていた「樹の影」が好きだという性癖が、第三部では、自分すら覚えていない過去の記憶まで遡ってゆくのだ。

一体、古屋は誰の子だったのか。
「マサシゲ童子」とは誰なのか。
この老女は何者なのか。
なぜ、古屋は幼少の頃に老女の家に預けられていたのか。

そういう謎だらけの自分の知らない過去が実は「樹の影」には隠れていて、老女が発した呪文のような言葉「キノカゲ」により、遂に七十歳代の小説家の自我は解体され、過去に転生していくような最後で物語は終わる。
ただ、ざわめく影の樹々のなかで時間がだしぬけに逆行して、七十何歳の小説家から二歳半の子供に戻り、さらに速度を増して、前世へ、未生以前へ、激しくさかのぼってゆくやうに感じた。
実に理知的な作りの小説なのに、もっとも重要な部分で描かれていることは、自分ではコントロールできない、自分さえ知らない過去の記憶と前近代的な世界の圧倒的な力なのだ。

このギャップがこの小説の大きな魅力であり、怖い部分でもある。

2016年3月13日日曜日

NHKスペシャル 原発メルトダウン 危機の88時間

この番組を見て、今、こうして、東日本に住んでいられることが本当に運が良かったことなのだなと思った。

再現ドラマでも取り上げていたが、2号機では、1号機・3号機で対応できたベントもできず、格納器(放射能を閉じ込める最後の入れ物)が爆発する寸前まで圧力が高まってしまった。

この2号機で、格納器が爆発していたなら、高濃度の大量の放射能がまき散らされ、福島第一原発の敷地には一切立ち入ることが出来なくなり、ついには、福島第二原発まで立ち入りが出来なくなり、事故が拡大し、東日本全域が人の住めない事態になる可能性もあったということだ。

何故、そうならなかったか。それは命がけで対応した東電の人たちの力ではなく 、単に運が良かっただけに過ぎなかった(2号機格納器の上部から自然に内部の気体が漏れて爆発を免れたということだったらしい)。

吉田所長や当時の東電社員の証言を加えた再現ドラマだったが、当時、事故対応に当たっていたひとたちは本当に命がけで懸命に対応していたことが伝わってきた。
しかし、そういった人の努力ではもはや抑えきれないのが、原発事故の本質であるという結論に落ち着くと思う。

最近、 大津地方裁判所が、関西電力の福井県高浜原発3・4号機の運転差し止めを認める仮処分を決定したが、その判断理由に

福島原発事故の原因が解明されていない中で、地震・津波への対策や避難計画に疑問が残ると指摘していた。また、関西電力の安全性に関する証明は不十分であるとも。

私は、上記の判断理由は、日本の多くの国民の一般的な認識と同じだと思う。
五年経ったが、 福島原発事故の原因は解明されていないし、収束もしていない。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160313

レベレーション - 啓示 - 1/山岸凉子

山岸凉子が男性向け漫画雑誌「モーニング」に隔月掲載している作品だ。
題材は、何とジャンヌ・ダルク。

物語は、 ジャンヌ・ダルクが囚えられ、処刑される日からはじまる。
彼女は、自分がそんな運命に陥ってしまったことが、まだ受け入れられない。
何故なら、彼女は神の啓示を受けたからだ。

そして、彼女が最初に啓示を受ける前の、まだ普通のフランス農民の十三歳の娘だった頃まで、時は遡る。この物語の特徴的なところは、二つあって、先ず第一に、歴史的背景として、百年戦争を取り扱っていることだ。

フランスの王位継承をめぐるイギリスとフランスの争いの背景(家系図、人的関係、年表、地理)は、かなり、ややこしい。これを漫画の中で取り上げて分かりやすく説明するのは至難の業だと思う。
今まで歴史物を多く取り上げてきた山岸凉子だが、この作品はチャレンジといっていい。

第二に、ジャンヌが受けた神の啓示をどう描くかである。
教会の屋根から注ぐ光、風とともに現れた空から見下ろす眼、波動とともに現れる天使、脱魂状態。そして、神の告げる言葉。これらを漫画で表現するのも相当に難しいと思うが、山岸凉子らしい“異形な神”を描くことに成功していると思う。

また、上手いと思うのは、ジャンヌが一方において現実から逃避したい背景を抱えていたことを描いていることで、これによって、読者は、ジャンヌは確かに啓示を受けたかもしれないと思うこともできるし、精神的に追い詰められた彼女が見た幻ではないかと思うこともできる解釈の幅を持たしていることだ。そのせいで、この物語は“神と人間の関係”という宗教の根幹部分(およそ普通の漫画では取り扱うことのない領域)に足を踏み入れている感がある。

まだ一巻しか出ていないが、今後の展開が楽しみな作品だ。




2016年3月12日土曜日

NHKスペシャル シリーズ東日本大震災 “26兆円” 復興はどこまで進んだか 

東日本大震災の復興予算として、 26兆円あまりが使われたが、それがどんな用途にいくら使われたかを分かりやすく説明していた。

情報公開請求により、国から取り寄せた資料に基づき、 数多くの復興事業を色分けし、コンピュータグラフィクスで一本の木の枝で表現していた。

もっとも多く使われていたのは、やはり、インフラ・住宅の整備で、50%を超える割合だった。
ただ、 住宅の整備が遅れている地域もあり、その代表例として挙げらられていたのは、陸前高田などに見られる高台を造成して街を作っている地方自治体だった。
対して、差し込み式というやり方で、農地の空き地などを利用して住宅を整備した大船渡市などは、3年でほぼ完了できた。
個人的に思うのは、こういうことはスピードが命ではないだろうか。

次に多かったのは、産業振興・雇用確保(20%くらい)で、産業振興については、被災地の一つの事業の固まりに関連する複数の中小企業をグループ企業として多額の補助金が支払われたという。
この補助金を受けて震災前より増収を果たした企業もあるが、人口減少と高齢化の影響を受け、減収になってしまった企業もあるという。建設業は増収だが、水産業は漁師などが戻らなかったり、水産加工工場での勤務に戻らず転職したりして減収だという。

それほど予算としては多くなかったが、「被災者支援」も紹介されていた。
これは、NPO法人への支援が主な内容らしい。例えば、仮設に住む高齢者を病院に送り迎えする送迎サービスを行ったり、仮設で勉強部屋を確保できない子に学習支援をするサービスだ。
しかし、この学習支援サービスについては、来年は補助を打ち切られて終了せざるを得ないのだという。

国は、この5年間を「集中復興期間」として26兆円をつぎ込んだが、今後は、5年間には6.5兆円に減額し、一部は地方自治体に負担を求めるらしい。

復興の現状は、まだ道半ばというのが実感だ。本当に必要な復興事業に、不足なく支援金が支給され、活用されることを願う。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160312

2016年3月7日月曜日

蘆刈 谷崎潤一郎/日本文学全集15

あらすじは、こうだ。

語り部である私が、増鏡の「おどろのした」に出てくる「水無瀬の宮」に行き、後鳥羽院の歌などに思いを巡らし、その足で、淀川べりで月を見ることを思い立つ。

私が淀川の中州の水際で寒さしのぎに「正宗」の熱燗を飲みながら歌を書いていると、蘆の間に影法師のように男が立ち現れる。

男は、瓢箪に入った冷酒を私に飲ませながら、巨椋(おぐら)の池に月見に行くという。
そして、四十年ほど前には、毎年十五夜になると父に連れられ、 巨椋の池に月を見に行き、とある別荘で行われている月見の宴会の様子を覗き見ていたという話になる。

その別荘の御寮人は、「お遊さま」と呼ばれる女性で、父は息子に「お遊さま」 のことを忘れずにいてくれ、その様子を覚えておいてほしいと涙声で云う。

そこから、父と「お遊さま」とのなれそめが語られることになるのだが、「お遊さま」が子持ちの未亡人であることから、父は「お遊さま」とは結婚できず、「お遊さま」の妹の「おしづ」と結婚することによって、「お遊さま」と姉弟同士の付き合いをしたことが分かる。

異常なのは、「おしづ」も自分の結婚が「お遊さま」と父の関係を保つための仮装のものであることを認めていることで、三人の関係は、肉体的なものはないが、「お遊さま」の乳を「おしづ」が吸い、その母乳を父が飲んでみるといった妖しい雰囲気のものだった。

やがて、「お遊さま」の子供が病死することで、「お遊さま」と父の関係は壊れてしまうことになる。

以上があらすじだが、 「お遊さま」の顔の描写が独特である。
父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少なくないけれども、お遊さまの顔には何かこうぼうっと煙っているようなものがある。顔の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない。じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる。
また、私にこの話を語り聞かせる男の正体も謎めいたものある。
最後に月の光の中に溶け入るように消えてしまったこの男は、果たして実在の人物だったのだろうか。「お遊さま」を慕う父の思慕の念が姿かたちをとったものなのか、あるいは、本当に息子だったのか。だとすれば、本当に「おしづ」が母だったのだろうか。

あるいは、川の中州という、あの世とこの世の境で酒に酔った私が月の光に見た幻なのかもしれない。

増鏡、大和物語、後鳥羽院の和歌などの古典を枕に置いたことで、物語は重層的な深みを増し、意図的に省かれた句読点、連綿とした仮名中心の文体は美しく細やかでありながら、「お遊さま」のように、どこか霞のかかったようなぼうっとした印象を残す。そして、その効果がこの物語にふさわしいのは言うまでもない。

2016年3月6日日曜日

NHKスペシャル 被曝(ひばく)の森 ~原発事故 5年目の記録~

原発事故によって、全域避難が指示された20km圏内の無人の街では、この5年の歳月で、野生の動植物に支配されつつある状況にあるという。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160306

植物のツタが家を覆い、無人となった家々はアライグマ、ハクビシンが天井裏に入り込み、イノシシの大家族も雨露をしのぐ絶好の住処としている。

完全に主客転倒した街では、イノシシは人間に出会っても恐れず、むしろ、侵入者として人を威嚇してくる。

地元の猟師の人たちによると、こういう状態になると人が帰ってきたからといって、イノシシが山に帰るということは、よほどの大きな圧力がかからない限り、絶対にあり得ないということだった。
 イノシシは定期的に駆除はされているようだが、一向に数は減らないという。

自然に戻るということは一見よさそうにも見えるが、現実的に帰還しようとする人々の大きな障害になるのは確実だろう。

番組ではもう一つの側面として、動植物が被曝してどうなっているかということを取り上げていた。

森は地面を中心にスーパーホットスポットと呼ばれる毎時100マイクロシーベルトの高い線量が計測される場所がまだあるという。

そこで育つ植物にも、その植物を食べる昆虫や動物にも、特殊なフィルムでみると、セシウムを摂取した黒い影が体全体を覆っていることが分かっている。
セシウムは、体に必要なカリウムと似ているため、体内に取り込まれやすいという。

ただ、間違いなく被曝はしているのだが、ネズミなどは現時点では特に染色体にも影響がないという。
番組ではチェルノブイリでの被曝した動植物との比較がなされていたが、松の枝は、幹が育たず、枝が放射線状に育つ異常が現れるという。(福島でも確認された)

ツバメも、尾の左右の長さがアンバランスになる確率が高いという。(これも福島でも確認された)

もう一つ、興味深いのは、チェルノブイリではいなかった哺乳類 ニホンザルへの影響である。
これについても、見た目や血液にも異常は見られないということだが、一部の個体には骨髄の血液をつくり出す細胞の数が異常に減少していることが分かったという。

ただ、こうした放射能の生物への影響は二十年単位で継続して観察しないと分からないということらしい。

2016年3月5日土曜日

NHKスペシャル “原発避難” 7日間の記録 〜福島で何が起きていたのか〜

あの日、2011年3月11日(金)の14時46分に起きた巨大地震と津波の後、
3月12日(土)15時36分に、福島第一原発1号機が水素爆発
3月14日(月)11時1分に、3号機が水素爆発
3月15日(火)6時14分に、4号機も水素爆発

これを受けた政府の避難指示は、以下のとおり。
3月11日に原子力緊急事態宣言を発令し、3km圏避難を指示。
3月12日 5時には10km圏避難に変更し、1号機の水素爆発の3時間後には20km圏避難に拡大。
3月15日には、20~30km圏屋内退避を指示。

この五月雨式の避難指示の変更に、原発周辺地区の住民たちは翻弄された。
本来であれば、国・県・市町村・東京電力が事故後の対策を検討・実行する基地となるはずのオフサイトセンターが、津波対応、電源喪失の影響により全く機能せず、放射能の拡散予測を計算する情報システム「SPEEDI」も機能しなかった。

南に原発、北は津波で寸断された国道6号線。人々はやむを得ず、北西の方角に避難したが、結果として、漏れた放射能は同じ北西の方角に流れ、雪などに付着して地上を汚染し、避難した人々はいまだに被曝した不安にさいなまれている。

番組では、全域避難を余儀なくされた浪江町、南相馬市の人々の証言を生々しく伝えていた。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160305

テレビの報道で、避難指示を知った浪江町の馬場町長。

20km離れた津島地区までの車の大渋滞と、避難する人々で溢れる避難所。

ヨウ素剤はあったが、全員に配付する数もなく医師の指示も得られなかったため、配ることを悩み続け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまった保健婦。

避難所の外で孫を遊ばせてしまったことを後悔する祖母。

浪江町の西病院では、寝たきりの入院患者全員を自衛隊のヘリも救出できず、避難しろという圧力が高まるなか、やむを得ず、バスで避難させたことで体調を崩し、3名の老人が亡くなったという(避難先でも死期が早まったケースもあった)

政府の屋内退避指示で、逆に避難できなくなってしまった南相馬の老人福祉施設の人々。
外気を取り入れることを避けるため、エアコンを停止し、体調を崩す入院者たち。

信じられない話だが、政府は住民たちに屋内退避(そこに留まれ)の指示を出しておきながら、一方ではトラック協会に対し、物資を運ぶトラックを屋内退避区域に入れないよう指示をしていた。
これによって、命に関わる医薬品も含め、南相馬市の物資は枯渇していく。
南相馬市の桜井市長は、当時のニュース番組の電話出演でその窮状をさかんに伝えていた。

物資も尽きる中、南相馬市の判断で住民たちは自主避難を始めるが、パニック障害のお子さんを持つ女性は、避難所にも行くことが出来ず、ゴーストタウン化する街で、不安と孤独にさいなまれる。
いまだに、冷蔵庫一杯に食料を入れておかないと不安だという。

毎日の訪問介護を必要としていた利用者を訪問することが出来ず、4日目に訪れた介護士は、体調を崩した利用者を発見する。満足な治療も受けられず、翌日亡くなった利用者を、今でも忘れることが出来ない、自分の力が及ばなかったことを後悔していると、涙声で語っていた。

ゴーストタウン化する街に取り残された女性が言っていた「私にとって、まだ震災は終わっていない」という言葉がとても重い。