2022年2月23日水曜日

いつか死ぬ、それまで生きる わたしのお経/伊藤比呂美

 詩人の伊藤比呂美がまとめたエッセイとお経、その現代語訳、著者朗読のCDが付いているという複合型の本だ。

伊藤比呂美は、自身の家族の死を通し、さまざまなお経を読むうち、お経というものは、その昔、ブッダの仏教から大乗仏教というものが派生して、人々が町々の辻々で語って広めて歩いたものだから、語り物として聞いて面白いように作ってあるということに気づく。

舞台がある。観客がいる。いきいきとした対話がある。その対話を聞いている大勢の人々が背景にいる情景が目に浮かぶと。

その解釈から現代語訳された「般若心経」は読んでいて面白かった。

薄暮れの川のほとり、三十~四十人の聴衆がいて、川の向こうではブッダが瞑想中。その川のほとりの階段で観音菩薩が修行者の舎利子(シャリープトラ)に語りかける設定にしたことで、「般若心経」は一つの物語になった。

一つの物語になっただけではなく、観音菩薩はダンスを踊りながら、無い、無いづくめのシンプルで強力な哲学論議をリズムに載せて展開している。

そして、観音の一言一言に、聴衆を代表した舎利子が、驚き、戸惑い、怒り、動揺し、やがて理解するプロセスが描かれている。

最後の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」を、そのまま「ぎゃーてい、ぎゃーてい...」と読み上げるのだが、ことばの響きの力強さが伝わってくる。

読んでいて、心がすっきりと晴れ上がっていくような気分になる。

他のお経も興味深かったが、この「般若心経」は、とびぬけて素晴らしかった。

2022年2月13日日曜日

詩歌川百景 2 /吉田秋生

この第2巻では、寿子(妙の伯母で"若女将"と呼ばれている)の娘の麻揶子が登場する。

麻揶子の絵だけ見ると、妙のおばさんみたいに見えてしまうが、妙の母親の絢子の姉が寿子なので、彼女たちはいとこ同士なのだ。(寿子の息子の仙太郎も同様に妙のいとこ)

民子という人間のできた”大女将”の不肖の娘たち、寿子と絢子という母親たちから呪いをかけられた娘の麻揶子と妙。

麻揶子は、母親である寿子から「あんたは見た目があたしに似てよくないからせめて愛想よくしなさい」と呪文をかけられ、妙も絢子の「自慢のお姫さま」という呪文をかけられるが、相当のエネルギーを使って、その呪文から抜け出すことができた強い精神力を持った二人だ。

その二人が、暴力を振るった父親から受けたトラウマと不貞の母親の存在に傷ついて、いまだ回復できていない和樹を心配するのは自然の流れかもしれない。

父母の陰口を言われ、傷ついた和樹を、妙が、和樹の義姉のすずが好きだった秘密の高台に連れていく場面がいい。

こんなに人の心が分かる妙には本当は医者を目指してほしいと思ってしまった。

2022年2月12日土曜日

日本人にとって聖地とは何か/内田樹・釈徹宗・茂木健一郎・高島幸次・植島啓司

内田樹は、「聖地」を「そこでは暮らせないところ」であり、「敬してこれを避ける」というのが基本であると説明しているのが興味深い。

そこに行くと、自分の感性がザワザワする、そのザワザワには、「よきもの」や「悪しきもの」に対する感知が含まれている。

巷で言う「聖地巡礼」とは異なる説明だが、ここでその「聖地」の例として挙げられているのが、熊野古道や新宮の火祭りなのだが、なんとなく、その意味しているところは伝わってくる。

また、大瀧詠一の言葉「聖地はスラム化する」を引いて、聖地のパワーが強ければ強いほど、周りには卑俗なものが配列されるという説明も面白かった。確かに有名な神社・仏閣・景勝地には、土産物屋とか、一昔前は遊郭などがあったことも説明がつく。聖と俗ですね。

本書は、あまり体系的な読み物ではないが、そのせいで、パラパラと他にも面白い説明があった。

茂木健一郎は、人間の性格の要素の重要な要素を5つ挙げており、第一がOpenness(新しい経験に対して開かれていること)、第二にExtraversion(外向的)、第三はAgreeableness(親しみやすさ)、第四はConscientiousness(物事を最後までやり遂げる力)、第五にNeuroticism(悩んだり嫉妬するネガティブな因子)から構成されているという。この第五をどうなだめたり、抑えるかが重要だと。
これに関して、内田樹は、暴力的なもの、攻撃的なものは、映画でも漫画でもあまり見ない方がいい(そこで見た血なまぐさい映像や心象に心は影響される)と言っているのも興味深かった。それと同じく、不安や怒り、恐れとか、切迫したら、瞬間的にパッと切る、というやり方は、心の調え方としてとても納得できる(実際にやるのは難しいと思いますが)。

植島啓司によると、三世紀の中国の書物に「海賦」があり、太平洋の航海記録が残されているという。イースター島を思わせる記述もあり、三世紀にすでに中国大陸から南アフリカ近くまでの移動の記録が残っているという。(インターネットで無料で読むことができると書いてあるが、ヒットせず。謎です)

魏志倭人伝にも出てくるが、縄文人は海洋民族で、体に蛇のうろこ等を入れ墨していた(司馬遼太郎の「木曜島の夜会」にもその末裔が出てきますね)。内田樹によると、その海洋民族の系列にあったのが平家で、源氏は騎馬民族系だった。源平合戦があり、日本の社会体制が変わり、古代から中世へ時代が転換した。武家が馬を操って日本中を制覇していく時代になった。

と、色々と面白いエピソードが書かれています。


*新宮の火祭りは、私も行ったことがないですが、youtubeで映像がありました。例年2月に行われるようですが、今年は神事のみ行われるとのことです。コロナの影響でしょうね。残念です。

2022年2月6日日曜日

言葉と歩く日記/多和田葉子

この本は、多和田葉子の2013年1月1日から4月15日までの日記なのだが、この期間に彼女は自分の日本語の小説「雪の練習生」をドイツ語に翻訳していた時期でもあったらしい。

その「雪の練習生」で、多和田葉子は、主人公を人間なのか動物なのか分からないまま話を始めたかったのに、ドイツ語では、動物の手足と人間の手足をさす言葉が異なっているので、すぐわかってしまうため、人間の手「hand」と動物の手「Pfote」を組み合わせて「Pfotenhand」という単語を作ったという話が書いてあった。

彼女はその単語作りをやりすぎだと思い、一旦そのアイデアを捨てるのだが、ウィスコンシン大学の日本文学の授業で、ドイツ語を教えているドイツ人女性に「その言葉はとても美しいと思う」と言われ、この造語をまた使う気持ちに変わったというエピソードが面白かった。

言葉には無限の可能性がある。多和田葉子はその可能性を深く探索し、この100日近い間、言葉をめぐって様々な考察を行っているのだが、その試行錯誤が興味深い。

例えば、「自分はなんて駄目なんだろう」という文章は、考えることをやめた結果残ってしまった物質であり、この文章を解体しなければならないと述べている。そして、たとえば「わたしは試験に落ちた」と言えば、主語である「わたし」が失敗を引き受けなければならない代わり、もう一度挑戦することができると述べている。
(この主張は、片岡義男氏の日本語に対する批評とよく似ていると思ったが、実際、この日記の中で片岡義男氏の「英語で日本語を考える」を読んでいたことが書かれている)

他方で、日本語に主語がないという特徴(わたしや彼は人称代名詞ではなく、ただの名詞)について、世界的には主語を省略できる言語の方が圧倒的に多く、むしろ主語がなくては困る言語(英語やドイツ語)の方が少数派であるという金谷武洋氏や月本洋氏の著書を引用し、その主張に共感している。

日本語批評という点でも、はっとさせられる文章が多かったが、なるほどと思ったのが、「炉心溶融」という言葉だ。

彼女は、原発事故の際、ドイツの新聞に比べ、日本語の新聞の書き方があいまいだったことを指摘し、なかでも「炉心溶融」(ろしんようゆう)という単語のインパクトが弱いことを指摘している。ほとんどの人にはどういう意味か分からなかっただけでなく、イメージさえ湧かなかったという感想を述べている。

また、フランスで、福島の原発事故を巡り、それは日本の技術が低いからで、フランスには事故がないと思い込ませるような内容の記事について、

母語で得られる情報だけに頼るのは危険だ。外国語を学ぶ理由の一つはそこにあると思う。もし第二次世界大戦中に多くの日本人がアメリカの新聞と日本の新聞を読み比べていたら、戦争はもっと早く終わっていたのではないか。...書かれていることがあまりに違うということだけで、自分の頭で考えるしかない、なんでも疑ってかかれ、という意識が生まれてくる。そのことが大切なのだと思う。

と述べている。比較はともすれば、知りたくないことや嫌なことにも目を向けなければならない非情の客観性が求められる。

外国で暮らし、外国語と日本語を、その先の文化も含めて、常に比較することを意識している作者だから、言えた言葉かもしれない。こういう言葉は、なかなか、内向きの社会からは生まれてこないような気がする。