2017年8月31日木曜日

一十三十一 Billboard Live東京 8月31日

六本木駅の長いエスカレータを昇って、東京ミッドタウンへ。
エレベータ4階で降りると、 Billboard。



19時開演のライブだったので、18時頃会場に着いたのだが、すでに1階の自由席は満席に近かった。

このBillboardの会場の面白いところは、1階のアリーナ席のようなテーブル席が自由席で、2階の席が指定席になっている。

たぶん、2階の眺めも良いのだろうが、アーティストを間近で見れる1階も捨てがたい。

早速、飲み物と食事を始めて、周りを見渡すと、客層は自分よりちょっと高めの年齢層だったと思う。(若い人も何人かはいた)。

きれいな夜景をバックにしたステージは驚くほど狭い。


19時過ぎ、会場の方からメンバーがステージに上がってきた。
hitomitoiは、“Flash of Light”で着ていた衣装を着て登場。
足が細いというか、ばっちり鍛えている風の筋肉質な足が、むしろ印象的だった。

最初の曲は、DIVE。
なかなか、キーかテンポが合わないのか、何度か、指を上にあげる仕草をバックに出していた。

最初、緊張している感じだったが、途中、今回のアルバム“ECSTACY”をプロデュースしたDorianが合流してから、ほぐれてきた感じ。

半ズボン姿のDorianは、服装をいじられると、ZARAで今日買ってきましたと返し、独特の髪型をいじられると、QBで切ってきましたとこれまた軽い返し。(意外と面白い人なのかも)

途中、 hitomitoiが、“ECSTACY”でDorianと初めてデュエットした曲は?と会場に聞いたのだが、最初みんなポカンという感じだった。私もわからなかったが、実は「Discotheque Sputnik」だった。

それを気にしたのか、アンコールの曲のあたりで、Dorianが「みなさん、“ECSTACY”を楽しんでもらえてますかね?」とボソッと聞いたのが印象的だった。(会場は拍手で肯定した)

KASHIFも、普段着のような恰好で参加するし、彼女のパートナーは、よくいえばみんな自然体なのかな。

 曲は、“ECSTACY”中心だったが、Surf Clubから Dolphin があったのと、アンコールで、“恋は思いのまま”を聞けたのはうれしかった。

途中、彼女が、2弦だけの赤いギターをガーンと弾いたのだが、それがあまりに印象が強すぎて、何の曲か忘れてしまった。(後で思い出したら「夏光線、キラッ。」でした)


夏の終わり、不思議に元気をもらったライブでした。

#Billboardのフロアスタッフは、みんな感じがよかったです。

2017年8月29日火曜日

神様/神様2011 川上弘美 近現代作家集 III/日本文学全集28

1993年に書かれた「神様」は、熊と川原に散歩に行く物語だ。
誠実でやさしい熊と親しくなった幸せな一日。

原発事故後、その「神様」をアレンジして書かれた「神様2011」。
「神様」とストーリーは同じだが、 いたるところに、放射能の影が見える。

この作品を読んで、久々に2011年という年を思い出した。
それは、日常生活の中で、ベクレル(Bq)、マイクロシーベルト(μSv)、ミリシーベルト(mSv)という聞きなれない単位を強く意識していた1年だった。

簡易線量計を持ち、家や通り道のホットスポットを確認する。
土砂を片付けた袋の線量の高さを確認して家の庭の端っこまで持って行く。

不必要な外出を避け、外に出るときもマスクをする。

そういう日常を久々に思い出した。

でも、その日常はまだ終わってはいない。

今も福島では、線量が表示される電光板を所々で見かけるし、除染で出た汚染廃棄物が入った黒い大きなごみ袋(フレコンバック)が山積みになっている所も見かける。そして、甲状腺がんの検査。

「神様」と「神様2011」。

この二つの物語を比較すると、そこには決定的な変化があったということにやはり気づかされてしまう。あまり認めたくない事実ではあるけれど。

2017年8月28日月曜日

雪の練習生(抄) 多和田葉子 近現代作家集 III/日本文学全集28

この作品は、全く日本文学という域を抜け出している。

主人公は、なぜか雌の北極熊。

サーカスで活躍していたが、踊りでひざを痛め、管理職として旧ソ連の意味のない会議に出席する日々。
自伝を書きたいという望みから、かつて自分のファンだったオットセイの編集長を訪ね、原稿を渡し、雑誌に取り上げられ、人々に注目される。

しかし、彼女の作品は、西ドイツでもドイツ語に翻訳され評判となり、当局の監視対象となってしまう。やがて、彼女はシベリア行きになりそうになるが、支援団体のおかげで西ドイツへの亡命に成功する。

しかし、今度は支援団体の監視のもと、執筆をなかば強制され、嫌気がさした彼女は、スモークサーモンが美味なカナダへ亡命する。

一見すると、童話のようにも思えるが、共産圏から西側諸国に亡命した作家たちの苦労がしのばれる。言語も人種も違うと、熊と人、オットセイほどの違いは大なり小なりあるのかもしれない。

それにしても、この雌熊は変に人間味があって可愛い。

2017年8月26日土曜日

桟橋 稲葉真弓 近現代作家集 III/日本文学全集28

夫とうまくいっていない女が、幼い男の子を連れて、友人が所有している別荘を訪れる。

解放された環境の中で、やることもなく、海と山に囲まれた入江の桟橋で子供が海の中の蟹をみつめている間、彼女は、小屋でアコヤ貝に真珠の核入れをしている男の作業の様子をみつめる。

キール文字Эのような形の入江、 開口器で押し広げられた貝の肉の奥に真珠の核を挿入する作業、貝や魚の腐臭、ねっとりと全身にまとわりつく潮風、串刺しにされた獣( イノシシ)のイメージ。

そして、女が夜ぼんやりとみつめる謎めいた絵画。


 アンドリュー・ワイエスの「春」


 ルネ・マグリットの「光の帝国」



女は、夜、作業小屋の光をみつけ、吸い寄せられるように小屋を訪れる。
そして、イノシシを追い込む銅鑼の音を聞きながら、「きっと、なにかが罠にかかったのだ」と思う。

彼女は、自分を真珠の核を挿入された貝のように、串刺しにされた獣のように感じる。

そうした密やかなセックスを喚起するようなイメージが満ちたエロチックな小説。

夜、男のいる小屋の光に吸い寄せられる場面は、アントニオ・タブッキの「島とクジラと女をめぐる断片」で、ウツボ釣りをする男が、ウツボを引き寄せるときの歌をうたって、女を引き寄せるシーンを思い出した。


*稲葉真弓さんは、すでに他界しているが、倉田悠子というもう一つの名前の作家でもあり、なんと「くりいむレモン」などのライトノベル小説も書いていたらしい。

2017年8月22日火曜日

『月』について、 金井美恵子 近現代作家集 III/日本文学全集28

まるで詩のような小説だ。

むくわれることのない恋をして嫉妬に苦しめられている男が見た月について書かれた短編小説『月』を読み返している作者が、その物語に次々と新しいイメージを追加してゆく。

靴、生垣、犬、商店街、砂岩段丘、小道...

そして、話は小説に戻り、男が獣医の妻を送る道すがらに見た月の場面に戻る。

どこまでが男の書いた小説で、どこからが作者が付け加えたイメージか判別できない。
私は書いて、それからそれを読みかえす。書かれたことと記憶は入り混り、新たな記憶が増えながら消え去り遠ざかることを怖れつつ願いもしながら、読みかえす。
男が獣医の妻を忘れるために、あるいは記憶に焼きつけるために行った作業。
読みかえしとイメージの追加による新たな記憶の増殖。

その男の行為を作者が想像の中で再現し、文章に残すとこういう作品になるのだろうか。

たぶん、誰かに恋している時に読むと、伝わってくるのかもしれない。
その熱に浮かされた苦しい陶酔感のようなものが。

2017年8月21日月曜日

暗号手/大岡昇平

大岡昇平が、フィリピンの旧日本軍 サンホセ警備隊の暗号手を務めていた時のはなし。

大岡が説明する旧日本軍の暗号の説明が面白い。

「部隊換字表」という暗号の単語表。

発信する際に加えられる3数字の「乱数」。

その数字を加工するために用いる「非算術加法」と解読するために用いる「非算術減法」。

電文を暗号に変える「組立」。

受信した暗号文を普通の文章に直すことを「翻訳」。

これら総称の「作業」。

大岡は、部隊唯一の暗号手として、暗号文の発信・受信・解読に勤めたが、一般の兵役よりは楽で、軍の秘密を真っ先に知りうる立場だったため、上官や同僚から妬まれ、色々と嫌がらせを受ける。

大岡は自分が死んでしまった時のことを考え、自分の代理を育てることを思い立つが、その時の彼の内心を率直に明かしている。
...同時にそれが私の独占的位置を危うくすることに気づいた。こういうことをすぐ考えるのも私が会社員として得た習慣である。
自分にしか出来ない仕事を作るのは出世しようとする会社員の心得の一つである。
大岡は、この「会社員のマキャベリスム」というべき懸念を無視して、中山という東大出の高級社員だった男を推薦し、彼を育てはじめるが、やがて、その懸念が顕在化し始める。

中山は自身が勤めていた会社のマニラ支店に軍曹を連れていき、金銭を渡し、更には、内地へ帰った時の就職の世話まで約束して取り入った。

これにより、 中山は昇進し、大岡は出世から取り残され、かつ、代理ができたせいで、通常の兵士同様、一般勤務にも就くことになってしまう。

大岡が、自身が封じ込めようとした「会社員のマキャベリスム」を積極的に活用する中山に対して言った言葉が面白い。
「おい、君はそうやってうまく立ち廻る気らしいが、実はつまんないんだぜ。
レイテはどうやら負け戦だし、どうせ俺達は助からないんだ。株を上げると却って身体を使わなきゃならねえのは、会社も軍隊も同じことさ。いい加減に投げ出して呑気にやるもんだよ」
その後、中山は、大岡の予言通り、軍隊の様々な役務に徴用され、次第に疲労を深めていき、やがて、過労からマラリヤで倒れ、死期を早めてしまう。

以下の文章は、大岡の嫌悪が日本陸軍に向けられているだけではなく、自身の中にもある会社員気質に向かっているところが興味深い。
中山の会社員気質を私は幾分意地悪く書いたような気がする。それは多分今なお私の内にある会社員気質と、文学という悪い根性のなせる業である。 彼が愚劣に戦った日本陸軍の犠牲者であることはいうまでもないが、仮に生還していたとして、彼がやはりあの陰惨な会社員の政治学を推し進める他はないと、彼はやはり不幸である。彼は依然として何かの犠牲者であることはかわりない。

2017年8月20日日曜日

村上春樹翻訳ほとんど全仕事/村上春樹

この本を読むと、村上春樹という人は、本当に仕事をする人だなという実感が湧く。

1979年の小説家としてのデビュー直後の1981年、フィッツジェラルドの「マイ・ロスト・シティー」から始まり、以来、36年間、80弱の作品を翻訳し続けている。

小説家で、これほどの数の翻訳をこなしたのは、森鴎外以来ということらしいが、彼の仕事の実績のおかげで、日本の出版界において海外文学がこれだけ裾野を広げたと言っても過言ではないだろう。

特に、日本ではそれまで評価されてこなかったフィッツジェラルド、アメリカでも殆ど知られていなかったレイモンド・カーヴァーをいち早く見つけ、こつこつと翻訳し続け、地道に日本のファンを獲得していったことは素晴らしいことだ。

原作者の魅力というより、まず、村上春樹の文章を読みたいという読者が多かったからだろう。(私もその一人です)

小説家としても翻訳者としても実力がついてきた50代以降から、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」、フィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」、レイモンド・チャンドラー の「ロング・グッドバイ」と、大物作品の翻訳に取り掛かっているところも、周到な仕事の進め方だと思う。

この本の前半では、翻訳本のカバーの写真とともに、村上春樹が自作に関するコメントを述べており、後半では、彼の翻訳のチェック作業を支援してきた柴田元幸との翻訳談義が収められている。

読んでいて、なるほどなと思った箇所を取り上げてみる。
(村上)
逐語的には訳は間違っていないし、論旨もいちおう通っている。でも、翻訳の文章を読んでいて、「え?」と思って、もういちど読み返すことがあるじゃないですか。これはいったいどういうことだろう、何が言いたいんだろう、と。そういうのはやはりまずいですよね。どんなに難しい内容でも、一回読んで内容がいちおうすっと頭に入るというのが、優れた翻訳だと思うんです。読者をそこでいったんストップさせてはいけない。流れを止めてはいけない。
 (村上)
...八〇年から始めて、これでもう三十六年間、延々飽きずに翻訳しているわけです。これだけ長く翻訳していると、そのあいだにやっぱりいろんな大事なことを学びます。たくさんの本を翻訳しているのですねえと、よく驚かれるんですが、他の作家があんまり翻訳を手がけないということのほうが、僕にとってはむしろ不思議でならないですね。翻訳作業というのは、小説家にとってこんなに豊かな知の宝庫なのに。
...いつも言うんだけど、翻訳するというのは、なにはともあれ「究極の熟読」なんですよ。写経するのと同じで、書かれているひとつひとつの言葉を、いちいちぜんぶ引き写しているわけです。それも横のものを縦にしている。これはね、本当にいい勉強になります。
ちなみに、村上春樹は、研究社のオンライン辞書を使っているらしい。
http://kod.kenkyusha.co.jp/service/

有料のようだが、1年に一冊辞書を買うよりも、たくさんの辞書が利用できるので、高くはないかもしれない。

http://www.chuko.co.jp/tanko/2017/03/004967.html

2017年8月19日土曜日

ゴドーを尋ねながら 向井豊昭 近現代作家集 III/日本文学全集28


「ゴドーを待ちながら」のウラジーミルとエストラゴンの二人が、弥次喜多のような恰好をして、恐山に現れる。

彼らは、イタコを通じて、ゴドーに会おうとしているのだ。

お金も持っていない二人をサポートする島冬男。
彼も、自分の母親の十三回忌で、イタコを通じて母に会おうとしている。

そして、三人でイタコに「ゴドー」の降霊を依頼したのだが、「ゴドー」が何なのかも知らないイタコは、何故か、冬男の母の魂をその体に下ろす。

そして、冬男の母となったイタコは、「ゴドー」ならぬ「後藤(下北弁では、ゴドウ)」を非難しはじめる。
どうやら、その「後藤」は、冬男の母をだまして、冬男を孕ませ、逃げたペテン師の男らしい。

と、あらすじだけ見ると脈絡もない話なのだが、著者の言語、方言に対するこだわりが随所に垣間見える。

たとえば、冬男が、最後に母を看取った様子を下北弁で手書きした文章を地元の文芸誌に寄稿したところ、その文芸誌から、ワープロで作成され、誤変換された漢字を含む文章で掲載を断られたエピソードや、イタコの言っている言葉の意味が分からないと嘆くウラジーミルに対して、冬男が「百パーセントわかる言葉なんてない。イタク(アイヌ語で「言葉」)は、本来、感じ取るものなんです。」と言ったりするところ。

さらには、「ゴドーを待ちながら」の幕切れに、この物語のウラジーミルとエストラゴンの二人を戻すために必要となる「力を持った新しい言葉」を生み出す決意が最後で述べられている。

単なる方言の言葉でもなく、誤変換を起こすようなワープロの言葉でもない「新しい言葉」

これは、作者の新たな文学創造の宣言のような作品にも思える。

2017年8月18日金曜日

スタンス・ドット 堀江敏幸 近現代作家集 III/日本文学全集28


妻を亡くし補聴器を着けないと耳も聞こえない難聴のオーナーが経営する古いボウリング場の最後の営業日。

客が誰も来ぬまま閉店になるはずだったが、トイレを借りに若いカップルに無料で1ゲーム楽しんでもらうことにする。

しずかなボウリング場に、ボールが転がりピンが倒れる音がよみがえる。
骨董品のような古い機械。ストライクの時、すばらしい和音をたてるこだわりのピン。
そして、オーナーに全盛期のボウリング場の記憶がよみがえる。

10フレーム、カップルはオーナーに最後の一投を譲る。
彼は、補聴器を外し、自分のスタンス・ドットに立つ。
ストライクを取るよりも、あの音が聞きたかった彼の聞こえないはずの耳に、あのピンが一斉に倒れる音が響きわたる。

しずかな終わり方だが、読んでいて、心に染み入る。
ボウリングで、こんなに美しい小説が書けるとは。

2017年8月17日木曜日

半所有者 河野多惠子 近現代作家集 III/日本文学全集28

夫婦の関係を、相手の肉体の所有という観点から描いているこの作品も独特の雰囲気がある。

夫が亡くなった妻の身体に激しく所有欲を感じ、葬儀前、二人きりになったところで、死姦する。

己(おれ)のものだぞと、冷たくなった妻の死体を抱きしめ、性交を試みる行為を、愛情の表れと見るか、異常性欲と見るか。

最後、息子が寝ずの番を代わろうと自宅に来るのを必死に拒む夫の強い口調に滑稽感がにじむ。

夫は、妻が生きている時には、その身体を完全には独占できない。
しかし、妻が死んで「物」になった時でさえ、さまざまな制約や妨害があって、その「物」を自由に扱うことができない。

夫のもどかしさが、タイトルの「半所有者」にうまく表現されている。

2017年8月15日火曜日

魚籃観音記 筒井康隆 近現代作家集 III/日本文学全集28

永井荷風の『四畳半襖の下張』が最高裁でわいせつ文書と判決されたのが、1980年11月28日。

その時の判決の要旨がこれ。
一、文書のわいせつ性の判断にあたつては、当該文書の性に関する露骨で詳細な描写叙述の程度とその手法、右描写叙述の文書全体に占める比重、文書に表現された思想等と右描写叙述との関連性、文書の構成や展開、さらには芸術性・思想性等による性的刺激の緩和の程度、これらの観点から該文書を全体としてみたときに、主として、読者の好色的興味にうったえるものと認められるか否かなどの諸点を検討することが必要であり、これらの事情を総合し、その時代の社会通念に照らして、それが「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ、かつ、普通人の正常正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義観念に反するもの」といえるか否かを決すべきである。
二、男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めており、その構成や展開、さらには文芸的、思想的価値などを考慮に容れても、主として読者の好色的興味にうつたえるものと認められる本件「四畳半襖の下張」は、刑法一七五条にいう「猥褻ノ文書」にあたる。
荷風の「四畳半」を雑誌に載せた野坂昭如の特別弁護人に立った丸谷才一は、この判決は、後世、物笑いの種になるという言葉を残した。

今、筒井康隆のこの作品を読み終わった時、思わず笑ってしまうものがある。
第一、作者は、冒頭、「徒らに性欲を興奮又は刺激せしめ」ることを目的にしていることを宣言し、自らこの作品を『ポルノ西遊記』と称しているのだから。
さらに「男女の性的交渉の情景を扇情的筆致で露骨、詳細かつ具体的に描写した部分が量的質的に文書の中枢を占めて」いる点も申し分ない。

西遊記を題材に、色っぽい観音菩薩が孫悟空を誘惑し、衆人の目を憚ることなく、セックスをする。その二人を見て自慰するしかない猪八戒。そして、猪八戒の再現話しに、何回も射精してしまう沙悟浄と三蔵の姿がさらに猥雑感を増している。

気が動転した三蔵が語る小唄の中に、作者のさらに挑発的な言葉も見られる。
これだけ殴り書いたなら、発禁回収たちどころ、アンドマジンバラ桜田門の恐ろしや。
こんな作品が日本文学全集に収まるなんて。
本当に、日本はいい国になったと実感する。

2017年8月14日月曜日

鳥の涙 津島 佑子 近現代作家集 III/日本文学全集28

母親が子供を寝つかせる時に話す物語。
しかし、それは『おまえのお父さんはまだ帰らない』からはじまり、他国に徴収され、不在となった父が、頭のない鳥となって家族のもとに戻ってくるという、どこか呪術的な話である。

作者が母から聞いた『お話』は、祖母から母に伝わったものであることがわかる。

そして、作者は、その『お話』をアイヌの民話集に見つけ、祖母の出身地が青森であったことから、祖母がアイヌの少女と海岸で知り合い、この『お話』を聞かされた場面をイメージする。

実際には祖父は工場の機械に頭を押しつぶされ死に、父は若い女と出奔していなくなった訳であるが、祖母も母も無意識のうちに、この物語を子供たちに伝承していった。

作者も死んだ弟が頭のない鳥となって彼女を訪れる話を子供たちに聞かせはじめる。
祖父、父、弟の死を通し、自分の夫、そして長男でさえ、作者にはいつか失ってしまうのではないかという恐れを抱きながら。

はたして、彼女たちが子供に語った『お話』は、男たちへの鎮魂の意味が込められたものだったのだろうか。
ひょっとすると、そこには自分を置いてけぼりにした男たちへの深い深い恨みが込められたものだったのかもしれない。

この解釈は、作者が太宰治の娘だったことも影響していると思う。








2017年8月12日土曜日

連夜 池澤夏樹 近現代作家集 III/日本文学全集28

池澤夏樹の作品の特徴の一つは、現代と過去という異なる次元をむすびつけて、重ね絵のように物語に厚みを持たせる手法を用いるところだ。

それは、谷崎潤一郎や丸谷才一も好んで用いた手法でもあるが、池澤夏樹の場合は、彼らと違って雰囲気が軽い。

そう感じるのは、谷崎が母性、丸谷が前近代的な日本という重たい要素を重ねていたのに対し、池澤は、例えば最新作のキトラ・ボックスでは古墳の埋葬物という即物的なものを、そして、この「連夜」という作品では、南国の沖縄の琉歌を重ねているからだろう。

この作品、沖縄の病院で働く女医と運搬仕事をしていた青年が、女医の誘いで、十日間毎晩セックスをし続けたという一風変わった物語だ。

なぜ、突然、女医が青年と寝たくなったのかは分からない。ただ、十日間が過ぎて、熱が冷めたように彼らは別れる。

その後、女医はユタ(沖縄の霊媒師のようなもの)に、その時の話をしたところ、彼女は首里の王族に憑依されていたのではないかという話を聞く。そのきっかけは、彼女の名前の徳という字と、青年が花を作る仕事をしていたこと。

そして、 女医は探していた琉歌のなかに、身分の低い花当(花園係の役人)に恋をしたが、周りに気づかれ別れ離れになってしまった尚徳王女の歌にめぐり合う。
そういうことだったのかと思いました。真夜中に、君と一緒にいろいろ楽しいことをしたベッドに腹這いになって大きな琉歌の本を読んでいってこの歌に行き当たった時、不思議な気持ちになりました。いきなり何百年か前に飛んでいったみたい。君の身体が飛行機だったみたい。そのおかげで、本当にその尚徳王女さんが出てきて、私の横に同じように腹這いになって、昔々の自分の歌を読んで感慨に耽っている。辛かったでしょうねと私が言うと、そう、とても辛かった、でも、こっそりでも、ほんの短い間でも、会えた時の喜びだってよく覚えている、あなただって知っているでしょう、この間ちゃんと味わったでしょう、そう言っているみたい。

自分と同じような経験をした人、それが時空を超えた遠い昔の人であっても、その想いに共感する。
女医の新鮮な驚きは、文学の楽しみ方そのものに通じる。

池澤夏樹が選択した自身の短編は、実にこの日本文学全集に適った作品と言えるものなのかもしれない。


2017年8月6日日曜日

イシが伝えてくれたこと 鶴見俊輔 近現代作家集 III/日本文学全集28

短いエッセイだが、文明批評という大きなテーマを扱っており、なにより、イシと呼ばれる原住アメリカ人のエピソードが心に残る。

自分の一族を絶滅させた白人たちの世界で暮らしながらも、自分の価値観と知恵を持ち続け、同化しない。

そのイシを理解し、対等に付き合うことができた博物館長のアルフレッド・L・クローバーは、イシの死後、白人が原住アメリカ人に対して行った蛮行を思い悩み、その影響を受けた妻シオドーラは、アルフレッドの死後、「イシ」の伝記を書き、娘のアーシュラ・K・ル=グヴィンは、作家になり、「ゲド戦記」やSFを書いたというのも興味深い。

もう一つ興味深いのは、欧米文明との接触という点で、日本とイシの立場を比較しているところだ。
イシの場合には、弓も矢もほんとうに手にくっついたように動かせるのだが、そういう関係を我々は物に対して持っているだろうか。...
亡くなった高取正男が、「形見」という言葉を分析している。物を見て形を見ることができる。そうすると呼び戻せるという。ある物を形見にするというのは、その形を見る力を持っていなければ、母の遺品も形見にはならない。そういう力がおとろえていけば、形見は意味がなくなって、何の形見もない暮らしになっていく。その点では、イシの持っている世界に比べて、我々は明らかに貧しい。そのことは現代文明に対するイシの批評であり、イシを受け継いでいるル=グヴィンの批評なのだ。
イシは、欧米の文明に対して、自己選択の態度を保って対した。日本文化はそう対しえたか。それは疑わしい。
私は、まともに「ゲド戦記」を読んだことはなかったが、作品には欧米文明に対する批評が込められているらしい。

最近、カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」を読んでいて、これも一種の欧米文明に対する批評という気配を感じるが、同じテーマで、また、読みたい本が増えてしまった。