2013年10月30日水曜日

猫物語(白) つばさタイガー その3

しかし、第1話の出だしは見事だ。

「羽川 翼トイフ私ノ物語ヲ、シカシ私ハ語ルコトガデキナイ」

という独特の否定から始まる導入部分は、この物語を小説の一文のようにきれいに要約している主人公の独白と、家の廊下に敷いたふとんで寝ている主人公をロボット掃除機のルンバが接触して目覚めさせるという不思議な光景で構成されていていきなり目が離せない。

インターネットで検索すると、この猫物語(白)は、西尾維新によるライトノベルシリーズの物語の中の一つをアニメ化したものらしく、登場人物の人間関係、物語の時系列が複雑に絡んでいるようであるが、そういった前提を知らなくても、この物語は楽しめるレベルになっている。

私が思う優れた物語というのは、読んだり観たりしたあとに読者や観客の心に留まってしばらく一緒に生活するような物語だ。

例えば、日常、自分が見る景色や行動の裏に、ふっとその物語がイメージとしてよみがえってくる感覚がしばらく続く。

自分でも意外だったのは、この猫物語(白)が自分の心に居残っていた物語「風立ちぬ」を追い出して居座ってしまったことだ。

明らかに男性用に強調された主人公の体のライン、下着姿、擬似レズ、ロリコン、科を作る表情、不必要な下半身の描写、ペダンチックな長台詞…。

欠点を挙げようと思えば、いくらでも出てきそうな感じだが、それでもこの作品にはそういった悪い印象を突破してしまう魅力がある。

その魅力が何なのか整理できない状態が続いている。

「猫物語(白)トイフ物語ヲ、シカシ私ハ語ルコトガデキナイ」

というところか。

主人公の苦悩が若干わかった気がした。

2013年10月26日土曜日

猫物語(白) つばさタイガー その2

何故か、このアニメには強く惹きつけられ、5話まで見てしまった。

絵も独特だし、カット割りも斬新。

特に人気のない家の中(掃除機ルンバだけが動いている)、街の風景(少女にとって意味のないものはその存在が無視され消されてしまっているかのようだ)が印象的だった。

音楽もいい。

しかも内容が深い。

羽川翼という少女が、自分の心に潜んでいた暗い部分の感情に向き合い、語りかけ、対決しようとする、ある意味、ものすごくシリアスな物語だ。

自分の心の問題は結局自分でしか解決できないという真理は、人は分かっていてもなかなか出来ないというのが現実だろう。

まして、自分でもコントロールできないくらい大きな虎(心の闇)を産んでしまった少女のような複雑な家庭の境遇というものは、私にはその悲しみは想像しか出来ない。

そんな彼女が心を静めてダークサイドの自分に対して手紙を書くという行為はそうそう出来るものではなく、それを真っ向から物語のラスト部分にすえたところに、このアニメの凄さはあるのだと思う。

"俗から聖へ" エリアーデの言葉を久々に思い出しました。

ちなみに、テレビでも近々放映予定のようです。
http://www.monogatari-series.com/2ndseason/news/index.html

<「猫物語(白)」特別一挙放送概要>

【実施日時・実施局】
TOKYO MX:  10月27日(日)26:30~28:30
BS11:           11月  6日(水)22:00~24:00

2013年10月25日金曜日

猫物語(白) つばさタイガー

第壱話
http://www.anitube.se/video/61734/Monogatari-Series-Second-Season-01

怪しい画面が立ち上がり、中央の四角が消えるまで時間がかかるが、再生ボタンを押すとアニメが見られる。

何だろう、この月面にいるかのような空気の薄さ、真空的な軽さは。
そして、主人公の孤独。

人の気配がない家と街と学校。
戦場ヶ原という長い台詞を話す女友達だけが唯一温かい。

5話あって、まだ3話しか見ていないが久々に夜更かしをしてしまった。

第弐話
http://www.nosub.tv/watch/61555.html

第参話
http://www.nosub.tv/watch/62709.html

第肆話
http://www.nosub.tv/watch/63843.html

第伍話
http://www.nosub.tv/watch/65038.html

2013年10月20日日曜日

東京五輪に思う/山崎正和

今日の読売新聞朝刊の1面に載っていた山崎正和氏の「東京五輪に思う」は、色々と考えさせられるところがあった。

まず、山崎氏は東京オリンピックの開催に関し、以下のように述べている。
2020年だから7年先の話だが、これは遠いような近いような未来である。世の中、めったに将来の予定は立たないものだが、この決定は珍しく日本人に今後の日程について考える機会を与えた。
7年後の自分が何歳で何をしているか、日本と世界はどうなっているか、どうしなけれればならないかを考えさせる。
東京オリンピックの開催が決定したときに、後半のセンテンスにあるような思いが去来したのは、私だけでないだろう。

続けて、山崎氏はその7年間の政治的課題として、福島第一原発の汚染水漏れ対策、廃炉計画の精度、東日本大震災の被災者に対する保障と復興、強い経済と財政健全化を挙げ、今後の7年間、約束実現の責任と権限を安倍政権に委ねてもよいのではないかという考えを述べている。

その一方で、半世紀前の1964年の東京五輪を振り返り、
日本人はこれで第二次世界大戦の戦後が終わり、国際社会への復帰が許されたと信じて欣喜したことを思い出すからである。
じっさい戦後の日本社会の絶望は深く、とりわけ世界から疎外され孤立しているという劣等感は痛切だった。
とりわけ昭和天皇が開会の宣言をされ、その前を各国選手団が行進する光景は、東京裁判の汚辱が拭われ、戦争を起こした罪が赦免された象徴的な儀式のように見えたものだった。しかしあの喜びが記憶に刻まれている者には、それだけに昨今のアジアの国際環境が気にかかり、あの安堵は錯覚ではなかったかという懸念がよぎるのである。
懸念されるのはほかでもなく、中国と韓国が叫ぶ「歴史問題」であり、それを掲げて中韓両国が連携を始めた形勢である。 
と述べている。 ちょうど、半藤一利の「昭和史」を戦後編も含め、読み終わったところだったので、これからの日本はどうなるのかということを思ったときに、真っ先に懸念として浮かんだのが、中国と韓国との関係だったので、非常に興味深かった。

連合軍が東京裁判で行った戦争犯罪人としての日本の政府・軍部関係者に対する判決は、戦争中、日本がアジアや世界の国々にやってきたことはすべて侵略戦争であり、残虐行為であるという、客観的に見れば一方的なものだったが、日本はその裁きを受け入れた。

しかし、山崎氏がいうとおり、中国と韓国がいう「歴史問題」とは、日本の第二次世界大戦における戦争犯罪の道義的責任のことで、これに関しては外交上の講和はあり得ないという厳しい姿勢だろう。

靖国神社に日本の政府関係者が参拝する際、「英霊に哀悼の誠を捧げる」とよく言うが、明らかに中国と韓国は、東京裁判で裁かれたA級戦犯が合祀されている事実をもって、戦争犯罪人に対しての哀悼と解釈し、日本は全く戦争犯罪の責任を反省していないと見ているのだろう。
また、山崎氏が苦言を呈している政治家の軽率な「着想と発言」がこのような印象を煽っていることも事実だと思う。

少なくとも、今後7年間というときに、尖閣諸島や竹島という領土問題に関しては、両国の妥協を得られるという現実味はかなり薄い。
だとすれば、日本が中国と韓国との関係改善を進めるための最初の努力としては、靖国神社の参拝自粛(戦犯合祀の見直し、戦争責任の再検証をするのであれば別)と、政治家の国益を損なうような失言をなくすことしかないのではないか?

今朝も、古屋国家公安委員長が靖国神社に参拝し、「近隣諸国を刺激しようなどという意図は全くない。英霊にどのような形で追悼の誠を示すかは、専らその国民が考えるべき国内問題だ」というコメントを出していたが、この理屈で中国と韓国が「確かにそうですね」と納得するはずもない。

中国と韓国がいう「歴史問題」に関して、日本の国会議員のこういった、通り一遍の態度が続く限り、中国・韓国との関係が改善の方向に進むことはないだろう。

山崎氏がいうとおり、7年後、アメリカからの庇護も薄れ、東アジアで日本が孤立し、中韓が東京オリンピックをボイコットするという事態が最悪のシナリオだろう。

この記事を読んで、憲法改正の問題も含め、7年後、日本はどうあるべきなのか、日本と世界はどうなっているかを、国全体で真剣に考えるべき重要な7年間が来ているという思いがした。

2013年10月15日火曜日

別れの挨拶/丸谷才一

集英社の編集者が、丸谷才一の死後、残された書評、エッセイ、挨拶の文章などをとりまとめた一冊だが、丸谷才一の今までの仕事が一望できる集大成的な内容になっている。

愛読者からすると、「そうそう、こういうテーマ、人物が好きだったよな」とか、「こういう切り口で自分の考え方を膨らませていく人だったよな」とか、「中身が詰まっている挨拶だな」とか、懐かしく思うところが多い。

小説における王族の扱いに関して、ジョイスのユリシーズ

日本の自然主義小説に関して、ヨーロッパの十八世紀と十九世の比較

石川淳に関して、永井荷風の古典主義

吉田健一の趣味、文章に関しての肯定、河上徹太郎との関係

戦後の日本人に関して、大岡昇平の「野火」の引用

吉行淳之介、和田誠、辻静雄に関して

小林秀雄の批評に関する批判

谷崎潤一郎の中編小説に関する考察

そして、王朝和歌への興味

歴史的仮名づかいに代表される国語改革への批判、日本語への興味

吉田秀和に代表される音楽への興味

そして、読者に読ませたいと思わせる充実した書評

最後に、手本となるような数々の挨拶

329ページ程度のボリュームなのに、これだけ幅広いテーマで内容が濃い文章を書けたのは、やはり、丸谷才一ぐらいかなと思ってしまう。

読後、印象に残ったものとしては、

芥川龍之介の早すぎた死を優しく正当化した「完璧なマイナー・ポエット」

吉田健一の飲食(今でいうグルメ?)に関するエッセイを取り上げた「幸福の文学」

平成の年号を論じた「タヒラナリ」

文化勲章を受けて、天皇にお礼を述べる文章(宮内庁作成)を添削したエピソード「御礼言上書を書き直す」

小澤征爾×村上春樹 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の書評

氏の実質最初の小説「笹まくら」が発表当時、あまり反響がなくがっかりしたけれど、後年、村上春樹や池澤夏樹が、この作品の意義を述べていて嬉しかったというエピソードがある「未来の文学を創る」など。

どれも興味深い。

改めて思ったのは、丸谷才一という小説家兼批評家のおかげで、西洋文学、また、日本の古典文学との関係性のなかで、日本文学というものの位置づけがずいぶんと明確になったということ、また、次世代の日本を代表する作家たち(村上春樹や池澤夏樹)に色々な影響を与えたこと、分かりやすい美しい日本語で、一般読者の文学への関心と受け皿の容量を大きく引き上げたということだ。

そして、一言でいえば暗いじめじめした印象の日本文学の主流を、明るい理知的なものに方向転換させてしまったキーマンだったのでは。

2013年10月14日月曜日

昭和史 1926⇒1945/半藤一利

「風立ちぬ」(宮崎 駿監督)を見てあらためて昭和史(太平洋戦争に日本が突き進んだ経緯)に興味を持った。

振り返ってみると、昭和史というのは現在の日本の国としての骨格が成立するきっかけとなった時代であり、現在の日本が抱えている諸問題の多くの原因がこの時代の出来事にあるというにもかかわらず、いわゆる義務教育において、相当の時間をかけて丁寧に教わった記憶がない。

言うなれば、現代史は、古代・近代史の「つけたし」みたいなもので、授業も、現代に入ってからは、チョチョンと終わってしまったような記憶が残っている(約三十年前のことだから、今の義務教育は違うのかもしれない)。

恥ずかしながらいうと、昭和史(というか、太平洋戦争史)に関しては、斜め読みで終わっている作品が多い。
大岡昇平の「レイテ戦記」、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」、中村 稔の「私の昭和史」 なんかは、全文を読みきれないでいる。

完読できたのは主なところで言うと、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」、大岡昇平の「俘虜記」「野火」、司馬遼太郎の「昭和という国家」その他、断片的に書かれた文章と、水木しげるのコミック「昭和史」ぐらいか(長谷川町子の「サザエさんうちあけばなし」も戦争に関する記述などは、妙に記憶に残っている)。

言い訳がましいが、太平洋戦争における戦前から敗戦に至る日本の歴史というのは、どうにも気分が悪くなるところが多い。その一番の理由は、日本がこんな愚かな戦争をした原因は、結局のところ、誰のどんな行為にあるのかということが説明しづらいところだ。

明治憲法の統帥権を悪用した参謀本部(軍司令部)なのか、あるいは次々とまずい国策・外交を行った歴代の総理大臣や外務大臣その他大臣が悪かったのか、無能な軍上層部なのか、国民を煽った新聞社が悪いのか、戦争開始に熱狂してしまった国民が悪いのか、昭和天皇の責任はどうなのか、など。

たぶん、みんな何らかの責任はあるはずなのだが、一億総懺悔ということになると、個々の責任が曖昧になっていく。

文藝春秋の編集者として司馬遼太郎とも付き合いがあった半藤一利氏の「昭和史」は、日露戦争後の日本の状況に遡り、日本が自信過剰の状態から朝鮮・中国を属国にしようとし、国際社会の反発を招き、孤立化し、アメリカと戦争せざるを得ない状況に陥るまでの様々な事件を分かりやすく説明している。

本の表紙にも「すべての大事件の前には必ず小事件が起こるもの」と書いてあるが、あれだけの大戦争(この戦争の結果、日本人の約310万人が死亡)が起こるには、その前に布石となるたくさんの小事件が起こっていたのだ。

明治維新から日露戦争に勝利し日本の近代国家が成立したのが約40年、太平洋戦争の敗戦でその成果をほとんど失ったのも、それから約40年。

「国をつくるのに40年。滅ぼすのに40年」と本書でも書いているが、敗戦からバブル崩壊前の高度成長期を、そのまた40年後ととらえると、バブル崩壊後から約20年後の今は果たして何かの復興の途中なのだろうか。あるいは依然として何かを失う過程にあるのだろうか。

今、起きている中国・韓国との外交上の問題も、憲法改正の動向もあるいは大事件前の布石なのかもしれない。
そういう漠然とした不安を持ってしまうというところも、「昭和史」から足が遠のく理由なのかもしれません。

2013年10月8日火曜日

恋しくて/村上春樹 編訳

雑誌「ニューヨーカー」を中心に、村上春樹がセレクトした恋愛小説が10編収められている。

最後の作品「恋するザムザ」が読みたくて買ってしまった本だが、読んでみると中々面白かった。

恋愛小説というと、陳腐な筋立て、幼稚な馴れ合い、下品な表現のせいで、つまらないどころか、ベトベトした感触まで思い浮かんでしまうものもあるが、この作品集は、洗練されていて、大人が読んでも十分楽しめる内容になっている。

個人的には、村上春樹が各作品の終わりに付けている「恋愛甘苦度」の苦味が高いものが好きです。

「薄暗い運命」とか、「ジャック・ランダ・ホテル」とか、「モントリオールの恋人」とか。

最後の「恋するザムザ」は、村上春樹のオリジナル短編で、カフカの「変身」を題材にしたちょっと(かなり?)変わった恋愛小説だ。

ナチス占領下?の街で、ザムザがこんな風に生きられるのなら、「変身」をして恋愛することは決して悪いことではない。

2013年10月7日月曜日

風立ちぬ/宮崎 駿

今更だったが、時間が空いたので見に行った宮崎 駿監督の「風立ちぬ」。

ある意味、予想どおりだったが、素晴らしい作品だった。
たぶん、氏の映画の中で、一番好きな作品になったかもしれない。

まず、作品の中の色々な要素(飛行機、恋、幻想(カプローニ伯爵)、時代背景(戦争))のバランスがいい。
どれか一つの要素でも、欠けたり、過ぎたり不足したら、作品の魅力が半減してしまいそうな気がする。
この絶妙なバランスによって、2時間という時間が急がず、それでも濃密に流れていくのを感じる。

それと戦争という時代の描き方。
関東大震災から始まり、金融恐慌、戦争へと、日本が少しずつ暗く、変に、愚かになっていく時代を、時折映る町並みや人々の様子を丁寧に描きながらも詳しく説明せず、さらっと背景に配置しておくだけのやり方は、今回の作品では適切だったと思う。

司馬遼太郎でさえ、匙を投げた昭和初期の時代を、今の時代に通じるように、共感できるように描くことができたのは、やはり、宮崎アニメの力だと思う。

また、今回、零戦という、飛行機ではあるけれども、まさに戦闘兵器が、主人公堀越二郎の夢の対象なのだが、カプローニ伯爵という飛行機の神様的な存在で、その脅威が中和されているところも上手い。

ラストで、堀越二郎が零戦の残骸を見つつ、カプローニ伯爵に、「君の(創造的)10年はどうだった?」と聞かれ、「一機も戻ってきませんでした」とつぶやき、多くの零戦が青い空に消えていく幻想は、零戦の試験飛行で「良い飛行機をありがとう」と堀越に礼を述べた爽やかなパイロットの一言とともに、この作品に必要な苦さも与えている。

そして、結核の菜穂子との恋の描き方。ある意味、定番と言ってしまってもいいくらい、恋の王道を描いている。非常にせつない恋だが、零戦の試験飛行が成功したとき、堀越が山の彼方を見つめ、ふと菜穂子との別れを感じているような余計な説明のない印象的なシーンの描き方も秀逸だった。
それと宮崎駿には珍しく、何回かのキスシーン、初夜を描いているのも興味深かった。

最後に、タイトル「風立ちぬ」。風が立った、という意味であるが、作品中も菜穂子との再会の場面で風が印象的に描かれている。
ありそうで、ありそうもない風をこんな風に美しく撮った監督は、タルコフスキーと宮崎駿だけかもしれない。

風は、デビュー作の「風の谷のナウシカ」にもつながる要素だが、作品のサブタイトルにもなっている「いざ生きめやも」という言葉も、つながっている。

人は今生きている時代が、どんなに残酷で辛いものでも、その中で一生懸命、生きるしかない、
という宮崎駿の思いは一貫しているように感じる。

宮崎監督の最後にふさわしい素晴らしい作品だと思う。