2018年6月24日日曜日

チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ/村上春樹

村上春樹は、ジャズに関する本を多く書いているので、「ポートレイト・イン・ジャズ」でも、チャーリー・パーカーを取り上げているだろうと思って読んだら、案の定、彼の章があった。

しかし、その章を読むと、驚いたことに、チャーリー・パーカーについては、ほとんど述べられておらず、ドラムのバディ・リッチについて多くのことが書かれていて、拍子が抜けてしまった。

おそらくだけれど、この「ポートレイト・イン・ジャズ」を書いた段階では、チャーリー・パーカーの音楽への思いを正面から言い表すことができなかったのだろう。

しかし、今回、小説という枠組みによって、ようやく村上春樹は、チャーリー・パーカーへの思いをうまく表現できたのだと思う。

物語も短編ながら三部構成になっていて面白い。

第一部で、村上春樹が学生の頃に戯れで書いた、チャーリー・パーカーがボサノヴァを演奏した架空のレコードをテーマにした音楽評論の文章を載せ、

第二部で、その架空のレコード(選曲も同じもの)を、ニューヨークのレコード店で偶然見つけてしまったというエピソードを述べ、

第三部で、村上春樹の夢の中、チャーリー・パーカーが、ほこりと錆びだらけで壊れかけのアルトサックスで、村上のために、架空のレコードの選曲にあった「コルコヴァド」を演奏する、

という物語だ。

第一部で、チャーリー・パーカーが演奏した「コルコヴァド」を、とても饒舌に解説していたのに対し、第三部では、「その音楽が存在していたことを僕はありありと思い出せる。しかしその音楽の内容を再現することはできない」と述べているのが面白い。

そして、演奏中、香ばしいブラック・コーヒーが強く匂ったというところが強く印象に残る。

三十四歳という若さで死んだチャーリー・パーカーに、彼が出会うことがなかったボサノヴァという新しい音楽を演奏した喜びを与える。

読んでいて、不思議に心が温まる小説だ。

2018年6月17日日曜日

クリーム/村上春樹

「文學界」に掲載された村上春樹の3つの短編の2つ目「クリーム」。

十八歳のときのぼくが経験した奇妙な出来事を年下の友人に話す。
ピアノ教室で知り合った女の子から、それほど親しくなかったのに、演奏会に招待される。

浪人中で暇を持て余していたぼくは出席の返事をし、当日、花束を買って会場の神戸の山の上にある建物に時間通りに行くが、リサイタルが行われるような気配は全くなく、建物には鍵がかかっていて人の気配はない。

途方に暮れたぼくは、近くの公園の四阿(あずまや)のベンチに座り、気持ちを落ち着かせようとしているうちに、招待した女の子が自分に手の込んだ嫌がらせをしたのではないか、自分が彼女に憎まれるようなことをしたのではないかという疑念に思いを巡らす。

そして、心のバランスを崩し、過呼吸になってしまったぼくの向かい側のベンチに一人の老人がまっすぐにぼくを見ながら座っていることに気づく...という物語だ。

老人がぼくに説明する「きみの頭はな、むずかしいことを考えるためにある。わからんことをわかるようにするためにある。それがそのまま人生のクリームになるんや。それ以外はな、みんなしょうもないつまらんことばっかりや」という言葉に解があるのだろう。

危機をやり過ごすという方法を書いた小説として、川上未映子の短編「三月の毛糸」と似ていると思う。

この「クリーム」では、「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」というイメージが、その方法として描かれているが、「三月の毛糸」では、「いやなことがあったり、危険なことが起きたら一瞬でほどけて、ただの毛糸になってその時間をやりすごすのよ」という方法が語られている。

どちらも、たやすい事ではないけれど、こういう対処法をイメージするだけで、心を軽くすることはできるかもしれませんね。


2018年6月16日土曜日

石のまくらに/村上春樹

「文學界」に掲載された村上春樹の短編「石のまくらに」を、とても面白く思った。

主人公が十九歳の学生だったころに経験したバイト先で知り合った二十代半ばの女性との一夜の関係を書いたものだ。

主人公には別の好きな女性がいて、彼女にも好きな男がいる(ただし、別の女と付き合っている)。

セックス描写が、せきららなのはいつものことだが、面白いのは、彼女には短歌を詠む趣味があるということだ。

主人公が、その歌を聞きたいというと、彼女は、その場で詠みあげるのはためらうが、後日郵送するという。

そして、彼女は、一夜の関係にもかかわらず、本当に歌集を主人公に送ってくる。

自分が作った(凧糸のようなもので綴じた)自費出版ともいえるレベルにない私家版の歌集「石のまくらに」。差出も記さずに。

恋愛の歌もあるが、死のイメージ(斬首)の歌が多い。

主人公は彼女の短歌に心を揺り動かされる。そして、彼女の歌を読みながら、行為をしているときの彼女の体を思い出す。

それから長い歳月が経った今も、主人公は彼女の短歌のいくつかを暗唱し、変色してしまった歌集を持ち続けている。

これは、形式的にみれば、平安朝の男女の関係に似ている。
枕を合わせた男女が、後日、相手を思って詠んだ歌を届ける。

しかし、彼女が本来思いを届けたい男には、別の女がいて叶わない(あるいは短歌には興味がない)。

短歌に興味がないのは主人公も同じだが、一夜の体を求めたその男に、彼女が歌に託した思いが、まったく偶然に突き刺さる。
もちろん、彼女にはそんな予感はない。

互いにもう会うことはないと別れた後に、残った言葉の力。

男は二度と会うことのない女を、歌を通して思い出す。
一つの悲劇といっていいかもしれない。

村上春樹が、まさか、短歌という日本古典文学の王道に沿って、こんな恋愛の形を描くとは。

2018年6月15日金曜日

風の歌を聴け/村上春樹

村上春樹が、8/5(日)にTokyo FMで、ラジオ番組でディレクター兼ディスクジョッキーを担当するというのを聞いて、彼のデビュー作「風の歌を聴け」を思い出した。

このデビュー作は、東京の大学に通う”僕”が神戸に帰省している1970年8月の短い夏の日々を描いている。行きつけの「ジェイズ・バー」、そこで飲みすぎて介抱したことで関係したレコード店で働いている小指のない彼女、友人の鼠、僕が文章を学んだ作家のデレク・ハートフィールドのエピソード、そして、ラジオのディスクジョッキーが登場する。

約四十年前の小説だが、読んでいて心地よい。
暑い夏の日、すずしい風に吹かれているような気分にひたれる小説だとあらためて思った。

”僕”にビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のリクエスト曲をプレゼントした女の子がいると電話をかけてきたラジオのディスクジョッキーとのやり取りが面白い。冷房のない放送ブースで暑さにたまりかね、曲の合間に冷たいコーラを飲んで、しゃっくりが止まらなくなってしまったディスクジョッキー。

”僕”が、ラジオ局から送られてきた新しいTシャツを着て、小指のない女の子が働くレコード店で、3枚のLPを買うシーンも好きだ。

洒落た会話と巧みな比喩は、この頃からすでに光っている。

今、誰かにプレゼントするリクエスト曲を流すラジオ番組ってあるのだろうか。
でも、そういう番組もあるかもしれないと思わせる雰囲気が、まだラジオにはあると思う。

昔、「デレク・ハートフィールド」の本ありませんか?と、新宿の紀伊国屋書店の店員に聞いた思い出がなつかしい。

単行本の最後に、あとがきに代えて、ご丁寧に「デレク・ハートフィールド」のオマージュが書かれていて、

「もしデレク・ハートフィールドという作家に出会わなければ小説なんて書かなかったろう、とまで言うつもりはない。けれど、僕の進んだ道が今とはすっかり違ったものになっていたことも確かだと思う。」

とまで言った作家は誰なのか、と考えると、本文でフィッツジェラルドと違う作家であることを明示していることを考えれば、レイモンド・チャンドラーしかいないと個人的に思っている。



「カリフォルニア・ガールズ」の曲と、佐々木マキの表紙は、この小説にぴったりと寄り添っている。

2018年6月14日木曜日

冬の夢/スコット・フィッツジェラルド 村上春樹 訳

スコット・フィッツジェラルドの若い頃の短編小説 五編が収められている。

冒頭の「冬の夢」を読むと、まるで村上春樹の短編を読んでいるような気分になった。
我が儘で浮気性の美女ジュディーを愛する青年実業家デクスター。
彼は、彼女に何度も裏切られながらも憎み切れないくらい愛していた。
しかし、別れて数年後、一人の男から彼女のその後の姿を聞くことで、彼が大事にしていた彼女に対する美しい憧憬は喪失してしまう。

この喪失感は、村上春樹の物語ではおなじみのものだ。
それほど悲劇的ではないが、女性の結末が、回転木馬のデッドヒートに収められている「今は亡き王女のための」と、ちょっと似ている。

次の「メイデー」は、仕事を首になり悲惨な境遇にある芸術家志望の青年ゴードンと、彼と大学時代に級友だった裕福な友人たち、ホテルでのダンスパーティーでのかつての恋人との再会などが流動的に描かれる作品だ。

友人に金を借りることをせびるゴードンは、谷崎潤一郎が書いた「異端者の悲しみ」を彷彿とさせたが、このゴードン青年はいたって真面目で、最後まで自らの不幸をぬぐい切れず、本当に悲惨な結末を迎えてしまう。

三つ目の「罪の赦し」は、神に敬虔であるよう躾けられてきた少年が、きらびやかな現実世界の美しさを否定することの誤りに気づき、その軛から解き放たれる物語だ。
これが、「グレート・ギャッツビー」のプロローグとして描かれる予定であったという話は興味深い。

四つ目の「リッツくらい大きなダイアモンド」は、十六歳のジョンが、寄宿進学校で、リッツ・カールトン・ホテルくらい大きいダイアモンドの山に豪邸がある級友パーシーに自宅に招かれる。

そのほとんど信じられないくらい豪奢な邸宅で、ジョンは、パーシーの美しい妹 キスミンと知り合い、恋に落ちる。
しかし、その恋愛をパーシーの父に気づかれ、ジョンは、この館に招かれたゲストの恐ろしい結末を知る...という物語だ。

全体的にファンタジー性が強く、現実離れしたリッチな邸宅の様子を描く場面は幻想的といっていい。
面白いのは、ラストでまるで夢からさめたような現実的な台詞を話すジョンの姿だ。
フィッツジェラルドは、やはりペシミスティックな基調を好む作家なのかもしれない。

最後の「ベイビー・パーティー」は、「メイデー」同様、フィッツジェラルドらしくない作品のように感じた。
ジョンの妻と二歳半の子供が、友人宅で催されたパーティーに参加している。彼が仕事で行くのが遅れている間に、ジョンの子供が起こした行動で、ちょっとしたトラブルが起きる。そのトラブルに油を注いでしまった妻。

ジョンが友人宅に着いたときには、友人とその妻に、自分の子供と妻が非難され、半べそをかいていてる光景を目の当たりにする。

客観的にみると、ジョンの妻と子供が悪いのだが、ジョンは彼女たちを悪しざまに言う友人と険悪な雰囲気になり、ついには殴り合う....という物語だ。

単なる親馬鹿の話なのかもしれないが、父はこうあるべきだという確かな信念が物語から伝わってくる。レイモンド・カーヴァーの短編小説「自転車と筋肉と煙草」と、ちょっと似ている。

フィッツジェラルドは、これらの作品を、二十四から二十九歳の間に書いたというが、全体的には、どれも完成度が高く読ませる内容になっていると思う。



2018年6月10日日曜日

フィリップ・マーロウの教える生き方/マーティン・アッシャー 村上春樹 訳

本書は、村上春樹の友人である編集者 マーティン・アッシャーが、「彼の最良の寸言はシェイクスピアのそれとまでは言わずとも、少なくともオスカー・ワイルドに匹敵している」と思う「寸言」を、レイモンド・チャンドラーの小説から抜き出したものだ。

面白いのは、村上春樹も「引用」とか「名文句」という表現をしていて、決して、「箴言」とか「名言」と言っていないことだ。

そこが、このチャンドラーの文章の魅力なのかもしれない。
重すぎず、軽すぎず。
皮肉めいているが、厭世的というほどではなく、
深刻ぶらず、適度に冗談めかしているが、知性的で感情の発露を抑制している。

例えば、
さわやかな朝だった。人生を単純で甘美なものにしてくれるだけの活気が空気の中にあった。もし心に重くのしかかるものがなければということだが、私にはそれがあった。
(大いなる眠り) 
暗い赤みのかかった美しい髪で、微笑みを遠くに向けて浮かべ、肩にはブルー・ミンクのショールを掛けていた。ロールズロイスがそのへんのありきたりの車に見えてしまいそうなほど豪勢なショールだが、とはいえやはりロールズはロールズである。結局のところ、それがロールズロイスという車の意味なのだ。
(ロング・グッドバイ) 
私はチェス盤を見下ろした。ナイトを動かしたのは間違いだった。私はその駒をもとの位置に戻した。このゲームではナイトは何の意味も持たない。そこに騎士(ナイト)の出番はないのだ。
(ロング・グッドバイ)
私はキッチンに行ってコーヒーを作った。大量のコーヒーを。深く強く、火傷しそうなほど熱くて苦く情けをしらず、心のねじくれたコーヒーを。それはくたびれた男の血液となる。
 (ロング・グッドバイ)

「あなたは自分のことを知恵の働く人間だと思っているのかしら、ミスタ・マーロウ?」
「まあ、あふれてこぼれ落ちるほどでもありませんが」と私は言った。
(高い窓)
最後の引用は、村上春樹自身によるもの。

今回読んでみて、ああ、こんな文章もあったんだという新しい発見があった。
また、チャンドラーの小説が読みたくなる。
そんな本だ。


2018年6月3日日曜日

終わりと始まり 2.0 /池澤夏樹

池澤夏樹氏が朝日新聞に掲載しているコラムの2013年4月から2017年12月までをまとめた本だ。

コラムというと、どうでもいいような事を書いて、お茶を濁した文章のことという印象を持たれる方もいるかもしれないが、この本は違う。

ほとんどの文章が、真剣勝負。
読む人が読めば、いかに作者が読者に問いかけ、考えることを促し、場合によっては挑発しているかが感じられる。

時期的にいって、特に多いのが、安倍政権に対する批判だが、この政権がもたらす精神衛生上の不健康さにもかかわらず、これだけ根気よく言葉を尽くして批判を続けるのは相当なエネルギーが必要だと思う。

例えば、沖縄県の基地問題について、

「では、憲法はというと、アメリカがらみの課題について最高裁は『統治行為論』という詭弁によって責任を放棄してしまった。事実上、日米安保条約は日本国憲法の上位にある。行政の頂点には日米合同委員会がある。つまりこの国はおよそ主権国家の体を成していない。そういう事態が六十年以上続いてきた。」

とこの国の現実を説明し、この事態を一掃するための過激な憲法改正案を提示する。

難民の受け入れ問題については、

「他国にならって、ある程度の摩擦と苦労を承知の上で、開国すべき時期ではないのか。人口比で言えば、ドイツの三万一千人に対してこちらは四万八千人ほどになるが、準備はよろしいか。」

と、日本の鎖国状態を痛烈に批判している。

また、震災後の日本を、中東の民主化になぞらえ、

「二〇一一年、ぼくたちは震災を機に希望を持った。復旧に向けて連帯感は強かったし、経済原理の独裁から逃れられるかと思った。「五年たってみれば、『アラブの春』と一緒で一時の幻想、『災害ユートピア』にすぎなかったように思われる。」

と、原発再稼働や海外への売り込みなど、震災後の日本の進む道に幻滅している。

そして、時に鋭い着眼点にはっとさせられる部分も多い。

たとえば、法人(株式会社)とは、ホモ・サピエンスとは違う知的生命体「ホモ・エックス」であるという認識。種が違い、生きる目的も違うから人倫を求めるのも無意味だという考え。
(この考えに基づくと、企業不祥事の本質が理解できる)

また、震災遺構の存続をめぐる問題では、大川小学校について、作者は遺構は校舎ではなく、裏山そのものだと指摘する。

「見れば、小学生がここを登るのは実に容易だとわかる。なぜこちらに逃げなかったのだ、と地形が問いかける。」

こういう事実をスパッと指摘する新聞記事も少なくなってきたような気がする。

これだけ、欺瞞と嘘があふれている世の中だから、事実に基づいた作者の本音が見える”普通の本”を読むと、へんに新鮮な気持ちになってしまうのは、私だけだろうか。