2014年11月30日日曜日

アメリカに生きる彼女たち/片岡義男

1949年から1995年までのアメリカの雑誌広告に描かれた女性像の変遷を考察している本だ。

広告は、言ってしまえば、人々の購買意欲、欲望を煽り立てる力を持たなければならない。そして、その有効な道具として、女性の美しさが様々な姿で表現されていることが実感できる。

・1949年

日本がまだ戦後の復興中の頃、アメリカは人類史上初めての異常事態ともいうべき、豊かさと力を持った。広告の中で、いろどりを添える女性らしい女性たちが広告に描かれている(この頃はまだ絵)。

・1950年代

この年代の広告において、女性は、人間関係の中、主役として機能している姿が多く描かれていると片岡義男は観察している。この「人間関係」ということばに関する片岡の説明が面白い。
ペプシコーラの広告八点が描く理想のなかに浮かび上がるもっとも大切なものとは、いったいなにだろうか。それは、関係だ。人と人との、関係だ。人間関係、と日本語で言うと、際限なくわずらわしい、人をどこまでも落ち込ませる、この世のしがらみでしかない。日本における関係は、そのなかに人を閉じ込める。アメリカでは、関係は人を解放する。…あるひとりの人のポテンシャルをフルに引き出すために、関係はある。あるひとりの人にかかわる評価として、もっとも大切なのは、その人がどのような関係を持っているのか、どのような関係を作り得るのか、という能力だ。…アメリカでは転職や転居が多い、としばしば言われている。新しい可能性を求めて移動するわけだが、新しい可能性とは、要するにいまよりもっといい関係のことであり、そのような関係のなかに自分を置き直すことによって、自分の機能を高めることが、移動の最重要な目的となっている。
個人主義に基づく自由と民主が、女性たちの全体に、ディテールに現れている。
この頃から、写真が使われているが、有色人種の女性の登場はない。

・1960年代

家庭において、主役的な触媒として機能することを、社会システムから期待されていた女性たちがファミリー・ポートレートとして多く描かれている。

・1970年代

働く自立した女性たちが広告の前面に描かれる存在となる。印象に残ったのは、ウィンストンの煙草の広告。女性がカメラを真っ直ぐに見据えながら、笑顔もみせず、きりっとした感じで箱から煙草を一本抜き出す姿が描かれている。
黒人の女性の広告が現れる。

・1980年代

女性の身体、肉体が生に表現されるようになる。社会の構造、家庭、人のあり方という堅牢な枠組みが溶けはじめ、解体され、身体に視点がフォーカスされる。印象に残ったのは、女性の脚の美しさを描いている広告だ。彼女の傍には、その脚に見とれる男性が配置されている。男性の欲望が見えることで、その脚が引き出す欲望が増幅されている。

・1990年代

1980年代に完成された美意識が継続している。
是非はともかく、アメリカ陸軍の女性隊員を応募する広告にさえ、完成された美しさがある。


本書に収められている広告の中には、芸術的と評してもおかしくない完成度の高い作品もある。

雑誌をあまり読まない私なので正確なことは言えないが、日本の雑誌広告とは、女性の美しさを活かしたシンプルな訴求力、ウィットという点において、比べ物にならないほど、レベルが高いように思った。


2014年11月29日土曜日

古事記 池澤夏樹 訳/日本文学全集 01

池澤夏樹が現代語訳した古事記を読んでみた。

私は、古事記というと日本最古の書物という程度の知識しかなかったが、本書の作られた背景と、その構成は興味深かった。

古事記が作られた最大の理由は、「みなみなの家に伝わる帝紀と旧辞は今では事実を離れてずいぶんと嘘が混じっている」と天武天皇が言い、それがきっかけで、元明天皇の命令により、官僚の太朝臣安万侶(おおのあそみやすまろ)が、口頭で伝承されていた記録を統合して整理し、文書化したものだということだ。

帝紀は、天皇や豪族の系譜を指し、旧辞は、物語的なものを指すらしい。

そして、古事記は、命令どおり、帝紀と旧辞的なもので構成されており、池澤夏樹の解説では、さらに分かりやすく、大きく3つの要素「系譜」、「神話・伝説」、「歌謡」と説明されている。

古事記の「系譜」は、非常に政治的な匂いがするまとめられ方をしている。

天照大御神(アマテラス)を中心する神々の系統の中央に天皇と子孫たちを置き、地方豪族たちの祖先もその系統に組み込み、神々の威信を利用して、中央集権国家としての統一感を得る。
その作業のために登場する神々だけで312名もいるらしい。

そして、「神話・伝説」については、神々(イザナキとイザナミ)がセックスして、島々(四国・九州地方)と数々の神々が生まれる様子が、明け透け(女性器の名称や、ゲロ・ウンコ・オシッコなど)に書かれていて面白い。

また、天岩戸の神隠れ、スサノヲ伝説、八俣のオロチ、稲羽の白兎、ヤマトタケルの冒険など、なじみのある話が幾つも収められていて、古事記の文学的な面白さが感じられる。

*山岸涼子のマンガを読んでいた人であれば、これらの物語や神々・皇族・豪族の名前について、幾つも読んだことがあるという実感を覚えると思う。

最後の「歌謡」については、私にとっては、万葉集以前にも、こんなにも歌が謡われていたのだなという程度の印象しかなかったが、当時は、言葉というのは音読し、読み聞かせるものだったという証左なのかもしれない。

古事記は、上・中・下巻の3部構成になっているが、上巻は、日本が形作られる神々の世界が中心に描かれており、出雲の神々がアマテラス率いる中央の神々に制圧される話が印象深かった。

中巻は、初代神武天皇から十五代応神天皇までの時代を描いているが、やはり、ヤマトタケルの話が印象深い。

下巻は、十六代仁徳天皇から三十三代推古天皇までを描いている。この下巻から神話性に代わって、儒教的なモラル観が描かれており、話が常識的なものになっている印象を覚える。
意外だったのは、聖徳太子や推古天皇のあたりの話が、さらっと触れる程度で終わっているところだった。

総じていうと、玉石混淆という印象が強く残ったが、現代語の感覚に近い形で、物語を蘇えらせた訳者の池澤夏樹の努力は相当なものだと思う。



2014年11月25日火曜日

「日本語の外へ」 「自分と自分以外」/片岡義男

片岡義男の「日本語の外へ」の第2部 日本語の章に書かれている英語と日本語の比較は、私が読んだ本の中では、もっとも、日本語という言語機能に痛烈な批判を投げかけている文章だと思う。

そこで批判されている日本語とは、文学における日本語ではなく、実社会、さらには国際社会において、他者との対立を怖がらず、主体と行動、そして責任を明確にする個人の考えの発信力のことで、これが日本語には決定的に欠けているという痛烈な批判だ。

私は読んでいて、あまりに不安になってしまい、日本語の良さを再確認したくて、丸谷才一の文章読本を改めて読み直したほどだった。

そんな片岡が書いたエッセイ集「自分と自分以外」にも、耳の痛い話が書いてあった。

「私は作家になりたいと思います」という言い方の中にある「と思います」という日本語。

日本語をそのまま英訳してみると分かるのだが、

I think that I would like to become an author. という、あまり見かけない不自然な英文になる。

主語と動詞が二重になっており、煩わしいし、英語世界の人たちからみると、「なりたい」という意思が弱められた文章のように感じる。

おそらく、普通に英訳される際は、「I think」がなくなり、I would like to become an author. だけになるのだろう。

しかし、上記の文章にかぎらず、「と思います」という日本語は、普通の日本人であれば、よく使う言い回しである。

このエッセイでは、日本人がそのような言い回しを使う理由を次のように説明している。
・自分の断定的な主張を相手に直接ぶつけることを避け、自分の主張によって相手が困ることのないように配慮した言い方が、「と思います」である。 
・はっきり主張することを避けて自己責任をあらかじめ軽減しておく工夫であり、この軽減された責任というものが、誰にとっても暗黙の了解という領域を作っている。このような領域がいたるところに配置されていないと、日本人の言語生活は成立しない。
・作家になりたいと言うだけでは、自分の胸のうちが十分に表現されない。「と思います」を文末につけ、初めて、自分の胸のうちが自分のものとして、言いあらわされる気がする。
3つ目の理由は、話す人にとっては、それなりに納得できるものなのかもしれませんが、聞く側からすると、若干独りよがりのような印象を受けるし、分かりづらい。

自分が普段使っている言葉や言い回しを、外国語を通して、日本語の外から比較検討してみると、日本語の特徴、その背景にある日本人の姿が現れてくる。

このエッセイは、それに気づかせてくれました。

2014年11月24日月曜日

It's A Man's Man's Man's World

高倉健が出てくる映画は、ほとんど見なかったけれど、不思議とこのCMだけは覚えている。



喧嘩でやられそうな男を、見捨てられずに、つい助けにゆく。
それだけなのだが、子供ごころに、カッコいい男だなと思った。

リアリティを感じさせながら、この役を他に誰がやれるのだろうと思うと、そうそう思いつかないところに、高倉健の魅力があるのかもしれない。

Dr.Johnが歌うハードボイルドな"It's A Man's Man's Man's World"が、その雰囲気を引き立たせている。

He's lost in the wilderness.
He's lost in bitterness.

まるで、高倉健のための歌のように感じてしまう。


2014年11月23日日曜日

キャンディを撮った日/片岡義男

僕の感じ方によれば、キャンディはけっしておいしいものではない。
基本的にはどれもみなひどく甘く、香りが少しずつ違っているだけだ。
味覚として好きなキャンディはほとんどない
こんな感想をキャンディに対して持った作家が書いたキャンディの本。
きれいな写真に写るキャンディはおもちゃのように現実感がない。

それらは、きれいだけれども、装飾品のように時に毒々しい色をし、時に気持ち悪い。
少なくとも口に入れるものではないのではないか、そんな思いがよぎる。
僕にとって、キャンディとは観察の対象であり、指先でさまざまに触れてみるものだった。…キャンディは見て楽しむ道具だ。キャンディで僕はどれほど遊んだろう。どれだけのキャンディの包装をはがし、そのままにしたことか。…僕にとって観察の対象たり得るとは、たいていのキャンディはそれぞれに奇妙である、ということだ。 
片岡義男という作家の本は、上記の文章におけるキャンディという言葉を、アメリカという言葉に置き換えてみると、すべて理解できてしまうのではないか。

この無機質な、まるでキャンディの匂いがするような本を、片岡の著作のかたまりに投げて、ふと、そう思う。


2014年11月3日月曜日

Coming soon / Original Love

Original Love 田島貴男の歌を週に一度は聴く。

駅に向かうとき、ジムで体を動かすとき、もっぱら体を動かしている時に聴いているのだが、死んでいない、同時代の同年代の人の曲を楽しめるというのは、やはり素直にうれしい。

自分が好きな音楽や小説を集めると、圧倒的に80年代以下になってしまうので、一時期は、何故、もっと早く生まれなかったのだろうと真剣に自分の生年月日を悔やんだ時期もあった。

そんなわたしが、田島貴男や一十三十一、ポール・ウェラーの音楽をリアルに聴くことができたのは、やはりうれしい。

自分でも圧倒的に活字で物を考えるタイプだと思っているが、音楽は、気持ちをふわっともちあげてくれるところが素敵だ。

それは、目の前に素敵な女の子がふっと現れる瞬間に似ている。妙に世界がきらきら輝くのだ。
活字でもそんな事はたまにあるが、音楽の即効性には敵わない。

田島貴男の音楽は、常に変化を求めている。
前作の曲作りを無視して、あるいは壊して、新しい音楽を探す姿勢を感じる。

田島自身、あまり、ファンが何を期待しているのか、考えていないのだと思う。

実際、彼の音楽を聴いて、何度か裏切られた気持ちになったことがあった。
でも、自分のすきなアーティストの作品は、そうそう嫌いになれないというのが実感だ。
聴いているうちに、いずれ好きになってしまう。
実際、何年か後にそれを好きになり、過去の自分の感覚を疑ったことが何回かある。

新しいシーズンが来る♪

2011年に聴いたその気持ちをふわっと持ち上げる曲を、今も飽きずに聴いている。



2014年11月2日日曜日

ザ・チョイス/エリヤフ・ゴールドラット

本書は、エリヤフ・ゴールドラットが、娘との対話の中で、人はいかに充実した人生を送ることができるかを考察したプロセスを物語にした本である。

娘の視点で物語は進むのだが、実際にこれを書いたのは、父親であるエリヤフであることを思うと、ちょっと不思議な印象を受ける。

その教訓を以下に記載してみる。

  ・人はもともと善良である。

  ・すべての対立は解消できる。

  ・ものごとは、そもそもシンプルである。

  ・どんな状況でも著しく改善できる。

  ・どんな人でも充実した人生を達成することができる。

  ・常にwin-winのソリューションがある。

どうでしょう。なるほどと思う人はどれぐらいいるだろうか?
少なくとも私は、すぐに腑に落ちませんでした。

しかし、メモ帳に、これらの教訓を書き写して、本書で気になったセンテンスを書き加えて、しばし考察してみると、なるほどと思うところがあった。

上記の箴言を裏返してみると、どうだろう。

  ・人(取引相手と考えてみる)は、こちらの立場を考えず、利己的で、邪悪なものだ。

  ・対立は当たり前で仕方がないものだ。これを解決することはできず、妥協点を見出すしかない。

  ・現実は複雑である。

  ・人は変化を好まない。だから、自分がいくら頑張ってもその改善には限界がある。

  ・取引はwin-loseが基本で、どちらかが妥協するしかない。

この裏・箴言は、ほとんど、「大人の常識」といってもいいものではないだろうか。

ゴールドラットは、このような常識が、人が真実(原因と結果の関係)を明晰に考えることの障害になっているという。

現状の課題をブレイクスルー(打破)するためには、常識を一旦捨てる柔軟性が必要なのは間違いない。そう考えると、まさに常識を逆にゆく、一見、性善説と楽天主義の極みのような上記の箴言に、真実味を感じとることができる。