2018年2月25日日曜日

虎は目覚める/平井和正

二十五世紀、ロケット・マンのリュウは、訪れた地球で、久々に恋人サチに会うが、街は、人喰い虎のような残忍な殺し方をする殺人狂に怯えていた。

ロケット・マンとは、宇宙開拓者のことで、二十一世紀に人類は穏和で健全な人間と、兇悪な気質を備えた人間を分けられ、前者は地球に残り、後者は宇宙開拓者として地球を離れ、宇宙での生活を送っていた。

しかし、穏和な人間だけが残る地球は恐ろしく沈滞化しきってしまい、人々は、突然現れた殺人狂になす術もなく、ロケット・マンのリュウに助けを求める。

リュウは、殺人狂を探索し始めるが、サチが友人から預かったという六歳の男の子ダニーに関心を示す。この男の子は、無気力で大人しい地球人とは違い、気性が荒く、暴力的な事に情熱を持っていた。

やがて、ダニーは、リュウが持ってきた熱線銃を隙を見て奪い、リュウとサチを襲う。
サチを殺されたリュウは、ダニーが人喰い虎であることを知るが、同時に自分とサチの子であることを人から知らされる。

ダニーが持っていた獣性は、とりもなおさず、リュウのそれが遺伝したものだった。

リュウは、ダニーに対して父親としての愛情を感じながらも、熱線銃を持つ残忍なダニーと対決することになる...という物語だ。

一読して、この物語は「人狼、暁に死す」のプロトタイプだなと思った。

リュウが犬神明、ダニーが犬神明の狼男の血を輸血され、超常能力を発揮し始める人狼の北野光夫、サチは光夫に翻弄される姉の北野雪子だ。

「人狼、暁に死す」では、狼男と人狼の死闘が描かれるが、本作では、リュウの中に生まれた戦いの喜悦だけが示される。

後年、人間の暴力性を多く描くことになる平井和正の萌芽のような意思をそこに感じ取ることができる。


2018年2月24日土曜日

ゲド戦記V ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 その2/アーシュラ・K・ル=グヴィン

「湿原で」は、小高い平原の荒涼たる湿原に牛飼いとして暮らす後家のメグミが、突然現れた謎の治療師(牛や羊の伝染病を治す)の男を自分の家に迎え入れ、彼を色々と助けてあげる物語だ。

実は治療師は、ロークの魔法学院で、ゲドと呼び出しの長トリオンと互角に戦えるほど強力な魔法を使える男イリオスで、二人との戦いに敗れ、逃亡したのだった。

そして、イリオスを追ってきたゲドは、彼をみつけ連れ戻そうとするが、メグミがイリオスは村に必要だと話し、ゲドは立ち去る。
ここでも、魔法使いイリオスの人生を救ったのは、女性の力だ。

「ドラゴンフライ」は、4作目の「帰還」以降の話が書かれていて、アイリアの領主の娘 ドラゴンフライが、女好きが原因でロークの魔法学院を追い出されたゾウゲにそそのかされ、女人規制のロークの魔法学院を訪ねるという物語だ。

大賢人ゲドがいなくなったロークの魔法学院は、ドラゴンフライを排除しようとする呼び出しの長トリオンに代表される硬直的で閉鎖的な存在に変わり果てており、結果的にはドラゴンフライがその澱みを断ち切ることになる。

興味深いのは、うっすらとではあるが、ドラゴンフライが性欲について語るところで、これも過去三部作の禁欲的な世界観とは全く異なるものだ。

「アースシー解説」は、アースシーの世界を構成するファクターを教科書的、歴史的に解説している掌編だが、この中に収められている「禁欲と魔法」でも、女性を排除してきたロークの魔法学院を迷信まがいの行為と非難し、男女が交渉を持つのは自然なことであると述べている。

これらの作品には、ゲドを中心とする男性的な世界が旧世界として扱われ、テナー、テルー、ドラゴンフライに象徴される強い女性が新世界を作っていくという作者の意図が鮮明に現れている。

2018年2月18日日曜日

ゲド戦記V ドラゴンフライ アースシーの五つの物語 その1/アーシュラ・K・ル=グヴィン

作者のル=グヴィンが、まえがきで作品の解説をするという変わった本だ。

前作の「帰還」で、過去三作品で築き上げていた絶対的な英雄ゲドの幻想を破壊し、主人公たちを現代に近い世界に置き換えたことで、自分が作り出したアースシーの世界を別の視点で検証し、再構築したくなったようにも思える。

「カワウソ」は、ゲド戦記が始まる300年前、正義はなく富への欲望をむき出しにした海賊の首領とその手下の魔法使いに支配された世界を描いた物語だ。

船大工の「カワウソ」が、海賊の首領ローゼンの手下に捕まり、魔法使いゲラックに洗脳されそうになるが、鉱山で働いていた奴隷のアニエブの力を借りて危機を脱出する。
そして、追手から逃れるため、ローク島にたどり着き、”手の女”と呼ばれる魔法使いの”モエサシ”たちと出会う。

やがて、「カワウソ」(真の名はメドラ)の存在に動かされた”手の女”たちは、ロークの外の世界に平和をもたらすため、ローク島に自分たちの魔法の力を教えるための学校を作ることになり、メドラは、魔法の力を持っている生徒を探す旅に出かける。

しかし、その動きを察知したローゼンの手下の魔法使いアーリー(ゲラックの弟子)が、「カワウソ」と彼が接触した人々に襲い掛かり、ローク島に艦隊を差し向け、滅ぼそうとする...というあらすじだ。

興味深いのは、主人公は「カワウソ」なのだが、アニエブの支援と”モエサシ”たちの魔法の力、すなわち、女性の力がなければ、彼にはゲラックやアーリーとは闘う力がなかったという点だ。この物語にも、前作「帰還」のテナー、テルーの存在と同じ流れを感じる。

「ダークローズとダイヤモンド」は、商人の息子で、魔法の力がある「ダイヤモンド」が、魔法使いの道を目指そうとするが、幼い時に親しくなった魔女の娘「ローズ」との愛と自分の好きな音楽を捨てることができず、師匠も親も捨て、彼女と旅の楽師になる人生を選択するという物語だ。ここでも、「ダイヤモンド」に強い影響力を与えているのは、女性の力だ。

「地の骨」は、ゲドの師匠オジオンが、彼の師匠へレスとゴント島に起ころうとしていた大地震を食い止めた話だ。この話は、一見、女性の力は関係ないように見えるが、へレスが使った魔法が、彼の師匠アード(女性)の原始的な魔法の力だったことが明かされている。

(残りの物語は次回で)


2018年2月12日月曜日

レオノーラ/平井和正

平井和正のデビュー作「レオノーラ」を、日本SF傑作選4で読む。

作品からは、これは確かに平井和正の作品だと思える特徴がいくつか感じられた。

一つ目は、人種問題。主人公の日本人のケンは、アメリカ人と思われる白人の暴徒に襲われ、顔を潰される。
この、Occupied Japanの感覚は、後のヤング・ウルフガイにもつながる部分がある。

二つ目は、アンドロイドのレオノーラだ。
この美しく従順に主人に仕える女性の存在は、後に、幻魔大戦、真幻魔大戦で東丈に仕える杉村由紀、杉村優里の原型のようにも思える。

そして、最後が人間嫌悪ともいうべき主人公ケンの絶望である。
この人類ダメ思想は、ウルフガイシリーズにとどまらず、幻魔大戦にも現れる平井和正の作風そのものと言ってもいいかもしれない。



2018年2月11日日曜日

犬物語/ジャック・ロンドン(柴田元幸翻訳叢書)

この本に描かれている犬は、人間の愛玩動物としての犬ではなく、どちらかというと狼に近い、知恵も勇気も忍耐も兼ね備えた、リスペクトすべきパートナーとしての犬である。

ジャック・ロンドンが、これらの犬が登場する小説を発表していた1900年代初頭においては、まだ、犬が極寒の中を犬橇をひいて郵便物を運ぶ役割を果たしていたことがうかがえる。

「ブラウン・ウルフ」
ある夫婦が偶然見つけてペットとしてなつかせようとしていた犬が、過去にその犬を所有していたという男と出会い、その犬が過酷な環境で犬橇を引いていたという事実が分かる。両者が犬の所有を主張して譲らぬ中、男は夫婦に対して、犬に飼い主を選択させることを提案し、自分は立ち去り始める。犬が選んだのは...

「バタール」
犬に対して残忍な仕打ちをする主人と、その仕打ちに耐えながら、主人に対する憎悪を膨らませ、いつか復讐することを心に誓っている犬の関係。
憎しみも愛以上の関係に発展し、生きがいになってしまうことがあるのだろうか。

「あのスポット」
売っても、捨てても、窮地に置き去りにしても、自分のところに舞い戻ってくる犬。
これは、ちょっとした悪夢かもしれない。

「野生の叫び声」
判事の家で、何不自由なく暮らしていたバックは、突然、金に困った使用人に売り飛ばされ、犬橇を引く環境に身を落とす。
厳しい環境の中、バックは、飼い主の棍棒、犬橇を率いるリーダー、先輩、同僚の犬から多くの事を学び、やがて、リーダー格の橇犬としてたくましく成長する。
次々と変わっていく飼い主だったが、相思相愛の飼い主についに巡り合い、幸せな時間を過ごす。しかし、森への侵入を繰り返すうちに、やがて、眠っていた野生の血がバックのなかでよみがえっていく。

「火を熾す」1902年版
極寒の中、水につかってしまった男が、凍傷を防ぐため、火を熾そうと奮闘する話。
ちょっとした作業ミスが死につながるという過酷な世界。
この作品には犬は出てこないが、1907年版の犬が出る物語の方が深みがあると思う。

犬好きには、お勧めの一冊である。


2018年2月10日土曜日

ゲド戦記Ⅳ 帰還/アーシュラ・K・ル=グヴィン

前作「さいはての島へ」から、十六年後に書かれた作品。

しかし、物語としては、前作の最後で、竜のカレシンに乗ったゲドが、ゴンド島に向かった後の話なので、それほどの時間は経っていないことが分かる。

にもかかわらず、この物語に、「さいはての島へ」からの距離感を感じるのは、何故だろう。

まず、何より、この物語で再登場したテナーの存在が大きい。二作目の「こわれた腕輪」で、墓地の暗黒世界からゲドとともに抜け出した少女アルハ(テナー)は、本作では、二人の子供を産み、夫を失った中年の後家として描かれている。

つまり、「こわれた腕輪」から「さいはての島へ」の間には、二十五年もの歳月が流れていたという事実がテナーの変わりようで示されているのだ。

次に、大賢人ゲドと大巫女アルハ(テナー)のおそろしいほどの無力化である。
まるで英雄の後日談のように、魔法の力を失ったゲドと、農家の主婦として暮らしていたテルーの中年男女の等身大の姿がリアルに描かれている。

そして、前作との決定的な違いは、性と暴力の影が描かれているところだろう。
これは、強姦され、火の中に投げ込まれ、顔にひどいケロイドを負った少女テルーの存在が大きい。

テルーに暴力を振るった男たちが彼女を再度襲おうとするところも怖い。
彼女を引き取り、守ろうとするテナーにも、その悪意と暴力は襲い掛かり、彼女は震えて言葉すら発せられない無力感を味わう。そんなテナーを、ゲドも守り切れない。

この悪意と暴力に満ちた世界は、現代社会そのものといってもいいのかもしれないが、「さいはての島へ」で、魔法の力を失うまで戦い、クモを葬ったゲドの努力の結果と、王位に就いたアレン(レバンネン)の統治する世界が、たとえ、その直後だったとしても、このような様相を呈していたことに驚きを隠せない。

この暴力の影が予想外に物語の最後までひきずるように描かれているせいで、はらはらしながら読んだという印象が強いが、物語を最後まで読みきると、作者として、何を書きたかったのかが、ようやく分かったような気がする。

でも、この物語、やはり子供向けの領域は超えていると思う。






2018年2月4日日曜日

ゲド戦記Ⅲ さいはての島へ/アーシュラ・K・ル=グヴィン

ロークの魔法学校に、エンラッドの王子 アレンが訪ねてくる。
彼は、そこで大賢人となったゲドに、世界に異変が起きていることを伝える。

前作でつながったエレス・アクベの腕輪により平和になったはずの世界の均衡が崩れ、魔法の力が失われ、邪なものが立ち上がろうとしていることを察知したゲドは、その原因を突き止めるため、アレンを連れて旅に出る。

ゲドは、その原因をこんな風に話す。

「自然はいつも自然の法則にのっとってあるものだ。今度のは、だから、どう見ても均衡を正そうというのではなくて、それを狂わそうとする動きのように思われる。そんなことができる生物は、この地上には一種類しかいない。」

「...ただ、生きたいという思いだけではなくて、たとえば、限りない富とか、絶対の安全とか、不死とか、そういうものを求めるようになったら、その時、人間の願望は欲望に変わるのだ。そして、もしも知識がその欲望と手を結んだら、その時こそ、邪なるものが立ち上がる。そうなると、この世の均衡はゆるぎ、破滅へと大きく傾いていくのだよ。」

このゲドの言葉でわかる通り、作品には、人間の欲望をひたすら煽り、発展を遂げてきた現代の産業文明、資本主義社会を批判している印象が濃厚に感じられる。

そして、ゲドとともに旅をしていくうちに、精神的に成長してくアレンに代表される若い力がない限り、世界が変わることはないのだというメッセージも込められているような気がする。

ゲドとアレンが、黄泉の国で、クモと呼ばれる死霊と対決するシーンに、既視感を覚えたのは、私だけだろうか。クモは、漫画版「風の谷のナウシカ」で、ナウシカが心象世界で出会う虚無や神聖皇帝とイメージがぴったりとあてはまる。

私は、宮崎吾郎が監督を務めた映画版の「ゲド戦記」は見ていないが、原作の「ゲド戦記」1巻から3巻を読んだだけでも、宮崎駿に関して言えば、その物語を換骨奪胎し、すでに自分の作品に取り込んでいたのではないかという思いを強くした。