2021年8月22日日曜日

エーゲ 永遠回帰の海/立花 隆 [写真]須田慎太郎

 立花 隆の著書に、こんな本があったのかという驚きを感じながら読んだ。

1982年夏、立花 隆がカメラマンとレンタカーと船に乗って、エーゲ海沿岸を旅した記録が収められている。
冒頭に収められた数々の遺跡の力強い写真と、そこに添えられたゴシック大文字で語られている、立花隆の歴史観を表す言葉が印象的だ。

立花 隆は、須田カメラマンとともに、観光コースに組み込まれている遺跡や人里はなれた山の中に埋もれて誰一人訪れることのない遺跡を一つ一つ丹念に見て回ったという。
そして、その遺跡の前で「黙って」かつ「しばらく」(二時間くらい) 座ってみたという。

そのうち、二千年、あるいは三千年、四千年という気が遠くなるような時間が、目の前にころがっているのが見えてくる。抽象的な時間ではなく、具体的時間としてそれが見えてくる。…

突如として私は、自分がこれまで歴史というものをどこか根本的なところで思いちがいをしていたのにちがいないと思いはじめていた。…

最も正統な歴史は、記録されざる歴史、語られざる歴史、後世の人が何も知らない歴史なのではあるまいか。

記録された歴史などというものは、記録されなかった現実の総体にくらべたら、宇宙の総体と比較した針先ほどに微小なものだろう。宇宙の大部分が虚無の中に呑みこまれてあるように、歴史の大部分もまた虚無の中に呑みこまれてある。

本書は「偉大なるパーン(宇宙の根源)は死せり」という大音声が天上から発せられたローマ帝国ティベリウス帝時代の逸話から始まり、それは、異教の神々が支配した時代の終焉と、キリスト教の世界支配の開始を示す転換点だと述べている。

ギリシアが、ローマ帝国の支配を受けることで、ギリシアの神々はローマの神々と同化し、「ギリシア・ローマ神話」にまとめられ、キリスト教がローマ帝国の国教となる過程で、後期ギリシア文明をたっぷりと吸収したことが指摘されている。
(アジアの地母信仰がギリシアのアルテミス信仰に変容し、それがキリスト教のマリア信仰に形を変えていった)

イエスの存在に象徴される、神が不死ではなく、死ぬ可能性もあり、死んでも復活する能力というのは、ユダヤ教にはなく東方的な要素であるという。

ただ、一点、キリスト教が、ギリシアの神々やアジアや東方の神々と同化しなかった部分は、性を原罪ととらえていた点で、男根を象ったブロンズ像や、陰部、腰、腹が強調されている地母神の像の写真が載っているが、古代の異教の神々のもとでは、セックスが聖なる信仰の行為として捉えられていたことがよく分かる。

立花隆が、性を禁忌として最大限に抑圧する宗教(キリスト教)が生まれて二千年後の今、どのような社会が現出したかというと、むしろ性の解放をもってよしとする社会だったと言えるのではないか、と指摘しているが、妥当な認識だと思う。

立花隆が、本書は田中角栄の裁判の傍聴から離れ、遠く宇宙や古代世界に自らを解き放つ仕事だったと述べているが、忙しい雑務から解放され、力みが抜けたストレートな知的好奇心が美しい写真とともに滲み出ている。

あとがきで、立花隆が田中角栄の裁判を巡る仕事に忙殺され、本書の完成になかなか手を付けられなかった経緯が述べられているが、本当に残念だったと思う。

本書は、ニーチェの永遠回帰の思想や、世界で初めての哲学者と言われるタレスの言葉「万物のもとは水である」をめぐる思想など、旅行記にとどまらず、歴史や哲学、文明論まで含んだ総合的なテーマを扱うものだったからだ。

まさに、立花 隆にうってつけのテーマだ。

田中角栄研究の著書も素晴らしいとは思うが、本書のようなテーマにもっと取り組んでほしかったと、つくづく思う。




2021年8月12日木曜日

雲をつかむ話/多和田葉子

題名通り、最初それはつかみどころのない、ばらばらな話なのかと思ってしまったが、全体を読み終わると焦点がしぼられるようにその知的な構成がぐっと前面に出てくるような、いかにも小説らしい小説を読んだという気分になる本だ。

12章から構成される中編小説なのだが、作者が出会った犯罪者の話が章ごとに書かれている。

1章…警察に追われ、姿を隠すために作者の家を訪問した殺人犯のフライムート青年の話

2章…作者の郵便ポストに投函された日本の文芸雑誌を盗んだ十歳の少年の話

3章…殺人未遂罪で牢屋に入っていたZという詩人の話

4章…作者が地方の文学祭に呼ばれた際に泊まったアルタースハイム(老人ホーム)を作った妻を殺した牧師(蟻が原因で犯罪が判明)の話

5章…小学校を中退し司法試験を目指していた(前科があり諦めた)マボロシさんという舞踏家の話

6章…独房に長く入れられ言葉が話せない中国人の亡命詩人の話

7章…無賃乗車を繰り返す青年オスワルドとその双子の青年ヴェルナーの話

8章…クリスマスに招待された知人の家で会った夫殺しの女性ベアトリーチェの話

9・10章…ベニータ(作者は紅田と呼ぶ)と、彼女の胸をナイフで刺した友人のマヤとの奇妙な関係の話

11章…作者は1~10章の犯罪者が搭乗している飛行機の中にいる(心象世界)

12章…作者の精神状態を気遣い、犯罪者とは会わないようにと忠言する女医の話(心象世界?)

1章ごとに読ませる内容になっている。
特に7~12章は面白くて一気に読んでしまった。

一貫して感じるのは、作者自身が移民であること、外国人であることの意識から生じる、ドイツの日常世界とは一歩距離を置いた慎重な姿勢と、その反動からなのか、犯罪者に無意識的に近づいてしまう隠された好奇心である。その意識的なブレーキのかけ方と無意識的なドライブ全開の感じの奇妙なギャップが作者の言動から浮かび上がってきて面白い。

ところが、12章で描かれる女医は、無意識の世界に登場する、その好奇心にブレーキをかけようとする存在だ。その自信に満ちた言動から、女医という存在は、作者がともすれば犯罪者と同じ道に転がりそうになる精神にブレーキをかける重要な役割を持っていることが分かる。

ミイラ取りがミイラになる、朱に染まれば赤くなる、を防ぐための基準。
そういった線引きをきちんと最後に示したこの作品は、タイトルの「雲をつかむ話」=「つかみどころのない話」とは、まるで違った様相を呈していることも興味深かった。

PS:個人的に面白かったのは、6章に出てくるキーワード「オクラホマ・シティ」と、それを「どこでもない場所の真ん中」と作者が言った場面だ。
前者はカフカの作品「アメリカ」(失踪者)で、主人公カールが採用された劇団(「オクラホマ劇場」)のことだが、「どこでもない場所の真ん中」とは、村上春樹の「ノルウェイの森」で、僕が最後に緑に言った言葉ではないか。