2017年10月30日月曜日

紅葉賀・花宴/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

紅葉賀は、光君が密かに関係した義母の藤壺が産んだ若君が、光君そっくりで彼の子どもであることが証明されるというのが一番の事件であるが、それよりも話として面白いのは、五十六、七の好色な性分の熟女(老婆?)の典侍(ないしのすけ)と関係をもってしまうことだ。

「流し目でじっと見つめてくるが、近くで見るとまぶたが黒ずんでげっそり落ちくぼみ、髪もぼさぼさである」この女性に、「この女はいったいどう思っているのだろうと、無視することもできなくて、裳の裾を引っ張ってみ」る光君。

彼がすごいのは、このあらゆる女性に対する並々ならぬ好奇心の強さだろう。

花宴は、桜の宴の際、光君の政敵とも言える弘徽殿女御の妹(六の君)を、強引に部屋に引きずり込み、関係してしまうという話である。

二人とも、薄々、相手が何者か感づき、特に六の君は困ったことになったと思いはするが、「恋心のわからない剛情な女だと思われたくない」と思い、特に抵抗もせず、関係を持ってしまうところが面白い。

この恋愛至上主義ともいうべき美意識にかかれば、政敵の相手と関係してしまうことも、やるせなく、切ない恋愛の旨みに変化してしまうのかもしれない。




2017年10月29日日曜日

忘れられた巨人/カズオ・イシグロ

この小説を読んだ後、忘却というものは、人間社会にとって必要なものなのか?という思いが強く残った。

個人として身近にいる人との過去の軋轢、怒り、悲しい思い出。それらをまだ許すことのできない自分。

国家として戦争を仕掛け、侵略した過去を忘れて未来志向の関係を築きたいと繰り返すが、それらを許してもらえない隣国。

もし、過去をすべて忘れることができたら、どれ程、人類は不要な戦火を逃れることができたか、個人として人を許し、許され、幸せになれたかという思いがよぎる。

この小説では、雌竜のクエリグの吐く息が、イングランドの人々の過去の記憶を奪うが、それによって、老夫婦の悲しい思い出、ブリトン人とサクソン人の争いぬから生まれた怒りや復讐が消え去り、傷を癒すように関係を修復することができた。

その竜を退治し、過去の記憶が蘇った時、「かつて地中に葬られ、忘れられていた巨人」が復活したとき、人々はどう振る舞うのかという、実に重いテーマを、この小説では取り上げている。

最後、記憶を取り戻した老夫婦が、息子がいた島に、二人一緒にたどり着けたのかどうかが、とても気になる。
結末を書かなかったのは、おそらく、その判断を読者に委ねているからではないか。


2017年10月22日日曜日

日の暮れた村/カズオ・イシグロ

カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」をまだ読んでいる途中だが、記憶の忘失が重要なテーマとしてあることは間違いない。

この短編「日の暮れた村」もその系譜にある小説と言っていいだろう。

イングランドをずっと旅し続けてきたフレッチャーが、日の暮れた頃にたどり着いた村。
その村で彼は若い頃、「大きな勢力をふるうに至った」存在だった。
たまたま、彼を見かけた二十代の女性も、その姿を見かけ、ある種の興奮を覚えるほどの伝説的な存在。

しかし、フレッチャーは、休息をとろうと、たまたまノックして入った家が、かつて自分が滞在していた家だったことも、彼を知っているその家の主人であるピーターソンという老人も思い出せない。

そして、旅の疲れから眠ってしまった彼を起こそうと声をかけてきた四十代の女性は、かつて彼を崇拝し、彼と男女の関係を持った仲だったらしいのだが、私の人生を滅茶苦茶にしたと彼を非難するどころか、ひどく老いぼれた姿らしいフレッチャーを「嫌な匂いのする襤褸切れの束」とまで言うが、彼は彼女の名前を思い出せない。

彼は、自分を非難したがっているピーターソンの家の人々に、自分たちがかつていくつかの過ちを犯したことを認めつつも、これから、若者たちのいるコテージに行って話し、昔のように彼らを諭し、ある種の影響を与えようとすることを宣言する。

フレッチャーは、最初に彼を認めた二十代の女性に連れられ、若者たちのいるコテージに向かおうとするが、道中で、かつて、彼がかつて学校にいた頃、年中いじめていたロジャー・バトンと会う。(村に入った彼を尾行していたようにも思える)

ここでも、また、フレッチャーを「鼻持ちならないクズ野郎」というロジャー・バトンと話しながら歩くうちに、いつの間にか、女性を見失ってしまい、彼は、ロジャー・バトンに、若者たちのいるコテージに行くにはバスに乗っても二時間かかると言われ、村の広場のバス停に案内される。

前後の関係から言って、若者たちのいるコテージがそんなに遠く離れているはずもなく、明らかにフレッチャーはロジャー・バトンに騙されている訳だが、彼は来る見込みもないバスを待ちながら、痴呆者のように、若者たちのいるコテージで喝さいの中、迎えられる自分の姿を思い浮かべながら幸せな気持ちになる、という物語だ。

この物語は、若い頃にひどいことをした本人は忘れていても、周りの関係した人々はそれを根深く覚えているものだという教訓めいた話にも思えるし、

かつて勢いがある時には伝説のように崇められていた人も、老いてみすぼらしくなった時には、周りの人々にしっぺ返しをくらう運命にあるという話のようにも思える。

面白いのは、人気のない村の広場でバスを待つフレッチャーが、惨めな思いに駆られるのではなく、幸福感に満ちた気持ちの中、物語が終わるというところだ。

これは、カズオ・イシグロのある種の優しさなのだろうか。

2017年10月16日月曜日

遠い山なみの光/カズオ・イシグロ

読んでいて、とても不思議な気持ちになる小説だ。
まるで、小津安二郎の映画のような世界が再現されているからだ。

今は英国の片田舎に住む主人公の悦子は、夫を亡くし、二人の娘のうち、長女の景子が自殺で亡くなり、次女のニキはロンドンで暮らしていて、一人の生活を送っている。

次女のニキは、長女の景子が自殺したことは、母の悦子の責任ではないという事を励ましてくれるのだが、悦子はそれと関係するかのように、日本で最初の夫と結婚し、景子が、まだお腹の中にいた頃に知り合った、佐知子という女と彼女の娘 万里子のことを思い出す。

アメリカ兵との叶う可能性もないアメリカでの生活を夢見る佐知子と、彼女にほったらかしにされる万里子。

悦子は、この不思議な母娘と交流を持つのだが、戦後間もない長崎の街の様子、最初の夫 二郎と、義父の緒方との関係、これらの人々との会話を読んでいると、自然と、小津安二郎の映画「東京物語」のシーンが脳裏に浮かんでくる。

悦子は原節子、義父の緒方は笠智衆、父を冷たくあしらう夫の二郎は、山村聡のようだ。

佐知子は、原節子が二役やることでもいいかもしれない。
というのは、この物語では、悦子がなぜ、イギリスに旅立ったのか、景子との日本での思い出はどうだったのかが語られていない反面、まるで写し絵のように、アメリカに旅立とうとする佐知子と、彼女に振り回される万里子が描かれているからだ。

その構成は、英国に行った後の景子の運命と重なり、見事としかいいようがない効果をあげている。

カズオ・イシグロは、テレビのインタビューで、現実の世界にはない、記憶の中にある「日本」を留めておきたくて小説に書き留めたという話をしていたが、この小説を読むと、とても納得する。

ある意味、日本の小説家が書く小説よりも、はるかに日本らしい小説だと思う。

2017年10月15日日曜日

若紫・末摘花/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

若紫は、わらわ病(熱病の一種)にかかった光君が、加持祈祷を受けに山深い寺に行った際、偶然見かけた可愛らしい女童(若紫)が、思いを寄せる藤壺の宮の兄の娘という事を知り、自分のもとに引き取って育てようと、あれこれと画策する物語だ。

また、その一方で、光君は、病気にかかって宮中を退出した藤壺の宮となかば強引にふたたび逢瀬を交わす。

読者は物語の流れで行くと、ここで初めて、光君が藤壺の宮(自分の父の後妻で亡き母と瓜二つ)と強引に関係を持ったということを知らされる。

この本の解説にも出ているが、光君と藤壺の宮がそのような経緯になった編が本当はあって、何らかの理由により削られたのではないかという説があるが、いったい何だったのだろう。

いわゆる母子相姦というモラルを破ったという理由であれば、例えば、紫式部のパトロンであった藤原道長の指示で、物語の筋自体が変更されそうなので、別の理由だったのかもしれない。

そして、この物語のさらに大胆なところは、藤壺の宮が懐妊し、その父が光君らしきこと、また、光君が、天子の父になるという夢を見るというところだ。

そんな大問題を引き起こしておきながら、光君は、若紫を自分の元に向かい入れ、男女の関係こそないが、自分の懐に入れて可愛いがる。

光君が美男子だからこそ、物語になるかもしれないが、一歩間違えば、権力を笠に着た変態男子といっていいかもしれない。

末摘花は、光君のかつて乳母だった女性が知っている、荒れ果ててさみしい邸に住んでいる姫君に接近しようとする物語だ。この光君の物好きな漁色家と言ってもいい一面が垣間見える物語だ。

おかしいのは、光君に容易に会おうとしない姫君に熱を上げ、いざ、会ってみたら、気の利いた会話や歌詠みもできず、胴長で顔の下半分がやけに長く、鼻先が赤いという姫だったというオチだ。

それでも、この光君の奇妙なところは、一気に興ざめにならず、姫君に同情し、贈り物をして生活を支えたり、歌を詠んだり、さらには一晩泊まるような行為までするところだ。

おまけに、姫君の赤い鼻をもじった歌を詠んだり、若紫との遊びで自分の鼻に赤い色を塗り、その珍妙さを楽しだりしている。

悪趣味といえば、それまでだが、こういう人を馬鹿にしたようなゴシップは、今も昔も人々に好まれることを、紫式部は知っていたのだろう。

2017年10月8日日曜日

日の名残り/カズオ・イシグロ

ノーベル文学賞の受賞のインタビューで、カズオ・イシグロが、彼よりも先に受賞すべき作家として、村上春樹の名前を何のけれんもなく挙げていたのを見て、やっぱり、この人はいい人だなと思った。

「日の名残り」しか、読んだことのない読者であるが、私の中では、あの忠実なおそろしいくらい不器用でまじめな執事のスティーブンスのイメージが、カズオ・イシグロに重なってしまう。

久々にページをめくって読むと、やはり、いい作品だなと思う。
ダーリントン卿に仕えていた執事のスティーブンスは、ダーリントン卿の屋敷を召使ごと買い取ったアメリカ人の主人から、自分が帰国している間に、イギリスを旅したらどうかと、休暇とフォード車とガソリン代を与えられる。

とまどいながらも6日間の旅に出かけるのだが、美しいイギリスの田舎の風景をみながら、彼によぎってくるのは、かつて、国際政治の舞台となったダーリントン・ホールでの充実した日々と、彼とともに屋敷を切り盛りした女中頭のミス・ケントンへの思い。

私的な感情も、冗談一つ言うことも脇に置き、執事の品格について真面目に考え、あくまで職務に忠実を貫こうとする彼は、ナチス・ドイツに協力してしまった主人に対しては無条件な信頼を寄せることで、彼に秘かな好意を寄せていたミス・ケントンに対しては、職務を優先し、自分の感情を押し殺すことで、ともにやり直しのきかない結果を招いてしまう。

私が好きなのは、一日とんだ六日目の夜の記述で、スティーブンスが、執事をやっていたという六十代の男に、自分の過去を話し、涙ぐんでしまうのだが、桟橋のあかりの点灯を見ながら、新しいアメリカ人の主人に対して、上手くジョークを言えるよう練習することを思い立つところだ。

一人の執事の追憶が、イギリスの貴族社会の終焉、世界の中心がアメリカに移っていく流れを実に鮮やかに描き出しているところも、この作品の凄いところだと思う。

2017年10月2日月曜日

NOVEL 11, BOOK 18 ノヴェル・イレブン、ブック・エイティーン/ダーグ・ソールスター 村上春樹訳

村上春樹が訳したノルウェーの作家ダーグ・ソールスターが書いた11冊目の小説で、18冊目の著書。

まるで型式番号みたいなタイトルは、そういう意味では分かりやすい。

この奇妙な物語を読んだ後に、ぽつんと残るその無機質なタイトルは、この物語の主人公 ビョーン・ハンセンの生き方とシンクロしているような気がする。

彼は、妻と結婚し、息子もいるが、二人を捨て、愛人の後を追い、一緒に暮らすことなる。その愛人との生活も14年で破綻し、今度は、何年も連絡を取っていない息子との同居生活。

破綻することはやむを得ないことなのかもしれないが、家族に対する愛情らしきものが、このビョーン・ハンセンには感じられない。

この作品のすごいところは、このビョーン・ハンセンに本質的に欠けているのではないかと思わせる愛情のなさを実にリアルに描いているところだ。

自分の仕事には常に自信を持ち、周囲の人々とも付き合うことができる社交性はあるが、一方で自分の身近にいる家族に対しては、その弱い部分に対し容赦のない観察力を発揮し、周囲の人々の評価を病的なまでに気にする態度。

例えば、14年も暮らした妻ともいうべき愛人の容色が衰えると、彼は彼女を相手にしなくなる周りの若い男たちの反応を観察する。興業が失敗だった劇の彼女の受け狙いの演技にも容赦のない批判を行う。

成長した学生の息子と同居した際も、彼の甲高い声と一方的な喋り方、日曜はいつも家で一人でいることに着目し、息子には友人が一人もいないのではないかという仮説を立てる。土曜日深夜の帰る時刻も常に決まっていることも、彼には、友人と真に楽しむことができない性格があるのではないかと疑う。

この物語は、ビョーン・ハンセンの常人では理解不能な決断により、意外な結末を迎えるが、読後、私には、奇妙な苛立ちが残った。

それは、認めたくないけれど、自分の中にもこの男のような性質がどこかあるような気がして、自分が嫌になったからかもしれない。





2017年10月1日日曜日

空蝉・夕顔/源氏物語 上 角田光代 訳/日本文学全集 4

空蝉(うつせみ)の編は、前編「帚木(ははきぎ)」で、光君が一度は関係を持った臣下の紀伊守の父である伊予介の若い後妻である空蝉に、つれなくされたことを悔しく思い、再び、彼女に近づく機会をうかがい、伊予介が屋敷を留守にするタイミングを狙い、空蝉の年の離れた弟 小君(こぎみ)を使って、彼女の寝室に忍び込もうとする話だ。

しかし、忍び込もうとする光君に気づいた空蝉に逃げられ、彼は誤って紀伊守の妹の“西の対の女”の床に入ってしまう。

面白いのは、別人と気づき、空蝉を恨めしく思いながらも、光君はいかにも西の対の女と契りたいという体裁を装い、愛し合うという行動だろう。単なる好色さといっていいのか、女性全般に対して常に礼を失しない律儀さなのかは判断が迷うところだ。

しかし、夜、顔もはっきりとは見えない誰とは分からぬ男性を向かい入れるこの時代の女性の気持ちとは、どういったものだったのだろう。

夕顔の編は、光君が六条御息所という光君より身分の高い年上の女性のもとに通っていた時分、彼の乳母であった尼のお見舞いに行った際、光君をみかけた隣家に住む女から届けられた扇に書かれた和歌から話がはじまる。

光君は、自分に和歌を届け関心を示した素性も知らない女 夕顔のもとに通うようになる。

正妻のいる左大臣の所も足が遠のき、六条御息所との関係も行き詰まり、空蝉とは会えないというストレスから逃げるように、彼は、夕顔に没頭するが、夕顔が住む家の隣家が騒々しいため、夜、人知れぬ空家に彼女を連れ出し、愛を交わそうとする。
しかし、その空家で、夕顔が生霊(六条御息所と思われる)に取りつかれ殺されるという事件が起きる。

生霊を目にして、この事件の恐ろしさに打ちのめされた光君は寝込んでしまうのだが、作者は彼を廃人にしようとはせず、まるで一過性の罰を与えたかのように、回復させて魅力的な男に再生させる。

光君は、普通、身分の低い女の死に、そこまで関わらないものなのかもしれないが、死んだ夕顔の使用人であった女房の世話をしたり、葬式をあげて弔うなど、手厚い対応をしている。

物語の最後、自分を散々苦しめながら、夫の伊予介とともに任地に旅立つ空蝉に対しても、多すぎるほどの餞別を与えるところも彼の優しさが垣間見える。

この情け深いところも、光君の魅力という事なのだろう。