2017年3月26日日曜日

十八歳/中上健次

十八歳とは、こんな年代だったのかなと思う。

仲間たちと集まって、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、じゃれあったり。
川で危険な遊びをしたり、ラブレターを書いたり、親の嫌な面を見たり。
不良たちに絡まれ、暴力を振るわれたり、その復讐を計画したり。
犯罪めいた行為を犯したり、絶望感に襲われたり。

その時、その時は真剣だったのだろう。
でも、当時の誰も(何人かは死んだ)、その時を記録していないし、覚えてもいない。
というか、あまり思い出したくないのかもしれない。 

それでも、この短い断章で切り取られた十八歳の日々が、奇妙に懐かしく、色々な場面で、自分を過去のあの時に引き戻そうとしていた。

2017年3月25日土曜日

十九歳の地図/中上健次

物語は、とてもシンプルだ。

新聞配達をしている予備校生のぼくが、彼が新聞を配達している近所の人たちの地図を作っている。

彼が気に入らなかった住民の家には×が付けられ(〇はない)、時には、電話帳で調べた電話番号に、脅迫めいたいたずら電話をかける。
 (今、個人の電話番号が載っている電話帳というものがあるのだろうか?)

まともに勉強をする気はほとんどなく、三十過ぎの紺野という男と同居している日当たりの悪い部屋で、日がな、日本史の教科書や漫画、推理小説を読んでいる。

彼がかけるいたずら電話は、ある意味、常軌を逸している。

ラーメン屋でない普通の家にタンメンを注文したり、いきなり馬鹿野郎呼ばわりをしたり、東京駅には、爆破予告をする。
そして、紺野がつき合っている“かさぶただらけの淫売のマリアさま”には、紺野の裏切りを話し、死ねばいいと告げる。

それでも、からっぽの体で涙を流すぼくを全否定できないのは、自分にも多少なりとも似たり寄ったりの時代があったからかもしれない。

まだ、電話ボックスの電話機に10円玉を入れ、ダイヤルを回していた時代。

私は、亡き父の若い頃の姿を思い浮かべながら読んだ。
彼もそんな時期を過ごしていたのだろうかと。

2017年3月12日日曜日

NHKスペシャル メルトダウンFile.6 原子炉冷却 12日間の深層 ~見過ごされた“危機”~

福島原子力発電所1号機の格納器内の損傷がひどい。

今、廃炉に向けた工程の中で、最大の難関が、メルトダウンして溶け落ちた核燃料とコンクリートが入り混じった燃料デブリの取り出しだ。

実に3月11日の事故発生から12日間、1号機の危機は見逃されていた。

津波により電源を喪失し、格納器の燃料棒の冷却が懸念されていたが、電気がなくても格納器を冷やすことができるイソコンという装置があった。
しかし、実際に動かした経験がある東京電力の技術者がいなかったため、豚の鼻から、ちょろちょろと出ている蒸気を見て、イソコンが動いていると誤認してしまった。
(実際には、イソコンが動いているときは、大量の蒸気が放出される)

加えて、電源復旧後、再稼働したイソコンを、イソコンのタンクの水が無くなったと誤認し、3時間もの間、止めてしまう。これは、東京電力の技術者に、タンクの水が10リットル備蓄されているという知識がなかったためだ。

3時間後、タンクの水が10リットルあることが分かり、再稼働したが、その3時間に急速にメルトダウンが進み、もはや、イソコンでは対処できない事態になってしまった。

40年間、イソコンを実動作させる機会がなく、技術者の経験不足・知識不足から生じた失敗。

さらに1号機に注水された消防車からの給水ルートにも抜け道があり、 結果として、わずか注水した水の量の1%しか届かなかった(その事にも気づかず)。

番組では、東京電力の事故対応責任者たちの会話を、IBMのAIワトソンを使って分析していた。

水位が変わらない1号機について、当初、吉田所長は、水位計が壊れていることを疑っていたが、3号機の水位が下がってゆく危機的状況に、注意が逸れていく。

この状況を客観的に見ていた柏崎刈谷原発の責任者から、1号機の水位計について疑義が呈される発言があったが、吉田所長は、あくまで東京電力本店とのやりとりに集中していたため、この発言は置き去りにされた。

また、1号機の格納器内で急激に線量が高くなったことも見逃された。

加えて、2号機、3号機、4号機も加わった多重危機に、吉田所長一人に全ての事柄の決定が集中し、1日に会話がない時間がわずか5時間という過酷な状況が生まれる。
そして、事故発生から10日後、ついに吉田所長が疲労によるめまいのため、指揮官の席から離れる。

その日、ようやく、1号機の格納器の温度が400度になっており、1号機の冷却に失敗していることに気づく。

番組では、この経験を踏まえたとされる東京電力の事故を想定した訓練の様子(所長が現場ラインとは離れたブースに入っていた)や、識者による原子力発電所の機器の実動作の必要性を説明していた。

しかし、このシリーズを見るにつけ、核という怪物を人間が制御できるはずはない、という思いが強くなっている。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170312

NHKスペシャル シリーズ東日本大震災 避難指示“一斉解除” ~福島でいま何が~

3月末をもって、避難指示が解除される飯館村と、2015年9月に解除された楢葉町を取り上げていた。

この飯館村は、菅野村長が推し進める帰村に対し、村民が分断されている状態にあるらしい。

仮設住宅からすぐにでも自宅に戻りたいという人もいるし、戻りたくても戻れない人もいる。

その理由の一つに、いまだ、放射能の危険を無視できないという実態がある。

国は、避難指示解除の基準を、一般的な安全基準とされる年間1ミリシーベルト(毎時0.23マイクロシーベル)を当てはめず、年間20ミリシーベルト(毎時3.8マイクロシーベルト)以下という非常に高い数値にしている。

そのうえ、飯館村の7割を占める山林については、除染をしていないから、部分的に線量が高いホットスポットが点在するのだ。

そして、私も実際に目にしたことがあるが、村には至るところに膨大な数の汚染土が入った黒い袋が山積みになっており、移動の目途が立っていないということだ。

こんな環境の中に、子供がいる家族が戻って来るのは難しいと思う。
(実際、村の学校には子どもの1割しか通学せず、ほかの地域の学校に行く見通しらしい)


原発災害の本質は、放射能が、家族や友人、地域をバラバラに分断していくことだ。

菅野村長のかつての友人で袂を別った長谷川氏が、言っていたことが重い。

楢葉町については、復興の試金石として期待されていたが、町民の一割程度しか戻ってこないため、町が復興施策として考えていたコンパクトタウンの実現もままならない状況だという。

人が戻ってこないから、商業施設も採算が取れず、出店を見合わせる。生活インフラもできないから、人も戻ってこないという悪循環に陥っているという。

さらに深刻なのは、町の予算の実に7~8割程度を占める復興関連・原発関連の交付金や補償金が打ち切られた場合、水道事業を維持することもままならない事態に陥ってしまうという。

このままでいくと、双葉郡の町村は合併するしかないという事も語られていた。


6年という歳月を経て、国は様々な補償を打ち切ろうとしているが、事実として、主な原因としては放射能の影響により、いまだ復興の見通しが立てられない町村があるのだ。

そのことを無視しないでほしい。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170311_2

2017年3月11日土曜日

陽炎座 泉鏡花 近現代作家集 I /日本文学全集26

鈴木清順監督の映画「陽炎座」を数えきれないくらい見返しておいて、原作を読んでいなかったとは。

しかし、池澤夏樹がセレクトした近現代作家集の中で、もう一度、「陽炎座」を観ることができた。

“観る”と書いたが、実際、泉鏡花の文章は、ロジックな筋立てを語るのではなく、ぱっと鮮やかなイメージを散らす小刀の閃きのような印象を与えるから、まるで、舞台を観たような気になる。

こういう文章は、正直苦手なのだが、この作品はその世界観に浸ることができた。

言うまでもなく、映画「陽炎座」の終盤の重要な場となる、謎めいた“こども歌舞伎”のシーンが美しく描かれていたからだ。

この場面をこれだけ美しく描くことができたのは、 泉鏡花の江戸情緒の名残を残す、まるでロジックではないこの文章の力のせいなのかもしれない。

この原作では、もちろん、松崎春狐(映画では松田優作)も、お稲さん(楠田 枝里子)も、品子(大楠道代)も出てくる。
では、映画では、松崎のパトロンであり、品子の夫である玉脇は誰なのか。

それぞれの役回りも映画とは異なるので、そういう意味でも楽しめる。


2017年3月5日日曜日

作家と楽しむ古典 古事記 日本霊異記・発心集 竹取物語 宇治拾遺物語 百人一首

池澤夏樹が個人編集した日本文学全集で、古典を新訳した作家たちが、古典作品の魅力と新訳の苦労(楽しみ)について語っている。


●古事記/池澤夏樹

古事記が戦前、軍国教育に利用されていた事実に触れながらも、日本人が大事にしてきたもの、一つは、恋愛、もう一つは、弱いものへの共感が、日本人の心性として、の作品に現れてることが語られています。


●日本霊異記・発心集/伊藤比呂美

ひたすら、日本霊異記で用いられているエロい言葉を説明していますが、出来上がった作品に節度が感じられたのは、伊藤さんが意外と根は真面目な人だからかもしれません。作品が呪術的な性格であると気づいて悩むところや、天皇の名前の取り扱いについて悩むあたりなんかは特に。
さんざん苦労した挙句、町田康の「宇治拾遺物語」に持っていかれたショックの念も語られていますが、確かに、この作品とは同じ本に収めてほしくはないですよね。


●竹取物語/森見登美彦

竹取物語は、シャレにこだわっているとか、内容にムラがあるとか、和歌の訳し方とか。
たぶん、この訳者たちのなかでは、一番真面目な内容だったと思う。


●宇治拾遺物語/町田康

「みんなで訳そう宇治拾遺」と題し、古典の訳し方のコツ説明しているだが、これが興味深い。


・コツ1 直訳
 古語辞書を使って訳すと意味は分かる文章になるが、面白みがない。

・コツ2 説明(動作編)
 原文のトピックとトピックの間に読み取れる(あるいは想像される)動作を説明する文章を入れて物語を埋めてゆく。

・コツ3 説明(会話編)
 用件だけ伝えている会話に、つなぎの会話を足してゆく。これにより、話が分かりやすくなり、登場人物のキャラクターが明確になる。


読者が、学者ではなく詩人や小説家が訳す古典に期待するのは、まさに、コツ2やコツ3の“遊び”の部分である。そういう意味で、町田康の手法は、ある意味、理想的な訳し方なのかもしれない。


●百人一首/小池昌代

今回版に新訳した百人一首を紹介していた。
読んだ印象としては、今回版のほうが、はるかによかった。
たぶん、本人が遊びのつもりで訳しているからなんだろうが、言葉がずっと活き活きしている。