2016年2月28日日曜日

吉野葛 谷崎潤一郎/日本文学全集15

吉野葛は、一見、紀行文の体をとっているようにみえるが、やはり、これは小説だという気がする。

確かに、この作品には奥吉野の秋の美しい風景の描写と、同地で滅んだ、鎌倉、室町まで遡る南朝の自天王、義経、静御前の伝説が散りばめられているけれど、その主題にあるのは、私の友人である津村の亡き母への追慕の思いなのである。

むしろ、紀行文的なものと、物語的なものが区分できないほど、ごく自然に融和しているため、そのような疑念に駆られるのかもしれない。

読者は、先ず、この作品の語り部である“私”と一緒に吉野の奥地である国栖(くず)に足を踏み入れ、その後に、“私”を旅に誘った友人の津村の、その顔立ちすら記憶にない母への切れることのない追慕の念と、それに大きく影響された女性遍歴、そして、彼の母の故郷が国栖であることを知る。

箏曲の「狐噲」、母が受け取った故郷からの手紙に書かれていた紙に対する訓戒、昆布という変わった姓など、母にまつわる謎めいた事柄が、箏の遺品、国栖のいたるところで行われていた“紙すき”と真白な障子、落人の住みそうな土地柄に、きれいに結びついてゆく。

王朝への憧れ、“ずくし”とよばれる熟柿のどろどろ感、母を恋うる気持ちと混然とした女性への欲望、冷たい水に赤ぎれしそうな女性の指先など、谷崎らしい要素が溢れていながらも、初期には、まま見られた過激さは影を潜め、この物語には、浮ついたところが一切感じられない。

それでも、咽喉を通り抜ける熟れた柿の美味をこんなに見事に表現できる作家は、そうはいないだろうと思う。
 …歯ぐきから腸の底へ沁み徹る冷たさを喜びつつ甘い粘っこい柿の実を貪るように二つまで食べた。私は自分の口腔に吉野の秋を一杯に頬張った。思うに仏典中にある菴摩羅果もこれほど美味ではなかったかも知れない。
佐藤春夫が「急角度を以って古典的方向に傾いた記念的作品」と評したように、谷崎は、この作品を機に、立て続けに、古典的名作を放ってゆくことになる。

2016年2月22日月曜日

堤中納言物語 中島京子 訳/日本文学全集3

平安時代後期の公家の生活を題材にした説話集。

十の短編と一つの断章で構成されているのだが、どの物語も、そこはかとないユーモアの雰囲気が漂っている。

「美少女をさらう(原題:花桜折る中将)」は、イケメンの中将が気に入った姫君をさらおうとして、間違って、その祖母を連れて来てしまったという物語。

「お香つながり(原題:このついで)」は、春の長雨を眺める女房らが、無聊のなぐさめにと、他愛のない話を順番に披露する物語。

「虫好きのお姫様(原題:虫愛づる姫君)」は、毛虫を可愛がるちょっと変わったお姫様の話だ。虫好きで、身のまわりにいる童たちに、ケラ男、ヒキ麿、カナヘビ、イナゴ麿などと、虫の名前を付けて、召し使っていたという。世話をする女房達とのギャップが読んでいて面白い。続編が読めなかったのが残念だが、この話が基になって「風の谷のナウシカ」が作られたというのだから、ある意味、偉大な作品なのかもしれない。

「恋も身分次第(原題:ほどほどの懸想)」は、小舎人童と少女がつきあい始め、その先輩の若者が小舎人童と少女の関係を利用して、少女が宮仕えしている女房に言い寄り、その若者に来た手紙を見た主人の頭中将が、少女と女房が仕える姫に言い寄るという恋愛の連鎖を書いた物語。

 「一線越えぬ権中納言(原題:逢坂越えぬ権中納言)」は、権中納言という、これまたイケメンの男が、思いつめていた姫の部屋に強引に入り込むが、根が優しいのか、姫に遠慮して一線を超えられないという物語だ。そのくせ、部屋から立ち去ることもできない変に融通のきかないところは、現代の若干ストーカーの匂いがする男子の走りかもしれない。

  「貝合」は、身寄りの少ない姫君が、貝合わせという、貝がらの美しさや珍しさを競うゲームを、別の姫君と争うことになり、貝が見つからないと騒いでいる召使の少女少年たちを気の毒に思った蔵人少将が貝がらを用立ててあげるという話。

 「姉妹二人に少将二人(原題:思はぬ方にとまりする少将」)は、姉妹二人とそれぞれの相手となる二人の少将と、歌を交わし、いざ会うとなった段階で、姉が妹の少将に、妹が姉の少将のところに運ばれてしまい、関係を結んでしまったという、なんとも情けない話だ。ただ、姉妹二人は悲嘆にくれ、少将二人はまんざらでもなかったというところが面白いかもしれない。

 「花咲く乙女たちのかげに(原題:はなだの女御)」は、色男が、女房たちが歌詠みをしている庭にこっそりと入り込み、その歌を聞きながら、自分と契った女、関係を持てなかった女、才気がある女と振り返ることで、実は女のほとんどが色男と何らかの関係があるということが分かる物語だ。

 「墨かぶり姫(原題:はいずみ)」は、妻がいる男が新しい女と二人目の妻として関係を持ち、それに気づいた古い妻が自ら身を引き、侘しいあばら家に引越す姿を見て哀れに思い、男の愛情が復活する。そのため、来なくなった男がたまたま現れた際、新しい女は、慌てて化粧をした際、間違って墨を顔に塗りまくり、男に愛想を尽かされるという、これもちょっと笑える物語だ。今はやりの不倫の話だが、若干、勧善懲悪の匂いがする。

「たわごと(原題:よしなしごと)」は、僧侶が山籠もりする際に、人から物を借りる際に、色々な物をおねだりするという内容のふざけちらして書いた手紙だ。これだけ物の種類を知っているところを見ると、本当に欲深な坊さんなのかもしれない。

いずれの作品も、平安時代の貴族ののほほんとした、ゆるい雰囲気が伝わってくる。

ちなみに、タイトルの堤中納言(藤原兼輔)は、実在の人物であるが、この物語には一切関係してこないというところも、いい加減な感じでよい。

2016年2月21日日曜日

乱菊物語 谷崎潤一郎/日本文学全集15


物語は、室町幕府の末、海賊が跋扈する瀬戸内海が舞台だ。

明の商人 張の船が、海賊たちに狙われている。

張は、掌に隠れてしまうほどの大きさの四角な黄金の函(はこ)を、船で、室の津(兵庫県淡路島の室津と思われる)に居を構える絶世の美女 高級娼婦の かげろう に届けようとしている。

張は、かげろうから、二寸二分四方の函に入る十六畳吊の羅綾の蚊帳を持ってきてくれたら、一晩一緒に寝てあげると、無理難題の条件を提示されていたのだ。(このあたり、竹取物語のかぐや姫に似ている)

張は抜かりなく、瀬戸内の室の津の手前までこれを運んできたが、かげろうの腰元 うるめ の迎えを受け、船上で前祝の宴会をしている最中、幽霊船に出会い行方不明となってしまう。

そして、何故か、黄金の函を手に入れたうるめは別の船に乗っていて無事だったが、海賊に襲われ、その黄金の函を海に放り投げてから命を落とす。

その後、かげろうは、七年に一度しか巡ってこない閏五月の小五月の祭礼の日に、この黄金の函を私に届けてくれたなら、貧富、老若、善人悪人、僧俗を問わず、永久にその者の言いなりになりましょう、という宣言を書いた立札を、瀬戸内海沿岸の至るところに立てる。

物語は、このかげろうの大胆な呼びかけに呼応した、欲にうごめいた男たちの様々な騒動を描いてゆく。

播州の大名に養子としてなった若君と、これと権力を争う家臣の色好みからはじまる京の高貴な美女探し競争。この二人の各々の家来は争い、競いながら、より美しい女を、互いの主人の妾として迎えようと様々な計略を立てる。

二人の家臣が、ついに高貴な美女と思われる落ちぶれた公家の女を探し当て、命を落としそうな酷い目に会う話は、読んでいて非常に面白い。
(とてもいい匂いがする高貴な人の排泄物の話は、確か、今昔物語のひとつにあったと思う)

もう、一方では、かげろうと繋がっていると思われる播磨灘の家島の城主(実は海賊の親玉)が、黄金の函を持ってきた男を殺してしまい、この函を小五月の祭礼の日に、播州の大名と家臣に争わせるという悪い趣向を考える。

そして、小五月の祭礼の日、欲望うごめく男たちの前に、神輿の行列の中、付き人の美女十二人に囲まれたかげろう御前が姿を現す。
この十二人に囲まれたかげろう御前の美しさを、谷崎は独特の表現で描く。
十二人の傾城は、いづれも美しからぬはなく、恐らくはその一人々々が千金に値する器量の持ち主に違いなかろう。そしてこういう場合、同じように正装をし、厚化粧をして顔を揃えると、めいめいの個性的な「美」が目立たぬ代わりに、そこに一種の、重ね写真に似た典型的な美女の輪郭――日本人に、殊に今この場合では南国の日本人に共通な、ある理想的な端麗な容貌が、面を被ったように各々の顔に刻まれているのが感じられる。

十二人のうちのいずれをいずれに比べても、鼻の形、眼の切れ具合、あごの尖り加減、額つき、生え際、よくもよくも似た顔が揃ったものだとあやしまれるばかりで、…それらの顔は表情に乏しく、生き生きとした色彩を欠いているだけ、ひとしお超人間的に神性化されつつ、この儀式にふさわしい荘厳さを帯び、誰でもその姿に掌を合わせ、伏し拝みたい気分にさせられる。

 かげろう御前は、あたかもこれらの十二人の神々の首座に君臨する女神であった。彼女の顔にもこれという個性の輝きは認められない。ただ十二人の代表する理想的な美が彼女の一身に具現して、一段と高められ、引き締められ、純潔にされ、典型的なものの粋が凝っているというべきであろう。
そんな沿道の人々を魅了するかげろうの上空、羅綾の蚊帳を、くちばしにつけた鳩が飛来する…
というような海賊、幽霊、幻術使いも登場するという、谷崎のイメージには、ある意味、似つかわしくないくらいエンターテイメント性の高い物語になっている。

とても面白い物語なのだが、残念ながら未完に終わる。

日本文学全集のあとがきでは、池澤夏樹が辻原登から聞いた説によると、この「乱菊物語」で描かれている海賊の乱行に、瀬戸内の海賊の子孫たちが抗議したことが原因だという。(本当かな?)

「乱菊物語」は、昭和5年に朝日新聞に掲載された作品だ。

この時期の谷崎は、前後に「卍」、「蓼食う虫」、「吉野葛」、「盲目物語」という、いずれも中期の傑作と呼べる数々の作品を放っており、この「乱菊物語」にも、谷崎の作家として充実していた時期の勢いを感じることができる。

2016年2月15日月曜日

小野篁妹に恋する事 谷崎潤一郎/日本文学全集15

平安時代初期の公家だった小野篁(たかむら)が、腹違いの妹と恋仲になってしまうという物語を、谷崎が奇譚風に取り上げた小文なのだが、なかなか面白い。

まず、小野篁が、小倉百人一首の

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

の作者であった。

この歌は、小野篁が、遣唐使船の乗船を仮病を使って断ったり、遣唐使を諷刺するような詩を作ったことが、嵯峨天皇の逆鱗に触れ、隠岐の島に流された時の歌らしい。

また、小野篁は、身長が六尺二寸(約188㎝)の巨漢だったらしいが、頭の鋭い機知に富んだ男でもあったらしい。

嵯峨天皇が、「子子子子子子子子子子子子」を何と読むと問うたところ、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と即答したという話が、宇治拾遺物語の『小野篁、広才のこと』に収められている

話は、「小野篁妹に恋する事」に戻るが、谷崎は、この小野篁が書いた私小説的日記「篁日記」を、「少将滋幹の母」を書く際に読んで小説にしようと思ったが果たせなかったことを、まず述懐する。

何が私小説的かというと、小野篁自身と異母妹との恋愛が、彼女とやりとりした和歌を収めつつ、叙事文で率直に述べられているところが、いかにも近代的私小説の雰囲気があるということだ。

しかも、その物語は異様なものである。異母妹に懸想し、遂にはその妹を妊娠させる。
異母妹は、つわりの苦しみの最中にその妹は死んでしまうが、死後も夜な夜な、その幽霊と語らい続けて三年年ぐらい暮らしたという一種の奇譚だ。

谷崎の文章は、どこまでこの「篁日記」をベースに脚色しているのかは分からないが、話は面白い。どちらかというと、小野篁の熱意に、異母妹が絆されてしまったという雰囲気が描かれている。

しかし、この小野篁は、一方で如才ない男だったらしく、異母妹の死後、大学生の身分でありながら、右大臣が参内するときに、その娘を嫁にほしいという趣旨の漢文を差し出し、それが首尾よく成功したという逸話も最後の方で述べられている。

面白いのは、谷崎が、この小野篁が書いたその漢文を、「独創的な思想もなければ表現もない」と、切り捨てているところだ。
恰(あたか)も今日の大学生に、英米人や仏蘭西人や蘇聯(ソ連)人の真似をして得々たる青年があるのと同じく、平安朝の大学生は一にも二にも中国に律(のっと)って及ばざらんことを恐れていたのであろうが、こんな文章を中国人が見たら果たして何と感じるであろうか。千年の昔に源氏物語を生んだわれわれ国民の誇りである一面に、こう云う文章が名文として持て囃された時代があることは、われわれ日本人の事大主義、属国根性を示しているようで情けなくもある。
戦後の日本に対する谷崎の批判的な態度がにじみ出ていている。

2016年2月14日日曜日

伊勢物語 川上弘美 訳/日本文学全集3

百二十五段からなる歌物語。

物語中の“男”は、在原業平と言われている。

文章としては、どれも短いのだが、物語に伸縮性があると感じるのは、やはり和歌の存在だろう。

本書では、導入部分と終わりの文章は現代語訳されているが、和歌については原文をあえて載せ、その横に訳が配置されている。

そのやり方は正しいと思う。
男と女のやりとりをめぐる想いを託す表現方法としては、これほど高度なものはないかもしれない。
恋愛にありがちな幼稚で露骨な表現を避け、美しい詩に想いの奥深さを籠める。

そこで歌われている様々なかたちの恋愛のどれかは、今読んでも、身につまされるものがある。

読者は、川上弘美の大胆な訳も楽しむこともできる。例えば、 三十段。

(原文)

むかし、男、はつかなりける女のもとに、

逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ

(川上弘美 訳)

男がいた。
思いをよせた女は、わずかの時にしか逢ってくれなかった。
その女に、詠んだ。

逢うのは
一瞬
恨みは
永遠

2016年2月7日日曜日

詩のなぐさめ/池澤夏樹

池澤夏樹は、冒頭、小説と詩を、こんなふうに比較する。
よくできた小説はあなたをまず別の世界へ連れてゆき、そこでちょっとした冒険をさせて、やがて日常に戻してくれる。
それに対して、詩は今いるところであなたの心に作用する。知性に働きかけ、感情によりそい、あなたは独りではないとそっと伝えてくれる。だから詩を読むことを習慣にするのは生きてゆく上で有利なことである。
個人的には、小説でも心に寄り添ってくれる一節はあると思うし、この本の詩のいくつかには、一瞬で別の世界へ連れていってくれるパワーのある素晴らしい作品があった。

それでも、詩は、辛いとき、苦しいときに助けてくれるのは事実だと思う。
短いことばだから、即効性のある風邪薬のようによく効くのだ。

東日本大震災のときに、古今和歌集の和歌とポーランドの詩人の詩が池澤夏樹に救いをあたえたように。

この本では、古今東西、さまざまな種類の詩が収められている。
漢詩、和歌、俳句、贈答詩、諷刺詩、抒情詩、恋愛詩、ソネット、民謡、現代詩、小説の中に登場する訳詞…。

通り過ぎてしまうだけのものもあったが、それは仕様がないものと割り切った方がいいかもしれない。詩は読むときの心持ちによって、印象がかなり変わるからだ。

個人的には、 照井 翠の俳句と、吉田健一のソネット、ブレイクの詩、中村真一郎が訳した菅原道真の詩、マヤコフスキーの元気な詩が心に残った。

吉田健一の訳詩についての池澤夏樹の解説がよい。
どう言えばいいのだろう?英語感が残るわけではなく、日本語に媚びてすり寄るわけでもなく、両者の間のちょうどよい距離の地点にいるように見えて、実はそこから少しだけ横に入った典雅な領域に吉田訳は立っている。意味の上では息の長い詩句が英語ではリズムで刻まれているのだが、それがわずかに破格の日本語にうまい具合に移されている。
 “破格の日本語”というのが、いかにも吉田健一らしさを表わしている。