2011年10月31日月曜日

青が散る

宮本輝の「青が散る」は、私が読んだ数少ない青春小説だ。

でき立ての私立大学のテニス部に入った椎名燎平と、テニス中心の大学生活の中で彼をめぐる様々な男女の友人たちとの関係を描いた作品だ。

熱心に読んだせいか、登場人物の名前をほとんど覚えてしまっている。

どことなく幼い、まだ大人の男になりきっていない真っ直ぐな性格の燎平。

誰が見ても綺麗な勝気な夏子と、地味だけれども清楚な気品があるおっとりした祐子との恋の関係。
(こういう夏子と祐子のタイプの女の子はクラスに何人かいると思います)

燎平の友人であるテニス部の主将で身長190cmの大男の金子、有名なテニス選手であったが精神病を病んでいる安斎、王道ではなく覇道のテニスを目指す貝谷。

シンガーソングライターを目指すガリバー、地下の喫茶店でひたすら司法試験の勉強をしている木田、応援団長の端山。

作者の宮本輝自身、「道頓堀川」が青春の「夜の部分」で、「青が散る」は「昼の部分」と称しているように、全体的に爽やかで明るい雰囲気に包まれている小説だ。

この明るい小説を、私は高校2年生の夏に1ヶ月ほど入院していたときに読んだ。
暇をもてあましてというのもあるけど、高2の夏が入院で気が滅入っていてそうした気分のせいで読んだのだと思う。

ちなみに、私の叔父はこの時、藤原新也の「全東洋街道」を読めと入院中貸してくれたのですが、そのよさが全くわからず、「青が散る」とか、平井和正のウルフガイシリーズ、赤川次郎のかるーい推理小説などを読んでばかりいた。
(「全東洋街道」を再び読んで、その良さが分かったのは大学三年頃だったかと思います)

この小説は、テレビでもドラマ化されて見た記憶があるのですが、松田聖子の歌「蒼いフォトグラフ」と「人のラクダ」という歌以外は、ほとんど記憶にない。
(確か、燎平の役を石黒賢が、夏子の役を二谷友里恵だったと)

私のイメージからいうと、燎平はともかく、夏子は二谷友里恵のイメージではないですね。
でも誰がぴったりかといわれると、これも結構難しいですね。



2011年10月30日日曜日

憲法の話

丸谷才一の著書のなかで、文芸評論家の 小林秀雄と中村光夫を、大日本帝国憲法(明治憲法)と日本国憲法(現在の憲法)にたとえて説明している文章がある。
中村光夫さんの文章は、小林さんの文章にくらべると落ちるような感じがする。
しかし、小林さんの文章よりもいい面もある。それは何であるかというと、小林さんのものより言ってることがよく分かる。小林さんのは、文章はうまくて歯切れがよくて、なんだか凄い!という感じがするけれども、しかし、何を言ってるのか分からない(笑)
つまり、言ってみれば、小林秀雄は明治憲法であって、明治憲法の文体は、なんだかよくわからないでしょう。
「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と、なんかドスーンと肝にこたえて凄いけれども、普通の人間にはよくわからない。したがっていくらでも悪用ができる。
そこへゆくと新憲法は、文章は本当に下手であるけれども、よくわかる。
小林秀雄の文芸評論に対する批評としても面白いし、大日本帝国憲法と日本国憲法の比較としても面白い文章だ。

大日本帝国憲法は、プロイセン(ドイツ)憲法を参考に初代枢密院議長 伊藤博文の主導のもと作成され、明治22年2月11日に発布された。
三権分立や、「法律の留保のもと」とはいえ、言論の自由・結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が保障されている点で、近代憲法の要素を備えたものだった。

最大の特徴としては、「第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」の条項で、これは、軍隊を動かす権力が天皇にあり、総理大臣も口出しができない仕組みになっていたということだ。

司馬遼太郎は、大日本帝国憲法を評して、こんな風に述べている。
まことに、この点、明治憲法は、あぶなさをもった憲法でした。
それでも、明治時代いっぱいは、少しも危なげなかったのは、まだ明治国家をつくったひとびとが生きていて、亀裂しそうなこの箇所を肉体と精神でふさいでいたからです。
この憲法をつくった伊藤博文たちも、まさか三代目の昭和前期(1926年以後45年まで)になってから、この箇所に大穴があき、ついには憲法の”不備”によって国がほろびるとは思いもしていなかったでしょう。
この統帥権が、陸軍の参謀本部などに悪用され、張作霖爆殺事件や満州事変を独断で実行され、日本は亡国への道を進むことになってしまう。

池澤夏樹の「憲法なんて知らないよ」は、日本国憲法を新約したもので、これも非常に興味深い本だ。

日本国憲法は、当時、日本を統治していたアメリカが、GHQ草案という日本国憲法の原型を作った経緯もあることから、英語版があり、翻訳が可能なのだ。

あまりにも読みやすいため、法律の条文に慣れ親しんだ人は違和感を覚えるかもしれない。でも、池澤夏樹訳の日本国憲法は、改めてよむと、すごくいい憲法のような気がする。

こころみに、第12条と第13条を引いてみよう。
第12条
この憲法は国民に自由と権利を保障するけれども、国民はこれを毎日の努力によって支えなければならない。自由や権利を悪用してはいけない。この権利は国民ぜんたいの幸福のために、責任を持って使うべきものである。
第13条
国民は一人一人すべて、個人として大事にされなくてはいけない。国民ぜんたいの幸福と衝突しない範囲で、一人一人が生きていく権利、自由である権利、また幸せになろうと努める権利を他のどんなことよりも大事にしなければならない。法を作る時や行政の場でこれをいちばん尊重すること。

2011年10月29日土曜日

観念の中のインド

『夜熟睡しない人間は多かれ少なかれ罪を犯している。
彼らはなにをするのか。夜を現存させているのだ。  モリス・ブランショ』

こんなすてきな言葉からはじまるアントニオ・タブッキの「インド夜想曲」は、私が長いこと小説を読みとおすことができなくなってしまったときに、試しに読んで、ひさびさに最後までたどり着けた小説だった。

主人公がインドで失踪した友人を探すという推理小説のような展開で、ボンベイ、マドラス、ゴアといった都市を舞台に、主人公のどことなく冷めた視線で切りとられるインドのさまざまな事象が十二の夜の物語として描かれる。

それまで、私が知っていたインドは、藤原新也の「東京漂流」「印度放浪」をとおして得られた強烈な太陽光と黒い肌のサドゥー(修行僧)、そして水葬された人を食べる野犬たちがいる「メメント・モリ(死を想え)」的なインドだ。

私にとっては、死生観が変わるくらい影響を受けた本だった。

タブッキの描くインドには、そのような強烈さはない。

この本の主題は、あくまで主人公の内的な自分探しの旅であるから、その流れをこわさないためにも、インドは幻想的な雰囲気につつまれたままであることが必要なのだ。

F1インドGP、ITビジネスの発展、インド式計算、核ミサイル、世界第二位の人口…

ニュースで知るインドは、私にとってどこか遠い国の別のインドである。

2011年10月27日木曜日

I love Bangkok.

大学生のころ、シンガポールから、マレー鉄道で、バンコクまで、2週間、旅をしたことがある。
シンガポール、マレーシア、タイの3国を周ったことになるが、個人的な印象としてはタイのバンコクが一番よかった。

まず、街の中を歩いていて、すれ違う人と目が合うと、必ずといっていいほど、笑顔をみせてくれるところだ。

人懐っこいとでもいうのだろうか。正直、バンコクの街並みは排気ガスの煤でうす汚れていたが、そんなのも気にならなくなるくらい印象がよかった。

夜の食事の際も、ちょっと観光スポットを外れたレストランに、何回か通っていたのだが、店の奥にいた主人が、4日目に訪れたときに、ニコッと笑ってくれたのも記憶に残っている。

シンガポールは、英国式のきれいな公園がある街並みで、人々は英語を話し、スマートな国だったが、どことなく冷たい。タイは、欧米に侵略されたことがない仏教の国だ。そんなことも人々の心根に影響しているのかもしれない。

そんな思い出のバンコクが洪水で水びたしになっているのをみると心が痛む。

明日は大潮で水が増えてしまうようだが、何とかがんばって耐えてほしい。

2011年10月26日水曜日

Blogger: プロフィールの面白さ

ブログ初心者なので、こんなことは当たり前のことなのかもしれないが、自分の「Blogger: プロフィール」の「お気に入りの本」や「お気に入りの映画」に、作者や作品名を入力しておくと、同じ趣味のユーザが表示されるのが面白い。

特に表記を英語で入力しておくと、色々な外国の人の名前が出てくるのが面白くて、ついつい、その人のブログも見てしまう。
(Google Chromeを使っていますが、外国のページだと、翻訳のボタンが自動的に表示されます。かなり怪しい日本語ですが、それでも何を書いてあるページなのかは、だいたいは分かります)

たとえば、私のプロフィールでは、「お気に入りの音楽」に、PIZZICATO FIVEと書いてあるが、クリックしてみると、1600人のユーザが登録している。
1ページ目に表示されてる人たちは、私以外はみんな外国の人だ。外国人に人気があるのかな?

また、「お気に入りの本」の Antonio Tabucchi は、116人のユーザが登録しているが、ヨーロッパ圏の人たちの名前がずらっと出てくる。
ちなみに、外国の方は、わりとストレートに顔写真や家族の写真を掲載されていますね。
これも、「ああ、こんな人がタブッキが好きなんだ~」と勝手にシンパシーを感じています。

Elsa Morante あたりになると、さすがに少数で、35人のユーザしかいない。
(池澤夏樹個人編集 世界文学全集で「アルトゥーロの島」という作品を読むことが出来ます)
こうなると、かなり親近感がわいてくる。

ちなみに、山崎正和氏が、わたし1人だけというのは、さびしい。
ゲゲゲの水木しげる氏(コミック 昭和史が面白いです)だって、15人もいるのに…

頭が整理されていないときとかに、山崎正和氏の文章を読むと、すごくすっきりしますよ。

2011年10月25日火曜日

対立する二人 <光秀と信長、西郷と大久保>

司馬遼太郎の歴史小説のなかでも、二人の対立する主人公が出てくる「国盗り物語」、「翔ぶが如く」は、どちらも好きな作品です。

「国盗り物語」は、一介の学僧から身を起こし、権謀術数のかぎりを尽くして美濃一国の国主となった斎藤道三の二人の愛弟子、 一人は道三の古典的教養を引き継いだ明智光秀と、もう一人は道三の中世的な権威を破壊する革新性を引き継いだ織田信長が、最後に衝突を避けられないまま、本能寺に行き着くという物語。

「翔ぶが如く」は、明治維新の中心的役割を果たした薩摩の西郷隆盛と大久保利通が、明治初年の近代国家の成立時期に、征韓論をめぐって激しく対立し、やがて、政府側の大久保利通と、薩摩士族代表の西郷隆盛(西郷の虚像といってもいいかもしれない)が、西南戦争で戦い、西郷が敗れ、勝った大久保も暗殺されるという物語だ。

読んでいて不思議に感じるのは、戦国時代の「国盗り物語」のほうが現代的だと感じることだ。道三や信長が目指していた合理性は非常に納得がいくし、光秀がその合理主義を危険だと感じる感覚も理解できる。

一方、「翔ぶが如く」においては、この物語の前段にあたる「竜馬がゆく」の明るさの反動のせいか、西郷隆盛が明治維新後、全く生気を失った存在になってしまうことや、彼の説く征韓論が非常に理解しがたい部分がある。
また、大久保利通については、合理主義が見え隠れする一方、立憲君主制という天皇中心国家を作り上げていくところに、後世から見れば太平洋戦争の敗戦につながっていく暗い影を感じ、すなおに共感できないところがある。

そして、一番の違和感(魅力といってもいいかもしれない)を覚えるのは、やはり彼らの人格だろう。

それは江戸時代が生んだサムライの精神というべきなのだろうか。
西郷や大久保は、今の政治家とは比べものにはならないほど、人間として大きいのに加え、明治国家を作り上げていく動機にも私欲が感じられない。
自分が、多少難解なこの物語にひかれるのは、今では絶滅してしまったこのサムライの精神を、西郷や大久保に強く感じるせいかもしれない。

2011年10月24日月曜日

叡智の断片/池澤夏樹

以前、格言集の本を何冊か持っている話を書きましたが、私が持っている本の中では、池澤夏樹さんの「叡智の断片」が、そのなかでも、一番上質で面白いと思っています。

月刊プレイボーイに書かれていたということもあるせいか、男性読者向けの男女(セックス)に関する格言(引用句)には、思わずにやりとしてしまうものがある。

たとえば、

  • 「離婚は結婚よりずっと金がかかる。だけど、たしかに払うだけのことはあるんだ」/マックス・カウフマン
  • 「男が妻のために車のドアを開けてやるとすれば、それは妻が新妻か、あるいは車が新車かのどちらかである」/エジンバラ公 フィリップ殿下
  • 「法廷で会うまで女の本性はわからない」/ノーマン・メイラー
  • 「女はゾウに似ている。見ていて楽しいけれど、自分で飼おうとは思わない」/W・C・フィールズ
  • 「男にとって結婚はセックスのために払う代価であり、女にとってセックスは結婚のために払う代価である」/無名氏

などなど、にやりとしてしまうけど、結構、奥が深い。

他にも欧米の著名人・無名人の色々な名言が載っていて読む者を厭きさせない。

ウィットに富んでいるけれど、何かと何かの合間に軽い感じで読むことができるという意味では、かなり理想的な本だ。

2011年10月22日土曜日

大沢誉志幸の歌

大沢誉志幸の歌には、そこはかとない色気とやさしさがある。

自堕落な男と女、行き場のない感情。

そういう憂鬱を思い浮かべる秋に聞くにはぴったりの曲です。

2011年10月20日木曜日

世界を消すスイッチがあったら…

たまにだが、辛いことや嫌なことがあって眠れないときに、世界を一瞬にして消すスイッチがあったら、自分は押してしまうだろうか、と考えることがある。

そのスイッチを押すと、自分も含めて世界の全部が消えてしまうのだ。

でも、自分はこの瞬間つらいかもしれないが、きっと、幸せな時間をすごしている人もいるはずだと思う。そんな幸せな人たちの生・時間・思いを、自分ひとりの独断で消し去るなど、とうてい許されることではない。

そう思うのだが、それでも二度三度こんなことを考えてしまうのは、なぜなのだろう。

そのスイッチを押せば、一瞬にして世界の全ては無になり、世の中の辛いことや嫌なこと、面倒なこと、悲しいことが一瞬にしてなくなるのだ。

世界が悲しみに満ちているのであれば、それを一瞬にして消し去ることも悪いことではないのではないか?

可能性としては五分五分。押してしまう気もするし、最後は自分の愛する人を思って押さないかもしれない。

自分はどうかしていると思う。

でも、こんなことを考えるだけで、それだけで気分がちょっと楽になることも確かなのだ。

2011年10月19日水曜日

時は今…

司馬遼太郎の「国盗り物語」。明智光秀が、連歌師たちを呼んで愛宕山の西坊で催した連歌の発句で、こう読み上げる。

「時は今 天(あめ)が下(した)しる五月哉(かな)」

織田信長に対する謀反を決意した歌であるが、
「時は今」は、明智の筋目である土岐源氏の「土岐(とき)は今」の意味が含まれており、
「天が下しる」は、文字どおり、「天下を治(し)る」という寓意が含まれている。

この発句を受けて、光秀の風流の友であった連歌師は、
次の句の「水上まさる庭の夏山」を受けて、

「花落ちる流れの末をせきとめて」

と、光秀の謀反の決意を阻みたいという意味を込めた。
光秀には、その意味が通じたが、彼は決意を変えなかった…

戦国期とは思えぬほど、文化的なやりとりである。
(ちなみに、信長は連歌という文芸よりも茶という美術趣味を好んだ)

このように、五七五の長句と七七の短句を互い違いに組みあわて、最終的には三十六句を仕立て、歌仙となる。

岩波新書「歌仙の愉しみ」で、丸谷才一は、その面白さとして、第一に何人でも作る合作性と、第二に即興的に続けていく遊戯性をあげている。

一読して思ったのは、確かに面白そうだけど、これを一緒に行うメンバーの選択が難しそうですね。まず、誰かしら師匠が必要だし、ある程度、歌に対する心得がないと、自分の番になって詰まってしまいそうで怖い。

でも、頭も使った相当に贅沢な遊びですね。

2011年10月14日金曜日

80's カセットレーベルB面

昨日の続き。80's カセットレーベルB面です。


1. Wake me up before you go-go /wham

ワムの音楽は、80'sの代表的なポップソングといっていいかもしれない。
覚えやすいメロディ。底抜けに明るいライトな感覚。いいですね。



2. The Glamorous Life /Sheila E.

プリンス・ファミリーのシーラ.E。
パーカッションを叩きながら歌うシーンが新鮮です。


3. Footloose / Kenny Loggins

中学校の文化祭で、クラスで、この曲をかけて大盛り上がりした思い出があります。




5.  Hold Me Now /Thompson Twins

ユル~い感じの曲調が、なごみます。



6. Like a virgin / Madonna

やはり、マドンナは、セクシー系の最右翼でしたね。
家族と、TVでこのPVを見ていて、なぜか恥ずかしくなったことを覚えています。


7. Take On Me / A-Ha

これも大したことがない曲だと思いますが、すごくヒットしていましたね。
やはり、洋楽は音がいいと感じた印象があります。



8.  Blue Jean /David Bowie

B面最後の曲は、デビッド・ボウイ。
はじめて買ったLP盤が、この曲が収録されている「Tonight」でした。
当時は、戦メリも話題で、カッコよかったですね。

2011年10月12日水曜日

80's カセットレーベルA面

80年代にはやったアメリカ発のポップソングは、私にとっては、ちょうど十代の真ん中あたりで聞いていたということもあり、曲を聞いていると、その当時の出来事もなんとなく思い出します。

でも、当時のポップソングは、今の曲に比べると圧倒的に分かりやすいメロディでしたね。
まことに勝手ながら、当時のカセットテープから、ランダムに曲を選曲してみます。
(カセットテープも、ノーマル、ハイポジション、メタルで、曲によって使い分けていた気がします)

1.  Beat It / Michael Jackson

洋楽1発目は、やはり、マイケルですね。
私の記憶では、この曲からでした。




2. The Reflex / Duran Duran

さびの部分しか印象にない曲ですが、
なぜか、すごくヒットしていましたね。


3. MYSTERY BOY / Culture Club

カルチャークラブも、不思議とよく聞いていた覚えがあります。
まだ、ボーイ・ジョージも痩せていました。




4. Breakout/Swing Out Sister

当時はそれほど印象がありませんでしたが、今聞くと、まんざらでもない気がします。



5. Heavens Above / The Style Council

ポール・ウェラーの若かりし時代。
のどかな風車での撮影が、いいですね。



6.  It's Not The Way / Donna Summer

これも、FMを聞いていて、一生懸命、カセットにダビングしていた思い出があります。


7. Let's go crazy / Prince

84年頃のプリンスは、無敵でしたね。
パープル・レインといい、耳に残っている曲ばかりです。



8. I Just Called To Say I Love You /Stevie Wonder

A面最後の曲は、スティービーワンダー。
夏の暑い日に、ひたすら、この曲が延々と流れていたような記憶があります。



2011年10月10日月曜日

大岡昇平の「俘虜記」

「俘虜記」は、昭和20年フィリピンのミンドロ島で米軍の俘虜(捕虜)となった作者の体験を基にした小説である。

この作品は、大きく3つで構成されていて、第一部が米軍に捉われるまで、第二部が俘虜になってからの病院、収容所での生活、第三部が日本の敗戦を知ってからの俘虜の堕落の様子を描いている。

第一部は、病気のせいで隊から見捨てられ、フィリピンの山林をさまよう作者の詳細な自己分析の記録である。

目の前に無防備に現れた若い米兵をなぜ撃たなかったのか、なぜ生きるを諦めたのに自殺できなかったのかを克明に分析をしているようすは、有能な外科医が臓器を手際よく摘出し、色々な角度から観察しているかのようだ。

第二部は、米軍が提供する清潔な居住と被服と2700カロリーの食事と労務に対する賃金が支払われ、密造酒もお目こぼしがあるという、およそ日本軍とは異なる寛容な待遇のなかで、無為にすごすしかない俘虜という中途半端な立場が、様々な日本兵の姿を通して、作者の乾いた目で描かれている。

第三部は、日本の敗戦を知り、同胞への後ろめたさがなくなった俘虜が急速に堕落していく様子が描かれている。各中隊ごとに出し物を作り、月に2回演芸大会を催し、女性っぽい男を女装させ、歌を歌わせ、擬似恋愛まで発生している。作者は、その堕落を呪うわけでもなく(作者自身、劇のシナリオを書いたり、春本まで書いている)、その人間喜劇をどこか楽しげに描いている。

第一部から第三部を通して読むと、結局のところ、作者は、米国に負けたことで変わっていく日本の国民の精神・生活・雰囲気を、このフィリピンを舞台にした俘虜収容所を小さな雛形として諷刺しているのかもしれないと思いました。

2011年10月9日日曜日

子どもたちの喉、ガラスバッジ、ペットボトル

今日のNHKのニュース

福島県の18歳以下のすべての子どもたち36万人を対象に、甲状腺に異常がないか継続的に調べる検査が始まりました。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20111009/t10013147731000.html

チェルノブイリ原発事故では、4~5年後に子どもの甲状腺がんが多発したそうで、原発事故で放出された放射性ヨウ素は、特に子どもの甲状腺に蓄積しやすく、がんを引き起こすおそれがあるとのことです。

この検査は生涯にわたって続くとのことです。

こういう事実を前に原発の再稼動を容認するなど、ありえないことだと個人的には思います。

福島県の子どもたちは、すでに線量計(ガラスバッジ)を胸に着け、外出時間を記録する等の負担を強いられていますが、何となく釈然としないのは、これらをやっても被爆を防くという効果がないからだと思う。

やはり、放射性物質の除染作業は、一番優先してやらなければならないことですね。

学校では、水を入れたペットボトルを壁のように並べて教室に侵入する放射線を防ぐ実験までしていて、一定の効果が上がっているところもあるようです。

とにかく、国をあてにせず、自分たちで出来るだけのことをして子供たちを守る。
今は、これしかないですね。

2011年10月7日金曜日

アタマガカルクナルシ



今日は頭が重いので、アタマをかるくする詩をひとつ。


青ぞらのはてのはて

水素さえあまりに稀薄な気圏の上に 

「わたくしは世界一切である
世界は移らう青い夢の影である」

などこのやうなことすらも

あまりに重くて考へられぬ

永久で透明な生物の群が棲む

/ 宮沢賢治

リンゴと爆弾

Macintosh Classic, Macintosh LC475, Macintosh Powerbook…とても、懐かしい。



当時は、EXCELで凝った表を作り、あと、ちょっとで完成という絶妙なタイミングで、よく爆弾マークが出てフリーズしてしまい、頭をかかえながら、一から作り直しということがありました。
そのころから、Microsoftとの相性は最悪だったような気がします。


それでも、Windows OSにはない使いやすさと親しみやすさが、Macintoshにはあった気がします。

会社勤めをはじめたころに、はじめて使ったPCということで、以降、すっかりMacユーザーになってしまいました。

当時は、インターネットが、少しずつ、ふつうのユーザに広まり始めたときで、メールソフトは、Quick Mail、インターネットブラウザは、Netscapeの時代でしたね…

スティーブ・ジョブス氏が復帰してからのアップルは、すごかった。
デザインで話題になったiMacにはじまり、携帯音楽プレーヤーiPod、スマートフォンの流れを作ったiPhone、タブレット型PCのiPad、そして、音楽や映像コンテンツを配信するクラウドサービスiCloud。

これらアップルが主導してきたIT機器・ITサービスの勢いが増すなか、スティーブ・ジョブス氏が死去したことは、ひとつの時代が終わったことを象徴しているかのようです。

ジョブスの死が、アップルひいてはIT業界全体にとって爆弾マークにならないことを切に願っております。

2011年10月5日水曜日

The Crystal Ship / The Doors

小林秀雄がアルチュール・ランボーの「酩酊船」に衝撃を受けたことに喩えたら、私にとっては、The Doorsの1stアルバムの「水晶の船」がそれに近いだろうか。

The Doorsの1stアルバムをはじめて聞いたとき、ジム・モリソンの強烈なボーカルで歌う悪魔的な詩とオルガンを使った独特の音色に、時間が逆戻りしていくようなざらざらとした感覚を覚えた。

アメリカ西海岸の明るい陽光の中で、どうしてこれだけ暗いディープな音楽が作れたのか。
本当に不思議なバンドだ。

「衝撃」という意味で、このアルバムは、ロックというジャンルでは、空前絶後、二度と出てこないようなアルバムだと思う。

2011年10月4日火曜日

リラックスする音楽-Sade

Sadeは、今の私にとっては、リラックスしたい時に聴くという、わりとはっきりとした目的で聴いている音楽だ。

疲れたときや精神が高ぶったときなど、彼女の声を聞いているとかなり、リラックスする自分がわかる。

こういう傾向は、ここ最近になってからで、二十代のころは、彼女のスタイリッシュな音楽に惹かれつつも、どこか物足りなく感じて、それほど熱心には聴いていなかった。

Sade(シャーデ)が彼女の名前ではなくて、バンド名であることを知ったのも、ここ最近の話。

彼女の歌であることは、その声をちょっと耳にしただけでわかるのだが、力のあるボーカリストにありがちな耳障りな自己顕示欲の感じがない。

あくまで曲との調和を大事にしていて、その殻のなかで気持ちよく歌い上げている。

その独特のスタイルは、ここ数十年の目まぐるしく移り変わるポップソングの流れの中で、変わらない孤高の美を保っている。

こういうアーティストは、大事にしたい。

2011年10月3日月曜日

小栗康平の「泥の河」

暗い映画は個人的に好きではない。
しかし、それが分かっていても、ついつい目を離せなくなってしまう映画もある。

「泥の河」は、昭和31年の大阪、阿治川の河口を舞台に、廓船に住む母親・姉・弟と、船が係留した川岸に建つうどん屋の男の子の出会いと別れの話だ。

個人的には、弟がうどん屋に招待されたときに披露した愛唱歌が軍歌「戦友」というのにも胸をゆさぶられたが、この作品の中で一番胸を打たれたのは、やはり、姉 銀子の存在だ。

初めて船に遊びに来た男の子の足を、公園から汲んできた自分たちの飲み水でやさしく洗ってあげる女の子。貧乏だけれど、白い清潔そうなシャツを着ていて、家事をほとんどしない母親に代わって何でもするが、ほとんど笑うことがなく、米びつに手を入れているのが温いと感じる女の子。

こういう女の子に出会ったはずはないのだが、どこか懐かしさを覚える。

小栗康平の作品は「死の棘」も相当に暗かったが、やはり最後までみてしまった。

それは、観る者がどこかで経験した(あるいは夢想していた)過去や記憶が映像のところどころに埋もれていて、それがどうしようもなく人を引きつけるからだと思う。

2011年10月2日日曜日

ルイス・ブニュエルの「銀河」

題名にひかれて観た映画ですが、宇宙ものとは何も関係がありません。

キリスト教の3大聖地のひとつ、スペインのサンチャゴへパリから行く巡礼が、長い道のりをたどるため、「銀河」と例えられたものだ。

この巡礼の道を、若い男と老人の二人組み(浮浪者に近い)が旅をしていくなかで、キリスト教の正教と異端をそれぞれ具現化したような怪しい人たちに次から次へと出会っていくロード・ムービーである。

そして途中、人のよさそうな聖母マリアと妙に人間くさいキリスト本人も現れるなど、時代が交錯していく。

テーマからして宗教色の強い難しそうな印象を受けるが、感想としては至って軽い感じでみることができる映画だ。

ただ、ブニュエル自身がねらったとおり、その軽さゆえに、みようによっては相当いかがわしい感じを受ける映画でもある。

野外学芸会に出演するあどけない少女たちが、(おそらくは学校や親に言わされている)異端者を呪う言葉を発表するシーンと、女性革命家が法王を射殺するシーンをかぶせるあたりなどは、かなり過激な印象を受けた。

1968年のブニュエル後期の作品ですが、今みても古くさい感じがしない映画です。

カフカの「断食芸人」

カフカの「断食芸人」を読んでまっさきに思ったのだが断食芸人とは本当に存在していたのだろうか。

鉄格子の中で黒いジャージを着た男が藁の上でただひたすら断食する。
そして、断食何日目と表示される数字版。

観客は、痩せた体をさわったり、番人になって断食芸人がこっそり食べ物を食べないか監視をすることもできるらしいが、断食芸人はほとんど瞑想している状態。

フィナーレは、断食40日目に興行師が断食芸人を檻から出して食べ物を食べさせ、楽団がファンファーレをとどろかせる。

想像すればするほど、馬鹿馬鹿しい話。

しかし、よく考えてみるとこんな企画はよくテレビで見ているのに気づいた。

芸人が1万円で1ヶ月暮らす節約生活、デブの芸人がひたすらダイエットして痩せる番組なんかも、考えてみればこの部類の話だ。

ということは、断食芸人は実在していたのではないだろうか?

もし存在していなかったとしたら…どこまでカフカは現代を見据えていたのかと怖くなるような話だ。

もう一つ思い浮かんだのは、このブログやホームページの類。
「断食芸人」ならぬブロガーが、自分の好みで写真を掲載したり、文章をかきつらねる。

訪れる閲覧者が、たまにコメントを入力し、ブロガーとのやりとりが発生する。
そして、訪問者数のカウンター。

これもある意味、「断食芸人」ですね。

くれぐれもカフカの「断食芸人」のように、人気が凋落しませんように…

2011年10月1日土曜日

夏目漱石の「夢十夜」

夏目漱石の「夢十夜」は、いつ読んでも、古さを感じさせない面白さがある。
高校生のときに初めて読んで以来、夏目漱石の作品の中では一番好きな小説だ。

第一夜…死にぎわの女と百年後に逢う約束をして待つ男の話

第二夜…悟りを得ようと座禅を組むが一向に悟りを得られず死を決意する男の話

第三夜…闇の中、盲目の子どもを背負って森の中にいき自分の前世を知る男の話

第四夜…蛇をみせるといって河の中に沈んでいく爺さんの話

第五夜…捕らえられた自分を助けに来ようとした恋人を天探女に殺された男の話

第六夜…鎌倉時代の仏師 運慶が仁王を彫っている姿を見た男が自ら仁王を彫る話

第七夜…大きな汽船に乗っていた男が死を決意して船から飛び降りて後悔する話

第八夜…床屋の鏡にちらっと映る奇妙な出来事を確かめられない男の話

第九夜…父が不在のときに無事を祈る母だったが実は父が浪士に殺されていた話

第十夜…女にさらわれた庄太郎が豚になめられて命を落としそうになる話

どれも奇妙な話だが、やはり、印象が強いのは、第一夜、第三夜、第十夜である。

特に第三夜は、自分の前世、原罪を思ってもみない状況で知ってしまう怖い話だ。
丸谷才一の「樹影譚」は、この系譜にある作品のような気がする。

第十夜は絶壁を飛び降りるか豚に舐められるか二者択一を迫られるという奇妙さでこの中でもずば抜けている。
パナマの帽子が悪いのか、好色な暇人の男への罰なのか、原因は定かでないが、ちょっと喜劇的な感じがする。

第一夜は、十の話の中でも一番ロマンチックな話だ。しかし男は百年待ったのに女は現れず、白百合との再会という結末は、恋の残酷さや夢のはかなさがそれとなく伝わってくる話だ。

なお、個人的には第二夜と第六夜・第七夜も結構好きです。
第二夜は悟りを得ようとしたり、座禅を組んだことがある人ならば、この男の辛さはなんとなく共感できるのではないだろうか。

また、第六夜と第七夜は「明治の申し子」である夏目漱石ですら富国強兵に突き進んでいく明治という時代に対して嫌悪や不安を感じていたのではないかと思わせる点でとても興味深い。