2016年12月19日月曜日

オスプレイの飛行再開

日本政府がアメリカの言いなりで、日本に主権がなく、ほぼ植民地のような扱いを受けており、沖縄県民の安全性を守ることすらできないことを、あまりにも明らかに、さらけ出したオスプレイの飛行再開。

まだ、墜落事故の原因究明と沖縄県への十分な説明もないまま、このような決定を容認するということは、日本政府は、国民の安全を守るという職責を放棄しているに等しい。

米軍のニコルソン四軍調整官は、「日本国民はオスプレイの安全性と信頼性について理解することが非常に重要だ。」と言い放った。全く、なめられていると言っていい。

こんな事すらまともに対応できない日本政府が、沖縄県から信頼を得ることなど、到底無理な話である。

日本政府は、米軍の行動に理解を示したようだが、そんな“ごまかし”は撤回して、米軍に、墜落事故の説明と、それが出来ないのであれば即時に飛行中止を求めるべきだ。

http://www.asahi.com/articles/ASJDL7R2CJDLTPOB004.html

撫物語/西尾維新

恋物語で、詐欺師の貝木泥舟に説得され、神様を辞めて漫画家を目指し始めた千石撫子の後日談である。

中学校にも行かず、引き籠り、ひたすら漫画を描いている千石撫子の家に、阿良々木月火の監視役として阿良々木家に人形としているはずの式神 斧乃木余接が何故か出入りしている。

親にも中学を卒業したら働けと言われ、焦り始めた千石撫子に、余接が、早く漫画家になれるよう、自分の分身を4つ作って漫画を描くのを手伝わせたらどうか、という提案する。

そして、千石撫子が過去の自分を四人描いて、余接が本当に式神化してしまう。

一人目は、おと撫子 前髪で表情を隠していた頃の大人しい撫子。
二人目は、媚び撫子 阿良々木に積極的にアピールしていた頃の撫子。
三人目は、逆撫子 クチナワに触発され、クラスメイトに逆切れした頃の撫子。
四人目は、神撫子 呪いの札を飲んで、神様になっていた頃の撫子。

この四人の撫子が逃げ出してしまったため、紙の世界に引き戻そうと苦闘する撫子本人(今撫子と呼んでいる)と、それを毒舌まじりにサポートする斧乃木余接。

他愛もない話のようだが、猫物語同様、千石撫子が過去の自分と向かい合い、自分の力で解決しようとしているプロセスを描いており、最後に、撫子自身が、最も問題の核心を秘めていた”おと撫子”の思いを受け止めたところで、ようやく千石撫子は一歩成長し、精神的にも自由になれたのかもしれない。

2016年12月18日日曜日

ROGUE ONE / A STAR WARS STORY (ローグ・ワン/スター・ウォーズ・ストーリー)

エピソード4に、反乱軍の作戦会議の場面で、デス・スターの設計図を画面に映しながら、司令官が、「この設計図を手に入れるために、私たちは多くの仲間を失くしました」と述懐するセリフがあったと記憶しているが、今回のこの作品では、まさにそのデス・スターの設計図を手に入れるための反乱軍の戦いを描いている。

主人公のジンは、 デス・スターを設計した科学者ゲイレンの娘で、幼少期に帝国軍に父ゲイレンを連れ去られ、母を殺された辛い記憶を抱えている。

その科学者ゲレインから、完成間近のデス・スターの極秘情報を託され、帝国軍から逃亡した元パイロット ボーディーが、ジンの育ての親で、惑星ジェダにおいて帝国軍に対する反乱を指揮する過激派の親玉 ソウ・ゲレラに捕縛されてしまう。

反乱軍は、ソウとの接触の仲介役をジンに依頼し、ジンは、反乱軍の工作員キャシアン、天空の城ラピュタに出てきたような元帝国軍のロボット「K-2SO」とともに、惑星ジェダに向かい、そこで、彼女を支援することになる盲目の僧 チアルート・イムウェと彼の忠実な友ベイズ・マルバスと出会うことになる。

そして、ジンは、帝国軍の元パイロット ボーディーが持ち込んだホログラムから、父ゲイレンが、帝国軍に味方すると見せかけ、実はデス・スターに重大な弱点を持たせるように故意に設計することで帝国に復讐しようとしていた事実を知る。

父の思いを受け止めたジンは、やがて、デス・スターの設計図を奪取するため、データが保管されている惑星スカリフに、ローグ・ワンの仲間たちとともに決死の潜入を試みることになる。

というのが、大体のあらすじなのだが、正直、映画を観ていて、この前半の部分の人間関係と名前の理解がなかなか追いつかなかった。

しかし、観終わってみると、間違いなく、いい映画だったという感想が正直なところだ。

この映画では、ダースベイダーを除き、フォースを持つジェダイは一切出てこない。
しかし、その普通の人々が、少しのチャンスも諦めずに、 圧倒的な力を有している帝国軍に、命を投げ打って戦いを挑むところに心が動かされたのかもしれない。
特に、 盲目の僧のチアルートと、その友ベイズの友情にはグッと来るものがあったと思います。

ダースベイダー、R2-D2、C-3PO、冷酷な帝国軍の司令官ターキン総督など、エピソード4とつながるキャラクターやシーンも、ちょいちょい出てきていて、この映画を観ると、エピソード4を見直したくなってしまった。

2016年12月5日月曜日

方丈記 高橋源一郎 訳/日本文学全集07

これまた、思い切った訳である。
方丈記が、まるで、外国人のヒッピーが書いたような体裁になっている。

タイトルからしてすごい。
方丈記 Mobile House Dairies (以下、本文ではカタカナ表示)


章題も、洋画と洋楽の名前みたいだ。

1. River runs through it
 流れる川の泡粒のように、人間の営みも絶えず変わってゆく
2. Back draft
 西暦1177年 キョウトでの大火事。首都のおよそ三分の一は焼け野原に
3. Twister
 西暦1180年 ナカミカド道路のキョウゴクあたりで発生した竜巻の被害
4. Metro police
 西暦1180年 福原遷都で混乱する人々の様子
5. Hungry?
 西暦1181年 まる2年続いた大飢饉で街中に溢れる遺体
6. Armageddon
 (西暦1185年)に発生した大震災の様子
7. Mind game
 どんな風に生きてゆけば、安らかな気持ちになれるのか
8. My way
 不安だらけけの人生。何の未練もなく50歳で出家

9. Making of Mobile House
 60歳で4畳半しかない家を建てた
10. Nostalgia
 琵琶の演奏、自分にために、自分で歌い、自分で弾いて、「虚無」に陥らないように
11. Into the wild
 社会から遠ざかった隠遁生活 山の風景
12. Are you lonesome tonight?
 おだやかな「こころ」がなければ、なんの意味もない
13. All that NAMUAMIDABUTSU
 ずいぶんと長く生きたような気がする。だが、それも、もうすぐ終わり

でも、高橋源一郎が、何故、これだけ、ポップな訳にしたのか、分かるような気がする。
内容が、あまりにも隠者の無常感が漂っていて、ネガティブな印象が強いからだ。

これを真面目な硬い文章で読むのは、おそらく、相当つらい作業のような気がする。

2016年12月4日日曜日

徒然草 内田 樹 訳/日本文学全集07

内田 樹氏が、どんなふうに、あの「徒然草」を訳するのだろうと、この日本文学全集の刊行が決まった時から期待していたが裏切られることはなかった。

兼好法師が望んでいた人生観、すなわち、上品な趣味でありながら、思慮があり、無駄のない、歯切れのよさが、文体に現れていると思う。

序段の訳文が、バシッと決まった感がある。
ひとり閑居して、一日硯を前に、脳裏に去来することを思いつくままに書き綴っていると、自分では制御できない何かが筆を動かしているようで、怖い。
そんな文体で再現された243段に渡るエッセイから浮かび上がってくるのは、兼好法師という、俗世を離れたといいながら、その俗世に強い(どちらかというとしつこいくらい)関心を持ち続けた、批評家的な色合いが強い知識人の性格である。

知人からも、へそまがり(31段)とか、鈍感(238段)と言われながらも、そういった人々との交わりを断らず、ほどほどの距離を保ちながら、人々の生活の様子を冷静に観察していた老人の姿が浮かび上がってくる。

色欲について愚かなものと断じながら、「若い女の手足の肌がつるつると脂が乗っているのを見」て、「私だってちょっとくらいはくらくらするかも知れない」と本音を明かしたり(7段)。

女について、「心はねじくれ、我執は強く、貪欲は甚だしく、ものの理がわからず」と、甚だ貶しておきながら、「とはいえ、もし賢女というものが存在するなら、なんとも取り付く島のない、味気ない女に違いない」と話をひっくり返したり(107段)。

酒は万病の本と非難しつつも、「やはり酒飲みというのはおかしいもので、その罪は許さねばならぬ」とフォローにまわったり(175段)。

ある尊い聖のことばを一条ずつ書き付けていたが、「この他にもいろいろあったが、忘れた」と中途半端に終わったり(98段)。

これらの何とも曖昧な、人間的な寛さが、「徒然草」の面白さなのかもしれない。

また、 他人の生活に対する強い好奇心も、執筆のエネルギーになっていることも間違いない。
人里離れた庵までの私道に足を踏みいれ、その俳味を味わいつつも、柑子(ミカン)の木に柵がしてあることにがっかりしたり(11段)、たまたま通りがかった家の庭に足を踏み入れ、美貌の男が文を読んでいる姿を覗き見て、何者だろうと思いをめぐらしたり(43段)。

読んでいて、一際、面白かったのは、訳者の内田氏自身述べているが、「変な話」の分野である。

芋頭を好んていた僧が病になり、十四日間、「思うさまよい芋頭を選んでこれを貪り食って万病を直した」話(60段)や、召使いの乙鶴丸が、親しくなった「やすら殿」について、主人に尋ねられ、「どうなのでしょう。頭を見たことがありませんので」と答え、兼好が「どうすれば頭だけ見ずにいられるのか」と一人つっこみする話(90段)や、「ぼろぼろ」という仏教徒?の決闘の様子(115段)など。

兼好法師は、鎌倉時代末期に、この「徒然草」を書いたらしいが、この新訳を読むと、一挙に、彼の存在が身近に感じられる。

2016年11月27日日曜日

ザ・議論!/井上達夫、小林よしのり


副題には、「リベラル VS 保守」と書かれているが、「リベラル」とは何か、「保守」とは何かを、すぐに説明できる人は、そうはいないのではないか。

法哲学者の井上達夫氏が語る「リベラル」は、かなり明確な形に見える。
その理由は、具体的な検証基準を2つ備えていることだ。

1点目は、自分が受け入れられないことは、他人にもやらせない(反転可能性)という基準。
2点目は、ダブルスタンダード(二重基準)は、許さないという基準。

例えば、天皇に職業選択の自由も認めず、言論の自由も認めず、「無私」を求めることは、 「反転可能性」の観点から否定される。

また、日本が実効支配している尖閣諸島の問題で、中国に対し、領土問題は存在しないと言いつつ、韓国が実効支配している竹島の問題では、韓国に対し、 領土問題は存在すると主張するのは、ダブルスタンダードであり、許されないという具合。

通常言われる「自由主義」という訳語より、「正義主義」と言ったほうが分かりやすい。

一方、漫画家の小林よしのり氏が語る「保守」は、なかなか捉えにくい。

二人は、天皇制、戦争責任、憲法9条について、それぞれ意見を交わしているが、井上氏と明確に違いが出てくるのは、「天皇制」の維持と昭和天皇の戦争責任いうところだけのような気がする。

どちらの点についても、 小林氏の天皇に対する愛情の深さと民主主義の権威としての期待の大きさが感じられるが、井上氏の「反転可能性」の理論でいくと、とてもお願いできる役割ではない、と感じてしまう。

それにしても、この本は、表紙から受ける印象と違ってかなり内容が深い。

なかんずく、議論が深まっているのは、井上氏の展開する議論の奥行きの深さであろう。
氏の読書量の豊富さもうかがい知れるが、本物の学者が交わす議論というのは、こんなにも面白いものだと改めて感じ入った。

なお、本書では、井上氏が考える憲法改正(案)も掲載されている(なんと、本書が初出らしい)。
9条を削除し、安全保障のため、軍隊を置くかどうかは国会の判断に委ね法律で定め、憲法では、軍事行動を制限する規定を置く。
氏の改正(案)では、徴兵制も盛り込まれている一方、良心的兵役拒否の権利も定められている(但し、代替的公役務の実施が必要)。

氏の改正(案)には、なかなか賛同できない部分があるが、 地方自治の条項で、外国軍隊を駐留させるには、設定される地方公共団体の住民投票で過半数の同意を取らなければならないと定めた改正案は、納得できた。

私としては、氏が次善と評した 専守防衛明記の九条改正+戦力統制憲法規定追加 が妥当な内容かと感じた。

それにしても、本書では、護憲派の早稲田大学の長谷部教授が、特定秘密保護法案の賛成派であったこと(この事実を報道したマスコミを私は知らない)や、同じく護憲派の東京大学の石川教授が井上氏を論拠を示さない形で批判していた事実が赤裸々に語られており、なかなか興味深かった。

井上氏の著書は、素人が読むには、非常に難解なものが多いが、こうして、議論形式で語られる内容は、実に平明達意だ。
今後も、このような形で、自身の考えを語ってほしい。

 http://mainichibooks.com/books/-vs.html

2016年11月13日日曜日

アメリカ大統領選挙に思う


あれだけ人種差別発言、女性差別発言を繰り返してきた男を、まさか、アメリカ国民が選択するはずはないと思っていただけに、トランプ氏が大統領選挙に勝利したことに大きな衝撃を受けた。

  とにかく、自分の生活水準を少しでも良くしてくれるのであれば、差別的言動など構わない
というのが、トランプ氏を支持したアメリカ国民の考え方だとすると気持ちが暗くなる。

自由と平等、民主主義、人権の尊重、どんな人種でも、どんな思想・宗教でも受け入れる多様性。

それが、アメリカが一貫して世界にもたらしてきた価値のはずであった。

その価値の源泉が根元から断ち切られたかのような今回の結果だ。


間違いなく、言えるのは、これからのアメリカの外交政策は、上記のような価値の推進・共有を前提としない、アメリカ第一主義という名の経済活動の場が中心になるということだ。

しかも、それは、Win-Winとは限らない、こすっからい契約交渉かもしれず、コンプライアンスもCSRも無視した事業活動かもしれない。

トランプ氏が、選挙後、いとも簡単に言動を軌道修正している様子を見ていると、確かにビジネスマンという気がする。
自分にとって利益になるものであれば、立場、主義、主張をいとも簡単に変えるのだ。

アメリカの利益になるのであれば、ロシアとも、中国とも手を結ぶだろう。
まるで、フィリピンのドゥテルテ大統領のように。

日本にとっても、これから様々な局面でタフな交渉を迫られることになると思うが、トランプ氏が大統領になることで、大きなチャンスが舞い込んできたとも言えなくはない。

それは、アメリカ抜きの日本というものを真剣に考える、いいチャンスが巡ってきたということだ。


対米追随の国策だけでは、もはや成り立たない時代が到来したと思った方がよい。

内田樹氏の「街場の戦争論」では、日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国であると指摘しているが、従属国の政治目標は、「主権の回復」しかなく、そのためには「独立とはどのような状態なのか」を考えないといけない、と述べている。

そして、その手がかりは、敗戦以前の、日本がまだ主権国家だった時の日本人の心の中にしかない、彼らが何を感じ、どんな風に思考していたのかを遡及的に探ることが「主権回復」のためのさしあたりもっとも確実で、もっとも筋の通った処方ではないかとも。

2016年11月8日火曜日

荒戸源次郎の死

彼の名前を初めて知ったのは、鈴木清順監督の「陽炎座」のオープニングで流れるクレジットタイトルの中だったと思う。

この時代がかった名前は、続く、鈴木清順監督の「夢二」、遡って「ツィゴイネルワイゼン」にも現れ、さらに、玉三郎が監督を務めた「外科室」に製作者としてその名前を見たときに、こういった映画を撮るフィクサー的な存在なのではないかと感じたのを覚えている。

個人的に、日本映画の中で一番好きな作品が鈴木清順監督の「ツィゴイネルワイゼン」なのだが、この上映の時(1980年)には、興行のやり方も、東京タワーの下にドーム型移動映画館「シネマ・プラセット」を建てて単館上映するという型破りのものだったらしい。

私は、上記の作品の完成度からして、荒戸源次郎は、てっきり、鈴木清順監督(現時点で九十三歳)と同じぐらいの歳なのだろうと勝手に思い込んでいたのだが、彼の訃報を今日新聞で読み、七十歳であったことを知り、本当に驚いた。

逆算すると、彼は 「ツィゴイネルワイゼン」の製作を、わずか三十四歳のときに手掛けていたのだ。

一体、どんな人だったのだろう。


http://www.littlemore.co.jp/seijun/
http://www.littlemore.co.jp/seijun/
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2016年11月6日日曜日

NHKスペシャル 廃炉への道2016 調査報告 膨らむコスト ~誰がどう負担していくか~

福島第一原子力発電所の事故に伴い、3つの大きなコストが発生している。

一つ目は、メルトダウンした燃料デブリを取り出す廃炉作業費用
二つ目は、避難した人達等への賠償費用
三つめは、除染作業費用


番組では、情報公開請求の資料や東電の公開資料等で、独自に試算していたが、
すでに、廃炉費用2兆円、賠償費用6.4兆円、除染費4.8兆円の合計約13兆円にコストが膨らんでいるらしい。そして、今後も、さらにコストは膨らむ見通しだ。

賠償費用については、東電が支払った賠償金分を、国は金融機構から借金し、原子力損害賠償支援機構経由で、東電に補てんしている。借入金だから当然利息も付くわけで、その利息分は、税金で賄われている。しかし、それでもお金は足りずに、東電以外の電力会社にも発電能力に応じて負担金を払わせており、それが電気料金の値上げという形で国民負担となっている。


除染費用については、国が支援機構を通して、東電の株を1兆円買うことで、資金支援している。
将来的に、東電の株価が3倍(1430円)になったところで売却し、その利益で資金の返済を考えているらしいが、素人考えでも、3倍になる見通しなど何処にもない(現在株価415円)。
しかし、除染費用は1兆円ではとても収まらず、費用は日々増加している。
最もコスト増になっている原因は、除染で出たゴミを収納するビニール袋が、この5年で劣化してしまい、 運搬時に、再度新しい袋に入れ替える作業が発生していることらしい。この新しい袋の費用だけで1兆円になってしまうとのこと。
そして、双葉町と大熊町に建設予定の中間貯蔵施設の運営管理も、東電の責任から外して、国が行うことにいつの間にか決まっていたらしい。

廃炉費用については、東電が負担することが原則になっているが、燃料デブリを取り出す費用を当初の見通し2500億円から、数千億円規模に拡大する見通しに改めたらしい。東電はさらなる国の支援を求めているらしく、現在、経済産業省の有識者会議(非公開)で議論されているが、今後、国民へさらなる負担を求めていくことになりそうだという。

番組では、国民負担は7割程度になるだろうと説明していたが、国から国民に対して、コスト負担の説明は全くと言っていいほど行われていない。

個人的な考えとしては、原発事故の費用を国民全体が負担せざるを得ないのはやむを得ないと思う。しかし、国民に何の説明もなく、情報公開もしない会議体で決定するのだけは、止めてほしい。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20161106

2016年10月30日日曜日

曾根崎心中 いとうせいこう 訳/女殺油地獄 桜庭一樹 訳/日本文学全集10

曾根崎心中は、醬油問屋の手代 徳兵衛と、色里の女 お初が心中する物語である。

醬油問屋の旦那から、その女房の姪との結婚を強要され、お初と恋仲にある徳兵衛は断ろうとするが、母親がすでに金を受け取っているという。

なんとか母親から金を取り戻したはいいが、その金を九平次という知り合いに騙し取られてしまう。
そして、取り返そうとして、逆に殴られ蹴られる始末。
絵に描いたような優男である。

絶望した徳兵衛とお初が死ぬ決意をするまでの流れがリアルだ。
九平次と話をするお初が、自分の足をこっそりとおろして、縁の下にいる徳兵衛と、互いに死ぬ意思を確認するシーンが秀逸だ。

最後の夜、道行く二人が「心中江戸三界」という今でいうラブソングに自分たちの姿を重ねる場面も、今の恋愛事情とそう変わらない。

そして、曾根崎天神の森で二人は心中する。
二人が死ぬまでの描写もリアルである。
というか、脇差で咽喉を突く描写は、写実的に過ぎていると言っていいかもしれない。

実に悲惨な最後だが、「徳兵衛とお初こそまさに、来世で仏になること疑いのない、恋の手本である。」という締めの文に若干違和感を覚える自分は、こういう物語を好んで聞いていた日本人の感性から離れてしまっているのだろう。

いとうせいこうの新訳は、とても読みやすい。

女殺油地獄(おんなころしあぶらのじごく)は、油屋「河内屋」の次男で、なにかと問題を起こしている与兵衛が、「河内屋」の向かいの同じ油屋「豊島屋」の美しい人妻 お吉を惨殺する物語で、曾根崎心中に比べると、ずいぶんと現代的な雰囲気を感じる。

まず、与兵衛という社会にうまく適合できない青年が、ふとしたことをきっかけに犯罪を犯してしまう設定は、現代社会でもありふれた事である。
そして、被害者となったお吉が、開放的で面倒見のよい性格で、唯一、与兵衛に優しくしていたという関係でありながら、いや、むしろ、そのせいで、与兵衛に金を貸すのを断り、惨殺されてしまうという不条理な結果も現代的である。

そして、この物語の特筆すべき点は、やはり、油まみれになって、与兵衛がお吉を刺し殺す場面だろう。曾根崎心中同様、死に至るまでの描写が写実的に過ぎている。

死にゆくお吉が自分の三人の娘を残してゆく無念のことばを描いていることからも、この場面は、殺人の残虐性が表立っているが、殺人の前の与兵衛からお吉への不義の誘いと、抱き寄せて、くどいまでお吉の体を突き刺す与兵衛の行動には、どこか暴力的な性の力を感じる。
油と赤い血が混じり合う場面も、見方によっては、官能的ともいえる。

作品としては、与兵衛が獄門首となり、悪は処刑されたという勧善懲悪的な終わりであるが、上記のような、それでは収まりきれないような印象を与える作品としての力があるため、現代的と感じるのかもしれない。

この作品は、江戸時代に再演記録がなく、台本も現存していない異色作らしいが、上記のようなダークサイドの力のせいかもしれない。

桜庭一樹の新訳は、与兵衛がその辺にいる駄目な青年の一人であるかのように憎めない一面を自然に描いているところがいいと思う。

2016年10月24日月曜日

業物語/西尾維新

本書の主役は、3人。

吸血鬼キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードこと、忍野忍と、阿良々木暦の妹の一人 阿良々木火憐、そして、暦の友人である羽川翼である。

「うつくし姫」は、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが吸血鬼になる前の美しいアセロラ姫の呪われた境遇を童話にした短文。

 「あせろらボナペティ」は、そのアセロラ姫を食べることに情熱を感じているデストピア・ヴィルトゥオーゾ・スーサイドマスターという吸血鬼が、彼女を食べようとトライするが何度も失敗し、終いに、自分の境遇がいやになったアセロラ姫の希望で、彼女を吸血鬼にするという話。
最後の一文だけ、意外性があり、面白かった。

「かれんオウガ」は、武道の達人である阿良々木火憐が、ついに師匠に免許皆伝を言い渡され、最後の試練として、山籠もりすることになる。
体力は抜群の火憐だが、今一つ常識と知恵を持ち合わせていない火憐を心配し、兄の暦が、忍野忍に助っ人を頼むという物語。
案の定、3つの山越えで、 ピンチに陥る火憐を年齢を変えた忍が登場し助ける訳だが、これも、最後のほうで、意外な事実が明かされる。

「つばさスリーピング」は、終物語で、羽川翼が、阿良々木暦を救うため、忍野メメを探しに世界中を旅していた時期にドイツで体験した怪異譚である。

傷物語でも登場したドラマツルギーが忍野メメの行方を知っているかもしれないので、その情報を聞き出すため、彼の仕事である双子の吸血鬼退治に協力するという話だ。

物語中、羽川翼が、悲観主義のドラマツルギーに対して、いい事をいう。

「常に最悪のケースを想定して動いたら、確かに最悪のケースは避けられるかもしれないけれど、だけど最高の想定には、辿り着けないじゃないですか。チャンスをつかみたいなら、あらかじめチャンスを想定しないと」
幸せな自分をイメージできない人間は、幸せになれない―つくづく思うけれど、そういうことである。

そのポジティブ思考をきっかけに、羽川翼が窮地を脱するという話。しかし、この怪異譚以外にも、忍野メメを探し当てるまでに色々と事件があったらしいことが文末に感じられる。

2016年10月23日日曜日

リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください/井上達夫

法哲学を専門とする著者が、様々な時局的問題を取り上げつつ、法哲学の視座から筋道を立てて考察するプロセスを分かりやすく説明している。

著者はリベラリズムを「自由主義」とするのは誤訳で、リベラルの基本的価値は自由ではなく、正義だという考えから、「正義主義」とでも言ったほうがよいと述べている。

リベラリズムには、「啓蒙」と「寛容」の二つが歴史的起源としてあり、啓蒙主義は理性を重視し、理性によって蒙を啓くこと。因習や迷信を理性によって打破し、その抑圧から人間を解放する思想運動。

寛容は、自分と視点を異にする他者からの異議申し立てや攪乱的影響に対し、自分のアイデンティティを危うくする恐れもあるが、前向きに受け入れ、それによって自分が変容し、自分の精神の地平が少し広がっていくことを許容すること。

さらに「正義概念」に共通する規範的実質は、「普遍化不可能な差別の排除」と述べている。

自分の国だから、あるいは、自分の子供だから特権的に扱われるべきだというような、当事者の個体的な同一性に依拠しているような差別は、普遍化できないので排除されなければならないという考え。

この「普遍化不可能な差別の排除」という正義の概念にかなっているかどうかを、見分ける手段があるという。

一つは、自分の他者に対する行動や要求が、もし自分がその他者であったとしてもうけいれられるかどうか、自分の視点だけではなく、他者の視点からも拒絶できないような理由によって正当化できるかどうか、というテスト。「反転可能性」テストと呼ばれるもの。

二つ目は、「ただ乗り(フリーライド)」の禁止。自分のみ便益を得るだけで負担は他者に転嫁する姿勢の否定。

三つめは、二重基準(ダブルスタンダード)の禁止。自分の他者に対する要求を正当化するための基準を、別の状況で同じ基準を適用すると自分に不利な結論が正当化されてしまう場合、別の基準を援用して、自分に有利な結論を導こうとすること。

このようなリベラリズムの観点から、国歌斉唱・国旗掲揚問題、慰安婦問題、ドイツと日本の戦争責任、集団的自衛権の行使、天皇制、靖国問題、日本的会社主義(過労死問題含む)など、様々な時事的な問題について、著者がどう考えるかということが述べられていて、実に刺激的な本だ。

なかでも印象深かったのは、憲法9条の問題で、護憲派が「専守防衛の範囲なら自衛隊と安保は9条に違反しない」という早稲田大学の長谷部教授などの考えを、無理があると批判しているところだ。

およそ通常の日本語感覚で、現憲法9条を読むと、到底、自衛隊と安保を保持することはできない。これを旧来の内閣法制局見解は、“解釈改憲”していたに過ぎず、護憲派がこの見解を拠り所にすることは、自分自身が解釈改憲をやっているのだから、安倍政権の解釈改憲を批判できないだろうという考えだ。

<著者の考えに興味がある人はこの本を読んでください。ここに書く文量では誤解を招きかねないので控えます>

もう一つ興味深かったのは、天皇制について、天皇・皇族には職業選択の自由がなく、政治的言動も禁じられ、表現の自由もなく、国民が自分のアイデンティティを確保するために、天皇・皇族を奴隷化しており、反民主的であるから廃止せよという考え。

著者は天皇の業績(ハンセン病患者の施設訪問)に好意を持ちつつも、「老齢の夫婦が体にむち打ってそこに行かなければならない、そうしなければ日本国民の関心がそこにいかない」という現状、日本国民統合のための記号として奴隷的に使役している実態を批判している。

現役の法哲学者が、歯に衣着せぬ発言を正々堂々と行っているところが、とても刺激的で、好感が持てる本である。

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個人的な話だが、実は、私は井上先生の法哲学の講習を受講したことがある。
当時、法律嫌いの私が、唯一大学で真面目に勉強したのが、井上先生の法哲学講座ではないかと、今でも思うことがある。

教科書は、先生の代表作の「共生の作法―会話としての正義」で、ゼミ形式ではなかったが、先生の講座はいつも面白くて刺激的だった。

講義の終わり、居酒屋で先生とお酒を飲んだとき、当時の時事ネタに鋭い突っ込みを入れていた様子を、本書を読んで、まざまざと思い出し、「全然変わってない!」とあらためて懐かしく思った次第である。

https://www.amazon.co.jp/%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AF%E5%AB%8C%E3%81%84%E3%81%A7%E3%82%82%E3%80%81%E3%83%AA%E3%83%99%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AF%E5%AB%8C%E3%81%84%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%A7%E3%81%8F%E3%81%A0%E3%81%95%E3%81%84-%E4%BA%95%E4%B8%8A%E9%81%94%E5%A4%AB%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E9%81%94%E5%A4%AB/dp/4620323098

2016年10月18日火曜日

近現代詩歌 詩 池澤夏樹選/日本文学全集 29

池澤夏樹が選定した明治から現代に至る四十一人の詩人の作品を読むことが出来る。

生まれの早い順から詩人を並べただけなのだが、その詩人の詩がうまく繋がるように配置されているように思える。

こころに残った詩を挙げてみると...

樹々の二人/高村光太郎
 あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 の2つだけが浮かぶシンプルな冬の風景がいい。

初夜/堀口大學
 何一つ下品なことばがないのに、ここまでエロティックなイメージが描けるなんて

俗謡「雪をんな」/佐藤春夫
 どことなくユーモアが溢れている

帰郷/中原中也
 あヽ おまへはなにをして来たのだと…… 吹き来る風が私に云ふ
  久々に中原中也の詩を読むと、なぜか若い時分の自分の姿が思い出されて、恥ずかしい。

わたしが一番きれいだったとき/茨木のり子
 歳をとることは楽しいことなんだという気分にさせてくれる

2016年10月16日日曜日

ミシェル・オバマのスピーチ

アメリカ大統領選挙をめぐる報道が、最近あまりにも下品な内容になってきていることに眉をひそめている人も多いと思うが、一連の問題を引き起こしているトランプ氏の言動を真っ向から否定したミシェル・オバマのニューハンプシャーにおけるスピーチの見事さに感じ入ってしまった。



オバマ夫人は、今週はとても対照的な出来事があったと話す。

その出来事の一つは、 彼女が、10月11日の国際ガールズ・デーに、世界各国の女子をホワイトハウスに招いて、"Let Girls Learn"(女子に教育の機会を)の運動を祝ったということ。

オバマ夫人は、言う。

彼女たち自身がどれだけかけがえのない存在であるかを再認識させることが重要であり、彼女たちに、あらゆる社会を計る尺度は、女性をどう扱うかによるのだということを理解させたかったと。それから、彼女たちと話して、とても元気をもらったということを。

そして、もう一つの出来事、大統領選挙における候補者(名前は出していない)の女性に対する一連の侮蔑的な言動に触れる。

オバマ夫人は、言う。

And I can't believe that I'm saying that a candidate for president of the United States has bragged about sexually assaulting women.

自分がこれから言うことが信じられませんが、アメリカ大統領の候補者が女性への性的暴行を自慢したのです。

It has shaken me to my core in a way that I couldn't have predicted.

それは予想できないほど、私の心の底を揺さぶりました。

This is not something that we can ignore...Because this was not just a "lewd conversation". This wasn't just locker-room banter. This was a powerful individual speaking freely and openly about sexually predatory behavior, and actually bragging about kissing and groping women, using language so obscene that many of us were worried about our children hearing it when we turn on the TV.

これは無視できることではありません。...何故なら、これは単なる"卑わいな会話"でも、ロッカールームでの軽口でもないからです。これは、権力者が、自由にかつ公然と、性的暴力の振るまいについて、女性にキスして体を触ることを、実際に自慢していたのです。テレビをつけたときに、子供たちが聞くのが心配になるような猥褻な言葉を使って。

The shameful comments about our bodies. The disrespect of our ambitions and intellect. The belief that you can do anything you want to a woman.

私たちの体についての恥ずべき発言。私たちの意欲や知性に対する軽蔑。女性には、したいことは何でもできるという信念。

We thought all of that was ancient history, didn't we? And so many have worked for so many years to end this kind of violence and abuse and disrespect, but here we are, in 2016, and we're hearing these exact same things every day on the campaign trail.

そんなことはすべて過去のことだと思っていましたよね。 多くの人々が何年もかけて、こんな暴力や虐待、侮辱を終わらせようと働いてきました。なのに、この2016年に、私たちは選挙戦で毎日まったく同じことを聞かされています。

Too many are treating this as just another day's headline, as if our outrage is overblown or unwarranted, as if this is normal, just politics as usual.

その日のヘッドライン程度にしか取り扱わない人が多すぎます。まるで、私たちの怒りが大げさで、正当な根拠がないように、まるで、これは正常なことであり、ごく普通の政治であるかのように。

But, New Hampshire, be clear. This is not normal. This is not politics as usual. This is disgraceful. It is intolerable.

しかし、ニューハンプシャーのみなさん、はっきりさせましょう。これは正常なことではありません。普通の政治でもありません。これは、恥ずべきことであり、容認できないことです。


以下に、この日のスピーチの全文が載っている。
http://www.npr.org/2016/10/13/497846667/transcript-michelle-obamas-speech-on-donald-trumps-alleged-treatment-of-women

このスピーチを聞いて思ったのは、間違っていると思ったことは間違いと言わなければならないという、とてもシンプルなことだ。

しかし、当たり前のことを公に主張するということは、強い自制心と意思を必要とするものなのかもしれない。

相手の品の無さに感情的にならないよう、抑制しながら、聞く者には、常套句にならないことばの新鮮味と自分の強い思いを伝えなければならない。

このスピーチにおけるミシェル・オバマには、全世界の女性を代表していたかのような品格と迫力があった。

選挙戦は過去最悪のクオリティを呈しているが、彼女のような大統領夫人を持つアメリカを、私は、やはり全否定できないでいる。

2016年9月25日日曜日

翔ぶが如く/司馬遼太郎

明治維新は、大改革だった。

十九世紀の帝国主義の真っ只中、欧米の列強に植民地にされるという恐怖心から、その革命は起こり、日本は、封建制度を廃止して、近代国家を目指すことになった。

そして、新政府の要職には、維新を主導した公家と薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥後藩の出身の武士たちが就いた。

彼らの一部は、自分たちを脅かす列強とは何者か、近代国家とはどんな国なのかを知らなかった。だから、そのイメージを掴むため、外遊することになった。そんな所からのスタートだった。

大変な時代だったと思う。工業化された近代国家のイメージは掴んだものの、軍隊や警察制度の創設など、近代国家を作るには、とにかく金がかかる。

米穀中心の経済だっため、輸出産業はないに等しく、お金はない。
農民たちは、コメの代わりに金銭による税の負担を課され、以前より生活が苦しくなり、武士は廃藩置県により、職を失った。

新しい社会に誰もが満足していなかった。
彼らの不満の矛先は新政府に向かった。

新政府において、最も力を有していたのは薩摩藩で、その薩摩を率いていた両巨頭が、西郷隆盛と大久保利通の二人である。

西郷隆盛は、薩摩に留まらず、全国の士族から武士として尊敬される存在であり、大久保利通は、困難に満ちた日本の近代化を推し進める明治政府の実務家の中心的な存在だった。

その二人が、征韓論の対立を機に、袂を別ち、西南戦争で戦うことになってしまう物語だ。

物語は、大きく3つに分けられると思う。

第一部は、“小大久保”とも言うべき大警視の川路利良と、小西郷”とも言うべき陸軍少将 桐野利秋の動きを通して、新政府の重要人物たち、木戸孝允、伊藤博文、山縣有朋、江藤新平、大隈重信、岩倉具視、三条実美の姿を描きながら、大久保と西郷が征韓論をめぐり、激しく対立し、西郷が薩摩に帰ってしまうまで。

第二部は、江藤新平が中心となって起こした佐賀の乱を、大久保が迅速かつ徹底的に叩きのめし、西郷を中心とする反政府勢力に圧力をかける。これを受け、薩摩は、西郷を中心とした“私学校”という一種の反政府組織を作る。一方、大久保は、士族の不満のガス抜きのため、台湾出兵を行うが、それがきっかけで清国と事を構えてしまい、大久保自ら解決のため北京に赴き交渉を行う。

第三部は、神風連の乱(熊本)、荻の乱(山口)を鎮圧した新政府が、薩摩に密偵を送ったことで、西郷暗殺の目的との噂が広まり、ついに“私学校”が挙兵を決定し、西南戦争が始まってしまう。
そして、激闘のすえ、西郷は死に、戦争終了後、大久保もテロに倒れる。

はじめて読んだときは、非常に読みづらい作品だと感じた。司馬遼太郎の筆が何度も同じ繰り言を繰り返しているような印象を受けた。

その原因は、司馬の西郷に対する戸惑いが見え隠れしているせいだろう。

勝海舟に、“人物”とまで言われ、幕末から維新にかけては、巧緻と言えるほど政治的決断と行動力に優れていた西郷が、維新後は、まるで抜け殻のようになってしまっていることに、司馬自身、納得がいかないまま、筆を進めたせいだろう。

一方、様々な難題を放棄せず、実務をこなしていく大久保の政治力と責任感は、現代に通じる価値観につながるものがあり、分かりやすい魅力に満ちている。
個人的には、大久保が清国と交渉する上記第二部が好きだ。

それにしても、大久保が、彼が計画していた明治三十年まで生きていたら、日本はどう変わったのだろうと思わずにはいられない。

近代化の流れの中で、西郷の死はほとんど必然だったような気がする。どう転んでも、彼は消えゆく存在だった。
西郷がもっとも大切にしようとしたものは、“武士の精神”であり、彼はそれを最後まで体現していた人物だった。

日本の価値観の代表格として、いまだに“武士道”が挙げられている。それは、もはや実態がない歴史のなかで空想するしかないものだが、日本には、その代わりになるもの、拠り所が未だに見つかっていない。

日本人が、いまだに西郷を好むのは、失った価値観の大きさに対する郷愁のようなものなのかもしれない。

2016年9月19日月曜日

愚物語/西尾維新

物語シリーズは終わったはずだが、老倉育(おいくら そだち)と、神原駿河(かんばる するが)、阿良々木月火の後日談が語られている。

第一話の老倉育の話は、あまりにも暗すぎる。読んでいて気が滅入るし、何より、彼女が転校先の学校で関わるクラスメイトたちの顔や表情が全く思い浮かばない。

私が最もひっかかったのは、老倉育がクラスメイトの秘密を暴露するシーンなのだが、おそらく、この物語で最も盛り上がるべき場面であり、肝(キモ)にしたかったであろうスマートフォンの画面がまったく具体的に描かれていないせいで、老倉の必死さも、クラスメイトの陰湿さも、イメージがぼやけてしまっているところだ。

これだけ暗いテーマを選んだのなら、とことん、その暗さを描き切れば、まだしも、中途半端な書き方に終始しているせいで、評価は最悪である。

第二話の神原駿河の話は、花物語で無くなったはずの木乃伊の一部が、再び、彼女の目の前に現れるという物語で、忍野扇(この物語では男)とともに、その謎解きをするというあらすじだ。

ポーの黄金虫を意識して、暗号を解くお馴染みの推理小説仕立てであるが、神原駿河が、彼女なりの正義感を感じて、木乃伊取りを今後行っていくことに前向きになったところが、この物語らしい。

文中、羽川翼の新たなトラブルに阿良々木が関わっているというところが若干気になる。

第三話の阿良々木月火の話は、式神の斧乃木余接(おののきよつぎ)が、不死鳥の怪異である阿良々木月火の監視のため、阿良々木家に“人形”として潜入するのだが、アイスクリームを食べているところを月火に見つかってしまい、実は人形でないことに気づかれてしまう。

月火にサラダ油をかけられ、燃やされてしまうリスクを避けるため、余接は、魔物退治という話をでっち上げ、その魔物作りのために、千石撫子に蛞蝓のイラストを書いてもらうという変な展開になる。

しかし、撫子の書いた蛞蝓のパワーが思ったより強力なせいで、本当の魔物と化した蛞蝓に余接と月火はピンチに陥ってしまうという物語だ。

この第三話が、一番馬鹿馬鹿しくて面白かった。

2016年9月10日土曜日

歳月/司馬遼太郎

司馬遼太郎の作品の中でも、「翔ぶが如く」と「歳月」は、一度ページを繰りはじめると、読みふけってしまう作品である。

理由は、この作品で描かれている薩摩の大物政治家 大久保利通が好きなのだと思う。

北海の氷山に逢うが如し と称されるほど、冷血な政治家として描かれているが、重要なことであれば、どんなに非情な策でも実行してしまうほど、国家の存立に命を懸けた政治家は、その後、皆無ではないのかと思うほど、魅力的に描かれている。

なかでも、大久保が、盟友である西郷隆盛と遂に袂を別つことになった征韓論をめぐるやり取りは、この二作品でも、その後の西南戦争につながる大きな事件として取り上げられている。

「歳月」は、佐賀藩の小役人の家から、抜群の論理力と事務能力で、参議 司法卿の地位まで上りつめた江藤新平が、征韓論をめぐる政争で西郷に加担して敗北し、明治政府に対して、佐賀の乱を起こし、処刑されるまでを描いている。


明治政府は、戊辰戦争で勝利した薩摩(鹿児島)、長州(山口)、土佐(高知)、肥前(佐賀)の出身者と公家の出身者で構成されていた。

薩摩は、西郷隆盛、大久保利通
長州は、木戸孝允と伊藤博文
土佐は、後藤象二郎と板垣退助
肥前は、副島種臣、大隈重信、そして、江藤新平
公家は、三条実美、岩倉具視

各藩の個性も分かりやすく、
薩摩は、武力・財力ともに力があり、最も現実主義的なしたたかな政治を行う。
長州は、薩摩に次ぐ維新の功があり、優秀な人材も多いが、多少、書生の雰囲気が漂う。
土佐は、薩摩と長州の調整役として働き、自由民権的な雰囲気が濃厚。
肥前は、吏才に優れた人物が多いが、議論だけで実行力がないと言われている。

物語は、 佐賀藩の小役人の家から、抜群の論理力と事務能力で、参議 司法卿の地位まで上り詰めた江藤新平が、征韓論をめぐる政争で敗北し、地元の佐賀で政府に不満を抱く士族たちに焚き付けられ、佐賀の乱を起こし、大久保に処刑されるまでを描いている。

この物語中、最も読み応えがあるのは、やはり、大久保利通が、江藤を罠に嵌めたかのように死に追い込むまでの圧倒的な権謀力であろう。

大久保は、江藤を、 征韓論を奇貨として明治政府の重職を締める薩長を離反させ、国家を壊そうと画策している輩と見た。

江藤が参議を辞職し、佐賀に戻るや否や、実際に反乱を起こす前に、彼を反逆者に仕立て上げ、天皇からこの件に関する行政と軍事の全権委任を得て、現地に乗り込み、わずか2ヶ月たらずで、江藤を捕縛し、強引なまでに無法な裁判を行い、二週間後には、江藤を除族のうえ、梟首(さらしくび)の刑に処した。

その徹底した非情さは、彼の死を、西郷を中心とする薩摩士族に対する牽制の道具として使いきったところにも表れている。


有能な政治家とは、稀代の悪人と同じといっていいほどの性質を有しているのかもしれない。
その事実をリアルに描く司馬遼太郎の政治劇は、今読んでも飽きない。

2016年9月4日日曜日

NHKスペシャル シリーズ MEGA CRISIS 巨大危機 ~脅威と闘う者たち~ 第1集 加速する異常気象との闘い

この番組で衝撃を受けたのは、地球温暖化が2014年以降、急激に上昇していることを示すグラフだった。

なぜ、2014年から急激に上昇してしまったのか、番組では直接の原因をはっきりと明示していなかったが、北極の氷が融けることによって、また、アラスカやシベリアでは永久凍土が融けることによって、温暖化の加速要因となるメタンガスの大量放出が起きているらしい。

恐ろしいのは、この温暖化の勢いは止めることができず、数十年は続くということだ。

結果として、現在起きている異常気象、スーパー台風の発生、台風の北上、局地的な豪雨、雷の多発は、今後日本において、ますます増える傾向にあるらしい。

とりあえず、我々に出来ることは、天気の急変などを通知してくれるツールを使うなどして、できるだけこまめに気象情報を確認し、身を守ることしかないようだ。
気象庁の高解像度降水ナウキャスト が紹介されていた)

番組では、東京の最高気温が摂氏42度になる未来を予想していたが、2020年東京オリンピックの最大のリスクは、この温暖化問題なのかもしれない。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160904
 
<参考>
気象庁のデータを利用して、雨の事前通知をしてくれるアプリもあるらしい。
https://itunes.apple.com/jp/app/gao-jie-xiang-du-jiang-shuinaukyasuto/id911420224?mt=8

2016年9月3日土曜日

新選組血風録/司馬遼太郎

この本は、もう数え切れないくらいの回数で読んでいる自覚がある。

(横尾忠則デザインの表紙がいい)

新選組が好きなのか、司馬遼太郎が好きなのか、たぶんどちらも当てはまるのだと思うが、読んでいて飽きない。

幕末は、日本刀をもって武士が闘うことができた最後の時期で、その締めの打ち上げ花火のような役割を、結果として新選組が果たした。
しかも、その新選組の中心人物は、武士でもない農民出身の局長 近藤勇と副長の土方歳三だったことも面白い(もう一人の中心人物 一番隊長の沖田総司は武士の出身だったらしい)。

この幕末における特殊警察隊は、多いときには200名ほどの隊士がいたが、様々な人々が入っては消えた(大体が仲間内で殺された)。

「血風録」でも、土方が作った「法度」により、大物幹部が粛清される話が多く取り上げられている。

「油小路の決闘」における、インテリ風の伊東甲子太郎とその仲間たち
「芹沢鴨の暗殺」における、酒乱狂暴な剣豪 芹沢鴨とその仲間たち
「鴨川銭取橋」における、時勢に乗り遅れ、焦り、薩摩に通じてしまった武田観柳斎
「槍は宝蔵院流」における、近藤勇の養子問題でしくじった槍の谷三十郎

「燃えよ剣」でも山南敬助が切腹させられているが、この他多くの平隊士が「士道不覚悟」などの罪で切腹に処せられた。

こんな暗い内部粛清を繰り返した組織には本来魅力はないはずだが、隊の結束を緩めず滅びゆく徳川幕府の屋台骨を旗本でもない新選組が支えたことが、人の心を打つのかもしれない。

なお、本書には、大島渚の遺作となった「御法度」の原作である「前髪の惣三郎」と「三条磧乱刃」も収められている。

映画は、ほぼ、原作に忠実に作られているといっていい。

しかし、外国人には、歴史の背景が理解できないと、何の物語なのか、よく分からなかったでしょうね。

(坂本龍一の音楽がいいですね)

映画では、閉鎖された組織における歪んだ同性愛の雰囲気が濃厚に描かれているが、原作では、どちらかというと、井上源三郎のいかにも田舎の中年男の人の良さと沖田総司の利発な子どものような清潔感が漂っている。

こういう場違いに善人めいた隊士がいたことも新選組の人気を支えている一つの要因なのだと思う。

司馬遼太郎が書いた、その他の新選組の短編としては、沖田総司が脛打ちの柳剛流に苦闘する「理心流異聞」と、これまた、土方に間接的に粛清される隊の幹部である松原忠司を描いた「壬生狂言の夜」があるので、興味がある人はぜひ。いずれも、「アームストロング砲」(講談社文庫)で読める。

脛打ちの柳剛流については、下品な剣術と言われたが、その防ぎ方が分からないと、思わぬ番狂わせが生じるほどの戦力になったらしい。

「燃えよ剣」でも、土方が脛打ちで、上段者の体勢を崩し、斬り殺す場面が出てくる。

2016年8月28日日曜日

日本語のために/池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 30

池澤夏樹 個人編集の日本文学全集は、従来の日本文学全集とは全く趣きが異なっている。

一般的な日本文学全集は、ほとんどが明治以降の文学を取り上げるのが常であるが、この全集では、はるか古事記まで遡り、全巻の半数以上に、明治以前の古典作品を取り上げたことだ。

しかも、ただ掲載するだけではなく、現代の力のある小説家たちに現代語訳され、今の読者が読みやすい形で、いわば、現代文学と並列な状態で提供している。

その現代語訳の力もあるだろうが、結果的に、読者は、古典文学と現代文学が連綿と継続し、今日に至っているのが、日本文学であると感じることになる。

そういった背景を考えると、普通であれば、日本文学全集には存在しない、日本語とは何かという大きなテーマを取り上げた本書が、全集にあっても不思議ではない。

池澤夏樹は、この全集の締めの30巻において、日本語の歴史をはるかに遡り、現代日本語に至る進化(退化?)の過程を敷衍するためのさまざまな文章を集めた。

目次を見るだけで面白い。



上記10の収録作品が切れてしまっているが、文法なんか嫌い/大野晋 と 私の日本語雑記/中井久夫 も収められている。

まず、宗教の書物を取り上げているのが、なんともユニークだ。
仏教もキリスト教も、言語は、漢文、英語だから、翻訳もついている。

伊藤比呂美の「般若心経」は、非常にプレーンな現代語訳になっている。
マタイによる福音書のケセン語(岩手・宮城の気仙地域)訳は、方言を用いると、こんなにも説話がリアルにもなるのか、と驚いた。

琉球・アイヌといった辺境の言葉を取り上げているのも、池澤夏樹らしい。
琉歌という和歌が存在しているとは、これまで全く知らなかった。
アイヌ語は日本語とはまったく系統が違う言語であることもよく分かる。

個人的には、やはり、日本語の欠点・短所を鋭く突いている以下の文章が、非常に参考になった。

 9 政治の言葉 の
  言葉のお守り的使用法/鶴見俊輔、
  文章論的憲法論/丸谷才一

 10 日本語の性格 で取り上げられている全ての文章

特に、 丸谷才一の「文章論的憲法論」は、相変わらずの明晰な文章で、明治憲法(大日本帝国憲法)と日本国憲法を文章論から比較しており、日本国憲法の改正の動きがある今読むと、なかなか味わい深い。

また、大野晋の「文法なんか嫌い」の「は」と「が」の使い方を読んで、あらためて、自分の文章が読みやすさを欠いた表現をしていることに気づかされた。

いきなり、1 古代の文体 から読まずとも、興味のあるところから読み進めればよい。
買って損なしの一冊だと思う。

2016年8月21日日曜日

映画 傷物語Ⅱ熱血篇

Ⅰ鉄血篇から、はや7ヶ月。

懲りずに、Ⅱ熱血篇を観た。

キャラクターの描き方、夜をメインにした都会の薄暗い街の風景、だだっ広いホテルの廃墟のような学習塾跡、異常に広い直江津高校の校庭などの描き方、神前暁のボサノヴァ風の音楽も、前作同様といった感じで、今回特に感じるところはなかった。

物語も、三人の吸血鬼ハンター、ドラマツルギー、エピソード、ギロチンカッターと暦の闘いがメインで、あまり物語としての深みはなかったと思う。

唯一、厚めに描かれていたのは、暦と羽川翼のとりとめもない会話のシーンで、 翼のパンツの話や、暦が買ったエロ本や細マッチョな体の話など、お互いの性を意識するような内容が散りばめられており、見ているこちらとしては若干気恥ずかしくなるような初々しさだが、まあ、十代が見るアニメとしては妥当な内容なのだろう。

今回唯一面白いと思ったのは、ドラマツルギーから取り戻したキスショットの体(足)が入っていたのが、“MADISON SQUARE GARDEN”のバッグだったということだ。(羽川翼が暦に着替えを差し入れた バッグも同様)

この懐かしさは、往時の流行を知っている世代だけのものかもしれない。
(しかし、最近は全く見かけなくなったなぁ)

エンドロールの最後に、Ⅲ 冷血篇の声だけの予告あり。(2017年1月6日公開らしい)

それと、入場者には、「混物語 第病話 くろねこベッド」と題した小冊子が配られた。
阿良々木暦が、吸血鬼となった春休み以降、体育の時間中、怪我をして保健室に行き、そこで、病院坂黒猫から、暗号文の解読を依頼されるというショートショートが書かれていた。
(タネ、オチともに、それほどの内容ではないところが、おまけにぴったり)

2016年8月20日土曜日

沖縄 空白の1年 ~“基地の島”はこうして生まれた~ /NHKスペシャル

1945年6月から1946年にかけて、沖縄に、普天間飛行場、嘉手納飛行場など、米軍基地が作られた経緯と背景を取り上げていた番組で興味深かった。

1945年6月、多くの民間人が犠牲となった沖縄戦の後、約30万人の沖縄の人々は、平野にあった自分たちの村から追い出され、山間部の強制収容所に収容された。

アメリカが日本本土を攻撃する滑走路を建設するため、平野部にいた住民を追い出したのだ。

手足を伸ばして眠れない四畳半ほどの狭いスペースに押し込まれ、食料も満足にない、伝染病が蔓延する環境の中、約6000人の人々が命を落としたという。

1945年8月の日本降伏後、本来であれば、それは不要になるはずであったが、統合参謀本部のマッカーサーは、滑走路のアスファルト化を推し進める。中国・ソ連といった共産主義国の前線基地として沖縄を利用しようとしたのだ。

ようやく収容された人々が解放され、自分の村に戻ってみると、そこは米軍の飛行場になっていた。
自分たちの食料をつくり出す農地も無くなり、仕事も失った人々を、米軍は基地の労働力として利用し始める。無償で配給していた食料も有償化し、「B円」(米軍の軍票)を発行して、基地で働かざるを得ない環境を作りだしていった。

日本では評判のいいマッカーサーだが、日本本土にいた約10万人の沖縄出身者を強制的に沖縄に戻す計画を立案し、実行する。理由は、「日本本土に在住する沖縄人は本土に依存しており、本土復興の妨げになっている」という冷徹なものだった。

民主主義を謳歌する本土から沖縄に戻った人の言葉が突き刺さる。
「沖縄には民主主義がなかった。沖縄は軍事基地だった」と。

日本政府は、沖縄を日本の領土として認めてくれるならば、基地を作ることには反対しないという姿勢だった。

そんな日本政府(本土)を見て、マッカーサーが放った言葉が今日に至る沖縄問題の本質を言い当てている。

「日本人はアメリカによる沖縄占領に反対しない。何故なら沖縄人は日本人ではないからだ」と。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160820

2016年8月1日月曜日

一寸法師後日譚/大岡昇平 日本文学全集 18

大岡昇平が書いた昔話のパロディのような作品だ。

物語は、作者が、一寸法師を読み、打ち出の小槌で一寸法師が大きくなり、

「出世した一寸法師ほどつまらない存在はない。恐らくその妻となった宰相の姫君も、同じに感じたことはなかったろうか。」

と空想にふけるところから始まる。

一寸法師は、堀川中納言と名乗り、格好も年相応に腹も突き出た恰幅のよい姿になり、殿中の政治事にも抜け目なく立ち回りができる大人の男になっている。

そういう実務的な一寸法師に満たされぬものを感じている奥方に、入野少将という色好みの聞こえの高い若い男が言い寄る。

奥方が、昔の一寸法師の惚気話をしたところ、この少将が、是非、一寸法師になって奥方の歓心を買いたいと申し入れたため、奥方は小槌を打ち振るい、少将は本当に一寸法師になってしまう。

ここからは、 少将の悲劇(艶笑話)なのだが、大岡らしく、人が一寸ほどの大きさになると、女性の肌の表面や体毛、肌のぬくもりをどんな風に感じるのかをリアルに描いている。

やがて、事態がどうしようもなくなり、最後に本物の一寸法師である堀川中納言が解決してくれるのだが、彼が神の国への立ち去ってしまう理由を

「平安朝の感傷主義と恋愛三昧を見て、人間共に愛想を尽かし...」

と述べているところが笑える。

一寸ほどの極小の男の目を通した巨大化された女性の体との関係は、どこか卑猥なイメージを連想させる力があるのかもしれない。

倉橋由美子の 『大人のための残酷童話』でも、一寸法師を取り上げていて、こちらも、艶笑話的な内容になっているので、読み比べてみるのも面白い

2016年7月31日日曜日

『武蔵野夫人』ノート/大岡昇平 日本文学全集 18

大岡昇平が『武蔵野夫人』を書く上で、登場人物、テーマ、物語の展開、構成を考えるうえで、書きつけた10ページに満たない文章なのだが、読み進めると、この物語の輪郭がくっきりと浮かび上がる点で興味深い。

例えば、登場人物について。

富子を、女主人公Ⅱ と位置づけ、重視している点は意外である。

「三人の男の犠牲者としてのコケット。男を信じることが出来ない女は、自分を信じることが出来ない」とも書いていて、富子の心の闇が暗示されている。

道子については、以下のとおり。

「女主人公は夫を愛し得ず、それを自ら責めていなければならない。不感症の自覚。」

「彼女はいつも自殺を考えていなければならぬ。あるいは失敗の経験者。」

「女主人公の名、道子は封建的な因習を象徴する。」

そして、この二人を、「夫を愛し得ぬ女達。」 と書いている。

勉については、

「主人公は馬鹿の色男」

「主人公は無為でなければならぬ。」

「「家」がついていてはならぬ。 」

「主人公の破壊力は戦争の経験からあらゆる社会的紐帯への不信。」

「本気で嘘が吐けること、これを勉の性格とする。」 と輪郭を明確にし、

「彼は女達の「家」を破壊する。」 と予言しつつも、

「主人公の破壊力は「家」を破壊しなかった。女主人公を破壊しただけだった。」

と、この物語の主テーマを探り当てている。

このノートは、最後に、道子と勉の「誓い」 についても、コメントされていて、

「誓いの敗北―あまりに手軽に屈従された運命には、人生の方で満足しない。」

という大岡の現実的な容赦のない裁断が述べられており、物語は、そのとおり、二人に悲劇が訪れるのだが、作家というのは、やはり、善人では務まらない稼業なのかもしれない。

2016年7月14日木曜日

参院選挙直後の天皇の生前退位のご意向

天皇の生前退位のご意向は、安倍政権が企んでいる憲法改正を阻もうとするものではないか、という驚くべき説が、ネットで流れている。

NYタイムズも、ストレートな言い方ではないが、やんわりと、その事を示している。
http://www.nytimes.com/2016/07/14/world/asia/emperor-akihito-abdicate.html?_r=0 

文末から、2パラ目の以下の部分。
“counterpoint”が微妙な意味の単語だ。(対照、対比の意味か)
Although the emperor has no official political authority, Prince Naruhito could offer a counterpoint to Mr. Abe’s goals. He has repeatedly commended the pacifist Constitution written by the American occupiers in 1947. On the eve of his 55th birthday, in 2015, Prince Naruhito praised the Constitution and said he wanted to “engrave in the mind the preciousness of the peace.”
しかし、天皇のこれまでの戦地慰霊のご訪問、また、全国戦没者追悼式でのお言葉と、集団的自衛権の行使を可能にする安保法案を強引に可決した安倍政権の言動とを比較すると、実に“対照”的であったように思う。

また、この話が漏れたタイミングが、なぜ自公が圧勝した参院選挙の直後だったのかということを憶測すると、この説が決してない、とは言いきれないように思う。

これに関連して、最もありそうだなと思うのは、憲法改正が成立した場合、憲法第7条1号に基づき、天皇の国事行為として、憲法改正を天皇の名の下に公布しなければならないということだ。

ご自身がこれまで築きあげてきた平和主義をぶち壊す自民党の憲法改正案を、ご自身の名前で公布したくはなかったのではないだろうか。

天皇のお歳や体力的なものを考えると、順番的には、皇室典範改正、憲法改正だろう。そして皇室典範の改正には2年はかかるのではないかという見通しもある。

天皇ご自身のお言葉があったとしても、決して、上記のような意思は示されないと思うが、今後の展開に注目したい。

2016年7月10日日曜日

雨のなかを走る男たち/須賀敦子 日本文学全集 25

須賀敦子のエッセイの中には、ある種の場面や物事がとても印象的に描かれているせいで、そういった場面や物事にこれから出会うときには、必ず、彼女の文章が頭に思い浮かぶのではないかと思わせるものがある。

日本文学全集では、彼女と交友関係があった池澤夏樹が編集しただけあって、そういった粒ぞろいのエッセイが収められている。

病床の父からの依頼で、入手することとなったオリエント・エクスプレスの食堂車で使用されているコーヒーカップをめぐる車掌長とのやりとり。

空港までのリムジン・バスで見つけた美しい手の動きで会話する姉兄弟と彼らの母親の一風景。

イタリアのL夫人との歓談で、親しい友人のように話が盛り上がったさなか、彼女の娘が外国人と結婚するという話を巡り、その娘と自分の過去を重ねてしまい、突然意見が対立してしまったエピソード。

それらは、どれも須賀敦子らしい自我の強さとセンスの良さが伝わってくる文章だ。

「雨のなかを走る男たち」も、何気ないイタリアの男たちの習慣を描いているだけなのだが、不思議と心に残る。

作者は、ギリシアの映画監督テオ・アンゲロプロスの作品「シテール島への船出」 の中で、男が傘もささず、雨のなかを外に飛び出すシーンをみて、夫のペッピーノも雨のなかを、そうやってかいくぐっていったことを思い出す。
…男たちはあの格好をして走る。両手で背広のえりの下を握るかたちになるのだが、そのとき左右の親指を垂直に立てるから 、日本で、めっといって子供を叱るときみたいな格好にしたこぶしがふたつ、胸のまえにならぶ。イタリアで暮らしていたころも、それを見るたびに、私はふしぎな格好だと思った。
そして、夫の知人の家族で問題児扱いされているトーニという青年の話になる。

知能が足りず、定職につくこともできず、家にもよりつかず、家族に心配をかけているどうしようもない青年。
しかし、作者はなぜか彼に興味を抱く。そして、カーネーション売りをしているトーニに、夫を説得して会いに行く。

…雨が激しくなった。ペッピーノが自分の傘をトーニにさしかけると、彼は、いいよ、いいよ、というふうに頭をふって、手にもったカーネーションの束を台のうえに投げ出し、こちらがあっと思う間もなく、いちもくさんに近くの建物をめがけて走り出した。さよならともいわずに、両手で背広の衿もとをしっかりにぎって。夫といっしょに街を歩いたのも、トーニを見かけたのも、あれが最後だった。
通り過ぎてゆくかけがえのない人生の一瞬を、雨のなかを走り抜けていく男たちのすがたに重ねてしまった作者の思いが、とてもせつない。


2016年7月3日日曜日

おくのほそ道 百句 連句/松尾芭蕉 松浦寿輝 訳/日本文学全集 12

元禄二年(1689年)、松尾芭蕉は、四十六歳で「おくのほそ道」の旅に出ている。
彼が亡くなるのはその五年後。作中、持病を抱えていたことも記されているが(十七、捨身無常)、自分の死期をそう遠くはないと感じていたのかもしれない。

(今、四十六といっても人生半ばという感じだが、この時代は晩年だったのでしょうね)

そう思いながら、冒頭の「月日は百代の過客にして…」を読むと、彼が物狂おしいまでに漂泊の思いに駆られた心情はどこかうなずけるものがある。

江戸を立ち、日光を通り、白河の関を越え、松島にたどり着くまでに詠んだ句よりも、平泉から最上川あたりまでの句のほうが、知っている句が多いせいもあるが、心に響いていくるものがある。

死の緊張のせいかもしれないが、全体的に真面目な雰囲気が漂っている。
唯一、「三九、市振」で、遊女と偶然同じ宿に泊まるというエピソードがあるが、彼女たちへの振る舞いも、ひどく素っ気ないものが感じられる。

芭蕉の句を味わうという点では、松浦寿輝 選の「百句」は読んでいて面白いものがあった。年代ごとに並べられた芭蕉の代表作を読むことにより、無理なく、芭蕉の俳人としての成長の過程が感じられる。

句のそばに付けてある松浦寿輝の解釈も、極めて現代的なものになっていて、読んでいて飽きなかった。
おそらくは芭蕉ですら明確に思っていなかったであろう大胆な解釈を次から次へと読むことで、たった十七文字の詩に、無限の世界を感じることができる。

 それにしても、芭蕉の句というのは、有名なものが多いことが、今さらながらに分かった。

「連句」は、芭蕉が俳諧仲間と共に編んだ歌仙2作品「『狂句こがらしの』の巻」と「『鳶の羽も』の巻」を紹介している。

同じ本に収められている丸谷才一 大岡信の「歌仙早わかり」を先に読んだほうが、分かりやすいかもしれない。

三百年以上前の藝術を、今、違和感なく楽しむことができるというのは、実に素晴らしい。
しかし、 丸谷才一 らが亡くなった後、歌仙を楽しむ日本の文学者は残っているのだろうかが、若干気にかかる。

2016年6月27日月曜日

巡査の居る風景 一九二三年の一つのスケッチ 中島敦/日本文学全集16

日韓併合後の朝鮮の人々の様子を、巡査の趙教英という朝鮮人の視点から描いた作品だ。

日本に支配され、抵抗もできず、無力感の漂う朝鮮の人々、そして、それを見つめる自分自身の中にも、その弱さを感じ、深く絶望する趙の姿が描かれている。

中島敦は十代に朝鮮で暮らしていた時期があるので、題材として取り上げることはおかしな事ではないが、一九二三年当時(日本では関東大震災が起こった年)に、支配される側の心情を描いているという点で稀有な作品と言えるだろう。

暗く救いのない作品ではあるが、この短い文章の中で圧倒的に輝きを放っているのは、主人公の心持ちを映しだしているかのような寒く汚らしい朝鮮の街の風景だ。
銅色の太陽はその凍った十二月の軌道を通って、震えながら赤く禿げた山々に落ちて行った。北漢山は灰色の空に青白く鋸形に凍りついて居る様に見えた。其頂上から風が光の様にとんで来て鋭く人の頬を削いだ。全く骨も砕けて了いそうに寒かった。

毎朝、数人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切った鳶の蔓を浮かんだまま死んで居た。
ある者は紫色の斑点のついた顔をあおむけて、眠そうに倒れて居た。

一九二三年。冬が汚なく凍って居た。
すべてが汚なかった。そして汚ないままに凍りついて居た。ことにS門外の横町ではそれが甚しかった。
支那人の阿片と葫の匂い、朝鮮人の安煙草と唐辛子の交ったにおい、南京虫やしらみのつぶれたにおい、街上に捨てられた豚の臓腑と猫の生皮のにおい、それらがその臭気を保ったまま、このあたりに凍りついて了って居る様に見えた。 
中島敦は、死の床で、「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまいたい」と言ったそうだが、この小文も彼が抱えていた様々な側面の一つを感じさせる文章と言えるかもしれない。

2016年6月26日日曜日

春色梅児誉美 為永春水 島本理生 訳/日本文学全集11

春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)は、明治維新の36年前、1832年に、為永春水が書いた人情本である。

物語は、唐琴屋という遊女屋の養子だったが、悪い番頭にはめられ、貧乏暮らしをしている丹次郎という男を中心に進む。

この丹次郎、金もなければ、力もない、おまけに節操もない、というないないづくしの男なのだが、不思議と女たちにはモテるという典型的な色男として描かれている。

お長というまだ幼い許嫁がいて彼に惚れているほか、深川藝者の米八からも貢がれ、別の深川藝者の仇吉とも関係している。

一方、 米八の身請けまでしたのにものに出来ない篤実な金持ちの藤兵衛と、お長を危機から救った髪結いのお由も加わり、話はもつれていく。

現代語化されたせいもあるが、今読んでも楽しめる小説になっていると思う。

まるで、一昔前のラブコメを見ているような気分になった。

女性の身分が紙切れ一枚で右から左に動いてゆくところと、最後にすべてが丸く収まるという奇跡的な 解決策が可能な男女関係はさすがに時代が違うとは思うが、男も女も恋愛には愚かであるというところは、今も昔も変わっていない。

会話のテンポよく、特に米八が浮気者の丹次郎に毒つく痴話げんか風の会話の部分は、洒落っ気があって読んでいて楽しくなる。

2016年6月25日土曜日

内田樹の生存戦略/内田樹

本書は、 男性向け雑誌「GQ JAPAN」に連載されている内田樹氏の人生相談をまとめた本書。

読売新聞の人生案内が単行本にまとめられても、たぶん自分は買わないと思うのだが、「内田樹の生存戦略」を手に取って、「人をほめるときの基準を教えてください」の項だけ読んで、これは面白い!とすぐに買ってしまったのは、何故なのだろう、ふと考えてみる。

理由の第一は、内田樹は信頼がおける、とたぶん私自身が感じているからだろう。

第二は、文章が明確で、かつ、どこかに大人の余裕とユーモアを感じているからだろう。

第三は、はっきりと遠慮せず、物を言っているということ。

例えば、サラリーマンから、脱サラして独立しようか迷っています。という相談に、
好きにしてください。まあ、そのまま大企業に入るほうがいいと思いますよ。独立するなら、こんなところに身の上相談しに来る前にもうやっていますから。 
という回答。

内田樹本人が、「僕の人生相談の回答はわりと「冷淡」です」と言いきっている。

その理由は、まえがきに書いてある。
それは質問に直接お答えしないで、そもそもそのような問いがなぜあなたに取り憑いたかという「前提」の分析の方に手間をかけているからです。

…こういう人生相談で、「私はAすべきでしょうか、それともBすべきでしょうか」という問いの形式で訊ねてくる人は、「AかBの二者択一しかない」(でも、どちらも選びたくない)」という袋小路に入り込んでいます。でも、そこにいる限り、悪いけど、出口はありません。
確かに。読んでいて、心地よいのは、狭い視野から解放され、その問いの背景や本質が分析されているからだと思う。

そして、どんな愚問であっても、何より、内田樹本人が面白がって答えているような気がするからでしょうね。

https://www.gov-book.or.jp/book/detail.php?product_id=309299


2016年6月19日日曜日

オリジナル・ラブ 25周年 アニバーサリー・ツアー/関内ホール

久々に、コンサートに行ってきた。
田島貴男(オリジナル・ラブ)の25周年 アニバーサリー・ツアーというお題目で、4時半に関内ホール。

入場まで並んでいて意外だったのは、客層。
自分も四十代半ばで若くないが、年配の人が多いということだ。
というか、若い人がいない。。。
いたと思ったら、小学生ぐらいの子供だったりとか。(たぶん親に無理やり連れてこられたのでしょうね)

会場に入ってからも、その印象は変わらず。

むしろ、60歳ぐらいの人がいたり、いかにも主婦然とした人がいたりして、昔、渋谷系と言われていた時代は何だったのだと逆に衝撃を受けた。

きれいな女性もいたが、自分と同じ世代が多いような印象を受けた。

もう一つ、驚きだったのは、持ち物検査がないこと。
もちろん手間が省けてよかったが、この物騒な時代にこれって大丈夫なの?と若干不安を覚えた。

定刻の5時を10分ほど過ぎて開演。

田島貴男との距離がすごく近い(1階席の前の方だった)

最初の曲は「夜をぶっとばせ」という懐かしい曲。
続いて、「DEEP FRENCH KISS」とこれまた昔の曲だ。
若い頃に聞いた曲というのは、本当に忘れないものだ。

曲の間で、田島さん本人が、今回の曲目を選んでいたら、大体がシングル・カットした曲に落ち着いたと語っていたが、全体的に知っている曲ばかりで非常に懐かしい思いをした。

途中、アコースティックな曲も3・4曲続き、田島さんも客席に向かって、お座りくださいと指示を出すなど、昔と比べるとずいぶんと大人になった印象を受けた(彼のコンサートに最後に行ったのが約20年前なので当たり前といえばそれまでか)。

シングルは、車系のCMに取り上げられたものが多いみたいで(本人が今の曲でも取り上げてほしいPRしていた)、

・Words of Love
・GOOD MORNING GOOD MORNING など(もう1曲あったが、忘れてしまった)

アンコールは3回あって、最新曲「ゴールデンタイム」を紹介した後、4・5曲サービスしてくれた。

独特のノリで途中ついて行けないところもあったが、全体としてとても楽しく、最後まで体を揺らして心地良く疲れ切ることができました。

2016年6月18日土曜日

光と風と夢/中島敦

中島敦は、1942年12月、三十三歳の若さで亡くなっているが、その年、この「光と風と夢」を発表している。

題名が明るいので、中島敦の印象と若干そぐわない印象を受けるが、そのギャップに惹きつけられて、ようやく読み終わった。

原題は、「ツシタラの死」(ツシタラはサモア語で「物語の語り手」という意味)だったが、出版社の要請で変更させられたらしい。

しかし、読んだ印象としては、原題のほうがしっくりとくる。時期的なことを考えると、中島は、自分に近く訪れる死の気配を感じながら、その思いを、この作品の主人公スティーヴンソンに託すつもりだったのかもしれない。

スティーヴンソンは、イギリスの小説家スティーヴンソンのことで、有名な作品「宝島」を書いている。彼も中島同様、生まれつき健康に恵まれなかったらしく、療養地を転々とし、最後に南太平洋のサモア諸島に移住し、最後を迎えた。

中島敦も、死の1年前、南洋のパラオを訪問しており、この南洋の体験も、彼を近くに感じた理由の一つだろう。

物語は、三十五歳のスティーヴンソンが喀血に襲われ、1890年から暮らしはじめた約4年間のサモアの暮らしを、彼が書いた日記を通して描いている。

日記中、たまに強く溢れるスティーヴンソンの感情は、中島敦のそれといっても違和感を感じない。
例えば、
五月XX日
…大体、私は近頃、従来の自分の極彩色描写が段々厭になって来た。最近の私の文体は、次の二つを目指している積りだ。一、無用の形容詞の絶滅。二、視覚的描写への宣戦。


…それに、彼は、父と争論したあとでは何時も、「どうして親の前に出ると斯んな子供っぽい議論しか出来なくなるのだろうか」と、自分でいやになって了うのである。…父に対する甘えが未だ自分に残っており、(ということは、自分が未だ本当に成人でなく)それが、「父が自分をまだ子供と視ていること」と相俟って、こうした結果を齎すのだろうか?…其の頃スティヴンスンは、父と衝突したあとで、何時も決って、この不快な疑問を有たねばならなかった。

十三
…肉体の衰弱と制作の不活溌とに加えて、自己に対し、世界に対しての、名状し難い憤りが、彼の日々を支配した。

五月×日
朝、胃痛ひどく、阿片丁幾服用。ために、咽喉が涸き、手足の痺れるような感じが頻りにする。部分的錯乱と、全体的痴呆。

…性格的乃至心理的小説と誇称する作品がある。何とうるさいことだ、と私は思う。何の為にこんなに、ごたごたと性格説明や心理説明をやって見せるのだ。性格や心理は、表面に現れた行動によってのみ描くべきではないのか? 少くとも、嗜みを知る作家なら、そうするだろう。吃水の浅い船はぐらつく。氷山だって水面下に隠れた部分の方が遥かに大きいのだ。

八月×日
…既に私は、自分に出来るだけの仕事を果して了ったのではないか。それが記念碑として優れたものか、どうかは別として、私は、兎に角書けるだけのものを書きつくしたのではないか。無理に、――この執拗な咳と喘鳴と、関節の疼痛と、喀血と、疲労との中で――生を引延ばすべき理由が何処にあるのだ。

病気が行為への希求を絶って以来、人生とは、私にとって、文学でしかなくなった。文学を創ること。それは、歓びでもなく苦しみでもなく、それは、それとより言いようのないものである。

従って、私の生活は幸福でも不幸でもなかった。私は蚕であった。蚕が、自らの幸、不幸に拘わらず、繭を結ばずにいられないように、私は、言葉の糸を以て物語の繭を結んだだけのことだ。

さて、哀れな病める蚕は、漸くその繭を作り終った。彼の生存には、最早、何の目的も無いではないか。「いや、ある。」と友人の一人が言った。「変形するのだ。蛾になって、繭を喰破って、飛出すのだ。」これは大変結構な譬喩だ。しかし、問題は、私の精神にも肉体にも、繭を喰破るだけの力が残っているか、どうかである。

以上、心に残った部分を引用してみたが、最後の部分の“変形”し、“蛾になって”という部分は、彼に新しい作品を書く意欲が、可能性がまだ残っていたということでしょうね。

2016年5月15日日曜日

コルシア書店の仲間たち 須賀敦子/日本文学全集25

彼女の文章は、読んでいて心地よい。

それは、アントニオ・タブッキの翻訳を読むときと同じように、彼女が1960年代に暮らしていたイタリア ミラノのコルシア書店(コルシア・デイ・セルヴィ書店)の仲間たちの話を読むときにも感じてしまう。

面白いと思うのは、このコルシア書店は、明らかに宗教的・政治的思想を持った人々を支援することを目的に作られた本屋なのだが、この文章から力強く伝わってくるのは、その理念そのものではなく、そこに集まる一癖も二癖もある人々の温かみのある人間関係、ある種の幸福感のようなものだということだ。

それは、彼女がその時の生活で感じていた雰囲気だったのだろう。
実際、彼女は仲間たちにとても大事な存在として扱われていたように感じる。

そういう雰囲気を、時代を超えて、第三者に文章で共感させるのは、結構、難しいことだと思うのだが、彼女の文章は、力みもなく、そういうことが出来てしまっている。

彼女がかつて暮らしていた仲間たちが、ひどく身近な存在であるかのように感じてしまうのも、そのせいだろう。

決して楽しいばかりの出来事ではないが、読んでいて、どこか明るい雰囲気を感じるのは、南欧の個性的で鷹揚な人々のパーソナリティだけではなく、彼らを見つめ続けていた須賀敦子の心持ちが反映されているからだと思う。

2016年4月24日日曜日

Temptation/PRINCE

プリンスの数あるポップソングの中でも、アルバム“Around the World in a Day”の最後を飾る“Temptation”(誘惑)は強烈なインパクトが残る歌である。

もともと、プリンスは、ロックの持つ猥雑な力をセックスに絡めて表現することに力を注いできたアーティストであるが、人間の性欲のエネルギーをここまで直截にリアルに表現した歌はないと個人的に思っている。

禁句すれすれまで性行為をイメージさせる歌詞、下半身に響けとばかりに猥雑に鳴るギター、激情的なボーカル、あきれるほど自由に、時にふざけちらかすように、ゆったりと、大胆にエネルギーがほとばしる。

曲は、後半に連れ、緊張感を高めてゆく。
プリンスが誘惑(ここでは性的欲望の意味合いが強い)について人々に告白をはじめるのだ。

Temptation
I'm not talkin' about just ordinary temptation, people. I'm talking
About the kind of temptation that'll make U do things.
Oh, oh, temptation.
Oh, darling, I can almost taste the wetness between your...
Temptation, temptation
I'm not talking about any ol' kind of temptation, people, I'm talkin'
About, I'm talkin' about... sexual temptation.
A lover
I need a lover, a lover, I need a...right now.
U, I want U.
I want U in the worst way.
I want U.

その欲望が頂点を迎えたとき、突然、神の声が、プリンスに告げる。

愚かな男よ。それは正しくない。
お前は、正しい理由で彼女を必要としなければならない、と。

プリンスは、そうします、と答えるが、神は、お前には出来ない、今死ぬべきだと非情の宣告をする。
プリンスは悔悟し、 愛はセックスより重要だと悟るが、神に許された気配はない。
彼は、もう行かなければならないと云う。いつ戻って来ることができるか分からないけど。さよなら、と。

プリンスの死を聞いて、彼の死に最もふさわしい歌は、彼が最も活躍した1984年の、ほとんど無敵だった時代に作られた、この曲ではないのかと思った。


2016年4月17日日曜日

宮沢賢治/日本文学全集16

この全集に載っている作品 詩、童話、小説を読んでいると、今まで持っていた宮沢賢治に対するイメージが変わってくる。

なかでも、印象的だったのが、「土神ときつね」、「泉ある家」、「十六日」にみる性を取り扱った作品だ。 「土神ときつね」にみる嫉妬に似たダークサイドな感情は、この人には無縁のものだと思っていたので、特に興味深い。

また、こどもの雪の遭難を描いた「水仙月の四日」と「ひかりの素足」も、並べて読むと、後者の童話的な世界からは遠い、自然は人間を生かしも殺しもするという現実的な描き方が際立つ。

「ポラーノの広場」も不思議な味わいがある作品である。一見、童話のようでもあるが、主人公のレオーノ・キューストが、なぜか、ファローゼたちと純粋な理想に満ちた生活を送らずに、決して幸福とはいえない都会の片隅のような場所から物語全体を振り返っているせいで、現代風な印象を残す。

巻末に、池澤夏樹の「疾中」と 「ポラーノの広場」のよく出来た解説があるので、興味がある方は是非一読してみてください。


2016年3月27日日曜日

安土往還記 辻邦生/日本文学全集19

イエズス会の宣教師を送り届けるために日本を訪れたジェノヴァ出身の船乗りが語る“尾張のシニョーレ(大殿)”織田信長の物語だ。

この物語の特質すべき点は、この船乗りと宣教師たちが信長にある種の共感(シンパシー)を持っていたことを描いている点だろう。

信長のような権力を持った強靭な信念の持ち主に対しては、服従と畏敬、あるいは反抗と否定を持つ人々に分かれる。

日本史の中でも、信長ほど、エピソードと物語性に富んだ人物はいないと思うが、彼を取り巻くほとんどの人々は上記のうちの二者択一だったと思う。

この物語で語られるのは、元亀元年(1570年)から天正十年(1582年)までの最も精力的に活動していた時期の信長であり、数多くの敵に囲まれながら、抜群の才覚で何度も死地を潜り抜ける有能な指揮官の姿を見せる一方、比叡山焼き討ち、石山本願寺との闘い、自分を裏切った荒木村重の親族に対する処罰など、自分の敵に対しては、宗教者、女子供といえども徹底的に容赦のない殲滅を行った非情な支配者の姿である。

何故、平和と愛を説くべきはずの宣教師たちが、この非情な信長に共感を持っていたのか。

一見、穏やかな素性に見える宣教師たちも、故郷での安穏な生活を捨て命がけで新世界を探す船旅に参加し、たどり着いた言葉も分からぬ新世界でキリスト教を普及させる情熱を傾けていた人々である。そして、この物語の語り部である船乗りも、妻の裏切りから犯罪を経験し、自分を飲み込もうとする運命を自分の意志で押さえつけたいいう強烈な願望を持った男だった。

こういうある種のビジネスの達成を人生の目標にしている人々や果断な意志の信奉者にとって、信長という男の考えと行動は実に明確だったのではないかと思う。

そして、信長も、堕落しきった実利を伴わない仏教の宗教者を弾圧する一方、命がけで仕事を成し遂げようとする宣教師たちを理解するとともに、彼等が有していた当時最先端の西洋の武器、産業、科学を貪欲に吸収し、その合理性を理解した。

信長は、華麗な安土城と同じ青い瓦を用いた宣教師館を安土に建築することを許した。セミナリヨ(小神学校)も設立され、自然科学、数学の教育も行われた。

この栄華を極めた信長の一代を終わらせるのは、明智光秀だったが、この物語では、皮肉なことに、信長が最も信頼を置き、その仕事ぶりに共感すら感じていた光秀が、信長の苛烈な精神に見つめられることに疲れ切っていた姿を描いている。

光秀の行動は人間的な弱さに起因するものであり、そこを見抜けなかった信長の死はやむを得なかったとも思う一方、もし、本能寺の変が起こらなかったら、信長はどういう日本を作り上げていたのだろうかという日本人であれば誰でも思うこの疑念が心を過る。

この問いは、語り部の船乗りが、自身の思いも乗せた一つの強靭な精神が死んだことを悲しみ、本能寺の変の後、日本を離れ、インドのゴアで失意のうちに暮らす中でも繰り返し去来したものであったに違いない。

2016年3月20日日曜日

紫苑物語 石川淳/日本文学全集19

石川淳の文章は、たとえて言うなら、居合術で鋭く空を切る日本刀と似ている。

気合いがみなぎっているというのだろうか、下卑な事柄を取り上げているときでさえ、その文章にはたるみがなく、品がある。

そのくせ、文章はしなやかで、リズムよく前へ前へと引っ張ってゆく力に満ちていて、読んでいて心地よい。

明治以降の小説家のなかで間違いなく、五本の指に入る名文家の一人である。

この紫苑物語は、その物語も躍動感に満ちている。

歌詠みの父を持ち、勅撰集の撰者にもなれるほどの詩才を有していながら、その道を捨て、父と断絶し、遠い国に左遷されながらも弓矢をもって狩の道に突き進む宗頼。
信長あるいは詩人のランボーのような強い個性の持ち主だ。

その宗頼に絡んでくる周りの人々も負けずと個性が強い。

みにくい顔立ちと赤黒い体を持ちながら、手あたり次第、男と関係を持ち、性の快楽を追い求め続ける正妻のうつろ姫。

宗頼の伯父で弓矢の師匠でありながら、狼に憑かれた心根の持ち主である弓麻呂。

宗頼に弓を射られ、その仕返しに色をもって精を吸い取り、陰謀をもって宗頼の治政を壊そうとたくらむ狐の千草。

宗頼と弓麻呂を争わせ、国を乗っ取ろうと企む家臣の藤内。

宗頼と相似する精神力を持った仏彫師の平太。

宗頼は、殺生の是非を問わず、これら強敵に弓矢をもって対峙する。

宗頼が放った弓矢が平太の彫った仏を貫き、そのエネルギーが尽きることなく、最後には鬼の歌へと変化してゆく物語は、一定の速度を保ちながら、まるで一筆書きのように流れてゆく。

2016年3月14日月曜日

樹影譚 丸谷才一/日本文学全集19

丸谷才一の傑作と言って間違いない短編小説で、はじめて読んだときは、小説でこんなことが出来るのかと驚いた記憶がある。

物語は三部構成になっていて、まず第一部で、わたし(丸谷本人なのかもしれない)が、壁に映った樹の影を見るのが好きだという述懐からはじまる。なぜ、自分は樹の影が好きなのか、その性癖は何によるものなのか、わたしは検証を重ねるが答えを導き出せない。職業作家として、この性癖を題材にした短編小説を書くことを思い立つが、ナボコフがすでに同じ趣向で短編小説を書いていたため、これも着手できずにいた。しかし、わたしが、ナボコフの短編小説を読み直そうと、心当たりの作品を読んでも見当たらない。ナボコフの翻訳者に聞いても知らないという。加えて、わたしがぼんやりと記憶していたあらすじを検証してみると、ナボコフだったら、取り上げないだろうという致命的な欠陥があることに気づく。そして、わたしは、これから、書こうとする話が誰かの作品に似ているふしがあるかもしれないと断りつつも、樹の影を題材にした短編小説を書くことを宣言する。

第二部は、わたしの書こうとした短編小説の主人公の説明である。
主人公は、 明治の終わりに生まれた七十歳代の古屋逸平という小説家だ。
作風は、自然主義文学とは異にした硯友社の筆法をよみがえらせたと評されている。
そして、彼の文学観、代表作が紹介され、次いで、彼の仕事道具のスクラップ・ブックのページに視点が移る。古屋は、自分が書こうとしている姦通小説の道具として、樹の影を使うことを考えていて、かつて、フランスの雑誌から切り抜いたと記憶している樹の影の写真を探しているのだ。
しかし、その写真は見当たらず、古屋はそういえば、自分は樹の影が好きだったということに気づく。
樹の影にからむいくつかの思い出。そして、自分が過去に書いた小説にもいくつか樹の影を扱った場面があることに気づく。

第三部は、わたしの書こうとした短編小説の本編である。
古屋逸平が、故郷での講演を依頼され、それを引き受けたところから話ははじまる。

そして、彼が文芸評論を書くための草稿メモの内容。

捨子譚、継子譚に端を発した小説論、十九世紀半ばから後半までのヨーロッパ文学の身も蓋もない分類、志賀直哉と折口信夫に対するきわどい批評。

物語は本筋に戻り、古屋のもとに見知らぬ老女から、講演会の折に、自分の家で是非会ってほしいという速達が届く。 あまりに慇懃な内容に違和感を覚え、一度は断るが、その老女の姪からの取りなしの手紙もあり、会うことを約束する。

老女の家を訪れた古屋は、そこで自分によく似た男の子が知らない女性に抱かれている写真を見せられる。そして、老女は、その男の子が古屋であり、抱いているのが実の母だと告げる。そばにいた姪は写真を見て「マサシゲ童子に似てる」とつぶやく。その「マサシゲ童子」は、仏壇に写真が飾られており、写真に写っている男の子と似ている。そして、部屋の明かりが消え、ランプが灯されると、銀屏風に盆栽の樹の影がうつる。

「三つ子の魂百まで、でございますね。」。 老女は古屋の作品に樹の影が何度か取り上げられていることを指摘し、次いで、幼少の古屋が、この樹の影を見て、「キノカゲ、キノカゲ、キノカゲ」と最初の言葉を発していたことを明かす(それは老年の古屋が無意識に発した独り言と同じだった)。

以上が物語の概要だが、実に凝った作りになっている。

第一部で、これから、なぜ自分が「樹の影」を題材にした小説を書こうと思ったのか、その動機を説明し、第二部では、その小説に登場する主人公のキャラクターを説明している。
いわば、第一部と第二部は、通常公開されることはない小説家の内的な思考のプロセスといっていい。そういう手のうちを見せておいて、さらに、冒頭に捨子譚、継子譚に端を発した小説論を紹介し、その論を見事に実証したかのような印象の残る本編が続くのが第三部である。

そして第一部では軽いタッチで語られていた「樹の影」が好きだという性癖が、第三部では、自分すら覚えていない過去の記憶まで遡ってゆくのだ。

一体、古屋は誰の子だったのか。
「マサシゲ童子」とは誰なのか。
この老女は何者なのか。
なぜ、古屋は幼少の頃に老女の家に預けられていたのか。

そういう謎だらけの自分の知らない過去が実は「樹の影」には隠れていて、老女が発した呪文のような言葉「キノカゲ」により、遂に七十歳代の小説家の自我は解体され、過去に転生していくような最後で物語は終わる。
ただ、ざわめく影の樹々のなかで時間がだしぬけに逆行して、七十何歳の小説家から二歳半の子供に戻り、さらに速度を増して、前世へ、未生以前へ、激しくさかのぼってゆくやうに感じた。
実に理知的な作りの小説なのに、もっとも重要な部分で描かれていることは、自分ではコントロールできない、自分さえ知らない過去の記憶と前近代的な世界の圧倒的な力なのだ。

このギャップがこの小説の大きな魅力であり、怖い部分でもある。

2016年3月13日日曜日

NHKスペシャル 原発メルトダウン 危機の88時間

この番組を見て、今、こうして、東日本に住んでいられることが本当に運が良かったことなのだなと思った。

再現ドラマでも取り上げていたが、2号機では、1号機・3号機で対応できたベントもできず、格納器(放射能を閉じ込める最後の入れ物)が爆発する寸前まで圧力が高まってしまった。

この2号機で、格納器が爆発していたなら、高濃度の大量の放射能がまき散らされ、福島第一原発の敷地には一切立ち入ることが出来なくなり、ついには、福島第二原発まで立ち入りが出来なくなり、事故が拡大し、東日本全域が人の住めない事態になる可能性もあったということだ。

何故、そうならなかったか。それは命がけで対応した東電の人たちの力ではなく 、単に運が良かっただけに過ぎなかった(2号機格納器の上部から自然に内部の気体が漏れて爆発を免れたということだったらしい)。

吉田所長や当時の東電社員の証言を加えた再現ドラマだったが、当時、事故対応に当たっていたひとたちは本当に命がけで懸命に対応していたことが伝わってきた。
しかし、そういった人の努力ではもはや抑えきれないのが、原発事故の本質であるという結論に落ち着くと思う。

最近、 大津地方裁判所が、関西電力の福井県高浜原発3・4号機の運転差し止めを認める仮処分を決定したが、その判断理由に

福島原発事故の原因が解明されていない中で、地震・津波への対策や避難計画に疑問が残ると指摘していた。また、関西電力の安全性に関する証明は不十分であるとも。

私は、上記の判断理由は、日本の多くの国民の一般的な認識と同じだと思う。
五年経ったが、 福島原発事故の原因は解明されていないし、収束もしていない。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160313

レベレーション - 啓示 - 1/山岸凉子

山岸凉子が男性向け漫画雑誌「モーニング」に隔月掲載している作品だ。
題材は、何とジャンヌ・ダルク。

物語は、 ジャンヌ・ダルクが囚えられ、処刑される日からはじまる。
彼女は、自分がそんな運命に陥ってしまったことが、まだ受け入れられない。
何故なら、彼女は神の啓示を受けたからだ。

そして、彼女が最初に啓示を受ける前の、まだ普通のフランス農民の十三歳の娘だった頃まで、時は遡る。この物語の特徴的なところは、二つあって、先ず第一に、歴史的背景として、百年戦争を取り扱っていることだ。

フランスの王位継承をめぐるイギリスとフランスの争いの背景(家系図、人的関係、年表、地理)は、かなり、ややこしい。これを漫画の中で取り上げて分かりやすく説明するのは至難の業だと思う。
今まで歴史物を多く取り上げてきた山岸凉子だが、この作品はチャレンジといっていい。

第二に、ジャンヌが受けた神の啓示をどう描くかである。
教会の屋根から注ぐ光、風とともに現れた空から見下ろす眼、波動とともに現れる天使、脱魂状態。そして、神の告げる言葉。これらを漫画で表現するのも相当に難しいと思うが、山岸凉子らしい“異形な神”を描くことに成功していると思う。

また、上手いと思うのは、ジャンヌが一方において現実から逃避したい背景を抱えていたことを描いていることで、これによって、読者は、ジャンヌは確かに啓示を受けたかもしれないと思うこともできるし、精神的に追い詰められた彼女が見た幻ではないかと思うこともできる解釈の幅を持たしていることだ。そのせいで、この物語は“神と人間の関係”という宗教の根幹部分(およそ普通の漫画では取り扱うことのない領域)に足を踏み入れている感がある。

まだ一巻しか出ていないが、今後の展開が楽しみな作品だ。




2016年3月12日土曜日

NHKスペシャル シリーズ東日本大震災 “26兆円” 復興はどこまで進んだか 

東日本大震災の復興予算として、 26兆円あまりが使われたが、それがどんな用途にいくら使われたかを分かりやすく説明していた。

情報公開請求により、国から取り寄せた資料に基づき、 数多くの復興事業を色分けし、コンピュータグラフィクスで一本の木の枝で表現していた。

もっとも多く使われていたのは、やはり、インフラ・住宅の整備で、50%を超える割合だった。
ただ、 住宅の整備が遅れている地域もあり、その代表例として挙げらられていたのは、陸前高田などに見られる高台を造成して街を作っている地方自治体だった。
対して、差し込み式というやり方で、農地の空き地などを利用して住宅を整備した大船渡市などは、3年でほぼ完了できた。
個人的に思うのは、こういうことはスピードが命ではないだろうか。

次に多かったのは、産業振興・雇用確保(20%くらい)で、産業振興については、被災地の一つの事業の固まりに関連する複数の中小企業をグループ企業として多額の補助金が支払われたという。
この補助金を受けて震災前より増収を果たした企業もあるが、人口減少と高齢化の影響を受け、減収になってしまった企業もあるという。建設業は増収だが、水産業は漁師などが戻らなかったり、水産加工工場での勤務に戻らず転職したりして減収だという。

それほど予算としては多くなかったが、「被災者支援」も紹介されていた。
これは、NPO法人への支援が主な内容らしい。例えば、仮設に住む高齢者を病院に送り迎えする送迎サービスを行ったり、仮設で勉強部屋を確保できない子に学習支援をするサービスだ。
しかし、この学習支援サービスについては、来年は補助を打ち切られて終了せざるを得ないのだという。

国は、この5年間を「集中復興期間」として26兆円をつぎ込んだが、今後は、5年間には6.5兆円に減額し、一部は地方自治体に負担を求めるらしい。

復興の現状は、まだ道半ばというのが実感だ。本当に必要な復興事業に、不足なく支援金が支給され、活用されることを願う。

https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160312

2016年3月7日月曜日

蘆刈 谷崎潤一郎/日本文学全集15

あらすじは、こうだ。

語り部である私が、増鏡の「おどろのした」に出てくる「水無瀬の宮」に行き、後鳥羽院の歌などに思いを巡らし、その足で、淀川べりで月を見ることを思い立つ。

私が淀川の中州の水際で寒さしのぎに「正宗」の熱燗を飲みながら歌を書いていると、蘆の間に影法師のように男が立ち現れる。

男は、瓢箪に入った冷酒を私に飲ませながら、巨椋(おぐら)の池に月見に行くという。
そして、四十年ほど前には、毎年十五夜になると父に連れられ、 巨椋の池に月を見に行き、とある別荘で行われている月見の宴会の様子を覗き見ていたという話になる。

その別荘の御寮人は、「お遊さま」と呼ばれる女性で、父は息子に「お遊さま」 のことを忘れずにいてくれ、その様子を覚えておいてほしいと涙声で云う。

そこから、父と「お遊さま」とのなれそめが語られることになるのだが、「お遊さま」が子持ちの未亡人であることから、父は「お遊さま」とは結婚できず、「お遊さま」の妹の「おしづ」と結婚することによって、「お遊さま」と姉弟同士の付き合いをしたことが分かる。

異常なのは、「おしづ」も自分の結婚が「お遊さま」と父の関係を保つための仮装のものであることを認めていることで、三人の関係は、肉体的なものはないが、「お遊さま」の乳を「おしづ」が吸い、その母乳を父が飲んでみるといった妖しい雰囲気のものだった。

やがて、「お遊さま」の子供が病死することで、「お遊さま」と父の関係は壊れてしまうことになる。

以上があらすじだが、 「お遊さま」の顔の描写が独特である。
父にいわせますと目鼻だちだけならこのくらいの美人は少なくないけれども、お遊さまの顔には何かこうぼうっと煙っているようなものがある。顔の造作が、眼でも、鼻でも、口でも、うすものを一枚かぶったようにぼやけていて、どぎつい、はっきりした線がない。じいっとみているとこっちの眼のまえがもやもやと翳って来るようでその人の身のまわりにだけ霞がたなびいているようにおもえる。
また、私にこの話を語り聞かせる男の正体も謎めいたものある。
最後に月の光の中に溶け入るように消えてしまったこの男は、果たして実在の人物だったのだろうか。「お遊さま」を慕う父の思慕の念が姿かたちをとったものなのか、あるいは、本当に息子だったのか。だとすれば、本当に「おしづ」が母だったのだろうか。

あるいは、川の中州という、あの世とこの世の境で酒に酔った私が月の光に見た幻なのかもしれない。

増鏡、大和物語、後鳥羽院の和歌などの古典を枕に置いたことで、物語は重層的な深みを増し、意図的に省かれた句読点、連綿とした仮名中心の文体は美しく細やかでありながら、「お遊さま」のように、どこか霞のかかったようなぼうっとした印象を残す。そして、その効果がこの物語にふさわしいのは言うまでもない。

2016年3月6日日曜日

NHKスペシャル 被曝(ひばく)の森 ~原発事故 5年目の記録~

原発事故によって、全域避難が指示された20km圏内の無人の街では、この5年の歳月で、野生の動植物に支配されつつある状況にあるという。

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160306

植物のツタが家を覆い、無人となった家々はアライグマ、ハクビシンが天井裏に入り込み、イノシシの大家族も雨露をしのぐ絶好の住処としている。

完全に主客転倒した街では、イノシシは人間に出会っても恐れず、むしろ、侵入者として人を威嚇してくる。

地元の猟師の人たちによると、こういう状態になると人が帰ってきたからといって、イノシシが山に帰るということは、よほどの大きな圧力がかからない限り、絶対にあり得ないということだった。
 イノシシは定期的に駆除はされているようだが、一向に数は減らないという。

自然に戻るということは一見よさそうにも見えるが、現実的に帰還しようとする人々の大きな障害になるのは確実だろう。

番組ではもう一つの側面として、動植物が被曝してどうなっているかということを取り上げていた。

森は地面を中心にスーパーホットスポットと呼ばれる毎時100マイクロシーベルトの高い線量が計測される場所がまだあるという。

そこで育つ植物にも、その植物を食べる昆虫や動物にも、特殊なフィルムでみると、セシウムを摂取した黒い影が体全体を覆っていることが分かっている。
セシウムは、体に必要なカリウムと似ているため、体内に取り込まれやすいという。

ただ、間違いなく被曝はしているのだが、ネズミなどは現時点では特に染色体にも影響がないという。
番組ではチェルノブイリでの被曝した動植物との比較がなされていたが、松の枝は、幹が育たず、枝が放射線状に育つ異常が現れるという。(福島でも確認された)

ツバメも、尾の左右の長さがアンバランスになる確率が高いという。(これも福島でも確認された)

もう一つ、興味深いのは、チェルノブイリではいなかった哺乳類 ニホンザルへの影響である。
これについても、見た目や血液にも異常は見られないということだが、一部の個体には骨髄の血液をつくり出す細胞の数が異常に減少していることが分かったという。

ただ、こうした放射能の生物への影響は二十年単位で継続して観察しないと分からないということらしい。

2016年3月5日土曜日

NHKスペシャル “原発避難” 7日間の記録 〜福島で何が起きていたのか〜

あの日、2011年3月11日(金)の14時46分に起きた巨大地震と津波の後、
3月12日(土)15時36分に、福島第一原発1号機が水素爆発
3月14日(月)11時1分に、3号機が水素爆発
3月15日(火)6時14分に、4号機も水素爆発

これを受けた政府の避難指示は、以下のとおり。
3月11日に原子力緊急事態宣言を発令し、3km圏避難を指示。
3月12日 5時には10km圏避難に変更し、1号機の水素爆発の3時間後には20km圏避難に拡大。
3月15日には、20~30km圏屋内退避を指示。

この五月雨式の避難指示の変更に、原発周辺地区の住民たちは翻弄された。
本来であれば、国・県・市町村・東京電力が事故後の対策を検討・実行する基地となるはずのオフサイトセンターが、津波対応、電源喪失の影響により全く機能せず、放射能の拡散予測を計算する情報システム「SPEEDI」も機能しなかった。

南に原発、北は津波で寸断された国道6号線。人々はやむを得ず、北西の方角に避難したが、結果として、漏れた放射能は同じ北西の方角に流れ、雪などに付着して地上を汚染し、避難した人々はいまだに被曝した不安にさいなまれている。

番組では、全域避難を余儀なくされた浪江町、南相馬市の人々の証言を生々しく伝えていた。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160305

テレビの報道で、避難指示を知った浪江町の馬場町長。

20km離れた津島地区までの車の大渋滞と、避難する人々で溢れる避難所。

ヨウ素剤はあったが、全員に配付する数もなく医師の指示も得られなかったため、配ることを悩み続け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまった保健婦。

避難所の外で孫を遊ばせてしまったことを後悔する祖母。

浪江町の西病院では、寝たきりの入院患者全員を自衛隊のヘリも救出できず、避難しろという圧力が高まるなか、やむを得ず、バスで避難させたことで体調を崩し、3名の老人が亡くなったという(避難先でも死期が早まったケースもあった)

政府の屋内退避指示で、逆に避難できなくなってしまった南相馬の老人福祉施設の人々。
外気を取り入れることを避けるため、エアコンを停止し、体調を崩す入院者たち。

信じられない話だが、政府は住民たちに屋内退避(そこに留まれ)の指示を出しておきながら、一方ではトラック協会に対し、物資を運ぶトラックを屋内退避区域に入れないよう指示をしていた。
これによって、命に関わる医薬品も含め、南相馬市の物資は枯渇していく。
南相馬市の桜井市長は、当時のニュース番組の電話出演でその窮状をさかんに伝えていた。

物資も尽きる中、南相馬市の判断で住民たちは自主避難を始めるが、パニック障害のお子さんを持つ女性は、避難所にも行くことが出来ず、ゴーストタウン化する街で、不安と孤独にさいなまれる。
いまだに、冷蔵庫一杯に食料を入れておかないと不安だという。

毎日の訪問介護を必要としていた利用者を訪問することが出来ず、4日目に訪れた介護士は、体調を崩した利用者を発見する。満足な治療も受けられず、翌日亡くなった利用者を、今でも忘れることが出来ない、自分の力が及ばなかったことを後悔していると、涙声で語っていた。

ゴーストタウン化する街に取り残された女性が言っていた「私にとって、まだ震災は終わっていない」という言葉がとても重い。

2016年2月28日日曜日

吉野葛 谷崎潤一郎/日本文学全集15

吉野葛は、一見、紀行文の体をとっているようにみえるが、やはり、これは小説だという気がする。

確かに、この作品には奥吉野の秋の美しい風景の描写と、同地で滅んだ、鎌倉、室町まで遡る南朝の自天王、義経、静御前の伝説が散りばめられているけれど、その主題にあるのは、私の友人である津村の亡き母への追慕の思いなのである。

むしろ、紀行文的なものと、物語的なものが区分できないほど、ごく自然に融和しているため、そのような疑念に駆られるのかもしれない。

読者は、先ず、この作品の語り部である“私”と一緒に吉野の奥地である国栖(くず)に足を踏み入れ、その後に、“私”を旅に誘った友人の津村の、その顔立ちすら記憶にない母への切れることのない追慕の念と、それに大きく影響された女性遍歴、そして、彼の母の故郷が国栖であることを知る。

箏曲の「狐噲」、母が受け取った故郷からの手紙に書かれていた紙に対する訓戒、昆布という変わった姓など、母にまつわる謎めいた事柄が、箏の遺品、国栖のいたるところで行われていた“紙すき”と真白な障子、落人の住みそうな土地柄に、きれいに結びついてゆく。

王朝への憧れ、“ずくし”とよばれる熟柿のどろどろ感、母を恋うる気持ちと混然とした女性への欲望、冷たい水に赤ぎれしそうな女性の指先など、谷崎らしい要素が溢れていながらも、初期には、まま見られた過激さは影を潜め、この物語には、浮ついたところが一切感じられない。

それでも、咽喉を通り抜ける熟れた柿の美味をこんなに見事に表現できる作家は、そうはいないだろうと思う。
 …歯ぐきから腸の底へ沁み徹る冷たさを喜びつつ甘い粘っこい柿の実を貪るように二つまで食べた。私は自分の口腔に吉野の秋を一杯に頬張った。思うに仏典中にある菴摩羅果もこれほど美味ではなかったかも知れない。
佐藤春夫が「急角度を以って古典的方向に傾いた記念的作品」と評したように、谷崎は、この作品を機に、立て続けに、古典的名作を放ってゆくことになる。

2016年2月22日月曜日

堤中納言物語 中島京子 訳/日本文学全集3

平安時代後期の公家の生活を題材にした説話集。

十の短編と一つの断章で構成されているのだが、どの物語も、そこはかとないユーモアの雰囲気が漂っている。

「美少女をさらう(原題:花桜折る中将)」は、イケメンの中将が気に入った姫君をさらおうとして、間違って、その祖母を連れて来てしまったという物語。

「お香つながり(原題:このついで)」は、春の長雨を眺める女房らが、無聊のなぐさめにと、他愛のない話を順番に披露する物語。

「虫好きのお姫様(原題:虫愛づる姫君)」は、毛虫を可愛がるちょっと変わったお姫様の話だ。虫好きで、身のまわりにいる童たちに、ケラ男、ヒキ麿、カナヘビ、イナゴ麿などと、虫の名前を付けて、召し使っていたという。世話をする女房達とのギャップが読んでいて面白い。続編が読めなかったのが残念だが、この話が基になって「風の谷のナウシカ」が作られたというのだから、ある意味、偉大な作品なのかもしれない。

「恋も身分次第(原題:ほどほどの懸想)」は、小舎人童と少女がつきあい始め、その先輩の若者が小舎人童と少女の関係を利用して、少女が宮仕えしている女房に言い寄り、その若者に来た手紙を見た主人の頭中将が、少女と女房が仕える姫に言い寄るという恋愛の連鎖を書いた物語。

 「一線越えぬ権中納言(原題:逢坂越えぬ権中納言)」は、権中納言という、これまたイケメンの男が、思いつめていた姫の部屋に強引に入り込むが、根が優しいのか、姫に遠慮して一線を超えられないという物語だ。そのくせ、部屋から立ち去ることもできない変に融通のきかないところは、現代の若干ストーカーの匂いがする男子の走りかもしれない。

  「貝合」は、身寄りの少ない姫君が、貝合わせという、貝がらの美しさや珍しさを競うゲームを、別の姫君と争うことになり、貝が見つからないと騒いでいる召使の少女少年たちを気の毒に思った蔵人少将が貝がらを用立ててあげるという話。

 「姉妹二人に少将二人(原題:思はぬ方にとまりする少将」)は、姉妹二人とそれぞれの相手となる二人の少将と、歌を交わし、いざ会うとなった段階で、姉が妹の少将に、妹が姉の少将のところに運ばれてしまい、関係を結んでしまったという、なんとも情けない話だ。ただ、姉妹二人は悲嘆にくれ、少将二人はまんざらでもなかったというところが面白いかもしれない。

 「花咲く乙女たちのかげに(原題:はなだの女御)」は、色男が、女房たちが歌詠みをしている庭にこっそりと入り込み、その歌を聞きながら、自分と契った女、関係を持てなかった女、才気がある女と振り返ることで、実は女のほとんどが色男と何らかの関係があるということが分かる物語だ。

 「墨かぶり姫(原題:はいずみ)」は、妻がいる男が新しい女と二人目の妻として関係を持ち、それに気づいた古い妻が自ら身を引き、侘しいあばら家に引越す姿を見て哀れに思い、男の愛情が復活する。そのため、来なくなった男がたまたま現れた際、新しい女は、慌てて化粧をした際、間違って墨を顔に塗りまくり、男に愛想を尽かされるという、これもちょっと笑える物語だ。今はやりの不倫の話だが、若干、勧善懲悪の匂いがする。

「たわごと(原題:よしなしごと)」は、僧侶が山籠もりする際に、人から物を借りる際に、色々な物をおねだりするという内容のふざけちらして書いた手紙だ。これだけ物の種類を知っているところを見ると、本当に欲深な坊さんなのかもしれない。

いずれの作品も、平安時代の貴族ののほほんとした、ゆるい雰囲気が伝わってくる。

ちなみに、タイトルの堤中納言(藤原兼輔)は、実在の人物であるが、この物語には一切関係してこないというところも、いい加減な感じでよい。

2016年2月21日日曜日

乱菊物語 谷崎潤一郎/日本文学全集15


物語は、室町幕府の末、海賊が跋扈する瀬戸内海が舞台だ。

明の商人 張の船が、海賊たちに狙われている。

張は、掌に隠れてしまうほどの大きさの四角な黄金の函(はこ)を、船で、室の津(兵庫県淡路島の室津と思われる)に居を構える絶世の美女 高級娼婦の かげろう に届けようとしている。

張は、かげろうから、二寸二分四方の函に入る十六畳吊の羅綾の蚊帳を持ってきてくれたら、一晩一緒に寝てあげると、無理難題の条件を提示されていたのだ。(このあたり、竹取物語のかぐや姫に似ている)

張は抜かりなく、瀬戸内の室の津の手前までこれを運んできたが、かげろうの腰元 うるめ の迎えを受け、船上で前祝の宴会をしている最中、幽霊船に出会い行方不明となってしまう。

そして、何故か、黄金の函を手に入れたうるめは別の船に乗っていて無事だったが、海賊に襲われ、その黄金の函を海に放り投げてから命を落とす。

その後、かげろうは、七年に一度しか巡ってこない閏五月の小五月の祭礼の日に、この黄金の函を私に届けてくれたなら、貧富、老若、善人悪人、僧俗を問わず、永久にその者の言いなりになりましょう、という宣言を書いた立札を、瀬戸内海沿岸の至るところに立てる。

物語は、このかげろうの大胆な呼びかけに呼応した、欲にうごめいた男たちの様々な騒動を描いてゆく。

播州の大名に養子としてなった若君と、これと権力を争う家臣の色好みからはじまる京の高貴な美女探し競争。この二人の各々の家来は争い、競いながら、より美しい女を、互いの主人の妾として迎えようと様々な計略を立てる。

二人の家臣が、ついに高貴な美女と思われる落ちぶれた公家の女を探し当て、命を落としそうな酷い目に会う話は、読んでいて非常に面白い。
(とてもいい匂いがする高貴な人の排泄物の話は、確か、今昔物語のひとつにあったと思う)

もう、一方では、かげろうと繋がっていると思われる播磨灘の家島の城主(実は海賊の親玉)が、黄金の函を持ってきた男を殺してしまい、この函を小五月の祭礼の日に、播州の大名と家臣に争わせるという悪い趣向を考える。

そして、小五月の祭礼の日、欲望うごめく男たちの前に、神輿の行列の中、付き人の美女十二人に囲まれたかげろう御前が姿を現す。
この十二人に囲まれたかげろう御前の美しさを、谷崎は独特の表現で描く。
十二人の傾城は、いづれも美しからぬはなく、恐らくはその一人々々が千金に値する器量の持ち主に違いなかろう。そしてこういう場合、同じように正装をし、厚化粧をして顔を揃えると、めいめいの個性的な「美」が目立たぬ代わりに、そこに一種の、重ね写真に似た典型的な美女の輪郭――日本人に、殊に今この場合では南国の日本人に共通な、ある理想的な端麗な容貌が、面を被ったように各々の顔に刻まれているのが感じられる。

十二人のうちのいずれをいずれに比べても、鼻の形、眼の切れ具合、あごの尖り加減、額つき、生え際、よくもよくも似た顔が揃ったものだとあやしまれるばかりで、…それらの顔は表情に乏しく、生き生きとした色彩を欠いているだけ、ひとしお超人間的に神性化されつつ、この儀式にふさわしい荘厳さを帯び、誰でもその姿に掌を合わせ、伏し拝みたい気分にさせられる。

 かげろう御前は、あたかもこれらの十二人の神々の首座に君臨する女神であった。彼女の顔にもこれという個性の輝きは認められない。ただ十二人の代表する理想的な美が彼女の一身に具現して、一段と高められ、引き締められ、純潔にされ、典型的なものの粋が凝っているというべきであろう。
そんな沿道の人々を魅了するかげろうの上空、羅綾の蚊帳を、くちばしにつけた鳩が飛来する…
というような海賊、幽霊、幻術使いも登場するという、谷崎のイメージには、ある意味、似つかわしくないくらいエンターテイメント性の高い物語になっている。

とても面白い物語なのだが、残念ながら未完に終わる。

日本文学全集のあとがきでは、池澤夏樹が辻原登から聞いた説によると、この「乱菊物語」で描かれている海賊の乱行に、瀬戸内の海賊の子孫たちが抗議したことが原因だという。(本当かな?)

「乱菊物語」は、昭和5年に朝日新聞に掲載された作品だ。

この時期の谷崎は、前後に「卍」、「蓼食う虫」、「吉野葛」、「盲目物語」という、いずれも中期の傑作と呼べる数々の作品を放っており、この「乱菊物語」にも、谷崎の作家として充実していた時期の勢いを感じることができる。

2016年2月15日月曜日

小野篁妹に恋する事 谷崎潤一郎/日本文学全集15

平安時代初期の公家だった小野篁(たかむら)が、腹違いの妹と恋仲になってしまうという物語を、谷崎が奇譚風に取り上げた小文なのだが、なかなか面白い。

まず、小野篁が、小倉百人一首の

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

の作者であった。

この歌は、小野篁が、遣唐使船の乗船を仮病を使って断ったり、遣唐使を諷刺するような詩を作ったことが、嵯峨天皇の逆鱗に触れ、隠岐の島に流された時の歌らしい。

また、小野篁は、身長が六尺二寸(約188㎝)の巨漢だったらしいが、頭の鋭い機知に富んだ男でもあったらしい。

嵯峨天皇が、「子子子子子子子子子子子子」を何と読むと問うたところ、「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」と即答したという話が、宇治拾遺物語の『小野篁、広才のこと』に収められている

話は、「小野篁妹に恋する事」に戻るが、谷崎は、この小野篁が書いた私小説的日記「篁日記」を、「少将滋幹の母」を書く際に読んで小説にしようと思ったが果たせなかったことを、まず述懐する。

何が私小説的かというと、小野篁自身と異母妹との恋愛が、彼女とやりとりした和歌を収めつつ、叙事文で率直に述べられているところが、いかにも近代的私小説の雰囲気があるということだ。

しかも、その物語は異様なものである。異母妹に懸想し、遂にはその妹を妊娠させる。
異母妹は、つわりの苦しみの最中にその妹は死んでしまうが、死後も夜な夜な、その幽霊と語らい続けて三年年ぐらい暮らしたという一種の奇譚だ。

谷崎の文章は、どこまでこの「篁日記」をベースに脚色しているのかは分からないが、話は面白い。どちらかというと、小野篁の熱意に、異母妹が絆されてしまったという雰囲気が描かれている。

しかし、この小野篁は、一方で如才ない男だったらしく、異母妹の死後、大学生の身分でありながら、右大臣が参内するときに、その娘を嫁にほしいという趣旨の漢文を差し出し、それが首尾よく成功したという逸話も最後の方で述べられている。

面白いのは、谷崎が、この小野篁が書いたその漢文を、「独創的な思想もなければ表現もない」と、切り捨てているところだ。
恰(あたか)も今日の大学生に、英米人や仏蘭西人や蘇聯(ソ連)人の真似をして得々たる青年があるのと同じく、平安朝の大学生は一にも二にも中国に律(のっと)って及ばざらんことを恐れていたのであろうが、こんな文章を中国人が見たら果たして何と感じるであろうか。千年の昔に源氏物語を生んだわれわれ国民の誇りである一面に、こう云う文章が名文として持て囃された時代があることは、われわれ日本人の事大主義、属国根性を示しているようで情けなくもある。
戦後の日本に対する谷崎の批判的な態度がにじみ出ていている。

2016年2月14日日曜日

伊勢物語 川上弘美 訳/日本文学全集3

百二十五段からなる歌物語。

物語中の“男”は、在原業平と言われている。

文章としては、どれも短いのだが、物語に伸縮性があると感じるのは、やはり和歌の存在だろう。

本書では、導入部分と終わりの文章は現代語訳されているが、和歌については原文をあえて載せ、その横に訳が配置されている。

そのやり方は正しいと思う。
男と女のやりとりをめぐる想いを託す表現方法としては、これほど高度なものはないかもしれない。
恋愛にありがちな幼稚で露骨な表現を避け、美しい詩に想いの奥深さを籠める。

そこで歌われている様々なかたちの恋愛のどれかは、今読んでも、身につまされるものがある。

読者は、川上弘美の大胆な訳も楽しむこともできる。例えば、 三十段。

(原文)

むかし、男、はつかなりける女のもとに、

逢ふことは玉の緒ばかり思ほえてつらき心の長く見ゆらむ

(川上弘美 訳)

男がいた。
思いをよせた女は、わずかの時にしか逢ってくれなかった。
その女に、詠んだ。

逢うのは
一瞬
恨みは
永遠

2016年2月7日日曜日

詩のなぐさめ/池澤夏樹

池澤夏樹は、冒頭、小説と詩を、こんなふうに比較する。
よくできた小説はあなたをまず別の世界へ連れてゆき、そこでちょっとした冒険をさせて、やがて日常に戻してくれる。
それに対して、詩は今いるところであなたの心に作用する。知性に働きかけ、感情によりそい、あなたは独りではないとそっと伝えてくれる。だから詩を読むことを習慣にするのは生きてゆく上で有利なことである。
個人的には、小説でも心に寄り添ってくれる一節はあると思うし、この本の詩のいくつかには、一瞬で別の世界へ連れていってくれるパワーのある素晴らしい作品があった。

それでも、詩は、辛いとき、苦しいときに助けてくれるのは事実だと思う。
短いことばだから、即効性のある風邪薬のようによく効くのだ。

東日本大震災のときに、古今和歌集の和歌とポーランドの詩人の詩が池澤夏樹に救いをあたえたように。

この本では、古今東西、さまざまな種類の詩が収められている。
漢詩、和歌、俳句、贈答詩、諷刺詩、抒情詩、恋愛詩、ソネット、民謡、現代詩、小説の中に登場する訳詞…。

通り過ぎてしまうだけのものもあったが、それは仕様がないものと割り切った方がいいかもしれない。詩は読むときの心持ちによって、印象がかなり変わるからだ。

個人的には、 照井 翠の俳句と、吉田健一のソネット、ブレイクの詩、中村真一郎が訳した菅原道真の詩、マヤコフスキーの元気な詩が心に残った。

吉田健一の訳詩についての池澤夏樹の解説がよい。
どう言えばいいのだろう?英語感が残るわけではなく、日本語に媚びてすり寄るわけでもなく、両者の間のちょうどよい距離の地点にいるように見えて、実はそこから少しだけ横に入った典雅な領域に吉田訳は立っている。意味の上では息の長い詩句が英語ではリズムで刻まれているのだが、それがわずかに破格の日本語にうまい具合に移されている。
 “破格の日本語”というのが、いかにも吉田健一らしさを表わしている。

2016年1月31日日曜日

竹取物語 森見 登美彦 訳/日本文学全集3

竹取物語という誰もがそのあらすじを知っている昔話でも、丁寧に現代語訳された文章を読むと、そこには独自の面白さが生まれるようだ。

最も顕著なのは、やはり、登場人物が身近に感じられるところだ。
翁(お爺さん)の俗物的な言動や、かぐや姫に求婚する男たちの情けない姿は、へんに共感を覚える。

かぐや姫も、若い女性でありながら、イエス、ノーをはっきりという、ある意味、欧米的な現代の女性像につながる自立した強い精神が感じられる。

しかし、読んでみて思うのは、周りの人間たちが、こぞって、かぐや姫に、本人が望みもしない結婚、あるいは天皇の愛人となること(宮仕え)を迫ったという事実だ。

美しくても、自立した精神があっても、当時の社会では、女性は結婚して子供を産んで育てることしか、役割はなかったのかもしれない。

自分のしたいことができる時代ではなかったのだから、彼女が結局は月の世界に戻らざるを得なかったのは、妙に納得する。

この物語では、かぐや姫が地上において何をしたかったのかが明らかになっていない。
そこに、彼女の地に足がついていない現実感のなさがあるのかもしれない。

もし、現代を舞台に、かぐや姫が地上での生活を過ごしたとすれば、彼女は自立できる職につき、「私にはしたいことがあるのです」と言って、月の使者を追いかえすこともできたのたかもしれない。

2016年1月30日土曜日

海街diary7 あの日の青空/吉田秋生

やはり、この物語を読むと、こころが暖かくなる。

四姉妹の何気ない日常を描いているだけなのだが、そんな日々の中にも、ドラマがあって、重要な言葉やきっかけがある。

わたしが、じんと来たのは、やはり、サッカーの特待生の話があって、鎌倉の街を離れることに悩んでいるすずの背中を押す風太の言葉だろうか。

彼女の話をよく聞いて、その裏側にある本当の気持ちを見つけてあげるなんて、ちょっと出来過ぎの彼氏のような気もするが、そういうのを別れた後に、ふっと思いついて、間髪入れずに走って戻ってきて、彼女に話しにくる行動も気持ちがいいですね。

海猫食堂のおじさんも、何気に佳乃の恋をアシストするのもいい。

そして、佳乃が片思いだった上司に、「ぼくの、そばにいてくれませんか」と言われて、

「いたじゃない ずっとそばにいたのよ」

と返す言葉も、とてもいいですね。
 

2016年1月23日土曜日

藤原新也|新東京漂流 SWITCH 2月号

藤原新也は、旅行記や自伝的小説、現代の諸問題に関する批評などをコメントする文筆業を仕事とする一方、独特の世界観がある絵を描いたり、力強い書を書いたりする。

しかし、本質的には、写真家なのだと思う。
目に映る世界の一瞬垣間見えるその本質を鋭く切り抜く才能が必要な仕事だ。

その藤原新也を特集に取り上げた SWITCHという雑誌を買ってみた。
表紙は、AKB48の指原莉乃。


どこか、憂いのある真剣な眼差しは、藤原新也が彼女に話した言葉を受けての表情だ。
…それからSEALDsのあなたと同じ年代の子がある日リビングの窓のカーテンを開けたらとつぜんそこに荒れ果てた風景が広がってたという夢を見たという話をした。

僕は今はそういう時代だと思っているんですと。そういう時代の空気をあなたも同じように吸っていると思うのね。AKB48の指原ではなく、僕は今を生きているそういう一人の普通の子としてあなたを撮りたいんだと。

…目を瞑ってその風景を想像してちょうだい。そしてその風景に取り囲まれた時、ゆっくり目を開けてと。
雑誌を読みながら、思ったことがある。
それは、私が最近こういった雑誌をほとんど読まなくなったせいもあるが、藤原新也に限らず、写真家が撮った写真を雑誌で見ることはほとんどなくなっていたという事実だ。

紙という質感と重さのある媒体に印刷された写真とインターネットの写真は、印象としてやはり違うように思う。

それに、紙のほうがずっとランダムだ。リンクをたどる必要もなく、ページをめくれば、写真が現れ、文章が現れる。

指原の写真から、AKB48の全体写真→前田・大島の2ショット→渋谷ハロウィンの風景→国会前のデモの風景→香港のデモの風景→SEALDs福田さんの写真→震災直後の陸前高田市の風景→小保方さんの写真→梅佳代さんの写真(小保方さんに似てる!)→三鷹ストーカー刺殺事件現場→KOHH(ラッパー)の写真→海上からの福島原発の写真→沖縄辺野古の写真

藤原新也らしい、写真によるこうした遊撃的な現代批評は、80年代のある時期には、普通の雑誌でも見ることが可能だったのに、今はもう、彼の著書という閉じられた世界でしか見ることが出来ない。

ある意味、この雑誌はリバイバルのように新鮮だったが、表現の場所を失った写真家の問題提起の意味合いも感じた。

ペーパレスの電子書籍の流れは続くだろう。しかし、こういう“今”の表現方法として、実力のある写真家と、ある程度の紙面の枠があれば、雑誌はまだまだ捨てたものではない。

2016年1月13日水曜日

デビッド・ボウイの死


もう、六十九歳だったのかという驚きとともに、彼の死を知った。

私の中で、デビッド・ボウイの姿は、「戦場のメリークリスマス」のジャック・セリアズ少佐の頃の美しい姿のイメージのままで止まっていたような気がする。

考えてみれば、初めて買ったLPレコードが、デビッド・ボウイの「Tonight」だった。

当時は、洋楽ブームで、「Blue Jean」がCMで流れていて買ったのだと記憶しているが、「Loving the Alien」の神秘的な曲調に、不思議な違和感を覚えたような気がする。


  
この頃、すでに、デビッド・ボウイは、アメリカンポップスのヒットチャートに、よく顔を出すほど、ヒットソングを連発していたが、後に、大学の頃、「Space Oddity」を聞いて、この人は、これが地なんだと妙に納得したことも覚えている。(「宇宙の奇妙な出来事」とでも訳すのだろうか?)
 
宇宙飛行士のトム少佐が、宇宙に出て、何故か、地上基地との連絡を絶ってしまう。 

"Planet Earth is blue and there’s nothing I can do." という言葉を残して。
 
こんな意外性のある物語を神秘的な曲に載せて、さらっと歌うことができたのは、デビッド・ボウイだけだったと思う。 
  
レオン・カラックスの映画『ボーイ・ミーツ・ガール』や、『汚れた血』でも、彼の曲が印象深いシーンでよく使われていたことも思い出す。
 
ご冥福をお祈りします。

2016年1月11日月曜日

砂浜に座り込んだ船/池澤夏樹

池澤夏樹の短編小説集。

「砂浜に坐り込んだ船」は、座礁した船を見ているうちに、死んだ友人を思い出す主人公が、座礁した船の写真を見ながら、その友人と語り合う話だ。

母親を火災で亡くし、その人生をリセットできず、命を絶ってしまった友人と静かに語り合う。それは、慰霊のようにも思えるが、真実は、生者が死者に救いを求めている。
「スティル・ライフ」と雰囲気が似ている。

「苦麻の村」は、福島県双葉郡大熊町から東京都江東区東雲の住宅に強制避難させられた住民が、図書館で地元の新聞「福島民報」を読むうちに失踪し、人知れず、大熊町に戻ってしまう話。
 いわきが、磐城という頑丈な城の意であったこと(蝦夷に対して)、大熊町がその最前線で、「クマ」が敵の強さを誇張しようとつけられたのかもしれないという推測は、初めて聞いた説だったので、新鮮だった。

放射能の恐怖に、住民の生活が将来の選択肢も含め、ひどく限定され、固まってしまったことは事実。でも、それは決して決まったことではなく、その気になれば、本来の自由な生活を取り戻すことが出来るのだという生き方、考え方は、ひどく魅力的だ。

「上と下に腕を伸ばして鉛直に連なった猿たち」は、五十歳で自殺した男が、死後の世界で、十八歳で事故でなくなった姪と再会する話。自殺することは悪い事なのだろう。しかし、死後にこのような世界(救い)があると思っても、それは罪にはならないだろう。

「大聖堂」は、大震災の日に、島に行ってピザを焼くことが出来なかった少年3人が、あの日、ピザを焼くことが出来れば、震災は起こらなかったのではないかという思いに駆られ、果たせなかったピザ焼きを実行する話だ。理性で考えれば、何の関係もない事柄だけれど、もし、あの時、そうしていれば、現実は違ったものになったのではないかという思いにかられるのは、何となく共感できる。

「夢の中の夢の中の、」は、朝、ビジネスマンの男が深い眠りの誘いに逆らえず、二度寝した30分の間に、次から次へと平安時代の頃の夢をはしごして見続ける話。この物語だけ、死と関係ないのかなと思ったが、眠りもまた死であり、夢もあの世と考えれば、おかしくはない。

「イスファハーンの魔神」は、 死が間近い父が、病床で、ペルシャ時代の美しい水差しを無心する。考えた娘と妻は、イミテーションをガラス工芸職人に作らせる。しかし、その出来が見事すぎたせいで、不思議な出来事が起こる。死というものが、ここまで軽くて明るい雰囲気に終わる物語も珍しい。

「監獄のバラード」 は、女を捨てた男が、北海道の吹雪の中、その女の父親の墓参りをする。男は、降りしきる雪の中、女の父親に、あなたの娘を捨てたという汚れを祓ってくださいとお祈りする。何とも不思議な物語だ。

 「マウント・ボラダイルへの飛翔」 は、池澤夏樹と思われる男と、イギリスの旅行作家のブルース・チャトウィン(1940-1989)が、オーストラリアのピンク・レイクという塩湖で出会い、お互いが経験した旅の話やアボリジニの世界観を語り合い、最後には、二人とも虹の虻になって飛んでいくという不思議な物語だ。まだ、この作品のすべてを理解できていないが、スケールの大きさを感じる作品だ。

今の日本の現状、人の死を扱いながらも、どこか、非現実的で明るい雰囲気を失わない池澤夏樹 の作品は、読んでいて楽しい。

http://www.shinchosha.co.jp/book/375309/

2016年1月10日日曜日

映画 傷物語Ⅰ鉄血篇

新春一発目の映画を、この映画にするかは、正直迷ったが、好奇心に負けて見に行ってしまった。

以下、感想を述べてみる。

 ○登場人物の絵が丁寧に描かれている。

予告の動画でも分かる通り、テレビのアニメ版よりも、登場人物の絵が丁寧で、きれいに描かれている。

登場人物は、7名しかいない映画なのだが、阿良々木暦、羽川翼、忍野メメ、キスショット、ドラマツルギー、ギロチンカッター、エピソードともに、アニメ版より絵がいいなと私は思った(単なる好みかもしれないが)。

 ○阿良々木暦が年相応にいかにも高校生らしく子供っぽくて、リアル。

阿良々木暦が、羽川翼の連絡先をもらって、はしゃいでいるのはいかにもいかにも高校生らしいし、瀕死のキスショットの姿をみて激しく動揺したり、吸血鬼ハンター達の攻撃に怯える姿は、いかにも年相応に子供っぽく描かれていて、私はリアルに感じた。

 ○阿良々木の家、学習塾跡がグレードアップ。

阿良々木暦の家が洒落たペンションみたいになっていたり、学習塾跡が小洒落た大学の校舎みたいに描かれていて、グレードアップしている。

 ○キスショットの瀕死の状態がリアル。

阿良々木に助けを求めるキスショットは、吸血鬼ハンター達に手足を切断され、瀕死の状態。その様が、若干グロテスクに表現されており、これは、テレビ放映では若干問題があるかもしれない。
なりふり構わず、 阿良々木に助けを求めるキスショットの姿はリアルだ。

 ○吸血鬼ハンター達がリアル。

 阿良々木暦を襲う際、三人の吸血鬼ハンターが聞き取れない異語で話し合っている(牽制し合っている)様子がリアルだった。

 ○忍野メメがいい。

久々に、忍野メメを見たような気がするが、ニヒルな感じがいいですね。「元気いいね。何かいいことあったのかい?」や、「君が勝手に助かったんだよ」という科白も懐かしい。

という感じですね。面白い点だけ、取り上げたが、ちょっと気になったのは、日の丸の国旗が何回か映し出されていたところだ。 あれは何の意味があるのだろうか?

次回作は今年夏ごろの予定。(エンドロールの後、若干、次回予告あり)
やはり、見に行ってしまうのだろうと思う。