2021年3月21日日曜日

ETV特集 原発事故“最悪のシナリオ”〜そのとき誰が命を懸けるのか〜

2011年3月12日、福島の第一原子力発電所 1号機建屋が水素爆発し、3月14日、続いて3号機建屋が水素爆発した。

この時、東京電力は、最悪の事態を想定し、第一原発(大熊町)の緊急対策本部を第二原発(楢葉町)に移そうというプランを持っていた。免震重要棟にいる作業者の命を守るためという最もな理由だった。

事故後にまとめられた報告書では、東電は第一原発から全面撤退するつもりはなかったということを述べているが、当時の菅直人総理が率いる民主党政権の内閣危機管理監の証言によると、第二原発に人を移すということは、第一原発はコントロールできない状態になる(いずれメルトダウンが発生する)という説明を東電は行っていたという。

菅総理は、東電の申し出に対して、それはあり得ないとはねつけ、東電に対する国の関与を強めるため、東電本店に統合本部の設置を決定した。
この時3月15日に、さらに4号機建屋が爆発する(2号機の爆発と思われていた)。
現場の指揮を執っていた吉田所長は、即死レベルの高線量を想定し、現場から離れる許可を東電本店に求めたが、菅総理は給水(燃料棒を冷やす冷却水)の者だけ残せという答えだったらしい。

番組では、NHKスタッフが憲法第18条を持ち出し、「何人もいかなる奴隷的拘束を受けない」という規定があるが、菅総理の指示はこれに抵触するものだという指摘をし、菅総理は「超法規的措置」としか答えようがない場面が収録されている。

米軍(米側)は、使用済み核燃料を大量に保管しているプールを保有している4号機が爆発し、火災まで発生していることを重く見、確実な注水を行うよう、日本側(防衛省)に「英雄的行為」を求めた。

この「英雄的行為」とは、1986年チェルノブイリ原発事故で、自分の命を犠牲にしてまで事故終息に当たった人々を指していたらしい。
言葉はきれいだが、「高線量に被爆しても、とにかく、やれ」という生々しいものだったらしい。

この米側の圧力もあり、4号機にヘリコプターから放水活動を行うことになるのだが、水蒸気爆発の危険もあることは、ヘリを操縦する自衛隊員にも説明があったという。
しかし、この放水活動は、地上30メートルが、247mSv/hという高線量だったため、1回目は断念となった。

自衛隊員も、事故を起こした原発に命がけで放水をするという任務を負っている訳でもない。東電の社員も線量の高い建屋に命がけで保守監視する任務を負っている訳ではない。
当時、吉田所長が「部下にこれ以上線量を浴びせる訳にはいかない」と本社側に訴えていたが、本社から人的補充はほとんどなかった(というより、無理だったのだろう)。

驚くことに、東電の勝俣元会長が、非公式な政府との打ち合わせで、「自衛隊に原子炉の管理を任せます」と言ったという。この発言の真意は分からないが、民間企業が社員に死地で働けと言えないだろう、という本音もあったのかもしれない。

「最悪のシナリオを想定し、平時から準備をしておく」という、このシンプルな教訓を実行するのが、いかに容易でないことが、この「最悪の事態に、誰が命を懸けるのか」ということからも、垣間見える。

この問題を正面から見据えず、原発再稼働など、軽々しく口にすべきではないと本当に思う。

当時、自衛隊全部隊の作戦指導していた統合幕僚監部の運用部長が、番組の最後で、「最悪の事態を想定する思考や、備えるための訓練やマインドが日本の中にたぶんない。危機的な状況に対して国としてどうするのかということに対して、何も変わっていない。だから同じことが起きる。」と述べていたのが印象に残った。

https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/Y3YKKKNVNP/

2021年3月14日日曜日

クララとお日さま/カズオ・イシグロ 土屋政雄 訳

読み終えて、心の奥深くにある懐かしい感情がくすぐられたような気分になった。

それは昔、子供時代に一人遊びで使っていた人形や、ぬいぐるみ、プラモデルへの懐かしい感情に近い。

彼らは、ある時期、濃密な関係と言っていいほど、確かに私の傍にいたのだけれど、いつの間にか、私は彼らから離れてしまい、彼らを動かしたり、語りかけることはなくなった。

おそらく、彼らは何かのついでに物置きに移動して、何かのついでに捨てられたのだろう。

クララという子供のAIロボットの物語を読んで、そういった子供の頃の彼らへの思い出がふと呼び起こされ、くすぐられたような気分になった。

彼らは、自分の主人をどう感じていたのか、彼らは幸せだったのだろうかと。

それにしても、クララの備えている美質が、観察することを主とした控え目な知性であったり、謙虚さであったり、主人に対する忠実さというところが面白い。

カズオ・イシグロの物語には、そういう、今では、あまりもてはやされない、昔気質な美徳をもった登場人物が現れるが、それは、かつて、日本人の美徳でもあったはずだ。

その日本人が失った美徳を、イギリスの作家であるイシグロが再現していて、しかも、この物語では、AIロボットの少女がそれを備えているというところが逆説的で面白い。

物はいつか使い捨てられてしまう。そんな過酷で悲しい運命を想いながらも、この物語が、終始明るさを失わないのは、彼女が自分が下した決断に何の後悔の念を持たず、一貫した肯定感を維持しているからだろう。

彼女が信じたお日さまの光の力のように。

2021年3月7日日曜日

チェルノブイリの祈り/ スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ/ 松本 妙子 訳

私が、この本に惹かれたのは、ドラマ「チェルノブイリ」の典拠本であったことも確かだ。

あの事故を食い止めるために高線量被爆に命を犠牲にして戦った消防士、医療関係者、炭鉱夫、名もなき兵士たち、研究者、そして彼らを愛していた家族の思い。

彼らの犠牲的な行動がなかったら、放射能汚染はヨーロッパ全域に及んでいたかもしれない。

そして、突然、住み慣れた故郷から強制退去を迫られ、生活の基盤を失った住民、放射能に被爆した子供たち、彼らが飼っていた犬や猫、家畜たちの最後。

それらは決して表立って報道されることはない。

それらは、時が経つにつれ、忘れられていく。

そんな彼らの行動、思い、無念さをもっと感じたかったのかもしれない。

本書では、そういった人たちの言葉が整理されないまま、リアルに記録されている。

1986年4月26日午前1時23分に発生した事故から、ほぼ二十年間、原発の元労働者、科学者、医学者、兵士、移住者、サマショール(自分の意志で村に戻って住んでいる人)、その他多くの人たちが、作者にインタビューされ、語り、時には、

「記録してください」
「わたしたちには目にしたすべてを理解できているわけではないが、のこしておきたい。読んで理解できる人がでてくるはずです。わたしたちがいなくなったあとで」

と作者に頼み、彼らの多くが命を失った後も、その思いは記録された。

今、この本を読み終えたのは遅かったのかもしれないと思う。
もっとチェルノブイリ原発事故について関心を持って、この事故が起こした取り返しのつかない事態を、彼らの思いを、日本の多くの人々が重く受け止めていれば、福島の原発事故は防げていたのではないか。
(今、それを実現しようとしているのは、ドイツらしい)

しかし、福島で同じことが起きて、取り返しのつかない事態を同じように体験してしまったからこそ、この本に共感できるのかもしれないと一方では思う。

作者は、この本で、「わたしは未来のことを記録している」と述べているが、その言葉は、チェルノブイリから福島を通して、残念なことに現実のものになってしまった。

今朝、朝日新聞の記事を読んだら、脱炭素社会の実現のため、再び、原発増設の方針に舵を切るような政府の動きが載っていた。

この記事を読んで、本書に載っていた以下の言葉が頭によぎった。

「信じてもらえるのは、ほんものだけです。なぜなら、チェルノブイリをめぐってはあまりにもウソが多すぎるから。むかしもいまも。原子力は軍事と平和のために利用できるだけでなく、私的な目的にも利用できるのです。チェルノブイリのまわりは基金と営利組織だらけです...」