2014年12月24日水曜日

ストロベリー・ナイト・ナイト/山岸凉子

山岸凉子は、1970年代の後半から1980年代の前半にかけて、非常にとんがった作品を描いていた。

私が彼女の作品を読み始めたのは、この年代の作品からで、少女漫画でありながら知的な印象を持つ作品と繊細な絵に魅了されたのが大きい。

「ストロベリー・ナイト・ナイト」も、そんな作品の一つだ。

病院で目覚めた少女が、街を散歩する。
しかし、街にはなぜか異常な光景があふれている。

車を壊す暴徒

草むらでセックスをするカップル

息子を轢き殺され狂気のうちに走り回る母親

酒を飲み小便を垂れ流し泣いている中年男

おもちゃやお菓子を店から奪う子供たち

睡眠薬を飲んで眠る人

大音量で音楽を聴く若者

冷蔵庫の食べ物をひたすら食べる中年男

車で次々と人々を轢き殺すインテリ男

ボロボロの制服を着た警官

やがて、読者は、この街が核ミサイルが落ちる直前の状況下にあることが分かる。

救いようのない世紀末の光景。

しかし、今、読むと、山岸凉子の意図は、おそらく、今まで精神的なトラブルを抱え、病院に入院していた少女が、街を散策し、様々な人々の本性を見て、安心し、その精神的な桎梏から解き放たれる姿を描くことにあったのだと思う。

その瞬間が、たとえ、壊滅寸前の街の中にあったとしても。

彼女の作品には、そんな主人公が多い。
こんなどうしようもない状況下でも、精神的な自由をまっすぐに求めるのだ。

山岸凉子の作品に惹かれるのは、これも理由の一つかもしれない。

2014年12月23日火曜日

現代世界の十大小説/池澤夏樹

タイトルが、若干、大仰すぎる気がするが、簡単に言ってしまうと、現代の世界文学の手引きのような本だ。

その世界文学も、池澤夏樹編集の世界文学全集の作品がベースになっており、これに、「百年の孤独」と「悪童日記」を加えた10の作品のあらすじと作品の特徴、背景などを説明している。

◎ 百年の孤独 / ガルシア・マルケス

◎ 悪童日記 / アゴタ・クリストフ

◎ マイトレイ / ミルチャ・エリアーデ

◎ サルガッソーの広い海 / ジーン・リース

◎ フライデーあるいは太平洋の冥界 / ミシェル・トゥルニエ

◎ 老いぼれグリンゴ / カルロス・フエンテス

◎ クーデター / ジョン・アップダイク

◎ アメリカの鳥 / メアリー・マッカーシー

◎ 戦争の悲しみ / バオ・ニン

◎ 苦海浄土 / 石牟礼 道子

面白いのは、各々の作品の扉のページに、作者の顔写真と生まれた国、作品の舞台となった国が表示された世界地図が掲載されているところだ。

これをみると、南米コロンビア、ハンガリー、ルーマニア、インド、ドミニカ、ジャマイカ、イギリス、パリ、南洋の島、パナマ、メキシコ、アメリカ、アフリカのどこかの国、フランス、ベトナム、日本と、様々な国に触れていて、いわゆる昔の世界文学全集の大半を占める欧米、ロシア文学の偏りとは対照的な構成になっている。

池澤夏樹 個人編集の世界文学全集は、「即戦力の文学」、「国境、言語を超えた普遍性」、「世界そのものを直接理解できるような資質」を持つ作品という基準で選択された。

そして、第二次世界大戦後、それまで抑圧の中にいた二つの存在である「植民地」の人々と「女性」の強い表現意欲によって書かれた作品ということらしい。

この2つの要素は、ポストコロリアリズム(植民地主義以降)、フェミニズムという言葉で説明されている。

ポストコロリアリズムと言われても、ピンとこないのが普通の日本人だと思うが、紹介された作品を読んでいくと、世界には、国境があり、出身国による階級があり、他人の前では、自分のアイデンティティを説明しなければならない場面がある。
むしろ、それが普通なのだということが分かる。

ある意味、これらの作品には、日本という国を客観的に見るための見識と教養が詰まっていると言ってもいいかもしれない。

本書の末尾でも書かれていたが、小説という媒体は、相当のことができるのだなという気がする。
その特徴を、池澤さんは、「ぼくたちが考えるたいていの問題は小説という思考のツールによって解決とは行かないまでも記述と解析ができる」と評している。

また、一つの問題について賛成・反対の両論併記ができる点と、百年という時間も扱うことが可能であるという点も。

小説という媒体は、まだまだ捨てたものではない、そんな気がしてくる。

2014年12月21日日曜日

NHKスペシャルメルトダウン File.5 知られざる大量放出

東京電力福島第一原子力発電所事故で起きた放射能大量放出の検証を行った番組だ。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/1221/index.html

放射能大量放出が起きていたのは、1号機から3号機までの原子炉が次々にメルトダウンした2011年3月11日から15日午前中までの4日間ではなく、15日午後から2週間の間だったというのだ。

最初の4日間の放出量は全体の25%程度だが、その後の2週間の放出量は75%に相当するものだったらしい。

(事故調査委員会が集中的に検証していたのも、メルトダウンが起きていた4日間だけだった)

大量放出は、3号機の格納器で起きたらしい。原因は3つある。

1点目は、メルトダウンを起こした3号機の格納器への消防車による注水が上手く行かなかったこと。
消防車からは1時間当たり30トンの水を送り込んでいたが、実際には1トン程度のわずかな水しか注水できなかったようだ。

その原因は、18カ所も水の抜け道があったこと、途中のポンプが上手く機能しなかったことがあるらしい。

さらに悪いことには、わずかな注水により、水蒸気が格納容器の中に充満し、高温の時間が長引き、燃料棒の損傷をさらに激しくしていた可能性があるということだった。(番組の実験検証による)

これが本当だとすると、わずかな注水がさらにメルトダウンを加速してしまったという衝撃の事実だ。

2点目は、3月15日に行った5回目のベントだ。
このベントで、放射性ヨウ素131が、大量に放出(全体の放出量の10%)されてしまった。

ベントとは、格納容器を保護するため、容器内の圧力を下げることを目的に、放射性物質を含む気体を水でクリーニングし、放射能の濃度を下げた上で、、外部に放出することだ。

本来であれば、水で放射性物質はクリーニングされるはずであるが、水が高温になると、その機能が働かなくなる。
さらに、今回の番組の実験検証では、1回から4回のベントを繰り返すうちに、水が配管のなかに溜まりはじめ、それに管内の大量のヨウ素が付着し、5回目のベントの蒸気が外に押し出してしまったのではないかという推測をしている。

3点目は、4号機格納プールのメルトダウンのリスクを過大評価し、上空からの放水作業を優先してしまい、地震により喪失した各原子炉を冷却するための電源の復旧工事を遅らせてしまったという人的判断のミスだ。

放射能の大量放出が収まったのは3月末頃だが、これはその頃にようやく電源が回復したことが要因だったらしい。つまり、電源の復旧がもっと早くに出来ていれば、放出も早く収まっていたということだ。

なぜ、そのような優先順位の判断になってしまったか。大きな原因としては、事故対応策の決定権が3月15日以降、現場から東電本店に設置された政府関係者も入った統合本部に移管されてしまったことだ。

4号機格納プールには水があった。そして、実は水があるらしいということは、現場では自衛隊の上空撮影の映像で把握していたらしいのだが、政府関係者は、少ない情報しか保有していないアメリカ側から、4号機には水がないに違いない、メルトダウンが起きる危険が高いと再三、脅かされていたらしい。

その結果、本来であれば、最優先されるべき電源復旧が後回しにされ、4号機格納プールへの放水が優先されてしまった。この度重なる放水で、電源復旧の工事は大幅に遅れてしまったらしい。
(3月22日にようやく電源の復旧は本格的にできた)

番組を見て、しみじみと思ったのは、何故、こんなにも対応が裏目裏目に出てしまったのだろうと不思議になるくらい、ほとんどが失敗に終わっているということだ。

しかし、想定外の緊急事態発生時に、人が出来ることは所詮この程度のことだということが実証されたという気もする。

番組でも、NHK解説員が述べていたが、原発に100%の安全はないという結論に落ち着くと思う。

今の政府は、原発再稼働にばかり力を注いでいるが、今後、本当に原発を再稼働し、その事故のリスクを軽減したいのであれば、福島の事故の全体像の検証を継続的に行うべきだ。

それがレベル7という最も深刻な事故を起こしてしまった国の責任というものだろう。

なお、一つ気になったのは、今年3月16日に放映していた同じシリーズの番組「メルトダウン File.4  放射能”大量放出”の真相」では、爆発を起こさなかった2号機から継続的に大量の放射能放出が起きていたと放映していたことだ。
http://gold-blue-lion-by-shirayukimaru.blogspot.jp/2014/03/nhk.html

(私のブログだけでは信頼性がないので以下のブログも参考まで掲載)
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20140320/1395273547

今回のFile.5が3号機からの大量放出が75%と言っている気がするので、前回の番組とは若干、事実の説明が異なっている。これについては何らかのコメントがほしかったと思う。

2014年12月18日木曜日

半分は表紙が目的だった 100冊のペーパーバックスにアメリカを読む/片岡義男

片岡義男が、買い集めた大量のペーパーバックス*(Paper backs)の中から100冊選び、その個性的な表紙を写真に撮ったものを左ページに掲載し、右ページに短い文を添えた本だ。

*安価な紙に印刷され、ハードカバーの様に皮や布や厚紙による表紙を用いていない形態の本

この本で取り上げられているペーパーバックスは、アメリカのペーパーバック専門出版社であるポケット・ブックス社の1940年代から1960年代半ばまでのものだが、今、私たちが書店で目にするペーパーバックスとは全然趣きが違う。

絵が生々しいというか、毒々しく描かれていて、見る者の注意を引きつけることに最大の意識が置かれているのを感じる。

片岡義男は、「一冊ずつみな違うとは、一冊ずつ商業主義が発揮され、その結果としてどの表紙もみな個性的だった。アメリカのペーパーバックの表紙が、たとえばいまでもドイツの文学作品のペーパーバックスがそうであるように、商業主義のいっさいない、きわめて真面目でそっけないものだったら、おそらく僕はペーパーバックスを買うことはしなかったはずだ」と述べている。

本書で取り上げられていた表紙をちょっとだけ紹介


インパクトがある絵です。
こんな拳で殴られたら、痛そう。。。



ヒッチコックの映画の場面にありそうな絵柄
女性の胸元と膝元がセクシーです。



こちらも、映画のワンシーンのようだ。
She warned "if you come down here, I'll shoot!"
「キャビンに入ってきたら撃つわよ!」という科白が表紙上に印刷されている



目が怖い



チャンドラーのリトルシスター(かわいい女)
かつらと氷かきがインパクトがある



こちらもチャンドラーのロング・グッドバイ(長いお別れ)
ダンサーズのテラスの外、ロールスロイスに乗ったテリー・レノックスとシルヴィアか。

2014年12月17日水曜日

爆弾をかかえたアナーキストのように

爆弾をかかえたアナーキストのように冬がやってきた。

Winter came in like an anarchist with bomb.

エド・マクベインの87分署シリーズ3作目「麻薬密売人」の書き出しの文章が、あまりにもぴったりの一日。

皆様、体をご自愛ください。

2014年12月15日月曜日

衆議院選挙結果を受けて

今回の選挙結果は、予想どおりとはいえ、自公政権に、法案の再可決や、憲法改正の発議に必要な、3分の2の定数を超える議席を与えるという結果になったことに、あらためて、げんなりとしてしまった。

政治資金の使途で散々騒がれた議員に、早々に当確が出るのにも驚いた。
(あれは、やはり観劇等でお世話になった利害関係者が全面的にバックアップした結果なのだろうか。常識では考えられない。)

本当に経済さえ、金さえ儲ければ、憲法を改正させてよいのか、平和主義を捨てて戦争ができる国になってよいのか、あれだけひどい原発事故が起こりながら、しかもその事故が収束せず、原因究明と対策もおろそかで、いまだに避難している人々が大勢いる中、全国の原発を次々に再稼働させてよいのか、金より大事なものがあるんじゃないのか、そういう疑念がふつふつと湧いてくる。

本当に、この国は危ないんじゃないか。
あらためて、そう思わされた選挙結果だった。

そういう中で、明確な民意が感じられたのは、自民が全ての選挙区で敗北した沖縄県だけだった。

明確な民意とは、いつまでアメリカの言いなりになって沖縄に基地負担をさせるのか、ということについての明確な拒否の意思表示だ。

原発再稼働に反対して当然の地域で自民が勝利しているのと比較すると際立っている。

唯一、沖縄に明るいきざしを見た。

それが今回の選挙に対する感想です。

2014年12月14日日曜日

街場の戦争論/内田 樹 その2

本書では、日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国であるという事実を明確に述べている。

一つは、重要政策について、アメリカの許可なくして自主的に決定できないこと、そして、もっと重要なことは、従属国である事実それ自体を隠ぺいしていることを指摘している。

戦後70年間で、日本の従属的環境は変化していないけれど、従属的マインドは変化してきているという。

1960年代までの政治家は、自分たちは敗戦国民であり、アメリカに面従腹背する以外に生きる道がないというリアルな現実認識があった。

しかし、戦後三代、対米従属を続けているうちに、対米従属それ自体が、不本意なことでも、屈辱的なことでもなくなってきてしまった。
「アメリカに従属的であればあるほど個人においては日々の生活が快適になる。」これが従属マインドの完成ということなんだと思います。
そして、日本人の対米従属の心理を説明している。
強者によって奴隷の地位に落とされるという事実をまっすぐに見つめているかぎり主体性は揺るがない。ところが、その立場にしだいに慣れてくると、自分は自主的にこのような立場を選んだのであると思うようになる。そしてついには従属しているという事実そのものがおのれの主体性と自由を基礎づけているという倒錯したロジックを平然と語るようになる。そのとき主体性は根こそぎ破壊される。日本人は今そうなっている。
私は、このくだりを読んでいて、久々に、林達夫の著書「共産主義的人間」にある、1950年に書かれた小文「新しき幕開け」を思い出した。
私はあの八月十五日全面降伏の報をきいたとき、文字通り滂沱として涙をとどめ得なかった。…私の心眼は日本の全過去と全未来をありありと見てとってしまったのである。「日本よ、さらば」、それが私の感慨であり、心の心棒がそのとき音もなく真二つに折れてしまった。
…日本のアメリカ化は必至なものに思われた。新しき日本とはアメリカ化される日本のことだろう――
その時から早くも五年、私の杞憂は不幸にして悉く次から次へと適中した。その五年間最も驚くべきことの一つは、日本の問題がOccupied Japan問題であるという一番明瞭な、一番肝心な点を伏せた政治や文化に関する言動が圧倒的に風靡していたことである。この Occupied抜きのJapan議論ほど間の抜けた、ふざけたものはない。
 終戦の5年後にして、このような風潮がすでにあったことが分かる文章だが、内田氏が指摘していることと同じだと思う。

そして、本書「街場の戦争論」では、従属国の政治目標は、「主権の回復」しかなく、そのためには「独立とはどのような状態なのか」を考えないといけない、と述べている。

また、その手がかりは、敗戦以前の、日本がまだ主権国家だった時の日本人の心の中にしかない、彼らが何を感じ、どんな風に思考していたのかを遡及的に探ることが「主権回復」のためのさしあたりもっとも確実で、もっとも筋の通った処方ではないかと述べている。

2014年12月13日土曜日

街場の戦争論/内田 樹

内田樹の街場シリーズを読むと気づかされることが多いが、今回も例外ではなかった。

安倍政権は「国家は株式会社のように運営されるべきだ」と考えている、というこの一言で、安倍政権と日本国民の実態が、とてもよく理解できた。

株式会社が最優先すること、それは利益である。
 →アベノミクス

利益を上げるために、経営者の視点からみて、できるだけ低賃金で高能力の人材と、使いやすい労働制度を求める。
 →グローバル人材の教育推進、残業代ゼロ法案、労働者派遣法改正

より多くの利益を求めるため、効率性を重視する。その効率性を阻害するものを排除する。

 →議論と手続を重んじる民主制、立憲主義を否定し、独裁制にする
   (意思決定が速く経営が上手いワンマン社長のイメージ)

 →特定秘密保護法案の強行採決(事実上の憲法21条(表現・思想の自由)の廃絶)、
   集団的自衛権行使を可能とする閣議決定(事実上の憲法9条の廃絶)

株式会社は有限責任

 →倒産した会社(大日本帝国)が負っている負債(戦争責任)を引き継がない
   (戦争をしたのは私たちではなく先行世代であるという自民党の政治家の発言)

    (本書でも述べられている通り、国家はまさに無限責任でなければならない)

考えを同じくするグローバル企業(輸出企業)を優遇する

 →法人税減税法案、原発再稼働

そしてそういうビジネスマン的な考えに慣れた(サラリーマンとして飼いならされた)国民の過半数が、企業の収益の最大化のためなら、自分たちの安全や健康、思想や自由を犠牲に差し出してもかまわないと考えているという説明は、実に明快だ。

それが、最近の新聞報道にあった圧倒的な自公優勢の選挙結果の予想なのだろう。

本書では、内田氏が、安倍政権の日本の今後を以下のとおり予測している。

 ・独裁的な政体
 ・平和主義外交の終わり

本書冒頭の「私たちが今いるのは、負けた戦争と、これから起こる次の戦争にはさまれた戦争間期ではないか」という内田氏の予感が、現実のものとならないことを心から願う。


週刊プレイボーイ掲載の『街場の戦争論』についてのインタビュー
http://blog.tatsuru.com/2014/12/10_1617.php
安倍さんたちが目指しているのは、北朝鮮とシンガポールを合わせたような国だと思います。
政治的には北朝鮮がモデルです。市民に政治的自由がなく、強権的な支配体制で、自前の核戦力があって国際社会に対して強面ができる国になりたいと思っている。
経済的な理想はシンガポールでしょう。国家目標が経済成長で、あらゆる社会制度が金儲けしやすいように設計されている国にしたい。

2014年12月8日月曜日

絵本についての、僕の本/片岡義男

冒頭の片岡義男の絵本に関する説明がいい。

絵本とは、ごく簡単に言うなら、現実にはどこを探しても存在していない世界のことだ。それは想像力によって頭の中に作られていく世界だ。一冊の絵本という具体物とはまったく別に、その絵本をきっかけにして、僕の想像力は刺激を受け、その刺激によって、頭のなか以外のどこにもない世界を、作っていく。 
幼い子供は、自分の頭のなかに想像力というものを作らなければいけないことを、本能的に知っているのだと僕は思う。身のまわりにあるものをとおして、幼児は必死に想像力を育てる。この本能的な必死さを、すっかり失ってしまった人たちが、いわゆる大人と呼ばれる人たちなのだろう。
本書で紹介されている本は、すべて英語圏の絵本というところが、片岡義男らしいと言えば、それまでだが、若干残念ではある。

面白いのは、片岡が絵本について、ただ単に可愛い、愛らしい、楽しい、愉快な夢のような世界を提示するだけのものではなく、社会の基本的な理念に沿って、子供たちを厳しく教育していくという教科書的な役割を重視している点だ。

ABC、文章の構成、数の数え方などを教えるのはもちろん、子供たちが個人的な主観の世界から抜け出て、社会のなかで普遍的に機能する価値観や理念を、しっかりと身につけるために、絵本の役割はあるという考え方が述べられている。

本書は、片岡が趣味でコレクション的に集めた絵本を、オシャレな感じでまとめただけの本のように見えるが、実は日本の教育の現状と、理念がない社会について、質の高い絵本を豊富に生み出し続けている英語圏社会と比較し警鐘を鳴らしている、とても硬派な本なのだと思う。



2014年12月7日日曜日

12月14日 衆議院選挙について

読売新聞12月4日の朝刊では、自公300超す勢いとの見出しが新聞の一面に出ていた。

http://www.yomiuri.co.jp/election/shugiin/2014/news2/20141203-OYT1T50109.html

他の新聞社も、ほぼ同じ予想結果を掲載している。


朝日新聞 自民300議席超える勢い
http://www.asahi.com/articles/ASGD376BZGD3UZPS01L.html


毎日新聞 自民300議席超す勢い
http://mainichi.jp/select/news/20141204k0000e010124000c.html


日本経済新聞 自民、300議席うかがう
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS03H4I_T01C14A2MM8000/


現在は、自民党、公明党の与党の議席数を合わせると、326議席。

今度の衆議院選挙後の総議席数が475なので、その3分の2にあたる317議席を自公が獲得すれば、参議院で法案を否決しても、衆議院で再議決すれば、法律を成立することができることになる。

普通、選挙序盤でこのような報道をすると、その反動で、野党に投票する傾向になると言われるが、自民党支持の姿勢を鮮明に打ち出している読売新聞が、このような記事を一面に掲載した意図を考えると、そのような揺り戻しは起こらず、自公が勝利するのは手堅いと見越しているからなのかもしれない。

振り返れば、特定秘密保護法(12月10日施行)の強行採決、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定など、国会での十分な議論のプロセスを経ずに、日本国憲法の基本理念である平和主義、国民の知る権利を脅かすような安倍政権の危険な一面が見えた2年間だった。

そもそも、今回の衆議院選挙は、消費税増税を延期することで、安倍政権が推し進める経済政策 アベノミクスの信を問うというのが建前らしいが、読売新聞の読み通り、今回、自公が300を超すような議席を獲得できる結果になれば、間違いなく、安倍政権は、「国民の信を得た」という姿勢で、集団的自衛権の行使を可能とする安全保障法制の整備、さらには、憲法9条の改正、原発再稼働、沖縄の辺野古埋め立てなどを、今まで以上に強引に推し進めることになるのだろう。

そう予想する人は少なくないはずだから、安倍政権への反対、牽制のため、今回の選挙で、少なくとも自民党の議席数は減るだろうと私は思っていたのだが、全くの見込み違いだったらしい。

党首討論で安倍首相がボードに書いていた

この道しか無い



安倍首相の発言を見ると、「この道」には、単にアベノミクスだけではなく、安全保障法制も含んだ今まで安倍政権が推し進めてきた主要な政策という意味合いも込められているようだ。

「この道」の先に、果たして何があるのか、よくよく考えて投票する

そう、私に思わせてくれた世論調査の結果だった。


*哲学者 内田 樹さんの共同通信のインタビュー
http://blog.tatsuru.com/2014/12/05_0858.php

――安倍政権はグローバル企業の収益増大のことしか考えていない。そのためには「国家は株式会社のように運営されるべきだ」と信じている。――