2013年6月30日日曜日

カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー

ドストエフスキーの最後の作品と言われる「カラマーゾフの兄弟」。

1880年(日本は明治十三年)に完成した作品で、古典といってもいい年代の作品だが、今読んでも、人間というものの生々しさが伝わってきてしまうほど精力にあふれた現代的な作品だと思った。

この小説には、様々な登場人物たちが出てくるが、誰一人として輪郭が薄い、存在感がない人物はいない。皆が皆、何らかの”業”のようなものを背負っている。

いい人と思われる人物でさえ。時には醜く、時にはあくどいときもあるが、同じく悪人と思われる人物でさえ、時には美しく、時には気高い言動をする。

そこから総体的に感じられるのは、本当の人間とはこんなものなのだろうという一種の納得だろうか。

しかし、現代の日本人の感覚からいうと、彼らは、あまりにも人間くさい。

まるで、ケン・ラッセルの映画に出てくるような、時に滑稽に感じるほど得体の知れないエネルギーに満ちた人々だ。
(当時のロシア人がそうだったのか。あるいは十九世紀の人間とはこういうものだったのか。)

会話も決して洗練されたものではないが、とにかく喋って喋って喋りたおす。
特に悪人と思われる人物ほど、よく喋る。
(父 フョードル・カラマーゾフ、長男のミーチャ、次男のイワン等。逆に善人の三男アリョーシャは基本的に長々と喋っていない)

日本やヨーロッパ、アメリカの洗練された小説ばかり読んでいると、そのしつこさに、息の長さに圧倒される思いがする。

この小説に詰め込まれているテーマの数もとても多いし、その内容も重い。

性欲、放蕩などの情欲、金銭欲などの強欲、嫉妬、憎しみ、信仰、奇跡、神と悪魔、キリストとキリスト協会、父殺し、農奴制などなど。

特に、無神論者のイワンが語る「大審問官」と、そのイワンが悪魔と会話する部分は印象的です。

しかし、そういう重いテーマだけではなく、後半は殺人事件をめぐる一種の推理小説・裁判小説にもなっていて、法廷のやり取りなどは緊迫感とゴシップ的な内容に満ちていて、単純に楽しめる要素も盛り込まれている。

ある意味、あらゆる現代小説の生みの親のような小説なのかもしれません。

2013年6月29日土曜日

But the old get stronger

最近、よくスポーツジムに通っている。

「翻訳教室」の中で、村上春樹が、体力がなければ何もできない。集中力というのは体力なんだということを書いていて、妙に納得してしまったのが動機かもしれない。

最初は続くかと思っていたが3ヶ月も経ち、ようやく自分に必要な運動量というのも分かってきた。

深酒(笑)をしなくなり、夜も早く寝て、体の調子もよくなってきた。

そんな訳で、だんだんと早起きに生活が変わってきたのだが、私が通っているスポーツジムは公営で料金も安いせいもあるのかもしれないが、朝の部は、とにかくお年寄りが多い。

「筋トレマシーン」や、「ランニングマシーン」等は、ちょっと込んでいると奪い合いに近い状況になる(順番表は一応あります)。

リハビリ的な運動をしながら、おしゃべりされている人も多いが、中には、私より50Kgも重いレッグプレスをもくもくとこなしている人もいる。

こういう光景を見ていて、昔のドアーズの詩の一節が頭を過ぎった。

The old get old
And the young get stronger …

ではなく

The old get old
But the old get stronger …

これから、ますます、そんな時代になっていくのかも。

2013年6月18日火曜日

プリントアウト

オフィスでも、「一人、紙3枚まで」という貼り紙を無視して、平気で印刷してしまう私である(環境保護活動らしい。でも再生紙だけど)。

どうしても、モニタで原稿をみると、体がむずむずしてしまうのだ。

「あー!ここ直したいとか、書き込みしたい」と思うと、手がむずむずしてしまう。

長い文章であれば、なおさらだ。

Wordのコメント機能だとか、修正履歴機能も使うときには使っているが、何となく気持ち悪いし、見づらい。

瀬戸内寂聴さん、藤原新也さん共著の「若き日に薔薇を摘め」でも、藤原新也さんが、「デスクトップで読んだものとそれを紙でプリントアウトとして読んだものとは、明らかに文章の見え方が異なる」とコメントされているのをみて、共感してしまった。

紙に印刷したものだと、文章の全体像が視覚にビビッドに伝わってきて、つまらない誤字脱字や文章の変なところにすぐ気づくことができる。

注意散漫と言われるとそれまでだが、モニタで文章をみても、その誤りを見過ごしてしまうことが多い。

それと、私などは、昔、上司に文書を赤ペンで添削されていた口なので、Wordの修正履歴が付いたものをみると、何となく冷たさを感じる。

肉筆の温かみもそうだが、添削された原稿の場合、打ち直しながら、何が悪かったのか、自分の文章を嫌でも省みることになるが、Wordの修正履歴は、承認ボタンを押せば、それで完成してしまう。(もちろん、ちゃんと見直す人もいるとは思うが)

最初、真っ赤に直された原稿が経験を重ねていくことで、少しずつ白い原稿が帰ってくる。自分の成長をリアルに感じることができる。

では、小説、エッセイだったらどうか。
これも圧倒的に紙媒体、本でないと、少なくとも私は読む気が起きない。

手に持った厚み、しおりを付けて、何ページ読んだという満足感。
ぱらぱらめくって、気の向いた部分を読む気ままな感じ。

読みたくない本も、机のうえにずっと置いておくと、それだけで読まなければというプレッシャーにもなる。

そういうものはデジタルでは感じられない。

2013年6月16日日曜日

若き日に薔薇を摘め/瀬戸内寂聴 藤原新也

本書には、雑誌「the寂聴」に掲載されていた瀬戸内寂聴と藤原新也の間で2008年10月28日から2010年8月13日までの間に交わされた29通の往復書簡が収められている。

何故、今頃、あの震災を挟んで、公表されたのだろうという思いが若干過ぎったが、震災後の今、読んでも十分に心に響く内容になっていると思う。

読んでいておかしかったのは、それぞれの書簡を読むと、自然と二人の姿、表情が思い浮かんでしまうことだった。

瀬戸内寂聴の書簡はいかにも瀬戸内寂聴であり、藤原新也の書簡はいかにも藤原新也らしい世界観に満ちている。

そんな個性あふれる二人の間でこれだけ息のあった書簡が29通も続いたことに、まず素直に感心してしまう。

特に、瀬戸内寂聴の書簡は、未だ抜け切れない業のような思いとそこから湧き出てくる力が感じられて、歳を感じさせない。
藤原新也との年も親子ほど離れているが、完全に対等なやり取りとなっており、寂聴が自分の住処に藤原新也を招待するのに、彼から送られた書をどんな額縁に入れて何処に飾ろうかなどと頭を悩ませている姿は、いかにも女性っぽい。

それと、ちょっと驚いたのは、以前、藤原新也の「書行無常」展で見た「死ぬな、生きろ」の書を、すでに2010年の当時、寂聴の鳴門の家で書いていたことだった。

あれは、震災を受けて書いたものかと思っていたのだが、実は、米寿を迎える瀬戸内寂聴に対するメッセージでもあったのだ。

この強烈な言葉を、自分を自宅に招いてくれた年上の女性に送ってしまうところが、いかにも藤原新也らしいとも思うが、二人の関係がある意味、通り一遍のところを超えてしまっている証拠なのかもしれない。

このような一風変わった友情としか言いようがない濃い人間関係があったからこそ、これだけ読ませる書簡集になったのかもしれませんね。


2013年6月2日日曜日

倒錯の森/J.D.サリンジャー

サリンジャーの初期の中編小説。

ドイツ人男爵の娘として裕福な家庭で生まれた主人公のコリーンは、十一歳の誕生日に、好きだった少年フォードをパーティーに招待していたが彼は来なかった。

探しに行ったが、彼は無教養な母親に連れられ、その日に街を去ろうとしていた。

十九年後、雑誌社に勤めていたコリーンは、その自分とは正反対の境遇にあった少年フォードの名前を、偶然読んでいた詩集の作者に見つける。

その彼が書いた詩が、この作品のタイトルになっている。

荒地ではなく
木の葉がすべて地下にある
大きな倒錯の森なのだ

コリーンは、十九年ぶりにフォードと再会することになる。

フォードは大学を出て知性を身につけてはいたが、再会の場所が大学そばの小さな中国料理店で、その後のデートが、いつも、三流映画館と中華料理であることからも分かるように、コリーンの生活スタイルとは異なるものだった。

しかし、彼女はそういったものを無視し、彼女を愛していた別の男の警告も無視して、フォードと結婚することとなる。

やがて、フォードに詩の助言をしてほしいという二十歳の大学生と称する女からの手紙をきっかけに、彼らの夫婦生活は大きく変わることとなる。

コリーンがフォードに感じる幻滅、そして、ここでは明示的に表現されてはいないけれど、フォードが感じていただろうコリーンに対する幻滅。それらをちょっとした登場人物の会話や仕草で繊細に組み立てて、残酷なまでに明らかにしていく手法は、いかにもサリンジャーらしい。

タイトルの「倒錯の森」は、色々な意味に解釈できる。
子供の体に大きな傷跡を残しても平気な残酷な母親に対する詩人の深層心理。
詩、芸術の源泉。
幼い初恋の憧憬をいまだ捨てきれない女性の悲劇。

ある意味、サリンジャーの隠れた名品かもしれない。