2015年10月27日火曜日

若者よ、マルクスを読もう/内田 樹 石川康宏

本書は、プロイセン王国(現ドイツ)出身のカール・マルクスが書いた著書が、いかに知的な刺激に満ちているかを、哲学者の内田 樹さんと、経済学者の石川康宏さんが、代わりばんこに、その魅力を説いている本だ。

マルクスといえば、あの「資本論」を書いた人だから、てっきり経済学者とばかり思っていたが、哲学者だった。

その程度の知識しかないのは、私が無教養だからだとは思うが、今振り返っても大学時代、少なくとも「マルクス」を読もうという空気は周りになかった。

1989年のベルリン崩壊と、それに引き続いて起きた東欧諸国の民主化の流れと1991年のソ連崩壊。

マルクス主義を掲げる社会主義国家が次々と崩壊していったことは、マルクスの考えが間違っていたという事実が証明され、これは終わった思想であるという認識を、私も漠然として持っていたような気がする。

しかし、本書では、 内田さん、石川さんともに、その「政治的主張」の正しさではなく、マルクスのダイナミックな思考プロセスに着目していて、

「何かおもしろい視角がないかなあと研究のヒントを探しに行くというような関係」

「マルクスを読むと自分の頭がよくなったような気になる」

「マルクスを読んでいると、自分の思考の枠組み(檻)を外側からがんがん揺さぶられて、檻の壁に亀裂が走り、鉄格子が緩んでくるような感じがする」

と、その知的な効用について、もっぱら述べられている。

マルクスの魅力について、最も端的に本書で述べられていたのは、著書「ドイツ・イデオロギー」から取り上げられたマルクスの箴言について、 内田さんが語っているとことだ。

「かれらがなんであるかは、かれらの生産と、すなわちかれらがなにを生産し、またいかに生産するかということと一致する」

史的唯物論を代表するこの箴言について、内田さんは、 こう述べている。
人間が何ものであるかは、その人が「何であるか」という本質的な条件によってではなく、「なにを生産し、いかに生産するか」によって決定される。

その人が「ほんとうは何ものであるか」 なんて、極端な話どうでもいいよ、と。マルクスはそう言っている訳です。どれほど根がヨコシマでも善行をすれば善人。どれほど根が善良でも悪いことをすれば悪人。

ぼくはこれを読んで、心底「ほっ」としたことを覚えています。
(この考えって、司馬遼太郎の考え方にも通じるものがありますね)

「意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する。」
かっこいいですね。「AがBであるのではなく、BがAなのだ」という修辞法はマルクスの得意とするところでした。
 これと同じ修辞法は他の雄弁家によっても用いられます。
「祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません、 あなたが祖国のために何をできるか考えてほしいのです」(J・F・ケネディ)
というような説明を聞くと、俄然、マルクスへの興味が湧いて来る。

しかし、内田さんも、石川さんも、本当に本がボロボロになるまで、マルクスの著書を読み、その言葉が自分の身体の一部になるまでになったから、こういう解説ができるのでしょうね。

自分の考えに自信が持てなくなった時とか、あれって思うような思想的事件に巻き込まれた時に、立ち戻ることができるホームグランドのような、あるいは解毒剤となるような古典的思想を身につけるといいだろうな、と個人的には強く憧れを感じた。


本書はまだ、マルクスの初期の著書までしか触れていないので、是非、「資本論」までの続編を読んでみたい。

と思ったら、 2巻が出ていた…

http://www.kamogawa.co.jp/kensaku/syoseki/wa/0714.html

2015年10月18日日曜日

神と人との間/谷崎潤一郎

この作品は、当初あまり良いイメージがなかった。

原因は、丸谷才一の小文を読んでいたせいで、そこには、関西移住前の谷崎は、ずいぶんとひどい文章を書いていた例として、この作品の冒頭にある一節を取り上げていたのだ。

…夜が更けたのか部屋の中がしんしんと寒い。宵に雨戸を締めたのだけれど、借家建てのぎしぎしした普請なので、隙間洩る風がぞくぞくと身に沁みる。…

(確かに、これら擬音の組み合わせは幼稚な感じがする)

しかし、今回改めて読んでみると、谷崎の自伝的な小説「神童」「鬼の面」「異端者の悲しみ」と比較しても質的に劣らないし、本書をこれら自伝的小説に加えても違和感はないように感じた。

本書を自伝的という 意味は、もちろん、谷崎と、その妻 千代、そして彼の友人であり、詩人/小説家の佐藤春夫との間の三角関係だ。

本書では、谷崎が添田という悪魔主義的な小説を書く作家に、千代は、その夫から妻として愛せられていない元藝者の朝子を、佐藤は若い時分に添田と朝子と三人でつるみ、実は朝子を愛していた気の弱い元医者で「失恋詩人」の穂積に、置き換えられている。

穂積は、添田も朝子を愛しているという告白を聞いてしまい、実は朝子も穂積の方が好きだったにもかかわらず、身を引くばかりか、添田と結婚するよう朝子に熱心に薦めてしまったのだ。

(この藝者時代の三人の関係は、鈴木清順の映画「ツィゴイネルワイゼン」の中砂と小稲、青地の関係に似ている。)

興味深いのは、物語が穂積の目線で進んでゆくところで、添田が幹子という女優に入れあげ、夫を愛する朝子と彼女を慕う穂積に対して、その忠節や憐憫の情を悪辣なまでに踏みにじる姿が存分に描かれているところだ。

一方、それに対して、穂積のいじけっぷり、ネクラな描写にも容赦がない。まだ、添田の方が人間的に魅力的に感じてしまうほどだ。

(佐藤春夫は「田園の憂鬱」を読んだことがあるが、詩人らしく、繊細な文章を書く人である。この小説の穂積の描写にはちょっと傷ついたでしょうね。)

面白いのは、作中、添田が、悪魔主義的な小説として、添田、朝子、穂積、幹子を模した人物を登場させ、夫が邪魔になった妻の首をひねり殺してしまう小説を書き、世間の非難を浴びるという場面を描いているところだ。
あらかじめ、この小説が公表された時のことを予想して書いたのだろうか。

そして、この小説では、穂積が、いつまでたっても朝子と結ばれず、添田に利用され続けることに絶望し、添田が精力増進のために飲んでいた西班牙の蠅に毒を盛り、腎臓炎を発症させて、彼を殺してしまうという結末に向かう。

病床で、穂積や朝子に懺悔する添田は、ひょっとすると、「俺を殺さないでくれ、このとおり詫びるから」、という谷崎の本心が仮託された姿なのかもしれない。

同時期に書いた「肉塊」でも、欧米風の混血の女の子に入れあげ、家庭を顧みず、好き勝手に映画制作に取り組む夫が、自分の仕事上の相棒に妻の美しさを発見され、自分の映画制作を脅かされるという内容だ。

この時期、谷崎自身も、自らが招いた三角関係に精神を脅かされていたことが感じられる。

2015年10月13日火曜日

私/谷崎潤一郎

この小説で描かれている “私”は、やはり、一高時代の谷崎潤一郎の姿が浮かんでくる。
裕福な環境にある友人 中村や樋口と比較して、貧書生の身分にいる谷崎。

ある日、その友人たちとのおしゃべりの中で、最近、寮の中で盗難が頻発している事実が話題が上がる。

目撃談によると、犯人は「下り藤」の家紋が入った紋付を着ているらしいのだが、同じ家紋が入った紋付を着ている “私”は、その話を聞いて嫌な顔をしてしまう。

“私”を敵視している平田という頑強な体の友人が、ちらりと “私”に目を走らせたからだ。

平田は、 “私”を「ぬすッと」と疑っており、依然として止まない盗難事件に、平田以外の学生たちも、“私”に対する嫌疑を深めてゆく。

善良な友人の中村は “私”を庇うが、 “私”は、感激したように涙を流し、「僕は平田を尊敬している。僕よりも、よっぽどあの男の方が偉いんだ。僕は誰よりもあの男の価値を認めているんだ」と、逆に中村を諭す。

そんなある日、“私”は誰もいない自習室に行き、平田の机の傍に立つ。
そして、“ぬすッと”が誰かが明らかになる…

以上が、この短い推理小説?のあらすじだが、読者は、あくまで“私”の目線で、この物語の展開をみていくことになる。

“私”が語る「ぬすッと」の心情が奇妙なユーモアに包まれているのは、不義理を重ねた若い谷崎自身の面影が濃く映っているからだろう。

しかし、こういう友人は持ちたくないというのが本音である。

2015年10月12日月曜日

途上/谷崎潤一郎

会社員の男が帰宅の道すがら、探偵の質問を受け、そこから、徐々に男が妻を殺すための数々の犯罪が明るみになる。
男がとった殺人方法は、直接的に妻を殺すことでなく、妻を病気になりやすい、あるいは事故に遭いやすい環境に置くこと。そうして、妻の上にいくつもの危険の可能性を積み重ね、偶然的危険を必然的危険に近づけていくことだった。

探偵と男の会話のやりとりの中で、可能性(possibility)の犯罪を巡るロジックの応酬があり、物語には理路整然とした緊張感がもたらされる。

1920年(大正9年)に書かれた推理小説とは思われないほど、完成度が高い。

それと、大正時代の生活のレベル 例えば、乗り合い自動車(バス)で、しばしば衝突事故が起きていたこと、東京 大森の飲み水が悪く、チフスにかかりやすい環境であったことも、興味深い。

探偵と犯人を東京の街を歩かせながら、物語を進めているところも動きが感じられていい。

金杉橋から新橋、銀座通りを抜けて、京橋、日本橋、そして水天宮まで約5㎞の真っ直ぐな道のり。

東京の要所を用いた歩いて1時間程度という現実的なルートの舞台装置も、いかにも谷崎らしい。

2015年10月11日日曜日

輝ける闇 開高健 /日本文学全集 21

ベトナム戦争をテーマにした作品というと、映画では、キューブリックの「フルメタル・ジャケット」、コッポラの「地獄の黙示録」、小説では、ティム・オブライエンの「ニュークリア・エイジ」 、トマス・ピンチョンの「ヴァインランド」ぐらいしか、浮かんでこない。

(NHKドラマの「夢帰行」でも、べ平連、学生運動に触れた回があったと思う)

面白いことに、この日本文学全集 21で取り上げられた日野啓三と開高健は、日野は読売新聞、開高は朝日新聞の記者として、ベトナム戦争を取材するために南ベトナムに行き、それぞれ、この戦争に影響を受けた小説を書いた。

特に開高健は、米軍が支援する南ベトナム軍に兵士として従軍し、反政府ゲリラの機銃掃射に遭い、大隊200名のうち生き残ったのが17名という死地を経験する。
「輝ける闇」は、彼がその死地を経験するまでの戦争の日常を包み隠さず生々しく描いたものだ。

一見緩慢とした戦争の日常、米軍兵士との交流や、現地でのベトナム人女性との恋人関係、強烈な湿気が全てを海綿のように腐らせてしまう情景を描き続けるその目的は、自らを死地に追いやるための前準備のようにも思える。

客観的にみれば、 開高がこの戦争に従軍する意味はないはずだった。それが日本とベトナム戦争の距離感だったと思う。かかわらず、彼は命の危険を顧みず、自分の身を戦争へと投じた。

日野啓三が日常からはみ出した別の世界を求めていたように、開高も平和な日本では得られない体験を求めていたのかもしれない。

しかし、正直なところ、私はその思いに共感できなかった。

戦争のプロでもない彼が出兵することはお荷物でしかなく、別の兵士が危険に晒され、敵兵も死ぬかもしれない。
たとえ、その死地を経験しなければ書けない文章であったとしても、そうまでする価値が本当にあったのだろうか。

そういった思いが邪魔したせいだろうか、池澤夏樹がいう、この作品は「傑作」という評価には、正直、共感が出来なかった。

2015年10月7日水曜日

職業としての小説家/村上春樹

谷崎潤一郎は、四十八歳の時に、日本の国民に向けて、彼の考える文章の読み書きの要諦を「文章読本」としてまとめ、丸谷才一も、五十二歳の時に、ほぼ同じ趣旨の内容の本を、同じ題名で書いた。

日本語の変化など、日本の社会的環境の変化が、この二人にこのような本を書かせたのかもしれないが、もう一つ共通しているのは、この二人がそれぞれ作家としての地位を確立し、プロフェッショナルな専門家として自信をもって文章について語ることができる時期に、この本を書いたということだ。

村上春樹が今年六十六歳に書いたこの「職業としての小説家」にも、彼のそのような自信を垣間見ることができる。

本書は、まるで小説家を目指す人への指南書のようにも見えるが、表紙の帯にあるように「自伝的エッセイ」という側面が強くにじみ出ている。
・第一章 村上春樹が考える小説家としての資質

・第二章 小説を書こうと思いたったきっかけ

・第三章 「風の歌を聴け」を書いたときに獲得した文体と書き直しのプロセス

・第四章 芥川賞やノーベル賞などの文学賞に対する思い

・第五章 オリジナリティとは何か

・第六章 何を書けばいいのか

・第七章 長編小説の書き方

・第八章 基礎体力をつけることと規則正しい生活の重要性

・第九章 日本の学校・教育がかかえる問題(読書の重要性)

・第十章 登場人物の多様性、一人称から三人称への切り替え

・第十一章 村上作品の海外進出の舞台裏

・第十二章 臨床心理学者 河合隼雄との思い出
という内容なのだが、私が興味を惹かれたのは、「小説の書き方」から若干距離がある第九章と第十一章だった。

 第九章は、日本の教育システムのかかえる問題と関連させて、「原発事故」について語っている。
想像力の対極にあるもののひとつが「効率」です。 数万人に及ぶ福島の人々を故郷の地から追い立てたのも、元を正せばその「効率」です。「原子力発電は効率の良いエネルギーであり、故に善である」という発想が、その発想からでっちあげられた「安全神話」という虚構が、このような悲劇的な状況を、回復のきかない惨事を、この国にもたらしたのです。それはまさに我々の想像力の敗北であった、と言っていいかもしれません。
想像力の対極にあるものが「効率」という視点は、どこか真実味がありますね。

第十一章は、「ニューヨーカー」での作品掲載を足掛かりに、四十代前半の村上春樹が、新人作家のような立場で自ら足を運び、アメリカのエージェント、大手出版社、担当編集者を選び、自分の作品をアメリカで売り込んでくれる営業体制を構築した苦労話が語られている。
欧米での販売チャネルが出来た後、彼の作品を訳してくれる優れた翻訳者が、どんどん増えてゆき、今では五十を超える言語に訳されているという。

明日発表となるノーベル文学賞に毎回ノミネートされる背景には、もちろん村上作品のテクストとしての力があってのことだろうが、上記のような地道な「営業努力」があって、海外での読者層が拡大している環境も大きく寄与しているに違いない。

2015年10月5日月曜日

巨大災害 MEGA DISASTER Ⅱ 日本に迫る脅威 第3集 火山列島 地下に潜むリスク

http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20151004

2011年3月11日の東日本大震災を受けて、北海道から九州まで、日本の活火山が活発になってきているらしい。

あの大地震により、東北地方が大陸が東に引っ張られ、岩盤に隙間ができて、マグマが噴き出しやすい環境になってしまっているという。
しかも、この大陸を引っ張るエネルギーが、今後百年経っても、ほとんど減少しないものだという。

北海道の十勝岳、福島の吾妻山。箱根山の大涌谷。九州の新燃岳などで、地面の膨張が観測されているという。

番組では、今、一番危険と言われている桜島と阿蘇山を中心に取り上げていたが、最も被害が及ぶリスクとして、“カルデラ噴火”を取り上げていたが、その威力がものすごい。

番組では、過去に起きた阿蘇山の“カルデラ噴火”が現在に起きた場合をCGで再現していたが、800度の火砕流が、時速900kmで押し寄せる。福岡市など、九州の都市が壊滅的な被害を受け、その影響は九州全体に及ぶだけでなく、大阪では30cm、関東でも5cmの火山灰がつもり、交通機関などに影響が及ぶ。

カルデラ噴火の場合、マグマが地表に噴き出すことで、地下のマグマだまりに空いた隙間に、カルデラの岩盤が崩落し、その勢いで、マグマだまりにある多くのマグマが噴き出てしまうことから被害が特に甚大になるらしい。

カルデラが意外な場所にあることも分かった。
阿蘇山の場合、今はカルデラの中に街があるらしい。
桜島の場合は、鹿児島湾がカルデラで、北海道、東北の大きな湖もそのときに窪んで出来たものらしい。

しかも、このカルデラ噴火、過去6500年に一度の頻度で発生してきたが、これまで7300年間、何事もなかったため、いつ起きても不思議はないということだった。

番組では、噴火を予知する取り組みとして、人工地震を使った解析によって地下のマグマの位置や大きさを特定したり、人工衛星が搭載しているレーダで、地表の凹凸を数cmの精度で観測し、2週間に一度、同じ場所を比較することで、地表が膨らんでいないかなど、差異を分析する方法を紹介していた。

私が一番懸念したのは、今、政府が積極的に進めている原発再稼働の動きだ。
もし、阿蘇山で、あるいは桜島でカルデラ噴火が起きたら、川内原発はどうなってしまうのか。

この日本列島の火山の活発化を見たら、どう考えても、原発は再稼働すべきではない。

2015年10月4日日曜日

終物語/おうぎフォーミュラ 其ノ壹・ 其ノ貳 そして「傷物語」の予告!

西尾維新原作の「物語シリーズ」も、いよいよ、ファイナルシーズンのアニメ化が始まり、昨晩、「終物語」が放映された。

今までは、放送前日の読売新聞の朝刊一面に新聞広告が掲載されていたが、今回は掲載がなかったので、あやうく、放映を見逃すところだった。

すでに原作は読んでいたが、ほとんどストーリーを忘れていた自分に驚いた。

学校の教室に、下の階と比較すると明らかに寸法がおかしい視聴覚室がある。ある日、神原駿河の紹介で、転校生の忍野 扇が、その謎を阿良々木暦に相談するところから、物語がはじまる。

二人が、その視聴覚室を訪れると、見覚えがない教室があり、中に入った途端、扉が開かなくなり、閉じ込められてしまう。

忍野 扇の問いかけが進むうちに、阿良々木暦は、その教室が、阿良々木暦が高校1年の時の教室であることを思い出す。

それは、彼が 「友人を作ると人間強度が下がる」というようになるきっかけとなった事件が起きた日の放課後の教室だった…

というような物語で、登場人物は、阿良々木暦と忍野 扇、そして、その事件の中心人物である老倉 育がメインで、ちょっとだけ顔を見せている神原駿河、戦場ヶ原ひたぎ、羽川翼がいる。

この物語は、ある「事件」をめぐって、クラス全体で犯人探しを行うという推理小説めいた内容になっているせいか、めずらしく、メインの登場人物以外のクラスメイトの名前が出てくる。

このクラスメイトを、どんな風にアニメでは表現するのだろうと思っていたが、ほぼ予想どおりだったのは、若干残念だった。

阿良々木暦の心象風景だからと言ってしまえばそれまでだが、クラスの中で行われた議論や、老倉育が不登校になってしまった事の重みみたいなものが十分に伝わってこないという点は否めないだろう。

※この番組の最後で、ついに、あの「傷物語」の2016年1月の劇場公開が予告されていた。(2012年の告知から実に3年)。しかも3部作に分けるという。原作は、そんなにボリュームはなかったと思うが、どんな膨らませかたをするのやら。

http://www.kizumonogatari-movie.com/