2021年10月17日日曜日

飛魂/多和田葉子

梨水という女性が、森林の奥深くにある「虎使い」の亀鏡という師がいる寄宿学校のようなところに行き、「子妹」という同窓生と共に、「虎の道」という書を読み、亀鏡との対話を通して学ぶ生活を描いている物語(主要な登場人物はすべて女性)なのだが、迷路に迷い込んだような錯覚を覚える。

まず、彼女たちが学んでいる「虎の道」という書の内容がよく分からない。その原典は全三百六十巻もあり到底読み通せる量ではなく、「一度読んだだけでは意味を表さない部分が多い」ので、通読しても意味がないものだという。粧娘という「子妹」は、書を読み進めていくうちに、書いてある内容にいくつも矛盾を見つけ、自分とは無縁のものであることを悟り、学舎を去る決心をする。

虎とは一体何なのかという疑問が読み終わっても残る。梨水は「虎」という「字霊」に取りつかれ、「幽密」(セックス)を行う場面が出てくるのだが、「虎」とは「字霊」あるいは「言霊」のようなものなのだろうか。

亀鏡が、師である自分の考えに同調しようとする「子妹」にはあまり関心を持たず、梨水に注意を払うのは、彼女が書を音読することで、その声の響きによって、時には内容も改変し、その言葉を自分の言葉に変えてしまい、言葉のパワーを解放する亀鏡とは全く違った能力を持つ存在だからかもしれない。

漢字が多用される本作は、中島敦の作品を彷彿させるが、彼が書いた「弟子」に登場する孔子と子路の模範的な師と弟子の姿はなく、亀鏡と梨水の関係は競争者の関係に近いかもしれない。そして、「字霊」といえば、中島敦も「文字禍」という作品も残しているが、本作品における「字霊」は女という生物から立ち昇ってくる霊気のようで、それだけに生々しい力強さを感じる。

2021年10月11日月曜日

無精卵/多和田葉子

この物語は、一見、気のふれた女のひきこもりの生活の破綻を描いているように思えるが、その本質は、女の中にある「内なる少女」を破壊しようとする、女と外の世界との戦いを描いているように感じた。

「少女」は現実的な描写で描かれているが、女の分身であることは明らかだ。

女を取り巻く人々は悪意に満ちている。

同居している男。彼は、彼女に文章を書くのを止めさせようとするが、性的不能のため、彼女を変えられない。男は、生まれの卑しい女性を教育や結婚によりいかに変えるかが重要であるという学者の本を読んでいる。

男の義姉は、男と性的関係を結ばない女を監視し、男の死後は、怪しいビデオ専門誌(おそらくアダルトビデオ)を通して、彼女に原稿を執筆させるよう依頼してくる。

女の旧友だった新聞記者は、彼女と同居する少女の存在を確認しようとし、女の従弟は、女に性的関係を迫ろうとする。

やがて、市役所や保健所が、少女の存在を確かめるように、女の家に現れるようになり、最後には...という物語だ。

主人公以外は悪意に満ちているという点で、カフカの描く悪夢の世界に近いものがあるが、最後、女の書いた文章を書き写したファイルを少女が持ち出し、家を逃げ出すシーンに救いを感じる。

女性の精神的自立を社会が阻害するテーマを描いた作品は多いが、この物語で抹殺されようとする「少女」は、さらにもっと深いところにある、フロイトが提唱した「エス」のようなものではないかと思った。

2021年10月10日日曜日

隅田川の皺男/多和田葉子

多和田葉子の作品としては、珍しく、東京の下町 隅田川が舞台になっている。マユコという精神的に不安定な三十代の女性と、ウメワカという源氏名の浪人生の男娼の出会いと別れ。

マユコは、自分の精神的危機をウメワカは癒してくれるように感じ、ウメワカは次第に少年らしさを失いつつある自分の運命を打破してくれる可能性をマユコに感じる。

しかし、マユコが母親のように自分に嘘をついたと感じたウメワカは隅田川の町から姿を消し、マユコは、お寺で聞いた人買いにさらわれて連れて来られた京都の公家の梅若丸の話や、母親に隅田川に突き落とされ溺死した梅若の亡霊の話をウメワカに重ね、会うことを諦めるのだが、もう隅田川を渡る理由がなくなってしまうことを残念に思うところで物語は終わる。

一読して、まるで80年代の唐十郎のドラマを彷彿させる内容だが、マユコが夢の中で東京の上空を飛行し、東京の町並みをまるで老人の顔のように皺の寄った皮膚のように思い、その町の皺にもぐりこむように東京を歩きたいと語っている点が多和田らしい。

不気味な登場人物は何人か立ち現れるが、読後感は不思議と明るい印象が残る。

2021年10月9日土曜日

ゴットハルト鉄道/多和田葉子

この本は、題名を見ただけで読みたくなった。
いかにもヨーロッパ的な硬質な名前と鉄道、そして多和田葉子。

その私の期待を正確にイメージさせるような表現が作品の冒頭に書かれている。

「ゴットハルト鉄道という言葉が、錆びた鉄の赤みと、まだ冷たい四月の煙った空気と、ひとりで窓の外を見ながら寂しく感じている乗客にしか聞こえない線路の摩擦音などに姿を変えて、(わたしに)炎症を起こした」

しかし、読み進めていくうちに、このゴットハルト鉄道も、わたし(作者)が感じるヨーロッパ世界と自分との距離感を心象世界として描いていることが分かる。

友人(恋人)のライナーが言う。

「北ドイツの知識階級に所属したいと思ったら、イタリアの光に憧れなければいけないのです。山やトンネルの中に入ったまま出て来なくなるような意識を持っていては、理解されない。理解されないような意識を持つということは、謎めいていて面白いということにはならない。単に自分たちの仲間ではないということにされてしまう」

しかし、わたしはゴット(神)ハルト(硬い)という父親的なイメージのある身体を通り抜けたいという願望を持っている。食道のようなトンネルを食べ物のようにもぐり込み、閉じこもりたいと思っている。

そして、スイスで一番醜い町というゲッシェネンで降り、ホテルでは閉じ籠もって、スイス人しか知らない作家が書いたゴットハルト鉄道の歴史書を読み、散歩禁止の雪の積もった平原の上を歩き、ぽっかりと開いた深緑色の湖面を見つめ、落下することをイメージする。

でも、わたしは、ゲッシェネン駅のプラットホームに上り、トンネルの入り口に目をやり、その闇の深さを見て、「ゴットハルトのお腹に、入らなかったに違いない。入ったとは、とても思えなかった」と思うところで、この物語は終わる。

この最後は、旅への期待と実際には辿り着けなかった距離感、ヨーロッパの(精神的な)深部に到達したいと願っても、決して入り込めない壁のようなものを強く感じさせる。
(一人旅をした時、これに近い気持ちを感じたことを思い出した)

もちろん、そう感じるということは、周りに溶け込まないわたし(作者)の強固な自我というものがあるからなのだが。

短い小説なのだが、多和田の作品は、色々なことを思い出させ、考えさせる。

2021年10月3日日曜日

文字移植/多和田葉子

2ページ程度の 小説の翻訳の仕事をもって、知人の内科医が貸してくれた海が見える別荘で滞在する翻訳者のわたし。

バナナ園、溶岩の跡、教会、雑貨屋、魚屋、郵便局、カフェバーしかないようなカナリア諸島の島。

アフリカ大陸から吹き上げるという「ドラゴン風」という熱風に肌や髪の毛は乾燥し、剥げていく。

わたしが訳そうとしている小説は、ドラゴンを退治しようとする「聖ゲオルグ伝説」の話のようなのだが、その翻訳作業は一向にはかどらず、言葉たちがつながらないまま、原稿用紙に散らばっている状況。

その散らばっている言葉たちの固まりが、そのまま、物語にごろっと配置されている。

また、この物語には、「作者」という人物が出てくる。これは多和田のことでなく、翻訳している小説の作者と思われるのだが、わたしは「作者」と一緒に水の枯れた河底を歩いても、わたしの考えていたような<締めくくり>ではなかったり、「作者」は翻訳者のわたしの存在など必要としないようなふるまいをする。

この部分を読むと、この物語は、翻訳作業を行うわたしの心象世界を描いているようにも思える。(ただ、心象世界だとしても、南国の島の人々や出てくる風景は奇妙にリアルだ。)

そして、わたしが書き上げた原稿を入れた封筒を取り上げ、郵便局に出すのを邪魔しようとする聖ゲオルグが化身した青年は、「作者」の思いと交わることができなかったわたしが、自分の翻訳した原稿を編集者に送りたくないという本音が反映されているようにも思えた。

ドラゴン風のせいで、肌がただれて赤茶け、「自分の肌ではなくなってしまったような感じ」とは、翻訳という作業を通して、異物を体の中に取り入れ、変異しようとするわたしの精神を象徴しているのかもしれない。