2021年10月9日土曜日

ゴットハルト鉄道/多和田葉子

この本は、題名を見ただけで読みたくなった。
いかにもヨーロッパ的な硬質な名前と鉄道、そして多和田葉子。

その私の期待を正確にイメージさせるような表現が作品の冒頭に書かれている。

「ゴットハルト鉄道という言葉が、錆びた鉄の赤みと、まだ冷たい四月の煙った空気と、ひとりで窓の外を見ながら寂しく感じている乗客にしか聞こえない線路の摩擦音などに姿を変えて、(わたしに)炎症を起こした」

しかし、読み進めていくうちに、このゴットハルト鉄道も、わたし(作者)が感じるヨーロッパ世界と自分との距離感を心象世界として描いていることが分かる。

友人(恋人)のライナーが言う。

「北ドイツの知識階級に所属したいと思ったら、イタリアの光に憧れなければいけないのです。山やトンネルの中に入ったまま出て来なくなるような意識を持っていては、理解されない。理解されないような意識を持つということは、謎めいていて面白いということにはならない。単に自分たちの仲間ではないということにされてしまう」

しかし、わたしはゴット(神)ハルト(硬い)という父親的なイメージのある身体を通り抜けたいという願望を持っている。食道のようなトンネルを食べ物のようにもぐり込み、閉じこもりたいと思っている。

そして、スイスで一番醜い町というゲッシェネンで降り、ホテルでは閉じ籠もって、スイス人しか知らない作家が書いたゴットハルト鉄道の歴史書を読み、散歩禁止の雪の積もった平原の上を歩き、ぽっかりと開いた深緑色の湖面を見つめ、落下することをイメージする。

でも、わたしは、ゲッシェネン駅のプラットホームに上り、トンネルの入り口に目をやり、その闇の深さを見て、「ゴットハルトのお腹に、入らなかったに違いない。入ったとは、とても思えなかった」と思うところで、この物語は終わる。

この最後は、旅への期待と実際には辿り着けなかった距離感、ヨーロッパの(精神的な)深部に到達したいと願っても、決して入り込めない壁のようなものを強く感じさせる。
(一人旅をした時、これに近い気持ちを感じたことを思い出した)

もちろん、そう感じるということは、周りに溶け込まないわたし(作者)の強固な自我というものがあるからなのだが。

短い小説なのだが、多和田の作品は、色々なことを思い出させ、考えさせる。

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