2018年5月27日日曜日

困難な成熟/内田 樹

内田 樹氏は、非常に著書が多い人である。
Amazonで検索しても120冊から130冊ほどの著書がある。

哲学書のコーナーで、内田 樹氏の著書をみると、月1でほぼ必ず新刊があるという、ベストセラー作家並みの、珍しい哲学者だと思う。

本を買うきっかけは、まず、はじめの文章を読んで面白そう、と思うことがきっかけになると思うが、内田 樹氏は非常に書き出しが上手い。

この本も、まえがきで、「最初の『責任を取ることなど誰にもできない』だけ読んでいってください。それを読んでも別に買う気になれなかったという方には、今回は『ご縁がなかった』ということで僕も納得することにします」と、いきなり、挑戦的な言葉が出てくる。

そして、半ば、彼の売り込みに乗せられてしまい、その章を読んで本を購入してしまうということになる。
(私の内田氏の本の購入パターンは、これが多い)

もちろん、詐欺にあったというような話ではない。
上記の章の内容は、悔しくなるぐらい面白い。
言われてみると当たり前のことなんだけど、面白いというのがポイントかもしれない。

酒場で、知らないおやじに説教されるイメージに近い。
語り口が面白くて、ついつい聞いてしまうのだが、筋が通っていて身につまされる。

例えば、以下のような言葉。
私は、身につまされました。
「私が言わなくても、同じことを誰かが言うだろう」というようなことは、自分から言うものではありません。
もし、何か言葉を発する機会があったら、できれば、「こんなことを言うのは、広い世界で私ひとりではないか」と思えるような言葉を選択したほうがいい。

2018年5月17日木曜日

私家版・ユダヤ文化論/内田 樹

内田 樹は、この本を、こんな風に表現する。
私がこの論考を「私家版」と題したのは、ユダヤ人問題について、できるだけ「わけのわからないこと」を書きたいと思ったからである。
...「話のつじつまが合いすぎる」というのは、あまりよいことではない。「つじつまの合いすぎた話」は読者にとっての印象が薄いからである。
...逆に、どこかに「論理の不整合面」や「ノイズ」や「バグ」があるテクストは、かなり時間が経った後でも、その細部まではっきりと思い出すことがある。それは、その「不整合」を呑み込むときに刺さった「棘」がおそらくまだ身体のどこかで疼いているからである。...私たちの記憶に残るのは「納得のゆく言葉」ではなく、むしろ「片づかない言葉」である。
作者のこの意図通りになったせいかもしれないが、私には消化しきれない「片づかない言葉」が、たくさん残った。
普通、こういう印象を覚えると、途中で読むのを止めてしまうのだが、不可解な気持ちのまま、読み切ってしまった。こういう読書体験も珍しい。

第一章、第二章、第三章、終章とあるが、私にとって最も印象深かったのは、終章である。特に、6 殺意と自責 と 7 結語がすごい。

6 殺意と自責は、自分でも、身近な人をそういう風に考える時があり、なんて自分は残酷な人間なんだろうと思う時があったが、この文章を読んでそういうことだったのかと腑に落ちた。

7 結語で述べられている哲学者レヴィナスが考えるユダヤ人にとっての神の在り方は、あまりにも成熟された考え方で、これってレヴィナス個人ではなく、本当にユダヤ人はそう考えているの?と思ってしまった。
日本人の神とも全く違うし、キリスト教の神とも全く違う。
遠藤周作の作品「沈黙」が一蹴されてしまうような神と人間との関係。

難しいけど、読む価値はあると思います。