2015年6月30日火曜日

女人神聖/谷崎 潤一郎

谷崎 潤一郎の初期の小説の中でも、この「女人神聖」は、とても好きな作品だ。

相場師の父と無学で贅沢好きの母の間に産まれた、由太郎と光子の兄妹。
ともに美貌にめぐまれ、母親に甘やかされて育つが、由太郎は歳と共に少しずつ女らしい美しさを失ってゆく自分に焦りを感じている。

父の急死を機に、二人の兄妹は伯父の家に引き取られるが、男として冷遇される由太郎に対し、引き続き欲しいままの贅沢を与えられ、美しさを増してゆく光子。二人の運命は大きく変わってゆく。

なんといっても、この物語の面白さは、性格の悪い美少年  由太郎が、これまた性格の悪い美少女の妹に負けじと、自分に歓心を持った人間を、その魅力で落とし、好きなことをし放題するのだが、それに見合った罰を受ける過程にあるのだと思う。

また、谷崎にはめずらしく男同士の同性愛を描いている部分もあるのだが、谷崎の美的感覚からすると、やはり、男同士の恋愛は美しくないものと考えていたようだ。

由太郎は、自分に恋する年長の秀才の男子学生 濱村との恋愛を、もう一方で自分を恋する藝者の巴と比較して、こんな風に述べる。
 由太郎は濱村と交際して居た時分、いかに親密を装うても、いかに愛情を注ぎ合っても、始終其処に物足りない、不自然な蟠りがある事を感ぜずには居られなかった。濱村も自分も、絶えずお互いに感情を誇張し、芝居をして居る心持ちを、拭い去る事が出来なかった。二人の関係は美しいようで、その実醜い、拙いものである事を、忘れる譯に行かなかった。
そう述懐した由太郎は、藝者の巴を食い物にして、金をむしり取る一方、従兄と仲良くなった妹に対抗するため、伯父の資産に目をつけ、従姉の雪子に狙いを定めて毒牙にかけるが、やがて、雪子にも、巴にも愛想をつかされてしまう。

由太郎は、光子の策略もあり、被害にあった女性たちからの手ひどいしっぺ返しを受け、「宿無し犬」としてどこかに遁走してしまう一方、光子はめでたく従兄と結婚し、「才色双絶の年若き貴婦人」として都下に響き渡る。

男に宿る美貌は、その男を不幸にし、ろくな結果を生まないが、女の美貌は、その女を幸せにして、社会において神聖化される。

そんな極端な図式が分かりやすいのも、この小説の面白いところかもしれない。

2015年6月29日月曜日

鳥 大江健三郎 /日本文学全集 22

大江健三郎が二十三歳の時に書いた短編小説。
 
二十歳の誕生日から部屋に引きこもり、鳥たちと暮らす青年。
ある日、母親の紹介で心理学をやっていると称する男が青年の部屋を訪れところから物語は始まる。

はじめ、狂人だと思われた青年がこの物語の中で実は一番まともだったのではないかと思わせるような結末になっている。

読んだ直後は、たいした小説ではないかなと思っていたが、≪鳥たち≫とは何を象徴しているのか、青年の変わりようなどの理由を色々想像してみると、だんだんとこの小説が面白くなってきた。


作者の若い時の作品だけあって、とても勢いが感じられるところも面白い。

2015年6月28日日曜日

2015年6月27日 戦争法案に反対する ハチ公前アピール街宣 by SEALDs

SEALDs (シールズ=自由と民主主義のための学生緊急行動)が主催した「戦争法案に反対する ハチ公前アピール街宣」に参加してきた。

報道ステーション等で取り上げられていたが、安倍政権が進める安保法案を阻止しようと活動している日本の学生たちの団体だ。

http://www.sealds.com/

夕方の4時から、ハチ公前で行われた街宣は、109などの大型ビジョンからの映像と音が暴力的に響く中でも、学生たちのこの安保法案に対する危機感と廃案にしなければならないという決意が十分に伝わってきた。

彼らは、自分の名前を公表したうえで、自分たちの等身大の言葉で、正々堂々と安倍政権を批判しているのだ。

その勇気と行動には、本当に頭が下がる。

BGMやラップ、シンプルなプラカードといった学生らしい手法にも好感が持てた。



2015年6月27日土曜日

自民党の憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」

安倍政権は、早く、安保法案を撤回した方がよい。

憲法学者の違憲発言で劣勢になってしまった状況を、なんとか立て直そうと、自民党の憲法改正を推進する勉強会「文化芸術懇話会」は、知恵を出し合おうとしたのかもしれないが、偏向した考えしか受け付けない人々が議論をすれば、なおさら事態が悪化することは目に見えている。
出席議員からは、安保法案を批判する報道に関し「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい。文化人が経団連に働き掛けてほしい」との声が上がった。
 http://www.nikkansports.com/general/news/1497679.html 

という、憲法第21条に規定されている「表現の自由」を侵害するような発言は、先日、NHK、テレ朝を呼びつけた自民党の情報通信戦略調査会といい、自民党の体質になってきているような気配を感じる。さらに言えば、経団連を使って圧力をかけるという品性を疑うような発言が、内輪とはいえ、安倍政権のお膝もとで行われている事実に愕然とする。

おそらく、安保法制について、どうすれば、国民の理解を得られるかということが、会議の目的だったと思われるが、建設的な方向には話が進まず、溜まったストレスの発散の場になってしまったのだろうが、権力にいる立場の人間の注意義務としてはお粗末すぎる。

自民党総裁の安倍首相は、自分の肝入りの法案で、どれだけ部下が税金を使って馬鹿な会議をやっているかを、ちゃんと確認したほうが良い。

おまけに、呼んだゲストも悪かった。
安倍首相と仲が良い作家の百田尚樹氏。
ある意味、期待通りだったのかもしれないが、「沖縄の2つの新聞(琉球新報と沖縄タイムス)はつぶさないといけない」とか、「普天間基地近くに居住した人は金目当て」といった、これまた、無茶苦茶な発言があったらしい。

http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/043b46d087dea3d928f036c9dbb3b2c2


百田氏発言をめぐる琉球新報・沖縄タイムス共同抗議声明
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244851-storytopic-1.html

こんな変な会議に、自民党の若手議員や安倍首相と仲が良い作家が出席し、おかしな発言をして世間を賑わしているのは、安倍政権や自民党にとってもマイナスだろう

そんな事に時間をつぶすなら、法案を早々に撤回し、自民党全体で、立憲主義とは何か、基本的人権とは何か、国会議員の憲法尊重擁護義務とは何かについて、せっかく縁ができた長谷川教授を呼んで、一から日本国憲法を学び直した方がよい。(長谷川教授を参考人招致したことは、安保法案に関して、今国会の自民党が唯一行ったGood Pointだと思う)

また、日本の敗戦からの沖縄の歴史と基地問題の現実を学び直し、県民がどういう思いを日本政府に対して持っているかも、沖縄の人々の声を直に聞いてみるのがよい。

2015年6月25日木曜日

BSフジ プライムニュース  「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理

2015/7/20 石川教授の動画「あれは安倍政権によるクーデターだった」を追加
--------------------------------------------------------------------------
あの日、日本でクーデターが起きていた。そんなことを言われても、ほとんどの人が「何­をバカな」と取り合わないかもしれない。しかし、残念ながら紛れもなくあれはクーデタ­ーだった。そして、それは現在も進行中である。


 --------------------------------------------------------------------------
以下、元の記事

今日、プライムニュースで特集していた 「違憲論」と安保法制 憲法・政治・国際情勢 交錯する論点徹底整理が、とても面白かった。

http://www.bsfuji.tv/primenews/

就中、参加していた東京大学の石川教授(憲法学者)の説明が面白かった。

石川教授は、今の安保法制を、「ホトトギスの卵」と評していて、
(ホトトギスは、ウグイスの巣に卵を産み付け、ウグイスは、ホトトギスの卵とは知らずに育てるが、やがて、孵ったホトトギスの雛は早く大きく育ち、ウグイスの卵や雛を巣から蹴落とす)
政府は、昨年5月に閣議決定した安保法制を、いかにも現行憲法で認められた範囲の個別的自衛権(ウグイス)と実質的に変わらないものとして、国民に説明してきたが、今年6月4日の憲法審査会の憲法学者の違憲見解を機に、本当は、集団的自衛権(ホトトギス)であることがばれてしまって、にっちもさっちもいかない状況になってしまったのが現状だと説明していた。

実にたくみな比喩だと思う。

国内向けには、ウグイスと説明して、アメリカには、ホトトギスと説明している(アメリカ議会上下両院での安倍首相の演説、日米防衛協力指針ガイドラインの改定)という指摘も、いちいち納得がいく。

また、政府が、砂川判決を、集団的自衛権が認められる根拠として主張しているが、何が争点となっていた事件なのか、その文脈を無視して、判決文のテキストの都合のよい部分だけを拾い上げるのは、全くのナンセンスだということも説明していた。

石川教授は、政府側も、この砂川判決に根拠を求めることに無理があることは分かっているが、憲法学者の違憲見解が出てしまったために、そこまで無理をしないと、依って立つ根拠がない状況になっているのだろうとコメントしていたが、おそらく、それが事実なのだろう。

さらに、この砂川判決の有名な法理論である統治行為論「一見してきわめて明白に違憲無効と認められない限り、その内容について違憲かどうかの法的判断を下すことはできない」という基準に照らすと、今の安保法制は、「一見してきわめて明白に違憲無効と認められ」る可能性が非常に高い法案だという事も述べていた。

最後のほうで、石川教授は、憲法学者が安全保障環境の変化の脅威には全く意識を払っていないという批判に対し、目先の脅威に対応するために、国民の自由(憲法によって政府の権力から国民の基本的人権を守る)を犠牲にして、政府が暴走するというリスクもあるので、安全保障という観点とは異なるが、自由を守る(ルール〈憲法〉を守ることによって保障される)ことに意識を払うのは当然であると主張していたのも非常に納得がいく説明だった。

石川教授も言っていたが、実態がホトトギスである以上、ホトトギスとして育てることができるように、憲法改正を行うのが、やはり、適正な手続きなのだ。

国会は、過去最長となる95日間の大幅な会期延長を決議してしまったようだが、この安保法制だけに関して言えば、入口から間違えてしまったのだから、一度、撤回してしまったほうがよい。

安倍さんのアメリカに対するメンツはつぶれてしまうのかもしれないが、国民の自由を守ることの重要度とは比べものにならない。

2015年6月23日火曜日

亡友/谷崎 潤一郎

高い品性と道徳感を持ちながら、同時に抑制しがたい程の情欲を併せ持ったら、人間はどうなるか?
それが、この小説のテーマだと思う。

そのテーマとなった男が、作者の友人である大隅君なのだが、風貌は男っぽいのに、

「ややともすれば少しく淫靡にさえ聞こえるくらいの、甲(かん)の高い艶麗な聲でよくからからと笑いながら物を云う癖があった。若しも彼の容貌が、彼の一生を貫いた道徳の象徴であるとしたら、彼の聲は正しく彼の他の一方面、即ち情欲の象徴であったかも知れない」

と描写し、彼の中に二つの相反する性質が同居していたことを暗示している。

この大隅君が、作者の誘導に応じて語った女性経験が生々しい。

七歳の時に、子守の娘の性的玩具になり、十三、四歳で女中と初体験をし、中学二年(今の十七歳ぐらいか)で、二人目の女中と経験する。


作者(谷崎)と異なり、発表した詩が文学雑誌に取り上げられ、女性からもラブレターが来るという、藝術においても恋愛においても勝者であった大隅君だったが、一面では神の存在を欲して宗教の道を望み、一面では娯楽的な要素が不可欠な芸術の道にも惹かれ、どちらの道を選ぶのかで苦悶していた。

彼の二面性は、クリスチャンとして教会に行く傍ら、遊郭にも足を向けてしまうということからも分かるが、その二面性により、大隅君が、結婚前日に、かつて、彼のほうから別れた女性と肉体的な関係を結んでしまう事件が起こってしまう。

この事件は、作者の協力で事なきを経て、無事結婚することができたが、結婚したことがさらに大隅君の寿命を縮めることになる。

死因が丹毒もしくは面疔(化膿)と、性病をイメージするようなものになっており、作者は、抑制しきれない性欲と、その罪悪感に神経を病んだことが死の本当の原因ではないかと推測している。

この小説に描かれている大隅君は架空の人物であろうが、モデルは他でもない谷崎自身ではなかったのでないかと私は思う。

谷崎は、少年期に宗教と哲学への高い関心を持ち、聖人となるべく志を持っていたが、女性の美への強い憧れと欲望のために、次第にその軸足を詩や小説といった藝術のほうに変えている。

もし、自分が、違った運命をたどり、青年期に、強い宗教への志を維持し続けると同時に、それと同じくらいの強さの性欲に刺激され続けたなら、どうなるか、という一種の実験的なケースを想定して書いた小説ではないだろうか。

2015年6月22日月曜日

鬼の面/谷崎 潤一郎

谷崎の自伝的小説3部作の中で、中間に位置する本作は、彼の第一高等学校(今でいう大学)時代の作品だ。

彼(本作では壺井耕作)が進学のために家庭教師として住み込んでいる設定と、その住み込み先の津村家の家族の構成は、前作に当たる「神童」とほぼ近い。

物語は、 壺井が、津村家の女主人の命令で、鎌倉の別荘に滞在している子供たちの監視のために、性格の悪い女中のお玉と汽車で向かうところから始まる。

壺井と歳の近い兄の荘之助と妹の藍子は、荘之助は前作のいじめられていた玄一とはイメージが変わり、女中のお玉や壺井にも嫌がらせができる存在になっており、藍子は前作の鈴子が美しく成長した存在になっているが、両者とも性格は悪い。

壺井は、親に隠れて恋愛をしている兄妹の行動を影から監視し、女中のお玉に告げ口するという、どうしようもない役割を担っている。

女性の美しい肉体への憧れと、勉学にいそしみ過ぎて醜くなってしまった自己の容姿への幻滅が、壺井の心を波立たせ、 勉学にはほとんど身が入らない。

この鎌倉生活の中で、兄妹が、自分たちの手紙を検閲する女中のお玉への意趣返しに、夜中、彼女が寝ている時に、その寝顔にいたずら書きをするという事件を、壺井が目撃し、その行状に激しい情欲を覚えるエピソードは、いかにも谷崎らしい。

そして、藍子の恋愛を見ているうちに、壺井に漠然とした恋愛への憧れが生じ、自分が堕落してしまったのは恋愛をしていないことが原因だと思うようになったのは、ある意味自然な成り行きかもしれない。

壺井は、津村家に奉公に来ていた女中を、自らの恋愛の対象に選び、恋文を出し、そのやり取りが津村家の主人に露見し、家を追い出されてしまう。(学費の補助も打ち切られた)

この事件は谷崎に実際に起きた事件であるから、壺井のその恋愛に対する自己検証が興味深い。

相手の女中は、愛嬌のある善良な性格で、壺井はそこに惹かれたらしいが、貧書生の自分に相応の相手として選んだという側面が強く感じられる。彼の女性の好みから言えば、性格が悪くても美しい藍子のほうだったのかもしれない。

いわば、恋愛に憧れ、無理に恋愛を演じている男という雰囲気が強く感じられる。相手の女中も、結婚の約束を口にしながらも、現実味のない壺井を、ついには拒絶してしまう。

失恋し、学費の支払いにも窮し、新たな職も見つけられない壺井は、さらに堕落してゆく。

偶然出会った金持ちの息子の友人から学費と称してお金を騙し取り、遊興にふけっているらしい壺井を、両親が半ば諦め、かつての恩師や旧友がその堕落を気の毒がる場面で、この物語は終わるが、この状況は、そのまま次の「異端者の悲しみ」に引き継がれていく。

この作品は、「神童」、「異端者の悲しみ」と比べると若干、質は落ちるかのしれないが、谷崎が作家として身を固める前章にあった堕落と彷徨を描いている点で、谷崎作品の中で貴重な位置を占めていると言って間違いないと思う。

2015年6月21日日曜日

神童/谷崎 潤一郎

谷崎の自伝的小説として、「神童」 、「鬼の面」、「異端者の悲しみ」の3部作がある。

 「神童」は、谷崎の小学校から中学(今の中高一貫校)までの時代を描いていているのだが、とても面白い興味深い小説だ。

第一に、題名にもあるが、谷崎(この物語では瀬川春之助)の「神童」ぶりがすごい。

学期試験が毎回首席というのはもちろんだが、小学4年の時の作文の時間に、五言絶句の漢詩を作り、教師を驚かせ、高等2年(今の小学校5、6年生)の頃には、四書五経を読み、儒教の感化を受け、仏教の教本まで手を伸ばし、寺に仏書を借りに行く。
さらに英訳のプラトン全集を古本屋で購入して熟読し、ドイツ語も独学で学び、ショーペンハウエルまで手を伸ばす。

その知力にも驚くが、谷崎が少年時代、実は哲学に傾倒していたというのも意外な感がある。(学校では「聖人」というあだ名だった)

第二に、 彼が中学進学の学資を得るため、家庭教師として住み込んだ木綿問屋の人々が面白い。

木綿問屋の主人の後妻的立場にある藝者あがりの美しいお町、その娘のこれも美貌の鈴子、家庭内で権力を持つお町に追従する女中のお久とお新、そして、先妻の子供のせいか、お町や女中から迫害を受けている落ちこぼれの玄一と、唯一実直な女中のお辰。

贅沢と物欲、陰険な人間関係に溢れた家の中で、その悪徳を認識しながらも、その悪の魅力に共感し、手下のように追従し、哀れな玄一を迫害するような行為をする自分の心持ちを、客観的に(どちらかというと偽悪的に)描いているところが、いかにも谷崎らしい。

第三に、年頃になって、性に目覚めつつある自分の体と心を、ほとんど隠そうともせず、実に明け透けに描いているところもすごい。顔中に出来てしまったニキビや、女性の美に対する憧れ、自慰の習慣。
そして、そのせいか、彼が築きあげてきた知力や聖人となることの意志にかげりが見えはじめる。

第四に、そんな自己の変容ぶりを、実にポジティブに転化させている結末だ。
「恐らく己は霊魂の不滅を説くよりも、人間の美を歌うために生まれて来た男に違いない」
そう自己分析し、詩と藝術に没頭することを決意する自分を讃美しているようにも見える。

谷崎がいかに自分の天才を疑わず、自信家であったかがくっきりと表れている。

谷崎の初期の作品のなかでも、ひときわ、谷崎らしい小説と言ってもいいかもしれない。

2015年6月20日土曜日

おとなのけんか/ロマン・ポランスキー

原題:Carnageは、大虐殺、修羅場の意味。

映画は、冒頭、公園で遊ぶ子供たちが険悪な雰囲気になり、一人の男の子が枝で別の男の子を殴るシーンが遠景で映し出される場面からはじまる。

そして、殴られた方の男の子は前歯が2本折れてしまい、その和解のために、2組の夫婦が、和解文書を作るシーンに切り替わる。
 
殴った方の男の子の夫婦は、始終、仕事の電話ばかりしている弁護士の夫(クリストフ・ヴァルツ)と、 投資ブローカーのきれいな妻(ケイト・ウィンスレット)、殴られた方の男の子の夫婦は、金物屋を営む温厚そうな夫(ジョン・C・ライリー)と、アフリカの紛争について本を出している作家らしい妻(ジョディ・フォスター)。

この4人が最初は温厚に互いの息子たちについて話し合うのだが、徐々に雰囲気が悪くなってくる。
そして、緊張に耐えきれなくなったケイト・ウィンスレットに起きたハプニングをきっかけに、4人は、うわべだけの礼儀を捨て、酒の力も借りて本音で話しはじめ、相手方だけでなく、自分の夫・妻に対しても悪態をつきはじめる。

物語は密室劇で、4人の関係が悪化し、言動が段々とエスカレーションしていく様子を、多少コミカルに描いている。


私が一番面白かったのは、 ケイト・ウィンスレットが気持ち悪くなってしまったところに、ジョディ・フォスターが、何故か、ぬるいコーラを飲ませたことだ。
吐き気にコーラ?と思って、調べたら、なんと、本当にそういう対処療法があるらしい。
http://d.hatena.ne.jp/yasagray12/20120915/1347686953

2015年6月19日金曜日

お艶殺し/谷崎 潤一郎

谷崎の小説に出てくる女性は、堅気の女性も含め、ほとんどが玄人っぽい雰囲気を持っている。

それは、谷崎の好みが、男を怖がらず、対等以上に振る舞う気の強い女性に偏っていたからかもしれないが、そのせいか、皆、すれっからしの藝者のような言葉を使う。

これは、まだ、明治・大正・昭和初期という時代では、実際、男と対等以上に張り合うことができたのは、水商売の玄人しかいなかったからかもしれないが、例えば、夏目漱石は、現実にそんな女性はいなかったとしても、現代の自立した女性に近い雰囲気を持つ、虞美人草の藤尾や三四郎に出てくる美禰子を描いている。

しかし、そういった健全な女性は、おそらく、谷崎のマゾヒティックな性的欲望を満たしてくれる対象ではなかったのだろう。彼は、やはり、「刺青」に出てくるような悪女に強く惹かれていた。

この「お艶殺し」 に出てくるお艶も、その系譜にある女性だ。大きな呉服屋の主人の娘でありながら、男を手玉に取るような悪女ぶりを発揮し、悪人に騙され、本物の女郎に身を落としながらも、売れっ妓の藝者になる。そして、その犠牲者、肥しとして、お艶に唆され、駆け落ちし、人生を狂わされ、人殺しになってしまう男が使用人の新助だ。

読んでいて感心するのは、そういう悪女を描く場合、どこかしら、現実味のない、地に足つかない女性に陥りがちなのだが、 この物語で描かれているお艶は、どっしりとしていて、年季の入った悪女ぶりを感じさせてくれる。

それは、彼女が男に対して放つ女郎言葉が、堂に入ったものに感じられるからかもしれない。
たぶん、谷崎には、そんな江戸の風情を残した色っぽい言葉を話す女性と付き合う機会があったのでしょうね。

2015年6月18日木曜日

憎念/谷崎 潤一郎

私は「憎み」という感情が大好きです。「憎み」ぐらい徹底した、生一本な、気持ちのいい感情はないと思います。人を憎むと云う事は、人を憎んで憎み通すとう事は、ほんとうに愉快なものです。
という、のっけから正直で真っ直ぐな感情が披瀝されている。
谷崎は、やはり人生をいかに楽しく生きるかの天才だと思ってしまう。

実は憎んでいる友達がいたとしても、その友達とは絶対に絶交せず、表面は親しく付き合いながら、腹の底では、軽蔑し、意地悪い行動をとったり、散々愚弄しぬいてやる…

一見、憎い者に対する復讐心のようにも思えるが、この作品で語られている「憎み」は、非常に即物的で、その者の皮膚の色、肌理の具合、鼻の形、手足の格好に向けられている。

例えば、嫌われている男が他人に殴られている時の歪んだ顔、鼻の穴、黄色い肉附きのいい足の裏に対して。
「何と云う醜い、汚らしい、鼻の孔だろう」と
ふつう、嫌いな人間に対しては、嫌な感情を抱いて、目を合わさず、関わらない、遠ざかるのが常だと思うが、谷崎は、とてもポジティブで、嫌な人間に自分の感性の快楽を誘う魅力を見つけて、秘かに楽しんでしまうのだ。

恐ろしいくらいの人生の達人ですね。

2015年6月17日水曜日

治療塔 大江健三郎 /日本文学全集 22

大江健三郎さんの小説は、今まで縁がなく、今回はじめて読んだのだが、このSF小説。

しかし、池澤夏樹がこの作品を選んだ理由もなんとなくわかる。
ここには、あまりにも現代に近い未来が描かれているからだ。

核戦争、原発事故による放射能、そして環境破壊で汚染され、資源も乏しくなった地球。人類には、エイズと新しい癌が蔓延し、その危機感から、ついに、人類の一部「選ばれた者」が、巨大な宇宙船団を組み、地球を離脱し、「新しい地球」を目指し、宇宙に旅立つ。

一方、地球に残された「落ちこぼれ」に属する人々は、文明のレベルを1960年代に落とし、「高度なものは、より高度ではない方へ」、「難しいものは、易しい方へ」、「複雑なものは、単純な方へ」といった方向に文明の舵を切っている。

ところが、「選ばれた者」が、「新しい地球」から、突然、地球に戻ってくる。
そして、「落ちこぼれ」に属する主人公のリツコは、「選ばれた者」に属するいとこの朔と会うことになるが、朔が出発する前にl比べ、はるかに若返っていることに気づく。


物語は、なぜ、「選ばれた者」が地球に戻ってきたのか、なぜ、朔(「選ばれた者」)は若返ったのかという謎を徐々に明らかにしてゆくとともに、リツコと朔が恋仲になることで、「選ばれた者」が社会を支配し、「落ちこぼれ」との格差を作ろうとしていることが明らかになってゆく。

そして、タイトルの「治療塔」の謎も明らかになる。(「2001年宇宙の旅」と似てるといったら、ネタバレだろうか)

女性主人公に物語を語らせている設定だが、文章も自然だし、読みやすいと思った。

セックスの描写もあるが、いやらしさがなく、 そういう意味で、池澤夏樹の小説と似たタッチを感じた。特に、リツコと朔が北軽井沢の農場で集団生活を行うあたりの雰囲気は、池澤夏樹の小説にも出てきそうな内容だと思う。

(些末な部分だが、「テレビ」を「テレヴィ」と変に語尾を伸ばしているは、近未来だからなのか、大江さんの感性なのか、若干気になった)

2015年6月16日火曜日

飈風/谷崎 潤一郎

飈風(ひょうふう)、つむじ風の意味だと思う。

「惡魔」同様、谷崎が神経を病んでいた時期に書かれた短編小説で、そのテーマも、いかに過度な性欲、淫蕩が、男を駄目にするかという点で共通している。

物語は、二十四歳の日本画家 直彦が、 吉原で知り合った芸者と経験を持ち、それに耽るうちに、「だんだん血色が蒼褪め、頭が晦くなって、何事をするにも慵い億劫な気分になり、遂には全く生活の興味や張り合いを持たなくなって、あれ程体内に根を張って居た欲求の力さへも失って」しまうところから始まる。

直彦は、自分の命の危険を感じ、それから遠ざかるために、東北に旅に出ることにする。
温泉につかり、滋養のある食べ物を食べ、部屋でごろごろする。

「蓄積された○○をabuseしないように、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、○○○○○○○○○○○○○○○○○○、丁度一杯に満たされた羹の器を捧げるような気持で眠った。」
(○は、原文でも伏字されている)

その甲斐あって、彼の欲望は復活するが、今度は何をしても、それ以外考えられなくなってしまう。
しかし、恋人との約束があるため、旅先での女関係を持つことができない。

そんな中、汽車の車中で、癩病(ハンセン病)を患っている兄妹を見つけ、直彦は親身になって、宿の手配などをしてあげるが、彼の頭の中には、「娘の器量の人並み勝れて美しい事も、水々しい肉附きも、癩病と云う越ゆべからざる垣根のある爲に、安心して近寄ることが出来るように思われた」という打算があった。

彼の禁欲の旅はその後も続くが、一番の危機は、臀の下に出来た腫物の膿みを絞り出す作業を行った宿の女との関係だったろう。

しかし、それも我慢し、 直彦は、ついに半年後、恋人の元に戻る。
彼の堪え続けた欲望は頂点に達していた。そして、それを解放した時…。

女性の鼻の穴、白い肌、腫物に対するフェティシズムは、谷崎がその後書いた物語にも出てくるが、特に、この物語では、真っ赤になった腫物の描写が、生々しく描かれており、直彦の抑えきれない激しい欲望を暗示している。

同時期、東京日日新聞の連載小説として書いていた「羹」 が、明治末期の青年のごく常識的な生活を描いている一方、この「飈風」は、性欲の制御という、昔も今も変わらないテーマに正面から取り組んでいるせいか、前者に比べて、圧倒的な迫力を感じる。

2015年6月15日月曜日

惡魔 續惡魔 /谷崎 潤一郎

谷崎が二十五、六の頃に書いた短編小説。

この頃、 谷崎は神経衰弱に悩まされていたらしいが、この作品の主人公 佐伯の行動にその様子が反映されていているものと思われる。

「惡魔」は、東京の大学に入学することになった佐伯が、残暑溢れる新橋の駅に降り立ち、下宿先として住むことになる本郷の叔母の家を訪ねる場面から始まる。

この叔母の家には、歳の近い従妹の照子と、書生の鈴木がいる。
そのうち、大学に行くことにも飽きてしまった佐伯が二階の部屋で寝ていると、頻繁に照子が訪れるようになる。彼女には悪魔的な魅力があり、その無神経な行動が佐伯の神経を悩ませることとなり、同時に彼女とかつて関係を持ったという鈴木から、手を引くようにと脅迫を受けることになる。

佐伯は、照子が鼻をかんだハンカチを隠し持ち、それを舐めるという変態的な行動に快感を覚える。

「續惡魔」は、その続編で、ますます神経を病んだ佐伯が、大地震の発生を恐れるようになる。
(この作品が書かれたのは大正2年。関東大震災が起きるのはその10年後である)

その佐伯に、ますます照子は接近し、自らの魅力で彼を力でねじ伏せてしまう。(たぶん、関係してしまったと思われる)

その二人の様子を見た鈴木が佐伯に対し、姦通の罪を宣言し、謝罪を迫るが、佐伯は受け付けない。そして、鈴木は叔母あてに、二人の関係を告発し、佐伯に対して即刻家を立ち退くことを要求するとともに、従わなければ、暗い所に気をつけろという脅迫めいたな内容の手紙を残し、家を出ていってしまう。

この後、便所の裏に潜んでいた鈴木を発見し、ついにやりあうことになるのだが、その結末は、佐伯が好んで読んでいた講釈本のように、残酷でグロテスクなものだった。
(その結末を、佐伯が望んでいたのではないかとも思える)

若い頃の谷崎は、制御しきれない性への欲望と、その副作用として頭が馬鹿になるのではないかということについて真剣に悩んでいたらしい。

しかし読んでいる限り、本人の心配は杞憂だったと思われるくらい、谷崎の文章はちっとも曖昧なところがない上質なものになっている。

2015年6月14日日曜日

赤線地帯/溝口健二

久々に、溝口健二監督の「赤線地帯」を見た。

赤線とは、売春が行われていた地域の俗称のことで、その語源は、警察が地図にその地域を赤線で囲んだことに由来しているらしい。

売春禁止法施行直前の吉原の売春宿で働く娼婦の姿をリアルに描いている作品だ。

主役がいない映画で、若尾文子と京マチ子が若く美しい悪女として描かれていて、やはり目立っているが、町田博子、三益愛子、木暮実千代といった家族にも恵まれず、生活に疲れ果てた中年女性を描いているところに現実感がある。

特に、木暮実千代は、溝口監督の祇園囃子では、美しい品のある芸者を演じていたが、この作品では、眼鏡を掛け、ラーメン屋では足を開きながら幼い子供の世話をしたり、病弱な夫が自殺未遂で死にきれない中、私はどんな事があっても生き抜いてみせると意気込んだり、ひどく生活じみた演技で、逆に光っている。
(しかし、昭和30年頃は、こんなに貧乏な暮らしをしていた娼婦が多かったのだろうか)

溝口監督の作品の中では、それほどの傑作とは言えない作品だが、彼が撮った昔の日本の風俗と女性には、いつも惹きつけられる。こういう映画はもはや見ることはかなわないだろう。

2015年6月13日土曜日

PACIFIC HIGH / ALEUTIAN LOW / 一十三十一

タイトルの「太平洋高気圧 / アリューシャン低気圧」が面白い。

PACIFIC HIGHに夏の歌3曲、ALEUTIAN LOWに冬の歌4曲という構成のミニアルバムだが、全体的に夏っぽくてこれからの時期にぴったりだと思う。

聴いていると、心地よい風に吹かれているような気分になる。

ブルーライト~♪という節が、まるで歌謡曲のように不思議な味わいのある1曲目の「硝子のサマーホリデー」もいいけれど、個人的には、6曲目の「羽田まで」がいいですね。

2015年6月12日金曜日

憲法学者が非難される時代

先週行われた憲法審査会で、3人の憲法学者が、今の安保関連法案は違憲であると発言したことは、実に大きかったと思う。

憲法学者が、ここまで存在感を発揮したのは、戦前、天皇機関説を主張し、軍部と右翼から非難を受けた憲法学者の美濃部達吉以来ではないだろうか。

違憲を主張する憲法学者を非難し、蔑ろにしようとしている安倍政権のこれまでの発言と、一部の新聞社の記事を見ていると、日本がこれから物騒な時代に入ろうとしている警告音のように感じる。

憲法というのは国の根幹だ。
平和、自由、平等、幸福追求。

今では当たり前すぎて、空気のように何も感じないが、それが無くなると大変なことになる我々の生活の基盤のようなもの。

今の日本国憲法を、アメリカから押しつけられた憲法であるかのような発言を目にするが、仮にそうだとしても、そこに謳われている価値観を否定する必要がどこにあるのだろうか。
戦後70年、我々が平和に暮らすことができたのは、間違いなく、この憲法が日本を戦争から遠ざけてきたおかげである。

その憲法の重要な要素である平和主義を骨抜きにして壊そうと、憲法違反の法律を強引に成立させようとしているのが今の安倍政権だ。

大臣、国会議員を含む公務員は、日本国憲法 第99条に基づき、憲法の尊重擁護の義務を負っている。もし、強引に、この安保関連法案を成立させようとするならば、彼ら自身が憲法違反を侵したことになるだろう。

安倍政権が、唯一できるのは、正面から、憲法改正を発議し、国民の信を問うことである。
私は反対だが、これで憲法が改正されるのであれば、それはやむを得ないことだと思う。

2015年6月7日日曜日

The Affair of Two Watches / 谷崎潤一郎

谷崎潤一郎が二十五歳の時に書いた自伝的な作品だ。

今読むと、後の自伝的小説「異端者の悲しみ」の原形のような作品だったことが分かる。

金のない放縦な大学生活、死への恐怖と飲酒癖、家族との葛藤。

その中でも面白いのは、寝起きの悪い谷崎(この作品では山崎禄造という名前)を起こそうとする父母とのやり取りである。

谷崎の父母は生粋の江戸っ子だったから、その口調は文字にしても実に活き活きとしていて、聞いている側が楽しくなってしまうような魅力がある。

谷崎がわざと寝起きを遅くしていたのは、親への反抗心もあるのだろうが、この一際、ことばに敏感だった男は、両親が歯切れよく放つ話し言葉を聴くことに一種の快楽を覚えていたのではないだろうか。

特に相場師だった父親について、谷崎はその日常の仕草を面白おかしく取り上げているが、実直な好人物だったことが分かる。

相場師のくせに、女を買わず、借金をせず、嘘を言わず、極めて融通が利かない。
料理のできない妻に代わって、本を読みながら料理を作ったり、訪問販売の男が主婦と怪しい関係になる「出歯亀事件」が起きているという記事を新聞で読み、たまたま化粧品を売りにきた苦学生を追い返してしまう。

向田邦子が描いた昭和初期の頑固な父親への愛情のこもった視線と変わらないようものを、そこに感じる。

本作のタイトルは、金のない二人の学友と共に、その場しのぎの欲望のために質に入れてしまった2つの時計の事を指しているが、ジェローム・K. ジェロームの「ボートの三人男」(Three Men in a Boat)にちなんで、Tree Men with Two Watchesという小説を書いてみたらどうか、という戯言から付けたらしい。

 「ボートの三人男」は、丸谷才一訳で読んだことがあるが、いかにもイギリス小説らしい、ほのぼのとしたユーモア小説である。
谷崎も、この時、すでに原文で読んでいたのだろうなと思うと、 いい加減な生活を送っていたようで、読むべきものは読んでいた彼の学生生活が想像される。

2015年6月6日土曜日

酒宴 吉田健一/日本文学全集 20

吉田健一の作品には、酒がテーマになっているものが多いが、彼がいかに酒を飲むのが好きだったのかが伝わってくるものが多い。
本当をいうと、酒飲みというのはいつでも酒が飲んでいたいものなので、終電の時間だから止めるとか、原稿を書かなければならないから止めるなどというのは決して本心ではない。理想は、朝から飲み始めて翌朝まで飲み続けることなのだ、というのが常識で、自分の生活の営みを含めた世界の動きはその間どうなるかと心配するものがあるならば、世界の動きだの生活の営みはその間止っていればいいのである。
という、ある意味ものすごいことを、さらっと述べている「酒宴」もその一つだ。

作者が、銀座の蕎麦屋「よし田」で、灘の酒造会社の技師と意気投合し、場所を八重洲に移し、朝まで飲み続け、勢いで、灘の酒造会社の工場を見学することになる。見学も終わり、その会社の関係者と宴会を行うことになるのだが、皆、酒豪揃い。「献酬」という、差しつ差されつという表現では甘いと感じるほど、壮烈な杯の交わし合いがはじまる。

そんな、のっぴきならない状況の中でも、吉田健一の心の中は至って平静で、可笑しいのは、心の中で、周りにいる猛者たちを、酒量によって、七石、四十石、七十石とあだ名をつけて、酒が体に流し込まれる様子を工場のタンクに大量の酒が流し込まれるようなイメージで描いているところだ。
こうなると、酒はもう飲むというものではなくて、酒の海の中を泳ぎ廻っている感じである。海は広くても、それが飲み乾せるし、又飲み乾したいと思う所に、普通の海と酒の海の違いはあるのだろうか。海はどこまでも拡がっていて、減った分だけ又自然に湧いて来るから、飲み乾したくて飲む喜びは無限に続き、タンクが幾つあっても足りることではない。
酒を飲むという行為を、こんな壮大なイメージで、かつ上品に文章に表すことができたのは、吉田健一だけかもしれない。