2012年3月26日月曜日

アントニオ・タブッキの小説

アントニオ・タブッキが、3月25日、ポルトガルの首都リスボンで六十八歳の若さで死去したという。癌を患っていたらしい。

小説に対する興味が一番乾いていた時期に、たまたま巡りあった作家だけに感慨深かった。

私の場合、読者に積極的な関わりを求めてくるコミットメント的な小説は、どちらかというと苦手としているのだが、完全なディタッチメントというのもNGで、どこかに人間味というか、優しさがないと興味が持続しない。

そんなわがままな読者だったが、アントニオ・タブッキの小説の風通しはぴったりだったようで、須賀敦子訳の文章が美しかったこともあるが、何を読んでも精神の心地よさを感じていた。

彼の死を知った気分にぴったりの文章がある。

タブッキが、リスボンを舞台にひとりの新聞記者の物語を描いた「供述によると、ペレイラは…」の一節です。
ペレイラも立ちあがって、見送った。〔友人〕が遠ざかっていくのを見ながら、ペレイラは、なにかなつかしい気がした。まるで、とりかえしのつかない別れだった気がした。 
… 彼はとり残された気持ちになり、じぶんがしんそこ孤独に思えた。それから、ほんとうに孤独なときにこそ、〔大切な問題〕とあい対するときが来ているのだと気づいた。
そう考えてはみたのだが、すっかり安心したわけではなかった。
それどころか、なにが、といわれるとよくわからないのだが、なにかが恋しくなった。 
それはこれまで生きてきた人生への郷愁であり、たぶん、これからの人生への深い思いなのだったと…

2012年3月20日火曜日

屋根の破壊と空中の飛行

ミルチャ・エリアーデの「聖と俗」によると、古代宗教では、人間が死ぬと、その魂が上方の開口部を通って抜け出し、他の世界へ移行するものと信じられていた。

魂の脱出を容易にするため、死んだヨーガ行者の頭蓋を砕く習慣が、インドにはあるという。

また、ヨーロッパやアジアにおいても、死者の魂は煙突(煙を出す孔)あるいは屋根を通って上昇するという考えがあり、臨終が長引く際には、数本の屋根の梁を取り払ったり、取り壊すこともあるという。

屋根の破壊と空中の飛行という形象は、それは制約された存在から無制約の存在へ、つまり完全な自由への移行を表わす。

ふと、コンクリート鉄筋造りのマンションの場合、魂はどこを通って抜け出すのだろうと考える。

キッチンの換気扇は油だらけになりそうだし、トイレやお風呂の換気扇も、匂いや湿りがありそうで、いただけない。

耳を澄ますと、そうやって、屋根を通り抜けることが出来ない魂たちの声が換気扇の低いモーター音とともに、かすかに聞こえてきそうな。

お彼岸の今日、花粉を気にしながらも、窓をいっぱいに開けて、数時間を過ごしました。

2012年3月19日月曜日

Google プライバシー ポリシー

映画ターミネーターで、人類を敵とみなして攻撃を開始する高度な知能を持つコンピュータシステム「スカイネット」。

ターミネーター 3では、「スカイネット」が、クラウド・コンピューティング上で動くシステムであったことが判明するが、もし、現代に「スカイネット」が実在したとして、人類の救世主であるジョン・コナーを効率的に抹殺しようと考えたら、間違いなく、Googleが蓄積した個人情報にアクセスするような気がする。

Googleが、2012年3月1日付で同社の「プライバシー ポリシー」を改定したことが、物議を醸している。

http://www.google.com/policies/privacy/

端末情報、
ログ情報(検索キーワードなど)、
電話のログ情報(自分の電話番号、通話の相手方の電話番号、転送先の電話番号、通話の日時、通話時間)、
インターネット プロトコル アドレス、
現在地情報、
固有のアプリケーション番号とインストール情報、
ローカル ストレージ、Cookie と匿名 ID

新ポリシーでは、上記により収集された情報、さらにはクレジットカード番号などの個人情報も、外部委託の場合や、法律上の要請(例えば犯罪捜査)の場合には、関連会社のみならず、Googleの判断によって、第三者に提供可能な内容になっている。

例えば、アンドロイドOSのスマートフォンを使っていたら、誰にいつ電話していたかも、Googleに情報が提供されることになる

Googleは一体、何をしたいのか?

例えばYoutubeなどのサービスにアクセスすると、検索するまでもなく、個々のユーザ好みのコンテンツが予め表示されている。そんなおせっかいな便利さを、追求したいだけなのか?

ひょっとすると、数年後に、自分という人間を一番正確に把握しているのは、身近にいる家族よりも、自分自身よりも、Googleなのかもしれません。

そんな笑えないSFチックな世界が近くまで来ている。

2012年3月17日土曜日

逆さまゲーム/アントニオ・タブッキ

SEVER 逆さまにすると REVES.

フランス語では「夢」の意味、スペイン語だったら「逆さま」…

フランス語とスペイン語の意味は、きっと、どこかの一点で合致するのではないだろうか。
その一点は、遠近法にしたがって画面に引かれた複数の線が交差する、あの消失点(ヴァニシング・ポイント)のようなものではないかと…

タブッキの短編小説「逆さまゲーム」を読んでいると、本当にそんな気分になる。

付き合っていた年上の女性の死をきっかけに、男は彼女の遺骸に会うため、ポルトガルに向かう。

彼女の思い出とともに登場する「逆さま」のキーワード、

遠近法で描かれたヴェラスケスの「侍女たち」、

現実も空想もすべてのものの裏側がわかっていた詩人フェルナンド・ペソア、

こうだと思っていたことが「逆さま」だと分かったとき、人は、人生がただのゲームに過ぎないのではないかという思いにかられるのだろうか。


たとえば 「逆さま」 の視点から発せられた愛の言葉は、まるで幻想的なゲームを楽しんでいるかのような印象を与える。
彼女はぼくの手をとって、言った。 
ねえ、わたしたち、いったいだれなのかしら。どこにいるのかしら。 
一生をまるで夢のように生きて。 
たとえば、今夜、あなたはわたしになったつもりで、あなたの腕のなかにあなたをしっかり抱きしめるって考えて。 
わたしも、あなたになったつもりになって、わたしの腕のなかに、しっかり、わたしを抱いているって考えるわ。

「逆さまゲーム」には、どこか人生の空しさの雰囲気もただようが、それだけではないと感じさせるのは、タブッキが、サウダージという複雑な要素が交じり合った思いを、物語のなかできちんと描いているからなのだろう。

2012年3月16日金曜日

なみだふるはな/石牟礼道子 藤原新也

水俣と福島、石牟礼道子と藤原新也という組み合わせは、やはり読まずにはいられない本でした。

「なみだふるはな」は、日本という国が高度成長期に入り工業化していく中で、印度に離脱し、日本に戻ってからも一貫して否定的な立場をとってきた藤原新也と、公害によって自分の故郷と人々を壊され、国や企業と戦わざるを得なかった石牟礼道子が、水俣病と福島の原発問題を中心に語り合った対談集です。

水俣と福島に共通点が複数あるというところは確かに感じた。

・共に風光明媚な場所で、工業化されていない土地だったこと。

・水俣はチッソ、福島は東電という会社が引き起こした事件事故であるが、両企業ともに、被害者に対して誠意がある対応や救済を行っていないこと。

・国がバックにいて、多額のお金が動いていること。地元の地域経済の活性に大きな影響力を与えてきたこと。

・水銀も放射能も匂いや味がないため、知らないうちに摂取・被爆してしまうおそれがあること。

この本のあとがきにも書かれているが、二人とも何かしらの明確な回答を求めて、話しているという感じではない。

猫や食べ物、魚や鳥や海、水俣の人々の思い出話など、ほとんどが、今のニュースでは取り上げもしないだろう普段の話だった。

しかし、そういった普段の生活にあった物事が壊され続けてきたということを、二人の話を読んでいて、しみじみ感じた。

小さな言葉や小さな生命をみつめる。

大きく祈ったりせず、小さな祈りを。

そんな言葉に改めて救われたような気がした。

2012年3月11日日曜日

小澤征爾さんと、音楽について話をする/小澤征爾×村上春樹

つい最近、指揮者の小澤征爾が、1年間の活動中止を宣言したのを知り、非常に残念に思った。

ちょうど、村上春樹が小澤征爾にインタビューした内容をまとめた本書を読んでいた途中だったから、なおさら残念に思った。

大体において、インタビュー的な本は、速読(というか、ざっくり読み飛ば してしまうこと)が多いのだが、この本は、なかなか、ページを読み飛ばすことができなかった。

それほど、内容が充実していて、クラシック音楽をほとんど知らない私が読んでも、小澤征爾の音楽に対する情熱、表舞台には見えてこない数々の努力、ボストン、ニューヨーク、ベルリン、サイトウ・キネンといった世界的に有名なオーケストラの各々の特徴、同じく、世界的な名指揮者バーンスタイン、カラヤンらの逸話、マーラーに関する考察(ユダヤ人としての特質)などなど、盛りだくさんに面白い内容だった。
(370頁程度のボリュームだったが、読むのに何日か時間がかかってしまった。)

ここまで、小澤征爾の音楽に深く迫ることができたのは、村上春樹のクラシック好きが功を奏しているのは間違いないところだが、同時に「作者兼批評家」としての手腕が存分に活かされているからだと思う。
(単なる批評家だけでは、創造者としての共感が得られなかったと思う。)

村上春樹は「若い読者のための短編小説案内」という本も出しているのだが、この本を読むと、村上春樹のもう一つの顔として、実に優れた批評家の一面を持ち合わせていることがよく分かる。

彼の批評の特徴は、いわゆる文芸批評にありがちな総論に終始せず、対象となる小説本を、まるで、1枚1枚のテキストに分解し、一つ一つの文章や言葉に赤ペンで印をつけるように、細かく吟味していくところだ。

この本でも、その手法を感じさせるかのように、村上春樹は、二人でレコードを聴きながら、スコアを読むことの重要性や、曲のテンポ、アクセントの付け方、一つ一つの楽器が奏でる音への思い入れ、「間」のとりかた等、小澤征爾から事細かな部分まで聞きだしている。

文中、レコードマニアは正直好きではないと、小澤征爾が吐露しているように、このように具体的に音楽に踏み込んだインタビューが出来なかったら、ここまで充実した内容を、マエストロから聞き出すことは出来なかっただろう。

そういう意味で、小澤征爾が体調を崩し、村上春樹をして、まとまった話を聞きだすことが出来たのは、まさに天の配剤だった。

その矢先の、1年間の活動中止宣言。
とても、残念だが、小澤征爾指揮のマーラーは、是非聞いてみたいと思っている。

2012年3月10日土曜日

落ち込んでいるときは…


落ち込んでいるときは、何をしても上手くいかないような気がする。
そういう時は、つまらないことにでも願をかけたくなるものだ。

駅まで歩く道、渡らなければならない信号機が2つあるのだが、タイミングが悪いと、横断歩道の手前ぎりぎりのところで、青信号は点滅し、渡るのをあきらめる。渡り切る道路の距離が長いのだ。
そして、3分近く待つことになる。

今日は…と思っていると、すでにはるか前方で信号は青に変わった。このままのスピードで歩いていると、間違いなく赤になってしまう。

青で渡ったら…と、願をかけ、走る。
リュックが揺れ、マフラーが首から外れかけ、冷たい空気が喉もとに入ってくる。

横断歩道の真ん中で青信号は点滅し、渡り切ったところで赤に変わった。

荒くなった息が頭にこだまする中、ふと、タルコフスキーの映画「ノスタルジア」の最後のシーンが頭を過ぎった。

心臓の病を患っているロシア人作家アンドレイが訪ねたイタリア トスカーナ地方の村で、村人から狂人と噂される老人ドメニコと出会う。

ドメニコは、アンドレイに、自分が果たせなかった願いを託す。
それは、村の広場の温泉を、ロウソクの火を消すことなく渡り切ることができたら、世界はまだ救われるというものだった。

アンドレイは、ドメニコとの約束を果たそうと、ロウソクの火を手のひらで風から守りながら、温泉を渡りきろうと試みる。



世界は救われたのだろうか。
まだだとしたら、後、何回、温泉を、横断歩道を、渡りきればよいのか…

そんな、つまらないことを一瞬だけ、考えました。

2012年3月7日水曜日

立花 隆の著書

自分は、いつから立花 隆の本を読まなくなったのだろうか?

本棚に見え隠れする立花 隆の著書を見ながら、自問する。

宇宙からの帰還、ロッキード裁判批判を斬る、農協、文明の逆説、田中角栄研究、日本共産党の研究、中核VS革マル、脳死、精神と物質…

「知のソフトウェア」を読んでみる。多少古くなっているが、そのノウハウは素晴らしいと今も思う。
「宇宙よ」を読んでみる。所々、熟読してしまうぐらい、内容が面白い。

立花 隆の本を熱心に読み始めたのは1990年頃からで、その頃は、必ず、立花隆のコーナーに行って、まだ読んでいない本を立ち読みしていた記憶がある。

なんとなく、距離感を感じ始めたには「田中真紀子研究」からだろうか。
正直なところ、わざわざ取り上げて書く価値があるのだろうかと思ったし、その頃、書いていた『天皇と東大』も、正直なところ、興味を持てる内容でなかったことも影響していると思う。

盟友の筑紫哲也が死んだことも影響しているせいか、テレビへの露出も減ってしまい、 立花 隆 の言葉を直に聞く機会も減ってしまったような気がする。

しかし、自分にとって決定的だったのは、3.11の後、過去に買った彼の著書を何一つ読み返さなかった(読み返したい本がなかった)ことが大きかったかもしれない。
私の記憶の範囲では、彼が真正面から「原子力発電」や「自然災害」について取り上げた著書はないと思う。

私が3.11の後、真っ先に読み返したのは、池澤夏樹の「楽しい終末」などの著書であり、山岸涼子の「パエトーン」だった。

これは、明らかに 世界観の相違だと思う。

立花 隆が追い求めてきた世界観は、基本的に、科学への揺るぎない信頼であり、前進であり、それに基づいた明るい未来だった。

しかし、自分は、3.11以降、そんな科学への信頼と明るい未来がイメージできなくなってしまったのが、彼の著書から遠ざかった一番の理由ではないかと感じている。

1年ほど前にNHKの番組で、立花隆が自らかかったガンについて、色々調べた結果、完治は無理だと諦めたのをみて、意外な印象を持った。
自らの死をみすえたその後、彼の世界観は変わったのだろうか?

もし、変わったのだとしたら、ふたたび、彼の著書を読んでみたいと思う。

2012年3月4日日曜日

二十世紀を読む/丸谷才一・山崎正和

小説家/批評家 丸谷才一と、劇作家 /批評家  山崎正和の対談集ですが、二十世紀とは、どんな世紀だったのかを、また二十一世紀という今を考えるうえでも、とても有益な本です。

選んだ本をテーマに、二人とも話したいことを自由に喋っているだけのような感じなのだが、扱うテーマは多種多様で、内容も一級の文明論・歴史論の域に達している。
①カメラとアメリカ…雑誌ライフの表紙を多く飾ったマーガレット・バーク - ホワイトというアメリカの女性写真家を題材に、二十世紀アメリカの特質について 
②ハプスブルグ家の姫君…ハプスブルグ家最後の皇女エリザベートを題材に、二十世紀に崩壊した帝国・王政とそれを潰した時代背景について
③匪賊と華僑…中国の盗賊と華僑を題材に、二十世紀のアジアの社会原理(匪賊原理、華僑原理、キントラクト、西欧的個人主義)について 
④近代日本と日蓮主義…日本陸軍、宮沢賢治と日蓮宗の関係、そして、日本人の精神のマジョリティ、マイノリティの分類について 
⑤サッカーは英国の血を荒らす…イギリスのサッカーチームの過激なサポーター「フーリガン」をテーマに、サッカーというスポーツの特質、スポーツと産業・階級・政治との関係について 
⑥辺境生まれの大知識人…宗教学者エリアーデをテーマに、二十世紀の宗教観・歴史観について
①については、アメリカには「だれもが皆、何者かである」という暗黙のテーゼがあり、カメラというのは、皆撮ることで何者かになれるという道具なんだという指摘が鋭い。
(コダック社が破産法の適用を申請したのは、カメラもアナログからデジタルに移り、表現のための道具も更に進化していることの証左なのかも)

②については、「アノミー(無規準)」理論が興味深い。工業化によりヨーロッパでは小さな共同体、村、職人組合が壊れていき、自分が何者であるというアイデンティティが一挙に崩壊してしまった。その場合、人は不安になると、自殺するか、攻撃的になるとテロリストになる傾向があるそうです。

③については、中国が二十一世紀に覇権をとっていく中で、どういった社会原理をチョイスしていくのか、今起きている様々な事象を思い浮かべて考えると、とても面白い。

④については、山崎正和氏作成の日本人の精神史のチャート図が面白い。自分がどこに位置しているのか考えてみるのも面白いです。

⑤については、サッカーの試合で何故、あんな風(国対国の戦争のような雰囲気)になるのか、よく分かったような気がします。でも、イギリスのフーリガンに比べると日本のサポーターは礼儀正しくて感心する一方、ガス抜きとしてはまだ機能していないのではないかなど、余計な事を考えてしまいました。

⑥については、大きな大戦が終わり、冷戦が終わり、緊張感・規範がなくなった後の世界について、「素晴らしいことかもしれないし、恐ろしいことかもしれない」と山崎氏が言ったことに対し、丸谷氏がしばらく考えた後、「素晴らしいことだと思うんですが」と返し、さらに、山崎氏が「素晴らしいことにしていかなくてはなりませんね」と答えているところが印象的でした。
(この対談は1995年に行われたものですから、当然、9.11についてもお二人は知る由もなし)

実際、山崎氏の言葉どおりの事象が、この10年ほどの間に色々と起きているんだなと実感できます。
そういう意味で、二人の対談内容は、二十世紀だけでなく、二十一世紀に起きた事象も考えるうえで、とても貴重なヒントを与えてくれていると思います。

2012年3月1日木曜日

Double

大体において、流行に乗り遅れることが多いのですが、Doubleも、2000年代になってから見つけたアーティストです。

きっかけは、2002年ごろ、CMで流れていた「Driving All Night」で、「Boogie Oogie Oogie」のフレーズだよなと思って聴いていたら、音楽が耳から離れなくなってしまい、アルバムを聞き出したら、段々とはまってしまった。


当初は、TAKAKOだけでなく、姉のSACHIKOの姉妹で歌っていましたが、SACHIKOが急逝してしまい、現在は一人で歌っています。

ルックスも曲調も、ブラックR&Bの色あいが強く、自分の好みからいって、そういったアーティストには、あまり惹かれないのですが、彼女の歌声には、 ちょっと演歌にも通じるような日本的なフィーリングを感じるところがあり、そこが魅力だと思っています。


冬も終わりに近いと、いつも、この曲をきたくなり、きながら春がくるのを待ちわびています。

♪~新しい季節は何かあるさあ羽ひろげ~♪