2015年3月31日火曜日

花びら / 流線形

流線形の「花びら」のイントロが切なくていいなと思った。




夜の公園、静かに花を咲かせる桜の下を走ると、冷たい空気が気持ちいい。

一十三十一の曲を聴く流れで、流線形の歌も多く聞くようになったが、’80代を感じさせる曲調が、くせになる。

2015年3月29日日曜日

ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか? /ダニエル・カーネマン

人間には、速い思考と遅い思考がある。

本書では、それをシステム1とシステム2と呼んでいる。

システム1の特徴は、自動的に高速で働き、印象や感覚を生み出す。努力は不要で、自分のほうからコントロールしている感覚は一切ない。

システム2は、複雑な計算など頭を使わなければできない困難な知的活動にしかるべき注意を割り当てる。システム1の自由奔放な衝動や連想を制御したり、退けたりする。ただし、スピードが遅く、怠け者である。

システム1が自動的に行うことの例としては、

・2つの物体のどちらが遠くにあるかを見取る。
・突然聞こえた大きな音の方角を感知する。
・声を聞いて敵意を感じる。
・2+2の答えを言う。
・簡単な文章を理解する。

一方、システム2は、注意力を要するような行為、例えば、

・人が大勢いるうるさい部屋の中で、特定の人物の声に耳を澄ます。
・歩く速度をいつもより速いスピードに保つ。
・ある社交的な場で自分のふるまいが適切かどうか、自分で自分を監視する。
・17×24の答えを計算する。
・複雑な論旨の妥当性を確認する。

などで働く。

このシステム1とシステム2を。自分の生活に照らしてみると、仕事の現場などで意思決定をした際、ほとんどがシステム1に基づいているような気がして怖いと思った。それは、やはり、無意識のうちに、知力を消耗するシステム2を働かせるのを面倒がっている自分がいるのだろう。

この2つの思考システムの存在を意識させてくれるだけで、本書を読む価値があると思う。

少しだけ、自分が注意深くなれたような気がする。

2015年3月22日日曜日

雲のゆき来 ― 或いは「うまく作られた不幸」―  中村真一郎/日本文学全集 17

この日本文学全集にあって、「雲のゆき来」は、いわゆる中上級者向けの作品かもしれないと思った。

冒頭、主人公(文学者)の近所にある豪徳寺の古い桜の木から話がはじまり、豪徳寺にあるお墓のひとつ井伊家初代藩主の側室 春光院の幸せな人生に触れる。

そして、主人公は、春光院の「うまく作られた幸福」のような人生の裏返しとして、「うまく作られた不幸」という観念を体現したかのような女性の人生を語ろうとする。

私が中上級者向けという理由は、ここから、作者が、その女性の話をする前に、実に4章も、 春光院の弟で文筆家であり僧侶でもあった元政上人の話を書くからだ。

作者自身、長い周り道と言っているが、この部分で、読むのを諦めてしまう読者もいるのではないか。(私は一旦挫折した)

しかし、じっくり腰を据えて読むと、 日本が江戸時代、いかに中国の影響下にあったか(中華思想)、元政上人の普遍的な教養、異文化の詩人と接触した詩人の影響の段階について、西洋の文学も引き合いに、興味深い文化論・文学論が展開されているのが分かる。

物語が小説的に動き出すのは、第6章からで、主人公は、映画関係の仕事をしている友人の紹介で、ドイツ(ユダヤ)人と中国人のハーフの若く美しい映画女優 楊(やん)と知り合うことになる。

そして、偶然にも彼女の父親が、主人公がかつて交友していた東洋学者であることが分かるのだが、同時に、楊が、母(母以外の複数の女性も)を捨てた父親を深く憎んでいることが、主人公の前で露わになる。

気まぐれな嘘のせいで、主人公は、彼女とともに京都を旅することになるのだが、旅の途中、彼女が美しいだけでなく、かなりの知性を持ち合わせていることが分かる。

そして、彼女は、かつて父親が京都で関係をもった5人の日本人女性に会うことを計画していたことが分かる。

主人公は、楊の計画実行をサポートするとともに、彼女と、元政上人の草庵を巡るなどして、徐々に親密になってゆく。

そして、彼女の父親が関係した日本人女性二人との対面後に、疲れと感情が共鳴し合った二人は、一緒に寝ることになる。

一夜が明け、彼女と別れた後、主人公が訪れたオーストリアの街で、彼女のその後、そして、主人公に残した手紙があることが分かるのだが、あらすじに触れるのはここまでにしよう。
(彼女が「うまく作られた不幸」の体現者であることを考えれば、大よそ察しがつくと思う)

前段で描かれている 元政上人のある意味、地味でストイックながら、普遍的な教養を感じさせる漢詩の世界、そして母親を愛し孝行を尽くした幸福な人生と、

中段で登場する映画女優の美しいけれども、父親を憎む感情しか生きる糧にできず、本当に生命をかける目的を見失っている不幸な人生が、鮮やかに対比されている。

小説としては、 映画女優の話が主なのだろうが、この対比が物語の深みをより増している。

そして後段で、春光院の墓前の前、主人公が惹かれたこの正反対な二人の人生を、長い長い思索の過程を経て、自分の中に溶かし込んでゆく最後は、この物語に落ち着きと安心感を与えている。

不幸な女性というと、辻邦生の「夏の砦」の支倉冬子が思い浮かぶが、この物語で書かれている 楊のほうが、はるかに魅力的だ。

彼女の物怖じしない率直な言動とスキャンダルな異性関係に個人的に魅力を感じたのかもしれない。

2015年3月16日月曜日

世界の終わり 福永武彦/日本文学全集 17

読んでいると、徐々にその世界に引き込まれていくような作品だ。

若い内科医の妻が、少しずつ精神を病んでいく様子を描いているのだが、物語の構成が面白い。

1.彼女
  狂気の中にいると思われる妻が美しい夕焼けを見て、世界の終わりのようだと感じる

2.彼
  妻と母が待つ家に向かう列車の中で、妻とのやり取り、異常な行動を思い出し、憂鬱になる夫

3.彼と彼女
  二人の出会いから結婚までの様子、少しずつ壊れてゆく妻の精神、そして自殺未遂
  夫が到着した駅で見る厳しい顔の母

4. 彼女(つづき)
  妻が見る狂気の世界

やはり、引き込まれるのは、1と4の妻の狂った意識を描いている部分である。

極端なほど、「私は…」からはじまる文章が、徐々に、「お前は…」とか、「あの女は…」とか、「もう一人の私は…」とか、「もう一人のお前は…」というように主語が分裂してゆくのだ。
そのくせ、その中心にいる私は、分裂した自己を、歪んだ世界を、奇妙なくらい透徹した精神で眺めている。
そして、妻は、無意識に、しかし執拗に、夫や夫の母がいる世界とのつながりを断ち、自分の世界を守ろうとする。

この作品を読むと、「福永武彦新生日記」に書かれていた、実際に彼が経験した妻 澄子の自殺を仄めかす言動のことが思い出されてしまう。

作品としては優れたものであることに間違いはないが、息子である池澤夏樹は、よく、この作品を選択したものだと思う。

2015年3月15日日曜日

狼のレクイエム 第三部 /平井和正

狼のレクイエム 第三部「黄金の少女」、「キンケイド署長」、「パットン将軍」、「タイガーウーマン」を読んでみた。

平井和正のヤング・ウルフガイ・シリーズは、間違いなく、この前作である狼のレクイエム 第二部まででピークを迎えてしまっており、たぶん、それ以上の質の作品ではないだろうという思いが強く残っていたせいか、まともに第三部の作品を読んでいなかったのだ。

その予感は、やはり外れてはいなかったが、内容的には、まずまず読めるレベルには達していると思う。

物語は、人並み外れた身体能力を持つ謎の東洋系の少女キム・アラーヤが、何らかの理由で、山荘で軟禁され、厳重に監視されている場面からはじまる。そして、彼女が胸に着けているロケットには、犬神明の写真が収められている。

さらに場面は変わり、前作で、ブーステッドマン部隊の襲撃を受けた虎の里から生き残ったと思われる神明が、北米アリゾナ州南部の小さな田舎町のチャンバーズのレストランで、トラブルに巻き込まれる。

その際、彼を最初に詰問するのが、心臓病を患っている白人の中年男キンケイド警察署長なのだが、内心では神明を逮捕することでトラブルから回避させようとした良心的な人物だった。

その後、神明とこの町に一緒に来ていた女性 虎2がキンケイドに好意を持ち、心臓病の原因となっていた椎骨のずれを直し、神明と虎2を追ってきた暴走族の襲撃から彼の命を救う。

それがきっかけで、チャンバーズの町は、二百騎にも及ぶ暴走族と事を構えることになるのだが、以降、物語の中心は、キンケイド署長になる。

数十年前に読んだときは、なぜ平井和正は、このキンケイドを物語の中心に据えたのだろうと、よく分からなかったが、今回読んでみて、その事情が物語の中に明確に示されているのが分かった。

物語中、 神明と虎2が話すシーンが出てくるのだが、そこで、前作の結末ではっきりしていなかった青鹿の死、犬神明と殺し屋西城がまだ生きている事実、そして不死鳥作戦がまだ続いている事実が明かされる。
そして、神明は虎2に、「人類は地球にとって癌細胞であり、 その自浄作用ともいうべき滅亡への道を辿ろうとしている不死鳥作戦こそ、是としなければならないのではないか」と、この物語の善悪の前提を根底から覆すような発言をするのだ。

巨視的にみると、神明の発言はまぎれもなく真実なのだが、これをいうと、不死鳥作戦を推し進める人間との闘いを描くこの物語自体が無意味なものになり兼ねない。

まさにパンドラの箱を開けてしまったようなものであり、 この物語の中で、まるで脇役のように神明と虎2を配置させざるを得なかった事情がよく分かってしまった。

そういう意味で、本丸が沈んでしまったこの物語が、前作を超えるモメンタムを作り出すのはとてもかなわなかったのだろう。

しかし、その苦境を、平井和正は、自身が影響を受けたレイモンド・チャンドラーの小説の枠組みを使って、物語を必死に紡いでいる。

チャンバーズというアメリカの片田舎の人々の様子は、フィリップ・マーロウが訪れる街の一癖ある人々の様子と重なるし、キンケイド署長は、フィリップ・マーロウのような、あるいは、数少ない善良な警察官のような印象があるし、モーガン巡査は、マーロウに敵対する悪人めいた警察官の姿と重なる。また、パットン将軍は、「長いお別れ」に出てくるカーン会長を彷彿とさせる。

結局、物語の最後になっても、冒頭に出てきた謎の少女キム・アラーヤは何者なのか、犬神明はどうしているのかが描かれることはなかったが、それは次作の「犬神明」で語られるのだろう。

この作品が書かれた1980年代後半までが、ひょっとすると、平井和正の賞味期限なのかもしれない。

2015年3月14日土曜日

かげろうの日記 ほととぎす 堀辰雄/日本文学全集 17

「かげろうの日記」は、堀辰雄が、藤原道綱の母が平安時代に書いた日記文学「蜻蛉日記」をもとに、現代の日本語を用いて独自の物語によみがえらせたものだ。

池澤夏樹個人編集の日本文学全集が、古典の復権がテーマだとすると、この「かげろうの日記」も、それに当てはまる作品といっていいだろう。

「かげろうの日記」は、関係を持ったあの方(藤原兼家)が、徐々に自分の家を訪問することが少なくなり、藤原道綱母が感じる寂しさ、虚しさを、そして、世捨て人のような生活を送ろうと思うのだけれど、完全には関係を断ち切れない中途半端な関係の中で生まれる、もどかしさ、いらだちのような感情までを、きめ細かく描いている。

平安時代という背景も面白く、男女の思いを伝える術は文と和歌。男が女の家を訪れない理由も、他の女の家に通う際の口実なのか、「物忌み」(不浄を避けて家に謹慎すること)という理由が使われたりする。

でも、 この藤原道綱母(名前がない。○ちゃんママみたいなものか)は、男性から見ると、なかなか手ごわい印象を受ける。
堀辰雄の他の作品にも登場するが、「不幸だけれども自分の考えをしっかりともった女性」のようだ。

その印象がさらに確信に変わるのが、 「ほととぎす」だ。

この作品は、 「かげろうの日記」の続編とも言うべき作品で、藤原道綱母が、夫の藤原兼家が別の女性に産ませた幼い女の子の撫子(なでしこ)を養女として預かるところから話が始まる。

この撫子は可愛らしい女の子らしく、その話を聞きつけ、若い貴族である頭の君が交際を申し込もうとする。しかし、 藤原道綱母が、撫子はまだ幼いから、時期が早いと、容易に寄せつけない。
話をしたいと言っても断ってしまう。

この物語は、 撫子という存在を介在して、藤原道綱母と頭の君の攻防戦のような状況を呈することになるのだが、ことごとく拒絶され、そのうち、フラストレーションが溜まった頭の君が衝動的に藤原道綱母のいる御簾の中に入ろうとする事件が起きる。

それも、藤原道綱母が手ひどく、たしなめるのだが、このへんから、頭の君は、藤原道綱母のことを思いはじめてしまったのかもしれない。

そうこうしているうちに、頭の君はおかしくなってしまったらしく、撫子への思いもどこへやら、他人の妻を偸んで姿をくらましてしまう。

ひとりの純朴な若者を焦らして破滅に追い込んだようにも思える物語だ。

日記というものは、善男善女ではなく悪女が書いたものだからこそ、面白いものなのかもしれない。

2015年3月11日水曜日

4年目のこの日

3月11日という日は、やはり特別な日なのだと思う。

2011年3月11日(金)14時46分。

それを起点にすべてが変わってしまった。

幼い子を津波で亡くした友人、いまだに仮設住宅で暮らす親戚、口には出さないけれど、日々、子供たちを放射能の脅威から守ることに注意を払う姉、故郷に帰ることを諦めた知人、そして、おそらく、あと40年は海水浴もできないだろう故郷の美しかった海。

6号線も常磐自動車道も全線開通はしたけれど、まだ周辺の放射能の影響は無視できない。

遠く離れたドイツが福島の事故を見て、脱原発に舵を切ったというのに、国は停止していた原発の再稼働を積極的に進めようとしている。

ひとたび事故が起これば、自分の家も生活もコミュニティもすべて破壊され、いまだに回復できないというのに。

黙とうの1分間。

いまだに、あの日に思いをよせると、やりきれない悲しみと整理できない怒りが心に湧いてくる。

2015年3月10日火曜日

NHKスペシャル 震災ビッグデータ File.4 いのちの防災地図 ~巨大災害から生き延びるために~

震災時の車や人の行動をビッグデータから解析し、今後の防災に活かそうという趣旨の番組で、見ていて、なるほどと思わせる内容が多かった。

被災地に、何故、救援物資がすぐに届かなかったか。
(食料・水・暖房器具などが足りず、そのせいで多くの人が避難所で亡くなった)

番組では、震災前は、活発に動いていたトラックの移動の軌跡が、震災後、ほとんど動いていなかった様子を紹介していた。

その原因はガソリンスタンドの閉鎖だ。
通常、トラックは、帰りの燃料がなければ、物資を運ばない。

なぜ、ガソリンスタンドが閉鎖してしまったかというと、日本の精油施設が被害を受け、生産量が減少していたこともあったが、石油を運搬するタンクローリーが、被災地に石油を運べなかったというのも原因だったらしい。

知らなかったが、タンクローリーというものは、通常、同じ地域の中で運搬を行い、越境はしないという。
効率性を高めるための運送システムだったが、 その地域の石油を運搬する、タンクローリーが被災して動けなくなくなると、石油の輸送が絶たれてしまう。
今後は、 地域ごとに、石油の備置施設を作り、越境して石油を運搬するルートを持った運送システムの構築が必要であるということが指摘されていた。

また、震災発生時に、人々がスーパー等で買い求めた物資の一覧が紹介されていた。
レトルトのカレー、缶詰、水、電池などに続き、意外なものとしては、ラップ(食器を洗わなくてよい、また、破れた窓の補修にも使える) 、制汗スプレイ(お風呂に長く入れない)、子供のおもちゃ(テレビの津波の映像ばかりで子供の心にダメージを与える)なども、震災の一週間後あたりから、購入の数が増えてきたという。

南海トラフ地震への対策についても紹介されていた。
高知の二葉町では、津波と地震による災害発生地区を予想し、その場所にかからない避難のための道路を割り出し、その道路の先にある仁淀川町という町を訪れ、災害時には、空き家や休眠施設を利用させてほしいという申し入れを、平時である今、すでに行っているという。(素晴らしい)

番組中、識者が、防災とは、どれだけ災害をイメージできるかにかかっている、と言っていたが、単に想像を巡らせるだけでなく、東日本大震災の時に得られたビックデータを活用して分析することは、その問題点と対策を具体的に目に見える形にしていく有効な手段になるということは間違いない。

2015年3月9日月曜日

狼のレクイエム第二部 ブーステッドマン/平井和正

狼のレクイエム第三部 黄金の少女が読みたくなって、数十年ぶりに、その前作である 第二部 ブーステッドマンを読んでみた。

この作品は、やはり、極悪人の殺し屋 西城恵の魅力に負うところが大きい。

狼男 犬神明の血から取り出した血清を注射することで、西城恵は、超人的な身体能力と不死身性を手に入れるが、同時に、今までの彼にはない人間的な優しさと弱さも併せ持ってしまう。

そのせいで、彼は、最も大事にしていた予備の血清を、仕事のパートナーである沢恵子が死に瀕した時に、彼女を助けるために使ってしまうのだが、そのせいで、二人の力関係は逆転してしまう。

その西城が、狼人間とブーステッドマン(強化人間)との戦いに参入するため、沢恵子と、タフな殺し屋のインディアンと一緒に山越えをするシーンが好きだ。

西城は、狼人間の力を存分に発揮する沢恵子に弱みを見せまいと、血清の効果が切れる中、衰える体力を振り絞り、必死になって行軍についてゆく。

どんなに不利な状況にあろうと、決して弱音を吐かない克己心の強さが、極悪人の西城恵という人間の中から立ち現れる。

彼は、精神と肉体のどん底から、調息法という精神統一と活力復活のための体術を行うことにより、再び立ち上がることができる。

そうして、最強の殺し屋3人は、不気味な不死身性を身につけたブーステッドマンと死闘を繰り広げる。

容赦のない暴力に満ちた世界の中にあって、殺し屋という自らの能力を最大限に発揮する西城恵の姿は、この物語の中で圧倒的に輝いている。

2015年3月7日土曜日

BSフジ プライムニュース 曽野綾子氏×南ア大使

今日たまたま見ていた BSフジのプライムニュースで、作家の曽野綾子が、駐日南アフリカ大使を目の前にして、自身が産経新聞のコラムに、人種隔離政策(アパルトヘイト)を称賛するかのような記事を書いたことについて釈明していた。

その稚拙な説明は、聞いていて、首をかしげるような内容だった。


A. 自分が南アフリカに行ったときには、すでに アパルトヘイトは廃止されていた。記事に書いたマンションの話も、そのような背景のない話だ。

B. 自分がこの記事で言いたかったのは、人の個性を尊重するためには、区別は必要だということだ。差別ではない。

C. 自分は政治家ではなく、作家であるので、政治的な意図はない。

D. 自分の書いた記事が、まさか、ネルソン・マンデラ氏が釈放されてから25周年目となる日に掲載されるとは思わなかった。また、自分の書いた記事を、そのように解釈をする人がいるとは思わなかった。

最初のAの部分の発言について、まず驚いたのは、記事に書いたマンションの話が、誰から聞いたかもはっきりしないような出所不明の話だったということだ。そういう話を、自分の重要な主張(区別は必要)の論拠として書くという考えが信じられない。

次のBの部分が最大の問題だが、彼女が言っている「区別」と「人種差別」の違いが、はっきりしないということだ。
 駐日南アフリカ大使の方も、文脈において南アフリカ共和国を取り上げ、人種別に分かれて住むべきだという「区別」を語ることは、人種隔離政策(アパルトヘイト)そのものだという趣旨のことを語っていたが、そういうもっともな他者の視点に関し、曽野綾子は、ひどく鈍感だ。

C.については、作家以前に、とても社会人の言葉とは思えない。作家だったら、アパルトヘイトを想起させる記事を書いても、非難されるべきではないなどという理屈は通らない。

D.に至っては、日にちの問題でないことは明らかであり、作家であるのに、他者が自分の発言をどう受け止めるかについて想像力が欠如しているというしかない。

 おまけに、アパルトヘイトについての予習が足りなかったらしく、発言の途中、何度もペーパーに目を通している姿が映っていた。

 BSフジだから、こんな記事を載せてしまった産経新聞を擁護するのではないかと、うすうす予想はしていたが、案の定、曽野綾子の稚拙な発言を完全に理解したというような話しぶりで、

 反町理(そりまち おさむ)キャスター(フジテレビ報道局政治部編集委員)が、

 曽野綾子さんには悪意はないのだから、彼女に対して、NPO法人などから多数の抗議を行うのはおかしいのではないかと、駐日南アフリカ共和国大使に対し、疑問を投げかけたのにも驚いた。

大使のモハウ・ペコさんは、終始冷静で、感情を高まらせることなく(むしろ、曽野綾子を気遣っていた)、それは言論の自由として尊重されなければならない、と諭すように回答していたが、この番組を見た外国の人が、日本人とはなんて無神経で無教養な国民なのだろうと誤解されるのではないかと心配になった。

こういう釈明番組をやるのなら、曽野綾子を含め、もう少し周到に準備をしてから行うべきだろう。
記事を掲載した産経新聞の見識の無さに、さらに恥の上塗りをしてしまったような番組だった。

2015年3月1日日曜日

続・終物語/西尾維新

終物語で、ようやく完結した“物語シリーズ”。

本書は、そのおまけの番外編のようなものだと思っていたので、あまり期待せずに読んだのだが、意外と面白かった。

今までの本編の物語に、しっかりと繋がっているし、時系列でいうと、次の“花物語”につながるエピソードも語られている。

阿良々木暦が鏡の向こうの“裏返しの世界”に引きずり込まれてしまう物語。

相変わらず、物語は、SF・推理小説仕立てで進んでゆくが、今まで登場してきたヒロイン達の語られなかった思い、阿良々木暦と彼女たちとの思い出を弔っているような雰囲気が漂っていてるところが読んでいて伝わってくる。

この“物語シリーズ”の最後にふさわしい物語だと思う。

# と思ったら、“接物語”という新しい作品が、“ネクストシーズン”ていうことで、また出るらしい。



 See you later, alligator. って、「じゃ、またね。」という、アメリカ風の別れの挨拶らしい。

そして言われた方は、「After a while, crocodile.」 (またね。)と返すらしい。しゃれている。

 alligator, crocodile (いずれも鰐) の意味とは関係ないらしい。