2012年1月30日月曜日

「待つ」ということ/鷲田清一

宮本輝の「春の夢」のあとがきに、作者が、この恋愛小説は今のように恋人同士が携帯電話ですぐに連絡を取りあうことができる環境では成立し得なかった小説でしょう、というようなことを書いていたのを覚えている。

確かに一昔前、私たちの生活には「待つ」場面が多かった。

遠くの人からの手紙を待ち、受験の合格発表は電報が届くのを待ち、見逃した映画やドラマは、テレビで再放送されるのを待ち、付き合っている異性から電話が来るときは、電話が鳴ったとき、家族の誰よりも早く受話器をとらなければと家の電話機のそばで落ち着かない時間を過ごした。

待つ間、待つ人には様々な思いが過ぎる…期待、希望、倦怠、疑念、失望、祈り…

でも今は、インターネット、メール、レンタルビデオ、携帯端末…私たちは欲しければ、いつでも、何処でも待たずにすぐに、ほしいものにアクセスする。

鷲田清一の『「待つ」ということ』は、そんな「待たなくてよい社会」「待てない社会」に対する穏やかな反論の書であり、前にこのブログで取り上げた「聴くことの力」と「だれのための仕事」の続編にあたる書だ。

19の章で、色々な視点から「待つ」ということが検証されていているのだが、

個人的には認知症患者がしばしばとる行動の原因を「コーピング」(これまでどおりの「じぶん」を保ち続けることができない本人が何とか切り抜けようとするやむにやまれぬ戦略)という概念を使って説明している部分に特に興味を引かれた。

とかく、認知症患者に対しては周りが異常な目で見てしまうことが多いが、それは当人たちも気づいており、何とか自分を正当化するためのやむを得ない手段であることがはじめて理解できた。

また、そういった認知症患者のケアに関する考え方として、ひとつの挿話とともに以下の考え方が紹介されている。
ケアにおいて、重要なのは、相手に問題を直視させることや、問題を解決することではなく、痴呆が問題となる場から、すり抜けることではないか…「痴呆」ケアにおいて重要なのは、…問題の転換ないし消失なのであって、それには、ふとしたはずみで起こってしまう「パッチング・ケア」…そう、ケアと言うことさえはばかられるような些細な行動の「つぎはぎ」によって、現実のケアはなりたっている…
作者は、そのようなケアの姿勢を、陶工が瀬戸物を窯に入れて焼き上がるのを待つ行為に似ているという。
何かを創るという意思はかえって邪魔である。…土をこねる。何度も、何度も、飽くことなく土をこね、そして焼く。「一人の作者に期待し得ぬような曲折」 が現れるまで、偶然に身をゆだね、待つ。
偶然に身をまかせ、「待つ」ことすら放棄しているような、でも、何かが変わることを願いながら、日々の生活を淡々と反復する。

「待つ」とは、こんなにも深い行為だったのだ。

2012年1月29日日曜日

会議・カイギ・懐疑

政府の原子力災害対策本部の議事録が一切作成されていなかったことが、国会でも、大きな問題として取り上げられている。

この問題ひとつとっても、今回の原発事故に対する政府対応のまずさ、不誠実さが分かるが、この問題について、まじめに書くと精神的に良くないので、個人的な話に転じます。

仕事柄、昔は、議事録を書くことが多かったのですが、ICレコーダーを使ったことは、ほとんどありません。

よく、議事録を書くのに、会議が終わった後、テープ起こしを一からやっている人がいますが、あなたは、会議中、何をしていたのという感じがします。

それに、同じ話を2回聞く苦痛(そんな面白い話をする会議は九分九厘ありません)もある。

特に、ビジネスの議事録なんかは、誰が何をいったのか、事こまかに書いても、ほとんど意味がなく、いつ、誰が集まって会議をしたのかという点と、会議の決定事項と、その決定のプロセスが分かる主な発言の要旨が書いてあれば、十分ではないかなと個人的には思っています。

(もっとも、今回の原災本部の議事録なんかは、誰が何を言ったかが重要なのでしょうね。こういうものについては、議事録が改ざんされても後日分かるように、ICレコーダーを使う意義はあると思います)

会議中も、色々なひとがいる。特に「ダメ会議」になると多種多様だ。

目をつぶって、寝ているのか、瞑想しているのか分からない人 。
スマートフォンをいじる人。
ノートPCを持ち込んで、ひたすら画面から目を離さない人。
最初の10分だけ顔を出し、別の会議があるのでと言って、抜け出す人。
何も言わずに会議室を離れて戻ってこない人(タバコでも吸っているのだろうか)。

不幸にして、そういう会議に参加することになったら、早めに別の用事のふりをして抜け出すか、変わった動物がいるなぁという感じで人間観察に徹するか、どちらかですね。

2012年1月27日金曜日

grappa & calvados

たまにだが、お洒落なフレンチレストランで食事をすることもある。

メインも平らげ、満腹になると、大概、女性はデザートを頼む。

アイスクリーム、シャーベット、プリン、ケーキ。そして、コーヒーか紅茶。

しかし、自分としては、スパークリングワインからはじまり、白・赤ワインも楽しみ、いい具合に酔っぱらってしまうと、簡単に酔いをさましたくない。

なので、だいたい、グラッパか、カルバドスを、頼むことにしている。

グラッパは、イタリアのお酒で、ワインを造ったあとに残る葡萄の搾り粕を蒸留したブランデーの一種。
カルバドスは、フランスのカルバドスで作られているリンゴを原料にしたブランデーだ。

どちらも、アルコール度数が30度以上の強いお酒で、飲むと胃の中がスッキリする。

ワイン同様、種類が多いので、最初に注文すると、お店によっては、色々な形のボトルをテーブルにならべて、 それぞれの特色について説明してくれる。それを聞きながら選ぶ過程も楽しい。

二杯、三杯とお代わりするようなお酒ではないのだが、お店の人も知ってか知らずか、大体、ボトルをテーブルに置いていくので、ついつい…最後にもう一杯ということがある。

でも、自分では飲みすぎたかなと思っても、本当によいお酒は不思議と悪酔いしません。

もちろん、それなりの値段はしますが、安いお酒で悪酔いして翌日を無駄にすることを考えると、結果的にはちゃんとペイできている、と自分で自分を納得させています。

2012年1月23日月曜日

遠い水平線/アントニオ・タブッキ

何処か遠くに行きたいという思いと、何処に行っても所詮同じだという思いが交錯する人間は、結局のところ、何処にも行けない。

さしあたり、出来ることといえば、本を読み、見知らぬ土地を旅している幻想に浸ることぐらいかもしれない。

タブッキの「遠い水平線」も、そんな気分に浸れる小説だ。死体置き場で働いている主人公スピーノが、ある夜、運ばれてきた身元不明の他殺死体の男カルロ・ノーボディ(無名の意。偽名)の身元を調べようと、少ない手がかりから、死んだ男の痕跡が残るイタリアの市街を巡りはじめる。

訪れる場所ごとに小さなエピソードがあり、20章で区切られたそれらは事件に関係があったり、なかったりするのだが、どちらかといえば、そこで描かれる美しい静かな風景に心が癒される思いがする。

個人的には、主人公が女友達とバスに乗り、聖堂を訪れるシーンや、死んだ男が着ていたジャケットを作った紳士服のお店を訪れるシーンが、とても好きです。

タブッキの文章は、須賀敦子訳の美しい日本語に置き換えられて、時折、詩のように心に響く。
その夜、彼は夢を見た。
もう、何年も見なくなっていた、あまりにも遠いころの夢だった。 
子供じみた夢、彼はさわやかで、無心だった。 
夢をみながら、奇妙なことに、やっと、その夢に再会したような自覚があった。 
そして、そのことで、彼は、解き放たれたように、もっと無心になった。

2012年1月22日日曜日

浪江町の思い出

僕は、3、4歳のころから小学校3年生の夏まで、浪江町に住んでいた。
福島県双葉郡浪江町。

僕の家族は、その町の金融機関の社屋のすく傍の小さな社宅に住んでいた。
社宅には、開かずの部屋があり、そこには会社の書類が入った古びたダンボールがたくさん積まれていた。私と姉は、お化けの部屋と呼んでいた。

父は一番、仕事に油が載っていた時期だった。支店長だった彼は誰よりも先に会社に行った。
何でそんなことをしたのか、今でも分からないが、銀行窓口の水を湿したスポンジの器具を並べるのを手伝った記憶がある。

町は、小さかったけれど、私にとっては全てだった。
今、思うと私の子供時代で一番幸せな時期だったかもしれない。

セキセイインコを買った小さなホームセンター(金魚が泳いでいるのを飽かずに見ていた)
夏には、大きな金属製の機械から作り出されるイチゴのカキ氷を食べるのが楽しみだった。
学校への通学路を近道して、病院の病棟と病棟の間の渡り板の通路を抜ける道をよく歩いた。
精神病院という噂もあり、人気のない渡り板を越えるとき、笑い声が聞こえると、子供ながらに怖かった。
町には、唯一の小さな洋食屋が1件だけあり、月に1回、家族で外食に行った。
私は、いつも、スパゲティ・ナポリタンを食べていた。

友達も多かった。

一番仲がよかった友達は、町の建設会社の社長の息子だったが、事情があって、母方の酒屋の家から学校に通っていた。学校が終わると、酒屋のビールケースや日本酒の空瓶が置いてある倉庫に行って、キャップを集め、お互いにぶつけっこをして遊んだ。

ある夏の夜、その友達が母親と一緒に高級花火セットを持って、うちに来て、一緒にやらないかと誘ってきた。その花火は父親が買ってくれたものらしいことが分かり、僕は初めて、その友達の家庭の事情が分かった。

好きな女の子もいた。彼女は町の眼科医の娘だった。

学校では、落ち着きのない子と言われ続けた。何かといえば、優等生の姉に比べられていた。僕の通信簿は、5段階評価で大体が3か2だった。
ある時、社会のテストで20点台をとり、父親にひどく折檻された記憶が残っている。
勉強は出来なかったが、友達といつも、いたずらをして毎日が楽しかった。

現在の浪江町長にも迷惑をかけた覚えがある。まだ、当時は酒屋の軽トラを運転していた町長 の車両の荷台で、私を含め子供たちが何人か乗って、海にでも行こうとしていたのだろうか。
運悪く、パトカーが後ろから来たとき、空気が読めない私は、 町長 が、静かにと言うのもきかず、大声で笑い出し、結局、それに気づいた警察に車を止められ、町長は注意を受けた。

当時、仲のよい友達に、李(リー)君がいた。台湾出身の彼は、体格も良かったが、頭も良かった。エンジニアの父親をいつも尊敬していた。

ある日、町の通りで、スピーカーを持った大人たちが車に乗りながら、しきりに大声を出して演説していた。
僕と一緒に歩いていた李君は、その大人たちを見ると、突然ダッシュして、詰め寄った。
「原発の何が悪い。原子力は安全なエネルギーだ。パパも安全なものだと言っている」というようなことを、突然、李君は、大人たちに言い出したのだ。

僕は、大人たちに真っ向から反論する李君にびっくりしてしまった。
大人たちは当惑気味だったが、多少茶化したように「ここに、馬鹿なことを言っている子供がいます。」とスピーカーで言いながら、あきれたように笑い出した。

李君は、負けずに反論したが、大人たちは李君の父親も非難し始めた。彼らは「原発反対」の主張を曲げなかった。
僕は、友達の父親を貶めようとした大人たちに明らかに腹が立っていた。李君のために、義憤を禁じえなかった。

今考えると複雑な思いがする。しかし、町は交付金で活気付き、原発で働いている親を持つ友達も何人かいたのだ。

それから、父の仕事の都合で転校することになり、浪江町を離れることになった。二、三年の間は何度か町を訪れたが、いつしか足を運ばなくなった。

その後、一度だけ、なぜそんな気分になったのか分からないが、大学生の春休みのころ、一度だけ、浪江町を再訪したことがある。
僕は、当時住んでいた自分の家(もう建物はなかった)のあたりを歩きながら、ドブ川の匂いに懐かしさを覚えた。

きっと、あの事故がなくても、僕は二度とあの町を訪れなかったのかもしれない。しかし、可能性としてあの町に行けなくなってしまったこと、僕の少年期の思い出が詰まった場所が今は誰もいない場所になっていることに、今でも鈍い痛みのようなものを感じている。

2012年1月21日土曜日

Drugstore Cowboy/Gus Van Sant

ガス・ヴァン・サントの「ドラッグストア・カウボーイ」は、好きな映画のひとつだ。

ジャンキー(麻薬中毒者)の主人公ボブと、その彼女ダイアン、相棒のリック、その彼女ナディーンの4人が、ドラッグストアを襲撃しては、薬を奪い、犯罪のスリルと薬の快楽に溺れる生活を送っている。
しかし、ナディーンの死をきっかけに、ボブは仲間から離れ、薬を止めて、更生を図ろうとする。

犬を飼うことと、ベッドに帽子を置くことが不運を招き寄せるという彼らの中のジンクス。
そのジンクスを知りながら、あえて、ナディーンが帽子を置いたことで、彼らは本当の不運に巻き込まれる。

いつかは破滅すると思っていたと、ボブが述懐するように、ベッドの上の帽子をきっかけに、ボブは、この生活にピリオドを打ちたがっていたのかもしれない。

仲間のナディーンが死んだことや、そのとき、警察の集会に巻き込まれ、刑務所送りになる恐怖にさられたことも原因としてはあるのかもしれない。

しかし、ダイアンや恋人のリックが、それでもジャンキー(麻薬中毒者)を止めようとしなかったのに、なぜ、ボブだけが普通の生活に戻ろうとしたのか?

久々に映画を見返していたら、ボブが天井裏に隠したナディーンの死体の傍で、顔をしかめるシーンがあった。死体の腐敗臭を、嗅いだのかもしれない。

ボブは、リーダーの責任からだろうか、生前は嫌っていたナディーンの死体の後始末を最後まで自分の手で行った。
つまり、彼は一番、死体と長く過ごしていたことになる。


彼は、死のにおいを嗅いで、正気に戻った。そうも言えるのではないだろうか。

2012年1月20日金曜日

蓼食う虫/谷崎潤一郎

昔、丸谷才一が、小学校の国語の教科書に載っている駄文に、ため息をついて、谷崎の「蓼食う虫」
に載っている小父さんから甥への手紙を、しみじみと思い浮かべる文章を読んだ記憶がある。

まさか、「蓼食う虫」にと思う人もいるかもしれない。

「蓼食う虫」は、性的不調和のせいで、夫婦了解の下に、妻が恋人を作り、夫は売春婦のところにいくような夫婦が、離婚までは踏み出せないでいる微妙な状況を精緻に描いた作品なのだから。

しかし、谷崎の文章は、この難しい二人の状況を、よどみなく表現していて、読者は読んでいて、微妙な緊張感がただよう夫婦の姿を、頭の中にくっきりとイメージを思い浮かべることができる。

意味がわからない叙情的、感覚的な文章は一切なく、すべてが即物的と感じるほど明確に表現されている。
(冒頭に上げた、小父さんから甥への手紙も、小気味よい達意の文章である)

また、この作品に描かれている状況は、一見、異質なものに思えるかもしれないが、夫婦関係の微妙な部分を、ある意味、正確に捉えているような気がする。

きっと、男の読者は、主人公の要の心情に共感し、女の読者は、要の妻 美佐子の行動に共感する部分が、いろいろあるのではないだろうか。

しかし、夫婦というのは、本当に不思議な関係ですね。

2012年1月15日日曜日

不機嫌の時代/山崎正和

日露戦争の終結が明治時代の転換期だったことは、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で書いているところですが、山崎正和の「不機嫌の時代」も、 日露戦争後、日本の近代文学者を襲った”不機嫌”という気分を精密に分析しており、非常に興味深い本です。

日露戦争が終結したのは、明治38年(1904年)。

山崎正和は、その戦後といえる明治40年ごろにあって、日本の代表的な文学者であった、20代の志賀直哉、30代の永井荷風、40代の夏目漱石、50代の森鴎外らが、年齢層は異なっていたが、ひとしく”不機嫌”という気分に覆われていたのではないか、という仮説を立て、

・明治維新以来、列強の脅威の中で、ひたすら国家の近代化を全速力で進めるという全国民的目標が、日露戦争の勝利をもって消失してしまったこと、

・夏目漱石や森鴎外の記憶にあった、伝統的な日本の家庭(外の社会に対して開かれていて「公」の要素を多分に持っていた)が、急速な都市化や、男たちの仕事の場が近代化により家庭から切り離されたことなどにより、極端に「私」的な存在に変わり果ててしまったこと、

・「公」という基盤をなくした未熟な自然主義的な感情や、西洋風の社交に代表される環境との不適合から生じる不安と焦燥

など、”不機嫌”が生じた複合的な要因について、森鴎外、夏目漱石、永井荷風、志賀直哉の代表作から多くの文章を引用し、精密に実証していきます。

主人公の会話や行動の裏側、作者が当時置かれた環境を仔細に分析し、異なる作者の作品に共通する要素を探り当てていくあたりは、精神分析的な手法を感じさせる内容となっており、単なる文藝評論とは一線を画している。

この本の最大の収穫は、明治時代の文豪の精神的な危機が現在にも充分通じるものだと感じさせてくれた点にあると、個人的には思っています。

2012年1月14日土曜日

カフカの「失踪者」 その2

カフカの作品の中でも、「失踪者」は、他の作品と比べると読んだ後の気分がずいぶんと違う。

例えば、「審判」や「城」といった作品では、主人公Kに対して、どうしても親近感を覚えることはないけれど(「変身」は微妙)、「失踪者」の主人公カール・ロスマンには、なんとなく応援してあげたくなるような親近感を覚える。

ひとつには彼が、アメリカという新世界のなかで、全面的に弱さをさらけだしているところに心を動かされるのかもしれない。

最終章のオクラホマ劇場の採用試験で、カールが最後の仕事のときに使った通り名「ネグロ」(黒人の意だと思われる)という偽名を名のり、「ネグロ、ヨーロッパの中学出身」として、技術労働者に採用される話などは思わず笑ってしまう反面、 カールがそれまで様々な苦難をくぐり抜けてきたに違いないという思いも過ぎり、いじらしさも感じる。

個人的には、サリンジャーの「ライ麦畑」の主人公以上に、カールの方が魅力的な存在に思えてしまう。

最初に「変身」ではなく、「失踪者」を読んでいたら、カフカの作品に近づく時間は、もっと短かったかもしれない。

2012年1月9日月曜日

だれのための仕事 労働vs余暇を超えて/鷲田清一

・スケジュール表が予定でいっぱいになっていないと不安になる。

・休日も仕事ではない別のこと(遊び)をして充実した時間を過ごさなければと強迫観念にとらわれることがある。

・明日の仕事に差し支えない程度に遊ぶのだが、本当に楽しいという気持ちにはなれない。

上記のような気持ちに疑問や不安を覚えた人は多いのではないだろうか?

鷲田清一の「だれのための仕事」は、そのような 疑問や不安を整理するのに必要な材料を提供してくれていると思う。

この本では、私たちの社会が、「余暇」をあくまで「労働」のための休息・手段ととらえる、労働を中心とした生活によって編成されていることや、私たちが、その「勤労」「勤勉」の強迫観念に息苦しさを覚え、そこから抜け出そうと、もがいている状況にあることを分析している。

また、私たちが何故働くのかという点について、幸せな将来を得るために、ぱっとしない現在(例えば残業が多い仕事中心の生活)を過ごしても仕方がないという、将来優先の「前のめりの生活」になっていることを指摘している。

ひとつの例として、筆者は、企業でよく使う用語には、Project(起業)、Program(計画)、Production(生産)などは、Pro(前方)を示す接頭辞が付いたものが多いこと、つまり、前のめりの時間意識(他人には遅れてはならないという強迫観念) を示していることを指摘している。
(言葉の意義を大事にする人ですね。この筆者は)

さらに、この本では、現在の 「仕事」 から、かつて仕事のよろこびといわれたもの(自ら進んで行うもの、生活の全重量をかけたもの、他人との結びつきのなかで営まれるもの)が失われ、同時に、退屈な 「遊び」 しかできない状態に陥っている点も指摘しており、「ボランティア」や「家事」というもう一つの仕事の性質を検討しつつ、本来の 「仕事」から失われてしまったよろこび や楽しさを模索している。

たとえば、阪神大震災の際に「ボランティア」が大規模な活動に発展したことに関しては、現在の「仕事」からは十分に感じることができなくなってしまった、自分が他者に対して意味のある存在になること、また、自分が他者に認知され、その行動を評価され、賞賛されること、つまり、自分が何なのかを実感できることが理由だったのではないかと分析している。

どうすれば、「勤労」「勤勉」の強迫観念から逃れることができるのか?
また、どうすれば、「仕事」や「遊び」に、よろこびや楽しさを取り戻すことができるのか?

この本は、その問いに明確な答えを出していません。おそらく、色々なテーマや考えなど、材料を提供するので、まずは読者自身で、じっくり考えてみなさいというスタンスではないかと思います。

そういう意味で、結果や成果ばかりを追い求める「前のめりの意識」の読者を牽制しているのかもしれませんね。

2012年1月8日日曜日

災害がほんとうに襲った時/中井久夫

1995年1月17日午前5時46分に起きた阪神淡路大震災を体験した精神科医が記録した震災後50日間の記録である。(東日本大震災でいう50日間というと、4月30日までのことか)
筆者が東日本大震災を受けて書いた文章も収められている。

以下、災害時に有用な文章を取り上げてみた。
・ボランティアに必要なのは最小限の生活道具と並んで現地の地図である。道案内に現地のスタッフがとられる時間は予想外に大きい。 
・一般にボランティアの申し出に対して「存在してくれること」「その場にいてくれること」がボランティアの第一の意義である…予備軍がいてくれるからこそ、われわれは余力を残さず、使いきることができる。 
・有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった。…「何ができるかを考えてそれをなせ」は災害時の一般原則である。 
・私の医師観察では震災後一日は水分だけで行ける。三日まではカップラーメンでも何とかやれる。以後はおいしいものを食べないと、仕事は続くのだが惰性的になり、二週間後あたりからカゼが流行って、一人がかかると数人以上に広がり、点滴瓶を並べて横たわっていた。この前に仕事を交代できる救助隊が到着している必要がある。…「四、五十日しか、スタミナは続かぬだよ、生理的に」 
・私は神戸の震災の一年後、米国で模擬的「デブリーフィング」を受けた。私が語ることを求められたのはその際に経験した事実から始めて、その際に経験した感情を吐露し、事実に戻って終わる話である。…やはり人間は燃え尽きないために、どこかで正当に認知され評価される必要があるのだ。
他にも、災害時に役立つ教訓が載っていたが、読後、不思議と印象に残ったのは、震災後、三週間に、筆者が感じた「共同体感情」だった。

それは、筆者が病院の焼け跡のそばに残ったオリーブの木を、次に生かそうと枝を切り取り、たばねて通りを歩いていた際に見かけた、全財産を失った初老の女性に声をかけた情景だ。
「何もしてあげられないけれどこのオリーブの木だって生き残ったのですよ」とふだんなら吐かないであろう感傷的な言葉をかけて一枝を差し出した。
この「共同体感情」は東日本大震災を経験した私たちも直後に共有していた感覚ではないだろうか。

(「災害がほんとうに襲った時」は、昨年4月の毎日新聞の書評で、池澤夏樹氏がボランティアに行こうとするK君に語りかけるような言葉で薦められていました。見事な文章です。)

2012年1月7日土曜日

寄り道の達人

レイモンド・チャンドラーの小説に関して、翻訳者の村上春樹が、「寄り道の達人、細部の名人」と評しているが、確かに、そうだなぁと、しみじみ思うことがある。

たまに、なにかの拍子に、レイモンド・チャンドラーの小説の表紙を見て、読みたくなる部分を無意識に探し出すのだが、大体において、物語の本筋とは直接関係がない部分を読んでしまうことが多い。

例えば、「湖中の女」でいうと、フィリップ・マーロウが、依頼人の秘書や依頼人本人に冷たくあしらわれるところや、ホテルのベルボーイに、事件の証拠を聞きだすために、お金やアルコールで釣ろうとする部分、別荘の管理人とライ・ウイスキーを飲み交わす部分などは、ついつい読んでしまう。

「高い窓」でいえば、フィリップ・マーロウが、ナイト・クラブの警備員やバーテンダーに、不快な行為をされる部分など。下手な小説は、大概、こういう部分を読んでいて、読者自身も不快な気分になるものだが、マーロウの機知にあふれた受け答えが、どことなくユーモアにあふれて、読んでいて楽しい。

「ロング・グッドバイ」「長いお別れ」や、「さよなら、愛しい人」「さらば愛しき女よ」、「リトル・シスター」「かわいい女」などは、村上春樹訳と清水俊二訳が楽しめる訳であるが、チャンドラー独特のクセのある文章に関しては、読みなれているせいだろうか、やはり、清水俊二訳がしっくりくる(完全に個人的な感覚の問題だと思います)。

ただ、1つの文学作品を、違った解釈・風味で楽しめるというのは、翻訳文学の醍醐味という気がする。
そういう意味で、翻訳者は、オーケストラの指揮者に近い存在なのかもしれませんね。

2012年1月4日水曜日

原子力 その隠蔽された真実/ステファニー・クック

池澤夏樹氏が勧めていた本なので、読んでみましたが、非常に怖い本です。

しかし、原子力発電の是非を考えるにあたって、この本は目を逸らすことのできない問題を指摘していると思いました。
主な内容: 
1.原子力をめぐる歴史
広島、長崎の原爆、マーシャル諸島ビキニ環礁における水爆実験、英国ウインドスケール原子炉の事故、米国スリーマイル島原子力発電所事故、ソ連(現:ウクライナ)チェルノブイリ原子力発電所事故、福島第一原子力発電所事故についての詳細。 
2.平和のための原子力計画 
米国アイゼンハワー大統領が唱えた「平和のための原子力」、すなわち「原子力を殺戮ではなく発電の手段にするため」の思想(真の目的は核兵器の開発)が、多くの国に受け入れられ、イギリス、フランス、日本、ドイツ、イスラエル、中国、インド、北朝鮮…と世界中に原子力技術が拡散していった経緯。
1.について言えば、福島で起こったことは、すべて過去の事故で起こっていたということが、よく分かった。遅れる事故情報の公開、隠蔽される真実、説明責任を果たさない政府、被災者に対する不十分な補償などは、チェルノブイリでも同様な事が起きていた(ゴルバチョフ政権下だった)。また、東電が、炉心溶融をなかなか認めなかったように、スリーマイル事故のときにも、技術者は「最悪の事態を考えたくない」と思って行動していた。
(チェルノブイリの事故の記述は、被爆した人々の状況が、本当に悲惨なものであることが分かる)

2.について言えば、原子力の平和利用が、実は表向きの姿勢にすぎず、本当のところは、最終的に核兵器を製造できる手段(核による抑止力)を確保するための言い訳であること(日本やドイツもこの立場)を、容赦なく指摘していることに、正直、ショックを受けました。
まさかと思う一方で、国や政府の原子力政策に対する疑問(安全と採算を度外視した原子力発電への肩入れの理由)が氷解した思いがした。

池澤夏樹氏が解説で指摘しているように、上記の問題を踏まえたうえで「原子力の平和利用」を継続するのかどうか、国全体での公開された議論が必要なのだと思った。

2012年1月2日月曜日

橋本一子の音楽

橋本一子の音楽を聞いていると、どこかで聞いたことがあるようなデジャブ(既視感)を感じることが多い。

ありふれた曲という意味ではなく、夢の中で聞いたようなというか、心の深層の中に埋もれていた感覚を呼び覚ますのだ。

何気なく聞いていたメロディが、だんだん頭から離れなくなってしまうと、困ったことに、日常の風景も、幻想的な歌に、いくぶん侵食されてしまう。

強いアルコールを飲んだ翌日、酔いが残ってしまうように。

こういうアーティストは要注意だ。


2012年1月1日日曜日

目覚めよ、意識。

山崎正和氏の「世界文明史の試み 神話と舞踊」(スケールがとてつもなく大きい作品です)に、「意識」についての面白い考察が書いてあった。
抜きがたい固定観念となっているのは、意識は身体の自由な主人であり、いつでもどこでもみずからの選択によって、身体を操作する司令塔として君臨しているという見方だろう。
私たちはみずからの意識が行動を起こしがたいことを、日々の生活のなかで経験している。もし外からの強制が何もなければ、私たちは朝の寝床を離れるにも仕事の机に向かうにも、行動の開始を分刻みで先延ばそうとする。 
いざ現実に体を動かした瞬間を後で振り返ると、そこで意識が特別の変化を起こしたとは思われない。どう見てもこれは傾いた板のうえに物体を置いて、傾きを少しずつ増してゆくと、ある瞬間、物体が突然滑り落ちる現象に似ているのである。
板をよく磨き傾斜を適度に急にしておけば、いいかえれば身体をたゆみなく慣習づけておけば、行動は物体が滑るように無意識のうちに始まるはずである。
私たちは、「思うが早いか」起床しているだろうし、「それと思うまもなく」仕事の机に向かっているにちがいない。
傾いた板のうえに置いた物体が滑り落ちるとは、うまい表現だ。
確かに、自分の場合は、ぎりぎりまで布団の中で粘って、時間や気持ちの限界が来たときに行動を起こしているような気がする。

それと上記の考え方で、改めて気づかされたのは、人間は意識によって行動することは難しく、むしろ、慣習化した行動に支配されているということだ。

しかし、じゃあ、意識って何なのよ?という疑問がわいてくる。

この本によると、意識の役割とは、例えば、日常の慣習で無意識に行われていた歩行が 、足を痛めたような事態が起きた際、今までの慣習が危機であることを身体に伝え、古い足の運び方を改善して、よりよい歩行の型を身につけようと努力するようなことと定義している。

また、長い人類史のなかで、意識がいつどのように発生したかについて、化石から判定される脳の大きさや、石器・土器の痕跡から想像し、ほぼ「原人」以降の段階に起こったものと推定している。

「原人」は、それまでの「猿人」と違って、現在の世界地図の全体にまで移動したといわれており、その行く先々の新天地で、今までの慣習を全面的に無効にするような環境の激変にめぐりあった際、不適合の感覚のなかで、彼らの内ににわかに発生した生存へのエネルギーが、意識の萌芽ではなかったかと推察している。

なるほど、意識は、環境との不適合を感じるときや危機に瀕した際に、自分を再形成するトリガーのようなものなんですね。
そうやって、人間は苦難を乗り越え、進化してきたのだろう。

昨年は、意識が弱かったのか、板の滑りが悪いのか、物体がなかなか滑り落ちなくなってしまっていることを感じることが多かった。

新年を機に、メンテナンス。

目覚めよ、意識。