2012年1月9日月曜日

だれのための仕事 労働vs余暇を超えて/鷲田清一

・スケジュール表が予定でいっぱいになっていないと不安になる。

・休日も仕事ではない別のこと(遊び)をして充実した時間を過ごさなければと強迫観念にとらわれることがある。

・明日の仕事に差し支えない程度に遊ぶのだが、本当に楽しいという気持ちにはなれない。

上記のような気持ちに疑問や不安を覚えた人は多いのではないだろうか?

鷲田清一の「だれのための仕事」は、そのような 疑問や不安を整理するのに必要な材料を提供してくれていると思う。

この本では、私たちの社会が、「余暇」をあくまで「労働」のための休息・手段ととらえる、労働を中心とした生活によって編成されていることや、私たちが、その「勤労」「勤勉」の強迫観念に息苦しさを覚え、そこから抜け出そうと、もがいている状況にあることを分析している。

また、私たちが何故働くのかという点について、幸せな将来を得るために、ぱっとしない現在(例えば残業が多い仕事中心の生活)を過ごしても仕方がないという、将来優先の「前のめりの生活」になっていることを指摘している。

ひとつの例として、筆者は、企業でよく使う用語には、Project(起業)、Program(計画)、Production(生産)などは、Pro(前方)を示す接頭辞が付いたものが多いこと、つまり、前のめりの時間意識(他人には遅れてはならないという強迫観念) を示していることを指摘している。
(言葉の意義を大事にする人ですね。この筆者は)

さらに、この本では、現在の 「仕事」 から、かつて仕事のよろこびといわれたもの(自ら進んで行うもの、生活の全重量をかけたもの、他人との結びつきのなかで営まれるもの)が失われ、同時に、退屈な 「遊び」 しかできない状態に陥っている点も指摘しており、「ボランティア」や「家事」というもう一つの仕事の性質を検討しつつ、本来の 「仕事」から失われてしまったよろこび や楽しさを模索している。

たとえば、阪神大震災の際に「ボランティア」が大規模な活動に発展したことに関しては、現在の「仕事」からは十分に感じることができなくなってしまった、自分が他者に対して意味のある存在になること、また、自分が他者に認知され、その行動を評価され、賞賛されること、つまり、自分が何なのかを実感できることが理由だったのではないかと分析している。

どうすれば、「勤労」「勤勉」の強迫観念から逃れることができるのか?
また、どうすれば、「仕事」や「遊び」に、よろこびや楽しさを取り戻すことができるのか?

この本は、その問いに明確な答えを出していません。おそらく、色々なテーマや考えなど、材料を提供するので、まずは読者自身で、じっくり考えてみなさいというスタンスではないかと思います。

そういう意味で、結果や成果ばかりを追い求める「前のめりの意識」の読者を牽制しているのかもしれませんね。

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