2012年1月1日日曜日

目覚めよ、意識。

山崎正和氏の「世界文明史の試み 神話と舞踊」(スケールがとてつもなく大きい作品です)に、「意識」についての面白い考察が書いてあった。
抜きがたい固定観念となっているのは、意識は身体の自由な主人であり、いつでもどこでもみずからの選択によって、身体を操作する司令塔として君臨しているという見方だろう。
私たちはみずからの意識が行動を起こしがたいことを、日々の生活のなかで経験している。もし外からの強制が何もなければ、私たちは朝の寝床を離れるにも仕事の机に向かうにも、行動の開始を分刻みで先延ばそうとする。 
いざ現実に体を動かした瞬間を後で振り返ると、そこで意識が特別の変化を起こしたとは思われない。どう見てもこれは傾いた板のうえに物体を置いて、傾きを少しずつ増してゆくと、ある瞬間、物体が突然滑り落ちる現象に似ているのである。
板をよく磨き傾斜を適度に急にしておけば、いいかえれば身体をたゆみなく慣習づけておけば、行動は物体が滑るように無意識のうちに始まるはずである。
私たちは、「思うが早いか」起床しているだろうし、「それと思うまもなく」仕事の机に向かっているにちがいない。
傾いた板のうえに置いた物体が滑り落ちるとは、うまい表現だ。
確かに、自分の場合は、ぎりぎりまで布団の中で粘って、時間や気持ちの限界が来たときに行動を起こしているような気がする。

それと上記の考え方で、改めて気づかされたのは、人間は意識によって行動することは難しく、むしろ、慣習化した行動に支配されているということだ。

しかし、じゃあ、意識って何なのよ?という疑問がわいてくる。

この本によると、意識の役割とは、例えば、日常の慣習で無意識に行われていた歩行が 、足を痛めたような事態が起きた際、今までの慣習が危機であることを身体に伝え、古い足の運び方を改善して、よりよい歩行の型を身につけようと努力するようなことと定義している。

また、長い人類史のなかで、意識がいつどのように発生したかについて、化石から判定される脳の大きさや、石器・土器の痕跡から想像し、ほぼ「原人」以降の段階に起こったものと推定している。

「原人」は、それまでの「猿人」と違って、現在の世界地図の全体にまで移動したといわれており、その行く先々の新天地で、今までの慣習を全面的に無効にするような環境の激変にめぐりあった際、不適合の感覚のなかで、彼らの内ににわかに発生した生存へのエネルギーが、意識の萌芽ではなかったかと推察している。

なるほど、意識は、環境との不適合を感じるときや危機に瀕した際に、自分を再形成するトリガーのようなものなんですね。
そうやって、人間は苦難を乗り越え、進化してきたのだろう。

昨年は、意識が弱かったのか、板の滑りが悪いのか、物体がなかなか滑り落ちなくなってしまっていることを感じることが多かった。

新年を機に、メンテナンス。

目覚めよ、意識。

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