2013年7月28日日曜日

終わりと始まり/池澤夏樹

本書は、2009年4月から2013年3月まで、朝日新聞夕刊文芸批評面に掲載された、作者のエッセー。
(Webでも無料会員登録すれば、一日3本まで、記事を読むことができます。ただ、この本では、当時の原稿に、骨子は変わっていないと思うが相当加筆されているように思う)

思えば、この間、色々な事が起こった。

2009年1月には、アメリカでは初めての黒人大統領が誕生し、
日本では、2009年8月に衆議院総選挙が行われ、自民党から民主党へ政権交代が起こった。
しかし、沖縄の普天間基地の移設問題については、鳩山首相の言動に象徴される無責任な対応が続き、尖閣諸島では中国漁船の衝突事件が起こり、石原都知事まで介入して、にわかに領土問題が浮上した。

2011年3月には東日本大震災が起こり、多くの人々が命を落とした。福島第一原子力発電所では、政府機関や東京電力の不手際(今も続いている)によりメルトダウンが発生し、大量の放射能が拡散し、多くの人々が放射能の恐怖にさらされ、住む土地を無くすという最悪の事態になった。
(高濃度の放射能は今も漏れ続けている)

2012年12月の衆議院総選挙では、原発の稼動も争点の一つになったが、民主党政権への失望から、原発の早期再稼動とともに景気回復を掲げる自民党が圧勝した。

そういった社会の動きに合わせ、このエッセーでも、ところどころで、民主党への政権交代に寄せる期待、当時の菅総理の発言「最小不幸の社会」に対する共感が述べられていて、非常に興味深かった。

特に菅総理については、このエッセーの後半で、多く取り上げられた震災に関する文章においても、原発を停止し、「再生可能エネルギー特別措置法案」を進めようとする一点において、マスコミを含め、あらゆる方面から総理退任を迫られた彼を、明確に支持していた。

「春を恨んだりはしない」でも作者は述べていた。「我々は貧しくなるだろう」と。

その意味は、震災を契機に我々は、原発を稼動させ過剰に電力を消費し、大量生産・大量消費を掲げ、GDPの成長率を競う国家観・生活観から離別するチャンスでもあるのだ、ということだったと思う。

この作者の感覚からいうと、昨年12月の選挙もそうだが、7月の参議院通常選挙の結果も苦いものだったに違いない。このエッセーでも、そんな懸念が書かれていた。
「今、気になっているのは、みんなが「考える」より「思う」でことを決めるようになったことだ。五分間の論理的な思考より一秒の好悪の判断」
本書は、作者の幅広い観点からなされる鋭い文明批評が中心になっていて、相変わらず読んでいて気づかされる部分が多かったが、今回はそれよりも、2009年からの出来事、あの震災から2年と4ヶ月経った今を、こうして振り返らせてくれたことのほうが、私にとっては大きかった。

2013年7月27日土曜日

暗夜/残雪

敏菊は、猿山に行こうとする。
猿山は、隣の烏県にあり、歩いて三日もかかり、途中で他人の家にも泊めてもらわなければならない。

敏菊は、乾燥食を背負い、斉四爺に連れられ、暗い夜更けに出発する。
大通りでは、荷を運ぶ一輪車があふれ、彼らにぶつかってくる。
暗い空では鳥が格闘し、血が降ってくる。
泊めてもらおうとする家でも満足に休めず、次第に斉四爺の態度も冷たくなってくる。

友達の永植も猿山を目指し烏県にいるようだが、片足を失っている。
敏菊の父も猿山に行ったことがあるらしいが、いつも考え事にふけっており、「末世の風景だな」とつぶやく。
敏菊は猿山どころか、烏県に辿り着いたのかどうかも分からず、そして暗い夜は一向に明けない。

猿山には何があるのか?
敏菊はなぜ猿山に行こうとするのか?
なぜ皆が敏菊に冷たいのか?

そういった疑問も暗闇に吸い込まれていくような小説だ。

作者の残雪(ペンネーム)は、1953年に中国湖南省に生まれ、父は新聞社の社長であったが、残雪が四歳のときに、極右のレッテルを貼られ、母も連帯責任を負わされ、以後20年間、文化大革命が終わるまで様々な差別迫害を受けた。

池澤夏樹編集の世界文学全集には、上記の「暗夜」のほか、「阿梅、ある太陽の日の愁い」、「わたしのあの世界でのこと-友へ」、「帰り道」、「痕」、「不思議な木の家」、「世界の桃源」が収められている。

どれも不条理が支配する奇妙な話ばかりだが、これらの小説に書かれた人々は世界のどこかに実在しているような気がする。
たとえば、最近事件が起きた山口県の山間の集落の雰囲気と、「痕」で描かれた世界は繋がってはいないだろうか、と感じさせるものがあった。

2013年7月24日水曜日

わが酒の讃歌/コリン・ウィルソン

この本は、間違いなく、お酒が好きな人が、お酒を飲むことは悪いことではない、むしろ素晴らしいことなのだと感じさせてくれる本だと思う。

たとえば、作者はアルコールが意識に与える効果として、95%のリラクゼーションと、5%の極度の集中という、いわゆる”抑制されたくつろぎ”をもたらしてくれると述べている。
仲間の誰かが、その日の出来事でたわいもない話や、つぎの休暇にいくつもりでいるところのことをあなたに話しはじめる。あなたの注意力を集中させるような話ではないが、感謝して、まるで強い興味を持っているかのように彼の話をじっと聞くのである。ある意味では、その話は注意力を集中させる焦点として役立ち、一方、あなたの残りの部分は、溜息をついてリラックスしている。
上記のような感覚は居酒屋やバーでお酒を飲んだ人(特に男性)なら誰もが感じることではないだろうか。

コリン・ウィルソンは、土管の中で野宿しながら大英図書館で文学を学んだという異色の作家であるが、折り紙つきの読書家であることが、この本を読んでもわかる。

たとえば、「作家とアルコール中毒」という章では、アルコールが、フィッツジェラルドとヘミングウェイの作品に与えた影響とその性格について分析している。

また、ワインの歴史を、地球のあけぼの、二十億年前の有機体に、ワインを作り出す酵母の原型をみるところまで遡る。

そして、石器時代の原始人が飢えて半ば腐った果物を食べたときにアルコールの特性を知ったのではないかという仮説、エジプト文明における酒の役割、ギリシア文明におけるアテネ人とスパルタ人のワインの飲み方の比較から浮かび上がるコントラスト、ギリシアからワインの作り方を承継し、発展させたローマ帝国、そして、ローマ崩壊後に、ワイン作りを支えた教会の役割等を、自在に述べていく。ワインとはまさに文明の勃興とともにあったことがよく分かる。

作者は、さらに人間が他のどの生物よりも非常に早く進化できたのは、アルコールの発酵法を発見した約BC8000年以後のことで、頭のいいチンパンジー同然の生物から、ロダンの「考える人」まで急激に変化したのだというロマンチックな仮説を提示している。
(この本の翻訳者である田村隆一は、この仮説をベースに「人 ウィスキーに間する仮説」という詩を残しています)

本書は、作者の好みでワインに関する章(フランスのブドウ園、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルのワイン)に多くが割かれている。その実体験に裏付けられた知識もすごいが、有名な銘柄のワインでも結構辛らつな意見があったりして、読んでいて飽きない。
ビール、ウイスキー、ブランデー、ジン等のスピリッツについても触れられている(作者がビールを飲むのをやめた理由については同感)。

しかし、そういった知識の内容よりも共感してしまうのは、アルコールの暗黒面(犯罪、中毒)に触れながらも、その効能について述べているところだ。
日常の生活はどの時代にもきびしいものだった。現在でも大多数の人間にとってはそうである。どのようにして人間が槍やすきや、ひきうすの石を発達させてきたかを理解するのはやさしい。
しかし、どのようにして、詩や哲学や数学といった日々の生活にかかわりのないものを創り出したかを理解するのはむずかしい。
私は厳粛にその答をいおう。それは精神を開放する不思議な力を持ったあのアルコールがあったからである、と。
これが嘘っぽく聞こえないのは、やはり、コリン・ウィルソンが労働者階級の家に生まれ、仕事を転々としながら苦労して作家になった背景にあるのかもしれない。

2013年7月23日火曜日

ロリータ/ウラジーミル・ナボコフ

これだけ性風俗に影響を与えた文学作品は今までにないのではないか。

ロリータ・ファッション、ロリータ・コンプレックス…
これらの言葉を聴く人々の中には、眉をしかめる人もいるだろう。

しかし、その発端となった小説「ロリータ」は、偏見を捨てて素直に読むと、精緻に構成された高いレベルの文学作品であることが分かる。

パリ生まれの主人公ハンバート・ハンバートは、四十歳の教養のある男だが、少年の頃に愛し合い、病気で死んでしまい、最後まで行き着くことができなかった少女への思いを心に秘めていた。その死んだ彼女と同等の理想のニンフェット(9歳から14歳。この本のなかでは「ニンフェット」と呼んでいる)を求めながら、フランス語教師としてアメリカに渡り、その下宿先で、ヘイズ・ドロレス(ローラ)という名前の理想的な少女と出会う。

ハンバートは、妄想の中で彼女をロリータと呼び、少女への情欲を高めていく。そして、彼女を手に入れるため、その母親(未亡人)と結婚し、ふとしたことから母親が死んだことで、彼女と二人きりの関係になる。

そして、二人は亡き母親の愛車に乗って、全米のモーテルを泊まり歩き、旅することになるのだが、ハンバートは、自分の欲望を満たす限り、ロリータに好き放題、お金を与え物を買い与え、散財していく。しかし、自分の行動を縛ろうとするハンバートに反抗していくロリータ。二人の関係は、次第に険悪になっていく。ある意味、ハンバートの理想が崩壊してくプロセスでもある。

作者のナボコフは、ロシアから亡命し、ドイツに暮らしていたが、この物語の主人公ハンバート同様、四十一歳にして、アメリカに移住する。
もともとはロシア語で小説を書いていたが、その移住を機に、英語で小説を書き始める。
しかし、とても外国語で書いた小説とは思えないほど、その文章は冒険的なものだ。

ロリータに対する言語による執拗な愛撫。たとえば有名な出だしの部分
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
あるいは、ハンバートが暗記した彼女のクラスメイトの名前の羅列(彼はそれを詩と称している)

また、 ハンバートが妄想の中で陪審員に自己弁護する文章は、悪ふざけなまでに饒舌でユーモアに満ちている。

アメリカの風俗の描き方も興味深い。米国の様々なモーテルの描写、ローティーンの子が好むソーダ・ファウンテン(当時のドラッグストアにあったソーダ水の販売所)、チョコレートがベトベトとかかったアイスクリーム、映画雑誌、グルメ本。
このような通俗的なアメリカ文化を、明らかにナボコフは楽しんで書いている。

日本でこのような小説はあるかと問われたら、私には、谷崎の「痴人の愛」しか思い浮かばない。
もっとも、「痴人の愛」では、ナオミという少女(十五歳)を自分好みの西洋風の女性に作り上げていく喜びに取り付かれた男の話なので、「ロリータ」とはその性向が違っている。
(両作品の結末もだいぶ違う)

しかし、谷崎の小説が、哲学者の西田幾多郎に「人生いかに生きるべきかを描いてないからつまらない」と見当違いの批判をされたように、「ロリータ」が単なるエロ小説と勘違いされたあたりの事情は似ているかもしれない。

また、「痴人の愛」が、西洋(ナオミ)に脅かされている日本(主人公)を象徴的に描いた作品と評されたように、「ロリータ」が、知性があって経験も豊かだが生命力が衰えているヨーロッパ(ハンバート)と、若くて魅力にあふれ、でも無知でわがままなアメリカ(ロリータ)の関係を書いていると評される事情もよく似ている。

しかし、その谷崎をしても、中年半ばにして、外国語で小説を書くという冒険は難しかったかもしれない。
おまけに、ナボコフは英語で書いた「ロリータ」を、ロシア語にも翻訳しているのだ(しかも、その内容が英語版とは異同があるという)

私が読んだ若島 正訳の「ロリータ」は、そのロシア語版も参照された上で、2005年に翻訳されたもので、とても58年前の作品とは思えない現代的な内容になっている(特にロリータの崩れた言葉遣いは現代の日本語の感覚そのままに訳されている)。

日本の読者は、そういう意味で英語圏、ロシア語圏の読者より得をしているかもしれない。

また、本書のあとがきには、親切にも、ロリータという作品の謎(日付)に関しての解説と、作品の出だし部分になにげなく書かれていた重要部分についても気づかせてくれる内容になっており、「ロリータ」という作品の奥行きを垣間見させてくれている。

2013年7月16日火曜日

魚が出てきた日/マイケル・カコヤニス

「その男ゾルバ」を撮ったマイケル・カコヤニスのブラック・ユーモアな映画。

1972年、ギリシア エーゲ海にある、ごつごつした岩に覆われた観光地とは無縁のカロス島付近で、核兵器を搭載していた爆撃機が墜落してしまう。

核兵器3つと、謎の箱(放射性物質が格納された頑丈な箱)1つを島にパラシュートで下ろし、墜落した飛行機から島に泳いで辿り着いたパイロット二人は、何故かブリーフ1枚の格好で、島をさまよい歩く(映画後半近くまで、ずっとパンツ一丁で岩場をさまよう)。

一方、英語を母国語とする軍(米軍?)が組織した探索チームも、核兵器と箱の回収のために島に向かう。この探索チーム、島民に正体を知られないよう、カラフルなシャツを着た観光ホテルの立地調査団に扮し、核兵器の落下場所を探査し始める。

そして、極秘に調査するため、ごつごつした岩しかない土地を地元のお婆さんから買収する。
(このあたりの、いかにも田舎のギリシアの老人の表情がいい)
また、街から買収地までの道の整備に島民を駆り出す。

大掛かりな土地の買収にすっかり舞い上がった島の長のコメントは、新聞に取り上げられ、隠れた観光地として脚光を浴び、多くの観光客が押し寄せることになってしまう。
おまけに、道の整備工事中に、偶然、古代ギリシアの遺跡まで発掘してしまい、考古学者(パワフルな美人のお姉さん)まで島に来ることになってしまう。

一方、調査団は、核兵器3つを回収するが、肝心の箱を見つけられないでいた。実は、ヤギ飼いの夫婦がお金が入っていると思い込み、こっそり家に運びこみ、あの手この手(斧をふりおろす、歯医者の研磨機で削る)で、箱を開けようとするが一向に開かない。

しかし、美人の考古学者が持参してきた金属を溶かす特殊な液体の存在を、ヤギ飼いの夫が知り、それを盗み、ついには箱に穴をあけてしまう。そして…

最初笑って見ていた映画が、いつの間にか笑えなくなる。
最後のシーンは、ちょっと怖い結末だ。
でも、傑作。

1967年の作品。映画に出てくる若者たちのサイケな服装とダンスは古びたが、
放射能の威力は衰えない。

2013年7月15日月曜日

黒のヘレネー/山岸涼子 カッサンドラ/ヴォルフ

山岸涼子の作品「黒のヘレネー」は、トロイア戦争にまつわるギリシア神話をテーマにしている。

ギリシアのスパルタ王メオラオスの妻で絶世の美女といわれたヘレネーと、その姉であるクリュタイムネストラの姉妹間の確執。

ヘレネーは誰からも愛されるが、地味で陰気なクリュタイムネストラだけは、ヘレネーには本当の優しさがないことに気づいている。

ヘレネーが若く美しいトロイアの王子パリスとともにギリシアを逃げ去ってしまったことをきっかけに、トロイア戦争が起こる。

もともと、パリスは、トロイア全土を燃やしてしまうという不吉な予言を背負った若者であった。
パリスがヘレネーを自分の家族に紹介するときに、ヘレネーに、クリュタイムネストラのような視線を投げかける女性がいた。パリスの姉(妹という説もある)カッサンドラだ。

カッサンドラは、ヘレネーを見て「その女のまわりは禍々しい黒いものでいっぱいだ。この女は我々に不幸を運んできたのだ」と告げる。

十数年の戦争により、トロイアは陥落する。
数々の勇士が死に、彼女の兄たちも死に疲弊したギリシアに、ヘレネーは帰るが、彼女には反省の念はない。

そんなヘレネーの前に、老いさばらえたクリュタイムネストラが現れる。
クリュタイムネストラは、ヘレネーに、トロイア戦争の際、荒れる海を鎮めるため、夫の独断で自分の娘が生贄に捧げられたことを告げる。そして、自分はたった今、夫のアガメムノンを殺害してきたことを告白する。

クリュタイムネストラは、ヘレネーを刃にかけ、カッサンドラの予言どおり、ヘレネーは禍々しい黒いものに意識を覆われながら死んでいく。

1979年の少女漫画だが、よくできた物語だと思う。

ヴォルフのカッサンドラを読んでみたかったのは、明らかにこの「黒のヘレネー」が頭に残っていたからだ。

作品を読んで意外だったのは、カッサンドラが女神ヴィーナスと比較されるほど、美しい女性として描かれているところだ。

カッサンドラが予言者になったのは、この美しさのせいで、アポロン(物語では青銅の肌をした冷酷でぞっとする瞳の神)が彼女を見初め、予言の力を与える代わりに、自分の恋人になれという約束をしたことによる。

しかし、カッサンドラはアポロンとの約束を破り、怒ったアポロンは、予言の力を与えるが、同時に誰もその予言を信じないようにする呪いをかける。

トロイア戦争のあの有名な「木馬」についても、カッサンドラだけがその策略に気づく。しかし、誰も彼女を信じない。

敗戦後、カッサンドラは、クリュタイムネストラの夫であるアガメムノンの性的奴隷として、ギリシアに連れて来られる。そして、城に入れば、アガメムノンも自分も殺害されることに気づいている。しかし、その予言も誰も信じない。

この物語では、ギリシアの名将といわれたアキレスが残忍な殺戮者として描かれ、カッサンドラの兄弟姉妹が殺される様子も、美しい妹がアキレスを罠にはめる様子も、戦争の醜さという視点が浮かび上がる。

ヴォルフは、東西ドイツ統合前の東ドイツに住み、東ドイツの政策を、西側の視点で批判し続けていた自分自身をカッサンドラに重ね、この作品を書いた。

ギリシア神話の面白さが、リアルに伝わってくる二作品だ。

2013年7月14日日曜日

愛人/マルグリット・デュラス

「愛人」は、デュラスが七十歳のときに書いた自伝的な小説だ。

1929年、フランス領インドシナ。入植したフランス人の貧しい家の十八歳の娘と、三十歳の華僑の中国人男性の許されない恋愛。

しかし、その恋愛に対する娘の思いは、かなり醒めている。

彼女は男に言う。
あなたがあたしを愛していないほうがいいと思うわ。たとえあたしを愛していても、いつもいろんな女たちを相手にやっているようにしてほしいの。
それは、彼女の家族、母と二人の兄についても同様だ。

気管支肺炎で亡くなった気の弱そうな下の兄は、まだしも、夫に先立たれ、さまざまな困難に見舞われ、生きる気力を失ってしまった母と、その母からの盲目的な愛を受け、無分別で暴力的な上の兄に対しては、どこか他人のような冷たい視線を感じる。

そういった複雑な家庭環境にあって、どこか人を愛せない娘が、自分のもって行き場のない愛情をどう表現してよいかわからぬまま(あるいは表現するという努力を放棄して)、白人という人種的な高みから、中国人の男性を愛人として選び、体を重ねて自分を変えようとしていた…そんな物語にも読める。

物語は、作者の視点がころころと、異なる時間・人々・空間を行き来する。老齢の作者が十八歳の自分と家族と愛人、その当時の植民地の風俗を代わる代わる思い出し、それを、そのまま一筆書きで流れるように書き写した。そんな感じの見事の作品だ。

物語は、こんな書き出しで始まる。
ある日、もう若くはないわたしなのに、とあるコンコースで、ひとりの男が寄ってきた。
自己紹介をしてから、男はこう言った。 
「以前から存じあげております。若いころはおきれいだったと、みなさん言いますが、お若かったときより、いまのほうが、ずっとお美しいと思っています、それを申しあげたかったのでした、若いころのお顔よりいまの顔のほうが私は好きです、嵐のとおりすぎたそのお顔のほうが」
こんな感じの素敵な顔をした女性は確かにいる。

2013年7月8日月曜日

永遠の夫/ドストエフスキー

三十代後半の独身貴族である主人公のヴェリチャーニノフは、路上で帽子に喪章をつけた紳士と出会う。

見覚えがあるのだが誰なのか思い出せない。ただ、四回、五回と出会うたびに、漠然と嫌悪感が募っていく。

そして、ある日、その紳士が、ヴェリチャーニノフが9年前に不倫関係になった人妻の夫であることに気づく。

タイトルの「永遠の夫」とは、「ただただ夫であることに終始」するしかない、淫乱な人妻の夫のことで、主人公の前に現れたその紳士トルソーツキーのことだ。

タイトルから言えば、その寝取られ夫のトルソーツキーが主人公になるところだが、この物語では、妻の愛人であるヴェリチャーニノフの目をとおし、主人公と妻の秘密の不倫を知っているのかいないのか不明のまま奇妙な言動をとるトルソーツキーの姿を客観的に描く。

寝取られ物語というと、モラヴィアが頭に真っ先に浮かぶ。

しかし、モラヴィアの物語が、寝取られ夫の立場から描いているせいもあるかもしれないが、どことなくマゾフィティックで重たい印象があるのに対し、ドストエフスキーのこの物語は、実にコミカルで、深刻ぶった空気がない。

そして、ここが重要だと思うが、この作品には下卑な笑いというよりは上品なユーモアの雰囲気が漂っている。

例えば、フェリーニやブニュエルが映画化していても全くおかしくないような物語だと思うが、残念ながら、原作の雰囲気がある映画化はされていないようだ。

ドストエフスキーというと、長編、重苦しいテーマという印象が強いが、この小説は非常に読みやすかった。