2012年9月30日日曜日

KIKUIWANI/ボーイ・ミーツ・ガール

大沢誉志幸のアルバム「Serious Barbarian」の中には好きな曲が多いけど、「海辺のVision」もその一つ。

歌詞がいいなと思って、作詞者を見たら、ボーイ・ミーツ・ガールの尾上文という人だった。

このボーイ・ミーツ・ガールの「KIKUIWANI」という歌がとってもユニーク。
これだけファンタジックな長い歌詞をサンバ風の曲に載せてみようという試みがすごい。

聴いているとクセになりそうなアーティストだ。


2012年9月29日土曜日

得をしたのは…

国連総会で、中国の外相が、尖閣諸島(中国名・釣魚島)を日本が盗んだとして演説を行い、それに対して、日本が答弁権を行使して反論している映像をテレビで見た。

中国側の演説はかなり品がないが、日本の反論もそれに引きずられている感がある。

事の発端は、日本国による尖閣諸島の国有化であるが、野田首相の意図としては、中国に対して、領土問題を突きつけるつもりはなく、むしろ、石原都知事が独自に進めていた東京都による購入により起こりうる中国との摩擦を極力回避したいという思いがあったからに違いない。

しかし、そういう日本国の考えは全く理解されることはなく、むしろ、胡錦濤国家主席との話し合いの翌日に国有化を実行し、「メンツをつぶされた」ことが原因との中国要人のコメントもある。

今更、言ってもしようがないが、日本としては、尖閣諸島の国有化の意図を内々に中国側に丁寧に説明し、相手の反応を見て、その実施の可否、実施時期を慎重に決めるべきだった。
そういうデリケートな問題だったという感覚が、日本の外交官たちに果たしてあったのだろうか?

確かに領土問題は国益に絡む問題ではあるが、この尖閣の国有化で、日本経済がどれだけの損失を出しているかを考えると、国益に適った行動だったのかという疑問も出てきてしまう。

現状では中国との仲直り・早期解決は困難であろう。

そして、このままでいくと、日本企業は中国の巨大市場から得られる利益を大きく失い、レアアースの輸出抑制などの対抗措置も追加実施され、日本経済はマイナスとなるだろう。また、日本企業が中国への投資をリスク大と判断し、撤退する可能性もある。そうなると、中国経済にとってもマイナスになることは間違いない。

両国が損を拡大し続ける中、唯一、得をしたのは、尖閣諸島を国に売って二十億もの大金を手に入れた地権者だけかもしれない。

2012年9月27日木曜日

二人の女/モラヴィア

この作品においても、戦争が暗い影を落とす。

二人の母娘が、戦禍のローマを離れ、田舎に疎開しようとして、山中をさまよい歩くことになる。
空襲、飢え、強欲な人々、兵士による強姦、盗み…
モラヴィアは観念的な表現を一切用いず、戦争という暴力的装置に巻き込まれ荒廃していく人々の生活を淡々と描いていく。

前回紹介したエリアーデの妖精たちの夜(Ⅰ)では、主人公が瞑想することで戦争という現実、歴史の呪縛から逃れようとしていたが、モラヴィアが描く人々は、その悲惨な現実を真っ向から体で受け止め、傷つき、血を流し涙を流す。

強靭な精神力を持つこの二人の作家が、それでも書かずにはいられなかったほど、戦争という不幸は二人を、二人の属する社会を、苦しめたに相違ない。

平和を当たり前のものだと思っていてはいけない。
その尊さは失ってみてはじめて分かるものなのだ。

2012年9月26日水曜日

妖精たちの夜( I )/エリアーデ

エリアーデの小説に、何故、引きつけられるのか、よく分からない。

物語は、お世辞にも分かりやすいものとは言えず、登場人物は索引を作らないと混乱するほど多く、発せられる言葉も謎めいていて、時間も錯綜し、時折、自分が何を読んでいるのか分からなくなる。

読んでいて、さっぱり心に響いてこないパートもあれば、突然、響いてくるパート もあり、そのアンバランスさが極端なのだ。

しかし、そのアンバランスさの中に、エリアーデの魅力があることは明らかである。
こんな読書体験は、エリアーデにしか感じたことはない。

妖精たちの夜( I )は、間違いなくエリアーデ的魅力にあふれた小説である。

主人公のシュテファンは、妻のヨアナと、夏至の夜に出会ったイレアナの二人を愛している。
この三人の関係を中心に、第二次世界大戦の渦中にあるルーマニア、ポルトガル、イギリスを舞台に、主人公とそっくりな流行作家、野心家の隻眼の弁護士、その父、ルーベンスの絵をもって亡命しようとする美術史教授、予知能力をもつその姪、主人公の友人で結核を患う哲学教師、彼を翻弄する女優、その恋人の演出家、主人公を誘惑する言葉遣いがひどい女など、さまざまな人々が絡み合う。

恋愛を描いているのは、私の読んだエリアーデの小説では処女作「マイトレイ」以来のような気がする。また、戦争と歴史、そこからいかに自由に生きるかという視点も幻想小説では直接的に語られなかった部分である。

防空壕の中、たとえ、爆撃され命を落としたとしても、その瞬間に、ある詩人の天才に心を奪われていれば、一個の自由な人間として死ぬのであり、空襲というごく矮小な歴史的事件に立ち会うことを拒絶できる、と主張する主人公の言葉が強く印象に残った。

2012年9月25日火曜日

紅茶と緑茶

紅茶(ストレートティー)を飲みながら、どうして紅茶にはミルクや砂糖を入れるのだろうと、ふと思った。

私自身、紅茶にミルクや砂糖を入れて飲まないので、よく、アイスティーでも、ガムシロやミルクをグラスにたっぷりと入れて、ストローでかき混ぜる人を見ると、ちょっと不思議な気持ちに襲われる。

それは、私が変わっているのかもしれないが、ひとつには、緑茶にはミルクや砂糖は入れないのだから、紅茶も同じでしょうという気持ちが働くのかもしれない。

昔買った中公新書の「茶の世界史」を読んでいたら、紅茶と緑茶の違いが説明されていたので、ごく簡単に紹介。

まず、緑茶文化は、中国や台湾、日本で発展した。
特に日本の茶の湯文化では、わび・さびといった美意識が求められ、それはさらに一期一会といった倫理を含むものとして、精神文化として発展した。

それに対して、紅茶は、特にイギリスにおいて国民的飲料として定着しており、世界の紅茶の約半分はイギリス人が消費している。

緑茶文化が精神文化だとしたら、紅茶文化は、砂糖やミルクを入れる飲み方に象徴されるように物質的奢侈(しゃし)、つまり物質文化である。

イギリスにおいて紅茶が好んで飲まれだした十八世紀末から十九世紀にかけて、紅茶の一人当たり消費量と、砂糖の消費量は見事に比例している。

それは東インド会社に代表される重商主義、植民地政策の時代であった。
中国から輸入される高価なお茶を飲むだけでも贅沢なのに、さらに新大陸ブラジルからの良質で貴重な砂糖を添えることは、この上ない贅沢だった。

そして、そのような飲み方は最初一部の富裕層だけのものだったが、重商主義に支えられ、輸入が拡大し、国民的な飲み方に発展していく。

まさに、紅茶文化は、紅茶帝国主義に発展していったのだ。

しかし、今の日本で、アイスティーに、ガムシロやミルクを入れる際、誰もそれが贅沢だとか、帝国主義とか、考えもしないだろう。
それは、過去の生活習慣の延長だとか、個人の味覚の問題のレベルの話なのかもしれない。

ある意味、いい時代になったと言えるのかもしれないが、文化という香りはどこへやら、何となく味気なさも感じる。

2012年9月24日月曜日

NHKスペシャル 「出稼ぎ少女たちの旅路」を見て

NHKスペシャル 「出稼ぎ少女たちの旅路」を見て、あらためて自分は中国をよく知らないことに気づかされた。

1994年に放映された番組の再放送で、農村から深圳の精密電子部品工場に出稼ぎにいった少女たち(16~22才)の生活の実態が取り上げられていた。

農村と都市の生活レベルに格差があることは知っていたが、驚いたのは、中国の戸籍制度では、「農村戸口」(農村戸籍)を持つ農民が、都市に移転すること(「城市戸口」(都市戸籍)を取得すること)は基本的に禁止されているということだ。

これは、「出稼ぎ」という社会現象と一見矛盾するが、出稼ぎに来た少女たちが与えられるのは、就労のための臨時戸籍だけで、都市では正式な戸籍を持つことができず、二十二歳になると、いやおうなく貧しい農村(出稼ぎの少女の年収は農村にいる両親の稼ぎの2倍)に戻らなければならない。


(戸籍を持たないまま都市に定住することもできるが、医療や子供の教育などの面で、都市住民が享受できる公共サービスを受けられないだけではなく、就職や労働条件面でも差別を受け、弱い立場に立たされるそうだ)


農村戸籍を持つ人が都市戸籍を取るには、競争率500倍の試験(高校卒業の学歴も必要)に合格し、手数料10000元(農村で煉瓦の家が建てられる)が必要となる。

このような政策がとられている理由は、細かい部品の組み立て作業は、二十歳前後の年齢が限界でありるということと、取り替えがきく安価な労働力ということだったのだろう。

中国を世界第二位の経済大国に押し上げた多くの安価な労働力。それを支えてきたのが農民工といわれる出稼ぎ労働者たちだった。

番組では、2012年現在の深圳の様子も取材されていたが、出稼ぎ少女の待遇は著しく改善されていた(工場の女子寮が十二人部屋から五人部屋になっていたり、給料が18年前より7倍になっていることなど)。また、こういった農村戸籍の人たちが待遇改善のためのデモを行うようになった。

下記の記述をみると、少しずつ、都市戸籍取得の要件は緩和されてきているようだ。
http://www.rieti.go.jp/users/china-tr/jp/ssqs/120528ssqs.htm

番組では、石平さんも出演していたが、彼のホームページの記述が分かりやすかったので紹介しておく。
http://www.seki-hei.com/column/

2012年9月23日日曜日

ジンジャーティー

何だか、急に気温が下がったせいか、寝起きもよくなくて、体がしゃんとしない。
頭痛もちょっとして風邪を引きそうな感じになっている。

ふと、吉田秋生の「海街diary 帰れない二人」に書いてあった、ジンジャーティーが頭に浮かぶ。

漫画では、ジンジャーミルクティだったが、もともと、ミルクティはあまり好きではないので、ストレートティーに、しょうがをすり落としたものを、少し多めにつまんで入れてみる。

飲んでいるうちに、体がポカポカしてきて、頭痛がやわらいでいく。
まさにしょうがパワー。

☆簡単な作り方
http://nanapi.jp/8763/

「海街diary 帰れない二人」には、「しらすトースト」(トーストにバターとのりとしらすを載せたもの)というおいしそうな食べ物もでてくる。

今度、試してみようっと。

2012年9月22日土曜日

危うい

尖閣諸島をめぐる問題で、米国議会において、中国で起きている反日運動を懸念し、日本を支援する旨の発言があったのを聞いて、ほっとした人も多いのではないだろうか。

私もその一人であるが、同時に、今の日本の弱さというか、危うさを感じずにはいられなかった。
自前の軍隊だけでは自国を守れず、アメリカに守ってもらわなければならないという日本の今更の現実。

建前上は、同盟関係という対等な立場なのだろうが、日本がお金や土地を提供して、極東アジアにおけるアメリカの前線基地の役割を担っている感がぬぐえない。

今、沖縄などで、オスプレイの安全性の問題が取り上げられているが、中国とのこんな状況では、なおさら、アメリカに対して、まともな反論はできないだろう。

司馬遼太郎が描いた江戸末期、明治維新の元勲たちは、少なくとも、軍事力という実力を持たない限り、他国とのテーブルの上の交渉も有名無実のものになってしまうという意識を明確に持っていたと思う。
当時は帝国主義の時代ではあったけれど、現在においても、諸外国に対等な立場で物が言える前提は、やはり国力なのだ。

私がもっと危ういと思うのは、アメリカとの関係と庇護を当然のものと思い(沖縄の人はそんな人はいないと思う)、自分の国を守らなければならないという意識さえもなくなってしまった日本人が増えることだ。
自分の国が侵略されそうになっているという危機感さえないとすると、武力ではない平和的な解決方法を考える知恵すら浮かんでこないだろう。

日本の戦国時代、小国の大名は大国の脅威から生き残るため、同盟と外交にひときわ神経を使った。例えば、徳川家康は織田信長と同盟を結び、その同盟関係の維持のため、自分の妻と息子さえ殺した。そして、その織田信長も、武田信玄には様々な贈り物をして同盟を結んだ。そして、織田 信長は、明智光秀や豊臣秀吉という一流の人材を外交官に登用していた。
いわば、小国が生き残るための覚悟と戦略である。

今の日本に、このような覚悟と戦略はあるのだろうか。
アメリカべったりの関係をさらに強化します!というのは、ある種の覚悟なのかもしれないが、とても戦略と呼べないことは言うまでもない。

2012年9月21日金曜日

机の上

よく、机の上が片付いているかどうかは、その机で仕事をしている人の頭の中を映し出していると言われることがあるが、ある程度は真実だと思う。

きちっとした人は、必要最小限の書類しか、机の上に広げず、一つの仕事が終わると、書類はファイリングされるか、捨てられるかして、机の上はきれいなままだ。

今はパソコンや電子文書で、紙の資料を広げることもせずに仕事ができるようになったが、それでも、書籍を見たり、紙の資料を見ながら仕事をするというのも、まだまだ多い。

私はできるだけビジネスではきちっと書類は片付けたいという希望を持っているが、もともとがずぼらな性格なので、ちょっと忙しくなって複数の仕事をしているとあっという間に、机が書籍とバインダーで埋もれてしまうことも多々ある。
(Aという仕事をしていたら、Bの仕事で、あれをやろうという考えがよぎり、同時並行的に仕事をすることが多く、なかなか片付けられない)

これがプライベートの机になると、さらにひどいことになっており、読んだ本・読んでない本が雑然と積み重なっており、合間合間にCDやらメモやら書類やら文房具が散らばっている状態になっている。

ただ、立花隆やエリアーデも、机の上(書斎)は似たような状況だったということは、ある意味、心強い。
ひとつの仕事に行き詰まる。横に積んである本をぱらぱらとめくる。
疲れて横になった頭の上にある本をぱらぱらとめくる。
このような行為は、いきなり、リビングに行ってテレビを見たり、音楽を聴いたりするのとは違う。
言わば、エンジンは切らずにギアをニュートラルの状態にしている感覚に近い。
そういうのは、頭の気分転換に悪くない。

特に何かを産み出そうとする著述業の人たちは、整理整頓されたきれいな机のような頭の中より、さまざまな思想や事柄がカオスのように雑然としている頭の中の方が、思念を捻り出す環境としては好ましいのではないだろうか。

2012年9月20日木曜日

嫌いなこと

私は、最近、自分が反射的に嫌悪や不安を覚える出来事に特に注目するようになった。

何も考えようとせず、心のドアをバタンと閉め切り、逃げ去ろうとする自分の姿がみえる。
そんな時、その逃げ去ろうとする自分に立ち止まってドアをそっと開けてみなさい、と声をかけてみるのだ。

逆説的だが、間違いなく、そこには、自分が求めている何かが隠れている。

2012年9月19日水曜日

男たちの復讐

ニュース番組も終わってしまっていて、チャンネルを回していたら、TBSで、AKB48の『第3回じゃんけん大会』が放映されていた。

個人的には、たかだか、カワイコちゃんのじゃんけん大会を、テレビでまで放映する必要なんてあるの?と思ったが、やはり、それなりに視聴率が見込めるのだろう。

十代・二十代の男ならともかく、最近は、いい年したオジサンたちも、妙にAKB48の肩を持ったり、ちょっとマジ気味に発言しているのが気持ち悪い。

いつから、こんなに、少女の人気が高くなったのだろう。

エリアーデの「日記」を読んでいたら、ナボコフの「ロリータ」が、ケンブリッチ大学の学生たちに高く評価されているのを受けて、エリアーデが、こんな考えを説明している
少女(ニンフェット)の流行を話題に、私は彼らに≪私の理論≫を説明する。 
これは現代社会の≪母権≫に対する男の側の最後の反撃である。 
アメリカ合衆国では女-妻と女-母が支配している。
それで男達は青さを讃えて、自分たちが愛するものはそれであって、成熟し完成された女性ではないということを立証することにより、恨みを晴らしているのである。 
≪ ロリータ ≫と幼い少女の衣服を真似る衣装の流行-は男たちが女性に先行するものに魅せられていることを示している。そして彼らが成熟した女に支配されているなら、彼らは彼女に対する欲望を持てないのである。
この≪流行≫が女のもとに引き起こすかもしれない危機を考えないわけにはいかない。彼女は三十歳で、干からび、≪老いた≫と感ずるようになろう。…そして女たちの若く見せるためにではなく、まだ成熟せず、幼い少女のように思われようとするための努力…
アメリカ合衆国を「日本」に置き換えても通じる内容だと思う。
「ロリータ」のハンバート教授のように、≪本物≫だったら仕方ないが、冒頭のオジサンたちの裏の心理には、こんな思いが意外と隠れているかもしれない。

2012年9月18日火曜日

灰皿

私は煙草を吸わないけれど、煙草という嗜好品が、映画や小説の中で、心情的な風景を描くのに、格好のアイテムであるということを認める。

ジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」では、ジャン・ポール・ベルモンドが唇をなぞるように、煙草を吸う場面が強く印象に残っているし、

タルコフスキーの「鏡」では、不在の父親を所在なさげに待つ母親が細い木の柵に腰掛けて、風に揺れる草原を見つめながら煙草を吸う場面が風情があっていい。

日本映画でいうと、和田誠の「麻雀放浪記」だろうか。主人公の坊や哲が、クラブのママから、煙草は色々な合図に使えるから吸いなさいと諭され、ルーレットゲームが付いたライターを渡される場面が印象に残っている。

灰皿というのも、見ようによってはとてもよい小道具になりそうだ。
火をつければ、まだ吸えそうな長い吸い殻、フィルターぎりぎりまで吸われた短いもの、クシャクシャに折り曲げられた吸い殻 、真っ直ぐの吸い殻、フィルターに噛んだ後が残っている吸い殻、口紅のついた吸殻。

人それぞれに吸殻にも個性がある。そして、それらが一同に集合すると炭火のようにどこからか煙が立ち、嫌なにおいがする。

モラヴィアの短編小説に「灰皿」という作品がある。
何一つとして最後までやりとげられない主婦が、自分の行為を灰皿にたとえている。
たとえて言うなら、この一日は、神経症のタバコ吸いが長い時間をかけ、長い吸いさし、短い吸いさし、あるいは文字どおり火をつけたばかりの吸いさしでいっぱいにした灰皿に似ているかもしれません。わたしの一日はやりかけの行為、それも半分もすんでいない行為でいっぱいなのです。今思い返してみると、それらの行為は火が消えて冷たくなり、ぷんと臭い吸いさしタバコに似ているのです。
煙草というのは、人間の欲望の形が隠しようもなく露になってしまう鏡のような存在なのかもしれませんね。

2012年9月17日月曜日

中国行きのスロウ・ボート/村上春樹

中公文庫の「中国行きのスロウ・ボート」は、村上春樹のよい短編が揃っている。
学生時代に読んで、何度か本を紛失し、それでも、また読みたくなって買ってしまう。
そういう本です。

中でも、「午後の最後の芝生」は、いいですね。

彼女に振られた大学生が、最後の芝刈りのアルバイトに行くという、それだけの物語ですが、読んでいて、自分も暑い夏のさなか、芝刈りをして、心地よい疲れが体に残る、そんな気分になれる物語だ。

もうひとつ、「土の中の彼女の小さな犬」も個人的に好きです。
六月の雨が降り続けているリゾート・ホテル。客は、文章を書く仕事をしている「僕」と、ピアニストの彼女しかいない。

二人は退屈紛れに、言葉を交わすが、 彼女との会話から微かなひっかかりを感じたことをきっかけに、僕が霊感を使って、彼女の素性について、ゲームのように当てはじめる。

文章も洗練されていて、外国の作家の短編の翻訳と言われても気づかないだろう。
ちょっと、オカルトっぽい内容ですが深入りしない終わり方がとても上手だと思う。

表題の「中国行きのスロウ・ボート」は、「僕」が出会った三人の中国人の話ですが、二人目の女子大生の 「そもそも、ここは私の居るべき場所じゃないのよ」という言葉が、今と当時の変わり映えのしない中国と日本の距離感を表しているように思う。

願わくは、一人目の中国人のテストの監督員が話したような関係が築けるといいですね。

2012年9月16日日曜日

レクイエム/アントニオ・タブッキ

いかにも、タブッキらしい物語と言うべきか。

「インド夜想曲」や「遠い水平線」同様、主人公が街をさまよい、さまざまな人々と出会う物語。

個人的には、バーテンが、ヴー ヴ ・クリコが未亡人の名前だから好きでない(ヴー ヴは未亡人の意)という理由で、ロラン・ペリエのシャンパンを勧める場面や、ジプシーの老婆から、にせもののラコステのポロシャツを買う場面、国立美術館のバーテンダーに作ってもらった「緑の窓の夢」といわれるウォッカベースのカクテルを飲む場面が好きだ。

主人公が七月の猛暑の人気のないリスボンの街を滝のように汗を流しながらさまよい、何人かの亡霊(友人、若き日の父親など)と出会うこの物語は、残暑厳しい今頃の季節に読むには、ちょうどいいかもしれない。

2012年9月15日土曜日

ダヤン/エリアーデ

数学の天才 オロベテ・コンスタンティン(右目をハンガーのフックで傷つけ、黒い眼帯をしているせいで、モシェ・ダヤン将軍に似ているから、ダヤンと呼ばれている)が、ある日、同級生に、眼帯をいつの間にか、左目にしている(つまり、右目は正常な状態になっている)ことを気づかれる。

ダヤンは、学校の学部長にも、追求され、さまよえるユダヤ人アハスヴェルスと称する老人に出会い、本当のモシェ・ダヤン将軍のようにするために、傷ついた右目を左目に交換された事件を話す。

ダヤンは、ふたたび、老人と出会い、静かな落ち着いた場所で話したいからと言われ、古い建物の中に連れて行かれる。
この建物の中での老人との会話とダヤンの思念は、謎に満ちている。プーシキンの小説、数学の定理、老人が待ち望む最後の審判、水素爆弾、アインシュタイン、アステカ文明の予言、ギルガメシュ叙事詩、1987年…

ダヤンは五時間ほど老人と過ごしていたと思っていたが、結局、実世界では、三日三晩、姿を消していた。そして、彼を尾行していた秘密警察が、ダヤンが、その間、彼の記憶とは全く異なる行動を取っていた事実を指摘する。

そして、ダヤンは、「19本の薔薇」にも出てくる秘密警察のアルビニ警部の尋問をうけるうちに、彼が、老人に、最終方程式…すべてが可能となる、物質・エネルギー系を時空という別の連続体に統合する方程式 を発見することができるだろうと予言されていたことを思い出す…

結局、ダヤンは最終方程式を発見できたのか?
物語の最後は謎めいていて、色んな風に解釈できる。

エリアーデの妻がこの物語を読んで、この結末を理解する読者はどれほどいるのでしょうね?と首をかしげると、エリアーデは「全員か、あるいは一人もいないかだね」と答えたそうだ。

この作品も、エリアーデの後期の傑作ではないだろうか。

2012年9月14日金曜日

若さなき若さ Youth Without Youth/エリアーデ

1938年12月20日、復活祭の晩、雷に打たれた七十歳近いイタリア語とラテン語の教師。

皮膚も半分以上燃えてしまったが、男は死ぬことはなく、それどころか、四十歳近い年齢に若返ろうとしていた。

単にフィジカルな面ではなく、言語学を学んでいた男は、昔学んでいて覚えられなかった知識まで記憶にあることに驚く。

雷の莫大な電流が男の体を燃え尽くし、新たな体を組成して記憶力を増大化した。

そんな彼に、マスコミ、医療機関だけでなく、ゲシュタポなどの情報機関までが興味を抱き、彼を確保しようと動く。

男は身分を隠し、スイスに逃亡する。男の若返りは止まらず、三十歳近い年齢になっていた。

それから数年後、男は、雷に打たれ、遭難した二十五歳のドイツ人女性を助ける。彼女は、事故を契機に前世の記憶を取り戻し、助けられたときにインド中部の方言を話していた。
男は彼女とともに生活を共にし、次々と異なる時代と国語を話す彼女の言葉を記録していくが、そのうち、彼女が男とは逆に、急速に老齢化しつつあることが分かる。

前回紹介した「三美神」同様、若返りをテーマにしているが、現実と夢の行き来、輪廻転生、ジョイスの「フィネガンズ・ウェイク」、ヒロシマの原爆、荘子の胡蝶の夢…と取り扱っている要素が多い。

物語の最後が雰囲気のある終わり方で個人的には好きです。
エリアーデの後期の傑作のひとつだと思います。

ちなみに、コッポラは、この物語を原作に、「Youth Without Youth(邦題:コッポラの胡蝶の夢)」という映画を撮っています。


2012年9月13日木曜日

三美神/エリアーデ


エリアーデの幻想小説のひとつ。

若返りの血清を開発した医療生物学のタタール博士が死に至った謎を、ルーマニアの秘密警察と彼の友人だった植物研究者 ザロミト教授が調べていく過程で、その秘密が少しずつ明かされていく。

物語には推理小説的な要素もあるが、宗教学者としてのエリアーデのベースが濃く現れている。

タタール博士は、アダムとイブが「原罪」のため楽園を追放された際、人間の体が本来持っていた細胞の自動的再生という最重要機能を忘れてしまった<記憶喪失>と推測し、旧約聖書の「外典」にその秘密を探す。

そして、博士は、ヘブライ語とギリシャ語と神学に堪能な神父と植物研究者の協力を得て、ついに若返りの血清を開発し、その血清を三人の女性に投与する。
タイトルにある「三美神」は、その投与された被験者の女性のことを指す。

実験は、上層部の判断により中断されたが、ザロミト教授は、被験者の一人である七十歳の女性に出会い、驚くべき話を聞く。
血清の投与後、一年の四分の一だけ、彼女の肉体が、四十歳、三十五歳を超えさらに若返っていく。若さを得た彼女は、精神もその若さを取り戻し、複数の男との付き合いを頻繁に行うようになり、仕舞いには偶然、彼女が山の中で裸で歩いていたところを見たタタール博士を誘惑しようとし、恐れをなした博士が崖から足を踏み外し死んだという告白をする。

そして、ザロミト教授と彼女との話を盗聴していた秘密警察が、その血清の開発を再び進めるため、ザロミト教授に協力を要請し、彼が自殺を試みようとして失敗するところで物語は終わる。

読んでいて意外と思ったのは、物語中で述べられている癌の性質が、現代医学の捉え方と遜色がないところだ。
癌は、ある組織ないし器官の細胞の過剰でアナーキーな増殖によって起こる。…めまぐるしいほどの細胞増加現象が示すのはポジティブな欲動、つまりその組織ないし器官の再生である。…細胞の大量増殖は、組織の全面的再生をもたらし、結局はからだ全体の再生つまり若返りに至るはずだ。
しかしこの有機体のポジティブな欲動は、細胞増殖の常軌を逸したリズムによって、またミクロとマクロの細胞構築のアナーキーなカオス的な性質によって無効になる。
エリアーデの他の小説にも、突然、若く見えたり老いて見える女性が登場するが、そういったものがコントロールできる時代が来たら、ちょっと怖いですね。

2012年9月11日火曜日

俗から聖へ

夜、品川インターシティを歩いていたら、中庭の木々から、鈴虫の音色が聞こえてくる。
しかも、ちょっとの量ではなくて、耳の奥まで響いてくるような、かなり大きな音色だ。

何か不思議な感じを覚えながら、歩いていたら、数日前に読んだエリアーデの小説「イワン」の最後のシーンを思い出した。
主人公が”あの世”へ行くときに現れた光り輝く橋と、巨大な水晶の吊鐘、黄銅のシンバル、フルートとコオロギの声の異様な合奏が鳴り響く。

そしてまた、今日読んだレポートの内容(上司が連絡の取れない部下に関して書いたもの)がふと、頭をよぎる。

「…けれど、いったい、いつ、誰が、どこで?」

このビジネスレポートっぽくないフレーズ。でも、どこかで読んだことがあるような気がしたのだ。

鈴虫の音色で思い出す。それも、「イワン」の最後の一節だった。

「…だがいつ? いつ? どの生で?……」

徐々に人込みの多いJR品川駅の構内へ。鈴虫の音色はだんだんと遠くなっていく。

でも、私のこころは、この普段の生活と、エリアーデの世界との近接を感じて不思議な気持ちのままだった。

2012年9月10日月曜日

東京スカイツリーに行く

東京スカイツリーに昇ってみた。

横浜方面からの行き方:京浜急行の特急で、青砥・高砂行きに乗り、押上(スカイツリー前)駅で降りる。(B3出口)

当日券を買うため、イーストタワーから、エレベータで4階のチケット売り場に行く。

スカイツリーのチケット売り場はAM 8:00に営業開始。
込むと思って早めに出て7時50分頃に着いたが、すでに結構人が並んでいた。
(天気も快晴の日曜日だったが、20分程度で買えた。)

天望デッキ入場券 大人2,000円

貨物エレベータ並みの大きさのエレベータに乗り、あっという間に天望デッキ(フロア350)に到着(耳がキーンとならなかった)。

エレベータを降りて、「わー!高い!」と窓際に食い付いて、外の景色を見ていると、
係員の「天望回廊のチケット売り場、こちらが最後尾となっております」という不吉な声。
見ると、すでに10分待ち。しかも、どんどん下からのエレベータが人を運んでくる。

しょうがない。天望デッキ(フロア350/この数字は地表からの高さです)は後回し。早速、天望回廊のチケット売り場に並ぶ。

天望回廊入場券 大人1,000円

しかし、どうせなら、最初のチケット売り場で天望回廊のチケットも売ってくれたら、また並ばなくてすむのに。
(たぶん。天望デッキの窓に張り付く人を少しでも減らしたいという会社側の作戦なのだろう)

今度は、エレベータの壁と天井が透明なので外の景色がみえる!
(若干こわい。高所恐怖症気味です)
天望回廊のエレベータも超高速なので、あっという間に着く。

天望回廊(フロア445)で、ようやく外の景色を眺める(すでに人はたくさんいましたが、窓際には苦労せず張り付ける程度)。


しかし、東京タワーが小さい。もうちょっと近くに見えるのかと思った。




ソラカラポイント(最高到達地点451.2m)は、さすがに写真撮影のポイントで混んでいた。
(セーラームーンみたいな女の子のフィギアと一緒に撮影している30歳ぐらいの男の人がいました)



景色も見終わって、天望回廊から天望デッキ(フロア345)へ。ここでちょっとお土産屋に寄る(ここでも並ぶ)。
ここでしか買えないグッズもあるようですが、個人的な感想から言えば、低階層のショップのほうが、品物が充実しているので、ここで、あんまりガツガツ買わないほうがよいと思います。
お洒落なレストランもありましたが、さすがにまだ、10時30分頃だったのでパス。

階段を昇って、ふたたび天望デッキ(フロア350)へ。
ここからの眺めのほうが、若干、東京タワーが近くに見えた。
トイレに入ると小が2人分しかない。災害時とか、大丈夫なのかなぁと余計な心配をする。

記念撮影の場所もあり、係員が写真を撮ってくれるスポットがある。係員が撮った写真は買わなくてよいが、自分が持っているカメラでも撮ってくれるので、利用したほうがお得だろう。

階段を下りて、フロア340へ。ここには、床がガラス板の場所が2箇所あり、記念撮影の場所もある。こわごわ下を見て、改めて、よくこんな建物作ったなぁと感心。



フロア340からエレベータで出口フロア5階へ。
5階にもスカイツリーのショップがある(こっちの方が大きい)。

その後、4階とかのショップも見て、東京ソラマチのイーストタワー側に移動(レストランはこっちの方が多いと思う)。
レストランはほぼ満員で、ここでも待ち行列だったが、7階ソラマチダイニングの「江戸味楽茶屋 そらまち亭」は妙に空いており、待たずに入れた。
(お子さんがいる家族だと、うーんという感じの料理です。年配のお客さんが多かったです。味は悪くありませんでした。夜には店内で本当に寄席もやるみたいです)

東京ソラマチのショップも充実していました。(たぶん、東京のお土産はここで事足りてしまうのではないかと思わせるぐらいでした。こういう感じだと、押上とか青砥の商店街に観光客が流れなくなってしまうのでしょうね)



ちなみに、東京スカイツリーの概観って、知的財産で保護されているみたいですよ。
http://www.tokyo-skytree.jp/property/

個人でブログにのっける程度なら問題ないのでしょうが、会社のパンフレットとか商品の包装の写真に、許可なく使うと、クレームを受ける可能性があるらしいです。
(著作権法第46条を見ると、写真は本来OKのはずなのですが、パブリシティ(肖像権)みたいな感じの権利主張ですね)

2012年9月9日日曜日

ヨーロッパ魔術に関する二、三の見解/エリアーデ

エリアーデの「オカルティズム 魔術 文化流行」では、宗教学から見るとサブカルチャーとも言える”魔術”について、様々な事例が紹介されている。

イタリアの異端審問所の1575年3月21日の記録によると、秘密結社の夜会について、その成員は、眠っている間に霊の状態で出かける(「旅」に出る)のだと主張したという。
「旅」に出る前に、彼らは激しい衰弱、昏睡状態に陥り、その間彼らの魂は肉体を離れることができるらしい。

1691年の裁判記録には、86歳のリトアニア人が、狼の姿で魔王と戦う告白があった。
彼とその仲間たちは狼に姿を変えて「海の果て」(地獄)に歩いていき、そこで、魔術師に盗まれた家畜、小麦、大地の産物を地上に取り戻すために、魔王や魔術師と戦うのだという。

1235年の南フランスの異端審問所の記録によると、ある婦人が、女主人に、地下に連れて行かれた。そこには、たいまつを持った多くの人々が集まっており、大きな容器に水を張り、魔王の来臨を乞う儀式が行われていた。すると、一匹の気味の悪い猫が姿を現し、尾を水に浸したという。
そして明かりが消され、人々は手近にいる者を捕らえて相手かまわず抱き合ったという証言がなされている。
(魔女のサバトの特徴としては、地下での集会、サタンの償還と来臨、消灯とそれに続く相手かまわぬ性交が要素になっているらしい)

このような行為については、悪魔的行為とみなされ、厳しい処罰を与えられたが、ユダヤ教でもキリスト教でも、性生活の神聖性を徹底して根絶することは出来なかったという。

そして、儀礼的裸体と儀式上の自由性交は、幸福な人間存在へのノスタルジア-「堕落」以前の楽園状態の至福を奪還しようとする努力であり、人間を救済することに失敗したキリスト教的体制に対する反抗-とりわけ「教会」の堕落や教会的階級組織の腐敗に対する反抗を表していたという考えが述べられている。

エリアーデはこう説明した後、現代では、これに類する事態が現代では主として若者文化に起こりつつあると述べている。
例えば、自然との親交、儀礼的裸体、無制限な性の解放、現在にのみ生きようとする意志、オカルトへの関心、占星術の蘇生、非キリスト教的な救済手段(ヨガ、タントラ、禅など)の発見と習得等。

エリアーデは、この小論を1974年のアメリカ シカゴ大学で書いた。

現代の日本を考えると、既成の体制(政治・社会・会社・学校)への全体的な不満があるのは間違いない。しかし、その反抗はどう表れているのだろうか?

2012年9月8日土曜日

ローマの女/モラヴィア

モラヴィア四十歳の時の長編で、後期の作品と比較すると、格段に力がみなぎっているように感じる。

それは、文章の勢いだけではなく、主人公のアドリアーナが母親との二人暮しの貧しい生活から、ヌードモデル、売春婦という仕事を余儀なくされても、決してペシミスティックにならず、自らの生命力と美貌を疑うことなく、恋をすることに貪欲な姿勢からも感じられる。
裕福な家庭に生まれながらもペシミスティックな生き方しかできない彼女の恋人ジャコモとの対比で、さらに鮮明になっている。

例えば、愛していた男に裏切られていたことが分かってても、彼女は生きる気力を失わない。
…もう、生きていくまい、もう明日の朝は目を覚ますまい、と私は思ったのです。だが、眠っている間にも、私の肉体は生き続け、血液は体内を流れ、胃腸は食物を消化しつづけたのです。わき毛は剃っても剃ってもまた生え、爪は伸び、皮膚は汗にぬれ、力がまたよみがえってきました。
そして、朝になれば目がひとりでに開き、またあの大嫌いな現実を眺めたのです…
処女作の「無関心な人びと」と雰囲気は似ているが、主人公の生きる姿勢がまったく違う。
好みの問題かもしれませんが、私は「無関心な人びと」のミケーレよりも、このアドリアーナが好きです。

2012年9月6日木曜日

ディオニスの宮にて/エリアーデ

エリアーデの小説は、登場人物が多い。だいたい、短編~中編小説で、10~15人程度出てくる。
いい加減に読んでいると、誰が誰だか分からなくなってしまう。

前に、池澤夏樹がそういう登場人物が多い小説を読むコツを教えていた文章を実践している。

例として挙げていたのは「百年の孤独」だったと思うが、よく探偵小説の単行本の表紙裏に、登場人物の名前と簡単な紹介が書かれているが、そういうものを自分でメモを書いて整理するのだ。
綺麗に仕上げる必要はなく、ラフな感じでよいと思うが。

さらに、登場人物間の人間関係も書いておくと混乱しなくてすむ。

私は相当面倒くさがりやなので、普通、こういう作業は絶対やらないのだが、やはり読んで理解したいという気持ちが強いと、やるんですね。

今回の「ディオニスの宮にて」だと、こんな風に書いた。
(もちろん、物語上は書いたような単純な属性ではない)

 レアナ(酒場の歌手)→好き→アドリアン(詩人、記憶欠落)

この物語は、かなり謎めいた書き方になっているので、解釈の仕方が色々あると思うが、私はベースが上記のメモのような恋愛小説だと捉えている。

アドリアンは、午後四時三十分に、レアナとホテルで待ち合わせて会う約束をしていた。しかし、アドリアンの乗ったタクシーは事故を起こし、二人は出会えなかった。アドリアンは死んではいないようなのだが、午後四時三十分に誰かと会う約束をしたこと以外は、記憶を喪失してしまった。
レアナは、「私の罪のせいで、酒場を歌い歩くようになっ」てしまい、二人は出会えない。

最後に、アドリアンは、レアナと出会い、午後四時三十分に、レアナと会う約束をしていたことを思い出すのだが、二人が会っている空間はすでに普通の空間ではないようにも感じた(レアナが死んだのか)。

*レアナは、「ムントゥリャサ通りで」にも出てくるようだ。迷宮の奥の迷宮。また、読み返さないと。


2012年9月5日水曜日

シリアとルーマニア

シリアルーマニアの国名が、最近、色々なところで目に付く。

シリアに関しては、明らかにジャーナリスのト山本美香さんが銃撃されて死亡したことが契機になっている。
今日の報道ステーションでは、シリア政府に雇われた民兵の残虐行為についてのインタビューが報道されていて、見ていて非常に憤りを覚えた。
(シリア政府は、こういった民兵に、麻薬まで与えて人間的良心まで破壊して残虐行為を助長しているらしい)

番組のインタビューでは、外国取材班を狙った部隊の話も出ていたので、山本さんの殺害も計画的なものだった可能性が高いと思った。

上記のような行為を行っている政府は、すでに犯罪組織と言ってもおかしくない。
国連の安保理が中国とロシアの反対で機能不全に陥っている以上、アメリカの軍事的介入に期待するしかないのだろうか。

ルーマニアに関しても、日本人の女子大生が殺害されるという痛ましい事件が起きたが、私にとっては、エリアーデの祖国ということで残念な気持ちでいっぱいだった。

*エリアーデは、論文を書くときにはフランス語などで書いたが、小説だけはルーマニア語で書いていたらしい。亡命に近い形での祖国からの離脱だったが、故郷への思い入れは消せなかったではないだろうか。

ルーマニアの治安が悪いという話から、ルーマニアを最大の居住地としているロマ人(ジプシー)のマイノリティ的な存在についても、色々と話題になっている。
幻想的なイメージだけではない、このようなダークな現実も、この事件がなかったら見えてこなかったかもしれない。

この普段であれば馴染みのない二つの国について、最近、とても気になっている。

2012年9月4日火曜日

鎌倉に行く

日曜日、気分転換に鎌倉に行ってきました。

ルートは、江ノ電で、極楽寺で降りて、
①極楽寺→ ②極楽寺切通し → ③力餅家 → ④御霊神社 → ⑤長谷寺 → ⑥由比ヶ浜 → ⑦鎌倉市農協連即売所
というルートです。

⑥から⑦への移動以外はすべて徒歩。3時間半程度の所要時間でした。

天気は、いわゆる天気雨で、降ったり止んだりの空。あまり暑くなかったので、良かったです。


①極楽寺駅

緑のおもちゃみたいな電車が、とことこ、鎌倉駅を出発し、住宅裏のすぐそばを走りながら十分ほどで着く。
江ノ電の「極楽寺駅」は、とても可愛い。

日曜だというのに、極楽寺の参拝客はほとんどいなかった。

境内の木々からは、蝉しぐれが響いていた。




こちらも、人がまばら。道は、それほど傾斜はきつくない。

御霊神社のちょっと手前、力餅屋に寄る。
力餅(当日しか日持ちしません)と、夏だけ販売しているというみたらしだんご(後で食べたら、ちょっとしょっぱかった)を買う。
店員のおばさんは、すごく気さく。ここは、ちょっと混んでいました。

④御霊神社

社(やしろ)の前を江ノ電が走っているちょっと不思議な空気。
9月18日に、面掛行列という変ったお祭りが行われるのだが、祭り前ということで、こちらも人影がまばら。
写真は、御霊神社前の江ノ電の線路の風景。


⑤長谷寺
ここはさすがに混んでいました。
階段を登りきると、鎌倉の街と海が一望できた
境内の中で、小石に、カードに表示された般若心経の一文字を書くコーナーがあったので、百円を払って字を書いていたら、周りの人に珍しそうな目で見られました。
「厄」という字だったので、物好きな人ですな、という感じですね。
次の人のために、カードをめくったら「舎」(釈迦の弟子 舎利子)だったので、今度は書きやすいだろう。
ご飯を近くの蕎麦屋で食べる。長谷寺の近くのお土産屋で、人の声をリピートする鳥のおもちゃに、「I want an ice cream!」と何度も叫んでいた可愛い女の子の外国人の親子がいました。 
⑥由比ヶ浜 
ここで、石を拾おうと思ったのですが、全然いいのがなくて諦めました。 
夏休み明けで、お盆も過ぎたからだろうか、サーファーと海水浴を楽しむ人もまばらでした。
日が突然差してきて、石を探しながらしばらく歩いていたら、頭が熱くなり、エリアーデの「ジプシー娘の宿」の主人公のように、軽い熱中症のようになってしまい、しばらく「めまい」を感じていました。 



⑦鎌倉市農協連即売所
帰る途中、鎌倉駅を降りて、鎌倉野菜を売っている鎌倉市農協連即売所に寄ってみました。さすがに、午後も2時をまわり、珍しい野菜はすでに売れ切れており、馬鹿でかいゴーヤとかまるまったキュウリとか、ちょっと変わったトウガラシ程度しか売っていませんでした。
値段は殆どが百円で、生産者の顔も見えるので、料理をする人にとっては便利かもしれませんね。  

帰りの電車は、妙に疲れてしまい、ぐっすり眠ってしまったせいで、危うく電車を寝過ごすところでした。今回は、行くところ行くところ、殆ど人がいなかったのが、とても心地よかったです。

また、行ってみようっと。

2012年9月3日月曜日

イワン/エリアーデ

ブルガリアの哲学者 ツヴェタン・トドロフは、

「幻想とは、自然法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる『ためらい』のことである」という事を言ったそうだが、エリアーデの小説「イワン」を読んでいると、ぴったりの言葉だと感じる。

ウクライナ戦線を撤退しているルーマニア師団の一小隊の話。
上級兵で、哲学者の主人公と、その部下二人が、イワンという名前の瀕死の兵を運んでいる。
彼らがイワンを根気よく運ぶのは、部下たちが、死にかけている者から祝福されると幸せになるという言い伝えを信じ、何とかして、イワンに祝福してもらいたいという一心からなのだが、やがて、イワンは死に、部下たちは、トウモロコシ畑にイワンの死体を葬る穴を掘る。
そして、その時、ドイツとロシアの攻撃を受ける…

ここで、場面が切り替わり、主人公はヤーシの家で、上官である中尉と、婚約者、イワンと似ている医者と食事をしながら、上記の撤退の話をしている。
イワンは彼らを祝福してくれたのか(婚約者は無事帰還できたのだから祝福されたと言い張る)、イワンとは何者だったのか、主人公は、イワンに何を言おうとしていたのか…

ここから、場面が再び切り替わり、上記のヤーシの家での会話は全て夢だと話す戦場に戻り、戦場から再びヤーシの家に戻り、そして、そのうち、戦場に、ヤーシの家で話したイワンと似ている医者が現れ、医者がイワンであったこと、主人公がイワンに言おうとした言葉について二人が話す。

そして、主人公は中尉とも出会い、部下二人のところに戻るが、二人が、また誰か負傷者を担架で運んでいる場面を目撃する。主人公が呆れて近寄ると、担架の上には、顔に血だらけのハンカチを載せた自分が横たわっていた…

最後に主人公は大河を越えるための、太陽が昇ったかのごとく、黄金色の光そのものからうまれたかのような橋を越えようとする。そこでは、巨大な水晶の吊鐘と黄銅のシンバルとフルートと、コオロギの声の異様な合奏が鳴り響いている。

以上が、物語のあらすじだ。

最後の”あの世”へ行くシーンがとても美しいとは思うが、この物語も、やはり、恐ろしさを感じる。
それは、前回紹介した「ジプシー娘の宿」にも共通しているが、いつの間にか、主人公が死の世界に足を踏み入れてしまっていて、かつ、現世(幻)とのやり取りが延々と続くところである。

人は、死ぬとき、こんなにも多くの時間を彷徨わなければならないのだろうか。そう思うと怖い。
しかし、エリアーデの小説は、変なことを書いてはいるのだが、心の憶測で否定しきれない妙なリアリティを感じさせるところがある。

それは、高熱にうなされて、支離滅裂な悪夢にとらわれてしまっている時に、その夢の中で必死に対処している自分を感じる時の感覚と似ている。

2012年9月2日日曜日

ジプシー娘の宿/エリアーデ

エリアーデでの幻想小説の一つ。

ピアノ教師が電車に乗るが、教え子の家に楽譜を入れた鞄を忘れたことに気づく。
逆方向の電車に乗り換えるため、道路を渡るが暑さでぐったりしてしまい、ベンチで休んでいる間に、逆方向の電車に乗り遅れてしまう。

主人公は、胡桃の葉の匂いに誘われ、胡桃の木立にあるジプシー娘の宿に辿り着き、そこで、受付の老婆と話し合い、ジプシー娘、ギリシャ娘、ユダヤ娘を買うことになる。

そして、娘たちと話している間に、二十年前に愛したけれど結婚できなかった恋人のことを思い出す。

主人公は、三人の娘と、誰がジプシー娘かを当てるゲームに興じるが、いつの間にか、娘三人はいなくなっており、主人公は、暑さの中でカーテンに経帷子のように包まれてしまい、気を失う。

目覚めた主人公は、ジプシー娘の宿を後にし、楽譜を入れた鞄を取りに行くため、電車に乗るが、周りの世界がいつの間にか変わっている。

鞄を忘れた教え子の家には、別の家族が住んでおり、教え子の家族は8年前に引っ越したことを聞かされる。
自分の家に戻ろうと再び電車に乗ると、持っていた紙幣が一年前に流通停止になっており、料金も倍になっていることを車掌に指摘され、家に戻ると、妻はおらず別の人が住んでいることを隣の家の人から告げられる。
そして、近くの飲み屋に行くと、店主から、妻は自分が十二年前に失踪してしまったため、ドイツに戻ってしまったことを聞かされる。

主人公は、一頭立ての馬車(霊柩車?)に乗り、再び、ジプシー娘の宿に戻る。
そして、受付の老婆と話し合い、今度はドイツ娘を買うことになるが、そのドイツ娘は、二十年前に別れた恋人だった。
主人公が「今は、もう遅い」とか、家もなく、電車賃も上がったことなど、今の彼の事情を話そうとするが、恋人から「あなたがどうなったか分かっていないの?」と謎めいた言葉を言われる。
そして、恋人に誘われ、一頭立ての馬車に乗り、森の道へと旅立つ。

以上が、物語の粗筋だ。
昔の恋人との邂逅。美しい話のように一見思えるが、よくよく読み直すと、怖い部分がいくつかある。

まず、主人公が怪しい売春宿に行かなければ、二十年前に自分が本当に愛した恋人を思い出さなかった(思い出そうとしなかった)ことだ。
そんな事はあるはずがないと言い切れないところが怖い。人は本当は大事なことだったのに忘れたいと思って、本当に忘れてしまうことに成功してしまうこともあるのではないだろうか。

そして、物語でははっきりと明示していないが、主人公が既に死んでいると思われることだ。彼は電車に乗り遅れ、胡桃の葉の匂いを嗅いだとき、既に死んでいたのかもしれない(熱中症か何かで)。だとすれば、彼は自分の死の十二年後の世界をさまよっていたことになる。
(確かに周りからみると、彼は亡霊のようだ)

死んだら、ただちに全てがゼロになる(全ての因果から開放される)と考える世界観から見ると、これも怖い考えだと思う。

2012年9月1日土曜日

海辺の石

エリアーデの幻想小説「石占い師」を読んでいたら、その昔、祖父が生きていたころ、季節外れの海辺に行って、石を拾っていたことを、ふと思い出した。

浜辺に打ち上げられた様々な石から、自分のお気に入りの石を探すのだ。

そうやって集めた石を、家の壁の脇の棚に飾ったり、床の間に飾ったりするのだが、祖父が集めた石は、ちょっと大きめのまるで小さな山脈のような形の白の斑の模様が入った濃青色の石が多かった。

私と姉は、思い思いのものを探すのだが、祖父が飾っているような綺麗な大きな石をみつけるのは、稀なことだった。我々は、大体、掌に入る程度の大きさの石を集めた。

貝のような石、木のような石、琥珀色の半透明の石、ガラス片が波に洗われ、角がとれて丸くなったような石。黄土色の煉瓦のような石。
私は、そういう、一見してすぐに綺麗だと分かる石を選んでいたが、祖父と姉は、一見、大したこともない、くすんだ色の石なのだが、水をかけると宝石のような複雑な色合いを出す石を見つけるのが得意だった。

そうやって、どのぐらい、海岸を歩いていたのだろうか。
その時は、何とも思わなかったが、そういう時間の楽しみ方を、祖父は何気なく私たち孫に伝えていたのだ。
今、そういう時間がない生活をしていると、ものすごく大事な時間だったんだという気がしてならない。

今度、海辺に行ったら、必ず、石を拾ってこよう。