2012年9月25日火曜日

紅茶と緑茶

紅茶(ストレートティー)を飲みながら、どうして紅茶にはミルクや砂糖を入れるのだろうと、ふと思った。

私自身、紅茶にミルクや砂糖を入れて飲まないので、よく、アイスティーでも、ガムシロやミルクをグラスにたっぷりと入れて、ストローでかき混ぜる人を見ると、ちょっと不思議な気持ちに襲われる。

それは、私が変わっているのかもしれないが、ひとつには、緑茶にはミルクや砂糖は入れないのだから、紅茶も同じでしょうという気持ちが働くのかもしれない。

昔買った中公新書の「茶の世界史」を読んでいたら、紅茶と緑茶の違いが説明されていたので、ごく簡単に紹介。

まず、緑茶文化は、中国や台湾、日本で発展した。
特に日本の茶の湯文化では、わび・さびといった美意識が求められ、それはさらに一期一会といった倫理を含むものとして、精神文化として発展した。

それに対して、紅茶は、特にイギリスにおいて国民的飲料として定着しており、世界の紅茶の約半分はイギリス人が消費している。

緑茶文化が精神文化だとしたら、紅茶文化は、砂糖やミルクを入れる飲み方に象徴されるように物質的奢侈(しゃし)、つまり物質文化である。

イギリスにおいて紅茶が好んで飲まれだした十八世紀末から十九世紀にかけて、紅茶の一人当たり消費量と、砂糖の消費量は見事に比例している。

それは東インド会社に代表される重商主義、植民地政策の時代であった。
中国から輸入される高価なお茶を飲むだけでも贅沢なのに、さらに新大陸ブラジルからの良質で貴重な砂糖を添えることは、この上ない贅沢だった。

そして、そのような飲み方は最初一部の富裕層だけのものだったが、重商主義に支えられ、輸入が拡大し、国民的な飲み方に発展していく。

まさに、紅茶文化は、紅茶帝国主義に発展していったのだ。

しかし、今の日本で、アイスティーに、ガムシロやミルクを入れる際、誰もそれが贅沢だとか、帝国主義とか、考えもしないだろう。
それは、過去の生活習慣の延長だとか、個人の味覚の問題のレベルの話なのかもしれない。

ある意味、いい時代になったと言えるのかもしれないが、文化という香りはどこへやら、何となく味気なさも感じる。

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