2012年9月3日月曜日

イワン/エリアーデ

ブルガリアの哲学者 ツヴェタン・トドロフは、

「幻想とは、自然法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる『ためらい』のことである」という事を言ったそうだが、エリアーデの小説「イワン」を読んでいると、ぴったりの言葉だと感じる。

ウクライナ戦線を撤退しているルーマニア師団の一小隊の話。
上級兵で、哲学者の主人公と、その部下二人が、イワンという名前の瀕死の兵を運んでいる。
彼らがイワンを根気よく運ぶのは、部下たちが、死にかけている者から祝福されると幸せになるという言い伝えを信じ、何とかして、イワンに祝福してもらいたいという一心からなのだが、やがて、イワンは死に、部下たちは、トウモロコシ畑にイワンの死体を葬る穴を掘る。
そして、その時、ドイツとロシアの攻撃を受ける…

ここで、場面が切り替わり、主人公はヤーシの家で、上官である中尉と、婚約者、イワンと似ている医者と食事をしながら、上記の撤退の話をしている。
イワンは彼らを祝福してくれたのか(婚約者は無事帰還できたのだから祝福されたと言い張る)、イワンとは何者だったのか、主人公は、イワンに何を言おうとしていたのか…

ここから、場面が再び切り替わり、上記のヤーシの家での会話は全て夢だと話す戦場に戻り、戦場から再びヤーシの家に戻り、そして、そのうち、戦場に、ヤーシの家で話したイワンと似ている医者が現れ、医者がイワンであったこと、主人公がイワンに言おうとした言葉について二人が話す。

そして、主人公は中尉とも出会い、部下二人のところに戻るが、二人が、また誰か負傷者を担架で運んでいる場面を目撃する。主人公が呆れて近寄ると、担架の上には、顔に血だらけのハンカチを載せた自分が横たわっていた…

最後に主人公は大河を越えるための、太陽が昇ったかのごとく、黄金色の光そのものからうまれたかのような橋を越えようとする。そこでは、巨大な水晶の吊鐘と黄銅のシンバルとフルートと、コオロギの声の異様な合奏が鳴り響いている。

以上が、物語のあらすじだ。

最後の”あの世”へ行くシーンがとても美しいとは思うが、この物語も、やはり、恐ろしさを感じる。
それは、前回紹介した「ジプシー娘の宿」にも共通しているが、いつの間にか、主人公が死の世界に足を踏み入れてしまっていて、かつ、現世(幻)とのやり取りが延々と続くところである。

人は、死ぬとき、こんなにも多くの時間を彷徨わなければならないのだろうか。そう思うと怖い。
しかし、エリアーデの小説は、変なことを書いてはいるのだが、心の憶測で否定しきれない妙なリアリティを感じさせるところがある。

それは、高熱にうなされて、支離滅裂な悪夢にとらわれてしまっている時に、その夢の中で必死に対処している自分を感じる時の感覚と似ている。

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