2013年5月27日月曜日

Kaleidoscopio /☆゚・*:.。.☆ななろぐ☆.。.:*・゚☆より


久々、池澤春菜さんのブログを見ていたら、気分がスカッとする音楽を見つけることができました。



アルバムの写真が何とも味があっていい。

2013年5月26日日曜日

リトル・シスター/レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳

コロキアル(colloquial)とは、口語的、話し言葉という意味らしいが、サリンジャーの小説に負けないぐらい、チャンドラーの小説も、コロキアルな魅力にあふれている。

この「リトル・シスター」は、三回以上読み直しているが、マーロウが交わすその他の登場人物との会話は、過度に洗練されている印象も感じない訳ではないが、毎回読んでいてとても楽しい気分になる。

しかも、今は、清水俊二訳の「かわいい女」だけではなく、村上春樹訳の「リトル・シスター」まで読むことができるのだから、二つの訳を比べて読むと、その魅力の奥行きを再認識できる。

出だしの文章など印象的な部分では清水訳の方が切れがある感じだが、原文と照らしながら読み続けていくと、やはり村上春樹訳の方が原文に忠実だ。

また、この「リトル・シスター」のあとがきには、この物語に出てくる重要人物 メイヴィス・ウェルドの年齢に関する説明があり、これを読んでから、彼女のイメージが、くっきりと思い浮かぶようにようになった気がする。

ちなみに、魅力的な娼婦のような存在であるドロレスも、個人的には好きです。
ドロレスについては、チャンドラー自身も「私が一度も会ったことがないような心のやさしい売春婦」とたとえているが、マーロウとの会話の中では、彼女とのやり取りが一番面白かったような気がする。

この作品を何度も読んでしまう理由のひとつは、事件の顛末が非常に込み入っていて、一度読んだだけではなかなか理解できないという点もあるが、この魅力的な三人の女性とマーロウとの間の洒落た会話、そして、現代のハリウッドでも見かけそうな映画業界特有の奇妙な風景、それらが絡み合った複雑な魅力にあるのかもしれない。

2013年5月19日日曜日

キャッチャー・イン・ザ・ライ/J.D.Salinger 村上春樹訳

村上春樹と柴田元幸の「翻訳夜話」を読んだ流れで、その続編「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」を読んでいたら、また、村上春樹が翻訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読みたくなった。

2003年発売だから、この新訳(旧訳としては、野崎孝の「ライ麦畑でつかまえて」が有名)が出て、今年でもう10年経ったことになる。

この「サリンジャー戦記」は、村上春樹が、かなり力を入れて詳細にこの作品の魅力を解説(批評)しており、なかなか読み応えのある内容になっている。

10年前に読んだときは、この解説に、かなり強くひっぱられたせいか、「ライ麦畑」ってそういう物語だったのかという驚きのほうが強かったが、今回は、物語全体を楽しんで読むことができたと思う。

ホールデン少年が、次々と出くわす、ある意味、残念な出来事(学校、先生、友人、ガールフレンド、その他怪しい人々、自分に対する幻滅)のようなものは、こんなに多弁でユーモアに満ちたものではないにしても、十代から二十代を通り抜けた人なら、誰しも共感してしまう部分があると思う。

それは、日本で言えば、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」のような学校の推薦図書からは決して得られない類の共感だと思う。

ただ、ホールデン少年が抱く、死んだ弟のアニーや妹のフィービーに対する、単なる兄弟愛とは違うものを感じさせる想いなんかは、ちょっと独特な感じを受けました。

しかし、村上春樹の文体は、文句なしに、この作品の魅力を伝えるのに適していると思います。
「サリンジャー戦記」では、村上春樹が「フラニーとゾーイー」を関西弁で訳したいという抱負を述べていたが、是非読んでみたい。

以下、ゴシップ的な話です。

・未発表作品はあるのか?

  サリンジャーは、2010年1月27日に老衰で亡くなっているが、彼が最後に作品を発表したのは、1965年。晩年はアメリカ東部ニューハンプシャー州の田舎町コーニッシュで、一種の隠遁生活を送り、作品は一切発表しなかった。
しかし、以下の記事(信憑性は不明)によると、死後明らかになった彼の手紙から、その後も執筆活動を続けていたことが判明しているという。
 また、未発表作品の公表の条件が彼の遺言書に記されているのではないかと推測しているが、一体どうなんでしょう。
 もし、未発表作品があるのだとしたら、是非、読んでみたいですね。
http://www.theatlanticwire.com/entertainment/2013/01/jd-salinger-documentary/61553/

・サリンジャーとカフカ

 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と、カフカの「失踪者」はよく似ていると思う。
どちらもまだ人間として弱い十代の少年のアメリカを舞台にした放浪を描いたものだし、そもそも、二人には、自分が書いた小説に、自分の未来が暗示されているという点が共通している。
また、父親が実業家であることやユダヤ人としての共通点もある。
 ちなみに、サリンジャーは、好きな作家の一人として、カフカの名前を挙げていたらしい

2013年5月15日水曜日

「民法(債権関係)の改正に関する中間試案」に関して

ある法律系の雑誌に載っていたのだが、元、東大法学部の教授で、「民法改正-契約のルールが百年ぶりに変わる」の著者でもあり、現在は法務省参与を務めている内田 貴さんが「民法(債権関係)の改正に関する中間試案」に関する大局的な視点からの座談会で話したコメントに目が止まった。

民法(債権法)の改正に関しては、2009年に法制審議会に、民法(債権関係)部会が設置され、3年あまりの審議を経て、2011年には「民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理」で、550項目ほどの論点整理がなされ、その後、パブリックコメントにかけられ、今回の中間試案では、半分以下の260項目ほどに絞り込まれ、さらにパブリックコメントの手続きにかけられている。

この絞り込みの中で、消費者保護・弱者保護という観点から、約款の規制ルールも、経済界の強い反対で、ルール化は見送られたらしい。

この点に関し、内田さんは、韓国には約款規制法があり、中国にも契約法に約款ルールがあり、中韓との取引で、相手方の国で取引となれば、その約款ルールが適用されることにもなること、また、ヨーロッパとEPA(Economic Partnership Agreement:経済連携協定)を結ぶことになれば、日本の産業界は、向こうの約款規制の厳しさにびっくりするのではないか、それに比べて、日本は自国のルール化もしないのか、という点に疑問を呈している。

また、法改正のスピードという点から、こんな話もコメントされていた。
国際取引では、紛争発生時に、契約当事者が属する各国の裁判管轄に委ねず、仲裁機関で処理するという方法がよくとられるのだが、アジア圏での国際取引の仲裁事件を一手に引き受けようと、シンガポールが名乗りを上げており、それに対抗して、韓国ではソウルに仲裁センターを置いて、アジア圏での国際取引の仲裁事件を引き受けようとしているという。
中国でも、北京や上海に仲裁センターがあり、活動を活発化しており、要するに、各国が自国を国際取引の紛争解決の拠点にしようとしてるのだ。
このような各国の動きに対し、日本が出遅れているという印象は拭えないらしい。

さらに、今回の中間試案を作る審議の過程において、実務界や学会でも、現行の明治時代に作られた民法を変えたがらない意識が強いということが指摘されている。
一番の理由は、この法律を使っている法律実務家などが、一旦身につけた体系的な理論を変更することに抵抗があるということらしいが、もうひとつは法律というものが輸入品のように外在的で、自分のものという自己同一感が希薄ではないのかという点も挙げられている。

この点に関し、内田さんは、自分で作ったもの(ルール)は、その気になれば壊すことができるが(フランスやドイツでは、そのような根本原則の改正がなされているという)、外から受け入れたものについては、手をつけてはいけないという感覚になりやすいという点を指摘している。

このコメントを読んだとき、すぐに日本の憲法改正の議論が頭をよぎりました。
憲法改正には、とにかく反対!という人々も、わりと多い気がする。
日本国憲法は、第二次世界大戦後、日本を統治していたアメリカが、GHQ草案という日本国憲法の原型から出来ている。
もし、私たちが、戦後、国民的な議論を通して、一から憲法を作っていたら、こんなに改正に神経質になることもなかったのではないだろうか。

憲法改正を色々な局面で議論して、自分たちの憲法という意識を持つ、いい機会なのかもしれない。

この民法(債権関係)改正と問題は同じところにある、と気づかせてくれた記事でした。

2013年5月14日火曜日

翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸

柴田元幸の「翻訳教室」を読んで、ひさびさに村上春樹との共著「翻訳夜話」を再読した。

印象に残ったのは、やはり、翻訳は直訳(逐語訳)が正統的で、意訳をすると原文からずれたり、凝りすぎになってしまい、好ましくないという考えを二人とも持っていたことだ。

この本には、レイモンド・カーヴァー(村上春樹が専門で訳している)と、ポール・オースター(柴田元幸が専門)の短編について、村上・柴田が「競訳」しているのだが、その二人の訳文を話し合っている中で、村上春樹が過去に訳したカーヴァーの文章の一文について、(訳の)方向性は合っているが、今の自分だったらこうは訳さない、原文の忠実さから離れてしまっていることをコメントしていた。

確かに、村上春樹の訳は、逐語訳に近いと思う。
これはチャンドラーの「ロング・グッパイ」を原文と照らしながら読んだ者の感想である。
好みからいうと、清水俊二訳の言い回しのほうが好きな場合が多いが、原文への忠実さという観点では、文句なしに、村上春樹訳のほうが優れている。

この翻訳のスタンスに興味を覚えたのは、この本の中でも論じられている「重訳」の問題だ。

たとえば、村上春樹の作品がノルウェーでは四冊翻訳されているが、そのうち、二冊は日本語からノルウェー語への直訳で、残り二冊は英語からノルウェー語への翻訳だったという。

このように、日本語から英語、英語からノルウェー語という一つの外国語を経由して翻訳されることを「重訳」というらしいが、ほとんどの場合、この経由言語は「英語」らしい。出版業界では、事実上、英語が「リンガ・フランカ」(共通語)の地位を占めているという。

そして、「重訳」の場合、英訳の原文に対する正確性が特に重要になってくる。
いかに精度を高くして、オリジナルを忠実にコピーできるか。
まるで、コピー機の性能のようだが、それによって、「重訳」の結果、生じるノイズの量が変わってくる。

日本語の「リンガ・フランカ」としての地位は低いので、二人とも「重訳」のことを考えて、直訳(逐語訳)を重視するというわけではないのだろうが、原文(オリジナル)を大切にするという基本姿勢は、原作者へのリスペクトという思いから考えると、自然なスタンスだと思う。
(純粋に、お金のために気に入らない作品を訳している翻訳者もいるとは思うが)

村上春樹が、翻訳家を目指す若いひとたちに、好きな作家と好きなテキストを見つけて、一生懸命翻訳してくださいと言っているが、これが上達の一番の秘訣なのかもしれない。

2013年5月12日日曜日

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック

前に、このブログでも取り上げた「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の中で、小澤征爾と村上春樹が聴いた楽曲が収められたCDが発売されたというので、買ってみた。

CDがレコードみたいな装丁でいいですね。




せっかちな性質なので、早速、小澤征爾がボストン交響楽団で指揮したグスタフ・マーラーの

「交響曲第2番《復活》」、

「交響曲第8番《千人の交響曲》から 神秘の合唱」、

「交響曲第1番《巨人》から 第3楽章」、そして同じ曲を、サイトウ・キネン・オーケストラが演奏したものとの聴き比べ

を聴いてしまった。

文中、小澤・村上が、ちょっと気違いじみていると言った感覚がなんとなく分かった。
久々に鳥肌が立つような音楽でした。

2013年5月11日土曜日

翻訳教室/柴田元幸

柴田元幸氏は、東大文学部の教授で、英米文学の翻訳家でもある。
その柴田教授が行った2004年当時の翻訳演習の授業内容をまとめたのが、本書である。

学生には事前に課題文(単行本で1~3ページ相当の英文)が配られ、学生全員がそれを翻訳し、訳文を提出する。
その訳文を柴田教授と助手の院生が手分けして添削し、コメントをつけて授業のときに返却する。学生は自分の訳文を見ながら授業を受ける。

授業では、柴田教授が選択した学生の訳文をOHC(書画カメラ)で写し、学生たちと議論しながら、赤を入れていく。
授業終了時に、次回の課題文の訳文を提出する。
これを1年間繰り返す。

ご本人も「まえがき」に書いているが、これは、かなりキツイ講座だという感じがする。
少なくとも、自分が学生という立場だったら、面白そうだけれど大変そうだなと思い、選択するのに躊躇しただろう。

訳文を毎回作るのも大変そうだし、万が一、授業で取り上げられると、みんなに、ここはおかしいんじゃないかと批評されたり、誤訳であると指摘されてしまうのである。
(もっとも、本書で取り上げられた訳文は、いずれも相当なレベルのものだった)

しかし、こうして本で読む分には非常に気楽である。私は楽しみながら読むことができた。

取り上げられている課題文も多種多様。

センチメンタルな印象のスチュアート・ダイベックの「故郷」、どこかユーモアが漂うバリー・ユアグローの「鯉」、レイモンド・カーヴァーのちょっと不気味な雰囲気の「ある日常的力学」、村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」の英語訳「Super-Frog Saves Tokyo」など。

柴田教授のコメントも、私にとっては新鮮なものだった。

たとえば、翻訳において、「語順は、なるべく原文の語順どおりに訳す」とか、
「主語と述語はそんなに離れないほうがよい」とか
「代名詞は原則として抜き、しょうがないと思うときだけ、彼とか彼女を入れる」とか。

原文(作者が伝えたいことも含む)に忠実でありながら、いかに読みやすい自然な日本語にするか。言ってしまえばそれだけなのだが、ワンセンテンスであっても、言葉ひとつ変えただけで、様々なバリエーションが生まれる。そこが翻訳の面白さなのだと思った。

なお、本書には、村上春樹を迎え、学生たちが次々と質問をしている特別講座も収録されている。翻訳に関係ない話も多いが、この文章を読むだけでも、この本を買う価値はあるかもしれない。

ついでに言えば、本書には翻訳に必要となる辞書や辞典の紹介のページもあり、私にとっては非常に参考になった。