2015年7月31日金曜日

出征/大岡昇平

読書の快楽は、小説であれば、第一に物語の面白さに負うところが大きいのだろうが、私の場合は、何といっても、美しい読みやすい文章で書かれていることが前提として必要になってくる。

そのような高い基準を満たす作家の一人に大岡昇平も入る。

彼は、太平洋戦争の時に、徴兵され、フィリピン レイテ島に送りこまれ、戦争に参加し、過酷な戦場で死ぬ一歩手前、米軍の捕虜になり、生き残ることができた。

彼の戦争体験記は、野火、俘虜記、レイテ戦記といった主要な作品の大きなテーマになっている。
決して明るい話ではないが、それでも、不謹慎ながら、私は、大岡の文章を読んでいて、その美しい無駄のない文章に気持ちが晴れる思いがする。

この出征も、そんな作品の一つだ。

東京の予備兵として徴集された大岡が、除隊の予定の日、何故か、自分の名前が呼ばれない。
呆然とする一部の兵隊たちとともに残され、南洋の前線に出征することを告げられる。

戦争に行くにも、色々な段取りを踏む。
遺書を書き、家族と別れの挨拶をし、千人針を受け取り、電車に乗り、門司まで行き、そこでしばらく待たされ、南洋行きの輸送船に乗る。

限られた時間のなかで、妻と子供に会いたいが、上京の負担をかけることと会っても無駄だという思いが交差する、その葛藤。

外洋へと向かう船から、あの島を通過すれば、二度と日本を見ないだろうという思いが去来する。 
私に何か感慨があったかどうか、わからなかった。
しかし、その時の私の中の感情は、私が出征によって、祖国の外へ、死へ向かって積み出されて行くという事実を蔽うに足りない、と私は感じた。
 大岡の文章は、常に正確に自分の心情を捉えようとする。

2015年7月27日月曜日

靴の話/大岡 昇平

大岡 昇平の実話に基づいた戦争体験を書いた短編小説。

題名のどおり、まさしく、軍靴の話だ。
日本軍の軍靴は、ゴム底鮫皮の靴だったらしい。

ゴム底は、フィリピン島の草にすべりやすく、鮫皮はよく水を通すという欠点があり、大半の兵士は行軍で靴をすり減らし、満足な靴を持てなかった。


そのため、靴の盗難が頻りに起こったという。
本来であれば、軍が支給すべき“靴”が、兵隊個人の私物となっていたということに、日本軍の乏しい物資補給が浮かび上がってくる。

*水木しげる氏の戦記でも、死んだオーストリア軍兵士の立派な軍靴を盗んでしのいだ話が書かれている。

大岡もひどい靴を履いていたが、マラリヤに罹って死んだ僚友が大事にしていたゴム底鮫皮の予備の靴を、秘かに手に入れる。

その後、熱病にかかった大岡は、靴をテントで包み、横になりながら、彼が靴を盗ったことを非難する兵士のやり取りを聞き、自分の心情を分析する。

そして、あれこれ、自分の心情を探りながらも、
結局靴だけが「事実」である。 こういう脆い靴で兵士に戦うことを強いた国家の弱点だけが「事実」である。
 と結論付けている。

物語は、その後、捕虜として捉えられた大岡が、その靴を所有していたことで、 捕虜仲間から貴族扱いされ、(捕虜の多くは靴を所有していなかった)、鮫皮の靴が、捕虜の病院で、唯一の日本軍の軍備として、重宝されたエピソードが語られている。

病人の履く靴としては、アメリカが支給するサイズが大きすぎる靴より、軽く、ゴム底も柔らかで履きやすかったという。
しかし、大岡には、死んだ僚友の靴であるという重荷があったため、サイズが合う靴が手に入った段階で土に埋めてしまう。

その埋めた靴も掘り起こされ、誰かに盗まれたことを後日知る。
彼は、多くの兵士がいまだサイズが合わない靴を履いている事実を忘れていたことを述べ、こう締めくくっている。
収容所でも戦場と同じく「事実」だけが「正しく且重要であった」のである。
欠乏のあるところ常に 「事実」がある。
最も基本的な装備である靴すら、満足に支給できなかった日本という国家が、兵士に対してそれでも戦うことを強いた「事実」が、大岡の頭からは離れることはなかったのだと思う。

2015年7月26日日曜日

ザ・クリスタルボール /エリヤフ・ゴールドラット

原題“Isn't it Obvious”は、当たり前でしょう? または 見れば分かるでしょう?だろうか。

例によって、問題を抱える業績の振るわない会社が、めざましく改善してゆく物語なのだが、この作品では、ホームテキスタイル(家庭用繊維製品の意味)を取り扱っているチェーン店が舞台だ。

テーブルクロスやカーペット、シーツなどを取り扱う小売業なのだが、日本でいうと、どんな会社なのだろう?(近いのはニトリだろうか?)

その不振のチェーン店で、水道管の破裂事故が発生し、地下倉庫が使えなくなってしまう。

店には、商品在庫が置けなくなってしまったことから、20日分の最小限の商品だけを店に残し、残りは地域倉庫(メーカーからエリア内にあるチェーン店への物流の中間に位置し、商品を保管する倉庫)に預けてしまう。空いた棚には別の商品を並べる。そして、商品が必要になった都度、地域倉庫から小分けに商品を届けてもらう。

そんな通常では行わないような緊急措置対応をしたところ、 エリア10店舗で8位の成績だった店が、いきなり、1位の成績を残す結果になる。

店長のポールは、その偶然から、 売上と在庫のジレンマを解決するクリスタル・ボール(魔法の水晶玉)のようなソリューションを、地域倉庫のマネージャー、仕入担当責任者の妻などの力を借りて見つけ出し、やがて、それを全てのチェーン店に導入することを計画する。

客が欲しい商品を、常に用意・提供し、売れない商品は、極力、在庫として持たない。
いつもながら、エリヤフ・ゴールドラットのロジックは本当なの?と疑ってしまうくらいシンプルだ。

私は、この小説を読んで、アマゾン・ドット・コムとか、巨大な倉庫を有する企業をイメージしました。

日本では、売上・利益率向上のためには、接客サービスの向上とか、高機能な商品の開発とか、人的な努力に力を注ぎそうですが、物流や在庫管理に目を向けているのは、いかにもアメリカらしい。

2015年7月23日木曜日

天鵞絨の夢/谷崎 潤一郎

個人的な感想で言えば、谷崎の作品のなかで、最も耽美的な小説だと思っている。

谷崎は「人魚の嘆き」や「魔術師」といった技巧的な幻想小説を残しているが、これらの作品は、挿絵に使われた水島爾保布(におう)の絵ほど、読者に耽美的な印象を与えていないような気がする。


その原因の一つは、谷崎が徹頭徹尾、明快な文章と思考をもって、物語を書く小説家であったことが影響していると思われる。

確かに、谷崎は、非日常の世界とも思える様々なかたちの性や犯罪、女性崇拝を題材とした小説を描いているが、そこに登場する美しい女性は常に具体的な姿形で表現されており、また、その女性の美に翻弄される男の感情や思考、運命にも曖昧模糊なところがない。

多少誇張されているとはいえ、どっしりと地に足を付けた現実的な人物が谷崎の小説の登場人物であり、 人魚や半羊神といった架空の生物は、彼のスタイルには馴染まなかったのかもしれない。

そこをいくと、この「天鵞絨の夢」(びろうどのゆめ)は、谷崎の現実主義的な作風が、最も耽美的な世界に近づくことのできた小説のように感じる。

物語は、中国 杭州の西湖のほとりに別荘を持つ富豪の温秀卿が、その美しい愛人ととともに、自分たちの「歓楽の道具」として人買いから買った美しい容貌の男女の奴隷の証言で構成されている。

この物語では三人の奴隷の話が取り上げられ、それぞれが関連性をもって、後の話に続くが、やはり、一人目の琅玕(ろうかん=ひすい)洞に閉じ込められた美少年と、その少年に会いにゆく二人目の少女の話が美しい。

琅玕洞は、温秀卿の美しい妾(女王)の阿片部屋として使われていて、少年は、女王が阿片の夢を心地よく見るため、お香の準備などを行う役割の奴隷だ。そして、美しい幻想のために、琅玕洞の天井は透明なガラスで仕切られた池になっている。

 この琅玕洞は、さながら、水族館の透明な水槽のように天井一杯に広がっていて、晴れた日には、美しい魚群のほかに、日の光がさらさらと入ってくる。

少女は、女王が美しい夢をみるために、魚が池の底、すなわち琅玕洞の天井にたくさん現れるよう、池の表面を叩く役割を持った奴隷だったが、ある日、好奇心に負け、池に飛び込み、少年と出会うことになる。

やがて、少年と少女は、ガラス越しに愛し合うようになる。
少年の告白

少女というものが現れてから、女王に対する崇拝の情とは全く異なった甘いなつかしい愛情が湧き上るようになったのです。それは阿片の夢を喜ぶ煙のように果敢ない頼りない心地ではなく、どうかして彼女の体へ抱き着いてやりたいと願うほどにも熱烈な力強い欲望でした。
少女の告白

私はよく、硝子の板へ俯伏しになってわざと唇を大きく明けて動かしながら、
「わたしはあなたを恋して居ります。」
と、そう云って見たりしましたけれども、其の言葉は声にはならずに、真珠のような泡となって数珠の如く繋がりながら、水の中を上の方へ昇って行ってしまうのでした。

阿片と香の煙が漂う閉ざされた琅玕洞のなかで美しい女王は阿片の夢にふけり、その傍で少年と少女は隠れた恋愛を楽しんでいたが、やがて女王が二人の関係に気づき、少女に対して恐ろしい罠をかけることになる。

実に退廃的な世界だが、その映像は想像すると美しい。

2015年7月22日水曜日

或る少年の怯れ/谷崎 潤一郎

「少年」、「小さな王国」、「二人の稚児」そしてこの「或る少年の怯れ」を読むと、谷崎は、いわゆる少年ものを書くのが上手い作家だったのかもしれない。

両親を早くに亡くし、歳が離れた兄 幹蔵に育てられる芳雄は病弱だったが、兄と結婚した義姉に可愛がられる。

しかし、 義姉が流産をした後、芳雄は、偶然、医師である兄が、義姉と共通の友人である女性と浮気をしている現場に立ち会ってしまう。

そこから、 兄と芳雄の間に溝ができるのだが、義姉が二度目の流産の後、病弱になり、兄が打った注射で容体が急変し、突然死んでしまう。

芳雄は、兄の表情にあやしい影を感じ、兄も弟から疑われていることを感じる。
そのうち、芳雄は、義姉の霊を感じるようになり、真夜中、義姉の部屋に行き、三味線を鳴らしたり、兄がかつて浮気していた女性と再婚する際、義姉を思い出して悲しんだりして、ますます、兄との溝が広がってゆくのだが、だんだんと病が重くなる芳雄に注射を打とうとした兄に、「僕は死ぬのはいやですから」と言い放ったことで決定的になる。


おそらくは真実を見抜いていたであろう芳雄は、最後、罪を犯した兄を許し、穏やかに臨終を迎えたと思われる場面で物語は終わる。

歳の離れた兄弟という微妙な関係に少しずつ異和が生じ、病弱な弟の秘めた憎しみに怯え、追い詰められてゆく兄を描いているこの作品も、「小さな王国」同様、子供の恐ろしさを描いている作品と言っていいだろう。

2015年7月21日火曜日

安全保障関連法案に反対する学者の会の抗議声明 plus あれは安倍政権によるクーデターだった/石川教授

ようやく、安倍政権の支持率が下がり出した。

毎日新聞の世論調査で、支持35% 不支持51%

共同通信は、支持37.7% 不支持51.6%

テレビ朝日は、 支持36.1% 不支持47.0%

しかし、憲法違反の法案の強行採決をやりながら、いまだに支持率35%以上を維持していることに驚く。

一方で、ニュースを見ると、安保法案の強行採決に対する批難の声は日に日に大きくなってきている。

今日は、 安全保障関連法案に反対する学者の会が、記者会見を開き、廃案を求める声明を発表した。

 →安全保障関連法案に反対する学者の会からの抗議声明 

常識的な判断力を持っている人であれば、これだけの学者(憲法学者以外の学者もたくさんいる)が自分の考えに反対の意見を述べていれば、まず、謙虚に自分を疑うでしょうね。

しかし、安倍首相をはじめとした安倍政権の人々は、狂信的な使命感からなのか、利害関係からなのか、動機は分かりませんが、すでに自分たちの行動を疑うという理性的な態度は捨て去り、虚仮の一念で、この法案を成立させるつもりなのでしょう。

東京大学の石川教授(憲法学者)は、今回のこの事態――安倍政権が、国民の支持のないまま、法秩序の連続性を破壊する行為を、「クーデター」と呼んでいる。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150718-00010001-videonewsv-pol

この現在進行中の「クーデター」を止めるために、とりあえず、考えられることは、一人でも多くの人が、この法案に反対の意思表示を明確に行い、安倍政権の支持率を30%未満に落とすことでしょうね。

反対の人たちは、何故、今更、こんな当たり前のことを言わなければならないのかという疑念が、日々頭をかすめるでしょうが、我々が戦っている相手は、容易には理屈が通らないです。

安倍政権の力を削ぎ、廃案にするまで言い続けるしかありませんね。

2015年7月20日月曜日

2015年7月13日 宮崎駿監督の外国記者との会見

宮崎駿さんが、外国記者との会見のなかで、安倍首相を非難するメッセージを語っていたのを思い出し、記者会見の様子を改めて動画で見ていたのだが、 質問が、安保法制、70年談話、日本国憲法、国公立大学の人文科学系学部の見直しの動き、先の大戦、中国、アメリカとの関係、原発再稼働の問題、沖縄の基地問題、最近手がけているアニメの話など、多岐に渡っていて、ついつい全部見てしまった。

まず、宮崎さんが沖縄の普天間基地の辺野古移設に反対する運動を支援する「辺野古基金」の共同代表に今年5月に就任した理由について、沖縄復帰前に、沖縄の友人がパスポートと検疫の紙をもって東京に来なければならなかったのを本当に申し訳なく思うと感情を込めて話していたのが印象に残った。

また、沖縄の基地問題について、民主党の鳩山首相が述べていた、米軍基地の県外移設について、
「米軍基地は­日本全体で負担すべきだ」という言葉はまだ生きていると考えていますというコメントも印象的だった。

意外に思ったのは、中国を脅威として見ているか、という質問に対して、

「中国は膨張せざるを得ない内圧を持っています。それをどういう風に時間をかけてかわすか、 というのが日本の最大の課題だと思います」 

と述べたところだ。

実に現実的な目線で中国と日本の関係を捉えている。

現実的と言えば、今の自民党政権についても、「自民党は過半数の支持を得たのではなくて、多くの人間が投票しなかったことによって天下を獲ったんです。ですから、また変わります。永続的なものではないと思います。」とバッサリ切っているところも、その通りですね。

他のコメントでも感じたが、宮崎さんという人は、最近の政治情勢のように右往左往している人たちの目線より、長いスパンで物事を見ている人ですね。

(ちょっと内田樹さんと考えが似ているように感じました)

2015年7月19日日曜日

富美子の足/谷崎 潤一郎

谷崎後期の傑作「蓼食う虫」と晩年の傑作「瘋癲老人日記」の原形のような作品だ。
書生の青年が、遠縁の老人の変わった死を、谷崎に手紙で告白するという構成になっている。

画家を目指す青年が、質屋を営んでいた隠居の老人と、その妾の富美子と知り合った経緯を語る。

この作品は、いかにも隠居の好きそうな、下町趣味の注文に嵌まった、いなせな、意気な女である富美子のなよなよとしてなまめかしい体の線や、顔立ちのこと細かな描写からはじまる。

そして、富美子の美しさに惹かれ頻繁に老人の元を訪れるようになった青年は、老人から、汚れた素足を手拭いで拭いている女の美しい姿を描いた国貞の浮世絵を示され、同じ姿勢で富美子の姿を描いてほしいという注文を受ける。

ここで青年は、富美子の体の最も美しい部位が足であったこと、そして、老人が極度の足フェチであることに気づく。

富美子の足の描写もすごい。歯並びのごとく整然と並んでいる指、真珠の貝を薄く細かに切り刻んでピンセット植え付けたかのような可愛い爪、丸くふっくらとした、つやつやとした踵。象牙のように白くすべすべとした肌の色。

そして、青年自身も、そんな富美子の踵に踏まれる畳になりたいと思う、足フェチであることに気づく。

糖尿病と肺病を患い、寝たきりになってしまう老人は、自分の代わりに青年に犬の真似をさせ、富美子の足にじゃれつかせ、顔を足で踏まれる姿をみることによって、強い快感を味わう。そして、青年も、頼まれもしないような真似を演じ、同じく、幸福を感じる。

壮絶なのは、危篤に陥り、食欲も無くした老人が、唯一、富美子の足の指に挟んだガーゼに染み込ませた牛乳やスープを、貪るがごとく、いつまでも舐る姿だろう。

そして、臨終のとき、富美子の足に顔を踏まれながら老人は歓喜のうちに息を引き取る。

人間の性に対する底なしの欲望と愚かさを描いている点は、谷崎の終生のテーマであったと言えるだろう。

2015年7月18日土曜日

美食倶楽部/谷崎 潤一郎

食欲と性欲。

この人間の三大欲のなかでも、ひときわ始末に負えない欲望を、恥ずかしげもなく追及して止まない男たちの奮闘努力を描いているこの作品を読むと、人間の業の深さと退廃的な雰囲気を十分に味わうことが出来る。

谷崎のバラエティに富んだ初期の作品の中でも、とても好きな作品だ。

物語は、美食と女色を好む美食倶楽部の説明から始まる。

料理は藝術の一種であって、詩よりも音楽よりも、藝術的効果が最も著しいように感じている彼ら会員5名は、いずれも、美食を毎日のように食べているため、でぶでぶに肥え太り、三人までが糖尿病にかかっているが、死ぬまで食べることを止めることはないフォアグラ用のアヒルのような境遇にいた。

暇と金を持て余している彼らは、東京の目ぼしい料理屋はすべて征服してしまい、すっぽんが食べたくなれば京都へ、鯛茶漬けが食べたければ大阪へと遠征を重ねていたが、ついには日本料理も支那料理(中華料理)も食べ飽きてしまう。

そんな美食に飽きてしまった会員たちの中で、最も財力と無駄な時間を持ち合わせているG伯爵が、偶然、支那人たちが極秘裏に開いている宴会を知り、その中に潜入し、様々な形式の支那料理の様子を観察する機会を得る。

そして、そこから、インスピレーションを得たG伯爵は、驚くべき料理を会員たちに振る舞う。

例えば、「火腿白菜」。
まず、真っ暗な部屋に立たされた会員の顔や口元を涎が止まらなくなるほど、女性の手が撫でまわす。 そのうち、女の指が口の中に入るが、不思議と甘い塩気を含んだような味が広がり、やがて、それがハムの味であることに気づく。思わずその指を噛むと、潰された部分の肉は完全な白菜と化す。

「高麗女肉」 も強烈だ。
これは、仙女の装いをした女性が食卓の中央に運び込まれるが、実は天ぷらのころもを纏っており、会員は女肉の外に附いているころもだけを味わう。

物語の最後では、味わうでもなく、食うでもなく、「狂」った美食倶楽部のその後の美食の献立が八つほど紹介されているが、それを漢字四文字で読者に想像させるという仕掛けも面白い。

たとえば、 「咳唾玉液」 と 「紅焼唇肉」 なんかは妖しいイメージが湧いてきますね。

大正8年(1919年)の作品だが、 この頃の谷崎の創作活動は、第一期黄金時代と呼んでも差し支えないかもしれませんね。

2015年7月17日金曜日

7月16日 安保法案の衆議院強行採決と、新国立競技場のデザイン見直し

ニュースによると、安倍首相は今日、新国立競技場の建設計画の見直しを正式表明したそうだ。

数日前の国会審議では、

「もう時間的に見直す余裕はない」

と答弁していたのに、なんでなの?

と思ったら、どうやら、安倍政権は6月に入ってから、すでに新国立競技場の計画見直しを検討していたらしい。

最大の障害は、老害とはこういう人を言うのかと思わせる森 元首相

だったと思われるが、明らかに、この計画見直しを、政権支持率回復の道具として、発表の時期を伺っていたことが感じられる。

大体、今まで、新国立競技場の建設計画に関して、安倍首相は、自分が責任者であるというような発言を何もしてきていない。

誰が責任者か分からないと散々騒いでいたではないか。

それが、ここに来ての、俺の手柄だみたいな見直しの発表。
責任者なら、謝罪の一言もあってしかるべきだが何も無し。

しかも、16日衆議院で安保法案を強行採決した翌日だって。
笑っちゃうぐらい、見え見えなんだけど。

国会で、しらを切って嘘を言うあたりは、さすがに国会審議を軽視している首相という感じだけれど。

計画見直しは、常識的に考えれば、当然のことだ。
それを発表のタイミングをわざと遅らせて、憲法違反の法案の強行採決の尻拭いに使うとは、なんて、姑息な男だろう。

本当に、この安倍という男は信用ならない。

2015年7月16日木曜日

2015年7月16日 衆議院本会議

15日、集団的自衛権の行使を容認する安全保障関連法案を審議していた平和安全法制特別委員会において審議が打ち切られ、自民党と公明党の与党のみの採決で可決されてしまった。

明日の16日には、衆議院本会議で採決を行い、参議院に送る予定だという。

憲法学者の大多数が、元最高裁判事が、内閣法制局の歴代の長官らが、「違憲」と言っているこの法案を、

国民の大多数が反対の意思を表明しているこの法案を、

今、本当にこのタイミングで国会において承認するんですか?と率直に問いたい。

自民党および公明党の衆議院議員に。

胸に手を当ててよく考えてほしい。

国会議員は、立憲主義に則り、憲法を遵守して政治を行う義務があるのであって、憲法違反の法律を国会で承認することではないはずだ。

政治家の仕事とは、国民の意見をよく聴いて国民のために政治を行うのであって、アメリカのためとか、一総理大臣個人の信念や野望の成就のために政治を行うことではないはずだ。

日本は、すでに、大日本国憲法に定めていた「統帥権」を濫用したことで戦争に突き進んだ過去を持っている。

その苦い経験から、平和主義を掲げる今の日本国憲法を作ったはずである。

GHQ主導だったのかもしれないが、70年間、日本国民は日本国憲法の平和主義の理念を尊び、遵守してきた。
我々がその平和主義を誇りにしてきたのは、日本だけでなく、2回の世界大戦を経験した世界共通の理念だからだ。


つい最近まで何の疑念もたなかった、その憲法の理念を壊し、民主主義の根幹である立憲主義まで否定して、憲法違反の法律を成立させようというのか?

そして、血を流す戦争に突き進もうというのか?

私は、 自民党および公明党の衆議院議員に問いたい。

国会議員として、日本人として、本当に胸を張って、この法案に賛成できますか?と。

明日(すでに今日か)、どれだけ良識を持っていた“造反者”が出るか、そこに期待したい。

2015年7月14日火曜日

「憲法と戦争 - 日本はどこに向かうのか」/内田 樹

内田 樹さんのブログに載っていた「琉球新報」での講演内容に感銘を受けたので紹介したい。

http://blog.tatsuru.com/2015/07/13_1100.php

論点が多岐に及んでいるので、安保法制の問題だけに絞ると、以下の言葉が印象に残った(紙だったらカラーペンを引いている)。

 ・日本の三権分立が事実上、成立しておらず、とりわけ、立法府(国権の最高機関である国会)の威信が落ちている。そして、立法府の威信低下によって相対的に行政府(内閣)の威信がどんどん上がっている。

・重要法案の審議が十分であったかどうか、その指標が「審議時間」だけでしか測れない。
 今の日本人はもう数値化されたものでしかものごとの価値を判断できなくなっている。

・ 「戦争ができる国になって、アメリカのために自衛隊員が死ぬ」ことの代償として、安倍首相はアメリカから「日本が非民主的な国になる許可」を引き出すつもりでいる。
具体的には「東京裁判は間違っていた」と公言する権利、「ポツダム宣言は受け容れ難い」と公言する権利、「日本国憲法はアメリカの押しつけた醜悪な憲法 だ」と公言する権利、「日本国民には民主制も市民的自由も要らない」と公言する権利、それと引き替えなら「自衛隊員を差し出す」つもりでいる。

・ 自民党の改憲草案を読むと分かりますが、ここに描かれている国家像は近代市民革命以前のものです。

・現行憲法では99条に「公務員の憲法尊重擁護義務」が明記されています。「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」とある。自民党草案にはこれがないんです。代わりに国民に憲法尊重義務が課されている。
いずれ法律や条令によって、憲法尊重擁護義務に違背した国民を処罰する気でいる。その権限を確保するために、こんな条文を入れたのです。

・改憲草案の中で一番気になるのは第九章の「緊急事態」です。これは現行憲法には存在しない条文です。そこに仔細に記してあるのは、どういう条件で憲法を停 止できるかです。憲法を停止して、内閣総理大臣が全権を持つための条件を細かく規定している。間違いなく、この憲法草案の中で一番力を入れて書かれた部分がここです。

・よく読むと分かりますけれども、いったん緊急事態を宣言したら、運用上は未来永劫に内閣総理大臣が独裁権を行使し、立法権も司法権も全部停止できるように なっています。その期間は内閣の発令する政令が法律を代行する。完全な独裁体制です。

・これほどひどい草案を掲げて安倍政権は改憲に臨もうとしているわけですけれど、これに対してメディアはほとんど効果的な抵抗を組織できていない。NHKも讀賣、朝日、産経はもう御用新聞、政府広報化している。

2015年7月13日月曜日

柳湯の事件/谷崎 潤一郎

谷崎が大正7年(1918年)に書いた犯罪小説だが、彼の変態的な性癖(触感)が遺憾なく発揮された作品になっている。

物語は、作者が高名な弁護士の事務所を訪れていた際、一人の病的な青年が「今、人殺しをしてきたかもしれません」と告白するところから始まる。

油絵を描くことを職業としている青年には、 血統的に精神病の気があり、糖尿病も患っているが、駆け落ちした元藝者の女の淫奔と多情、我儘に悩まされ、ひどい神経衰弱に罹っている。彼は徐々に気が狂い、女を殺す寸前まで折檻するようになる。

ある日、青年は、立ち寄った銭湯で、不思議な体験をする。それは、湯船の下に、ヌラヌラした流動物の塊のようなものが漂っていることを、足の裏で感じる。そして、それを執拗に確かめていくと、彼が折檻した女の死骸であることに気づく。

汚い銭湯にありがちな風呂場のヌルヌルとした不気味な触感に快感を覚える青年が持つ、蒟蒻、心太、水飴、蛇、蛞蝓、太った女性の体、腐ったバナナ、洟水に対する愛着の念、そして、ヌラヌラとした女の死体の触感を足の裏で感じることに陶然とする青年を、いかにも谷崎らしく描いている。

物語の最後に、青年が犯した本当の犯罪の姿が明らかにされるが、その笑い話のようなオチが、さらに、この物語の毒々しさを増している。

2015年7月12日日曜日

小さな王國/谷崎 潤一郎

この小説では、彼の主題である美しい女性への崇拝という要素がなく、一見、異類な作品にも見えるが、人の愚かさを描いているという点では、谷崎らしい小説とも言えると思う。

子だくさんの貧乏な小学校教師 貝島が受け持つ教室に、沼倉という一見して卑しい顔立ちの貧乏そうな少年が転校してくる。

成績の悪い不良少年かと思いきや、成績も相応で、性格も温順、無口でむっつりと落ち着いた少年で、いつの間にか、クラスでも餓鬼大将的な地位を占めるようになる。

そのうち、貝島が授業中おしゃべりをしている沼倉を注意して立たせようとしたところ、クラスの全員が彼をかばい、懲罰を止めてしまう事件が起きるが、それは後に、沼倉が、自分の部下たちがどれだけ彼に忠実であるかを試験するために故意に起こした事件であるという事が分かる。

この沼倉という少年の描き方が面白い。

戦争ごっこをやらせると、威厳のある大将として少ない兵数でも勝ちを収めてしまう。
太閤秀吉になることを公言し、度量の広い、人なつかしいところがあり、自分の権力を濫用することもなく、逆に弱い者いじめをしている者に厳格な制裁を加える善政も行うため、人望も厚い。
「先生がこう言った」というより、「沼倉さんがこう言った」というほうが、生徒たちの胸には遥かに恐ろしくピリッと響く。

貝島は、この沼倉のクラスに対する統率力を巧妙に利用し、クラスの規律強化を図る。
その効果は目覚ましいものがあったが、その弊害として、沼倉の生徒たちへの管理体制が一段と強化されたことが、そのうち分かる。

生徒一人一人の素行点を着け、遅刻・欠席などを行った生徒に理由を申告させるとともに、嘘がないかを調べるために密偵を用意する。
また、腕力のある者を監督官に任命し、出席簿係り、運動場係り、遊戯係りといった様々な 役人を作り、大統領である沼倉を補佐する副大統領を設け、これらの副官、従卒ができる。裁判官もいる。よい行いをした者には勲章を授ける。やがて、沼倉が印を押した貨幣が流通し、市場が出来る…

そして、物語は、この小さな王国で、金に窮した貝島が、沼倉に貨幣を分けてもらい、自分の子供のミルクを購入するという不気味なシーンで終わる。

この作品で谷崎が提示した子供の王国は、一見すると、大人の社会を戯画化しただけのようにも見えるが、谷崎が何故こんな作品を書こうと思ったのか、その背景を考えると意外と面白いかもしれない。

谷崎は少年時代、「神童」と呼ばれるほどの頭脳の持ち主だった。彼から見れば、学校、特にそこで権威を振るう教師は、時に馬鹿にしたくなったり、首を傾げることも多い存在だったのではないだろうか?

力と智慧がある子どもは、愚かな大人(教師)よりも優れている、と彼が秘かに考えていたとしても不思議ではない。

そして、そんな彼の積年の思いを具現化した世界が、この小説なのかもしれない。

この作品も、大正7年(1918年)の作品だが、この頃の谷崎の小説は、バラエティに富んでいて読んでいて飽きない。

2015年7月11日土曜日

金と銀/谷崎 潤一郎

谷崎が大正7年(1918年)に、二人の画家の微妙な関係を描いた小説であるが、後半から犯罪小説に変化している。

青野は、人を騙し、借りた金を返さず、友人の物は盗み取り、性に関してはマゾヒストという不徳な男であるが、彼が描く絵画には天才がある。

一方、青野の友人である大川は、財産を有し、社会からも受け入れられる篤実な性格の持ち主で、秀才肌の画家であるが、青野の稀有な才能を誰よりも理解しており、彼を助けるパトロンのような役割を演じながら、その実、誰よりも深く彼の才能に嫉妬している。

そういう複雑な関係の二人だが、大川が、偶然、展覧会に出展する作品のモデルとしていた女性を、青野も同じくモデルにして、絵画を制作しようとしていたことを知る。そして、自分の絵と、青野の絵のどちらが優れたものになるかを知るために、女性に金を渡し、青野の絵のモデルになることを依頼する。

二人は絵画の制作を進めるが、大川は青野が描く作品の出来がどうなっているのかが気になり、ついに我慢できなくなって、青野に絵を見せてくれるよう懇願する。青野は金と引き換えに絵を見せるが、その藝術は大川の絵とは比較にならないほど優れていた。

絶望に突き落とされた大川は、ついに青野を殺す決意を持つ。

ここからは、 大川がいかに逮捕されることなく犯罪を犯すかということが描かれていて、文中、シャーロック・ホームズの「緋色の研究」に出てくる、ホームズが語る探偵の資格に必要な三要素(観察、智識、帰納法)も引用されている。

大川の殺人方法は、それ程、特異なものではないが、襲撃される青野の混乱した様子や、物語の結末は、やはり上手いと思う。

しかし、人物の描き方や二人の関係、物語の展開は、あまりにも映画「アマデウス」 のモーツアルトとサリエリの関係に、似ているような気がする。

年代的にいって、「金と銀の」方が先に作られているので、実は「アマデウス」 のネタ本だったと言われても、私は驚かない。

2015年7月8日水曜日

白晝鬼語/谷崎 潤一郎

作中、ポーの「黄金虫」や、ホームズとワトソンといった名前が出てきたりするので、明らかに、谷崎がこれらの作品の影響を受けて書いた推理小説ということが分かる。

ちなみに、この「白晝鬼語」は、1918年(大正7年)に発表されている。

江戸川乱歩が、最初の作品を書いたのが、1923年(大正12年)なので、日本の推理小説の黎明期に書かれた作品と言って間違いないだろう。

とはいえ、谷崎が書いているので、クオリティは高い。

日本の推理小説にありがちな、怪奇な要素とか、田舎や旧家の奇習とか、ごたごたした人物描写がなく、頭にすっと人物の様子とあらすじが入ってくる。なにより文章が読みやすい。

本当のところ、谷崎は、探偵小説を書きたかったのかもしれないが、まだ「探偵」という仕事じたい、当時の日本では認知されていなかったのかもしれない。

本書では、ホームズ役に、金持ちで暇を持てあまし、一人暮らしをしている精神病の気味がある男 園村を、ワトソン役に、園村の友人で常識的かつ若干臆病な作家 私が配置されている。

物語は、ある日、園村が、「今夜、東京の或る町で人殺しが行われる」と、私に連絡をしてくるところから始まる。

園村は、映画を観た際に、ある美しい女が男と交わしていた秘密の暗号文を拾い、ポーの「黄金虫」の知識で読み解き、その情報を入手する。その解読文は以下のとおりだ。

in the night of the death of Buddha, at the time of the Death of Diana, there is a scale in the north of Neptune, where it be committed by our hands.

仏陀の死する夜、ディアナの死する時、ネプチューンの北に一片の鱗あり、彼処に於いて其れは我々の手によって行われざるべからず。

ここから言ってしまうと、ネタバレになってしまうので止めておくが、日本の暦、東京の地名をうまく使っていたりして、推理小説としての創意工夫も感じられる。

しかし、いかにも谷崎らしいと感じるのは、コナン・ドイルが、ホームズが死を賭してモリアーティ教授と対決する物語を書いたのに対し、この物語では、園村が命の危険を感じながらも恐ろしい犯罪者である美女に魅了され、不用意に近づいていってしまうという愚かさを描いているところだろう。

そのせいで、日本における推理小説の先駆けのようなこの作品が、いきなり、反・推理小説のような様相を呈することになる。

谷崎にとっは、冷徹な推理のロジックより、美しい女性が犯す恐ろしい犯罪のスリルのほうが、よほど魅力的だったに違いない。

2015年7月7日火曜日

評価と贈与の経済学/内田樹 岡田斗氏夫

大江健三郎の「人生の親戚」で描かれていた、ゆるやかな他人との関係。

それを想っていたら、この本に書かれていたネットカフェの話を思い出した。

内田樹さんが、ネットカフェ難民の取材を受けたときに、「ここで一か月以上寝泊まりしている人がほかに30人います」という記事を読んで驚いたという。
なんであと3人に声かけて、「ねえ、一緒に部屋借りない?」って言えないんだろう。ネットカフェの利用料ってそのときで一日1500円なんだ。畳一枚ぐらいのスペースに月45000円払ってるわけですよ。ルームシェアする仲間をあと3人見つけて、4人で暮らせば、18万円でしょ。都内だって10万円もあれば、風呂付の部屋が借りられるよ。
そこに2段ベッドを2つ入れて4人で寝たほうが絶対いいですよね。
そうすれば住民票も手に入るし、病気になっても「薬買って来て」とか頼めるし、「面接あるからスーツ貸して」とかありなわけでしょ。
最初、読んだとき、あまりの正論に確かに!とは思ったものの、私には、こういう発想が出来なかった。

そんな私のような人間を含め、何の疑いもなくネットカフェに住み続けている人たちを、内田さんは、こんなふうに述べている。
 「他人に迷惑をかけたくない、他人に迷惑をかけられたくない、だからネットカフェでひとりで暮らす」というのが彼らにとっては「正解」なんだよね。どれほど生活上の不自由さに耐えても、「自己決定しているオレ」は正しい生き方をしていると思っているんだよ。これって、もろに1990年代以降の「自己決定・自己責任」イデオロギーの帰結だよ。発想そのものを切り替えないと。
まるで自分の心の中を言い当てられたような気がして、正直ドキッとしましたが、家族以外の他人を利用する相互扶助の生き方は、もっと必要になってくるだろうし、これからは当たり前のことになるんでしょうね。おそらく。

※この本、他にも、なるほどと気づかせてくれることが書いてあり、お薦めです。


2015年7月6日月曜日

人生の親戚 大江健三郎 /日本文学全集 22

正直、これほど、面白い作品とは思わなかった。

この物語で語られている「まり恵さん」の人生に圧倒された。

何より、大江健三郎の小説で、これだけ魅力的な中年女性を描いているということにショックを受けたのかもしれない。(はじめ、お婆さんの話だと思いこんでいた)

この小説は、主人公が知り合ったまり恵さんの半生をその死まで描いているのだが、彼女には、様々な苦難や過酷な試練が襲いかかる(それは本当に死ぬ間際まで続く)。

しかし、精神的にも肉体的にも打ちのめされながら、彼女はあっけらかんとした明るさと気丈さを失わない。

そして、まり恵さんが性的にも魅力的に描かれていて、セックスのエピソードが始終絶えないというところ(そこにはもっと深い意味があるのかもしれない)にも意外な印象を覚える。

「説教 性欲の処理」で述べられている女性の性欲についての、あまりにあっけらかんとした、まり恵さんの言葉が、かえってすがすがしい。

それと、もっと驚くのは、この小説が書かれたのが1989年ということだ。

この物語では、まり恵さんが様々に関わり合う他人との緩やかなつながり(コミュニティ)が描かれており、この小説のタイトルにもなっている「人生の親戚」は、それを暗示させるものになっている。

まり恵さんの生き方は、家族という枠組みを超えて、人々がこれからどう暮らしていけばよいのかということについて、ひとつのモデルケースを提示しているようにも読める。

そういう意味で、今読んでも、全く違和感がない。
(唯一あるとすれば、「まり恵さん」の強さだろうか。こんな強い女性が果たして現代にいるのだろうか。)

池澤夏樹が2000年を過ぎて書きはじめたテーマを、バブルがはじける前にすでに書いていたことを思うと、大江健三郎の視野は相当に遠いところを見定めているのかもしれない。

http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309728926/

2015年7月5日日曜日

狩猟で暮らしたわれらの先祖 大江健三郎 /日本文学全集 22

読み終わった後に、ざらっとした感触が残る物語だ。

そのざらっとした感触は、池澤夏樹が、この日本文学全集に多く取り上げている作品に共通している日本の前近代の匂いだ。

この物語では、「山の人」がその象徴だ。
ある日、突然、中流家庭が住む住宅街に、「山の人」の家族が現れる。

「山の人」たちは、四国の山奥で狩りをして暮らしていたが、戦時中、 脱走兵が森林地帯に逃げ込んだ際、国家意識が希薄な彼等が脱走兵を匿うことを予防するために、二十世帯の全家族が強制的に国民学校の校庭でのテント生活を強制される。

しかし、事件が解決した後、山林地主が結束して彼らの追い出しを図り、「山の人」たちは、森に戻れなくなり、日本中を流浪することになる。

主人公には、かつて校庭でテント生活をしていた「山の人」を嘲弄した記憶が残っており、精神病を患っている彼は、最初、自分に会いに彼らがこの街に来たのではないかと怯えるが、幼女を犬に噛まれたことを口実に所有者の土地に住みだした「山の人」たちと徐々に接触を交わしてゆく。

犬を食べたり、当たり屋のような事故を起こして指を失った暴力的な若者がいたり、もぐりの酒屋と売春宿を営んだり、深い竪穴を掘ったり。

そんな奇行を繰り返す 「山の人」たちに、主人公は惹かれ、やがては、トラブルを起こした街の人々から彼らを守るような立場まで引き受けるが、その関係も断絶するような事件が起きる…

真夜中、主人公が、「山の人」の長と焚火にあたりながら、ウイスキーを飲み、遠い昔に行われていた狩りの話をしながら、精神的な安定感を得る場面が印象に残った。

主人公が「山の人」に対して感じる憧れと安定感は、私には理解できる。
それは、「山の人」に象徴される前近代がかつてあったのに、そこから遠く離れ、決して戻ることはないことを私が感じているからだと思う。

2015年7月3日金曜日

人面疽 / 谷崎潤一郎

谷崎は、大正時代、娯楽小説と言ってもいいくらい、面白い小説をたくさん残している。その中には、探偵小説や怪奇小説も含まれていて、この「人面疽(じんめんそ)」もその一つだ。

物語は、アメリカ帰りの映画女優 歌川百合絵が、自分が主人公として出演しているという、ある不思議な映画が東京の場末の映画館で放映されているという噂を聞くところから始まる。

その映画は、日本語で「執念」、英語では「人間の顔を持った腫物(できもの)」 という題名で、百合絵が演じる菖蒲太夫という華魁が、彼女に恋い焦がれる乞食の青年を騙し死に追いやった後、膝頭に腫物ができて、そのうち人の顔のような形になり、やがて乞食の顔を生き写した「人面疽」になるという不気味な物語だ。この「人面疽」は、卑しく泣いたり、下卑に笑ったり、喜怒哀楽の表情をリアルに浮かべながら、彼女の運命を迫害してゆく。

菖蒲太夫は、この「人面疽」の存在を隠し通すが、ついに、夜会で彼女が踊っている満座の中、「人面疽」がガーゼを食い破り、長い舌を出し、目から鼻から血を流しながらゲラゲラと笑っている姿を暴露してしまう。
絶望した彼女はナイフを胸に突き刺し、死に至るが、「人面疽」は、なおも生きているらしく、笑い続ける場面で映画は終わる。

しかし、不思議なことに、百合絵には、この映画に出演したという記憶が全くない。彼女は、映画会社の外国映画に詳しい社員に、この映画について尋ねるが、その社員から、乞食役の男優が何者なのか全く分からないという話と、ある気味の悪い噂を聞く。
それは、この映画を夜遅く一人きりで見ていると恐ろしい出来事が起きるという噂だった…

というのが、「人面疽」の大体のあらすじである。

映像に怪奇が写っているという、我々にもなじみのあるホラー映画のあらすじのようでもあるが、この時代、すでに谷崎が発案していたことにまず驚く。

そして、谷崎の巧みなところは、読者に対し、映画業界特有の事情をもっともらしく説明し、百合絵が知らない間に、このような映画が作られてしまう可能性や、「人面疽」が特撮技術を用いて撮影された可能性もないことはないと思わせるところだ。

この物語を常識的に解釈する基準線を一本書いたことで、読者は、逆にその線の中にはおさまらない現象があることを認めざるを得ないことになり、恐怖を感じる。

谷崎は、「亡友」などでも取り上げていたが、人の肉体の醜い部分、例えば、下から見上げる鼻の穴だったり、腫物の存在を、嫌々そうで、その実、熱心に観察していた。

特に、赤い膿のような腫物は人の欲望が鬱積した現象であるかのように。
その谷崎特有の即物的な感覚と怪奇趣味が結びついたことで、 この傑作が出来上がったのだと思う。

2015年7月1日水曜日

「新聞つぶせ」発言にも「言論の自由」の恩恵はあるのか?

自民党議員の勉強会で、安倍首相と仲がいい百田尚樹氏が、沖縄二紙の新聞をつぶせと発言をし、世間から非難を浴びていることについて、

現 大阪府知事の松井一郎氏(維新の党顧問)が、「百田さんにも表現と言論の自由はある」と擁護し、さらに「ここぞとばかりに復讐だな。朝日(新聞)と毎日(新聞)は、百田さんの表現と言論の自由を奪っているのではないか。」と発言していたことが気になっていた。

http://www.asahi.com/articles/ASH6V728TH6VPTIL02K.html

気になっていたというのは、表現(報道)の自由を否定するような人間の発言も、表現の自由の恩恵を受けることが可能なのか?という漠然とした疑問だった。

第一、そんなことを言ってしまったら、権利侵害の発言は、ちっとも止まず、ますます、社会に害を及ぼすではないか?

この松井氏の発言に、知識人から真っ当な反論があったのかどうかしらないが、今日、たまたま、読んだ、内田樹さんのブログの内容は、これに対する有効な反論だと思うので紹介したい。

http://blog.tatsuru.com/2015/07/01_1542.php 
今問題になっているのは、「国民は長期的・集合的には必ずや適切な判断を下すだろう」という「国民の叡智」に対する信認の存否である。
いくつかの新聞を挙げて「つぶれた方がいい」と言った人間はその新聞の読者たちに向かって「おまえたちは新聞に騙されているから、間違った判断を下すだろう」と言っているのである。
「私が代わりに判断してやるから、お前たちは私が『読んでもよい』というものだけ読んでいればいい」と言っているのである。
この考えに深く同感。勉強会に出席した自民党議員の発言にも、上記のような驕りを感じる。

ちなみに、報道機関を「懲らしめる気はある」 と再び発言した大西議員に至っては、記者団とのやり取りの内容を読んだが、支離滅裂すぎて何を言っているのかが理解できない。

http://www.asahi.com/articles/ASH6Z5QFGH6ZUTFK00R.html

伝わってくるのは、「自分は悪くない! マスコミが悪い!!」ということだけである。

しかし、安倍首相と仲が良かったり、彼を熱心に応援する人って、なんで、こんな人たちばかりなんでしょうね?

安保ひとつとっても、作家で言えば、反対派には、大江健三郎さんや、瀬戸内寂聴さんなどの錚々たる顔ぶれが居て、賛成派は今回の百田氏ぐらいでしょう。


作品の品質だけでも格段の差があるのに、人間的な品格も雪と墨ほどの違いがある。

やっぱり、「類は友を呼ぶ」なんだろうか。