2013年12月30日月曜日

競売ナンバー49の叫び/トマス・ピンチョン

池澤夏樹の「世界文学を読みほどく」で紹介されていた一冊で、以前から読んでみたかったのだけれど、かろうじて最後までたどり着くことができた。

ページ数は決して多くない。中編というには短いかもしれない。しかし、読み進めていけばいくほど、迷路にはまっていく感覚が強まってくる。

物語のきっかけも、奇妙ではあるが、シンプルだ。
ある夏の午後、かつての恋人で、カリフォルニアの大富豪だったピアス・インヴェラリティから遺言執行人として指名されたことを知った主婦のエディパが主人公。

彼女は共同執行人の美男の弁護士メツガーと出会い、不倫する。
そこから少しずつ普通の現実が崩れはじめる。

まず、彼女が目にしたものは、夫からの手紙の封筒にスタンプされていた奇妙な言葉の政府の広告スタンプと、ピアスが創設した軍需企業と思われるヨーヨーダイン社の社員で構成される郵便配達員、トイレの落書きに書かれていた暗号めいたメッセージと奇妙な形のラッパの落書きだった。

そして、彼女に、国の独占事業である郵便制度とは別に裏の郵便制度があるのではないかという疑念が生まれ、その思いをますます強めるような出来事を目にする。

池澤夏樹の解説では、この物語を読み解くキーワードとして、二分されたアメリカの社会、パラノイア(妄想)、エントロピー(放っておくと事態は秩序から無秩序に向かう)という概念、レメディオス・バロ(Remedios Varo)の三枚の絵が挙げられている。

一読してもよく分かりませんでしたが、これらのキーワードを思いながら物語を読み進めると、少しずつ、その意図が分かってくる、そんな物語です。

タイトルの「競売ナンバー49の叫び」は、物語の最後に、ピアスの残した切手コレクションがナンバー49として競りにかけられる場面が出てくるのだが、そのときに値段を付けるための掛け声が「叫び」という意味をなしているらしい。

読み切ってはみたが、まだ意味が分からない部分が多過ぎて、何度も何度もページをめくってしまう。主人公エディパのように迷路にはまってしまうような怖さを覚える本だ。

2013年12月29日日曜日

参拝

西尾維新原作の「恋物語」では、ちょっと不気味な中年男 貝木泥舟が、神様となった中学生少女 千石撫子がいる北白蛇神社にお参りする。

彼の目的は、戦場ヶ原ひたぎの恋人である阿良々木暦と彼女自身を嫉妬から殺そうとする千石撫子を騙し、彼らの命を守ることにある。

見ていて面白かったのは、千石撫子を騙す際に、貝木が言った、願いを叶えたかったら、その願い事は決して人には喋ってはいけないという言葉だった。

もうすぐ初詣の時期だが、確かに神様に拝む行為には、そういう一面はあるかもしれない。
金儲け、合格祈願、健康、病気完治、幸運、恋愛、結婚、そういう様々な願望が頭の中にひしめいているけれど、ほとんどの人はその内容をあえて口にはしないのではないだろうか。


安倍首相の靖国神社参拝も、そういう意味で興味深い。

この件に関しては、中国、韓国のみならず、EUやロシア、同盟国のアメリカにまで批判されて四面楚歌の状態にある安倍首相ではあるが、こうなることは彼自身も十分に予測していたはずのことだと思われる。

彼が心中ひそかに期した思いは、案外、マスコミに語った、諸外国への言い訳めいた当たり障りのない内容とはかけ離れたものだったのかもしれない。

2013年12月25日水曜日

ポール・ウェラーのCM

アイススケートのテレビ中継を見ていたら、なんと、ポール・ウェラーのCMではないか!
(ちなみに、DAKSとは、イギリスのファッションブランドらしい)



ちょっと、ポール・ウェラーの老け方に驚きつつも、そばに映っているきれいな女性も気になったので調べたら、なんと、リア・ウェラーという二十二歳の娘であることが分かった。

しかも、スタイル・カウンシル時代にボーカルをしていたDee C Leeとの間の娘さんらしく、かつてのスタイル・カウンシルの一ファンとしては非常に感慨深かった。


でも、やはり、歌がいいですね。

You do something to me
Something deep inside…

2013年12月24日火曜日

難民探偵/西尾維新

この本を読んだのは、勿論、猫物語(白)の原作者が西尾維新だからである。

この歳でライトノベル?と、いつも、書店の一角を占める西尾維新のコーナーを遠巻きに見ながら、近寄るまいと心に誓いながらも、正反対に、Tokyo mx テレビの『傾物語』、『恋物語』をついつい見てしまう自分。

『傾物語』はあまり興味が引かれず、やはり『猫物語(白)』が特別だったのかという気持ちに一時期、落ち着いたが、戦場ヶ原ひたぎと貝木泥舟の奇妙な関係を描いた『恋物語』を見てからというものの、やはり、その独特の世界観に惹かれてしまった。

ということで、これは一度、原作者の本を読んでみようと思い立ち、見ているアニメ「物語シリーズ」とはまったく関係がない小説を図書館で借りたのがこの本だった。

まず、ぱらぱらと開いて安堵したのは、読み手をひきつける表現は別として、わりとしっかりした文章が書かれているということだった。
赤川次郎みたいな文章だったら、たぶん読む気をなくしていたと思う。

ストーリーは、こんな感じ。

主人公の窓居証子(まどいしょうこ)という就職活動に失敗した女の子が、生活難から住むところもなくし、金持ちの作家の叔父 窓居京樹(きょうき)の家に、秘書兼雑用係みたいな役割で居候することになる。
この叔父の京樹は携帯電話を持つが(自分では電話・メールを受けない)、ネット社会には無縁の変わり者で、豪勢な武家屋敷に住み、狭い茶室を仕事場にして、リラックスするという理由からDVDを見ながら作品を書いている。また、お金にも鷹揚で、証子に月30万円の手当てをあげようとしたり、キャッシングをすると、自動的に寄付する仕組みのクレジットカードを使っている。

その叔父の携帯電話の電話番をしている証子は、ある日、京都府警からの電話を取り次ぐことになる。用件は、叔父の友人である根深陽義(ねぶかようぎ)という人物の身柄引取り。
この根深陽義は、五年前に警察を退職した優秀な警視だったが、今はネットカフェ難民でその日暮らしの探偵をしているという、やはり変わり者。
そして、彼が警察に保護されたのは、ある殺人事件を通報したからなのだが、根深が巻き込まれてしまったこの事件に、証子も巻き込まれてしまい、事件の解明に迫っていくというミステリ仕立てになっている。

一気に読むことはできたが、感想はというと、まあまあというところだろうか。
たぶん、西尾維新という作家でなければ、途中で読む気をなくしたかもしれない。

不満な点を挙げると、人物の描き方が平板だということ。
証子も、京樹も、陽義も個性的なキャラクターなのだが、あのアニメと違って今ひとつビジュアルに迫ってこない。個性的なくせに意外に言っていることがマトモすぎるということもあるかもしれない。そのせいか、物語の最後まで感情移入しずらかった。

それと、ミステリの重要なポイントである事件の真相が地味でオーソドックスなものだったということと、これまたミステリ特有の男女関係的なものが一切排除されているということだ。

証子は出会う男たちに対して、女性としての感想を述べない(オジサンが多いからかもしれないが)。彼女は、ちょうど会社に来たインターンのように社会見学的な感想を述べるのだが、これも意外に言っていることがマトモすぎる。
また、証子に出会う男たちも、証子に対して女性的な魅力を求めない。そのせいか、読者も証子に対して魅力をそれ程感じないことになってしまう、ということではないだろうか。

改めて思ったのが、今、アニメで見ている「物語シリーズ」の魅力である。
アニメ(映像)の力は、やはり大きかったのかもしれない。

インターネットで調べると、アニメの監督の新房 昭之氏は、市川崑監督の影響を受けているようなことが書かれていたが、私などは、『猫物語(白)』と『恋物語』には、鈴木清順監督の作品やリドリー・スコット監督の「ブレード・ランナー」の美意識を随所に感じていた。

この美意識と、オタクっぽい美少女キャラが、どことなく、しかめつらしい意外にマトモなことを言うモノトーンの西尾維新の物語に化学反応した結果の魅力なのかもしれない。

もっとも、私がたまたま選んだ「難民探偵」が、西尾維新の作品のなかで、それ程の出来ではなかったのかもしれないが。

2013年12月15日日曜日

緑の影、白い鯨/レイ・ブラッドベリ

どこか幻想的な題名に惹かれて読んだ本だったが、全く予想に反した内容だった。

『華氏451度』で有名なSF作家であるレイ・ブラッドベリが、三十代の頃に、映画監督のジョン・ヒューストンから、彼が映画化するメルヴィルの「白鯨」の脚本化を依頼され、アイルランドで半年間、仕事をしたときの実話に基づいた作品だ。

当時、赤狩りが席巻していたアメリカを嫌い、アイルランドに移住していたジョン・ヒューストンは、知的な一面もありながら、酒と女とギャンブル、馬と狩りを好むマッチョな映画監督だった。

一方、レイ・ブラッドベリはイリノイ州の田舎町に生まれた生真面目な青年。
以下の写真(前者が右、後者が左)が、いかにも二人の雰囲気を表している。



才能はあるけれど、周りへの配慮はほとんどない。自分の思いつきで行動し、周りの人も巻き込み翻弄し、時には深い考えもなく人を傷つける言葉を吐く。(作品中、ブラッドベリも何度かその被害にあう)

そういう人が雇い主の下、難解な「白鯨」(完読率が極端に低い本らしい。私も読み切れていません)を脚本にするという難事業。

そんなブラッドベリの慰めになったのは、アイリッシュパブの酒と音楽を愛する常連のアイルランドの人々だったらしい。

しかし、そんなlittle helpがあったとしても、1年のうち329日も雨が降るという陰鬱な気候で、日曜の午後の過ごし方も途方にくれるという退屈なアイルランドのダブリンの片田舎で、何のロマンスもなく、半年間よくぞ耐えて仕事を完成させたね、ブラッドベリさん!というのが、読んだ率直な印象だ。

作中、一番面白かったのが、ジョン・ヒューストンの悪行の数々、そして、それに翻弄される彼の妻やブラッドベリの描写ということを思うと、ブラッドベリには、もともと、そういったことも楽しめる、ある種のマゾっぽい感覚があったのかもしれない。

物語の最後のほうで、ブラッドベリが、パブの人に「いつかは戻ってくるかね?」と聞かれ、はっきりと否定したように、彼は二度とアイルランドの土地は踏まなかったのではないだろうか。

そして、その気持ちはとてもよく分かる。
(映画の脚本家の仕事も、これ以降、引き受けなかったらしい)

2013年12月14日土曜日

彼方へ/丸谷才一

丸谷才一が1961年2月に書き上げた中編小説。

年代的には、最初の長編小説 『エホバの顔を避けて』 と、次の長編小説 『笹まくら』の間に位置することになる。

丸谷氏の作品に、このような小説が存在していたことは知らなかったので、興味本位で買ってみた。

物語は、1960年10月21日の夜、会社のタイピスト(もはや死語か)として勤める二十六歳の女性の一人きりの夜の部屋でふける物思いからはじまり、不倫関係にある四十三歳の会社重役の男、大久保の応接間の風景に移り、将来に不安を持つ新劇(これも死語か)俳優の子供も妻もいる三十五歳の弟がいて、所属する劇団では人間関係に苦労しながらも、コメディアンの夫を持つ女優との密会を楽しんでいる…という具合に物語が、二人の大久保兄弟を中心に少しずつ広がり交互に話が進んでいく。

ここまでは、ちょっと好色の中年の兄弟のごく普通の物語だが、物語の冒頭、タイピストの女性が大久保に語った死後の話から生じた死への恐怖が常にこの物語の中心にある。

この死後の話というのが、ある意味、的外れではないかというぐらい奇妙で、不気味な考え方なのだが、どこかに老いを感じはじめていた二人の兄弟は穴に落ちていくように、その死の呪縛に自ら陥っていく。

物語は、1960年12月2日、兄は死んだ友人の四十九日(正確には四十三日)の法要の帰りに代議士の友人と寄ったクラブで起こった事件で、弟は所属する劇団が演じるチェーホフの「ワーニャ伯父さん」の公演が終わりひとくぎりついたところで、意外な展開を迎える。

大久保兄弟は、兄には『笹まくら』の浜田、『たった一人の反乱』の馬渕の面影があるし、弟には、同じく『たった一人の反乱』の貝塚の面影がある。

また、死の恐怖という呪術的なところでは、『横しぐれ』、『樹影譚』につながるところもあり、丸谷氏の代表的な作品につながっていくプロトタイプのような作品ともいえる非常に興味深い小説だ。

2013年12月12日木曜日

ドライブ・マイ・カー/イエスタディ/村上春樹

どういうつもりで、ビートルズの曲を題名にした短編を連作しているのだろうと思ったが、考えてみれば、村上春樹には、すでに「ノルウェイの森」という代表作がある。

「ドライブ・マイ・カー」は立ち読みで、「イエスタディ」は文藝春秋を買って読んでみた。

「ドライブ・マイ・カー」は、女優の妻を病気で失った初老の俳優が、自分の愛車を運転することになった一風変わった若い女性運転手に心を開き、妻が生前浮気していたこと、そして、なぜ妻は、その男に惹かれたのかを知るために、その男と友達になり、執拗にその理由を探ったことを告白する物語。

読んだ当初は、そうでもなかったのだが、未だに物語のアウトラインや登場人物が、ざらりと記憶に残っている。

妻に対する執着というか、自分の愛したもの(愛車のサーブもそう)に対する強い執着と、それを他人に扱わせたとき(ドライブ・マイ・カーはまさに比喩)の男の奇妙な厳しさが印象に残った作品。

「イエスタディ」は、完璧な関西弁をしゃべる、生まれも育ちも東京都田園調布の浪人生と、ほぼ完璧な標準語をしゃべる神戸の芦屋で育った大学生の僕が友達になり、複雑な理由で僕と浪人生の彼女がデートをすることで三人の関係が変わってしまったという物語。

真実は見えているのに、人はふとしたことで終わりない回り道をしてしまうという、ちょっと悲しい物語だ。

浪人生が付けた「イエスタディ」の関西弁の詩が何となく哀愁を誘う。

昨日は
あしたのおとといで
おとといのあしたや
それはまあ
しゃあないよなあ

村上春樹の短編は、やはり上手い。
次回作も期待したい。

2013年12月2日月曜日

特定秘密保護法案に思う

多くの国民が、国民の知る権利の阻害、人権侵害の恐れという懸念を抱いているこの法案。

自民党の石破幹事長が、国会前の特定秘密保護法案に反対するデモ活動について、「単なる絶叫戦術はテロ行為と本質においてあまり変わらない」という驚くべきコメントを、自分のブログに書いたらしい(今日訂正したようだが)。

ナチス憲法発言の麻生副総理と言い、自民党の主要なポストにいる政治家は、どうも、国民に自分たちの政策を批判されたり、騒がれたりするのが嫌いらしい。

そんな人たちが、この法律を運用したら、自分たちに都合の悪い事実を次から次へと特定秘密に指定していくのではないのか?
国民の懸念はまさにそこにあるのだ。

それにしても、思わず本音が出てしまったのかもしれないが、民主主義を象徴するようなデモ活動をテロ行為とは。
中国ですら、そんな発言をする政治家はいないのではないだろうか。

こんな信頼できない政治家たちで、こんな法律を制定しようと急ぐことに賛成するほうがどうかしている。

2013年12月1日日曜日

NHKスペシャル 汚染水~福島第一原発 危機の真相~

こと、原発問題に関して、NHKスペシャルの取材・調査能力は非常に高い。

いまだ解決していない福島第一原子力発電所の「汚染水」問題に関して、何が問題なのかがよく分かった。

そもそも、「汚染水」というものがどこから生まれるのか。
「汚染水」は、いまだ熱を持っている核燃料棒を冷やすために格納容器に注がれている。
核燃料に触れた水は「汚染水」となる。
本来なら格納容器に溜まるはずの水が、破損箇所から漏れ出し、外へと流れ出し、地下水と混じり、海へと流れていく。

どこが破損箇所なのかを突きとめるため、カメラを積んだ小型ボートが格納容器近くを撮影したところ、滝のように流れ出している汚染水が撮影された。

破損箇所も一部見つかった(しかし、他にも破損箇所がある可能性もある)が、一箇所はサンドクッションドレン管という、結露の水分を流すためのものなのだが、そこから勢いよく水が漏れ出している。その部分はパイプの付け根付近なのだが、どこが破損しているかを見定めるためには、5cmほどの隙間から見るしかないという(現場は2シーベルトという人間が3時間いれば死に至るという高い放射能)。

専門家の意見では、ロボットの開発にかかっているというが、その間にも1日400トンもの汚染水が生まれている。すでに汚染水を入れるタンクは1000基に達している(しかも、そこからも水漏れしている)。そして、汚染水からは、トリチウムは20年間、セシウムは40~50年は出続けるだろうとのこと。

もうひとつの問題は、破損箇所から漏れた「汚染水」がどこから、外に漏れて地下水と混じってしまうのか、場所を突きとめられずにいること。
疑われていたトレンチをコンクリートで固めても、湾内のセシウム137の濃度は、一時期、下がったものの、いまだ下がらず、国の基準を超える時期もあるという。
建屋にも破損箇所があり、そこから漏れている可能性もあるのだが、地下水より建屋の汚染水の水位を低くするという対策では十分ではなかったようだ。

さらに、海への流出を防ごうと地下で固る水ガラスを海岸沿いに流し込んだが、これでも、湾内のセシウム濃度は下がらなかった。原因は、弧を描くように複雑な動きをする地下水の流れにあるらしい。

もっと怖いのは、現在多く検出されているトリチウムの次に、セシウム、ストロンチウムが、これから遅れて流れてくるという事実があるらしい。つまり、汚染はこれから拡大していくのだ。

国もようやく本腰を入れ、1号機から4号機までを地下水路よりさらに深く、凍土壁を埋め込み、汚染水の流出を防ごうというプロジェクトを始めたらしい。
しかし、まだ、試験段階のようで、仮に上手くいったとしても開始してから完成するまで1年はかかるということらしい。

この途方もない作業を、日々年間被爆量と戦いながら作業者3000人のうち約半数は、地元福島の人だという。本当に現場で働く人たちの健闘を讃えたい。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1201/index.html

汚染水は完全にコントロールされていると誰かが言ったような気もするが、そんなたやすいことではないという事実をよく分からせてくれた番組だった。

2013年11月24日日曜日

福島第一原発観光地化計画/思想地図β-vol-4-2-東浩紀

福島第一原発の事故現場の跡地と周辺地域を観光地化しようという提言がまとめられた本で、このブログで以前紹介した「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」の姉妹本に当たる。


本の冒頭に、「福島第一原発の観光地化、どう思う」について、Yahoo Japanの「ニュース意識調査」の結果が載っていて、以下のような結果だったという。

観光地化して風化を防ぐべき が29.9%
観光地化はそぐわない      が64.9%
どちらともいえない/わからないが 5.2%

正直、もう少し、賛成の声が大きいかなと思っていたが、やはり時期尚早であることと、「観光」という言葉に、被災地・被災者を見世物にすることへの抵抗感と軽薄感を感じた人が多かったのではないかと思う。

実際、この本でも冒頭で、製作者たちが「福島第一原発観光地化」というタイトルを発表したときに、かなりの批判、反発を浴びたことが書かれている。

そして、その反論として、製作者代表の東浩紀氏は、原発事故という暗いイメージが付いてしまった「フクシマ」のイメージの払拭を図ること、事故をめぐる人々の記憶と関心、遺構の風化を防ぐために、事故後2年という時点だけれど少しでも早くそれらを図るために観光地化を提言したのだということを説明している。

本書では、現在の被災地の状況、2020年(東京オリンピック)までの姿、2035年(事故後25年後)までの姿について、Jヴィレッジ跡地を、巨大なビジターセンターにし、東北観光の拠点にするなどのアイデアが説明されている。

読んだ印象としては、すでに現実に実施されている「チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド」とは異なり、やはりまだ現実感が感じられない部分は正直あった。
やはり、地元の福島の人がこの計画を策定していない点や、汚染水問題も解決していない今ではリアリティが感じられないところが原因だろうか。

本書で強く印象に残ったのは、現在の被災地の状況、富岡町(破壊されたパトカー)、双葉町(「原子力明るい未来のエネルギーの看板」)、浪江町(小学校前の光景)などの写真と、多摩大学大学院教授 田坂広志氏の記事だった。特に以下の部分。
我が国には、あの事故から深く学ぶことをせず、原子力行政と原子力産業の抜本的な改革をせず、ただ原発再稼動に突き進む人々がいます。そのことを考えると、福島事故は決して風化させるべきではないでしょう。
原子力の問題の本質は、究極、高レベル放射性廃棄物の最終処分の問題なのです。福島第一原発の事故は、その最も本質的な問題を白日の下に曝したのです。
私が最も懸念するのは、国民の中に「エネルギー需要を考えたら、原発を稼動させることしかない。事故はあったが、もう原発は事故を起こさないだろう。放射性廃棄物も、どこか捨てるところが見つかるだろう」という根拠の無い楽観的気分が広がることです。それは原発の抱える本質的問題を未来の世代に先送りすることであり、未来の世代に対する無責任であることに気づくべきでしょう。
この記事を読めただけでも、この本は買う価値はあると思う。

アベノミクスという浮揚感にのせられ、福島原発事故の記憶も風化し、経済発展のためには原発の再稼動が必要という雰囲気になりつつある現状が怖い。

私が、この観光地化計画に物足りなさを感じたもう一つの理由は、”脱原発”という重要なテーマに全く触れずに「原発事故博物館」などが提案されていることに違和感を感じたのかもしれない。

2013年11月20日水曜日

箴言/オルテガ

考えが濁ったときに、その考えにぴったりの古人の箴言を読むと、頭にかかっていた霧がきれいに晴れていくような感覚を感じることがある。
私とは、私と私の環境である。
私がもし私の環境を救わなければ、私自身は救われないことになる。
/オルテガ・イ・ガセット
地球温暖化に象徴される環境問題にも当てはまるし、身近な人間関係にも言えることかもしれない。

2013年10月30日水曜日

猫物語(白) つばさタイガー その3

しかし、第1話の出だしは見事だ。

「羽川 翼トイフ私ノ物語ヲ、シカシ私ハ語ルコトガデキナイ」

という独特の否定から始まる導入部分は、この物語を小説の一文のようにきれいに要約している主人公の独白と、家の廊下に敷いたふとんで寝ている主人公をロボット掃除機のルンバが接触して目覚めさせるという不思議な光景で構成されていていきなり目が離せない。

インターネットで検索すると、この猫物語(白)は、西尾維新によるライトノベルシリーズの物語の中の一つをアニメ化したものらしく、登場人物の人間関係、物語の時系列が複雑に絡んでいるようであるが、そういった前提を知らなくても、この物語は楽しめるレベルになっている。

私が思う優れた物語というのは、読んだり観たりしたあとに読者や観客の心に留まってしばらく一緒に生活するような物語だ。

例えば、日常、自分が見る景色や行動の裏に、ふっとその物語がイメージとしてよみがえってくる感覚がしばらく続く。

自分でも意外だったのは、この猫物語(白)が自分の心に居残っていた物語「風立ちぬ」を追い出して居座ってしまったことだ。

明らかに男性用に強調された主人公の体のライン、下着姿、擬似レズ、ロリコン、科を作る表情、不必要な下半身の描写、ペダンチックな長台詞…。

欠点を挙げようと思えば、いくらでも出てきそうな感じだが、それでもこの作品にはそういった悪い印象を突破してしまう魅力がある。

その魅力が何なのか整理できない状態が続いている。

「猫物語(白)トイフ物語ヲ、シカシ私ハ語ルコトガデキナイ」

というところか。

主人公の苦悩が若干わかった気がした。

2013年10月26日土曜日

猫物語(白) つばさタイガー その2

何故か、このアニメには強く惹きつけられ、5話まで見てしまった。

絵も独特だし、カット割りも斬新。

特に人気のない家の中(掃除機ルンバだけが動いている)、街の風景(少女にとって意味のないものはその存在が無視され消されてしまっているかのようだ)が印象的だった。

音楽もいい。

しかも内容が深い。

羽川翼という少女が、自分の心に潜んでいた暗い部分の感情に向き合い、語りかけ、対決しようとする、ある意味、ものすごくシリアスな物語だ。

自分の心の問題は結局自分でしか解決できないという真理は、人は分かっていてもなかなか出来ないというのが現実だろう。

まして、自分でもコントロールできないくらい大きな虎(心の闇)を産んでしまった少女のような複雑な家庭の境遇というものは、私にはその悲しみは想像しか出来ない。

そんな彼女が心を静めてダークサイドの自分に対して手紙を書くという行為はそうそう出来るものではなく、それを真っ向から物語のラスト部分にすえたところに、このアニメの凄さはあるのだと思う。

"俗から聖へ" エリアーデの言葉を久々に思い出しました。

ちなみに、テレビでも近々放映予定のようです。
http://www.monogatari-series.com/2ndseason/news/index.html

<「猫物語(白)」特別一挙放送概要>

【実施日時・実施局】
TOKYO MX:  10月27日(日)26:30~28:30
BS11:           11月  6日(水)22:00~24:00

2013年10月25日金曜日

猫物語(白) つばさタイガー

第壱話
http://www.anitube.se/video/61734/Monogatari-Series-Second-Season-01

怪しい画面が立ち上がり、中央の四角が消えるまで時間がかかるが、再生ボタンを押すとアニメが見られる。

何だろう、この月面にいるかのような空気の薄さ、真空的な軽さは。
そして、主人公の孤独。

人の気配がない家と街と学校。
戦場ヶ原という長い台詞を話す女友達だけが唯一温かい。

5話あって、まだ3話しか見ていないが久々に夜更かしをしてしまった。

第弐話
http://www.nosub.tv/watch/61555.html

第参話
http://www.nosub.tv/watch/62709.html

第肆話
http://www.nosub.tv/watch/63843.html

第伍話
http://www.nosub.tv/watch/65038.html

2013年10月20日日曜日

東京五輪に思う/山崎正和

今日の読売新聞朝刊の1面に載っていた山崎正和氏の「東京五輪に思う」は、色々と考えさせられるところがあった。

まず、山崎氏は東京オリンピックの開催に関し、以下のように述べている。
2020年だから7年先の話だが、これは遠いような近いような未来である。世の中、めったに将来の予定は立たないものだが、この決定は珍しく日本人に今後の日程について考える機会を与えた。
7年後の自分が何歳で何をしているか、日本と世界はどうなっているか、どうしなけれればならないかを考えさせる。
東京オリンピックの開催が決定したときに、後半のセンテンスにあるような思いが去来したのは、私だけでないだろう。

続けて、山崎氏はその7年間の政治的課題として、福島第一原発の汚染水漏れ対策、廃炉計画の精度、東日本大震災の被災者に対する保障と復興、強い経済と財政健全化を挙げ、今後の7年間、約束実現の責任と権限を安倍政権に委ねてもよいのではないかという考えを述べている。

その一方で、半世紀前の1964年の東京五輪を振り返り、
日本人はこれで第二次世界大戦の戦後が終わり、国際社会への復帰が許されたと信じて欣喜したことを思い出すからである。
じっさい戦後の日本社会の絶望は深く、とりわけ世界から疎外され孤立しているという劣等感は痛切だった。
とりわけ昭和天皇が開会の宣言をされ、その前を各国選手団が行進する光景は、東京裁判の汚辱が拭われ、戦争を起こした罪が赦免された象徴的な儀式のように見えたものだった。しかしあの喜びが記憶に刻まれている者には、それだけに昨今のアジアの国際環境が気にかかり、あの安堵は錯覚ではなかったかという懸念がよぎるのである。
懸念されるのはほかでもなく、中国と韓国が叫ぶ「歴史問題」であり、それを掲げて中韓両国が連携を始めた形勢である。 
と述べている。 ちょうど、半藤一利の「昭和史」を戦後編も含め、読み終わったところだったので、これからの日本はどうなるのかということを思ったときに、真っ先に懸念として浮かんだのが、中国と韓国との関係だったので、非常に興味深かった。

連合軍が東京裁判で行った戦争犯罪人としての日本の政府・軍部関係者に対する判決は、戦争中、日本がアジアや世界の国々にやってきたことはすべて侵略戦争であり、残虐行為であるという、客観的に見れば一方的なものだったが、日本はその裁きを受け入れた。

しかし、山崎氏がいうとおり、中国と韓国がいう「歴史問題」とは、日本の第二次世界大戦における戦争犯罪の道義的責任のことで、これに関しては外交上の講和はあり得ないという厳しい姿勢だろう。

靖国神社に日本の政府関係者が参拝する際、「英霊に哀悼の誠を捧げる」とよく言うが、明らかに中国と韓国は、東京裁判で裁かれたA級戦犯が合祀されている事実をもって、戦争犯罪人に対しての哀悼と解釈し、日本は全く戦争犯罪の責任を反省していないと見ているのだろう。
また、山崎氏が苦言を呈している政治家の軽率な「着想と発言」がこのような印象を煽っていることも事実だと思う。

少なくとも、今後7年間というときに、尖閣諸島や竹島という領土問題に関しては、両国の妥協を得られるという現実味はかなり薄い。
だとすれば、日本が中国と韓国との関係改善を進めるための最初の努力としては、靖国神社の参拝自粛(戦犯合祀の見直し、戦争責任の再検証をするのであれば別)と、政治家の国益を損なうような失言をなくすことしかないのではないか?

今朝も、古屋国家公安委員長が靖国神社に参拝し、「近隣諸国を刺激しようなどという意図は全くない。英霊にどのような形で追悼の誠を示すかは、専らその国民が考えるべき国内問題だ」というコメントを出していたが、この理屈で中国と韓国が「確かにそうですね」と納得するはずもない。

中国と韓国がいう「歴史問題」に関して、日本の国会議員のこういった、通り一遍の態度が続く限り、中国・韓国との関係が改善の方向に進むことはないだろう。

山崎氏がいうとおり、7年後、アメリカからの庇護も薄れ、東アジアで日本が孤立し、中韓が東京オリンピックをボイコットするという事態が最悪のシナリオだろう。

この記事を読んで、憲法改正の問題も含め、7年後、日本はどうあるべきなのか、日本と世界はどうなっているかを、国全体で真剣に考えるべき重要な7年間が来ているという思いがした。

2013年10月15日火曜日

別れの挨拶/丸谷才一

集英社の編集者が、丸谷才一の死後、残された書評、エッセイ、挨拶の文章などをとりまとめた一冊だが、丸谷才一の今までの仕事が一望できる集大成的な内容になっている。

愛読者からすると、「そうそう、こういうテーマ、人物が好きだったよな」とか、「こういう切り口で自分の考え方を膨らませていく人だったよな」とか、「中身が詰まっている挨拶だな」とか、懐かしく思うところが多い。

小説における王族の扱いに関して、ジョイスのユリシーズ

日本の自然主義小説に関して、ヨーロッパの十八世紀と十九世の比較

石川淳に関して、永井荷風の古典主義

吉田健一の趣味、文章に関しての肯定、河上徹太郎との関係

戦後の日本人に関して、大岡昇平の「野火」の引用

吉行淳之介、和田誠、辻静雄に関して

小林秀雄の批評に関する批判

谷崎潤一郎の中編小説に関する考察

そして、王朝和歌への興味

歴史的仮名づかいに代表される国語改革への批判、日本語への興味

吉田秀和に代表される音楽への興味

そして、読者に読ませたいと思わせる充実した書評

最後に、手本となるような数々の挨拶

329ページ程度のボリュームなのに、これだけ幅広いテーマで内容が濃い文章を書けたのは、やはり、丸谷才一ぐらいかなと思ってしまう。

読後、印象に残ったものとしては、

芥川龍之介の早すぎた死を優しく正当化した「完璧なマイナー・ポエット」

吉田健一の飲食(今でいうグルメ?)に関するエッセイを取り上げた「幸福の文学」

平成の年号を論じた「タヒラナリ」

文化勲章を受けて、天皇にお礼を述べる文章(宮内庁作成)を添削したエピソード「御礼言上書を書き直す」

小澤征爾×村上春樹 「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の書評

氏の実質最初の小説「笹まくら」が発表当時、あまり反響がなくがっかりしたけれど、後年、村上春樹や池澤夏樹が、この作品の意義を述べていて嬉しかったというエピソードがある「未来の文学を創る」など。

どれも興味深い。

改めて思ったのは、丸谷才一という小説家兼批評家のおかげで、西洋文学、また、日本の古典文学との関係性のなかで、日本文学というものの位置づけがずいぶんと明確になったということ、また、次世代の日本を代表する作家たち(村上春樹や池澤夏樹)に色々な影響を与えたこと、分かりやすい美しい日本語で、一般読者の文学への関心と受け皿の容量を大きく引き上げたということだ。

そして、一言でいえば暗いじめじめした印象の日本文学の主流を、明るい理知的なものに方向転換させてしまったキーマンだったのでは。

2013年10月14日月曜日

昭和史 1926⇒1945/半藤一利

「風立ちぬ」(宮崎 駿監督)を見てあらためて昭和史(太平洋戦争に日本が突き進んだ経緯)に興味を持った。

振り返ってみると、昭和史というのは現在の日本の国としての骨格が成立するきっかけとなった時代であり、現在の日本が抱えている諸問題の多くの原因がこの時代の出来事にあるというにもかかわらず、いわゆる義務教育において、相当の時間をかけて丁寧に教わった記憶がない。

言うなれば、現代史は、古代・近代史の「つけたし」みたいなもので、授業も、現代に入ってからは、チョチョンと終わってしまったような記憶が残っている(約三十年前のことだから、今の義務教育は違うのかもしれない)。

恥ずかしながらいうと、昭和史(というか、太平洋戦争史)に関しては、斜め読みで終わっている作品が多い。
大岡昇平の「レイテ戦記」、「失敗の本質―日本軍の組織論的研究」、中村 稔の「私の昭和史」 なんかは、全文を読みきれないでいる。

完読できたのは主なところで言うと、ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」、大岡昇平の「俘虜記」「野火」、司馬遼太郎の「昭和という国家」その他、断片的に書かれた文章と、水木しげるのコミック「昭和史」ぐらいか(長谷川町子の「サザエさんうちあけばなし」も戦争に関する記述などは、妙に記憶に残っている)。

言い訳がましいが、太平洋戦争における戦前から敗戦に至る日本の歴史というのは、どうにも気分が悪くなるところが多い。その一番の理由は、日本がこんな愚かな戦争をした原因は、結局のところ、誰のどんな行為にあるのかということが説明しづらいところだ。

明治憲法の統帥権を悪用した参謀本部(軍司令部)なのか、あるいは次々とまずい国策・外交を行った歴代の総理大臣や外務大臣その他大臣が悪かったのか、無能な軍上層部なのか、国民を煽った新聞社が悪いのか、戦争開始に熱狂してしまった国民が悪いのか、昭和天皇の責任はどうなのか、など。

たぶん、みんな何らかの責任はあるはずなのだが、一億総懺悔ということになると、個々の責任が曖昧になっていく。

文藝春秋の編集者として司馬遼太郎とも付き合いがあった半藤一利氏の「昭和史」は、日露戦争後の日本の状況に遡り、日本が自信過剰の状態から朝鮮・中国を属国にしようとし、国際社会の反発を招き、孤立化し、アメリカと戦争せざるを得ない状況に陥るまでの様々な事件を分かりやすく説明している。

本の表紙にも「すべての大事件の前には必ず小事件が起こるもの」と書いてあるが、あれだけの大戦争(この戦争の結果、日本人の約310万人が死亡)が起こるには、その前に布石となるたくさんの小事件が起こっていたのだ。

明治維新から日露戦争に勝利し日本の近代国家が成立したのが約40年、太平洋戦争の敗戦でその成果をほとんど失ったのも、それから約40年。

「国をつくるのに40年。滅ぼすのに40年」と本書でも書いているが、敗戦からバブル崩壊前の高度成長期を、そのまた40年後ととらえると、バブル崩壊後から約20年後の今は果たして何かの復興の途中なのだろうか。あるいは依然として何かを失う過程にあるのだろうか。

今、起きている中国・韓国との外交上の問題も、憲法改正の動向もあるいは大事件前の布石なのかもしれない。
そういう漠然とした不安を持ってしまうというところも、「昭和史」から足が遠のく理由なのかもしれません。

2013年10月8日火曜日

恋しくて/村上春樹 編訳

雑誌「ニューヨーカー」を中心に、村上春樹がセレクトした恋愛小説が10編収められている。

最後の作品「恋するザムザ」が読みたくて買ってしまった本だが、読んでみると中々面白かった。

恋愛小説というと、陳腐な筋立て、幼稚な馴れ合い、下品な表現のせいで、つまらないどころか、ベトベトした感触まで思い浮かんでしまうものもあるが、この作品集は、洗練されていて、大人が読んでも十分楽しめる内容になっている。

個人的には、村上春樹が各作品の終わりに付けている「恋愛甘苦度」の苦味が高いものが好きです。

「薄暗い運命」とか、「ジャック・ランダ・ホテル」とか、「モントリオールの恋人」とか。

最後の「恋するザムザ」は、村上春樹のオリジナル短編で、カフカの「変身」を題材にしたちょっと(かなり?)変わった恋愛小説だ。

ナチス占領下?の街で、ザムザがこんな風に生きられるのなら、「変身」をして恋愛することは決して悪いことではない。

2013年10月7日月曜日

風立ちぬ/宮崎 駿

今更だったが、時間が空いたので見に行った宮崎 駿監督の「風立ちぬ」。

ある意味、予想どおりだったが、素晴らしい作品だった。
たぶん、氏の映画の中で、一番好きな作品になったかもしれない。

まず、作品の中の色々な要素(飛行機、恋、幻想(カプローニ伯爵)、時代背景(戦争))のバランスがいい。
どれか一つの要素でも、欠けたり、過ぎたり不足したら、作品の魅力が半減してしまいそうな気がする。
この絶妙なバランスによって、2時間という時間が急がず、それでも濃密に流れていくのを感じる。

それと戦争という時代の描き方。
関東大震災から始まり、金融恐慌、戦争へと、日本が少しずつ暗く、変に、愚かになっていく時代を、時折映る町並みや人々の様子を丁寧に描きながらも詳しく説明せず、さらっと背景に配置しておくだけのやり方は、今回の作品では適切だったと思う。

司馬遼太郎でさえ、匙を投げた昭和初期の時代を、今の時代に通じるように、共感できるように描くことができたのは、やはり、宮崎アニメの力だと思う。

また、今回、零戦という、飛行機ではあるけれども、まさに戦闘兵器が、主人公堀越二郎の夢の対象なのだが、カプローニ伯爵という飛行機の神様的な存在で、その脅威が中和されているところも上手い。

ラストで、堀越二郎が零戦の残骸を見つつ、カプローニ伯爵に、「君の(創造的)10年はどうだった?」と聞かれ、「一機も戻ってきませんでした」とつぶやき、多くの零戦が青い空に消えていく幻想は、零戦の試験飛行で「良い飛行機をありがとう」と堀越に礼を述べた爽やかなパイロットの一言とともに、この作品に必要な苦さも与えている。

そして、結核の菜穂子との恋の描き方。ある意味、定番と言ってしまってもいいくらい、恋の王道を描いている。非常にせつない恋だが、零戦の試験飛行が成功したとき、堀越が山の彼方を見つめ、ふと菜穂子との別れを感じているような余計な説明のない印象的なシーンの描き方も秀逸だった。
それと宮崎駿には珍しく、何回かのキスシーン、初夜を描いているのも興味深かった。

最後に、タイトル「風立ちぬ」。風が立った、という意味であるが、作品中も菜穂子との再会の場面で風が印象的に描かれている。
ありそうで、ありそうもない風をこんな風に美しく撮った監督は、タルコフスキーと宮崎駿だけかもしれない。

風は、デビュー作の「風の谷のナウシカ」にもつながる要素だが、作品のサブタイトルにもなっている「いざ生きめやも」という言葉も、つながっている。

人は今生きている時代が、どんなに残酷で辛いものでも、その中で一生懸命、生きるしかない、
という宮崎駿の思いは一貫しているように感じる。

宮崎監督の最後にふさわしい素晴らしい作品だと思う。

2013年9月9日月曜日

安倍首相の汚染水問題をめぐる発言

昨日のNHKだったろうか、2020年のオリンピックの開催地が東京に決まったとのニュースで、東京招致に反対だった漫画家のやくみつる氏の発言が紹介されていて、思わず笑ってしまった。

安倍首相が「東京電力福島第1原発について私は皆さんに約束する。状況はコントロールされている。」と力強く語ったことについて、

いまだかつて、首相が、汚染水対策について、国民に対して、こんな力強い説明をしたことがあっただろうか? と。

確かに、そう思う。
こんな力強い説明は今までなかった。

そして、IOC委員との質疑応答では、

(汚染水問題は)結論から言って全く問題ない。事実を見てほしい。汚染水による影響は福島第1原発の港湾内の0.3平方キロメートルの範囲内で完全にブロックされている。

とまで説明したのだ。

本当?と耳を疑う内容だったが、結果からすると、IOC委員は、たぶん、この説明を信用した。
安倍首相のスピーチが決め手だったと賞賛するマスコミまでいるという。

願わくは、有言実行で対応してほしいと思っていたが、すでに不穏なニュースが流れている。

<東電>汚染水、首相「完全にブロック」発言を事実上否定

すでに汚染水対策は、国際的な公約になったと言ってもおかしくない。
言ったからには、約束は必ず守ってほしい。

オリンピック招致のために、国際社会を騙したと言われないように。

2013年9月8日日曜日

Film No Damage/佐野元春 を観て

2020年のオリンピック開催地が東京に決まるかもしれないと騒いでいた前夜の映画館で観た。

小さめの上映室でもまばらな人。私を入れて十四、五名というところだろうか。
年齢層はやはり自分の年齢に近い人がほとんど。そして私同様、一人で観に来ていた人が多かった。

冒頭、「モリスンは朝、空港で」が流れてきて、ホテルで寝起きの髪の毛がちょいリーゼント気味の佐野元春が映る。若い。
そして、何年ぶりにこの曲を聴いただろうか。

1983年の中野サンプラザのライブ映像らしいが、とにかく元春の声が若い。
CDと同じキーでライブで歌っている元春は私はリアルタイムで見たことがなかったので、とても新鮮だった。

「悲しきレイディオ」、「スターダストキッズ」、「彼女はデリケート」、「終わりは始まり」、「ハートビート」、「ガラスのジェネレーション」…

曲を聴きながら、空気が1980年代に戻ったような気がした。
そう、このころは、音楽はレコードプレーヤーで聴き、テープにダビングしていたのだ。

コンサートの様子は、とにかく元春が動きまくる。
自分でも演劇的と言っているようだが、少しやりすぎなぐらい体を動かしている(ダンスという感じだけでもない)
あれだけ動けば、相当汗をかくと思うが、スーツとネクタイ姿を最後まで崩さないところが、元春らしい。

HeartLandのメンバーも若い。キーボードの西本 明、ドラムの古田たかし、そして、元春に、いつもメンバー紹介で、「そして最後に」と振られるサックスのダディ柴田。
この段階で、すでにこのHeartLandと元春の演奏は完成のレベルに達している。

終わり方は、ちょっと物足りなく感じる人は多いかもしれない。

しかし、このフィルムが撮られたのは、ミュージックビデオもなかった頃で、アルバムは「Some Day」、「No Damage」を出したところまでの元春なのだ。
そして、当時は映像の製作スタンスも、もっと淡白だったのかもしれない。

一番、面白かったのは、佐野元春がベッドインのジョン・レノンに扮し、 インタビューに答えるところ。

インタビュアーに、「何故、外国(ニューヨーク)に行くのか?」と聞かれ、元春は、

「多くの人々にもてはやされ、僕は自分が何でも出来るようなすごい人間なのではと思うようになった。しかし、それは勘違いだとすぐに気づいた。だから、本来の自分を取り戻すために行くんだよ」という趣旨の答えをしている。(無言なのだが回答の字幕が流れている)

これは意外と本音なのではと思っていたら、本人もそうコメントしているようだ。

私が元春を好きになったのは、この渡米で作られた「Visitors」からだった。
No Damageの世界には、今ひとつ自分はなじめなかった。
(今はそうでもないが、当時はちょっと年代的に上の人が聴く音楽かなと感じていた)

そういう意味で、Making of 「Visitors」だったら、もっと感動しただろうなとは思う。

2013年8月25日日曜日

チェルノブイリ・ダークツーリズム・ガイド

福島で原発事故が起き、立入制限区域が設定されたとき、その数十年後を思い、タルコフスキーが撮った映画「ストーカー」のように、あの地域が”ゾーン”のようになる光景をイメージが過ぎった。

しかし、そのことは誰にも言わなかった。現地で事故の対応作業に当たっている人々や、自分の家に住めなくなった人々に対して、彼らが生活している/していた土地を、映画にたとえる行為は不謹慎なような気がしたからだ。

なので、本書を読んで驚いた。

1986年に原発事故が起きた旧ソ連(現ウクライナ)北部のチェルノブイリでは、2011年12月には、外部からの観光ツアーを許可し、現地に観光客を受け入れているというのだ。

しかも、その立入制限区域は、映画同様、”ゾーン”と呼ばれ、ツアーガイドは”ストーカー”と呼ばれているらしい。
決してマイナーな取り組みではなく、国営のゾーン広報機関があり、立ち入りするためには政府許可が必要となるが、それを取り扱っている旅行代理店も約二十社近くあり、2011年以降は1万4千人以上の観光客が訪れているという。

本書は、そんな”ゾーン”の観光ガイド(放射線量の計測記録もある。写真も豊富)と、その観光に携わるウクライナの人々の言葉を通し、福島第一原発事故周辺地域を観光地化しようとすることを検討するという、今まで読んだことのないような本だ。
(唯一、近い本といえば、史上初の戦場都市ガイド「サラエボ旅行案内」ぐらい)


ちなみに、ダークツーリズムとは、戦争や災害といった人類の負の足跡を辿り、死者に悼みを捧げるとともに、地域の悲しみを共有しようとする観光の新しい考え方を言うとのこと。
(日本で言えば、原爆ドームなど。ドイツで言えば、ナチス関連資料館など)

”原発事故”と”観光”という組み合わせに、違和感を感じる人も多いだろうが、この本では、かなりまじめにその可能性を検討している。

その理由を、本書では「原発事故被害の中心地を訪れることの最大の意義は、その状況に向き合うことにある」と説明している。
マスコミのセンセーショナルな画一的な情報に頼るのではなく、原子力発電所という物を、廃墟となった遊園地や村を、直接自分の目で見て、体で触れて、考えることが重要だということ。

(この本でインタビューされている人々の声を聞く限りでは、現地の人々の多くが、観光客に対して、ネガティブな印象をもっておらず、むしろ多くの人々にチェルノブイリの実態を知ってもらうことはよいことだという肯定的な意見が多かった)

そのきっかけになるのであれば、好奇心でもよいという考え。
実際に、”ゾーン”を訪れる多くの若者は、PCゲーム「S.T.A.L.K.E.R.」のファンになったことがきっかけになったという。

本書の終わりのほうに、「東京と福島第一原発を結ぶ国道六号線を下りそこにあるリアリティを見ることにこそ希望がある」という言葉があったが、現地の復興ということを考えると、確かにそうだなと思う。

本書には、私が今まで知らなかったさまざまな情報が載っている。

・チェルノブイリ発電所が、いまだ発電所として一部稼動していること
・ウクライナの原発依存率が50%近くと非常に高いこと
・世界のダークツーリズムの名所の情報
・日本の新聞各社のチェルノブイリ掲載記事の掲載件数の比較
・チェルノブイリ博物館が、多くのカップルが訪れるデートスポットになっていること
・「南相馬ソーラー・アグリパーク」や「川内高原農産物栽培工場」の取り組み
・宮崎駿の「On Your Mark」にみる原発事故地の姿…など

また、この本では、被災地の遺構を保存する問題についても触れられているが、気仙沼の巨大魚船が撤去されることが決定した今、考えさせられる問題だ。
(3Dの映像データで残そうという取り組みもあるようだが、果たして、実物と比較したとき、どこまでのインパクトがあるのだろう)

非常に興味深い本だが、この本の続編として「福島第一原発観光地化計画」が刊行される予定だという。

深刻な汚染水の漏洩問題も解決できていいない現在では、不可能なことではあるが、この先20年後というスパンで考えたとき、海という観光資源を失ったこの土地に、このような復興策もあるのではないだろうかと思った。

”原発事故地の観光地化”という考えに賛成の人も、反対の人も一読の価値はあると思う。

2013年8月24日土曜日

佐野元春 Film No Damage

この間、映画館で何気なく見たチラシに、佐野元春の名前があったのを見て、とても懐かしかった。


十代の頃に聞いた音楽というのは特別で、焼き付いてしまったように記憶というか、体から剥がれない。
ガラスのジェーネレイション、さよならレーヴォリュゥション、つまらない大人にはなりたくない、so one more kiss to me
歌詞カードがボロボロになるまで読んでは聴き、聴いては歌った。
今になってしまうと、こういう聴き方はもうできない。

私にとっては、佐野元春はそういったアーティストの一人だった。
佐野元春、浜田省吾、尾崎 豊、大沢誉志幸…

彼の音楽を聴きはじめたのは、ちょうど、この映画で記録された後に、旅立ったニューヨークで作られたアルバム「VISITORS」からだったと思う。

佐野元春が作るアルバムというのは、まず外れがない。
全体的によくできている。かならず平均値以上の音楽を作ってくる。

その理由の一つには、彼が非常に知的なロックミュージシャンだからだと思う。

「No Damage」のアルバムの写真などは、明らかに、ロックのイメージを変えようと意図しているものだし、その「No Damage」のスタイルから大きな変貌をとげたアルバム「VISITORS」の1曲目「Complication Shakedown」の歌詞は、1984年の作品だが、知的なセンスに溢れており、来たるべき情報化社会を予言していたかのような内容だ。

そういう意味で、大人になっても安心して聴くことができるアーティストなのだが、やはり、ビールのコマーシャルなどに出たりして温和な雰囲気を感じるよりは、若くギラギラしていて、どこかとがっている雰囲気を感じるほうが、個人的には好きだ。



最近すっかり見たい映画がなくなった日々だが、久々に映画館に足を運んでみようと思う。

2013年8月1日木曜日

麻生副総理の歴史認識を疑う

全く信じられないような発言をしたものだ。
もちろん、麻生副総理の憲法改正をめぐる発言のことだ。

*発言の全文
http://www.asahi.com/politics/update/0801/TKY201307310772.html
「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。」
音声で聞くと冗談のようなトーンで発言していて、会場からは笑いもおきていた。
しかし、明らかに非常識な発言だ。

民主主義を否定するナチスのやり方で、日本の憲法も改正すればいい、という趣旨に誤解されても仕方がない発言だ。

内外から批判が高まる中、釈明(原稿の棒読み)をして、ナチスの部分の発言を撤回したようだが、

「憲法改正については落ち着いて議論することが極めて重要だ。喧騒にまぎれて十分な国民的理解、議論のないまま進んでしまった悪しき例としてあげた」

という説明も、よく分からない。そもそも、「喧騒」とは何のことだろう。

発言を見ると、自民党の中の憲法部会の議論を引き合いに、怒鳴りあいもなく議論をしたことを、「自民党のすごいところ」と褒めているが、要するに、野党や他国(自分たちと異なる考えを持つ人々)に、とやかく言われたくない。黙っていれば、俺たち自民党の案を、国民は理解して受け入れるのだから、と言っているようにしか思えない。
(この考え方自体、幼稚で危険なものだし、日本国民を馬鹿にしていると思う)

その本音が思わず、ぽろっと出てしまったのが、今回のナチス発言の真相ではないかと思う。

しかし、皮肉なことに、悪しき例とたとえたナチスのやり方と比較しても、今回の憲法改正をめぐる発言は、相当にお粗末なものになった。
少なくとも、麻生副総理がいる現政権が推し進める憲法改正は危険だという認識を、私は強く持った。

ナチスの歴史的な評価は、小学生でも知っていることだが、この発言をすることで、ユダヤ人の人々やドイツ国民がどう思うかなどということは念頭になかったのだろう。

また、安部政権が憲法改正をして国防軍を持つことを明記することに積極的な点について、右翼化の傾向にあることを批判し、歴史認識が異なることでも争っている中国、韓国が、この発言をどう捉えるかも念頭になかったのだろう。

そういった配慮も想像力もない人は、本来、政治家になれないし、ましてや総理大臣の職に就くはずもないし、現政権のナンバー2になるなんて、あり得ないはずなのだが。

石原慎太郎の「三国人」発言、橋下徹の「従軍慰安婦」の発言、今回の麻生副総理のナチス発言とくると、自国民でも、日本の政治家の歴史認識は相当におかしいという印象を持ってしまう。

まして、諸外国に対しては、日本の政権および日本人の歴史観はやはりおかしいと印象付けた決定的な出来事になったと思う。

言っていいことと悪いことがある。子供でも分かることだ。

私は、完全に辞任に値する発言だと思う。

2013年7月28日日曜日

終わりと始まり/池澤夏樹

本書は、2009年4月から2013年3月まで、朝日新聞夕刊文芸批評面に掲載された、作者のエッセー。
(Webでも無料会員登録すれば、一日3本まで、記事を読むことができます。ただ、この本では、当時の原稿に、骨子は変わっていないと思うが相当加筆されているように思う)

思えば、この間、色々な事が起こった。

2009年1月には、アメリカでは初めての黒人大統領が誕生し、
日本では、2009年8月に衆議院総選挙が行われ、自民党から民主党へ政権交代が起こった。
しかし、沖縄の普天間基地の移設問題については、鳩山首相の言動に象徴される無責任な対応が続き、尖閣諸島では中国漁船の衝突事件が起こり、石原都知事まで介入して、にわかに領土問題が浮上した。

2011年3月には東日本大震災が起こり、多くの人々が命を落とした。福島第一原子力発電所では、政府機関や東京電力の不手際(今も続いている)によりメルトダウンが発生し、大量の放射能が拡散し、多くの人々が放射能の恐怖にさらされ、住む土地を無くすという最悪の事態になった。
(高濃度の放射能は今も漏れ続けている)

2012年12月の衆議院総選挙では、原発の稼動も争点の一つになったが、民主党政権への失望から、原発の早期再稼動とともに景気回復を掲げる自民党が圧勝した。

そういった社会の動きに合わせ、このエッセーでも、ところどころで、民主党への政権交代に寄せる期待、当時の菅総理の発言「最小不幸の社会」に対する共感が述べられていて、非常に興味深かった。

特に菅総理については、このエッセーの後半で、多く取り上げられた震災に関する文章においても、原発を停止し、「再生可能エネルギー特別措置法案」を進めようとする一点において、マスコミを含め、あらゆる方面から総理退任を迫られた彼を、明確に支持していた。

「春を恨んだりはしない」でも作者は述べていた。「我々は貧しくなるだろう」と。

その意味は、震災を契機に我々は、原発を稼動させ過剰に電力を消費し、大量生産・大量消費を掲げ、GDPの成長率を競う国家観・生活観から離別するチャンスでもあるのだ、ということだったと思う。

この作者の感覚からいうと、昨年12月の選挙もそうだが、7月の参議院通常選挙の結果も苦いものだったに違いない。このエッセーでも、そんな懸念が書かれていた。
「今、気になっているのは、みんなが「考える」より「思う」でことを決めるようになったことだ。五分間の論理的な思考より一秒の好悪の判断」
本書は、作者の幅広い観点からなされる鋭い文明批評が中心になっていて、相変わらず読んでいて気づかされる部分が多かったが、今回はそれよりも、2009年からの出来事、あの震災から2年と4ヶ月経った今を、こうして振り返らせてくれたことのほうが、私にとっては大きかった。

2013年7月27日土曜日

暗夜/残雪

敏菊は、猿山に行こうとする。
猿山は、隣の烏県にあり、歩いて三日もかかり、途中で他人の家にも泊めてもらわなければならない。

敏菊は、乾燥食を背負い、斉四爺に連れられ、暗い夜更けに出発する。
大通りでは、荷を運ぶ一輪車があふれ、彼らにぶつかってくる。
暗い空では鳥が格闘し、血が降ってくる。
泊めてもらおうとする家でも満足に休めず、次第に斉四爺の態度も冷たくなってくる。

友達の永植も猿山を目指し烏県にいるようだが、片足を失っている。
敏菊の父も猿山に行ったことがあるらしいが、いつも考え事にふけっており、「末世の風景だな」とつぶやく。
敏菊は猿山どころか、烏県に辿り着いたのかどうかも分からず、そして暗い夜は一向に明けない。

猿山には何があるのか?
敏菊はなぜ猿山に行こうとするのか?
なぜ皆が敏菊に冷たいのか?

そういった疑問も暗闇に吸い込まれていくような小説だ。

作者の残雪(ペンネーム)は、1953年に中国湖南省に生まれ、父は新聞社の社長であったが、残雪が四歳のときに、極右のレッテルを貼られ、母も連帯責任を負わされ、以後20年間、文化大革命が終わるまで様々な差別迫害を受けた。

池澤夏樹編集の世界文学全集には、上記の「暗夜」のほか、「阿梅、ある太陽の日の愁い」、「わたしのあの世界でのこと-友へ」、「帰り道」、「痕」、「不思議な木の家」、「世界の桃源」が収められている。

どれも不条理が支配する奇妙な話ばかりだが、これらの小説に書かれた人々は世界のどこかに実在しているような気がする。
たとえば、最近事件が起きた山口県の山間の集落の雰囲気と、「痕」で描かれた世界は繋がってはいないだろうか、と感じさせるものがあった。

2013年7月24日水曜日

わが酒の讃歌/コリン・ウィルソン

この本は、間違いなく、お酒が好きな人が、お酒を飲むことは悪いことではない、むしろ素晴らしいことなのだと感じさせてくれる本だと思う。

たとえば、作者はアルコールが意識に与える効果として、95%のリラクゼーションと、5%の極度の集中という、いわゆる”抑制されたくつろぎ”をもたらしてくれると述べている。
仲間の誰かが、その日の出来事でたわいもない話や、つぎの休暇にいくつもりでいるところのことをあなたに話しはじめる。あなたの注意力を集中させるような話ではないが、感謝して、まるで強い興味を持っているかのように彼の話をじっと聞くのである。ある意味では、その話は注意力を集中させる焦点として役立ち、一方、あなたの残りの部分は、溜息をついてリラックスしている。
上記のような感覚は居酒屋やバーでお酒を飲んだ人(特に男性)なら誰もが感じることではないだろうか。

コリン・ウィルソンは、土管の中で野宿しながら大英図書館で文学を学んだという異色の作家であるが、折り紙つきの読書家であることが、この本を読んでもわかる。

たとえば、「作家とアルコール中毒」という章では、アルコールが、フィッツジェラルドとヘミングウェイの作品に与えた影響とその性格について分析している。

また、ワインの歴史を、地球のあけぼの、二十億年前の有機体に、ワインを作り出す酵母の原型をみるところまで遡る。

そして、石器時代の原始人が飢えて半ば腐った果物を食べたときにアルコールの特性を知ったのではないかという仮説、エジプト文明における酒の役割、ギリシア文明におけるアテネ人とスパルタ人のワインの飲み方の比較から浮かび上がるコントラスト、ギリシアからワインの作り方を承継し、発展させたローマ帝国、そして、ローマ崩壊後に、ワイン作りを支えた教会の役割等を、自在に述べていく。ワインとはまさに文明の勃興とともにあったことがよく分かる。

作者は、さらに人間が他のどの生物よりも非常に早く進化できたのは、アルコールの発酵法を発見した約BC8000年以後のことで、頭のいいチンパンジー同然の生物から、ロダンの「考える人」まで急激に変化したのだというロマンチックな仮説を提示している。
(この本の翻訳者である田村隆一は、この仮説をベースに「人 ウィスキーに間する仮説」という詩を残しています)

本書は、作者の好みでワインに関する章(フランスのブドウ園、ドイツ、イタリア、スペイン、ポルトガルのワイン)に多くが割かれている。その実体験に裏付けられた知識もすごいが、有名な銘柄のワインでも結構辛らつな意見があったりして、読んでいて飽きない。
ビール、ウイスキー、ブランデー、ジン等のスピリッツについても触れられている(作者がビールを飲むのをやめた理由については同感)。

しかし、そういった知識の内容よりも共感してしまうのは、アルコールの暗黒面(犯罪、中毒)に触れながらも、その効能について述べているところだ。
日常の生活はどの時代にもきびしいものだった。現在でも大多数の人間にとってはそうである。どのようにして人間が槍やすきや、ひきうすの石を発達させてきたかを理解するのはやさしい。
しかし、どのようにして、詩や哲学や数学といった日々の生活にかかわりのないものを創り出したかを理解するのはむずかしい。
私は厳粛にその答をいおう。それは精神を開放する不思議な力を持ったあのアルコールがあったからである、と。
これが嘘っぽく聞こえないのは、やはり、コリン・ウィルソンが労働者階級の家に生まれ、仕事を転々としながら苦労して作家になった背景にあるのかもしれない。

2013年7月23日火曜日

ロリータ/ウラジーミル・ナボコフ

これだけ性風俗に影響を与えた文学作品は今までにないのではないか。

ロリータ・ファッション、ロリータ・コンプレックス…
これらの言葉を聴く人々の中には、眉をしかめる人もいるだろう。

しかし、その発端となった小説「ロリータ」は、偏見を捨てて素直に読むと、精緻に構成された高いレベルの文学作品であることが分かる。

パリ生まれの主人公ハンバート・ハンバートは、四十歳の教養のある男だが、少年の頃に愛し合い、病気で死んでしまい、最後まで行き着くことができなかった少女への思いを心に秘めていた。その死んだ彼女と同等の理想のニンフェット(9歳から14歳。この本のなかでは「ニンフェット」と呼んでいる)を求めながら、フランス語教師としてアメリカに渡り、その下宿先で、ヘイズ・ドロレス(ローラ)という名前の理想的な少女と出会う。

ハンバートは、妄想の中で彼女をロリータと呼び、少女への情欲を高めていく。そして、彼女を手に入れるため、その母親(未亡人)と結婚し、ふとしたことから母親が死んだことで、彼女と二人きりの関係になる。

そして、二人は亡き母親の愛車に乗って、全米のモーテルを泊まり歩き、旅することになるのだが、ハンバートは、自分の欲望を満たす限り、ロリータに好き放題、お金を与え物を買い与え、散財していく。しかし、自分の行動を縛ろうとするハンバートに反抗していくロリータ。二人の関係は、次第に険悪になっていく。ある意味、ハンバートの理想が崩壊してくプロセスでもある。

作者のナボコフは、ロシアから亡命し、ドイツに暮らしていたが、この物語の主人公ハンバート同様、四十一歳にして、アメリカに移住する。
もともとはロシア語で小説を書いていたが、その移住を機に、英語で小説を書き始める。
しかし、とても外国語で書いた小説とは思えないほど、その文章は冒険的なものだ。

ロリータに対する言語による執拗な愛撫。たとえば有名な出だしの部分
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
あるいは、ハンバートが暗記した彼女のクラスメイトの名前の羅列(彼はそれを詩と称している)

また、 ハンバートが妄想の中で陪審員に自己弁護する文章は、悪ふざけなまでに饒舌でユーモアに満ちている。

アメリカの風俗の描き方も興味深い。米国の様々なモーテルの描写、ローティーンの子が好むソーダ・ファウンテン(当時のドラッグストアにあったソーダ水の販売所)、チョコレートがベトベトとかかったアイスクリーム、映画雑誌、グルメ本。
このような通俗的なアメリカ文化を、明らかにナボコフは楽しんで書いている。

日本でこのような小説はあるかと問われたら、私には、谷崎の「痴人の愛」しか思い浮かばない。
もっとも、「痴人の愛」では、ナオミという少女(十五歳)を自分好みの西洋風の女性に作り上げていく喜びに取り付かれた男の話なので、「ロリータ」とはその性向が違っている。
(両作品の結末もだいぶ違う)

しかし、谷崎の小説が、哲学者の西田幾多郎に「人生いかに生きるべきかを描いてないからつまらない」と見当違いの批判をされたように、「ロリータ」が単なるエロ小説と勘違いされたあたりの事情は似ているかもしれない。

また、「痴人の愛」が、西洋(ナオミ)に脅かされている日本(主人公)を象徴的に描いた作品と評されたように、「ロリータ」が、知性があって経験も豊かだが生命力が衰えているヨーロッパ(ハンバート)と、若くて魅力にあふれ、でも無知でわがままなアメリカ(ロリータ)の関係を書いていると評される事情もよく似ている。

しかし、その谷崎をしても、中年半ばにして、外国語で小説を書くという冒険は難しかったかもしれない。
おまけに、ナボコフは英語で書いた「ロリータ」を、ロシア語にも翻訳しているのだ(しかも、その内容が英語版とは異同があるという)

私が読んだ若島 正訳の「ロリータ」は、そのロシア語版も参照された上で、2005年に翻訳されたもので、とても58年前の作品とは思えない現代的な内容になっている(特にロリータの崩れた言葉遣いは現代の日本語の感覚そのままに訳されている)。

日本の読者は、そういう意味で英語圏、ロシア語圏の読者より得をしているかもしれない。

また、本書のあとがきには、親切にも、ロリータという作品の謎(日付)に関しての解説と、作品の出だし部分になにげなく書かれていた重要部分についても気づかせてくれる内容になっており、「ロリータ」という作品の奥行きを垣間見させてくれている。

2013年7月16日火曜日

魚が出てきた日/マイケル・カコヤニス

「その男ゾルバ」を撮ったマイケル・カコヤニスのブラック・ユーモアな映画。

1972年、ギリシア エーゲ海にある、ごつごつした岩に覆われた観光地とは無縁のカロス島付近で、核兵器を搭載していた爆撃機が墜落してしまう。

核兵器3つと、謎の箱(放射性物質が格納された頑丈な箱)1つを島にパラシュートで下ろし、墜落した飛行機から島に泳いで辿り着いたパイロット二人は、何故かブリーフ1枚の格好で、島をさまよい歩く(映画後半近くまで、ずっとパンツ一丁で岩場をさまよう)。

一方、英語を母国語とする軍(米軍?)が組織した探索チームも、核兵器と箱の回収のために島に向かう。この探索チーム、島民に正体を知られないよう、カラフルなシャツを着た観光ホテルの立地調査団に扮し、核兵器の落下場所を探査し始める。

そして、極秘に調査するため、ごつごつした岩しかない土地を地元のお婆さんから買収する。
(このあたりの、いかにも田舎のギリシアの老人の表情がいい)
また、街から買収地までの道の整備に島民を駆り出す。

大掛かりな土地の買収にすっかり舞い上がった島の長のコメントは、新聞に取り上げられ、隠れた観光地として脚光を浴び、多くの観光客が押し寄せることになってしまう。
おまけに、道の整備工事中に、偶然、古代ギリシアの遺跡まで発掘してしまい、考古学者(パワフルな美人のお姉さん)まで島に来ることになってしまう。

一方、調査団は、核兵器3つを回収するが、肝心の箱を見つけられないでいた。実は、ヤギ飼いの夫婦がお金が入っていると思い込み、こっそり家に運びこみ、あの手この手(斧をふりおろす、歯医者の研磨機で削る)で、箱を開けようとするが一向に開かない。

しかし、美人の考古学者が持参してきた金属を溶かす特殊な液体の存在を、ヤギ飼いの夫が知り、それを盗み、ついには箱に穴をあけてしまう。そして…

最初笑って見ていた映画が、いつの間にか笑えなくなる。
最後のシーンは、ちょっと怖い結末だ。
でも、傑作。

1967年の作品。映画に出てくる若者たちのサイケな服装とダンスは古びたが、
放射能の威力は衰えない。

2013年7月15日月曜日

黒のヘレネー/山岸涼子 カッサンドラ/ヴォルフ

山岸涼子の作品「黒のヘレネー」は、トロイア戦争にまつわるギリシア神話をテーマにしている。

ギリシアのスパルタ王メオラオスの妻で絶世の美女といわれたヘレネーと、その姉であるクリュタイムネストラの姉妹間の確執。

ヘレネーは誰からも愛されるが、地味で陰気なクリュタイムネストラだけは、ヘレネーには本当の優しさがないことに気づいている。

ヘレネーが若く美しいトロイアの王子パリスとともにギリシアを逃げ去ってしまったことをきっかけに、トロイア戦争が起こる。

もともと、パリスは、トロイア全土を燃やしてしまうという不吉な予言を背負った若者であった。
パリスがヘレネーを自分の家族に紹介するときに、ヘレネーに、クリュタイムネストラのような視線を投げかける女性がいた。パリスの姉(妹という説もある)カッサンドラだ。

カッサンドラは、ヘレネーを見て「その女のまわりは禍々しい黒いものでいっぱいだ。この女は我々に不幸を運んできたのだ」と告げる。

十数年の戦争により、トロイアは陥落する。
数々の勇士が死に、彼女の兄たちも死に疲弊したギリシアに、ヘレネーは帰るが、彼女には反省の念はない。

そんなヘレネーの前に、老いさばらえたクリュタイムネストラが現れる。
クリュタイムネストラは、ヘレネーに、トロイア戦争の際、荒れる海を鎮めるため、夫の独断で自分の娘が生贄に捧げられたことを告げる。そして、自分はたった今、夫のアガメムノンを殺害してきたことを告白する。

クリュタイムネストラは、ヘレネーを刃にかけ、カッサンドラの予言どおり、ヘレネーは禍々しい黒いものに意識を覆われながら死んでいく。

1979年の少女漫画だが、よくできた物語だと思う。

ヴォルフのカッサンドラを読んでみたかったのは、明らかにこの「黒のヘレネー」が頭に残っていたからだ。

作品を読んで意外だったのは、カッサンドラが女神ヴィーナスと比較されるほど、美しい女性として描かれているところだ。

カッサンドラが予言者になったのは、この美しさのせいで、アポロン(物語では青銅の肌をした冷酷でぞっとする瞳の神)が彼女を見初め、予言の力を与える代わりに、自分の恋人になれという約束をしたことによる。

しかし、カッサンドラはアポロンとの約束を破り、怒ったアポロンは、予言の力を与えるが、同時に誰もその予言を信じないようにする呪いをかける。

トロイア戦争のあの有名な「木馬」についても、カッサンドラだけがその策略に気づく。しかし、誰も彼女を信じない。

敗戦後、カッサンドラは、クリュタイムネストラの夫であるアガメムノンの性的奴隷として、ギリシアに連れて来られる。そして、城に入れば、アガメムノンも自分も殺害されることに気づいている。しかし、その予言も誰も信じない。

この物語では、ギリシアの名将といわれたアキレスが残忍な殺戮者として描かれ、カッサンドラの兄弟姉妹が殺される様子も、美しい妹がアキレスを罠にはめる様子も、戦争の醜さという視点が浮かび上がる。

ヴォルフは、東西ドイツ統合前の東ドイツに住み、東ドイツの政策を、西側の視点で批判し続けていた自分自身をカッサンドラに重ね、この作品を書いた。

ギリシア神話の面白さが、リアルに伝わってくる二作品だ。

2013年7月14日日曜日

愛人/マルグリット・デュラス

「愛人」は、デュラスが七十歳のときに書いた自伝的な小説だ。

1929年、フランス領インドシナ。入植したフランス人の貧しい家の十八歳の娘と、三十歳の華僑の中国人男性の許されない恋愛。

しかし、その恋愛に対する娘の思いは、かなり醒めている。

彼女は男に言う。
あなたがあたしを愛していないほうがいいと思うわ。たとえあたしを愛していても、いつもいろんな女たちを相手にやっているようにしてほしいの。
それは、彼女の家族、母と二人の兄についても同様だ。

気管支肺炎で亡くなった気の弱そうな下の兄は、まだしも、夫に先立たれ、さまざまな困難に見舞われ、生きる気力を失ってしまった母と、その母からの盲目的な愛を受け、無分別で暴力的な上の兄に対しては、どこか他人のような冷たい視線を感じる。

そういった複雑な家庭環境にあって、どこか人を愛せない娘が、自分のもって行き場のない愛情をどう表現してよいかわからぬまま(あるいは表現するという努力を放棄して)、白人という人種的な高みから、中国人の男性を愛人として選び、体を重ねて自分を変えようとしていた…そんな物語にも読める。

物語は、作者の視点がころころと、異なる時間・人々・空間を行き来する。老齢の作者が十八歳の自分と家族と愛人、その当時の植民地の風俗を代わる代わる思い出し、それを、そのまま一筆書きで流れるように書き写した。そんな感じの見事の作品だ。

物語は、こんな書き出しで始まる。
ある日、もう若くはないわたしなのに、とあるコンコースで、ひとりの男が寄ってきた。
自己紹介をしてから、男はこう言った。 
「以前から存じあげております。若いころはおきれいだったと、みなさん言いますが、お若かったときより、いまのほうが、ずっとお美しいと思っています、それを申しあげたかったのでした、若いころのお顔よりいまの顔のほうが私は好きです、嵐のとおりすぎたそのお顔のほうが」
こんな感じの素敵な顔をした女性は確かにいる。

2013年7月8日月曜日

永遠の夫/ドストエフスキー

三十代後半の独身貴族である主人公のヴェリチャーニノフは、路上で帽子に喪章をつけた紳士と出会う。

見覚えがあるのだが誰なのか思い出せない。ただ、四回、五回と出会うたびに、漠然と嫌悪感が募っていく。

そして、ある日、その紳士が、ヴェリチャーニノフが9年前に不倫関係になった人妻の夫であることに気づく。

タイトルの「永遠の夫」とは、「ただただ夫であることに終始」するしかない、淫乱な人妻の夫のことで、主人公の前に現れたその紳士トルソーツキーのことだ。

タイトルから言えば、その寝取られ夫のトルソーツキーが主人公になるところだが、この物語では、妻の愛人であるヴェリチャーニノフの目をとおし、主人公と妻の秘密の不倫を知っているのかいないのか不明のまま奇妙な言動をとるトルソーツキーの姿を客観的に描く。

寝取られ物語というと、モラヴィアが頭に真っ先に浮かぶ。

しかし、モラヴィアの物語が、寝取られ夫の立場から描いているせいもあるかもしれないが、どことなくマゾフィティックで重たい印象があるのに対し、ドストエフスキーのこの物語は、実にコミカルで、深刻ぶった空気がない。

そして、ここが重要だと思うが、この作品には下卑な笑いというよりは上品なユーモアの雰囲気が漂っている。

例えば、フェリーニやブニュエルが映画化していても全くおかしくないような物語だと思うが、残念ながら、原作の雰囲気がある映画化はされていないようだ。

ドストエフスキーというと、長編、重苦しいテーマという印象が強いが、この小説は非常に読みやすかった。

2013年6月30日日曜日

カラマーゾフの兄弟/ドストエフスキー

ドストエフスキーの最後の作品と言われる「カラマーゾフの兄弟」。

1880年(日本は明治十三年)に完成した作品で、古典といってもいい年代の作品だが、今読んでも、人間というものの生々しさが伝わってきてしまうほど精力にあふれた現代的な作品だと思った。

この小説には、様々な登場人物たちが出てくるが、誰一人として輪郭が薄い、存在感がない人物はいない。皆が皆、何らかの”業”のようなものを背負っている。

いい人と思われる人物でさえ。時には醜く、時にはあくどいときもあるが、同じく悪人と思われる人物でさえ、時には美しく、時には気高い言動をする。

そこから総体的に感じられるのは、本当の人間とはこんなものなのだろうという一種の納得だろうか。

しかし、現代の日本人の感覚からいうと、彼らは、あまりにも人間くさい。

まるで、ケン・ラッセルの映画に出てくるような、時に滑稽に感じるほど得体の知れないエネルギーに満ちた人々だ。
(当時のロシア人がそうだったのか。あるいは十九世紀の人間とはこういうものだったのか。)

会話も決して洗練されたものではないが、とにかく喋って喋って喋りたおす。
特に悪人と思われる人物ほど、よく喋る。
(父 フョードル・カラマーゾフ、長男のミーチャ、次男のイワン等。逆に善人の三男アリョーシャは基本的に長々と喋っていない)

日本やヨーロッパ、アメリカの洗練された小説ばかり読んでいると、そのしつこさに、息の長さに圧倒される思いがする。

この小説に詰め込まれているテーマの数もとても多いし、その内容も重い。

性欲、放蕩などの情欲、金銭欲などの強欲、嫉妬、憎しみ、信仰、奇跡、神と悪魔、キリストとキリスト協会、父殺し、農奴制などなど。

特に、無神論者のイワンが語る「大審問官」と、そのイワンが悪魔と会話する部分は印象的です。

しかし、そういう重いテーマだけではなく、後半は殺人事件をめぐる一種の推理小説・裁判小説にもなっていて、法廷のやり取りなどは緊迫感とゴシップ的な内容に満ちていて、単純に楽しめる要素も盛り込まれている。

ある意味、あらゆる現代小説の生みの親のような小説なのかもしれません。

2013年6月29日土曜日

But the old get stronger

最近、よくスポーツジムに通っている。

「翻訳教室」の中で、村上春樹が、体力がなければ何もできない。集中力というのは体力なんだということを書いていて、妙に納得してしまったのが動機かもしれない。

最初は続くかと思っていたが3ヶ月も経ち、ようやく自分に必要な運動量というのも分かってきた。

深酒(笑)をしなくなり、夜も早く寝て、体の調子もよくなってきた。

そんな訳で、だんだんと早起きに生活が変わってきたのだが、私が通っているスポーツジムは公営で料金も安いせいもあるのかもしれないが、朝の部は、とにかくお年寄りが多い。

「筋トレマシーン」や、「ランニングマシーン」等は、ちょっと込んでいると奪い合いに近い状況になる(順番表は一応あります)。

リハビリ的な運動をしながら、おしゃべりされている人も多いが、中には、私より50Kgも重いレッグプレスをもくもくとこなしている人もいる。

こういう光景を見ていて、昔のドアーズの詩の一節が頭を過ぎった。

The old get old
And the young get stronger …

ではなく

The old get old
But the old get stronger …

これから、ますます、そんな時代になっていくのかも。

2013年6月18日火曜日

プリントアウト

オフィスでも、「一人、紙3枚まで」という貼り紙を無視して、平気で印刷してしまう私である(環境保護活動らしい。でも再生紙だけど)。

どうしても、モニタで原稿をみると、体がむずむずしてしまうのだ。

「あー!ここ直したいとか、書き込みしたい」と思うと、手がむずむずしてしまう。

長い文章であれば、なおさらだ。

Wordのコメント機能だとか、修正履歴機能も使うときには使っているが、何となく気持ち悪いし、見づらい。

瀬戸内寂聴さん、藤原新也さん共著の「若き日に薔薇を摘め」でも、藤原新也さんが、「デスクトップで読んだものとそれを紙でプリントアウトとして読んだものとは、明らかに文章の見え方が異なる」とコメントされているのをみて、共感してしまった。

紙に印刷したものだと、文章の全体像が視覚にビビッドに伝わってきて、つまらない誤字脱字や文章の変なところにすぐ気づくことができる。

注意散漫と言われるとそれまでだが、モニタで文章をみても、その誤りを見過ごしてしまうことが多い。

それと、私などは、昔、上司に文書を赤ペンで添削されていた口なので、Wordの修正履歴が付いたものをみると、何となく冷たさを感じる。

肉筆の温かみもそうだが、添削された原稿の場合、打ち直しながら、何が悪かったのか、自分の文章を嫌でも省みることになるが、Wordの修正履歴は、承認ボタンを押せば、それで完成してしまう。(もちろん、ちゃんと見直す人もいるとは思うが)

最初、真っ赤に直された原稿が経験を重ねていくことで、少しずつ白い原稿が帰ってくる。自分の成長をリアルに感じることができる。

では、小説、エッセイだったらどうか。
これも圧倒的に紙媒体、本でないと、少なくとも私は読む気が起きない。

手に持った厚み、しおりを付けて、何ページ読んだという満足感。
ぱらぱらめくって、気の向いた部分を読む気ままな感じ。

読みたくない本も、机のうえにずっと置いておくと、それだけで読まなければというプレッシャーにもなる。

そういうものはデジタルでは感じられない。

2013年6月16日日曜日

若き日に薔薇を摘め/瀬戸内寂聴 藤原新也

本書には、雑誌「the寂聴」に掲載されていた瀬戸内寂聴と藤原新也の間で2008年10月28日から2010年8月13日までの間に交わされた29通の往復書簡が収められている。

何故、今頃、あの震災を挟んで、公表されたのだろうという思いが若干過ぎったが、震災後の今、読んでも十分に心に響く内容になっていると思う。

読んでいておかしかったのは、それぞれの書簡を読むと、自然と二人の姿、表情が思い浮かんでしまうことだった。

瀬戸内寂聴の書簡はいかにも瀬戸内寂聴であり、藤原新也の書簡はいかにも藤原新也らしい世界観に満ちている。

そんな個性あふれる二人の間でこれだけ息のあった書簡が29通も続いたことに、まず素直に感心してしまう。

特に、瀬戸内寂聴の書簡は、未だ抜け切れない業のような思いとそこから湧き出てくる力が感じられて、歳を感じさせない。
藤原新也との年も親子ほど離れているが、完全に対等なやり取りとなっており、寂聴が自分の住処に藤原新也を招待するのに、彼から送られた書をどんな額縁に入れて何処に飾ろうかなどと頭を悩ませている姿は、いかにも女性っぽい。

それと、ちょっと驚いたのは、以前、藤原新也の「書行無常」展で見た「死ぬな、生きろ」の書を、すでに2010年の当時、寂聴の鳴門の家で書いていたことだった。

あれは、震災を受けて書いたものかと思っていたのだが、実は、米寿を迎える瀬戸内寂聴に対するメッセージでもあったのだ。

この強烈な言葉を、自分を自宅に招いてくれた年上の女性に送ってしまうところが、いかにも藤原新也らしいとも思うが、二人の関係がある意味、通り一遍のところを超えてしまっている証拠なのかもしれない。

このような一風変わった友情としか言いようがない濃い人間関係があったからこそ、これだけ読ませる書簡集になったのかもしれませんね。


2013年6月2日日曜日

倒錯の森/J.D.サリンジャー

サリンジャーの初期の中編小説。

ドイツ人男爵の娘として裕福な家庭で生まれた主人公のコリーンは、十一歳の誕生日に、好きだった少年フォードをパーティーに招待していたが彼は来なかった。

探しに行ったが、彼は無教養な母親に連れられ、その日に街を去ろうとしていた。

十九年後、雑誌社に勤めていたコリーンは、その自分とは正反対の境遇にあった少年フォードの名前を、偶然読んでいた詩集の作者に見つける。

その彼が書いた詩が、この作品のタイトルになっている。

荒地ではなく
木の葉がすべて地下にある
大きな倒錯の森なのだ

コリーンは、十九年ぶりにフォードと再会することになる。

フォードは大学を出て知性を身につけてはいたが、再会の場所が大学そばの小さな中国料理店で、その後のデートが、いつも、三流映画館と中華料理であることからも分かるように、コリーンの生活スタイルとは異なるものだった。

しかし、彼女はそういったものを無視し、彼女を愛していた別の男の警告も無視して、フォードと結婚することとなる。

やがて、フォードに詩の助言をしてほしいという二十歳の大学生と称する女からの手紙をきっかけに、彼らの夫婦生活は大きく変わることとなる。

コリーンがフォードに感じる幻滅、そして、ここでは明示的に表現されてはいないけれど、フォードが感じていただろうコリーンに対する幻滅。それらをちょっとした登場人物の会話や仕草で繊細に組み立てて、残酷なまでに明らかにしていく手法は、いかにもサリンジャーらしい。

タイトルの「倒錯の森」は、色々な意味に解釈できる。
子供の体に大きな傷跡を残しても平気な残酷な母親に対する詩人の深層心理。
詩、芸術の源泉。
幼い初恋の憧憬をいまだ捨てきれない女性の悲劇。

ある意味、サリンジャーの隠れた名品かもしれない。

2013年5月27日月曜日

Kaleidoscopio /☆゚・*:.。.☆ななろぐ☆.。.:*・゚☆より


久々、池澤春菜さんのブログを見ていたら、気分がスカッとする音楽を見つけることができました。



アルバムの写真が何とも味があっていい。

2013年5月26日日曜日

リトル・シスター/レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳

コロキアル(colloquial)とは、口語的、話し言葉という意味らしいが、サリンジャーの小説に負けないぐらい、チャンドラーの小説も、コロキアルな魅力にあふれている。

この「リトル・シスター」は、三回以上読み直しているが、マーロウが交わすその他の登場人物との会話は、過度に洗練されている印象も感じない訳ではないが、毎回読んでいてとても楽しい気分になる。

しかも、今は、清水俊二訳の「かわいい女」だけではなく、村上春樹訳の「リトル・シスター」まで読むことができるのだから、二つの訳を比べて読むと、その魅力の奥行きを再認識できる。

出だしの文章など印象的な部分では清水訳の方が切れがある感じだが、原文と照らしながら読み続けていくと、やはり村上春樹訳の方が原文に忠実だ。

また、この「リトル・シスター」のあとがきには、この物語に出てくる重要人物 メイヴィス・ウェルドの年齢に関する説明があり、これを読んでから、彼女のイメージが、くっきりと思い浮かぶようにようになった気がする。

ちなみに、魅力的な娼婦のような存在であるドロレスも、個人的には好きです。
ドロレスについては、チャンドラー自身も「私が一度も会ったことがないような心のやさしい売春婦」とたとえているが、マーロウとの会話の中では、彼女とのやり取りが一番面白かったような気がする。

この作品を何度も読んでしまう理由のひとつは、事件の顛末が非常に込み入っていて、一度読んだだけではなかなか理解できないという点もあるが、この魅力的な三人の女性とマーロウとの間の洒落た会話、そして、現代のハリウッドでも見かけそうな映画業界特有の奇妙な風景、それらが絡み合った複雑な魅力にあるのかもしれない。

2013年5月19日日曜日

キャッチャー・イン・ザ・ライ/J.D.Salinger 村上春樹訳

村上春樹と柴田元幸の「翻訳夜話」を読んだ流れで、その続編「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」を読んでいたら、また、村上春樹が翻訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読みたくなった。

2003年発売だから、この新訳(旧訳としては、野崎孝の「ライ麦畑でつかまえて」が有名)が出て、今年でもう10年経ったことになる。

この「サリンジャー戦記」は、村上春樹が、かなり力を入れて詳細にこの作品の魅力を解説(批評)しており、なかなか読み応えのある内容になっている。

10年前に読んだときは、この解説に、かなり強くひっぱられたせいか、「ライ麦畑」ってそういう物語だったのかという驚きのほうが強かったが、今回は、物語全体を楽しんで読むことができたと思う。

ホールデン少年が、次々と出くわす、ある意味、残念な出来事(学校、先生、友人、ガールフレンド、その他怪しい人々、自分に対する幻滅)のようなものは、こんなに多弁でユーモアに満ちたものではないにしても、十代から二十代を通り抜けた人なら、誰しも共感してしまう部分があると思う。

それは、日本で言えば、吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」のような学校の推薦図書からは決して得られない類の共感だと思う。

ただ、ホールデン少年が抱く、死んだ弟のアニーや妹のフィービーに対する、単なる兄弟愛とは違うものを感じさせる想いなんかは、ちょっと独特な感じを受けました。

しかし、村上春樹の文体は、文句なしに、この作品の魅力を伝えるのに適していると思います。
「サリンジャー戦記」では、村上春樹が「フラニーとゾーイー」を関西弁で訳したいという抱負を述べていたが、是非読んでみたい。

以下、ゴシップ的な話です。

・未発表作品はあるのか?

  サリンジャーは、2010年1月27日に老衰で亡くなっているが、彼が最後に作品を発表したのは、1965年。晩年はアメリカ東部ニューハンプシャー州の田舎町コーニッシュで、一種の隠遁生活を送り、作品は一切発表しなかった。
しかし、以下の記事(信憑性は不明)によると、死後明らかになった彼の手紙から、その後も執筆活動を続けていたことが判明しているという。
 また、未発表作品の公表の条件が彼の遺言書に記されているのではないかと推測しているが、一体どうなんでしょう。
 もし、未発表作品があるのだとしたら、是非、読んでみたいですね。
http://www.theatlanticwire.com/entertainment/2013/01/jd-salinger-documentary/61553/

・サリンジャーとカフカ

 サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と、カフカの「失踪者」はよく似ていると思う。
どちらもまだ人間として弱い十代の少年のアメリカを舞台にした放浪を描いたものだし、そもそも、二人には、自分が書いた小説に、自分の未来が暗示されているという点が共通している。
また、父親が実業家であることやユダヤ人としての共通点もある。
 ちなみに、サリンジャーは、好きな作家の一人として、カフカの名前を挙げていたらしい

2013年5月15日水曜日

「民法(債権関係)の改正に関する中間試案」に関して

ある法律系の雑誌に載っていたのだが、元、東大法学部の教授で、「民法改正-契約のルールが百年ぶりに変わる」の著者でもあり、現在は法務省参与を務めている内田 貴さんが「民法(債権関係)の改正に関する中間試案」に関する大局的な視点からの座談会で話したコメントに目が止まった。

民法(債権法)の改正に関しては、2009年に法制審議会に、民法(債権関係)部会が設置され、3年あまりの審議を経て、2011年には「民法(債権関係)の改正に関する中間的な論点整理」で、550項目ほどの論点整理がなされ、その後、パブリックコメントにかけられ、今回の中間試案では、半分以下の260項目ほどに絞り込まれ、さらにパブリックコメントの手続きにかけられている。

この絞り込みの中で、消費者保護・弱者保護という観点から、約款の規制ルールも、経済界の強い反対で、ルール化は見送られたらしい。

この点に関し、内田さんは、韓国には約款規制法があり、中国にも契約法に約款ルールがあり、中韓との取引で、相手方の国で取引となれば、その約款ルールが適用されることにもなること、また、ヨーロッパとEPA(Economic Partnership Agreement:経済連携協定)を結ぶことになれば、日本の産業界は、向こうの約款規制の厳しさにびっくりするのではないか、それに比べて、日本は自国のルール化もしないのか、という点に疑問を呈している。

また、法改正のスピードという点から、こんな話もコメントされていた。
国際取引では、紛争発生時に、契約当事者が属する各国の裁判管轄に委ねず、仲裁機関で処理するという方法がよくとられるのだが、アジア圏での国際取引の仲裁事件を一手に引き受けようと、シンガポールが名乗りを上げており、それに対抗して、韓国ではソウルに仲裁センターを置いて、アジア圏での国際取引の仲裁事件を引き受けようとしているという。
中国でも、北京や上海に仲裁センターがあり、活動を活発化しており、要するに、各国が自国を国際取引の紛争解決の拠点にしようとしてるのだ。
このような各国の動きに対し、日本が出遅れているという印象は拭えないらしい。

さらに、今回の中間試案を作る審議の過程において、実務界や学会でも、現行の明治時代に作られた民法を変えたがらない意識が強いということが指摘されている。
一番の理由は、この法律を使っている法律実務家などが、一旦身につけた体系的な理論を変更することに抵抗があるということらしいが、もうひとつは法律というものが輸入品のように外在的で、自分のものという自己同一感が希薄ではないのかという点も挙げられている。

この点に関し、内田さんは、自分で作ったもの(ルール)は、その気になれば壊すことができるが(フランスやドイツでは、そのような根本原則の改正がなされているという)、外から受け入れたものについては、手をつけてはいけないという感覚になりやすいという点を指摘している。

このコメントを読んだとき、すぐに日本の憲法改正の議論が頭をよぎりました。
憲法改正には、とにかく反対!という人々も、わりと多い気がする。
日本国憲法は、第二次世界大戦後、日本を統治していたアメリカが、GHQ草案という日本国憲法の原型から出来ている。
もし、私たちが、戦後、国民的な議論を通して、一から憲法を作っていたら、こんなに改正に神経質になることもなかったのではないだろうか。

憲法改正を色々な局面で議論して、自分たちの憲法という意識を持つ、いい機会なのかもしれない。

この民法(債権関係)改正と問題は同じところにある、と気づかせてくれた記事でした。

2013年5月14日火曜日

翻訳夜話/村上春樹 柴田元幸

柴田元幸の「翻訳教室」を読んで、ひさびさに村上春樹との共著「翻訳夜話」を再読した。

印象に残ったのは、やはり、翻訳は直訳(逐語訳)が正統的で、意訳をすると原文からずれたり、凝りすぎになってしまい、好ましくないという考えを二人とも持っていたことだ。

この本には、レイモンド・カーヴァー(村上春樹が専門で訳している)と、ポール・オースター(柴田元幸が専門)の短編について、村上・柴田が「競訳」しているのだが、その二人の訳文を話し合っている中で、村上春樹が過去に訳したカーヴァーの文章の一文について、(訳の)方向性は合っているが、今の自分だったらこうは訳さない、原文の忠実さから離れてしまっていることをコメントしていた。

確かに、村上春樹の訳は、逐語訳に近いと思う。
これはチャンドラーの「ロング・グッパイ」を原文と照らしながら読んだ者の感想である。
好みからいうと、清水俊二訳の言い回しのほうが好きな場合が多いが、原文への忠実さという観点では、文句なしに、村上春樹訳のほうが優れている。

この翻訳のスタンスに興味を覚えたのは、この本の中でも論じられている「重訳」の問題だ。

たとえば、村上春樹の作品がノルウェーでは四冊翻訳されているが、そのうち、二冊は日本語からノルウェー語への直訳で、残り二冊は英語からノルウェー語への翻訳だったという。

このように、日本語から英語、英語からノルウェー語という一つの外国語を経由して翻訳されることを「重訳」というらしいが、ほとんどの場合、この経由言語は「英語」らしい。出版業界では、事実上、英語が「リンガ・フランカ」(共通語)の地位を占めているという。

そして、「重訳」の場合、英訳の原文に対する正確性が特に重要になってくる。
いかに精度を高くして、オリジナルを忠実にコピーできるか。
まるで、コピー機の性能のようだが、それによって、「重訳」の結果、生じるノイズの量が変わってくる。

日本語の「リンガ・フランカ」としての地位は低いので、二人とも「重訳」のことを考えて、直訳(逐語訳)を重視するというわけではないのだろうが、原文(オリジナル)を大切にするという基本姿勢は、原作者へのリスペクトという思いから考えると、自然なスタンスだと思う。
(純粋に、お金のために気に入らない作品を訳している翻訳者もいるとは思うが)

村上春樹が、翻訳家を目指す若いひとたちに、好きな作家と好きなテキストを見つけて、一生懸命翻訳してくださいと言っているが、これが上達の一番の秘訣なのかもしれない。

2013年5月12日日曜日

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』で聴いたクラシック

前に、このブログでも取り上げた「小澤征爾さんと、音楽について話をする」の中で、小澤征爾と村上春樹が聴いた楽曲が収められたCDが発売されたというので、買ってみた。

CDがレコードみたいな装丁でいいですね。




せっかちな性質なので、早速、小澤征爾がボストン交響楽団で指揮したグスタフ・マーラーの

「交響曲第2番《復活》」、

「交響曲第8番《千人の交響曲》から 神秘の合唱」、

「交響曲第1番《巨人》から 第3楽章」、そして同じ曲を、サイトウ・キネン・オーケストラが演奏したものとの聴き比べ

を聴いてしまった。

文中、小澤・村上が、ちょっと気違いじみていると言った感覚がなんとなく分かった。
久々に鳥肌が立つような音楽でした。

2013年5月11日土曜日

翻訳教室/柴田元幸

柴田元幸氏は、東大文学部の教授で、英米文学の翻訳家でもある。
その柴田教授が行った2004年当時の翻訳演習の授業内容をまとめたのが、本書である。

学生には事前に課題文(単行本で1~3ページ相当の英文)が配られ、学生全員がそれを翻訳し、訳文を提出する。
その訳文を柴田教授と助手の院生が手分けして添削し、コメントをつけて授業のときに返却する。学生は自分の訳文を見ながら授業を受ける。

授業では、柴田教授が選択した学生の訳文をOHC(書画カメラ)で写し、学生たちと議論しながら、赤を入れていく。
授業終了時に、次回の課題文の訳文を提出する。
これを1年間繰り返す。

ご本人も「まえがき」に書いているが、これは、かなりキツイ講座だという感じがする。
少なくとも、自分が学生という立場だったら、面白そうだけれど大変そうだなと思い、選択するのに躊躇しただろう。

訳文を毎回作るのも大変そうだし、万が一、授業で取り上げられると、みんなに、ここはおかしいんじゃないかと批評されたり、誤訳であると指摘されてしまうのである。
(もっとも、本書で取り上げられた訳文は、いずれも相当なレベルのものだった)

しかし、こうして本で読む分には非常に気楽である。私は楽しみながら読むことができた。

取り上げられている課題文も多種多様。

センチメンタルな印象のスチュアート・ダイベックの「故郷」、どこかユーモアが漂うバリー・ユアグローの「鯉」、レイモンド・カーヴァーのちょっと不気味な雰囲気の「ある日常的力学」、村上春樹の短編「かえるくん、東京を救う」の英語訳「Super-Frog Saves Tokyo」など。

柴田教授のコメントも、私にとっては新鮮なものだった。

たとえば、翻訳において、「語順は、なるべく原文の語順どおりに訳す」とか、
「主語と述語はそんなに離れないほうがよい」とか
「代名詞は原則として抜き、しょうがないと思うときだけ、彼とか彼女を入れる」とか。

原文(作者が伝えたいことも含む)に忠実でありながら、いかに読みやすい自然な日本語にするか。言ってしまえばそれだけなのだが、ワンセンテンスであっても、言葉ひとつ変えただけで、様々なバリエーションが生まれる。そこが翻訳の面白さなのだと思った。

なお、本書には、村上春樹を迎え、学生たちが次々と質問をしている特別講座も収録されている。翻訳に関係ない話も多いが、この文章を読むだけでも、この本を買う価値はあるかもしれない。

ついでに言えば、本書には翻訳に必要となる辞書や辞典の紹介のページもあり、私にとっては非常に参考になった。

2013年4月14日日曜日

恋愛と色情/谷崎潤一郎

谷崎が中年(昭和6年なので、四十五歳か)の頃に書いた小論で、今読むと否応なく感じる時代的なギャップが面白い。

この中で、谷崎は、西洋文学が日本に及ぼした影響の最も大きいものの一つとして、「恋愛の開放」-さらに言えば「性欲の開放」にあったと述べている。

その例として、夏目漱石が書いた「三四郎」や「虞美人草」の女主人公が、西洋小説の人物のように「自覚ある女」を社会は求めていたが、まだそのような女性は当時の社会には出現しておらず、谷崎も「古い長い伝統を背負う日本の女性を西洋の女性の位置にまで引き上げようというのには、精神的にも肉体的にも数代のジェネレーションにわたる修練を要するのであって」と、このひときわ女性に対する渇仰が強かった小説家が淋しさを滲ましている。

谷崎が、ひどく残念がっているのは、当時の日本女性の肉体的な美が、十八、九歳から二十四、五歳までしか持たないことだったようで、三十代になると「ゲッソリと肩の肉が殺げ、腰の周りが変に間が抜けてヒョロヒョロ…」となってしまい、「聖なる淫婦」「みだらなる貞婦」が日本では有り得ないことを嘆いている。

今は、三十代になっても容姿が衰えない綺麗な女性は多いが、谷崎がいう「数代のジェネレーションにわたる修練」の賜物だろうか。
彼が芸術的に守ろうとした日本的な美や陰影は消し飛んでしまった現在であるが、こと、女性の肉体的な美という面では、谷崎が夢見ていた女性たちが出現した、彼にとってはある意味、理想的な社会になったのかもしれない。

谷崎がもうひとつ述べている興味深い点は、日本の男子が、この方面で比較的早く疲労してしまい、「あくどい淫楽に堪えられない人種である」と判じていることだ。

たとえば、西洋人のスポーツ好きを、谷崎は「西洋人のスポーツ好きはよほど彼等の性生活と密接な関係があるに違いない。うまい物をたらふく食うために腹を減らすのと同じ意味である」(笑)と推測しているが、日本人が同じようにスポーツをして強壮な肉体を持っても、「果たして彼等のようにあくどくなれるかどうかは疑問であると思う」と懐疑的な見解を示している。

その「あくどくない」理由として、谷崎は、日本の湿気の多いべとべとした気候のせいで、神経衰弱になったり、体が物憂くなり、「頭が馬鹿になって、体じゅうが、骨の髄から腐ったようになる」点を挙げている。(人の体質にもよると思うが、谷崎はかなり、この「湿気」に体調を崩されたようです)

彼が理想として挙げているのは、カリフォルニアのような天候で、「性欲に限らず、たとえば脂っこい食物や強烈な酒に飽満した時など、すべてあくどい歓楽の後では、すうっと上せの下るような清々しい空気に触れ、きれいに澄み切った青空を仰いでこそ、肉体の疲労も回復し、頭脳も再び冴えるのである」と述べている。

気候が影響しているかどうかは分からないが、日本の男子のそれは、昨今の「草食男子」という言葉が、この谷崎の予言を証明しているような気がする。

もっとも、谷崎は、その「あくどい淫楽に堪えられない人種」だからこそ、精力をそっちのほうで散逸せず、安逸に耽らず、年中たゆみなくせっせと働いたからこそ、「今日東洋に位しながら世界の一等国の班に列している」(まだ第二次世界大戦前)と判じている。

この点、「草食男子」的な日本男子が仕事で目立っているという話は聞かない。
むしろ、仕事ができる女性のほうが目立っているかもしれない。
これを谷崎が知ったら、彼はなんとコメントするだろうか。考えると、とても面白い。

2013年4月13日土曜日

文明の渚/池澤夏樹(岩波ブックレットNo.864)

本書には、著者が2012年8月26日に長野県須坂市で行った「信州岩波講座」の講演「3.11から学ぶこと」と質疑応答が収められている。

500円の薄い本だけれど、中味がたくさん詰まっている本です。
気になった文章に付箋をつけていたら、付箋だらけになってしまいました。

たとえば、震災当時の地方新聞社の話。
津波で浸水して輪転機が壊れてしまった石巻の「石巻日日新聞」では、若い記者たちが水と瓦礫の中を歩いてニュースを集め、壁新聞を作り、避難所に行き、貼って回った。
これは、ジャーナリストの鑑であると評判になったが、その「石巻日日新聞」の編集者は、著者にこう言ったという。

「壁新聞を作ったと褒められますが、そんなことは当然のことです。大船渡の東海新報は最初から今回のような出来事を想定して、何年も前に社屋を高い場所に移し、自家発電の設備を作って、一日も欠かさずに新聞を発行した。かなわないですよ」

こういう感情に流されない冷静な視点を持った人々の話や行動が読んでいて心地よい。

それは、著者の感性や行動にも言えることで、たとえば、ボランティアという言葉の本当の意味も分からない日本の老いた政治家の発言を笑うところや、被災地に必要物資を届けるボランティアをしていた著者がチェーンソーを届けたエピソードも、同じように読んでいて心地よかった。

国や専門家が言ったことを鵜呑みにせず、自分で見て考えて行動すること。
当たり前のことだけれど、その重要性に多くの日本人があの震災で気づいたのではないかと著者は考える。

一方、政治と行政はどうだったのか。

阪神淡路大震災を体験した精神科医 中井久夫(著書:災害がほんとうに襲った時)の

「災害において柔らかい頭はますます柔らかく、固い頭はますます固くなる」

という言葉が引用されているが、いまだに被災地において復興が進まない現状をよく表している。

原発についても書かれているが、テクノファシズム(俺たちが決めるから、言うことを聞け)という概念と、テクノポピュリズム(あなた方で決めなさい)と投げてしまうという概念を用いて説明しているのが面白いと思った。

後者が、民主党政権だったとすれば、前者は今の安部自民党政権のスタンスのような気もする。
そして、その両極端の間に、「考えて議論して勉強して、という道があるのですが、それは容易ではないですよ。しかし、その容易でないところに来てしまっている」と著者は述べている。

また、原子力を捨てられるかという点について、
「日本人は江戸時代に鉄砲を捨てました。アメリカがいまだにできないことを、日本はあの時代にやってしまったのです。それから最近の例で言えば、フロンガスは手放しました。…さあ、核はどうでしょうか。この電気漬けの生活は捨てられるか。」とも。

これらの言葉に象徴されるように、この本は、決して、あの震災を嘆き悲しみ、それを克服しようとする人々に感動することだけを読者に求めていない。
講演の最後に述べた著者のメッセージからも、それは分かる。

「よく見て、新聞を読んで、考えて、悩んで、迷ってください。…ある意見を聴いて、ああそうか、と思ったら別の意見を聴いて、いろいろな意見を自分の頭の中でぶつけてみてください。それが多分、それぞれの考える力を磨くことだから。」

2013年4月7日日曜日

ハルマゲドンの少女/平井和正

この本は発売されたときに、本をめくって、とても読む気になれないと思い、本棚に戻した記憶がある。

稚拙な(といっては失礼か)イラストでカバーされた表紙がいただけなかったし、何より、シナリオ形式という”簡略”的な形式に幻滅したのではないかと思う。

この本を取るにあたって、何故、今更、この「幻魔大戦」を自分は読んでいるのだろうと自問する。
この小説で説こうとした幻魔という悪に対する正義は、少なくとも日本の現在において既に終わっている、ほぼ自明のことではないかという思いが、やはりする。
(まだ、世界では、”自明”ではない国もあるとは思う)

「幻魔大戦」発表後、日本の社会環境も大きく変わった。
「無印」の舞台であった1967年の頃のような高度成長期を通り過ぎ、行き過ぎたバブル経済を迎え、それが崩壊し、未来は決して明るいものではないという思いが今も続いているような気がする。

その間、ノストラダムスの地球滅亡の予言ははずれたが、ハルマゲドンというには大袈裟かもしれないが、近い出来事も起こっている。
「阪神大震災」、「オウム真理教地下鉄サリン事件」、「9.11アメリカ同時多発テロ事件」、「東日本大震災」、「北朝鮮の軍事的挑発」など。

しかし、何より、その前に、二度に渡る世界大戦、冷戦時代というハルマゲドンを人類はすでに経験していたのだ。

これらの出来事が起きたとき/起きているとき、私たちは”東丈”のような救世主を求めた/求めることはなかった。私たちは”東丈”が存在しない世界で生きている。
むしろ、多くの人々が、「幻魔大戦」の一連の物語で説こうとしていたとおり、その場その場で、自分自身が自覚して物事を考え、対処し、時には絶望しながらも、反省し、やり直し、人との、世界とのつながりを強くしていこう、という行動を、少なくとも日本では、「幻魔大戦」を読まずとも自然にとっていたのではないか、という気がする。
(ただし、世界規模では、この行動規範が共有化されていない国もあるとは思う)

そんな思いを持ちながらも、あらためて「幻魔大戦」を再読したのは、未完の物語に対する少年時代の欲求不満の解消と、最近、全く本屋で新刊を見なくなってしまった作者 平井和正の現状と、ネットでの音信不通に、寂しさを覚えたからかもしれない。

いずれにせよ、「ハルマゲドンの少女」を、初めて読んでみた。
今まで、疑問に思っていた部分が解消されたところもあるし、そうでないところもあるが、”ファイナル”と銘打たれている意味は確かにあると思う。
私が漠然と不満に思っていた未完の物語のあらすじの一部は提示されていたのだ。

過去のこのページでは「幻魔大戦」および「真幻魔大戦」の物語のあらすじを書いていたが、この小説だけは書けそうもない。
ネタバレしてしまうと、読む気を失ってしまいそうな気がする。

逆に言えば、今まであらすじを書いていた「幻魔大戦」および「真幻魔大戦」の物語は、ネタバレしても、読んで面白い作品であると十分確信していたからなのだが。

なお、作者は、幻魔大戦の続編として、2005年に『幻魔大戦deep』、2008年に『幻魔大戦deep トルテック』を電子書籍で販売している。

2013年4月6日土曜日

真幻魔大戦16~18/平井和正

真幻魔大戦16「犬の帝国」、17「幻魔書」、18「黄金の獣神」により、真幻魔大戦の物語も未完のまま終わることとなる。

「犬の帝国」は、犬の獣人の軍隊に、ソル王女、クロノス、ドナーが洞窟基地に収監され、クロノスは高圧の水流で虐待を受け、ドナーは連れていたウサギ少女ラチルを奪われ、一方的な軍事裁判を受けた後、クロノスが暗黒儀式の生贄として獣姦され死んでしまう(幽体離脱)という過酷な内容になっている。

「幻魔書」では、ソル王女が、暗黒儀式の主宰者である犬人族の高級将官、高級僧侶と対決し、彼らが霊物として持っていた「幻魔書」から、幻魔の地球司政官である堕天使ルキフェル(サタン)を呼び出し、対話することになるが、ルキフェルの意外な姿が明らかになる。
そして、クロノスもルキフェルと対話することで甦るが、「神罰杖」を使って獣人たちに復讐することで、意識を失ってしまう。ソル王女は、非常警報が鳴る洞窟基地の中、クロノスを連れて外に出ようとする。

「黄金の獣神」では、牢獄に囚われていたドナーが、ドナーを利用しようと考えている狐面の犬人キールと、テリヤの顔面をした犬人ダズンを伴い、人が変わったように暴力的な戦士と化し、犬の兵隊に連れ去られたウサギ少女ラチルを探すが、人食いの兵隊ゼンダイに虐殺され食べられてしまったことを知る。
怒りのあまり、精神に失調を来たし、意識を失ったドナーと別に捕らえられたクロノス(ソル王女の行方は不明)は、獣人の高級将官メルダイに八つ裂きの刑に処せられそうになるが、謎の黄金の獣神の出現により、メルダイは殺され、犬の獣人の艦隊と獣神の対決の場面で物語は終わる。

犬の獣人たちが支配する世界は一見異質な感じはするが、彼らの言動は明らかに動物ではなく人間の性質を現しており、その残虐さを戯画化したような雰囲気を全体に感じる。

ラチルの残虐な殺し方、クロノスを犯す獣人の姿は、人間の戦争に付きものの兵隊たちの姿なのだ。
この残虐な世界で、人が変わっていくクロノスとドナーに比べ、ソル王女はまったく当初の自分を失わない。そのソル王女が倦怠に沈む堕天使ルキフェルから彼自身を癒すことを期待されるという場面は、「ハルマゲドン」で見た助けを呼ぶ高鳥の前に現れた井沢郁江の姿にも重なるし、堕天使ルキフェルが実は”東丈”だったら、幻魔大戦全体における丈と郁江の関係につながるようにも解釈出る。

大体、このパートの始まりは、失踪した”東丈”を探し、連れ戻そうとした杉村優里が、日本の飛鳥時代では役の小角を、杉村優里がクロノスになってからは、ギリシア時代ではアポロを、ムー大陸の超古代世界とつながった超空間では赤ちゃんの東丈を見つけていたのだ。
だとすると、この幻魔世界に近い獣人の世界にいた東丈は誰だったのだろう。
最後に出てきた謎の黄金の獣神なのか、ルキフェルなのか。
ソル王女はどうなってしまったのか。などなど
いずれにせよ、物語を現代から超古代へどんどん広げて、魅力的な登場人物を残したまま、真幻魔大戦の物語は終わってしまった。

2013年3月26日火曜日

真幻魔大戦14~15/平井和正

真幻魔大戦14「ムウの人狼」は、超古代世界のムー大陸の時代に、3万年後のギリシアの世界から、アポロ(東丈の前世)神託により送り込まれたクロノス(杉村優里の前世)が、マリ・ソル神殿に仕えるソル王女(井沢郁江の前世)らと、禁域である超空間に入り込み、死んだと思われたソニー・リンクスや、東丈の乗ったジェット・ライナーでともに行方不明になっていたジョージ・ドナー、出産間近のミチコ(東丈の姉)とその赤ちゃん(東丈)と出会う物語だ。

率直にいって面白い。前巻でこの世界に送り込まれた犬神小石が人狼ナルになったのかとか、好戦的な武人ダヅラは、田崎に似ているが好色な部分があるとか、巫女のフォーリアが、平山圭子の前世であるとか、ソニーが心に負ってしまった幻魔の暗い記憶とは何なのかとか、「無印」の登場人物との関係を思いながら読むのも楽しいし、何より、井沢郁江を思わせる応えない性格のソル王女と、気性が激しいクロノスとのやりとりが面白い。

15巻の「不死身の戦士」は、個性もてんでバラバラなこれらの登場人物が、ソニーのテレポーテーションで、誤って幻魔世界に足を踏み入れてしまうという物語で、これも面白い。

幻魔のイメージをストレートに表現した凶暴な恐竜のようなトカゲ人と人狼ナル、ダヅラとの死闘、ドナーと恋愛関係になってしまうピーター・ラビットのようなウサギ人少女ラチル、戦前の日本帝国陸軍そっくりの雰囲気を持つ犬人間の軍隊。

これだけ奇怪な登場人物と物語の環境を作り上げた作者の想像力は素晴らしい。
現代の世界では地味な戦いになってしまった「幻魔大戦」が、ここにきてようやく派手な花を咲かせているという感じだ。

2013年3月18日月曜日

真幻魔大戦11~13/平井和正

真幻魔大戦11「妖惑者」、12「魔の山」、13「験比べ」は、飛鳥時代の大峰山脈に、杉村優里がタイムスリップし、東丈の前世である役の小角に出会う物語だ。

その世界には、”鋼鬼”と呼ばれる記憶を失ったサイボーグ・ベガが小角に従者として仕えており、小角の異母妹として、杉村由紀の前世である雪野がいる。

また、CRAの創始者と思われる謎の人物 大角重の前世と思われる小角の父親”大角”がいて、”月影”の前世とおもわれる犬神一族の”せぐろ”がいる。

ここでは、杉村優里の出現により、修行を棒に振り色に迷ってしまった修験者 大足と、彼女の超能力に、正常な子が生まれないという一族の存続を賭けようとする犬神一族、杉村優里の前世である”クロノス”を知る大蛇と化した幻魔、優里と話すうちに徐々に東丈の意識を持ち始める小角が描かれている。

大足や大角の淫らな性欲、小角と大足の超能力対決、小角と犬神、ベガと犬神の対決、さらにはPK能力を発揮しはじめた優里と大足、優里と犬神の女との対決など、作者お得意の若干下品とも思えるセックス描写とアクションの場面が、これでもかと続く。

正直、ほとんどが山の中での話なので、時代背景を飛鳥時代にする必然性は、東丈の前世を役の小角にすること以外、ほとんど感じられない。

しかし、物語最後に、時空の門の前で、小角が東丈の、さらにはアポロの意識を取り戻し、ベガも自らを取り戻し、丈にルナ王女やソニー・リンクスの所在を尋ねる場面は、過去の物語がつながり、一歩進展した感がある。

この後、物語は、超古代文明が繁栄していたムー大陸に舞台を移す。

2013年3月17日日曜日

真幻魔大戦9~10/平井和正

真幻魔大戦9「秘密預言書」、10「鬼界漂流」。

ニューヨークからロスへと向かうジェットライナーから消えた東丈とその関係者。
それを日本でサイキックな感覚で察知し、丈の行方を捜す秘書の杉村優里。
ここからは、彼女が主役となって物語が進んでいく。

失意に沈む優里を襲う諜報機関らしき男たち、夢魔の攻撃、そして、彼女を庇護しようとする人狼の”月影”と出会う中、優里は、自らの精神の中に、時を継ぐ者”お時”と”ムーンライト”の意識に目覚める。

そして、この9巻では、東丈の前世、由井小雪だった頃の「新」幻魔大戦とのつながり、10巻では「無印」幻魔大戦とのつながりが明らかになる。

CRAという秘密教団が優里に接触し、彼女はそこで、「無印」の活動舞台であったGENKENに属していた人々、菊谷明子、井沢郁恵、木村市枝、平山圭子と父親の圭吾、田崎、河合康夫らと出会い、「無印」での記憶、杉村由紀(優里の母親)の記憶を取り戻す。

CRAは、大角重という「無印」では登場しなかった人物が興した預言教団で、「無印」の世界の記憶を取り戻したGENKENのメンバーたちの受け皿となり、その盟主である東丈の帰還を待っていたのだ。

個人的に興味深いのは、このCRAに顔を出さない人たちである。
その代表が高鳥慶輔であるが、文中、CRAのメンバーとの会話でこんな気になる言葉が出てくる

「初めての講演会の後、彼が来て…ほら、あのカッコいい彼だよ。名前、なんていったっけ、そう、そうだった。あれが結局、超能力者全員集合のきっかけだったな。あの後いっせいにいろんなことが起きたんだ…」

初めての講演会といえば、クリスマスの日に東丈が行った講演会で、その後に来た目立つ人物といえば、高鳥慶輔ぐらいである。
あの後に起こったという「いろんなこと」も気になるが、「名前、なんていったっけ」という存在感のなさにも驚く。

また、久保陽子や江田四郎については、「無印」の世界での敵として明確に認識されているのに、彼については一言も触れられていない。

この旧GENKENのメンバーに出会ったことで、杉村優里は、時を継ぐ者として、失踪した東丈を探す役割を認識するのだが、彼女の探索は、現代ではなく、過去に対して行われるものだった。

この後、、杉村優里は、木村市枝とともに、風間蘭の住まいを訪ねた際、異次元の入口に足を踏み入れてしまい、飛鳥時代にタイムスリップしてしまう。

2013年3月16日土曜日

真幻魔大戦7~8/平井和正

真幻魔大戦7「サイキック・ゲーム」と8の「ソウル・イーター」

映画のレセプションと行方不明になった姉と弟を探しに、ニューヨークに来た東丈。
彼は、ここで、姉と弟の行方を捜すべく、著名な心霊能力者であるデビッド・ロートンに出会う。

丈とロートンが行う”サタン”の存在をめぐる議論は、この真幻魔大戦で描かれる唯一の宗教をめぐる考察かもしれない。

”サタン”について話し合うことになってしまったのは、丈が、タイガーマンなど、邪悪な心霊的勢力にさらされているせいなのだが、同時に、”善”のサイキック・パワーに守られていることをロートンに霊視される。

ここで、丈がきっぱりと表明する”サタン”という中世的な存在に対する嫌悪感と拒絶は、ある意味、常識的なものだが、物語としてつまらないものになってしまわないのは、ニューヨークに来てから見せるおかしなまでの東丈の強気の魅力だろう。

彼はアメリカ人たちに全く下手の姿勢をみせず、英語もしゃべることができるのに、あえてしゃべらず、かなり強気な上から目線の態度で物事に当たっていく。

その最たるものが、CIAに拉致された時の対応で、丈と連れの亜由を暴力で脅迫しようとする諜報員に対して見せる明確な拒絶と侮蔑の言動だろう。

暴力にも屈せず、敵方であるクェーサーが送り込んだチャーリーズ・エンジェルのような三人のサイキック美女の誘惑も、義妹の誘惑も軽くかわし、ガールフレンドの突然の嫌悪にも動じず、東丈は、全く超能力を行使していないにもかかわらず、ある意味、無敵の状態になっているのだ。

しかし、そんな東丈と彼を取り巻く敵と味方が搭乗したロスへと向かう飛行機が、”サタン”の攻撃に襲われ、墜落の危機に陥る。

丈が、その破滅の瞬間、ルナ姫と邂逅することで、「無印」のときの記憶を取り戻し、救世主としての力を復活させるシーンがこの物語の一つのピークをなしているのは間違いないだろう。

しかし、恐ろしいことに、作者は「無印」同様、ここで、また東丈を行方不明にしてしまうのだ。
ウーン!!

2013年3月12日火曜日

NHK【ETV特集】何が書かれなかったのか~政府原発事故調査~

政府原発事故調査委員会の元委員が再び集まって事故調査への不満に関して率直な思いを述べた三時間の記録。

http://www.nhk.or.jp/etv21c/file/2013/0310.html

☆元委員の主な発言

・事故対策で日本は海外に遅れていた。
 たとえば、アメリカの原発では備置されている簡易移動型のバッテリー機器などが福島の原発にあれば、メルトダウンは防げた可能性がある。(技術顧問)

・官僚が書いた文章だから手堅いが、読み手(ユーザ)を意識していない読みにくい報告書になった。
・原発事故による被害の全貌が分からぬまま、幕引きになってしまった。(女性弁護士)

(そもそも、この事故調査委員会には、裏方に検察庁、法務省、財務省などの官僚で構成された事務局があり、関係者への聞き取り調査や、報告書の大部分の執筆を行っていた事実がある)

・被害者の声をもっと聞くべきだ。継続的な調査を行うべきだ。(川俣町長)

・事故の再現実験をやるべきだ。事故の後に何が起きるのかを知るべきだ。
・特に、何故、圧力容器の水位計が誤った数値を示していたのかの再現実験をすべきだった。
このような誤りを起こす水位計は日本の原発の半数でいまだに使われている。(委員長の畑中洋太郎)

・原子力機構を担っている官僚機構の問題。この国は、中央官庁の課長級クラスが権限を持ち、物事を決定しており、その課長の能力次第で左右される。
・例として、オフサイトセンターで、放射性物質を遮断する空気浄化フィルターが設置されていなかった問題(これが原因でオフサイトセンターは今回使い物にならなかった)があり、総務省の勧告を受けながらも、何故対応しなかったか、対応見送りを誰が決めたのかまで追求できなかった。(技術顧問)

・緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)が全く有効に使われなかったこと。発案した担当者の思想が後任者に引き継がれていなかった(放射線専門家)

・審議官クラスだけを実名として挙げても駄目で、どこのセクションの誰がそのような意思決定をしたのかが分からないと、問題の根本的な原因は分からない。報告書では、責任追及しないというポリシーだったため、幹部以外は組織名も明らかにできなかった(科学史専門家)

(実は原子力規制委員会の課長クラスも、旧保安院の課長クラスがスライドしてきただけという事実もある)

・総理大臣が30分でも1時間でも、この報告書に関して、委員と意見を交わす時間を持つべきだ。(川俣町長)

・政府事故調、国会事故調、民間事故調、いずれも報告が出ているが、決定版が出ていない。(技術顧問)

この番組をみて、つくづく思ったが、報告書を出せば、はい終わり、ではないのだ。
これだけの労力をかけて作成した報告書を生かすためには、原子力行政に対する定期的なチェックも必要だろうし、今回三時間でこれだけの問題点が挙がってきたということは、さらに調査・検討が必要になってくるだろう。

たとえば、廃炉までの40年間、国として、今回の委員に匹敵する人材を集めた事故調査委員会を設置し、継続的な調査を行ってもよいのではないだろうか?

2013年3月11日月曜日

NHKスペシャル メルトダウン 原子炉"冷却"の死角

2年経った今も、東京電力福島第一原子力発電所の事故が、何故起きてしまったのか、十分な解明ができていない実態が明らかにされていて、非常に興味深かった。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0310/

http://datazoo.jp/tv/NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB/628632

NHKスペシャル「メルトダウン 原子炉"冷却"の死角」では、1号機と3号機で、何故メルトダウンが起きてしまったかを詳細に検証していて、

1号機では、全電源喪失でも動くはずの非常用復水器(イソコン)が止まっていたことに、東京電力の現場の人たちが気づかなかった原因について。

・電源がなくても動くはずだという思い込み。
・1号機の水位計の水位が2メートル近く下がっていることがわかったが、2号機の電源がないと動かない冷却装置の方に気をとられていた。
・ブタの鼻と呼ばれる換気口から出る水蒸気で、イソコンが動いているものと誤認した。
 実際に動いているときに、どのような水蒸気が出るのか、誰も知らなかった。

3号機では、消防車による代替注水(注水ホースをパイプにつなぎ、原子炉に水を入れる)という方法がとられていたが、原子炉に向かうはずだった大量の水が、途中、復水器という別の抜け道に流れていってしまった可能性が高いという。
復水器に入る水を止めるためのポンプが電気がなくなったことで止まっていたことが原因らしい。

イタリアの実験施設で行った実験の結果から試算したところ、消防車から注水した55%が復水器に漏れ出たことがわかった。
専門家の意見では、もし、消防注水の水が原子炉に75%以上届いていれば3号機のメルトダウンは防げた可能性があったという。

こういった事実は、NHKの独自取材で浮かび上がってきた事実ということで、国会事故調査委員会でも指摘されていない事実だという。

そして、日本の他の原発では福島の事故以降も、消防車や給水ポンプの配備は進められているが、実際注水した時に抜け道がないかどうかの検証は行われていないという。

もっと深刻なのは、4号機のプールに蓄積されていたあった燃料棒の冷却機能が失われていた際に、高い放射能のため、現場では作業員が近づくことすらできず、手の打ちようがなかったということだ。これは、幸いにも、水素爆発で建屋が吹き飛び、上からの注水が可能となって、メルトダウンだけは避けられた。
(もし、メルトダウンが起きていたら、最悪、関東圏も避難区域となっていた)

そして、この4号機のメルトダウンの危機回避のための検証もまだされていないという。

こういった検証をNHKが行っているのはすばらしいことだと思うが、何故、国が、東電がやらないのだろうか。
それでいて、何故、原発を再稼動して問題ないと言い切れるのだろうか。

2013年3月10日日曜日

真幻魔大戦5~6/平井和正

東丈は、自身が書いた小説を原作とした製作費100億円もの救世主映画のレセプションに出席する。

何となく80年代のバブルっぽいエピソード。

ここで、東丈は「無印」でみせたような、聴衆を魅了するスピーチを行うが、ムーンライトを連れ去った風間亜土という美少年が映画監督として会場に登場することで、主役の座を奪われてしまう。

このムーンライトを連れ去った風間亜土という美少年や、その亜土にそっくりな蘭という妹が登場するのだが、いまひとつ人物の描き方として奥行きがない。
読者として、何となくイメージしづらいのだ。

また、この5巻では、東丈がスタイリストの中田亜由と一緒に寝るシーンがあるのだが、この女性も何となく影が薄い。
東丈がセックスの喜びを感じないように肉感的な部分を切除された女性にされてしまっている感がある。
こんなところに、この主人公の悲劇性を感じてしまうのは、私だけだろうか。

東丈が、映画の記者会見で見せる、しつこい記者の質問をかわす、意外に世慣れた場面や、事務所に突然押しかけてきた気の触れた気味の悪い男を、これまた手際よく対応する場面のほうが、意外と面白い。

反対に、6巻では、丈の弟の妻である洋子と、友達である久保陽子が、丈に化けた幻魔が夢魔として夜毎訪れ、犯されるシーンが生々しく描かれていている。

しかし、幻魔に襲われたからといって、なぜ、東丈はここまで久保陽子に冷たいのだろう。
もとはといえば、丈がずっと付き合いながらも男女の関係に踏み込まなかったことが原因なのだ。
高校時代からの付き合いであれば、もっと親身になって助けてあげてもよいのではないかと思ってしまう。

「無印」で東丈が一時期見せていた優しさや繊細さは、「真」ではあまり感じられない。
ある意味、倨傲なトーンが強いのだ。
(幻魔に付けねらわれる東丈が無意識に自分を守るべく意識を閉じていると説明できるとは思うが)

この6巻では、高次元意識体リアリー、アル・クラウドらと、意識体と化して招待されたムーン・ライトが話し合う、まるで、チェス盤をにらむ神々のような様子が描かれており、幻魔大戦の裏舞台、すなわち、「新」→「無印」→「真」と、幻魔との戦いで地球が滅亡してきた経緯と、その真の目的が説明されている。

ある意味、おかしいのは、その高次元意識体らの話す内容が非常に分かりやすいということで、
人間世界の「無印」における東丈の失踪のほうが、よっぽど謎めいていて高次元っぽいということだ。

2013年3月9日土曜日

NHKスペシャル 3.11 あの日から2年~大川小学校 遺族たちの2年~

宮城県石巻 大川小学校では、あの震災の日、津波で全校児童108人のうち70人が亡くなり、4人が行方不明、先生も10名亡くなられた。

番組では、亡くなった子供たちを未だに思い続けている遺族が紹介されていた。

子供たちと一緒に作っていた自家製キムチに子供たちの名前をつける祖父、
小学校六年生の娘を失い、自分がその場にいたら救えただろうかと自問する中学校の教師。

そして、自分の息子が子供たちを守れなかったことを申し訳なく思い、息子への思いも公言できず、ひっそりと暮らしている、亡くなった二十代の教師の両親。

この番組でもっとも印象に残ったのが、その教師の両親が、「私たちはその場にいた先生を責めるつもりはありません」というコメントを亡くなった生徒たちの遺族が記者会見で述べたことを新聞記事で読んだときに救われたという話だった。

思いは言葉にして表現することが大事なのだと改めて思った。

道義的に見ても、その教師の両親が責められるべき立場では決してないのに、亡くなった息子の思いをまるごと受け止め、息子が救うことができなかったクラスの生徒たちの写真を畑仕事に行く際にずっと持ち続けている姿に心を打たれた。

震災後、その両親が葉牡丹を育てている畑の隣で、畑を耕していた婦人が、両親と話を交わすようになり、ふとしたことで写真を見つけ、その教師のクラスに亡くなった自分の孫がいたことをはじめて知ったという。

その婦人の勧めで、両親が育てた葉牡丹が大川小学校の中庭に飾られたという話に、どことなく安堵感を覚えた。

あれから、もう少しで2年。
でも、いまだに失った人々を思い続け、悲しみに耐えながら日々を静かに過ごしている人たちがいるのだということを忘れたくはないと思った。

2013年3月6日水曜日

真幻魔大戦3~4/平井和正

真幻魔大戦3「スリーピング・ビューティー」は、超多国籍企業クェーサーの極秘資料をムーンライトから手渡されてから、東丈に起きる様々な異変を描く。

突然、襲い掛かってきたムーンライトのボディーガード、高熱を出し超能力者となった東三千子、東丈を性的に誘惑する久保陽子(また、こんな扱い)。

しかし、この本の中で、一番面白かったのは、「無印」で五歳だった天才幼児ソニー・リンクスが少年になった姿が見られたことだ。

彼は年をとって、人間的には明らかに成長しているのだが、人格形成とは反比例に、テレポーテーションの力を弱めている。

ソニーは、クェーサーに反旗を翻したライアン機長の恋人スーザンをクェーサーの特殊工作員から救い出すのだが、自らはクェーサーのサイキック部隊に襲われ命を落とす(落としたと思われる)。

このソニーの最後の姿が最初に読んだとき謎だった。

エレベータのゲージに頭と右手を突っ込んで肉体と鋼板が融合している姿は、何となく、スターウォーズⅤ(帝国の逆襲)で、ハン・ソロがかけられたカーボン・フリーズのようなことになったのかなと思っていたのだが、これは、やはり、ソニーがテレポーテーションしようとして、力尽きてしまった姿なのだろう。

4巻の「メサイア・メーカー」は、東丈が書いた小説を原作として、百億円もの制作費をかけて救世主映画を作りたいという石室というプロデューサー(なんとなく、角川春樹っぽい)が現れる。

そして、そのプロデューサーの秘書が杉村優里(実は「無印」の杉村由紀の意識を持つ)だったが、彼女の強い希望で、東丈の秘書になる。

東丈には、相変わらずトラブル(攻撃?)が襲い掛かる。
仕事仲間の奥さんがヤクザに寝取られ、その後始末を引き受け、ヤクザに襲われる。
姉の三千子は突然姿を消し、丈の弟の卓がニューヨークで行方不明になり、その妻である洋子が、もともと気があった義兄の丈に性的誘惑をかける。

思えば、この巻にいたるまで、幻魔は姿を見せず、いずれも人間の悪しき行動にその影が見えるだけだ。まるで、ジョーカーがないババ抜きみたいに。

2013年3月5日火曜日

パン屋を襲う/村上春樹を、チラ見して

カット・メンシックの表紙に惹かれて、ついつい手にはとってしまったが、中身にはあまり気がひかれなかった。

もともとの小説「パン屋襲撃」も「パン屋再襲撃」も好きな作品だが、個人的に、こういう昔の作品を、ちょっと手直しして再販するやり方があまり好きでないのだ。

二つの作品をくっつけて一冊の本にしてしまうのも、何かいただけない。
私などは、「パン屋再襲撃」を読んだあと、村上春樹の全集を読んでいて、「パン屋襲撃」を発見し、本当にあったんだと妙に感動したときの気持ちが忘れられない。

「パン屋襲撃」は、どことなく、気ままに書いて打ち捨てられた雰囲気を持つ作品のような気がして、全集にようやく顔を出すぐらいが俳味が利いていいなと個人的に思っていた。

それが、こう二つをくっつけてしまうと、何か直截すぎる感じがする。

そして、よせばいいのにページをめくってしまい、<ソニー・ベータ・ハイファイ>の文字が、<ソニー・ブルーレイ・レコーダー>に書き換えられているのを見て、さらにげんなりした。

私のイメージからいって、あの時、「僕」が見上げた空は、絶対に80年代の空でなければならない気がするのだ。

まだ、世界が重苦しい空気に覆われていない80年代の東京の夜明けの空、当時のハイテク製品のイメージとして、画質が売りだった<ソニー・ベータ・ハイファイ>はとてもぴったりくるのだ。
いまや、ブルーレイなど、どこのメーカーだって作っている。

作者は、最近の読者を想定して、ベータビデオなんて分からないだろうと、わざわざ親切にもブルーレイに代えたのかもしれないが、注釈でもつければいいのではないかと思ったりした。

これは、90年代にこの作品を読んで、’80年代の軽い空気感に魅せられた者の一人としての意見だ。
もちろん、チラ見程度なので、ちゃんと腰を据えて読めば、それなりに新しい良さも感じられるのかもしれない。でも、自分はたぶん駄目だろう。

2013年3月4日月曜日

双頭の船/池澤夏樹

震災復興のファンタジー作品とでも言うべきか。
でも、一気に読んでしまった。

不思議な話だ。
目的を見失い、物事の決断もできず彼女にも振られそうな主人公トモヒロが、高校の恩師の進めで、フェリー「しまなみ8」に乗船することになる。彼はそこで自転車を修理する仕事を与えられる。

船にはたくさんの放置自転車が運び込まれ、それを整備して、津波に襲われた被災地に届けようというのだ。船には、二百人ものボランティアが集まり、夜は船で寝て朝には被災地に下りて仕事をする。廃材を使って沸かしたお風呂もあり、美味しいうどんを作る食堂もある。

そのうち、様々な人々が船に集まり始める。

熊を北海道から岩手県まで、ベアマンと自称する奇妙な男とワゴン車で運んだ女性。
たくさんの犬や猫たち(実は死んだペットたち)を引き連れてきたヴェット。
金庫の鍵を開けるのが天才的に上手い自称金庫ピアニスト。
船上に仮設住宅を作るべきだと主張してきた押しの強い老人。
夫と子供の一人を亡くし、同じく妻と子供を亡くした二組の家族。
シベリアから北海道にオオカミを運ぶ仕事を依頼する世界動物連合の代表とベアマン。
夏祭りの日に音楽を演奏し、船に残っていたたくさんの死者を連れ去ったペルーのアマチュアミュージシャン。

最初、さえないフェリーだったはずの「しまなみ8」が、人々のたくさんの希望を乗せていき、船の名前が「さくら号」と変わるころには、家が数件建つほどの巨大な船のイメージに変わっていくのが面白い。

また、物語の最後のほうで、人々が死者に近い墓がある陸地に戻るか、さらに遠洋に船を進め、世界を旅しようという二派に分かれるのだが、後者の冒険派を否定的に描かないところも面白いと思った(物語でも被災の現実から逃げるのではないかという非難がでてくる)。
それどころか、冒険派が独立国家を目指し、ひょっこりひょうたん島の歌をもじった国歌斉唱まで描き、どこか楽しんでいる。

あくまで文章は軽く明るい。しかし、物語は童話めいているが、ところどころにあの震災の重さが感じられた。
死者への思いは消えず、そして、まだその再生の途中なのだと。

一つ物足りないと個人的に思ったのは、爆発で空が壊れてしまったところ(原発避難区域)のエピソードも読んでみたかったということだ。

これは、よくばりな発言だろうか。

2013年3月3日日曜日

真幻魔大戦1~2/平井和正

「真幻魔大戦」とは、いわゆる角川文庫版の「無印 幻魔大戦」と時期的に並行して書かれた、「無印」とは別世界での幻魔大戦の物語である。
当時は、徳間文庫版全18巻で読むことができた。

「無印」の世界では、1967年に戦いは始まるが1968年に幻魔にあっけなく破れ、地球は壊滅することになるが、「真」では幻魔の侵攻がまだ始まっていない12年後の1979年から物語が始まる。

登場人物も、主要人物である、東丈、三千子、ルナ姫、ソニー、ベガが登場するが、丈は29歳(無印では17歳)、ルナ姫はアルコール中毒で三年前に他界(その代わり、妹のリア姫が登場し、彼女の体に霊体として時に現れる)、ソニーも16歳ぐらいの少年になっているが多少、超能力に陰りがみられ、ベガは幻魔により、別の時空に飛ばされてしまっている。

丈の秘書であった杉村由紀もすでに他界しているが、彼女の娘である優里に、杉村由紀の意識が宿って登場する。

何故、このような別世界が存在しているのかというと、時間跳躍者である”お時”(この物語では、”ムーンライト”と名乗っている。彼女は「新幻魔大戦」というもうひとつの物語で描かれた別世界から来た)が、幻魔に打ち勝つべく、過去にタイムスリップして、人類に超能力者の血統を宿し、育てることで、幻魔との戦いに負け壊滅した地球の運命を変えようとしたことによる。

                  やり直し
「新」幻魔大戦(1999年滅亡)→→→→ 「無印」(1968年滅亡。失敗)
                 ↓       ↓
                  →→→→  「真」(12年後の世界)


真幻魔大戦1「ビッグ・プロローグ」では、ルナ姫の妹である第三王女リア姫が、アメリカへと向かうジェット機のなかで、ムーンライトに出会い、ルナ姫が降霊し、彼女が経験したフロイとの遭遇、幻魔大戦への召集を追体験するところから始まる。

リア姫が訪米する目的は、彼女のテレパシストとしての超能力を、多国籍企業クェーサーのカトー社長に買われたことによる。「無印」の冒頭でルナ姫を支援するメイン社長の会社を乗っ取ろうとしたカトーが、あと一歩のところでその陰謀を見破られ、敗退してしまったが、この世界では、超多国籍企業の帝王としてすでに君臨し、その取り巻きである醜悪な超能力者ドクター・レオナード・タイガーマンが力を振るっている。

このタイガーマンは、非常に輪郭がくっきりと描かれていて、ある意味、魅力的な悪役である。

第2巻「ESPファミリー」では、そのドクター・タイガーマンに催眠をかけられ危機に陥ったリア姫を、ムーンライトの力を借りた気弱なテレパシスト  ジョージ・ドナーの働きで、彼女の深層心理にいるルナ姫を呼び出し、危機を脱す。
一方、日本にいるムーンライトは、作家で超能力研究者である東丈と出会い、彼にクェーサーの超能力戦略を証拠づける極秘文書を手渡す。

当時、「真」は、「無印」と同じ世界で、アメリカでのルナ姫たちの活動を描いた作品ではないだろうかと勝手に期待して読み、ひどく気落ちしたのを覚えている。

パラレル・ワールドというのも、SFではおなじみの概念だが、この考えでいくと、人類は幻魔に負けても、何度でもやり直しができてしまうような気がして、「無印」で感じる緊張感や絶望感が「真」の物語では弱くなっているのは否めない。

作者は、1979年から1984年にかけて、ほぼ同時期に「無印」と「真」を書き続けた。「無印」がどんどん、精神的な内面に傾斜し、物語がゆっくりとしたペースで進んでいくのと正反対に、「真」では、宗教的な部分にはあまり触れず、どんどん物語がダイナミックに動いていく。

2013年2月25日月曜日

第二次幻魔大戦 ハルマゲドン 第八集(平井和正ライブラリー)

角川文庫20巻「光芒の宇宙」発行(1983年2月)の後、1987年8月に書かれているから、約4年6ヵ月後に続編として書かれた作品だ。

物語は、角川幻魔の話の流れを完全に継いでおり、高鳥慶輔がさらに幻魔に身を落としていく姿と、東丈失踪後の井沢郁江主導のGENKENの不和、丈の姉である三千子が木村市枝、平山親子の願いを受け、丈の正統な後継者として活動することを決意し、別のオフィスにいる郁江に会いにいくというストーリーだ。

この中で、やはり衝撃的なのは、高鳥慶輔と井沢郁江(霊体)がセックスする場面だろう。
これが原因で、幻魔大戦の物語から離れていった読者も多いと聞くが、確かにもっともな気がする。

しかし、冷静に読んでみると確かに郁江なのか?という疑念が芽生えてくる。
井沢郁江は、前世がムー大陸のソル王女であり、彼女は幻魔に相対してきた筋金入りの霊能力者である。

そして、郁江は、東丈を除き、高鳥が幻魔化しつつあることに最初に気づいた人物であり、その彼女が、東丈失踪後のわずか2ヵ月後に、幻魔を倒すため、高鳥慶輔の力を借りにいくというのは、あまりにも脈絡がない。

また、井沢郁江が接触した幻魔が彼女に変化することができ、高鳥の前に現れた姿がそのときの服装に酷似していたことからも、高鳥がセックスの時に感じた違和感が幻魔に憑依された久保陽子のときと酷似していたことからも、相手は井沢郁江に化けた幻魔だと考えるのが常識的な線だろうと思う。

しかし、作者は意図的と思えるほど、その辺を本物ではないかと疑わせるような書き方をしているため、井沢郁江を好ましいキャラクターと思っていた潔癖な読者には、明らかに誤解を与えても仕方がないような内容になっている。
(作者は意図的に「信は愛、信は力」を読者に試したのだろうか?)

結局、これらの謎は解かれぬまま、この作品は終了してしまい、二十五年以上経った今、この初代幻魔大戦(無印 幻魔大戦とも呼ばれているらしい)の続編を期待するのは、作者の年齢から言っても、もはや困難であろう。

困難というのは、少なくとも真幻魔大戦を読む限りでは、この物語の後で、三千子が炎の中で死に、そしてそれが丈が受けた最大最悪の試練だったということは、東丈が戻ってくることが必要であり、東丈がルナ王女と再会し、ルナ王女からの不器用なプロポーズを受けるシーンがあり、久保陽子とタイガーマンがさらに悪行を振るい、最終的に地球は火と氷の激烈な戦いの戦場と化し、地殻が割れ砕ける凄惨なマグマの奔流と大激変の中で破滅を迎える場面が訪れ、GENKENのメンバーが別の世界での再会を期すシーンを描かなければならないからだ。

おそらく、この第八集までのペースで小説を書いていたら、少なくとも後、10巻分は必要になるのではないかと思われる。

しかし、こうして、途中で終わった無印 幻魔大戦も、決して良い作品であったとは言えないが、読んで損をしたといえるほど悪い作品であったという思いはしない。

ひとつには、やはり、作者が地球を幻魔から守ろう(良くしていこう)と考える若者たちの考えや行動を丁寧に描いているからだろうと思う。

この幻魔大戦を書いていた直近で、作者が新興宗教団体に入っていた経験があり、それが影響していることは本人も認めているところであるが、およそ宗教団体に入ったこともない、その興味もなかった人間が読んでも、所々、面白いなと思わせる部分があるし、心を動かされる部分が確かにある。

ある意味、普通のジュブナイル小説の枠を超えてしまった救世主が登場する擬似宗教小説であり、それを大真面目に描いたこのような作品は、少なくとも他にはないと思う。

2013年2月24日日曜日

レイモンド・チャンドラーの生涯/フランク・マクシェイン

これは非常に読み応えのある本だ。

この一冊で、レイモンド・チャンドラーの人となり、数奇な人生の全体像が分かるだけでなく、彼の仕事に対する姿勢、作品に対する思い入れ、作家として成長していく過程も分かるという贅沢な本だ。

イギリス人の教養を身につけ、作品の中で、アメリカ、とりわけ、ロサンゼルスの風俗をイギリス人の視点から批評する姿勢が自然とあらわれている作家、会社経営を引退した40代半ばからデビューした遅咲きの作家、一回りも違う年上の人妻と結婚した作家、パイプを加えているがあまりマッチョな印象はなくむしろ神経質そうに写真に写っている作家。

その程度のアウトラインしか私にはチャンドラーの知識がなかったが、この本では、とりわけ、彼のアイリッシュ・アメリカンという生い立ち、父親不在の家庭環境、イギリスのパブリック・スクール時代に身につけた規律と古典の素養が与えた人格形成まで踏み込み、病気がちで神経質、勉強好きなチャンドラーの少年時代の姿を鮮やかに描き出している。

チャンドラーが様々な仕事を経験した後、石油会社で、会計課員から監査役、副社長へと昇進し、雇っていた弁護士から「ロサンゼルスで最高のオフィス・マネージャーで、おそらく世界でも最高の一人」と評されるほど、有能な経営者であったことも興味深い。

「私は石油事業の会社の役員をつとめたことがある。じっさいは高給をとる社員にすぎなかったが、八つの会社の役員で、三つの会社の社長であった。…」

しかし、内気な自分を元気づけるための酒におぼれ、年上の妻からは得られない愛情を得ようと若い女性社員と不倫関係になり、会社も休みがちとなり、実質、会社を首になってしまう。このとき、チャンドラーはすでに44歳。

会社を首になった後、彼が作家を目指すあたりの様子も面白い。
彼は短編小説の書き方を通信講座で勉強した。
そして、妻を養わなければならぬ45歳の男として、生活のために、粗悪紙で作られたパルプ雑誌といわれる安い大衆紙に、作家として勉強しながら稿料を得る生活を思いつく。
(このパルプ雑誌時代の彼の姿は、「二人の作家」に投影されている)

チャンドラーは、ダシール・ハメットの影響を受け、推理小説を書くことになる。

チャンドラーの作品の魅力は、何といっても洒落た会話にあるが、彼はアメリカの俗語(スラング)を意図的に使い、語順もしばしばでたらめなアメリカ人の会話をおもしろがり、標準英語の文章構造を用いながらも、アメリカ言葉を多用し、彼自身の語法を書き加え、リアルにひびく文章を書くことを目指していた。

チャンドラーの推理小説に対する考えも面白い。
彼は、伝統的な推理小説は、難解な情報を土台としているか、誤解しやすい情報を与えているから、根本的に不正直であると考え、

「ほんとうに正直な推理小説は、読者が謎をとくためのすべての材料が与えられ、重要なことが軽く扱われることがなく、重要でないことが誇大に扱われることもなく、事実そのものによって謎を解決することができ」るものだと考え、アガサ・クリスティーに対しては最大級の侮蔑を抱いていた。

彼の最初の長編「大いなる眠り」の作り方も興味深い。

それは、彼がパルプ雑誌に五年間、書き散らし、「絶滅したドードー鳥のように消え去る運命にあった」短編からみっしりと詰まった素材を救出し、つなぎ合わせ、一つの長編に組み立て直す作り方だった。
(このような小説の書き方は、その後の長編にもみられる。
 なお、日本では、村上春樹もこのような長編小説の作り方を行っている)

やがて、チャンドラーの作品が話題となり、その文学的名声がハリウッドへと導くことになる。
ビリー・ワイルダーとのエピソードも面白いが、ここでも、彼は酒と女で失敗する。

フランク・マクシェインも以下のように評している。

「結果からいうと、彼は酒を飲んでいたときに決して第一級の作品を書き上げていない。彼のパルプ小説のすべて、最初の六編の長編(「長いお別れ」まで)、最高のエッセイは彼が飲んでいないで、シシー(妻)と二人だけでの生活を送っていたときに書かれた。
映画のシナリオ、未完の作品(プードル・スプリングス物語)、最後の作品(プレイバック)は彼が撮影所生活にまきこまれ、情事にふけり、あるいはふけろうと考え、そして、酒びたりになっていたときに書かれた。」

ある意味、塗炭をなめる苦しみが晩年の彼にも続いた。
しかし、八十歳近くの病の重い妻を看護し、家事を取りしきり、自身も複数の病気を持ち、夜は不眠症に悩まされながらも、チャンドラーは彼の最高傑作といわれる「長いお別れ」を完成させる。

彼には、午前中をタイプライターに向かって文章を書くというよろこびがあったからだと、フランク・マクシェインは評している。

チャンドラーは、書くことを嫌っている作家の話を聞き、知人にそのことを書いた。

「言葉の魔術による創造に喜びを見出せない作家は、私にとってとうてい作家とはいえません。ものを書くということのために作家は生きているのです。どうして書くことを嫌うことができるのでしょう。」

チャンドラーは、最愛の妻シシーを失った後、酒におぼれ、拳銃自殺をはかり騒動を起こした。
周りの人々は彼を心配し、手厚く見守ったが、妻亡き後は、抑制を失ったように酒と女性関係の問題がふたたび生じ、死ぬ間際まで複数の女性に心をふらつかせ、それが原因で、みとる人もなく一人で死んだ。

この本を読んで、レイモンド・チャンドラーに、彼が生み出した私立探偵フィリップ・マーロウとの共通点(文明批評の視点、皮肉の利いた洒落た会話、センチメンタリストであることなど)も感じたが、それよりも強く、「長いお別れ」に出てくる礼儀正しい酔っ払いのテリー・レノックスや、同じく酒びたりのベストセラー作家のロジャー・ウェイドに、人間的な弱さという意味で共通点を感じた。

おそらく友人としては、決して付き合いやすい人ではなかったと思う。
しかし、結婚することになった友人にこんな魅力的な手紙を送ることができる人は、そうはいないだろう。

「ここに健全な忠告をしるしておく。私は知っている。

 一 彼女を短い手綱で乗りこなし、決して彼女があなたを乗りこなしてると思わせてはならない。

 二 コーヒーがまずかったら、そういわないで、ただ、床に捨てたまえ。

 三 彼女に年一回以上、家具の配置を変えさせてはならない。

 四 彼女が金を預け入れるのでないかぎり、共通の銀行口座を持ってはならない。

 五 争いごとの場合は、つねにあなたの罪であることを覚えておきたまえ。

 六 彼女を骨とう品店に近よらせてはならない。

 七 けっして彼女の女友だちをほめすぎてはならない。

 八 とくに、結婚はある意味で新聞にひじょうに似ていることをけっして忘れてはならない。
    あらゆる年のあらゆる日に新しくつくられなければならないのである。」

2013年2月20日水曜日

幻魔大戦 第七集(平井和正ライブラリー)


幻魔大戦 第七集(平井和正ライブラリー)は、角川文庫版でいうと、19巻と最終巻である20巻を収録している。

ここでの見所は、高鳥慶輔が、東丈の組織作りを真似て、真の救世主を気取りはじめたところを、詳細に描き始めたところだろう。
我々が新興宗教に持つイメージに近い世界が描かれている。
弟子に課す絶対服従、女性支配、他の教団へのスパイ潜入、マスコミを使ったイメージアップなど。

一方、経済界の重鎮を後援者につけた郁江率いるGENKENにも不協和音が立ち込める。郁江の周りを"宮内庁"と揶揄される秘書グループが取り囲む体制ができるなど、会の運営が次第に独善的なものになっていくことを、東三千子、木村市枝、田崎、河合康夫などが感じはじめる。

東丈が失踪してから二ヶ月も経っていないのに、すでにGENKENという組織は崩れ始めていた。
幻魔と戦う前にすでに、身内の中で自滅しようとしている人間の愚かさを率直に描いているところは好感がもてる。

結局、東丈は物語には復帰せず、その代わりに、姉の三千子が丈に匹敵するような霊能力と人格を発揮しはじめる。

猛火の中の東三千子を杉村由紀が幻視していたように、おそらく、作中、東三千子はアニメ同様、幻魔に殺されるのではないかと思っていたが、物語の最後では、彼女が主人公のような立場になっている。

あるいは、東丈は杉村由紀が幻視した三千子の未来を変えるため、自らの姿を消したのかもしれない。

しかし、では、東丈に変わる救世主は三千子が務めることになるのだろうか。

真幻魔大戦では、具体的なことは説明されていないが、1968年に、幻魔の侵攻により人類はあっけなく滅亡した事実が述べられている。
これは、東丈の不在により起きたことなのだろうか?
あるいは東丈は数ヵ月後にはGENKENに戻り、本格化する幻魔との戦いに身を投じたのだろうか?(個人的には、そのような可能性はないと思っている)

この物語は20巻の最後の時点で1968年の年初の時期までが描かれている。
作者は、ここまでの物語を第一次幻魔大戦と呼び、以降、第二次幻魔大戦(ハルマゲドン)という続編を書き始めるが、そこでも物語は前進しない。

まるで、ハルマゲドンの到来を恐れるように、新興宗教かぶれの大物の悪ともいえない器の高鳥と、組織の内紛にゆれるGENKENを際限なく描く。

一体、1968年に何が起きたのか、その最後までを書ききってほしいというのが読者の望みだけれど。

2013年2月19日火曜日

幻魔大戦 第六集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第六集(平井和正ライブラリー)は、角川文庫版でいうと、16巻から18巻までを収録している。

角川文庫版では、全20巻だから、いよいよ物語も最後への着地点に辿り着かなければならないが、その兆しはない。

東丈の失踪により、郁江が主導しようとするGENKENは、早くも分裂状態に陥るが、郁江の東丈がのり移ったかのような講演と、前世の記憶を平山圭子、田崎らから引き出す不思議現象を、巧みに会員に見せることによって、そのカリスマ性を現していく。

一方、東丈の失踪によりさらに気落ちした杉村由紀は、凶暴なヤクザ矢頭に襲われる。

ここでの小説的な工夫は、本当の敵である高鳥と久保陽子が結果的には杉村由紀を救ったという矛盾と、結局はその出来事を機に、杉村由紀がGENKENの信頼できる仲間の善意の力を借りず、独力で精神的に立ち直ったということだ。

そして、今まで裏方に徹していた姉の三千子が、丈の不在を埋めるべく、郁江の説得により積極的な活動をはじめようとする。

この第六集は、これらのこと以外はあまり語るべきことが見当たらない気がする。

2013年2月18日月曜日

幻魔大戦 第五集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第五集(平井和正ライブラリー)は、角川文庫版でいうと、13巻から15巻までを収録している。

この辺りからは、今回読み直して、こんなストーリーだったんだという思いが過ぎった。
それほど、この辺りからの物語の記憶がないのは、やはり、十代のころに読むには、かなり鬱陶しい内容が含まれていたからだろうと思った。

幻魔に虜にされた久保陽子と高鳥とのセックスの場面。
丈に対して不信感を抱いてしまった杉村由紀に対する高鳥と久保陽子による超能力による性的な攻撃。妙に人当たりがよい郁江にも化けることができる幻魔の存在など。

物語の場面も、箱根セミナー(GENKENの合宿)とか、弟子たちとランニングをするトレパン姿の東丈とか、そこで起こる不思議体験とか、反省修行とか、にわかに新興宗教っぽい風景が多く見られてくる。
(こうして書き出すと変に面白いような気もするが)

しかし、最も気落ちしてしまうのは、この箱根セミナーの宿泊所に、ソニーとルナ(但し霊体)が現れるのだが、彼らが何を目的に現れたのか、東丈と何を話したのかが一切語られないところだ。
(数日後に杉村由紀は東丈の代理人として、ルナの支援者でもある石油富豪のメイン社長とも会う予定でもあるのだが、その関係も何も説明されていない)

そして、主人公 東丈はセミナーの宿泊施設から突然失踪する。トレパン姿のまま(笑)。
ニューヨークに行き、ルナの活動に合流でもすれば、話も面白くなると勝手に思うのだが、以後、東丈の足どりは全く分からなくなる。

そして、東丈の代わりに、GENKENの代表を実質的に井沢郁江が務めることになりそうな雰囲気で物語が終わる。

不思議な話だが、小説を読んでいるとあまり面白くない感覚が強いのだが、こうして、ストーリーだけ抜き出すと、とても面白い小説に思えてくる。

2013年2月17日日曜日

幻魔大戦 第四集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第四集(平井和正ライブラリー)は、角川文庫版でいうと、10巻から12巻までを収録している。

おそらく、この10巻目が小説版 幻魔大戦、すなわち東丈がニューヨークのルナ姫たちと別れ、GENKENという組織を作るという独自の展開をみせた物語の、ひとつのピークであったことは間違いない。

言うまでもないが、子宮ガンに罹った井沢郁江が手術を前に病院から失踪し、大峰山脈で一人祈っていた東丈の前に現れた奇蹟の場面である。

それは、恋愛小説で、ようやく主人公が好きな相手と再会し結ばれる瞬間を読んだのと近い感覚がある。

久々に出会った二人が交わす東丈と井沢郁江の言動は、いかにも十七歳ぐらいの等身大のもので、読んでいて微笑ましいし、二人が手をつなぎながら、日輪を臨みながら空を飛ぶ最後の場面もすがすがしい。

就中、そのような感動的な場面でありながら、当の郁江が一面では冷めた意識を失っていないところが好感が持てるのかもしれない。
しかし、丈を信じつつも、その信を離れて自分を衝き動かそうとする力が自分に内在していることを、今この瞬間にも郁江は意識せずにいられなかった。

この第四集では、江田四郎に追われた女優を助けることがきっかけで、悪魔的な超能力を発揮しはじめる高鳥と、東丈と心の距離ができてしまった秘書 杉村由紀、目的は分からないがGENKENに戻ってきた久保陽子の姿も描かれている。

物語は、どんどん横軸へと拡大し、さまざまな登場人物が立ち現れるが、肝心のハルマゲドン(世界の終わり)への縦軸には進まない。

そのような思いに駆られるのが以降の物語の印象だ。

2013年2月16日土曜日

NHKスペシャル "核のゴミ"はどこへ ~検証・使用済み核燃料~

私は、再放送で見たのだが、ここまで踏み込んで取材し、分かりやすくまとめたNHKスタッフは素晴らしいと思った。
このような番組は、スポンサーがいる民放では決して取り上げることができないテーマであろう。

http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0210/index.html

http://togetter.com/li/453603

以下、番組の内容で核心となる部分をまとめてみました。

原子力発電所の稼動で生じる使用済み核燃料は、使用後も数年間、高い放熱を止めないため、原子力発電所内の貯蔵プールで冷やされている。

事故があった福島第一原子力発電所の屋根が吹き飛んだ4号機の建屋上部の貯蔵プールにも250トンもの使用済み核燃料が保管されていて、事故直後の電源喪失で冷却水が送れなくなったことにより、メルトダウンの危険が迫っていた。

幸い、必死の放水作業でメルトダウンは避けることができたが、それが起きた場合、政府の最悪のシナリオでは、原発から250km範囲の首都圏まで避難を強いられる事態になったという。

使用済み核燃料は福島第一原子力発電所に限らず、全国の原発等で貯蔵され、その量はすでに1万7千トンに達しているという。

これら使用済み核燃料は、日本の法律では、"ゴミ"として取り扱わず、"資源"として取り扱うこととなっており、再処理された燃料は再び核燃料として使用できるが、その際に出る廃液は、人が触れると数分で死に至るほど極めて強い放射線を持つため、ガラスと混ぜて固め、地下300mより深くに埋めることになっている。これがいわゆる"核のゴミ"だ。

しかし、日本では、上記のような再処理は行われたことがない。

再処理の要である青森県六ヶ所村再処理工場が、トラブルの連続で操業開始を延期し続けており、高速増殖炉「もんじゅ」も、1995年の事故以来、ほとんど稼動していない。

さらに、核のゴミを埋め立て処分する場所も決まっていない。
国の方針としては、数十億円規模の交付金をあげることで、埋立処分地の候補を、全国の地方自治体に募っているらしいが、福島原発の事故以降、立候補に名乗りをあげる自治体はないという。

埋め立てに適しているかの地質調査、住民の理解を得るための手続きなどで、仮に今、申請があったとしても、決まるには約三十年ほどかかるといわれている。

つまり、日本では、再処理ができない使用済み核燃料が行き場所もなく、原子力発電所の貯蔵プールに溜まり続けているのだ。

さらに問題なのは、いまだ稼動したことがない核燃料サイクル事業に数兆円の費用がかかっており、すでに電気料金として徴収されているという事実だ。

国からも、再処理施設を運営する日本原燃に出資する東京電力からも、経営上のリスクとして、事業を見直すべきであるとの意見が出された経緯があったようだが、結局、核燃料サイクル事業の継続が決定されたという。

最大の理由は、核燃料サイクル事業を中止することとなった場合、すでに再処理工場に送られてきた大量の使用済み核燃料が、その瞬間から"核のゴミ"となり、青森県との契約に基づき、使用元の原子力発電所に返還されることになり、保管場所を失った原子力発電所は稼動できなくなってしまうからだ。

番組の最後で、政府の「安全が確認できた原発から再稼動していく」方針に疑問を投げかけ、

「原発を動かすことは、新たな使用済み核燃料を生み、新たな核のゴミを増やすことを意味する。"核のゴミ"問題の解決から目を背けることは、もはや許されない」

と述べていたが、そのとおり。

今また放置すれば、さらに問題は大きくなって、私たちに跳ね返ってくる。

2013年2月12日火曜日

幻魔大戦 第三集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第三集(平井和正ライブラリー)は、角川文庫版でいうと、7巻から9巻までを収録している。

この巻では、東丈の最初の支援者であり、崇拝者であった久保陽子が、丈への濁った独占欲から逃れられずにいたところを幻魔の手先となった江田四郎に騙され、拉致されたいたところを、東丈と三千子、井沢郁江、田崎宏が助けにいくという展開からはじまる。

久保陽子に対して江田四郎の行った変質的な行為の記述は避けられているが、三千子がみた幻視によると、内面から幻魔に食い荒らされてしまっているという物語的にはショッキングな展開である。

しかし、私にはどうしても盛り上がらない感じを覚える。

最大の理由は、江田四郎という人物の書き方で、幻魔という別のものに変化してしまっているからかもしれないが、悪人としてあまり魅力的でないのだ。これは作者があまり愛情をもって描いていないせいだと思うが、紋切り型の十九世紀的悪魔とでも言おうか、あまりにも古い印象の悪魔なのだ。(平井和正は、悪人を描くのがとても上手い作家であると思う)

それは、井沢郁江を逆恨みした久保陽子が、毎晩午前二時の丑の刻に、憎悪の念(黒いボール)を井沢郁江に送りつけ、子宮ガンにさせたという状況、それと東丈が対決したときのシーンも同様である。悪の描き方としてはどこか紋切り型だと感じてしまう。

文句ばかりになってしまうが、東丈の講演の様子も、今ひとつ魅力に乏しい。
救世主の講演というイメージを作ろうとする作者の努力は感じるが、話す内容も常識的だし、やはり画一的な印象がいなめない。

もっとも、この講演がきっかけで、二人の重要な人物が現れる。
一人は、丈の新たな秘書となるテレパシストでもある杉村由紀と、もう一人は、後に幻魔化していってしまう好青年 高鳥慶輔である。

この物語中、もっとも面白かったのは、東丈と高鳥慶輔の議論の場面と言い切っていっていいだろう。ここでは、高鳥の質問に答えて、東丈が何故、組織不拡大の方針を貫くのか、超能力を実際に披露してマスコミでアピールすることの危険性について率直に語られている。

しかし、何故、東丈は、最初から高鳥に対して冷たい対応しかとらなかったのだろうか?
江田四郎の助けを借りに行き、後戻りできなくなる運命にある女優に対し、それでも、行かないよう最大限の助言をする一方、高鳥に対しては後に幻魔化するということも十分予知できていたはずなのに、それを捨てておいた。

あるいは、東丈は、高鳥の幻魔化もGENKENという組織の強化に必要だと重い、故意に捨てておいたのだろうか?
だとすると、東丈は、ある意味相当な悪といってもよい懐の持ち主のようが気がする。
私としては、そのほうが、画一的な救世主の東丈の姿より、はるかに魅力的な存在になるように思える。

2013年2月11日月曜日

幻魔大戦 第二集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第二集は、角川文庫版でいうと、4巻から6巻までを収録している。
漫画版の幻魔大戦のストーリーから逸脱し、独自の展開を描き始めるのは、この4巻からである。

ニューヨークで石油富豪のバックアップを受け、来るべき幻魔大戦に備えるべく、超能力者組織の結成に取り組むルナ、ソニー、ベガと別れ、一人、東京に戻った東丈は普通の高校生活に戻るが、一連の出来事により人間として成長した彼を中心に人々が集まりはじめる。

具体的には、久保陽子、井沢郁江、平山圭子、田崎宏、木村市枝、河合康夫など、以後、東丈の活動を支援する人々だ。

東丈は、GENKEN(幻魔研究会の略称)という組織を立ち上げ、平山圭子の父親の支援を得て、高校内の組織から、渋谷 道玄坂に一般の社会人が出入りできるオフィスを持つ組織まで成長させる。

物語の中心は、ここにきて、幻魔との超能力戦争から、GENKENという、東丈の思想を伝播する目的の講演や出版物の準備を行う、一歩間違えば、新興宗教団体と思ってしまいそうな組織作りに移ったといっていい。
ニューヨークにいるルナたちの活動とはまったく無関係に物語は進むことになる。

子供のころ、何故、この4巻から物語の方向を転換させていったのか、甚だ疑問だった。
しかし、今読み返してみると作者が本当に書きたかったのは、ここからの物語だったように感じる。

ここで描かれるのは、GENKENという組織をめぐる人々の様々な思惑、組織拡大、利権の獲得、内部分裂といった、あらゆる組織に共通する課題に苦悩するリーダーとしての東丈の精神的な葛藤の様子だ。

丈の超能力の発現も変質する。念動力は意識的に封じられ、遠感(テレパシー)、宇宙エネルギーの注入(病気の治療)といったものが主体となり、その回数も減少する。

そして、それとバランスをとるように、幻魔の活動も派手なものではなくなり、超能力を持つ丈を嫉妬していた元親友の江田四郎に憑依し、丈の活動を真似るかのように、悪霊教団を作ろうとしている実態が分かる。

作者は、本来の主題であった幻魔、超能力というSF的な存在を物語から後退させ、救世主として成長する若者、つまりキリストを描きたかったのだろうか。

その途方もない試みに、今読み返してみても、戸惑う自分を感じてしまう。

2013年2月10日日曜日

幻魔大戦 第一集(平井和正ライブラリー)

幻魔大戦 第一集(文庫本でいうと第一巻から三巻)を読んで、改めて、面白い小説だったのだなと感慨を深くした。

ヨーロッパの小国トランシルヴァニアの王女ルナが飛行機事故に遭い、海上へと落下する中、宇宙意識フロイとコンタクトし、宇宙の破壊者 幻魔が地球に侵攻することを告げられる。
フロイに助けれた彼女は、別の銀河で幻魔と戦い敗北し眠り続けるサイボーグ戦士ベガと出会い、敗残の意識の中からベガを呼び戻す。

そして、ルナとベガは、巨大なPK(念動力)を潜在させていた日本人の高校生 東丈と、テレポーテーション能力を有する黒人幼児であり、ブラックハーレムのボス、ソニー・リンクスを目覚めさせ、尖兵として送り込まれてきた幻魔 ザメディとザンビと戦うこととなる。

第一巻から三巻までは、少年向けSF小説という枠に収まっている内容だと思うが、それでも、超能力者たちの人種偏見の相克、大きな石油企業の社長が超能力者グループを支援し、その見返りに自社の防諜能力を強化しようとするあたりは、いかにも生々しい。
いわゆるジュブナイル小説の枠からはみ出ている部分といってもよいかもしれない。

しかし、今読むと何といっても登場人物が若い。
ルナは十八歳、丈は十七歳、ソニー・リンクスに至っては五歳である。
昔読んでいたころはひどく大人びた印象だった丈の姉 三千子でさえ、二十七歳の若さだ。
(ちなみに舞台は1967年)

*吉田秋生の「BANANA FISH」に、アッシュ・リンクス(山猫)という、やはりニューヨークのダウンタウンのストリート・キッズを束ねる天才的な十七歳のボスが登場する。名前が類似したのは偶然か?

この物語中、一番の名言は、「信は愛、信は力」というサイボーグ戦士ベガの言葉だろう。
(英語で言うと、「To believe is to love.To believe is to be strong」だろうか?)

「心の結集がなければ、いかなる強大な力もなんの用も果たさない。他人を信ずるという行為には大きな努力が要る。不断の努力による持続が不可欠なのだ。」ということばは、今聞いても確かにそうだなと思う部分がある。

幻魔大戦の物語は、これ以降、ある意味、このベガの言葉の実践の困難さが主要テーマになる。

2013年2月9日土曜日

仕事の報酬は

最近とても忙しい一日があって、なぜ自分がここまでして仕事に力を尽くすのか、自分でも自分を不思議に思った。

ひとつ言えることは、動機らしい動機といえば、相手の信頼を得たいという気持ちが結構強いということだけだ。
一度、自分を信頼してくれた相手は、また次の仕事を依頼してくれる。

それが、訳もなくうれしい。

とすると、仕事の報酬は、仕事なのかもしれない。

2013年1月31日木曜日

雨月の使者

その昔、NHKで、唐十郎作のドラマをいくつかやっていた。

「雨月の使者」も、そのひとつで、ストーリーはすっかり忘れてしまったが、何かせつない思いがする映像にとても衝撃を受けた思い出があるドラマです。

youtubeに、終わりの方の映像が記録されていましたが、こんなドラマだったのかなと、今みると不思議な気持ちになります。
NHKは、なぜか一昔前、こういう前衛的なドラマを不思議に撮っていましたね。

中島みゆきの曲も今聴くと違和感がある。
どうやら、私の記憶のなかで「雨月の使者」は別のものに変容してしまったようで、大沢誉志幸の「ガラスの部屋」を聴いてからというもの、ドラマのイメージがこの曲と一緒になってしまい、今では、この曲をきくと、「雨月の使者」のイメージが頭に浮かぶようになっています。