2013年10月20日日曜日

東京五輪に思う/山崎正和

今日の読売新聞朝刊の1面に載っていた山崎正和氏の「東京五輪に思う」は、色々と考えさせられるところがあった。

まず、山崎氏は東京オリンピックの開催に関し、以下のように述べている。
2020年だから7年先の話だが、これは遠いような近いような未来である。世の中、めったに将来の予定は立たないものだが、この決定は珍しく日本人に今後の日程について考える機会を与えた。
7年後の自分が何歳で何をしているか、日本と世界はどうなっているか、どうしなけれればならないかを考えさせる。
東京オリンピックの開催が決定したときに、後半のセンテンスにあるような思いが去来したのは、私だけでないだろう。

続けて、山崎氏はその7年間の政治的課題として、福島第一原発の汚染水漏れ対策、廃炉計画の精度、東日本大震災の被災者に対する保障と復興、強い経済と財政健全化を挙げ、今後の7年間、約束実現の責任と権限を安倍政権に委ねてもよいのではないかという考えを述べている。

その一方で、半世紀前の1964年の東京五輪を振り返り、
日本人はこれで第二次世界大戦の戦後が終わり、国際社会への復帰が許されたと信じて欣喜したことを思い出すからである。
じっさい戦後の日本社会の絶望は深く、とりわけ世界から疎外され孤立しているという劣等感は痛切だった。
とりわけ昭和天皇が開会の宣言をされ、その前を各国選手団が行進する光景は、東京裁判の汚辱が拭われ、戦争を起こした罪が赦免された象徴的な儀式のように見えたものだった。しかしあの喜びが記憶に刻まれている者には、それだけに昨今のアジアの国際環境が気にかかり、あの安堵は錯覚ではなかったかという懸念がよぎるのである。
懸念されるのはほかでもなく、中国と韓国が叫ぶ「歴史問題」であり、それを掲げて中韓両国が連携を始めた形勢である。 
と述べている。 ちょうど、半藤一利の「昭和史」を戦後編も含め、読み終わったところだったので、これからの日本はどうなるのかということを思ったときに、真っ先に懸念として浮かんだのが、中国と韓国との関係だったので、非常に興味深かった。

連合軍が東京裁判で行った戦争犯罪人としての日本の政府・軍部関係者に対する判決は、戦争中、日本がアジアや世界の国々にやってきたことはすべて侵略戦争であり、残虐行為であるという、客観的に見れば一方的なものだったが、日本はその裁きを受け入れた。

しかし、山崎氏がいうとおり、中国と韓国がいう「歴史問題」とは、日本の第二次世界大戦における戦争犯罪の道義的責任のことで、これに関しては外交上の講和はあり得ないという厳しい姿勢だろう。

靖国神社に日本の政府関係者が参拝する際、「英霊に哀悼の誠を捧げる」とよく言うが、明らかに中国と韓国は、東京裁判で裁かれたA級戦犯が合祀されている事実をもって、戦争犯罪人に対しての哀悼と解釈し、日本は全く戦争犯罪の責任を反省していないと見ているのだろう。
また、山崎氏が苦言を呈している政治家の軽率な「着想と発言」がこのような印象を煽っていることも事実だと思う。

少なくとも、今後7年間というときに、尖閣諸島や竹島という領土問題に関しては、両国の妥協を得られるという現実味はかなり薄い。
だとすれば、日本が中国と韓国との関係改善を進めるための最初の努力としては、靖国神社の参拝自粛(戦犯合祀の見直し、戦争責任の再検証をするのであれば別)と、政治家の国益を損なうような失言をなくすことしかないのではないか?

今朝も、古屋国家公安委員長が靖国神社に参拝し、「近隣諸国を刺激しようなどという意図は全くない。英霊にどのような形で追悼の誠を示すかは、専らその国民が考えるべき国内問題だ」というコメントを出していたが、この理屈で中国と韓国が「確かにそうですね」と納得するはずもない。

中国と韓国がいう「歴史問題」に関して、日本の国会議員のこういった、通り一遍の態度が続く限り、中国・韓国との関係が改善の方向に進むことはないだろう。

山崎氏がいうとおり、7年後、アメリカからの庇護も薄れ、東アジアで日本が孤立し、中韓が東京オリンピックをボイコットするという事態が最悪のシナリオだろう。

この記事を読んで、憲法改正の問題も含め、7年後、日本はどうあるべきなのか、日本と世界はどうなっているかを、国全体で真剣に考えるべき重要な7年間が来ているという思いがした。

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