2013年1月31日木曜日

雨月の使者

その昔、NHKで、唐十郎作のドラマをいくつかやっていた。

「雨月の使者」も、そのひとつで、ストーリーはすっかり忘れてしまったが、何かせつない思いがする映像にとても衝撃を受けた思い出があるドラマです。

youtubeに、終わりの方の映像が記録されていましたが、こんなドラマだったのかなと、今みると不思議な気持ちになります。
NHKは、なぜか一昔前、こういう前衛的なドラマを不思議に撮っていましたね。

中島みゆきの曲も今聴くと違和感がある。
どうやら、私の記憶のなかで「雨月の使者」は別のものに変容してしまったようで、大沢誉志幸の「ガラスの部屋」を聴いてからというもの、ドラマのイメージがこの曲と一緒になってしまい、今では、この曲をきくと、「雨月の使者」のイメージが頭に浮かぶようになっています。

2013年1月29日火曜日

理由もなく

中学生から高校生の時に聴いていた歌は、頭で覚えているというよりも、体で覚えているという感覚に近い。

私にとっては尾崎 豊の歌は、まさにそのとおりで、二十年以上経った今でも、たまに無意識に口ずさんでいる自分がいる。

大体が出遅れるタイプなので、私が聴き始めたのは、かなり遅い時期からだ。

「街路樹」がリアルタイムで聴くことができた最初のアルバムで、最初に行こうとしたコンサートは、体調不良によりキャンセルになってしまい、高校時代は生で彼の曲を聴くことができなかった。(ちょうど覚せい剤の事件があった頃だった)

1枚目、2枚目のアルバムに良い曲が多いのは周知のとおりだが、不思議なことに、大体口ずさむのは、4枚目の「街路樹」の曲が多い。

最初に聴いたときは、ずいぶん、今までのアルバムと違うなと思ったが、一生懸命聴いて好きになろうとしていたのかもしれない。
それは、最初に経験した恋愛みたいなもので、体でその感覚を記憶してしまっているのかもしれない。

例えば、「時」とか、「街路樹」とか、「理由」とか。
口ずさむと、当時の空気まで甦ってくる。

2013年1月26日土曜日

二人の作家/レイモンド・チャンドラー

チャンドラーの「長いお別れ」を読み直してみると、登場人物の一人で、酒飲みのベストセラー小説家 ロジャー・ウェイドの存在が、改めて面白いなと思った。

酒飲みで、酔ってしまうと、性格が意地悪になり、人を傷つけるような言葉づかいをしたり、妻を階段から突き落とす暴力をふるってしまう一面もあるが、どこか自分の人生を諦めてしまった人間に特有の優しさが感じられる言葉や行動が描かれている。

チャンドラーは、自身も酒に溺れた経験があるせいか、こういう屈折した人物の描き方がとても上手い。

チャンドラーの書簡集「レイモンド・チャンドラー語る」に収録されている短編小説「二人の作家」にも、ウェイドを彷彿させるような酒飲みの作家ハンクが描かれている。

ただし、ハンクは、ウェイドと違って、全く売れていない作家であり、妻も売れない劇作家だ。
二人は雄ねこのフィーバスと静かに暮らしているが、明るい未来を感じさせる才能や出来事はない。
ハンクは、常習的に車庫に足を運び、そのすみにおいてある“かめ”に入っているウイスキーをあおる。

しかし、ここでも、ハンクには憎めない人間味があふれている。

たとえば、妻が絶望して家を出て行くのを見送るときも。
「君の汽車が出て行くまで、車にいるよ」と、ハンクはいった。そして、彼女の腕を握った。
彼女は向こうをむいて、歩き去った。汽車がくるまで、彼はながいあいだ、車のなかに坐っていた。
酒が飲みたくなりはじめた。マリオンが汽車にのるとき、ふりむいて手をふるぐらいのことはするだろう、と、彼は思った。しかし、ふりむきもしなかった。待っている必要はなかったのだ。
とっくに家へついて、“かめ”の酒をあおっていられたのだ。待っていたのは、むだなことだった。
むだなだけではなく、むしろ、みっともないことだった。
彼は筋肉一つ動かさずに、汽車が出て行くのを見送った。それもむだなことで、ほめてもらえる姿ではなかった。
こんな繊細な小説を書く作家だからこそ、レイモンド・チャンドラーの作品は、近年、ハードボイルド・ミステリというより、純粋に文学作品として評価される機運になってきたのかもしれない。

2013年1月22日火曜日

余韻だけで見せる映画

最近、インフルになってしまい、5日間、寝込んでいた。
何もしないで寝ているのも辛く、昔、買ったDVDの映画をみていた。

ゴッド・ファーザーPART1から3を見ていて、やはり、PART1と2は、いい作品だなと思った。
この2つの作品の魅力は、何より、PART1では、マーロン・ブランド、PART2では、ロバート・デニーロという二人の役者の力量によるところが大きい。

主役であるアル・パチーノも悪くはないのだが、優等生的な演技で、枠に収まっている感じだ。

マフィア映画、日本でいえば、ヤクザ・任侠映画のジャンルだから、普通なら絶対好きになれないジャンルの映画なのだけれど、それでも好きになってしまったのは、上記の2人が演じた父親と家族の関係を濃密に描いているところが私にとって魅力的なのかもしれない。

一方で、PART3は、格段にランクが落ちる。
ストーリーも粗いし、役者もPART1・2に比べると、今ひとつ。

この映画には、監督であるフランシス・フォード・コッポラの娘であるソフィア・コッポラも、マイケル(アル・パチーノ演じるマフィアのドン)の娘として登場している。
きれいで目立つタイプの娘なのだが、やはり、素人というか、役に溶け込んでおらず、変に浮いてしまっている感じがある。

それでも、父親であるマイケルとダンスを踊るシーン(PART1から3を通し、ダンスのシーンは名場面のひとつ)などは、見ていると胸が熱くなってしまうものがある。
PART1と2の余韻だけで見せてしまう映画。それが、ゴッド・ファーザーPART3なのだと思う。

監督のコッポラにとっても、この映画は出来不出来にかかわらず、大きな意味を持つ作品であることは、マイケルに課される最大の罰(娘が自分のために殺されてしまうというシーン)ということからも推測できる。

それは、PART1・2に比するキャストも脚本も用意できなかったコッポラが、金のために撮ってしまった映画において、あたかも、自分自身を最大限に罰しているように、私には思える。

#インフル明けに久々に街を歩いたり、仕事をしたり、満員電車に乗っていたら、こんなに世界は楽しいんだ!と、妙に感動してしまいました(頭がおかしくなってしまったのか?)。

2013年1月7日月曜日

原書を読む

村上春樹訳のレイモンド・チャンドラーの作品を読んでいたら、段々と、原書を読みたくなってしまい、ここのところ、ペーパーバックの"The Long Goodbye"を、村上春樹訳に照らしながら、少しずつ読んでいる。

翻訳とは精読に他ならないということを、村上春樹があとがきに書いていたが、確かにそのとおりで、原文を読み飛ばさず、日本語に置き換える作業をしていたら、今まで日本語訳で読んでいたつもりが読み飛ばしていた細かい記述がとても多いことに気づいた。

自分はあらすじを急ぐ読者ではないと勝手に思っていたが、チャンドラーの文章の特徴のひとつとも言える精緻な表現をずいぶんと手荒に端折って読んでいたのだなというのが実感。

まだ、57ページしか読んでいないけれど、翻訳者の苦労が徐々に分かりつつある状態です。



2013年1月6日日曜日

火を熾す/ジャック・ロンドン(柴田元幸翻訳叢書)

登場人物は、男一人と犬一匹だけ。
男は、仲間が待つ採鉱地に行くため、氷点下50度以下の雪に覆われた森の中を、犬を従え歩き続ける。

凍傷にかかるリスクと雪に隠された川に落ちるリスクを避けることに男は全力で集中するが、川に落ちてしまい、凍傷を回避するために火を熾(おこ)すのだが、男のちょっとした判断ミスで、火は消えてしまい、二度目の火熾しをするための指や手が動かなくなってしまっている自分に気付く。

筆者のジャック・ロンドンは、カナダ北西部に金鉱探しの旅に出た際、越冬の経験をしたということだが、この短編小説からは、実感として、人間の叡智と必死の努力も及ばない自然の厳しさがストレートに伝わってくる。

余計な心理描写がないところもいい。