2015年12月20日日曜日

スター・ウォーズ :エピソード7/ フォースの覚醒

「ターミネーター/ジェニシス」は、あまりにひどい出来で、コメントする気すら失せてしまったが、このスター・ウォーズ エピソード7 は、お金を払って、映画館で見る価値はあると思う。

物語も前作(エピソード4~6)の流れを受け継いでいるし、懐かしい顔も出てくる。

First Order(帝国軍)のTIEファイターとレジスタンス軍のXウイングの空中戦、ライトセーバーの闘いも、見どころ十分。

若干気になったのは、物語が暗いことだが、これは、前作同様、父と息子という関係を描いているせいかもしれない。

エンドロール後の次回展開を思わせるような映像はないので、せっかちな人は、すぐ帰っても問題ありませんよ。

#エンドロールで、ディズニーの社名が出たので、あれっ?と思ったら、ルーカスフィルムは、2012年に、ウォルト・ディズニー社に買収されていたらしい。

2015年12月19日土曜日

彼女が演じた役/片岡義男

この本は、片岡義男が、原節子が出演した56本の映画のうち、戦後に出演した11本の映画を観た感想をまとめた本だ。

原節子という女優の魅力は何だったのか、当時の日本の社会は彼女に何を期待していたかを、 片岡は、「大きさ、華やかさ、自立した美しい女性」と表現している。

片岡は、彼女が出演した小津監督以外の作品を、ほとんどが他愛ないものと切り捨てているが、それらの映画の中で、彼女の役柄が、令嬢(自立した美しい女性、ただし、経済的に自立していない)、理想に燃える美しい独身の先生(性的でない)に固定されていたことに対し、

 「美しさ、明るさ、華やかさ、色気、上品さ、才気、直感の正しさ、程の良さなど、あらゆる肯定的な価値を、単なる美や女らしさなどではなく、強い意志、つまりくっきりと確立された自我として、日本の人たちは原節子のなかに見ていた」と述べている。

そして、片岡義男が観た結論としては、「原節子のためには小津がいて本当によかった」と述べている。

「紀子三部作(晩春、麦秋、東京物語)への出演は、原節子という女優にとって、最初にして最大の、そして最後でもある、映画的な幸福だった。彼女は、そのクリエイティヴな能力を、全開にして発揮することが出来た」と。

片岡は、 原節子は美人だが、扱いには細心の注意が必要な美人であったことを指摘している。

「不機嫌だったり、不愉快だったりする状態を表現する時の原は、手の付けようのないほどに批判性をたたえた怖いと言っていいほどに強い意志をあますところなくおもてに出してしまう」と。

そして、小津は、晩春で、原のそのような表情を撮ってしまったが、以後の麦秋、東京物語では、一切、そのような表情の原を撮らなかった。

私は、この片岡の文章を読んで、その昔、笠智衆が、小津の映画に出る前は、感情がすぐに顔に出るたちの役者だったが、小津監督から、「僕の映画に表情はいらない」と言われ、あの独特の穏やかな微笑をたたえるようになったというエピソードを思い出した。

原節子の笑顔も、笠智衆の微笑と同様に、どこか判を押したように同じ表情ではないだろうか。
それは、そのような安定した表情が小津の映画作品の中では極めて重要な要素であることを意味していると思う。

ちなみに、この本は、原節子を語ると同時に、小津作品の批評も書いていて、片岡は、小津監督を、「映画というものをよく知っている」と称賛しつつも、非常にクセがあること(片岡はそれを対置と呼んでいる)、例えば、「晩春」と「秋日和」の物語がまるっきり同じであることや、小津の作品の中で出てくる、会社のオフィスの様子が、「こんなものだろう」といういい加減な思い込みのもとに撮られている点などを指摘していて、面白い。

それと、小津作品が、常に性的な視点で描かれている点を指摘しているのも、新鮮な捉え方だ。

東京物語の最後の方で、紀子が周吉に、「私はなにかを待っている、このままなにごともなく日が過ぎてゆくのが怖い。…私はずるいんです」と言ったことに対し、

「紀子が、性の自由な使途の可能性を、自覚している。その自覚は、監督の頭のなかでは、疑似的な姦通なのではないか」と指摘していたり、

「秋日和」における未亡人の三輪秋子の着物姿について、

「秋子が夏のスカートをはいていたなら、彼女が画面からあたえる印象はどうなっていたかを考えると、…脚があらわとなる。足どりは着物の場合とくらべて、比較にならないほど自由になるはずだ。足どりだけではない。雰囲気のすべてが、アヤ子(娘)とほぼ対等になる。秋子の下半身が、自由なものとして、誰の目にも存在してしまう」ことを取り上げていたり、

同じく「秋日和」での男たち三人の会話「きれいな奥さんをもらうと男は早死にする」、「かゆいところ」など、露骨に性的な意味が含まれている点も取り上げている。

原節子の私生活には目もくれず、ひたすら、スクリーンの中の彼女の姿を追求している点も、とても好感が持てる本だ。


2015年12月13日日曜日

雨月物語・上田秋成 円城塔 訳/日本文学全集11

序文に記されている漢文(訳文あり)が面白い。
水滸伝の作者の家には、障害のある子が生まれ、源氏物語の紫式部も、地獄に落ちたものと思われる。 二人とも、真実であるかのような迫力のある作り話で人を惑わしたからだ。

でも、自分が口に出してみたこれらの奇妙な話は杜撰なものだから、誰も本当だとは思うまい。
自分が罰を受けることはないだろう。

雨が止み、月が朧に照らす夜、原稿を出版社に渡すにあたり、私は、この物語を雨月物語と名づけることにした。
 というような序文である。

古人の才能を讃えながらも、才能のない自分には神罰は当たらないだろうと、しれっと述べている当たり、実に洒落ている。

おまけに、今で言う、フィクションの断り書きみたいなものだと思うが、最初から意気込んで読もうとする読者に対し、「あなた、こんなものを本当の話だと信じちゃいけませんよ」と人をはぐらかしているような印象を受ける。

しかし、その後に続く9つの物語は、円城塔の良訳のせいもあるだろうが、どれも現代の小説と比較しても引けを取らない腰の据わった構成と文章で描かれていて、怪奇、神秘を十分に感じさせてくれる。

私にとって、「雨月物語」は、それは、ずっと溝口健二の映画でしかなかったので、特に関連のある「浅茅が宿」と「吉備津の釜」、「蛇性の婬」を興味深く読んだ。

原作を読んで、奥行きがある物語なのだなと改めて感じさせられた。

2015年12月12日土曜日

好色一代男・井原西鶴 島田雅彦 訳/日本文学全集11

世之介の7歳から60歳までの54年間の色事の記録。

世之介の1歳ごとの成長とともに、約2ページの好色な物語が54個あり、それを8巻でまとめている。

関係した女性の数は3,742名、男性も725名という途方もない男女関係。

ほとんどがプロの女性を相手にしてのことだが、身持ちの堅い人妻や巫女にまで手を出そうとして酷い目にあう。

あまりの放蕩ぶりに、親からも勘当され、みじめな生活を強いられた年代もあるが、三十四歳の時に、親から500億円もの遺産を相続し、以後、その資金を使いきろうと好色に邁進するが、ついに使いきれないまま、物語は終わる。

世之介が日本の津々浦々、旅をして、行く先々の色町、女性と関係する物語を読むことで、読者は、その土地の風俗事情を知ることが出来たのかもしれない。

パロディめいた物語や、旅をベースにした好色な要素は、十返舎一九の東海道中膝栗毛や、鈴木春信の春画などにも影響を与えた意外と重要な作品なのかもしれない。

1682年というと、五代将軍 徳川綱吉の時代である。
この時代、すでに町人の井原西鶴が、このような小説を書いて、庶民が喜んで読んでいたとすると、日本社会の識字率は相当高かったのだろう。

そして、平和な時代、で日本人は本当に好色だったようだ。

島田雅彦の翻訳は、よくいうと読みやすく、悪くいうと印象に残らないという印象。


お金を現代の価値に換算している点は、よいと思った。


明らかに嘘の金額もあるが、太夫の指名料が十万円なんてところは、当時の金銭感覚がリアルに感じられる。

2015年12月6日日曜日

ラオスにいったい何があるというんですか?/村上春樹

 本書では、「遠い太鼓」で村上春樹が生活していたミコノス島を再訪しているが、今回は旅行者として訪れていることもあり、あまり印象に残らなかったが、アイスランドの章は、実に面白かった。

「アイスランド語」という独自の言語があることも知らなかったし、動物も独自の進化を遂げているという話(羊にしっぽがない等)や、パフィンという鳥(こんな鳥でした。ペンギンみたいな鳥ですね)の存在も興味深かった。


ちょっと前まで、ビールが禁酒扱いになっていたことや、コンビニでもクレジットカードを使う習慣があることや、地味な造花の話も興味深かった。

村上春樹の美しい風景に対する態度というか姿勢も共感するものがある。
いったんカメラのレンズで切り取られてしまえば、あるいは科学的な色彩の調合に翻訳されてしまえば、それは今目の前にあるものとはぜんぜん別のものになってしまうだろう。そこにある心持ちのようなものは、ほとんど消え失せてしまうことになるだろう。だから我々はそれをできるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込むしかないのだ。そして記憶のはかない引き出しにしまい込んで、自分の力でどこかに持ち運ぶしかないのだ。
「できるだけ長い時間をかけて自分の目で眺め、脳裏に刻み込み、自分の力でどこかに持ち運ぶ」という姿勢は、旅の基本かもしれませんね。そういえば、紀行集というのに、写真の数が少ないのは、上記のようなポリシーが貫かれているのかもしれない。

この他、表題にもあるラオスの托鉢の話や、ニューヨークのジャズ・クラブ事情、トスカナのワイン事情なども面白かったが、各国で乗ったレンタカーの車種(韓国車、イタリア車)について語る言葉は、いかにも楽しげだ。

村上春樹の紀行文は、数は少ないが、読んでいて、はずれと思ったことがない。
そこをいくと、小説は、好みの問題があって、読んでいて、これは駄目だなとか思ってしまうことも多々あるのだが、紀行文にはそれがない。

「遠い太鼓」のほのぼのとしたギリシアの田舎の人々や、ローマの盗難リスク、駐車事情、個性的なイタリア車など、未だに記憶から消えていないし、「雨天炎天」のアトスの山中にある修道院の質素な様子や、険しい山中、レモンを齧った際の感触とか、そういうものがぱっとイメージとして浮かぶ。

この人は、マラソンが趣味だが、ゆっくりとしたスピードで景色が変わってゆく動的な立ち位置から物事を見ることに、喜びを感じる性質なのかもしれない。

リラックス感が全体に漂っていて、読んでいるこちら側にも伝わってくる。

2015年12月4日金曜日

素数ものさし/BSプライムニュース

今日のBSプライムニュースを見ていたら、「ロボットに新たな使命 終着点は“不完全”? 人間との共存哲学とは」というテーマの内容だった。

http://www.bsfuji.tv/primenews/schedule/index.html#ThuBox

面白いのは、何でもこなしてしまうロボットではなく、人に頼ってくるようなロボットを研究しているという。それによって、そのロボットに愛着が湧いたり、人間らしさを感じることが出来るという。

さらには、人間の能力が活性化されるというメリットもあるらしい。

例として挙がっていたのは、カーナビ。
カーナビを使うと、人は道を覚えなくなるというが、確かに本当ですね。

でも、 カーナビで道案内されていたら、「もう分かりません (・_・。) 」と匙を投げられるのも困っちゃうと思うけど。

その流れの中で、京都大学デザイン学ユニット特定教授の川上さんという人が紹介していた「素数ものさし」という定規が面白かった。

この川上さんは、不便益システム研究所という組織で、不便なものを研究しているらしい。
何ともユニークだ。
 
名前のとおり、目盛には素数の数字しかない。だったら、4cmはどう計ればいいのだろうと考える。

ある人は、2の目盛2つ分という計り方をする。
また、ある人は、7と11の間が4cmだということに気づく。
あるいは13と17の間かもしれない。

なるほど、これは頭を使う定規ですね。面白い。

おまけに、値段も素数 の577円。(消費税が上がった時に困ったらしい)
ただ、京大の生協でしか買えないらしい。

東急ハンズとか丸善に置いたら、意外と売れるかもしれない。

2015年12月1日火曜日

水木しげるさんの死

池澤夏樹は、ガルシア・マルケスが亡くなったときの追悼文に、彼が死んで地球の重力が変わったような気がするという趣旨の文章を書いたが、水木しげるの死を聞いたときは、同じような気分を感じた。

たくさんの妖怪たちや死と隣り合わせだった先の大戦の記憶、そういった今の日本から消えたかのような別世界を、彼はこつこつと書き続けていたような気がする。

それは年々軽くなってゆく日本の重しになっていた、というのは言い過ぎだろうか。
少なくとも、私はそんな気分を味わった。

私が、水木しげるさんの世界に最初に触れたのは、子どもの頃に読んだ少年向けの妖怪辞典のような本だった。

まず、絵が独特な雰囲気を持っていた、彼が描く黒でべた塗りした闇の世界と田舎の風景。
そして、そこに、ユーモアな姿でありながら、どこか何を考えているかわからないような妖怪。



ひょっとしたら、そんな生き物がいるのかもしれないという好奇心と少しの恐怖を抱いたような気がする。

そして、大人になってからの出会いは、「コミック 昭和史」である。
これは、水木さんの作品のなかで一番好きな作品かもしれない。

この作品は、水木さんの重い戦争体験がコアの部分にあるのだが、次々と襲い掛かる不運、暴力、貧乏に決して負けることがなかった水木さんの生きる力というか精神的な余裕が、全編に感じられるところが魅力的だった。

水木さんのような絵を書く人は、もう出ないでしょうね。
また、昭和の巨人が去った。

今までありがとう。水木さん。