2015年12月19日土曜日

彼女が演じた役/片岡義男

この本は、片岡義男が、原節子が出演した56本の映画のうち、戦後に出演した11本の映画を観た感想をまとめた本だ。

原節子という女優の魅力は何だったのか、当時の日本の社会は彼女に何を期待していたかを、 片岡は、「大きさ、華やかさ、自立した美しい女性」と表現している。

片岡は、彼女が出演した小津監督以外の作品を、ほとんどが他愛ないものと切り捨てているが、それらの映画の中で、彼女の役柄が、令嬢(自立した美しい女性、ただし、経済的に自立していない)、理想に燃える美しい独身の先生(性的でない)に固定されていたことに対し、

 「美しさ、明るさ、華やかさ、色気、上品さ、才気、直感の正しさ、程の良さなど、あらゆる肯定的な価値を、単なる美や女らしさなどではなく、強い意志、つまりくっきりと確立された自我として、日本の人たちは原節子のなかに見ていた」と述べている。

そして、片岡義男が観た結論としては、「原節子のためには小津がいて本当によかった」と述べている。

「紀子三部作(晩春、麦秋、東京物語)への出演は、原節子という女優にとって、最初にして最大の、そして最後でもある、映画的な幸福だった。彼女は、そのクリエイティヴな能力を、全開にして発揮することが出来た」と。

片岡は、 原節子は美人だが、扱いには細心の注意が必要な美人であったことを指摘している。

「不機嫌だったり、不愉快だったりする状態を表現する時の原は、手の付けようのないほどに批判性をたたえた怖いと言っていいほどに強い意志をあますところなくおもてに出してしまう」と。

そして、小津は、晩春で、原のそのような表情を撮ってしまったが、以後の麦秋、東京物語では、一切、そのような表情の原を撮らなかった。

私は、この片岡の文章を読んで、その昔、笠智衆が、小津の映画に出る前は、感情がすぐに顔に出るたちの役者だったが、小津監督から、「僕の映画に表情はいらない」と言われ、あの独特の穏やかな微笑をたたえるようになったというエピソードを思い出した。

原節子の笑顔も、笠智衆の微笑と同様に、どこか判を押したように同じ表情ではないだろうか。
それは、そのような安定した表情が小津の映画作品の中では極めて重要な要素であることを意味していると思う。

ちなみに、この本は、原節子を語ると同時に、小津作品の批評も書いていて、片岡は、小津監督を、「映画というものをよく知っている」と称賛しつつも、非常にクセがあること(片岡はそれを対置と呼んでいる)、例えば、「晩春」と「秋日和」の物語がまるっきり同じであることや、小津の作品の中で出てくる、会社のオフィスの様子が、「こんなものだろう」といういい加減な思い込みのもとに撮られている点などを指摘していて、面白い。

それと、小津作品が、常に性的な視点で描かれている点を指摘しているのも、新鮮な捉え方だ。

東京物語の最後の方で、紀子が周吉に、「私はなにかを待っている、このままなにごともなく日が過ぎてゆくのが怖い。…私はずるいんです」と言ったことに対し、

「紀子が、性の自由な使途の可能性を、自覚している。その自覚は、監督の頭のなかでは、疑似的な姦通なのではないか」と指摘していたり、

「秋日和」における未亡人の三輪秋子の着物姿について、

「秋子が夏のスカートをはいていたなら、彼女が画面からあたえる印象はどうなっていたかを考えると、…脚があらわとなる。足どりは着物の場合とくらべて、比較にならないほど自由になるはずだ。足どりだけではない。雰囲気のすべてが、アヤ子(娘)とほぼ対等になる。秋子の下半身が、自由なものとして、誰の目にも存在してしまう」ことを取り上げていたり、

同じく「秋日和」での男たち三人の会話「きれいな奥さんをもらうと男は早死にする」、「かゆいところ」など、露骨に性的な意味が含まれている点も取り上げている。

原節子の私生活には目もくれず、ひたすら、スクリーンの中の彼女の姿を追求している点も、とても好感が持てる本だ。


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