2013年7月23日火曜日

ロリータ/ウラジーミル・ナボコフ

これだけ性風俗に影響を与えた文学作品は今までにないのではないか。

ロリータ・ファッション、ロリータ・コンプレックス…
これらの言葉を聴く人々の中には、眉をしかめる人もいるだろう。

しかし、その発端となった小説「ロリータ」は、偏見を捨てて素直に読むと、精緻に構成された高いレベルの文学作品であることが分かる。

パリ生まれの主人公ハンバート・ハンバートは、四十歳の教養のある男だが、少年の頃に愛し合い、病気で死んでしまい、最後まで行き着くことができなかった少女への思いを心に秘めていた。その死んだ彼女と同等の理想のニンフェット(9歳から14歳。この本のなかでは「ニンフェット」と呼んでいる)を求めながら、フランス語教師としてアメリカに渡り、その下宿先で、ヘイズ・ドロレス(ローラ)という名前の理想的な少女と出会う。

ハンバートは、妄想の中で彼女をロリータと呼び、少女への情欲を高めていく。そして、彼女を手に入れるため、その母親(未亡人)と結婚し、ふとしたことから母親が死んだことで、彼女と二人きりの関係になる。

そして、二人は亡き母親の愛車に乗って、全米のモーテルを泊まり歩き、旅することになるのだが、ハンバートは、自分の欲望を満たす限り、ロリータに好き放題、お金を与え物を買い与え、散財していく。しかし、自分の行動を縛ろうとするハンバートに反抗していくロリータ。二人の関係は、次第に険悪になっていく。ある意味、ハンバートの理想が崩壊してくプロセスでもある。

作者のナボコフは、ロシアから亡命し、ドイツに暮らしていたが、この物語の主人公ハンバート同様、四十一歳にして、アメリカに移住する。
もともとはロシア語で小説を書いていたが、その移住を機に、英語で小説を書き始める。
しかし、とても外国語で書いた小説とは思えないほど、その文章は冒険的なものだ。

ロリータに対する言語による執拗な愛撫。たとえば有名な出だしの部分
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。 ロ・リー・タ。舌の先が口蓋を三歩下がって、三歩目にそっと歯を叩く。 ロ。リー。タ。
あるいは、ハンバートが暗記した彼女のクラスメイトの名前の羅列(彼はそれを詩と称している)

また、 ハンバートが妄想の中で陪審員に自己弁護する文章は、悪ふざけなまでに饒舌でユーモアに満ちている。

アメリカの風俗の描き方も興味深い。米国の様々なモーテルの描写、ローティーンの子が好むソーダ・ファウンテン(当時のドラッグストアにあったソーダ水の販売所)、チョコレートがベトベトとかかったアイスクリーム、映画雑誌、グルメ本。
このような通俗的なアメリカ文化を、明らかにナボコフは楽しんで書いている。

日本でこのような小説はあるかと問われたら、私には、谷崎の「痴人の愛」しか思い浮かばない。
もっとも、「痴人の愛」では、ナオミという少女(十五歳)を自分好みの西洋風の女性に作り上げていく喜びに取り付かれた男の話なので、「ロリータ」とはその性向が違っている。
(両作品の結末もだいぶ違う)

しかし、谷崎の小説が、哲学者の西田幾多郎に「人生いかに生きるべきかを描いてないからつまらない」と見当違いの批判をされたように、「ロリータ」が単なるエロ小説と勘違いされたあたりの事情は似ているかもしれない。

また、「痴人の愛」が、西洋(ナオミ)に脅かされている日本(主人公)を象徴的に描いた作品と評されたように、「ロリータ」が、知性があって経験も豊かだが生命力が衰えているヨーロッパ(ハンバート)と、若くて魅力にあふれ、でも無知でわがままなアメリカ(ロリータ)の関係を書いていると評される事情もよく似ている。

しかし、その谷崎をしても、中年半ばにして、外国語で小説を書くという冒険は難しかったかもしれない。
おまけに、ナボコフは英語で書いた「ロリータ」を、ロシア語にも翻訳しているのだ(しかも、その内容が英語版とは異同があるという)

私が読んだ若島 正訳の「ロリータ」は、そのロシア語版も参照された上で、2005年に翻訳されたもので、とても58年前の作品とは思えない現代的な内容になっている(特にロリータの崩れた言葉遣いは現代の日本語の感覚そのままに訳されている)。

日本の読者は、そういう意味で英語圏、ロシア語圏の読者より得をしているかもしれない。

また、本書のあとがきには、親切にも、ロリータという作品の謎(日付)に関しての解説と、作品の出だし部分になにげなく書かれていた重要部分についても気づかせてくれる内容になっており、「ロリータ」という作品の奥行きを垣間見させてくれている。

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