2016年12月4日日曜日

徒然草 内田 樹 訳/日本文学全集07

内田 樹氏が、どんなふうに、あの「徒然草」を訳するのだろうと、この日本文学全集の刊行が決まった時から期待していたが裏切られることはなかった。

兼好法師が望んでいた人生観、すなわち、上品な趣味でありながら、思慮があり、無駄のない、歯切れのよさが、文体に現れていると思う。

序段の訳文が、バシッと決まった感がある。
ひとり閑居して、一日硯を前に、脳裏に去来することを思いつくままに書き綴っていると、自分では制御できない何かが筆を動かしているようで、怖い。
そんな文体で再現された243段に渡るエッセイから浮かび上がってくるのは、兼好法師という、俗世を離れたといいながら、その俗世に強い(どちらかというとしつこいくらい)関心を持ち続けた、批評家的な色合いが強い知識人の性格である。

知人からも、へそまがり(31段)とか、鈍感(238段)と言われながらも、そういった人々との交わりを断らず、ほどほどの距離を保ちながら、人々の生活の様子を冷静に観察していた老人の姿が浮かび上がってくる。

色欲について愚かなものと断じながら、「若い女の手足の肌がつるつると脂が乗っているのを見」て、「私だってちょっとくらいはくらくらするかも知れない」と本音を明かしたり(7段)。

女について、「心はねじくれ、我執は強く、貪欲は甚だしく、ものの理がわからず」と、甚だ貶しておきながら、「とはいえ、もし賢女というものが存在するなら、なんとも取り付く島のない、味気ない女に違いない」と話をひっくり返したり(107段)。

酒は万病の本と非難しつつも、「やはり酒飲みというのはおかしいもので、その罪は許さねばならぬ」とフォローにまわったり(175段)。

ある尊い聖のことばを一条ずつ書き付けていたが、「この他にもいろいろあったが、忘れた」と中途半端に終わったり(98段)。

これらの何とも曖昧な、人間的な寛さが、「徒然草」の面白さなのかもしれない。

また、 他人の生活に対する強い好奇心も、執筆のエネルギーになっていることも間違いない。
人里離れた庵までの私道に足を踏みいれ、その俳味を味わいつつも、柑子(ミカン)の木に柵がしてあることにがっかりしたり(11段)、たまたま通りがかった家の庭に足を踏み入れ、美貌の男が文を読んでいる姿を覗き見て、何者だろうと思いをめぐらしたり(43段)。

読んでいて、一際、面白かったのは、訳者の内田氏自身述べているが、「変な話」の分野である。

芋頭を好んていた僧が病になり、十四日間、「思うさまよい芋頭を選んでこれを貪り食って万病を直した」話(60段)や、召使いの乙鶴丸が、親しくなった「やすら殿」について、主人に尋ねられ、「どうなのでしょう。頭を見たことがありませんので」と答え、兼好が「どうすれば頭だけ見ずにいられるのか」と一人つっこみする話(90段)や、「ぼろぼろ」という仏教徒?の決闘の様子(115段)など。

兼好法師は、鎌倉時代末期に、この「徒然草」を書いたらしいが、この新訳を読むと、一挙に、彼の存在が身近に感じられる。

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