2016年3月5日土曜日

NHKスペシャル “原発避難” 7日間の記録 〜福島で何が起きていたのか〜

あの日、2011年3月11日(金)の14時46分に起きた巨大地震と津波の後、
3月12日(土)15時36分に、福島第一原発1号機が水素爆発
3月14日(月)11時1分に、3号機が水素爆発
3月15日(火)6時14分に、4号機も水素爆発

これを受けた政府の避難指示は、以下のとおり。
3月11日に原子力緊急事態宣言を発令し、3km圏避難を指示。
3月12日 5時には10km圏避難に変更し、1号機の水素爆発の3時間後には20km圏避難に拡大。
3月15日には、20~30km圏屋内退避を指示。

この五月雨式の避難指示の変更に、原発周辺地区の住民たちは翻弄された。
本来であれば、国・県・市町村・東京電力が事故後の対策を検討・実行する基地となるはずのオフサイトセンターが、津波対応、電源喪失の影響により全く機能せず、放射能の拡散予測を計算する情報システム「SPEEDI」も機能しなかった。

南に原発、北は津波で寸断された国道6号線。人々はやむを得ず、北西の方角に避難したが、結果として、漏れた放射能は同じ北西の方角に流れ、雪などに付着して地上を汚染し、避難した人々はいまだに被曝した不安にさいなまれている。

番組では、全域避難を余儀なくされた浪江町、南相馬市の人々の証言を生々しく伝えていた。
https://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20160305

テレビの報道で、避難指示を知った浪江町の馬場町長。

20km離れた津島地区までの車の大渋滞と、避難する人々で溢れる避難所。

ヨウ素剤はあったが、全員に配付する数もなく医師の指示も得られなかったため、配ることを悩み続け、PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまった保健婦。

避難所の外で孫を遊ばせてしまったことを後悔する祖母。

浪江町の西病院では、寝たきりの入院患者全員を自衛隊のヘリも救出できず、避難しろという圧力が高まるなか、やむを得ず、バスで避難させたことで体調を崩し、3名の老人が亡くなったという(避難先でも死期が早まったケースもあった)

政府の屋内退避指示で、逆に避難できなくなってしまった南相馬の老人福祉施設の人々。
外気を取り入れることを避けるため、エアコンを停止し、体調を崩す入院者たち。

信じられない話だが、政府は住民たちに屋内退避(そこに留まれ)の指示を出しておきながら、一方ではトラック協会に対し、物資を運ぶトラックを屋内退避区域に入れないよう指示をしていた。
これによって、命に関わる医薬品も含め、南相馬市の物資は枯渇していく。
南相馬市の桜井市長は、当時のニュース番組の電話出演でその窮状をさかんに伝えていた。

物資も尽きる中、南相馬市の判断で住民たちは自主避難を始めるが、パニック障害のお子さんを持つ女性は、避難所にも行くことが出来ず、ゴーストタウン化する街で、不安と孤独にさいなまれる。
いまだに、冷蔵庫一杯に食料を入れておかないと不安だという。

毎日の訪問介護を必要としていた利用者を訪問することが出来ず、4日目に訪れた介護士は、体調を崩した利用者を発見する。満足な治療も受けられず、翌日亡くなった利用者を、今でも忘れることが出来ない、自分の力が及ばなかったことを後悔していると、涙声で語っていた。

ゴーストタウン化する街に取り残された女性が言っていた「私にとって、まだ震災は終わっていない」という言葉がとても重い。

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