2017年8月19日土曜日

ゴドーを尋ねながら 向井豊昭 近現代作家集 III/日本文学全集28


「ゴドーを待ちながら」のウラジーミルとエストラゴンの二人が、弥次喜多のような恰好をして、恐山に現れる。

彼らは、イタコを通じて、ゴドーに会おうとしているのだ。

お金も持っていない二人をサポートする島冬男。
彼も、自分の母親の十三回忌で、イタコを通じて母に会おうとしている。

そして、三人でイタコに「ゴドー」の降霊を依頼したのだが、「ゴドー」が何なのかも知らないイタコは、何故か、冬男の母の魂をその体に下ろす。

そして、冬男の母となったイタコは、「ゴドー」ならぬ「後藤(下北弁では、ゴドウ)」を非難しはじめる。
どうやら、その「後藤」は、冬男の母をだまして、冬男を孕ませ、逃げたペテン師の男らしい。

と、あらすじだけ見ると脈絡もない話なのだが、著者の言語、方言に対するこだわりが随所に垣間見える。

たとえば、冬男が、最後に母を看取った様子を下北弁で手書きした文章を地元の文芸誌に寄稿したところ、その文芸誌から、ワープロで作成され、誤変換された漢字を含む文章で掲載を断られたエピソードや、イタコの言っている言葉の意味が分からないと嘆くウラジーミルに対して、冬男が「百パーセントわかる言葉なんてない。イタク(アイヌ語で「言葉」)は、本来、感じ取るものなんです。」と言ったりするところ。

さらには、「ゴドーを待ちながら」の幕切れに、この物語のウラジーミルとエストラゴンの二人を戻すために必要となる「力を持った新しい言葉」を生み出す決意が最後で述べられている。

単なる方言の言葉でもなく、誤変換を起こすようなワープロの言葉でもない「新しい言葉」

これは、作者の新たな文学創造の宣言のような作品にも思える。

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