2012年8月29日水曜日

夢を見ない

「フェルナンド・ペソア最後の三日間」の訳者あとがきに、ペソアが書いた戯曲「水夫」の一節が、以下のとおり紹介されていた。
もしかしたら人が死ぬのは充分に夢を見ないからかもしれません。
この文章を読んで、ふと、エリアーデの著書『象徴と芸術の宗教学』の中の「四 文学的想像と宗教的構造」の一文が頭をよぎった。

そこには、物語文学の重要性 - 人間は、どんな状況下にあっても、物語やおとぎ話を聞くことが実存的に必要だという事実-に関して考察があり、その証明として以下の事例が述べられていた。
1.シベリア強制収容所についての著書「第七の天」によると、毎週10人から12人が死んでいった過酷な環境の中で、ある棟に住んでいた100人ほどの収容者全員が生き延びることができた。それは、毎晩、ある老女がおとぎ話を話すのを聞いていたからだった。(老女には、一人一人が配給の食糧の一部を分け与えていたので、彼女は物語を尽きることなく話し続ける体力を保つことができた)
2. アメリカの大学で行われた睡眠の実験で、被験者たちは眠ることは許されたが、レム睡眠をとることだけは連続して妨げられた。睡眠には、四つの段階があるが、このレム睡眠だけ、人は睡眠中に夢を見るのだという。実験の結果、レム睡眠を奪われた人たちは、日中、神経質で短気になり、ふさぎ込むようになった。最後に何も妨げず眠れるようになると、被験者たちは奪われていたレム睡眠を取り戻すかのように、「レム睡眠の氾濫」に陥った (つまり、ここでは、人は眠っている夢の中でも、物語を目にしているということですね)。
エリアーデは、上記の証明を踏まえ、人間における物語への希求をこんなふうに分析している。
人間は-いかなる人間であれ-世界について順序立てて記録すること、つまり自分たちの世界に、あるいは自分自身の魂に起こることに絶えず、魅了されている…その一方で、人はこの終わりのない「歴史」(出来事、冒険、出会い、実在の人物や架空の人物との対面など)の中で、自分自身の夢や空想上の体験から知ったり、あるいは他人から学んだりした馴染みのある景色、人物、そして運命を見分けるたびにうれしく感じるのである。
ペソアの「水夫」の一節は、案外、大袈裟なものではなく、事実に即したものなのかもしれませんね。

個人的なことをいうと、ほとんど夢というのを見ない(あるいは覚えていない)。
奈落のように、「ノンレム睡眠」の底に落っこちているのかも。

そして、その代償を埋めるように、エリアーデの幻想小説にはまっているのかもしれませんね。

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