2021年6月12日土曜日

日本史を精神分析する 自分を知るための史的唯幻論/岸田 秀

実に理路整然とした文章だ。矛盾を感じる部分がない。

まず、岸田は、人間について、歴史についてこう定義する。

動物は本能に従って生きているから、物語を必要としないが、人間は本能が壊れているから、物語(歴史)を作る。

人類が賢明であるという思い込みこそが最も愚かな幻想。

愚者がわけもわからず試行錯誤しながら何とかやってきた病的現象として理解する必要がある。

自分の愚かさを知った人間のみが、その分だけ、少しばかり利口になる。

そして、歴史を振り返り、日本は常に外的自己と内的自己とに分裂してきた国であると主張する。

外的自己とは、日本が外国の属国であることを容認し、外国を崇拝し、外国に適応しようとする自己であり、

内的自己とは、外国との関係を避けて自己の中に閉じ籠もり、外国を軽視し排除して、自己中心的・誇大妄想的に なって、外国を蔑視し攻撃しようとする自己である。

日本は、古代・中世においては、中国に対して、近代・戦後においては、米国に対して、分裂した外的自己と内的自己とが葛藤し続けてきたという説明が実に明快だ。

日本がなぜ、工業生産力が十倍もある米国と戦争を始めようとしたのか、それはペリーの黒船以来の脅迫と侮辱に対する復讐だったという説も興味深い。

そして、太平洋戦争の結果について「馬鹿な軍部が暴走した。国民が騙された。」という、今日、多くの人が支持している定説を信じることに警鐘を促している(騙されたとぼやく人はまた騙される)。

彼らは気が狂っていたわけでも馬鹿だったわけでも極悪人だったわけでもない。開戦するほかないと判断した彼らの心情を検討する必要がある。

彼らを狂人とか馬鹿とか極悪人と決めつけて事足れりとする人は、彼らが当時置かれていた状況と同じような状況に置かれれば、同じように開戦するほかないと判断するであろう。

彼らが正常な心で開戦するほかないと判断したとき、その判断には、彼らの主観としては、当然過ぎるほど当然な正当性のある根拠があったはずである。それらの根拠をすべて白日の下に晒し、ひとつひとつ詳しく検討し、それらの根拠が目の前にあって迫られていても、戦争に訴えないことができるだけの理論を構築しておかなければ、戦争を防ぐことはできないであろう。

日本国憲法の改憲についても、日本が実質的にアメリカの属国であることを認めないまま、属国を脱することのないまま、自主憲法を作れば、できあがった憲法は今よりももっとアメリカに都合のよい憲法になることが目に見えているという指摘にも反論が難しいように思う。

わたしが「ものぐさ精神分析」を読んだのは、高校生の頃だった。それから随分とご無沙汰して読んだ本書だったが、岸田 秀の切れ味鋭いナイフのような分析は健在だった。

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