2012年11月3日土曜日

文章日本語の成立と子規/司馬遼太郎

丸谷才一の「文章読本」の第一章に、「明治維新以後の小説家たちの最高の業績は、近代日本に対して口語体を提供したことであった」という一文があるが、小説家たちがそう評価されるほど、明治期の日本語文章の混乱はひどいものだったらしい。

司馬遼太郎の「文章日本語の成立と子規」(単行本「歴史の世界から」収録)にも、その混乱の様子が描かれていて興味深い。

司馬も、「明治期ほどその(共通文章語〔口語体、標準語の意か〕の)成立までの混乱が長かった時期はなく、当初は、各分野の文章家たちが、みな手作りでやっていたように思える。」という感想を述べており、その一例として、泉鏡花をとりあげ、

「江戸期から継承している草双紙、浄瑠璃、謡曲から噺家のはなし言葉まで参考にしてかれ自身の世界を表現する文章日本語をまったくの手作りでつくりあげたが、この文章をもってモノやコトを認識するというにははるかに遠かった。
大正期に入って鏡花は東京日日新聞にたのまれて新興工業地帯のルポルタージュをやったが、ほとんど全文が意味不明にちかい惨憺たる悪文を残すに至っている。」と述べている。

また、正岡子規と同時代に日本にダーウィニズムを輸入した動物学者 丘浅次郎(論旨の明晰さと平明な文章を書いた人だった)の「落第と退校」という一文を紹介している。

「私が二年と二学期、予備門にいた間にすこぶる点の悪かった科目は、歴史のほかに漢文と作文とがあった。…一度は作文に朱で大きく「落第」と書かれたのが返ってきた。(中略)
作文の点の悪かったのは、何も私に作文の力が劣等であったゆえとばかりは思われぬ。私の考えによれば、作文とは自分の言いたいと思うことを、読む人によくわからせるような文章を作る術であるが、私が予備門にいたころの作文はそのようなものではなかった。むしろなるべく多数の人にわからぬような文章を作る術であった。(中略)
はなはだおかしいことは、作文でつねに落第点を付けられていた私が、その後に書いた文章が、今日の中学校や、高等女学校の国文教科書の中に名文の例としていくつも載せられていることである。」

司馬は、文章を物事(自他の精神内容も含めて)の本質、形状、状態などを自他ともに認識するための道具であるということに明快に気づいていた明治の人として、正岡子規を筆頭に挙げているが、その子規が松山中学校に入った明治十三年のころには、文部省の方針ではじめて国語教育がおこなわれたそうだが、教科内容もはっきりせず、教師もいなかったので、松山中学校では、そのあたりの神職をよんできて、祝詞のようなものを教えていたという。

まるで笑い話のような話だが、文章日本語の成立過程は、こんなところからスタートしたというのが実態なのだろう。

そう考えると、今、特に文章家でもない普通の日本人が、学校やビジネスそして私生活で、特に意識もせず、文章を「物事を自他ともに認識するための道具として」使うことができるようになったのは、すごいことなのかもしれないですね。

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