2020年12月28日月曜日

メメント・モリ/中田考

私がこの小文を見つけたのは、内田樹が編者となってまとめた「ポストコロナ期を生きるきみたちへ」だが、このコロナ禍で読んだ文章で最も印象に残った一文だ。

メメント・モリ  —  死を想え という言葉は、私も知っていた。

藤原新也の本で知った言葉だが、私は、中田考のこの文章を読むまですっかり忘れていた。
このコロナ禍で、「死」が近いものと感じられた時期だったのに。

それどころか、毎日のニュースで報道される感染者数、医療専門家の警告、政治家たちの発言、会社の通達、社会の自粛ムードそういったものに振り回され、茫然自失になっていたのではないだろうか、そう思ってしまうほど、この中田考の「メメント・モリ」は私に解毒剤を、自由を、与えてくれたように感じた。

(1)人は必ず死ぬ、(2)自分が本当にしなければいけないことは何もない、という真理。
この一見絶望的な言葉に、私は自分の気持ちがストンと腹の奥に落ち着いたのを感じた。

真の脅威は、COVID-19ではなく、人々の不安であり、人々の不安につけこみ、あなたがたを支配しようとするものだ、というこの小文の警告を胸に刻んで、来年は生きていきたい。


2020年12月27日日曜日

レベレーション - 啓示 - 6/山岸凉子

異端審問を受けるジャンヌの発言や様子を、本書はかなり忠実に描いている。

四十四人の神学者と法学者が、彼女の異端を証明しようと繰り出す意地の悪い質問に、十九歳の少女がひるまず的確で機知に富んだ回答をするのだが、やはり、神学上の難問「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」に正解を答えてしまうところは、彼女が何者かであったことを事実として証明しているように思える。

彼女の利発さ、神に対する敬虔の純粋さに惹かれて、彼女を影ながら支えるモーリスやイザンバールら司祭の姿が描かれているが、実際、本当は彼女を救いたがった人は多くいたのではないだろうか。

吹き曝しで寒く不潔で狭い牢、手錠と足かせをかけられ、男の牢番に監視される。食事に毒を盛られたり、レイプの恐怖、拷問、火刑の恐怖で脅されながら、十九歳の少女が、最後まで自説を曲げず、頑張り抜いた。本当に大変なことだったと実感する。

物語最後の方で、「解放」の本当の意味を告げたモーリスが、神の存在を疑いかけていたジャンヌを立ち直らせる場面がいい。

ジャンヌをめぐる人々についても、たくさんの逸話があるので、もっと物語を広げることはできた。しかし、山岸凉子は、それらをかなぐり捨てて、一番大事なところ、火刑にされたジャンヌの心に焦点を当てて描き切った。

読んでいて、気持ちが満たされてくるのは、そのせいだと思う。



*ジャンヌ・ダルクの物語を、もっと知りたい人は、「ジャンヌ・ダルク 超異端の聖女/竹宮節子」もお勧めだ。

2020年11月22日日曜日

セロニアス・モンクのいた風景/村上春樹 編・訳

ジャズピアニスト セロニアス・モンクに関するエピソードを村上春樹が集めて訳した本なのだが面白かった。

無口、奇行が多い、時間を守らない、人に合わせない、ともにプレイするメンバーには高いパフォーマンスを要求する。扱いにくいから孤立しがちで「ビバップの高僧」という名前で呼ばれていた。

彼の曲を上手に表現したジョージ・ウィ―ンの文章がある。

それでもそのメロディー・ラインの複雑さは、それを何気なく扱おうとするミュージシャンたちに——数多くの難題を与える。セロニアスが自作曲のひとつひとつに染み込ませたリズムや、拍子や、間の取り方や、節回しを研究し、十分に理解することなく彼のメロディーを演奏するのは、不可能とは言わずとも、相当むずかしいことだ。しかしいったん音楽の内容と意味を呑み込んでしまえば、その曲はリスナーの前にまったく新たな風景を展開してくれる。それは田舎の道路を行く車のドライバーが、むずかしいカーブや坂道をなんとか乗りきったあと、目の前に美しい田園の光景が広がるのに似ている。

この本を読んで、彼のピアノをYoutubeで聴きながら思ったのは、今の音楽より、はるかに難しい表現を目指していたアーティストが居て、そんなアーティストを受け入れるリスナーやバンド仲間、ジャズクラブ、後援者たちが少なからず居たという事実だ。

この曲は何なのだろう、このアーティストは何をやろうとしているのだろう、一音一音、レコードに耳を澄まし、考えながら聴くという音楽の接し方を非常に懐かしく思った。

あとがきで、安西水丸がニューヨークのジャズクラブでセロニアス・モンクの演奏を聴きに行き、最前列に座った水丸にモンクがタバコをねだり、水丸が持っていたハイライトを一本進呈し、モンクがそれを吸って、「うん、うまい」と言ったエピソードがいい。

(表紙は亡き水丸に代わって和田誠がその時の情景を描いたもの)

2020年11月14日土曜日

スタン・ゲッツ 音楽を生きる/ドナルド・L・マギン 村上春樹 訳

文學界の11月号で、村上春樹がスタン・ゲッツについて書いていた記事を読んでいて、興味が湧き、この本を読んでみたのだが、非常に読み応えのある本だった。

スタン・ゲッツの生れてから死ぬまでのいきさつ、歪んだ母親の愛情、優秀なテナーサックスのプレイヤーとしての側面と酒とドラッグの中毒に苦しめられ、それが家族への暴力にまで及んでいた事実が事細かに書かれていて、芸術家の二面性というものの不思議さを感じた。

実際、スタンは十六歳には、有名なジャズトロンボーン奏者ジャック・ティーガーデンに才能を見込まれ、彼のバンドに加わり、その頃から、まわりにも勧められて酒やタバコを呑みはじめ、やがてヘロインによる恍惚感を体験し、麻薬中毒者になるのだが、スタンの音楽的才能は、まったく影響を受けないかのように順調に開花していく。

ケントンの首席サキソフォン・ソロイストになり、ベニー・グッドマン、ウディ・ハーマンの楽団に入り、活躍する。そして「初秋(Early Autumn)」の演奏で、一気に彼はスターダムへのし上がる。

二十七歳の時には、麻薬容疑で逮捕され、収監前に麻薬切れに苦しみ、モルヒネを入手しようとドラッグストアで強盗未遂事件を起こしてしまう。

刑務所では精神的鬱に苛まれ、以前よりさらに酒を飲み、アルコールによる麻痺状態を求めるようになる。

二人目の妻 モニカとのアルコールをめぐる闘いは壮絶な域に達している。過度のアルコールや睡眠薬の服用で正気を失ったスタンが彼女や子供たちを殴り、やがて耐え切れなくなったモニカが、ひそかにアンタビューズ(Antabuse 抗酒癖剤)を料理に混ぜるようになり、スタンはアルコールを飲む度にひどい吐き気に襲われるようになる。(スタンは後にその事実を知り、許せなかった彼はモニカと離婚している。しかし、その離婚も途方もない時間と金額がかかる訴訟を経てようやくのことだ)

一方で、スタン・ゲッツの音楽はさらに成熟度を増し、1961年(三十四歳)の時に革新的なアルバム「フォーカス」を作り上げる。1962年には、ボサノヴァ音楽と出会い、アルバム「ジャズ サンバ」を発表する。この「ジャズ サンバ」は、ジャズなのにビルボードの1962年9月15日号のポップ・アルバム部門のチャートに顔を出すほど売れることになる。このアルバムを契機に、全米にボサノヴァブームが吹き荒れることになる。
(アントニオ・カルロス・ジョビンが説明するボサノヴァとは「新しい感覚」を言う)

そして、ボサノヴァの神とも呼ばれるジョアン・ジルベルトと、アルバム「ゲッツ/ジルベルト」を作り上げる。このアルバムはビルボードのアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、グラーミー賞では最優秀アルバム賞などを受賞する。
このアルバムでボーカルを務めているジョアンの元妻 アストラッド・ジルベルトは、普通の主婦だったが、スタンが彼女の無垢を感じさせる声に惹かれ、急遽、レコーディングになったということも意外だった。

スタン・ゲッツが断酒と薬物の摂取を止めることができたのは1985年(五十八歳)のことだ。しかし、1988年には肝臓がんが見つかり、一時は回復の基調があったが、1991年には2つ目の肝臓がんが発見され、最後はモルヒネを投与され、安らかに死を迎えている。

訳者の村上春樹は、スタン・ゲッツについて、作家のフィッツジェラルドに例えて「フィッツジェラルドはどのようなつまらない小説でも、うまく書かないわけにはいかなかった。それはおそらくスタン・ゲッツに関しても言えることではあるまいか」と評している。

言い換えるなら、彼が手を触れた音楽には、それがたとえ比較的価値の劣る作品であったとしても、そこには必ず「スタン・ゲッツ」という刻印が明瞭にきざまれることになった。

また、スタン・ゲッツの音楽の神髄を「リリシズム」、筋の通った「叙情精神」と述べている。そして、「その力は本人の自由意志では制御することのできない内的な力だ。その力は、美しい芸術を産み出すための根源的なソースとなり、またあるときには持ち主の魂を鋭くついばむ永遠のデーモンともなる。」と。

 本書は、この他にも、1945年頃のチャーリー・パーカーやマイルズ・デイヴィス、ビリー・ホリデー、サラ・ヴォーンが居たジャズ全盛期のニューヨークのクラブの様子が描かれており、ジャズファンならずとも興味がそそられる内容が多いと思う。
(日本の敗戦時期に、こんなに豊かな音楽が奏でられていたことは少し皮肉に思った)

2020年11月1日日曜日

ジャンヌ・ダルク  超異端の聖女/竹宮節子

「 レベレーション(啓示)」の最終話を読んで、山岸凉子が推薦している本書を読んでみたのだが、非常に面白かった。

ジャンヌ・ダルクという規格外の存在が誕生した土壌が暗黒のイメージがある中世のフランスにあったことが、まず意外であった。

修道女マルグリット・ポレート(自説を貫きジャンヌ同様火刑にされた)、シエナの聖女カタリナ(ジャンヌ同様処女を貫き、イエスの声を聞くなどの神秘体験を有する)といった聖女の系譜。

さらには、百年戦争の戦場でジャンヌ・ダルク以外の女性戦士が他にもいたことにも驚く。
百年戦争の初期に現れた同じ名前のジャンヌ・ド・ベルヴィルは、夫がスパイ行為を疑われ、フランス王に殺害されたことへの復讐のため、傭兵を雇い軍を組織し、フランス王派の諸侯の城砦を攻め、果ては海賊にまでなった。

こういった中世の影で実は息づいていた女性たちのパワーが、ジャンヌ・ダルクの聖女性・神秘性を高め、背中を押したことは間違いないだろう。

しかし、ジャンヌ・ダルクの際立った特異性は、彼女が聞いた「声」の内容が抽象的・精神的なものにとどまらず、具体的・実践的(政治的)なものだったことで、「戦士として国王軍を率いてイギリス軍を駆逐せよ」という、まるで一国の将軍が責任を負うかのような啓示が彼女に与えられ、しかもそれを自らが戦士となって本当に実現してしまったことだ。

農家の娘に何故そんなことができたのかということを考えると、いくら彼女自身が聡明で運動神経が優れていたとしても、神の力(運と言ってもいいかもしれない)がないと到底そんなことは実現できないと思ってしまう。

加えて、彼女が一貫して男装をしたことが、一緒に戦っていた戦友の男たちからも女性として見られず、捕らえられた後の牢番からも身を守ることにもつながったという点も興味深い。
今の感覚でいえば、男装は単なる外見だけで中身は女性のままであるという認識が普通だと思うが、この時代は男装が単なる宗教上の異端にとどまらず、「男への変身」と捉えられていた。彼女に関わった女性たちから支持を受ける要因になったという点も面白い。

また、「 レベレーション(啓示)」では、あまり詳細に取り上げられなかったが、ジャンヌ・ダルクの戦友であった貴族ジル・ド・レが、男装の彼女に同性愛的な感覚を触発され、ジャンヌの処刑後、幼児誘拐・虐殺の殺人鬼になってしまったことも、ある意味、男装したジャンヌの影響力を感じさせる。

ジャンヌ・ダルクは、処刑の二十五年後に復権され、二十世紀にはローマ教会から福女というタイトルを得て、さらにカトリックの聖女として正式に認定される。

そんなジャンヌの世代を超越するパワーをナショナリズムと結びつけ、これを利用している極右団体の状況もあるようだが、最後に作者が書いていた以下の考えに深く共感を覚えた。

私たちも人生の途上で、いわれのない攻撃に出会ったり、災害や事故に遭遇したり、病や死の痛みや苦しみを味わったりすることがある。ジャンヌ・ダルクの生と死は、実存的な危機を前にした時にどうふるまえばいいのかを私たちに示唆してくれる。知的な健全さと謙虚さを持って、現実には対処できない危機を、超越的な別の視座から見直して「受容」することで開ける地平がある。それは健全な心が謙虚の中で深まって到達する一種の「突破」なのかもしれない。

2020年10月25日日曜日

その果てを知らず/眉村卓

本の帯に「遺作」とあるので、遺作なのだろう。

眉村卓は、2019年11月3日、誤嚥性肺炎のため、八十五歳で亡くなっている。
大阪大学経済学部を卒業後、旧大阪窯業耐火煉瓦株式会社に入社し、サラリーマン生活の傍ら、早川書房主催のSF小説コンテストに応募したり、SFマガジンに寄稿したりして、作家生活をスタートさせた。1970年から80年代の頃は、数多くのSFのジュブナイル小説を書き、ドラマ化や映画化された。

2000年代は、がんを患った妻のために1778話のショートショートを書き続け、話題になった。

2012年には自身も食道がんを患い、以降、入退院を繰り返していたらしい。

この小説は、そうした背景を分かっていると自伝的な内容を強く感じる。

げっそり痩せて、足が「うどん」のように軟らかくなってしまい、起き上がるのも大変になってしまった老SF作家 浦上映生は、眉村卓自身のことなのだろう。

また、同じく名称は変えられているが、日本におけるSF創生時期の早川書房やSFマガジン、日本SF作家クラブや、山の上ホテルの思い出なども書かれており、星新一、筒井康隆、小正左京など、いわゆるSF第一世代の大物作家とのエピソードも出てくる。

一方でこの小説の面白いところは、薬や病気、高齢から生じる幻覚がSFチックな不思議さに転換されて描かれているところであり、ショートショートの要素も感じられるところだ。

癌の転移をもじった言葉なのだろうか、「テイニー」と呼ばれる瞬間移動の能力を身に着けた娘、旧知の編集者との、別の時間流、別の宇宙での別の生命体への転生に関するやり取り。

老いて死も間近な自分という存在を感じながらも、その重さをSF的な世界に遊ばせ、解き放つ。

物語の最後、浦上映生が空を飛び、「地球も、地球が属していた宇宙も、何も知らない」何かに転生したかのような終わり方が印象に残った。

自分が少年時代好きだったSF作家がこういう素敵な終わり方を書いてくれたことが、妙にうれしい。

2020年10月12日月曜日

戦う操縦士/サン=テグジュペリ

1940年5月23日、サン=テグジュペリは、ブロック174型偵察機に乗って、ドイツの占領地であるアラスの上空を偵察飛行する。

当時、ドイツ軍がベルギーとオランダに侵攻し、5月15日には、フランス北東部の国境を突破していた。

サン=テグジュペリは、この偵察飛行を、最初、全く無意味なものだと断じている。
フランス軍の情報伝達系統は麻痺しているため、偵察して持ち帰った情報は司令部に一顧だにされないだろうと。ただ、戦争が始まった以上、司令部は部隊を動かす必要があるから、自分たちに偵察飛行という命令が下ったのだと。

ドイツ軍戦闘機との遭遇、激しい対空砲火、高度一万メートルへの退避と少ない酸素供給で意識が遠のく過酷な状況。
死が近くなる時、人はフラッシュバックのように人生を垣間見るというが、サン=テグジュペリも戦死したり負傷した同僚のこと、基地や宿営地での生活を思い出す。なかでもオルコントの農家で寝床から這い出て暖炉に火をつけるシーンが暖かい。

そして、サン=テグジュペリは、この激しい戦闘と死への接近を通して、なぜ自分が死ななければならないのか、誰のために、何のために死ぬのかという疑問への答えを見つけ出す。

ある意味、この物語ですごいのは、この「アラスの啓示」を受けて、物語後半に繰り広げられている倫理的・哲学的思考の過程だろう。その強固な言葉から感じる意思は、サン=テグジュペリの神への誓いの言葉のように私には思えた。


2020年10月11日日曜日

花子/森鴎外

花子は、明治期、約二十年欧米を巡業した女優又はダンサーの福原花子(本名 太田ひさ)のことで、フランスの彫刻家ロダンは、彼女をモデルに彫刻作品を約六十点ほど残している。

この小説は、その花子とロダンの出会いの場面を描いていて、ロダンの仕事場に彼女を連れてきた通訳の久保田という男は、花子が別品ではなく、もっときれいな女を紹介したかったと思うが、ロダンは彼女の無駄がない筋肉質の体を見て気に入り、裸になってくれるように頼む。

ロダンがスケッチをする間、久保田は席を外し、書籍部屋でボードレールの「おもちゃの形而上学」を読み、時間をつぶす。

その「おもちゃの形而上学」には、子供がおもちゃで遊んでいて、しばらくするとそれを壊して見ようとする習性があり、それは、おもちゃの背後に何物かがあると思い、それを見てみたいという衝動に駆られるからだと書いてあった。

ロダンがスケッチ後、久保田を呼び戻し、何を読んでいたかを尋ね、「人の体も形が形として面白いのではありません。霊の鏡です。形の上に透き徹って見える内の焔(ほのお)が面白いのです。」と言うところが、この小説の主題だろう。

最後に、ロダンが花子の筋肉や骨格の特徴を述べ「強さの美」と表現するが、それは体だけの事ではないのだろう。

この作品を読んで、夏目漱石が書いた「夢十夜」の第六夜 運慶が彫る仁王の話を思い出した。

2020年10月10日土曜日

杯/森鴎外

この短編は、人は人、自分は自分という極めてシンプルな主張に収斂されるのだろうが、7人の女の子たちの持っている銀杯に「自然」の二字の銘があることや、その字が「妙な字体で書いてある。何か拠りどころがあって書いたものか。それとも独創の文字か」と述べている点を考えると、やはり、7人の女の子たちは自然主義文学の作家を表象しているものと考えられる。

謎なのは、8人目の女の子で、7人の女の子たちよりは少し年上の青い目をした西洋人との相の子として描かれており、銀杯とは対称的に小さいくすんだ黒い杯を持たせている。しかも、この子が話す冒頭の主旨の言葉はフランス語なのだ。

8人目の女の子は、鷗外自身というよりは、鷗外が、西洋から学んで本来伝えたかった文学の理想形を表していると思った方が理解しやすいかもしれない。

この当時、これほど自然主義文学に勢いがあったのかというのが正直な印象だが、鴎外が、はっきりと自然主義文学の作家たちと距離を置いていたことは伝わってくる。




2020年10月9日金曜日

田楽豆腐/森鴎外

冒頭、鷗外が妻に対して「蛙(かえる)を呑んでる最中だ。」と話す場面が出てくる。
その意味は、毎朝新聞で悪口を言われ、その思いをぐっと呑みこむということらしい。

その悪口の内容というものが面白い。

鷗外は小説を書いても「自己を告白しない」「告白すべき自己を有していない」作家であり、むしろ、翻訳家(=創作の出来ない人という意味で)である。しかも、その翻訳には誤訳・拙訳が多く、最近では「誤訳者」という肩書が付けられているというものだ。

今日、森鴎外のなした翻訳の成果を否定する人はいないだろう。
実際、森鴎外は、八十五編の小説(独・露・仏・米含む)と四十五編の戯曲(伊・西・英含む)を訳し、他にもドイツの哲学者ハルトマンの「美学」や、陸軍の求めに応じ、プロイセンの将軍クラウゼヴィッツが書いた「戦争論」なども訳している。
(翻訳数などの引用元:https://m-repo.lib.meiji.ac.jp/dspace/bitstream/10291/10877/1/izumikoshakiyo_14_86.pdf

事実、森鴎外の翻訳は「即興詩人」など、原作以上の作品であると言われるほどのものだったが、それは、単なる翻訳に留まらず、翻案(表現を変更して新たな創作を行うこと)まで行ったせいだろう。その理由の一つには、鷗外が当時の世評に反して創作が出来る作家であったことが影響していると思うが、同時に明治時代の日本語の混乱期は、そのような創作能力を発揮しなければ、とても達意の文章が書けなかったことを無意識にも鷗外は自覚していたに違いない。

当時の鷗外に対する誤訳の指摘レベルがどの程度のものであったのかは分からない。本人の書いた以下の短い文章「翻譯に就いて」を見る限り、それは、重箱の隅を突つくような(突つき損ねている)ものだったのかもしれない。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/49251_36953.html

そういった鬱憤を紛らわすためだったのか分からないが、鷗外は自分の家の庭にたくさんの草木を植えて楽しんでいたらしい。そのうち、素性が分からない草木が出て来たので、近くの小石川植物園に行って、草木の名前を確認しようとする。
タイトルの「田楽豆腐」とは、草木の名前を表示する名札のことである。

出かける際、妻にお洒落なパナマ帽を買うことを勧められるが、鷗外は日差しをより避けられる、古いつばの大きい麦わら帽子をかぶり、道中、帽子屋に立ち寄り、そこでも店員から「労働者がかぶるもの」と言われながら、新しいつばの広い麦わら帽子を買って植物園に向かう。実用性を重んじる鷗外の性格が出ている。

結局、植物園では、名札がない草木が多く、鷗外が知りたいと思う草木はなかったのだが、ひっそりとした空気の中、四阿(あずまや)で、勉強している学生や、子守が子供を遊ばせているのをぼんやりと眺め、穏やかな気持ちになっている鷗外が描かれている。

健常な作家が描く普段の生活でのちょっとした満足感。
この短編を読んで、まるでイギリスの作家が書くような精神的な鷹揚さを感じた。

2020年10月6日火曜日

食堂/森鴎外

これも、また、森鴎外しか書けない小説だと思う。

明治天皇暗殺を企んだとして、幸徳秋水をはじめとした数千名の社会主義者や無政府主義者(アナーキスト)が検挙・逮捕され、幸徳秋水を含む二十四名が死刑判決を受けた「大逆事件」を、鷗外が勤めている陸軍の食堂で同僚と話している内容を書いたものだからだ。

明らかに、鷗外はこの弾圧を行った明治政府側にいると言っていいだろう。
鷗外の役職だけでなく、彼はこの「大逆事件」の取締りの総指揮にあたった元老 山縣有朋とも無視できない関係性を持っていたからだ。

鷗外の立場としては、この事件を無視することもやむを得ないという判断もあったと思う。しかし、彼の知性あるいは良心からすれば、到底、この事件を無視することができなかったに違いない。政府の思想弾圧に一種の危機感を表明したかったという抑えられない思いがあったのだと思う。

ただ、鷗外はそれをきわめて慎重に微妙な言い回しで述べている。

ただ僕は言論の自由を大事な事だと思っていますから、発売禁止の余り手広く行われるのを歎かわしく思うだけです。勿論政略上やむことを得ない場合のあることは、僕だって認めています。

こう述べた木村(鷗外)が、物語上、ひたすら、無政府主義者の歴史的知識を述べているのも、木村が本当は「大逆事件」をどう思っているかを語らせない小説上の工夫と言っていいだろう。

それにしてもと思う。
明治政府の時でさえ、渦中のいわばタブーの事件について、表現は抑えているとはいえ、極めて著名な作家が作品の中で意見表明しているのに対し、今の日本でそういう作家はいるのかなと思ってしまった。
(たぶん、そういう作家がいても出版社で止めるとか、掲載を見合わせるとかいう忖度が働くのでしょうね)



2020年10月5日月曜日

不思議な鏡/森鴎外

これも、ユーモアに溢れた小説である。

昼の役人としての仕事(鷗外は陸軍の軍医総監だった)と、夜の小説家としての仕事を掛けもちしていた鷗外に、ある日異変が起きる。

鷗外の魂が肉体から抜けだして(幽体離脱というやつ)、どういう訳か、当時はやっていた自然主義文学(現実を赤裸々に描く作風)の作家たちが集まっている会合に呼び寄せられてしまったのだ。

田山花袋、島崎藤村、島村抱月、徳田秋声、正宗白鳥といった層々たる顔ぶれ。
しかもその会合には、彼らの小説に熱狂していると思われる若い書生や束髪(明治時代以後、流行した婦人の洋髪)の女性、労働者たちも、ひしめいている。

会場には大きな鏡が設置されており、鷗外の魂はその鏡面に吸い込まれているのだが、会場にいる人たちは、鷗外の魂が鏡にあることを認識しているらしく、さかんに鷗外のことを噂している。

この噂の内容が、自然主義文学愛好者の人たちの視点が分かって、面白い。
「情というものがない」「翻訳はうまいと評判だが、文章が長い」「臆病で誤訳を恐れている」「夜寝ないのは変人だ」「奥さんの小説も書いてやる」などなど。

ここで、田山花袋が、鷗外に「一つ近作を朗読してくれ」と無茶ぶりをする。
鷗外は「原稿を持ってきていない」「朗読は下手だ」と言っても、田山は「思ったものが紙に映る」「上手なお喋りなど期待していない」と、なかなか容赦しない。

会場がざわつき始め、やじも飛び出すなか、田山が休憩を宣言すると、魂は突然、役所で紙に印鑑を押そうとする鷗外の体に戻る…という物語だ。

ある種の悪夢のような話だが、自然主義文学愛好者の品の無さの描写などを見る限り、鷗外は、明らかにこのシチュエーションを楽しんでいる。

田山花袋は鷗外より十歳年下で、作風から言っても、森鴎外と、あまり接点がないように思っていたが、日露戦争の時に記者として従軍した際、鷗外と知見を得ていたらしい。
(田山花袋の描写も、巨大な頭とか、柄にもない優しい声とか、明らかにからかっている)

こういう小説を読むと、鷗外の大人の余裕というものを感じる。

2020年10月4日日曜日

流行/森鴎外

鷗外と思しき男が、夢の中と思われる世界の中で、黒人の少年とアイルランド人の外国人を召使いに使っている、貴族的な立派な顔をした男のいる部屋に招かれる。

男が言うには、召使たちが、よそで働く際に高い給金を得られるよう、逆にお金を払ってまで彼のもとで働くのだという。

それだけではない、有名な料亭やフランス料理店、カフェも、流行りに乗るために、彼のもとにお金を払って飲食物を運んで食べてもらうのだという。

三越も、様々な洋服を男のもとに持ってくる。男が一つ一つ服のポケットに手を突っ込むと、百円札が入っている。一番面倒なのは、彼のもとに訪れる芸者や娼婦の扱いだという。

ただ、こんな事をしておいて可笑しいのは、この男は、不味いものは人に食わせてしまったり、手落ちがあった服は袖を通さないというモラルの感覚はあるらしい。鷗外の嫌悪感にも敏感に反応する。

小説の終わり方も、洒落ている。
設定を変えれば、今の小説として、雑誌なんかに載っていても、ちっともおかしくない印象を受けた。

2020年10月3日土曜日

カズイスチカ/森鴎外

カズイスチカとは、Casuistica(ラテン語で臨床記録)のことで、鷗外は東京大学医学部卒業後、陸軍の軍医になる間、実際に開業医の父の仕事を手伝ったことがあるらしく、その時の父の様子や患者を診たエピソードが綴られている。

鷗外の父、森静男は、名前の通り、荒々しい言動や立身出世を望むぎらぎらした感じはなく、病人を診るのに疲れると、煎茶を飲みながら盆栽を見るぐらいが道楽だったらしい。

ただ、鷗外は、医学の知識も十分でない父を馬鹿にする気持ちはなく、堅実な生活を続ける父を一種の尊敬の気持ちをもって、近くから見ている。

取り上げられている臨床記録も一風変わっており、顎が外れた青年、破傷風になった少年、一人暮らしの女の妊娠というもので、それぞれ、「落架風」、「一枚板」、「生理的腫瘍」というユーモアを感じさせる漢字で名づけられている。

一体医者の為めには、軽い病人も重い病人も、贅沢薬を飲む人も、病気が死活問題になっている人も、均しくこれ Casus(症例)である。Casusとして取り扱って、感動せずに、冷眼に視ている処に医者の強みがある。しかし花房(鷗外)はそういう境界には到らずにしまった。花房はまだ病人が人間に見えているうちに、病人を扱わないようになってしまった。そしてその記憶には唯 Curiosa(好奇心)が残っている。

どれも明治期の普通の人々の暮らしが垣間見えるように丁寧に描写されており、医者にはなり切れなかった小説家の鷗外しか書けなかった記録と言ってもいいかもしれない。

2020年9月27日日曜日

妄想/森鴎外

秋、海辺の別荘で、森鴎外が朝の散歩をしながら、水平線から立ち昇ってくる日輪を見る。

鷗外はそれを見ながら生と死を考え、そして、過去の自分に思いを巡らす。

二十代、ドイツ留学時の「全く処女のやうな官能を以て、外界のあらゆる出来事に反応して、内にはかつて挫折したことのない力を蓄へていた時」。
それでいて、夜眠れない時、自分のしていることが、生の内容を満たすに足るか疑問に思い、ただ、舞台の上の役を勤めているに過ぎないのではないかと疑念にかられる。

自然科学では解けないこの悩みを、若い鷗外はハルトマンの無意識哲学に答えを探すが、見つからない。

やがて、留学を終え、日本に帰ってきても、鷗外は「失望を以て故郷の人に迎へられた」と感じる。(そんなはずはないのだが)

鷗外がそう感じる理由は、合理性のない改革に悉く反対したからだ。
東京の建物の高さを一定にして整然としようとする改革案に、「そんな兵隊の並んだような町は美しくは無い」とか、沢山牛肉を食わせるより「米も魚も消化の良いものだから日本人の食物はそのままがよかろう」とか、仮名遣い改良の議論も、そのままがよいと反論した。
ほとんど理にかなった反論であるが、「洋行帰りの保守主義者」と自身を揶揄している通り、鷗外の出世にはマイナスに働いたらしい(明治三十二年には小倉の軍医部長に左遷?されている)。

鷗外は、「自分はこのままで人生の下り坂を下っていく。そしてその下り果てた所が死である」ことを感じながら、ゲーテの箴言「いかにして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能くせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。」という境地、「日々の要求を義務として、それを果たしていく」ことに精神の拠り所を求めようとする。

この告白文(鷗外の自分の人生や死に対する思い)を読んで驚いたのは、今読んでも、ひどく共感できるところが多いということだ。

明治の偉人としての悩みではなく、常識的な考えを持った大人が人生の半ばを過ぎたときに感じる誠実な諦観のようなものをそこには感じる。

しかし、この作品を書いた時、鷗外はまだ四十九歳なんだけどね。人生六十年の時代だった頃は、もう晩年だったのでしょうね。

2020年9月26日土曜日

ながし/森鴎外

主人公の藤次郎という二十歳の青年が、継母にいやがらせを受ける様子が描かれている。
女中、飯炊き男、戦前の裕福な家庭には、家族以外の人たちも同居しており、その中で一種の社会が形成されている。

ある女中が、継母に冷たくされている藤次郎に同情し、優しくする。
優しくするといっても、恋愛的なものではない。
部屋の拭き掃除をしたり、病気でご飯が食べられないお菓子を買ってきてあげたりする程度。
藤次郎は、その女中の気遣いに駄賃を渡すが、継母は「今から手なづけて置くのだね」と皮肉る。

藤次郎が頼んだわけでもなかったが、お風呂で背中を流した女中に、継母は「若旦那の裸が見たいのだろう」といびり、女中は泣いてしまう。
(このあたりは、時代感覚だろうか。女中とはいえ、お風呂に入ってきて、真っ裸のまま、背中を流してもらう行為は少し一線を越えているような気もする)

意を決した藤次郎は父親に直訴するが、父親は家族に波風を立てたくないため、見て見ぬふり。

物語は「一家のものは同じような争いを繰り返していくのである。」と、ある種、絶望的な感じで終わる。

谷崎潤一郎の「神童」でも、後妻が先妻が産んだ長男をいじめる場面が出てくるが、むしろ、いじめる後妻の美しさや、その後妻に取り入ろうとする主人公(長男の住み込み家庭教師)の悪人としての喜びが書かれているのとは対称的で、鷗外の筆は、当たり前と言えばそれまでだが、藤次郎に同情するトーンで書いている(この物語が、水彩画家である大下藤次郎の実話に基づいているということもある)。

日本の家族関係は崩壊していると言われて久しいが、こういう、わずらわしい、人をどこまでも落ち込ませる人間関係は真っ先に無くなってほしいと思う。


2020年9月23日水曜日

百物語/森鴎外

百物語とは、多勢の人が集まって、蝋燭を百本立て、一人が一つずつ化物の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行く。百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出るということらしい。

この作品も怪談めいたものかと思って読んだが、全く違っていた。
簡単に言うと、森鴎外が催し物(百物語)に参加するため、屋形船に乗り、見知らぬ人々を観察し、屋敷に着いて、催し物の始まらないうちに帰ってしまうだけの物語だ。

鷗外が不機嫌だったのか、何かしら気分が沈んでいた時なのか、とにかく底流に彼の不機嫌さというか、周りの人々との見えない壁というか、すれ違いを強く感じさせるものがある。

その痕跡は至るところに溢れている。

この百物語に誘ってくれた写真を道楽にする男は鷗外の文学を理解しておらず、屋形船の人々の話は白々しく聞こえ、船を降りる際には、自分が履いた下駄は無くなり、歯が斜めにすり減ったものしか残っておらず、屋敷に着いてすれ違ったお酌の女に声をかけても無視され、百物語の主催者の自分に対する挨拶もそっけない。
(下駄については後日、主催者から参加者に新しい下駄が送られたが鷗外には送られなかった)

そういった出来事のせいなのか、鷗外は肝心の百物語についても、にべもない。

…百物語は過ぎ去った世の遺物である。遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空しき名が残っているに過ぎない。客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンのいわゆる幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。

では、鷗外は何を目的にこの催し物に参加したのかと言いたくなるが、彼は、この催し物を企画した主催者 飾磨屋の主人(鹿島清兵衛がモデル)とその妾さんである太郎(鹿嶋ゑつがモデル)に興味を持つ。
というか、一種の意趣返しのような意地の悪い観察を始めたといった方がよいかもしれない。

鷗外は、二人を見て「病人と看護婦のようだ」と評しているが、これも何かしら悪意を感じる言葉である。

その隠すことのできない悪意のせいなのか、鷗外は突然、自身を”傍観者”だという感情を漏らし、その”傍観者”的気質が飾磨屋の主人にいかにもあるかのように、不自然な共感を抱いている。

僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧き立った時も、僕はその渦巻きに身を投じて、心から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチスト(端役)なのである。…そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。

しかし、飾磨屋の主人を評した次の言葉は、悪意そのものと言っていいだろう。

こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌ぎ世に傲った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか。 

そして、太郎についての次の感想は、もはや嫉妬としか思えないレベルである。

あれは一体どんな女だろう。…傍観者は女の好んで択ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜びだのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そんなら一体どうしたと云うのだろう。僕の頭には、又病人と看護婦と云う印象が浮んで来た。女の生涯に取って、報酬を予期しない看護婦になると云うこと、しかもその看護を自己の生活の唯一の内容としていると云うこと程、大いなる犠牲は又とあるまい。そうして見ると、財産でもなく、生活の喜でもなく、義務でもなく、恋愛でもないとして考えて、僕はあの女の捧げる犠牲のいよいよ大きくなるのに驚かずにはいられなかったのである。

一見同情しているかのようにも思えるが、恋愛ですらないと言い切っているところがすごい。

そして、最後の文章が決定的である。

傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った。

私には上記のようにしか読めなかったのだが、皆さんはどうでしょう。

2020年9月22日火曜日

ワカタケル/池澤夏樹

 池澤夏樹が編集して取りまとめた日本文学全集の01番として収められている 池澤夏樹自身が現代語訳した「古事記」。

その「古事記」に出てくる「オホハツセ」、第二十一代雄略天皇こと、ワカタケルを主人公にした小説である。

しかし、読み終わると、このワカタケルは本当に主人公なのだろうかという疑問が湧いてくる。物語前半は、名前の通り、猛々しいワカタケルが、謀略をもって、彼の競争者たちをみな殺しにし、大王の地位に登りつめるまでを描いているが、彼が重要な判断を迫られる場面で影となってコントロールしているのは、夢見る力(予知能力のような力)を持つ女たち、ヰトや大后となるワカクサカなのだ。

物語後半になり、ワカタケルの力が衰え、国家を暗愚な方向にさし向けようとした時、その影の力は遂には表となり、大后となるワカクサカ(さらに言えば、その背後にいるヒミコ)は、ワカタケルに大王の地位からの退場を求め、譲位を迫ることになる。

そして、悲劇が起きた後の始末、ワカタケルとワカクサカに留まらず、心に傷を負った犬の余生まで心を配るのもヰトが行っている。

ワカタケル亡き後の次の大王探しも女たちが担う。葛城氏出身のイヒトヨが女王となり穏やかな治世を行う一方、ヰトはワカタケルが謀殺した従兄のイチノヘノオシハの遺児を探し出し、彼らは大王の後継者となる。

ワカタケルの血統を、十五代ホムタワケから最悪の大王となった二十五代ワカサザキまでを振り返り、葛城氏の女たちの血統が柱となっていたと指摘している点も、結局は女たちが作りあげた物語であるということを暗示しているかのようだ。
(今、女性宮家の存続や女系天皇で騒いでいること自体、こうした過去を振り返ると、ほとんど無意味な議論にすら思えてくる)

池澤夏樹は「古事記」という容れ物をうまく使って、古墳時代の人々を生き生きと描くことに成功している。

天皇と治世の関わり方に数多くの和歌を引用している点も、文字の力に触れている点も、男と女の交わりを明け透けに描いている点も、そして「古事記」から引用された数々のエピソードとその底流にある思想(負けた側への同情の思い)に基づいている点も、ほとんど完璧と言っていい。この小説を読むことで「古事記」の重要な点はほとんど理解できる内容になっている。素晴らしい。

ヤマトタケルの8代後、厩戸皇子(聖徳太子)や推古天皇の10代前。まだ、政権の中枢には大伴氏や物部氏がいて、蘇我氏の勢力が小さかった頃。
今上天皇は126代。日本の歴史は振り返ると本当に長い。

(山岸凉子の「日出処の天子」や「青青の時代」、「ヤマトタケル」を読んだ人には特にお勧めです)

2020年9月20日日曜日

羽鳥千尋/森鴎外

羽鳥千尋という秀才の学生の病死を悼む作品なのだが、いかにも明治時代の空気が感じられて興味深く読んだ。

第一に、家計に余裕がなく病身の母を抱える群馬県出身の羽鳥が医者になるため、書生として置いてくれないかと鷗外に手紙を書いていること。

明治は地方の優秀な人材がむらむらと湧き出て中央に進出し、立身出世を目指した時代であったが、まずは東京で成功した先駆者を頼り、その書生となるのが近道だったに違いない。いきなり、押しかけた者もいたろうが、羽鳥千尋のように自己アピールを手紙にしたためるという方法もあったに違いない。

第二に、羽鳥千尋の秀才は、手紙の中で、あくまでも、早く亡くなった軍人の父に代わって、彼が医者となって病身の母や幼い妹を養っていくためにアピールされているということだ。
自身が「家長」となって森家を守ってきた鷗外にとっては、その秀才ぶりもその動機と努力も、まるで自分の過去を見たような気分だったに違いない。

第三に、羽鳥千尋が書いた手紙の終わりのくだりが印象的だ。鷗外を説得しようと気力をふるって夜通し手紙を書き、もう明け方になろうとしている羽鳥家の様子が描かれているのだが、いかにも旧家の日本間の光景が描かれている。

男爵が亡き父に送った掛け軸、赤い九谷の花瓶、虫の喰った万葉集、松と鴉と牡丹が描かれた襖、鴨居に掛けられた大額の書。

そして、群馬のいかにも田舎の雄大な光景。

筆を棄てて縁側に出る。見渡す限り青田である。半里の先きに、白壁や草屋が帯のように横たはっているのが玉村で、其の上に薄紫に匂っているのが秩父の山々である。村の背後を東へ流れる利根川の水の音がごうつと響いている。

彼が亡くなってしまった後の家族のその後がどうだったのか、気になるところだ。 

2020年9月19日土曜日

鼠坂/森鴎外

日露戦争後、文京区の鼠坂という「鼠でなくては上がり降りが出来ない」という意味で名づけられた急こう配の坂の上に建てられた邸宅での話。

その邸宅の主人は深淵という日露戦争の際、満州に酒を漁船で運び利を得た成金で、その晩、二人の客と酒を飲んでいる。

一人は平山という支那語の通訳をやっている男で、もう一人は小川という新聞記者。

深淵の話は、深淵と平山の中国での苦労話から、小川の話に移る。
それは、酒と肉では満足しない「今一つの肉」を要求する性質である彼が、中国遼陽と奉天の間の十里河という村で犯した強姦殺人事件だった。

深淵の話に気分を悪くした小川だったが、酒に酔ってしまった彼は深淵の邸宅で用意された部屋で眠ってしまう。

やがて小川が目覚めると窓は真暗なのに部屋には薄明かりが差している。
正面の壁を見ると紅唐紙で「立春大吉」と書かれた書の「吉」の字が半分に裂けている。

そして、その切れ紙のぶらさがっている下には、彼が殺したはずの女が仰向けに寝ていることに気づく。
顔は見えないが下顎が見えて右の口角から血が糸のように一筋流れている...という物語だ。

森鴎外には珍しく合理的に説明がつかない怪奇ものの小説である。
もう一つ興味深いのは、国内ではひどく評判がいい日露戦争における日本人の中国の民間人に対する暴力を描いているということだ。

このような話が実話としてあったのか分からないが、森鴎外自身は日露戦争に従軍している。
ただ、彼がこの犠牲になった中国人女性に同情している感情というものは伝わってこず、むしろ、戦地で勝ち馬に乗っかってこのような暴行を働いた民間人を罰したいという気持ちが、このような怪奇ものを書かせたのかもしれない。

鼠坂って、こんな処らしいです。


2020年9月15日火曜日

心中/森鴎外

これも、作中、森鴎外、本人らしき人物が出てくる。
その本人が女中から聞いた話である。

ある料理屋の二階で女中、十四五人が寝ている。
雪が降った寒い夜、目が覚めてしまった女中二人が憚り(便所)に行こうとする。
しかし、憚りは二階から遠い処にある。
梯子を下りて、長い、狭い廊下を通っていかなければならない。
途中、庭の竹のさらさらと擦れ合う音が怖かったり、石灯籠が白い着物を着た人がしゃがんでいるようにも見える。
左の方には茶室のような四畳半の部屋があり、女の泣き声が聞こえるという作り話のようなことを言う者もいる。

便所の前には、一燭ばかりの電灯が一つ附いているが、それが宙に浮かんでいるように、途中の廊下は暗黒である。

行く途中、二人は「ひゅうひゅう」という奇妙な音を聞く。
最初は便所からするものだと思っていたその音が、実は四畳半の部屋から聞こえてくることに気づく。
意を決した女中が襖を開けると、そこに見えたものは...という物語だ。

結末はタイトルを見れば何となく想像がつくと思うが、私は何と言っても、この便所までの遠い道のりに、とても懐かしさを覚えた。
昔ながらの日本家屋に住んだことがある人なら覚えがあるだろうが、なぜ、あんなに便所は遠いのだろう。
風の強い寒い夜、目覚めてしまって、暗い冷たい廊下を歩く時間の長さを感じながら、ざわざわと騒ぐ風の音に何となく恐怖感を覚える。

この作品を読んで、その感覚を久々に思い出した。

2020年9月14日月曜日

蛇/森鴎外

森鴎外が明治四四年(一九一一年)、四十九歳の時に書いた短編小説。

鴎外と思しき主人公が信州の山の中の豪家に泊まった時の話で、実話かどうかわからない。

作者が蚊が寄ってきて眠れないでいると、女の独り言のような話し声が聞こえる。
ふっと現れた豪家の番頭のような爺さんと若い主人が、その家(穂積家)で起きた事を話し始める。
先代の主人の妻が亡くなって四十九日目であること、その姑と今の主人の美しい妻との折り合いが悪かったこと(もっぱら美しい妻に原因があるように書かれている)、姑の初七日の日に妻が線香を上げようとしたところ、仏壇に蛇がとぐろを巻いていたこと、それを見た妻が発狂してしまったこと。

そして、鴎外は、その蛇はまだ居るのかと爺さんに聞き、仏壇に居座っている蛇を素手で取り上げ、持参していた魚籠に入れてしまう…という物語だ。

面白いのは、蛇を始末した結果、妻の様子がどう変わったとかの説明はなく、ただ、主人と爺さんに、東京の専門の精神科医に見てもらったほうがいいと助言するところで、物語が終わるところだ。
(魚籠に入れた蛇をどうしたかも何も書いていない)

怪奇小説という訳でもないこの終わり方が面白い。

鷗外のような実務的かつ医学者にとっては、妻が姑の呪いに狂ってしまったとか、蛇が姑の怨念を示しているといったオカルトティックな考えはあり得ないものだったのだろうか。(夏目漱石が書いた同じタイトルの「蛇」とは実に対照的だ)

一方でリアリティを感じてしまうのは、やはり、嫁姑の不仲に対する鷗外の考え方だろう。鷗外が実は年下の美しい妻にどういう思いを抱いていたか、そこはかとなく伝わってくる。

県庁の指示で、学者である森鴎外を宿泊させる地方の有力者の家という背景も、明治時代を感じさせて面白い。

2020年9月13日日曜日

鷗外 闘う家長/山崎正和

山崎正和氏が三十代後半に書いた作品(1972年)で、明晰な文章が冴えわたっている。

森鴎外の人生、生き方を、彼の作品とともに、夏目漱石や永井荷風の作品、生き方と比較しながら分析していて、とても読み応えのある本だ。

山崎氏は、森鴎外を明治国家の負託に応えながら、同時に彼の家族からの期待に応えてきた生まれながらの「家長」であったことを、その特質として挙げている。

家長というと、よく言われる戦前の亭主関白、家庭における独裁者のイメージもあるが、鷗外の場合は、家族個々人の気持ちや要求、バランスに、痛々しいぐらい気を遣う、ある意味、現代的とも言えるような父の役割だった。
対外的に「外づら」が良くても、家族に対しても「内づら」のよい性格であったことは、明治の男性としては稀有な存在だったに違いない。

そして、国家と家庭からの二重のプレッシャーを受けながら、責任を投げ出さず自暴自棄にもならず、常に良き官僚、良き父の体裁を保ち続けていたことが、非常に苦悩の多い孤独な人生であったことに触れている。

山崎氏の指摘で面白いのは、森鴎外が、そういった場面場面に応じて切り替えて、臨機応変に有能な官僚と父の「演技」をすることができたのは、明治から昭和初期の作家にありがちな胃病や肺病とは無縁の健康体であったことと、運動神経が良かったことを挙げ、夏目漱石(胃病を苛み、家族に対しては不機嫌であった)と比較している点だ。

驚くべきことは、森鴎外が、自分の仕事の話や文学の話、人生上の突っ込んだ問題に至るまで、家族全員にオープンにして、これらが森家の家庭内の話題になっていたということだ。
この習慣は、現代の家族と照らしても稀有なことではないかと思う。

本書では、森鴎外の代表作である数々の作品の文章も引用され、そこに隠れている森鴎外の思考の特質を焙り出しているが、「舞姫」が世間に非常に誤解されて読まれているという指摘は非常に面白かった。

数多くの優れた作品群を生み出し(翻訳数も非常に多い)、仕事も家庭も充実していた人生のようにみえる森鴎外が、晩年、自分と現実世界が疎遠になる感覚を、日常の諸事とつきあうことで、なんとかやり過ごして行くことに努力していたという指摘は、何となく分かるような気がする。

それでも、鴎外は背負い続けてきた家長という責任を捨てることもなく、彼自身に似た存在であった渋江抽斎の家族の歴史を、家全体の生物学的な盛衰を見つめるという意味で「渋江抽斎」という作品にまとめるあたりは、鬼気迫るものを感じた。

森鴎外という、少しとっつきにくい明治の偉人の内面を深く知ることが出来る良書だと思う。

2020年8月31日月曜日

訴訟/カフカ 川島隆 訳 多和田葉子 編

カフカの作品は、読む度に印象ががらって変わってしまうところが本当に面白い。

この「訴訟」(今までの翻訳版では「審判」という名称が多かったと思う)という作品。

このタイトルの変更の印象のせいかもしれないが、主人公Kの言葉遣いもぞんざいな感じで訳されているせいなのか、今までは、どちらかというと、抗らえない不条理な国家権力の不気味さ、それに対する個人の無力感という印象しかなかった作品が、改めて読んでみると、まるでパロディのような印象を持った。

特に笞打人の章は、想像するだけで笑ってしまう。まるでデビット・リンチが撮るカルトチックな一場面のようだ。

カフカ自身、この作品を友人たちの前で朗読する際、笑いの発作に襲われて何度も小休止せざるを得なかったという、マックス・ブロートの証言が巻末の解説で説明されていたのも興味深い。

2020年8月30日日曜日

章魚木の下で・書簡/中島敦

中島敦がパラオ南洋庁国語教科書編集書記として赴任していたのは、昭和16年7月から17年3月頃まで、わずか9か月の期間であるが、この期間が彼の創作活動や喘息持ちの健康状態によい影響を与えたのか、悪い影響を与えたのか、判別がつかないところがある。

家族宛てに送った書簡には、寒い日本の冬を避けられた安堵感が述べられているが、パラオで下痢やデング熱にかかってしまったり、湿気に苦しむ様子が述べられている。一方で、ポナペ(ポンペイ島)、トラック島、サイパンに小旅行すると、体も復調し、少し太ったという記述も見られる。

ただ、旅行から戻ってもパラオでの暑気は体に堪えるらしく、「一日も早く今の職をやめないと、体も頭脳も駄目になってしまう」とか、「記憶力の減退には我ながら呆れるばかり」という記述も見られる。創作活動も「この暑さ、むし暑さでは、頭を働かせることは、殆ど不可能といってもいい」と創作活動が進んでいない様子が述べている。

しかし、間違いなく、中島敦にこの南洋での体験がなかったら、「南島譚」や「環礁」といった作品群は書かれなかったことを思うと複雑な気持ちになる。
私の好みでいうと「李陵」や「弟子」より、これら南洋もののほうが、力みのようなものが抜けており、読んでいて面白いからだ。

昭和16年12月の真珠湾攻撃による日米開戦の影響もあり、彼は結局、昭和17年3月の冬の寒さの真っただ中の日本に戻り、たちまち風邪をひき、体調を崩してしまい、同年12月には喘息の悪化で命を落としてしまうのだが、まだ、三十三歳、作家としてはまだこれからという時期だっただけに本当に惜しいことだったと思う。

南洋の旅が逆に彼の寿命を縮める原因となってしまったのかもしれないが、彼が最後に書いたというエッセイ「章魚木の下で」を読むと、もともとの中島敦の理念であったとは思うが、南洋にいたことも影響して、日本国内で湧き上がった戦争熱に染まらなかった健全な文学者の最後の姿が見られる。
章魚木(たこのき)の島で暮していた時戦争と文学とを可笑しい程截然と区別していたのは、「自分が何か実際の役に立ちたい願い」と、「文学をポスター的実用に供したくない気持」とが頑固に素朴に対立していたからである。章魚木の島から華の都へと出て来ても、此の傾向は容易に改まりそうもない。まだ南洋呆けがさめないのかも知れぬ。
比べるのはおかしいかもしれないが、中島敦とカフカの共通点を妙に感じてしまう。
まだ若かったのに病気で亡くなったこと、大きな戦争が始まる足跡を聞きながら、悲惨な状態になる前にこの世を去ったこと、短い創作活動だったが良質な他人に真似ができない作品を生み出したこと、死後、書簡や断片的作品も含めて研究され続けていることなどが共通しているように思う。

2020年8月17日月曜日

狼疾記/中島敦

狼疾記(ろうしつき)と読む。
孟子の書に、「指一本惜しいばかりに、肩や背中まで失っても気づかない人を「狼疾の人」という」言葉があり、冒頭、その漢文が引用されている。

この言葉を、この小説(?)に当てはめれば、自分という存在は何なのかという問いの答えを知りたいがばかりに、生きることの本質や喜びを見失ってしまっている主人公の三造が「狼疾の人」ということになるのだろう。

何をやっても、自分という存在の不確かさに考えが及び、生きることが無意味に思えてしまう。
酒を飲んで酔っ払っても、自分の発言や行動を厳しく検分する自意識に苛まれ、眠ろうとしても、二・三時間は眠れない。

すでに中学生の時から、そのような思いが憑りついてしまっていたというのだから、作者が書いた「悟浄出世」の悟浄のように、重い病にかかってしまったというほか、ないかもしれない。

途中、主人公の三造が、読んでいたフランツ・カフカの「巣穴」について、「何という奇妙な小説であろう」と感想を述べているが、作者の中島敦もこの「巣穴」を読んで実際に同じような印象を受けたような気がする。

「巣穴」では、実在するかも分からない外敵を警戒し、自己保全のために巣穴を改良することに汲々とする小動物を描いているが、自分の存在の不確かさに悩まされる三造の姿を、まるで戯画化されているような気分を味わったに違いない。

思えば、カフカが書く他の小説の主人公も、いや、カフカ自身も「狼疾の人」だった。
中島敦がカフカ自身の奇妙な実生活まで知っていたとは思えないが、他の小説を読んで
自分との共通点に気づいていた可能性は高い。


(カフカの書いたイラスト)


2020年8月16日日曜日

かめれおん日記/中島敦

この作品をエッセーと呼ぶことに、躊躇いを感じるのは、あまりにも多くの事柄が一つの文章に含まれているせいだろうか。

  • 生徒からカメレオンを貰う話
  • 実務的・現実的な同僚 吉田の話
  • 夜空の星座の話
  •  ゲーテの「詩と真実」の話
  • Operaという単語からの連想
  • 自分の生き方をめぐる考察
  • 不眠症の話
  • 体調不良と薬の話
  • 自分の体内の臓器に関する考察
  • 失望しないための決心に関する考察
  • 和歌五首
  • 常識・慣習から離れた自由に関する考察
  • 自己を責める悪癖について
  • 三連休の睡眠と体調不良について
  • カメレオンを見ながらの眠気と字を書くことの億劫さ
  • 自分の精神のあり方を説明していたある文章の一節
  • 同僚 吉田の処世術に関する話
  • 幸福に関して、老子からの引用
  • 暴力、腕力に対処すべき方法
  • カメレオンを上野動物園に預ける話
  • 赤ん坊を抱いた元音楽教師を見つめる女教師(未婚の老嬢達!)の視線について
  • カメレオンからかつて飼っていたインコ、オウムへの思い
  • 同僚 Kの高等教員検定試験合格の話
  • 横浜山手の外人墓地の散策
  • エウリピデスの作品の一節
と、取り上げただけでも相当数に及ぶし、一個一個の事柄も広く浅いものもあれば、狭く深いものもある。現実世界の下世話な話も精神世界の奥深い話も全て同居している。

これのヒントになるかどうかは分からないが、文中で、中島が自己の精神の欠陥であるかのように以下の通り説明している。
ものを一つの系列――或る目的へと向って排列された一つの順序――として理解する能力が私には無い。一つ一つをそれぞれ独立したものとして取上げて了う。一日なら一日を、将来の或る計画のための一日として考へることが出来ない。それ自身の独立した価値をもった一日でなければ承知できないのだ。
一つのテーマに結び付ける工夫をしたり、全体のバランスを調整して書くという手法以前に、これだけの多種多様なテーマが頭の中で渦巻いていること自体、稀有なことではないか。とても、常人が書ける代物ではない。

正に「かめれおん」にふさわしい中島敦の精神世界の多様性とでも言うしかない。

2020年8月15日土曜日

真昼/中島敦

「環礁 ミクロネシヤ巡島記抄」からの一篇。

「目がさめた。」という冒頭の文章から、ランボーの詩「夜明け」を意識しているように思ったら、真ん中のあたりで「永遠」の一節が引用されていた。

南洋の何にもない真昼過ぎ、快い午睡から目覚めて、青い海と空を眺め、白い珊瑚屑がかすかに崩れる心地よい音を聞いても、中島は幸せを感じることなく、自分が求めているものは、怠惰と安逸ではなく、未知の環境での自己の新たな才能の発掘と来たるべき戦争の戦場に選ばれることを予想しての冒険への期待だったはずだと自分を責める。

(中島敦がパラオ南洋庁国語教科書編集書記として赴任していたのは、昭和16年7月から17年3月頃まで。大日本帝国海軍が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争が開戦した時期である。中島敦が戦争に楽観的な印象を抱いていたことが分かる一節で興味深い。)

そして、自分がいかに西洋文明に基づいた意識で南洋の世界を見ているかに気づき、何処にいても変わらない自意識に辟易とする。

中島自身おかしがっているが、島民(土民と呼んでいる)の家屋で寝ていたときに、何故か、歌舞伎座のみやげもの屋の明るい店先とその前を行き交う人波を思い出したというエピソードも面白い。
彼は何故そんな光景を突然思い出したのか「皆目判らぬ」と言っているが、何のことはない、美しいけれど寂しい南洋の世界に居ながら、都会の華美な喧騒を懐かしんでいるのだ。

中島敦の代表作をみると、特に中国古典に基づいた作品を読むと、彼がいかにも老成した作家のように思えてしまうのだが、この作品からは、自意識に悩まされ、都会にも未練があるまだ若い三十二歳の男の精神が垣間見える。

2020年8月14日金曜日

夾竹桃の家の女/中島敦

「環礁 ミクロネシヤ巡島記抄」からの一篇。

デング熱に罹り、まだ病から回復しきれていない作者が、だるさを抱えたまま、パラオの村を歩いている。

風が止み、蒸し風呂のように熱く重たい空気に病み上がりの体が耐え切れなくなってしまった作者がふと立ち寄った島民の家で、赤ん坊に乳を含ませた上半身裸の若い女と目が合ってしまう。作者は若い女が自分に欲情していると感じ、作者も若い女にほのかに欲望を感じている。

そんな状況になったのは、その日の温度と湿度、花の匂いのせいだと作者は理由を説明している。
そして、そんな混濁した感情を洗い流してくれるような激しいスコール。

雨上がりの道で再び会った若い女の澄ました顔が、このエピソードに妙なリアリティを与えている。

中島敦の作品としては、珍しくエロティックな印象が残る短編だ。


2020年8月11日火曜日

中国共産党および香港政府による国家安全維持法に基づいた香港民主活動家に対する弾圧

香港国家安全維持法が異常な手続きとスピードで成立・施行されたのが6月30日。

そこから3か月も経たない間に、香港民主活動家である蘋果日報(アップル・デイリー)創業者の黎智英(ジミー・ライ)氏と民主活動家の周庭(アグネス・チョウ)氏を中心とする男女10人が、8月10日、香港警察に逮捕された。

黎智英氏と周庭氏に対する容疑は、香港への制裁を外国に働きかけたとして、香港国家安全維持法で禁止する「外国勢力との結託」に違反する容疑で逮捕されたものらしい。

いよいよ、中国共産党は、香港民主活動家に対する弾圧を本格的に進めることを決断したと思われるが、日本は同じ民主主義の価値観を共有する人々への弾圧に明確に強く抗議すべきだ。

あのCOVID-19対策で失点続きのトランプ政権でさえ、中国・香港の関係する政府高官等に対して、制裁などの手段を使って、中国共産党に香港政策の再考を迫る一連の取り組みを進めている。
イギリスも、7月22日、約300万人の香港市民がイギリス市民権を獲得できるようになる特別ビザの条件を公表している。

今回の件に関して、中国共産党・香港政府に対する明確な非難の意思表示を行わないことは、日本国自身が民主主義を尊重しない国家であることを黙示的にも表明したのに等しい。

もう、天安門事件のように、今回の事件を成功例にしてはいけない。

寂しい島 環礁ーミクロネシヤ巡島記抄ー/中島敦

タロ芋畑も、白い砂浜も、サンゴ礁も美しいのに、子供が何故か生まれない島を「此処ほど寂しい島はない」と中島敦は言う。

そして、その理由を「神がこの島の人間を滅ぼそうと決意したからだろう。非科学的と嗤われても、そうでも考えるより外、仕方が無いようである」と彼が感じたのは、日本から離れ、圧倒的な自然に囲まれた南洋の雰囲気に神の存在を感じたせいだろうか。

寂しい島の滅びを悲しみつつも、その寂しい感覚を神や宇宙の存在に引き上げているところが面白い。

島を離れる船の上から見上げた夜空の南国の星座の描写がとてもダイナミックだ。
今、私は、人類の絶えて了ったあとの・誰も見る者も無い・暗い天体の整然たる運転を――ピタゴラスの云う・巨大な音響を発しつつ廻転する無数の球体共の樣子を想像して見た。
この文章から受けるダイナミックな印象は、「李陵」のそれとは違うような気がする。彼が学んだ中国古典のエネルギーとは別のところから由来しているような気がする。たとえて言うなら、まるで宮沢賢治が書くかもしれないような。

中島敦の多面性が、この「環礁」の短編ごとに感じられるのが興味深い。

2020年8月10日月曜日

幸福/中島敦

中島敦は、第一次世界大戦後、日本がミクロネシア諸島を委任統治していた時代、南洋庁の編修書記という職務で、約9か月間、パラオに滞在していた時期がある。

その時の経験を基に、南洋を舞台にした幾つかの短編を書き残している。
「幸福」もその一つで、南洋の島に伝わる昔話だ。

身分が卑しい下僕は、彼の主人である長老に、過重な労働を強いられ、いつもひどい仕打ちを受けている。彼は忍耐強い男であったが、そのうち、空咳が出る疲れ病いにかかってしまう。下僕が、神に、病いの苦しみか、労働の苦しみのいずれかを減じてほしいと祈ったところ、夢を見るようになる。

その夢の中では、下僕は長老に成り代わっており、食卓には御馳走が並び、女は妻だけでない範囲で自由にすることができ、誰もが彼の指示に従う。特に長老に似た召使いに対しては過酷な仕事をいいつける。夢から覚めれば、また卑しい下僕に戻ってしまうが、夜の楽しさを思い、彼は昼間の辛苦にも耐えられるようになる。そのうち、夢の中での美食のせいか、病気までもが回復し、めっきりと肥り始める。

一方、長老も同じ時期から夢を見始めるが、その夢は、自分が卑しい召使いとして、自分に成り代わった下僕に無理難題の仕事を強いられるという夢だった。そのうち、長老は、空咳をしはじめ、痩せ衰えていく。

怒った長老は、ついに下僕を呼びつけ、手酷く罰しようとするが...という物語だ。
ガルシア・マルケスのマジック・リアリズム的な作品だが、やはり、空咳をし、痩せ衰えていく下僕に、喘息に侵されていた中島敦自身の影を感じてしまう。

彼がこの下僕のように幸せな夢を見続けることで健康を取り戻し、もっと多くの作品を書き残すことが出来ていたら、どんなによかったろうと思う。

2020年8月9日日曜日

虎狩/中島敦

「虎狩」という タイトルから、「山月記」を思い浮かべる人もいるかもしれないが、ここで描かれているのは、作者が朝鮮の小学校に通っていた時分、同級生であった朝鮮人(半島人) 趙大煥という男についてのことである。

どちらかというと作者が日韓併合後の朝鮮の人々の様子を描いた「巡査の居る風景 一九二三年の一つのスケッチ」に近い印象を受けた。

趙大煥という少年は、日本語がうまく、母親が日本人(内地人)という噂もあるが、愛すべき少年というよりは、半島人であるがゆえの弱さ、性格的に屈折している点が作者の思い出として語られている。

例えば、趙が自分の名を名乗ることに少しも拘泥していないことを見せる反面、自分が半島人であるということを友人達が意識して、恩恵的に自分と遊んでくれているのだ、ということを非常に気にしていて、彼にそういう意識を持たせまいとする、教師や私作者達の心遣いまでが、彼を救いようもなく不機嫌にした点や、

上級生に生意気だと殴られ、泣き崩れた趙が、あたかも作者をとがめるような調子で、つぶやいた「どういうことなんだろうなあ。一体、強いとか、弱いとか、いうことは。」という言葉(作者は、内地人と半島人の隠しきれない差別感に絶望した感情を感じる)や、

虎狩に行って、虎に襲われそうになった勢子に対して、趙が足で荒々しく其の身体を蹴返して見ながら「チョッ! 怪我もしていない」と言い放つ姿(作者は、講談か何かで読んだことのある「終りを全うしない相」とは、こういうのを指すのではないかと考える)だ。

物語の最後、作者と趙の奇妙な再会が語られるが、ここでも作者は、趙の下卑とも言える表情をきっかけに彼のことを思い出すことになり、あくまで、作者にとって、趙大煥は、半島人であるがゆえの弱さ、屈折している性格のキーワードとして認識されているような気がする。

決して悪い作品ではないのだが、読んていて、気になったのは、中島の視点が支配している日本側のものではないかという感覚がぬぐえない点だ。

もちろん、彼がこれを書いた時代からすれば、あえてこの問題を取り上げていることのほうが称賛されるべきことなのかもしれないが。

敗戦国となった日本人が、むしろ米国で暮らしていたら、周りのアメリカ人にどう思われるか、この作品を読んだら、よけいに身に染みたかもしれない。

2020年8月2日日曜日

悟浄歎異―沙門悟浄の手記―/中島敦

悟浄が、悟空、八戒、三蔵法師を観察して分析した文章なのだが、これがなかなか名言が多い。

例えば、悟空を評して、
彼は火種。世界は彼のために用意された薪。世界は彼によって燃されるために在る。
災厄は、悟空の火にとって、油である。困難に出会うとき、彼の全身は(精神も肉体も)焔々と燃上がる。逆に、平穏無事のとき、彼はおかしいほど、しょげている。独楽のように、彼は、いつも全速力で廻っていなければ、倒れてしまうのだ。
八戒を評して、
この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。
八戒は、自分がこの世で楽しいと思う事柄を一つ一つ数え立てた。夏の木蔭の午睡。渓流の水浴。月夜の吹笛。春暁の朝寐。冬夜の炉辺歓談。……なんと愉しげに、また、なんと数多くの項目を彼は数え立てたことだろう! ことに、若い女人の肉体の美しさと、四季それぞれの食物の味に言い及んだとき、彼の言葉はいつまで経たっても尽きぬもののように思われた。 
三蔵法師を評して、
三蔵法師は不思議な方である。実に弱い。驚くほど弱い。変化の術ももとより知らぬ。途で妖怪に襲われれば、すぐに掴まってしまう。弱いというよりも、まるで自己防衛の本能がないのだ。この意気地のない三蔵法師に、我々三人が斉しく惹かれているというのは、いったいどういうわけだろう?...我々は師父のあの弱さの中に見られるある悲劇的なものに惹かれるのではないか。
師父はいつも永遠を見ていられる。それから、その永遠と対比された地上のなべてのものの運命をもはっきりと見ておられる。いつかは来る滅亡の前に、それでも可憐に花開こうとする叡智や愛情や、そうした数々の善きものの上に、師父は絶えず凝乎(じっ)と愍(あわ)れみの眼差を注いでおられるのではなかろうか。
三蔵法師と悟空の共通する点について、
二人がその生き方において、ともに、所与を必然と考え、必然を完全と感じていることだ。さらには、その必然を自由と看做していることだ。金剛石と炭とは同じ物質からでき上がっているのだそうだが、その金剛石と炭よりももっと違い方のはなはだしいこの二人の生き方が、ともにこうした現実の受取り方の上に立っているのはおもしろい。そして、この「必然と自由の等置」こそ、彼らが天才であることの徴(しるし)でなくてなんであろうか?
そして、彼らと対比した悟浄自身について、
燃え盛る火は、みずからの燃えていることを知るまい。自分は燃えているな、などと考えているうちは、まだほんとうに燃えていないのだ。
悟空の闊達無碍の働きを見ながら俺はいつも思う。「自由な行為とは、どうしてもそれをせずにはいられないものが内に熟してきて、おのずと外に現われる行為の謂だ。」
俺が比較的彼を怒らせないのは、今まで彼と一定の距離を保っていて彼の前にあまりボロを出さないようにしていたからだ。こんなことではいつまで経たっても学べるわけがない。もっと悟空に近づき、いかに彼の荒さが神経にこたえようとも、どんどん叱られ殴られ罵しられ、こちらからも罵り返して、身をもってあの猿からすべてを学び取らねばならぬ。遠方から眺めて感嘆しているだけではなんにもならない。 
まったくもって、悟浄の観察と分析は正しいように思う。
そして、程度の差はあれ、我々が住む娑婆においても、上記登場人物たちの性格を持った人々は少なからずおり、私たちはこの物語を通して、悟浄の分析に共感を覚え、我が身や周りの人々を顧みたりするのだ。

最初にこの物語を読んだとき「わが西遊記の中」という副題を見て、他にも作品があるのではないかという期待を持ったが、残念ながら「悟浄出世」とこの「悟浄歎異」だけだったことを知り、とても残念な気持ちになったのを覚えている。

2020年8月1日土曜日

悟浄出世/中島敦

三蔵法師と出会う前、流沙河の河底で鬱々と過ごしていた時期の沙悟浄が描かれている。

彼には、自分の首の周りに食ってしまった僧侶九人の髑髏が見えるが、他の妖怪には見えない。自分の前世が天界の捲簾大将であったことにも懐疑的で、自分というものがただ厭わしく、信じることができなくなっていた。

悩んだ末に、妖怪世界に居る数多の賢人、医者、占星師に教えを乞いに旅に出る。

ある者には幻術を使った実用的な話をされ、ある者には無常観を説かれ、ある者には時の長さは相対的であると説かれ、ある者には神を恐れよと警告され、ある者には自分の醜い姿を肯定され、ある本能主義者には喰われそうになり、隣人愛を説く聖人には講演中に実子を食べる姿をみせられ、ある者には自然に教えを乞うべきであると説かれ、ある者には性行為で楽しむことこそ徳であると説かれる。

それらの教えを受け、ますます自分が分からなくなった悟浄は最後に会った仙人に諭される。
臆病な悟浄よ。お前は渦巻きつつ落ちて行く者どもを恐れと憐みとをもって眺めながら、自分も思い切って飛込もうか、どうしようかと躊躇しているのだな。...物凄い生の渦巻の中で喘いでいる連中が、案外、はたで見るほど不幸ではないということを、愚かな悟浄よ、お前は知らないのか。
悟浄はそれでも釈然としなかったが、自分の中にあった卑しい功利性に気づく。そして、遂には疲れ切って何日も眠り続けてしまう。

月光が差す静かな河底で眠りから覚め、体が軽くなった悟浄に、観世音菩薩が訪れ、三蔵法師との旅に付き従うよう告げられる。...という物語だ。

悩みに悩んだ悟浄が完全ではないが倦怠と自己不信という病(精神的危機)を克服する過程は、一種の教養小説と言ってもいいかもしれない。

これを私小説風にやると相当鬱陶しい印象を受けるかもしれないが、西遊記という古典娯楽小説を舞台にしているせいか、物語からは明るい印象を受ける。

なお、日本では河童のイメージでお馴染みだが、中国では僧形をしているという。

2020年7月28日火曜日

名人伝/中島敦

弓の名人の話なのだが、非常に解釈が難しい物語だ。

紀昌という男が天下第一の弓の名人になろうと志を立てる。
最初に弟子入りした飛衛の下では、瞬きをしない訓練で二年間、小さいものを視る訓練で三年を費やす。
その目の基礎訓練を終えると、すでに紀昌の弓は百発百中の域に達しており、遂には、紀昌は師匠の飛衛から学ぶものはなくなったとして、師を取り除き、自分が第一の名人になることを企む。

その企みは失敗するが、紀昌の危うさを感じた飛衛は、紀昌に霍山の頂に居る名人 甘蠅師を紹介する。

その甘蠅師はさらに凄い技の持ち主で、弓を持たなくても無形の弓で飛ぶ鳶を打ち落とす技の持ち主だった。
ここで紀昌は九年間修業するが、どのような修業をしたのかは誰も知らない。

九年経って山を下りてきた紀昌はまるで木偶のような人物に変わっており、弓にも触れず、言葉も少なくなっている。
「弓を執らざる弓の名人」と周りは持て囃すが、紀昌の木偶の如き顔はさらに表情を失い、語ることすら稀になる。

そして、死ぬ一二年前に、紀昌は、招かれた家の主人に、この器具は何と呼ぶ物で、何に用いるのか質問する。主人は最初冗談だと思ったが、三度尋ねられて、狼狽しながら叫ぶ。「古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
その話を聞いた都の画家は絵筆を隠し、楽人は琴の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたという逸話で話は終わる。

この話は、弓の道を究めた名人の話と素直に読むものなのか(A説)、あるいは、行き過ぎた修業は人間の才能を枯らしてしまい、皮肉にも、それすら判らぬというのが世間の常であるという話(B説)なのか、判断が非常に難しい。

A説として考えられる根拠は、紀昌が、師匠を取り除き、自分が唯一の名人になろうとしたり、自分の技の凄さを喧伝するような負けず嫌いな功名心が消え失せ、ある意味老成していることだ。
一方、B説は、山を下りてきた紀昌には、弓の実技に留まらず、道を究めた名人にあるはずの豊かな精神の動きすら失われており、見ようによっては認知機能すら危うくなった廃人と化している点が根拠として考えられるだろう。

常識的に考えるとB説のように思えるが、藝事の名人が終には究めた道具の名前も使い方すら忘れてしまうA説のほうが、アイロニーが利いていて個人的には面白いように思う。


2020年7月27日月曜日

変身(かわりみ)/カフカ/ 多和田葉子 訳

海外文学のメリットは、新訳によって、新しい文章・解釈によって生まれ変われるところにある。

このカフカの「変身」も4、5回は読んだと思うが、その新訳によって、毎回、新たな場面が印象に残る。
今回は、従来、グレゴール青年が変身してしまった「毒虫」又は「虫」という表現が、ウンゲツィーファー(生贄にできないほど汚れた動物或いは虫)と訳されたところがポイントだと思う。

それによって、家族や会社のために身を粉にして働き、過労死寸前だったかもしれないサラリーマンのグレゴール青年が「生贄」になることを自ら拒否するため、ウンゲツィーファーに変身せざるを得なかった背景が感じられ、

また、グレゴール青年が妹を偏愛したことがウンゲツィーファーに変わってしまった原因(罪)であり、その妹がグレゴール青年に死刑宣告のような言葉を突き付けるところが、罪と罰の物語として読み取れる。

もう一つ。解説で、この作品は介護の物語が読み取れるという多和田葉子の指摘は、あまりにも的確すぎると思う。(引きこもり、鬱病という解釈は池澤夏樹も言っていた)

このように、あまりにも現代社会の病癖に即して幾重にも解釈できるカフカ作品の怖ろしさを感じた。



2020年7月26日日曜日

文字禍/中島敦 その2

舞台はアシュル・バニ・アパル大王が治める紀元前650年ごろのアッシリアの話である。
大王が建設した図書館で、毎夜、ひそひそと怪しい話し声がする。

それは、文字の霊の話し声ではないかという噂が立ち、ナブ・アヘ・エリバという老齢の博士が探索を命じられる。

図書館と言っても、メソポタミア文明ではパピルス(紙)は生産をしていないため、文字はすべて粘土板(瓦のようなもの)に記されており、まるで瀬戸物屋の倉庫のような趣がある。

博士は粘土板に記された楔形文字を長く見るうちに、文字が解体し、意味の無い一つ一つの線の交錯にしか見えなくなってしまう。
そして、その単なるバラバラの線に一定の音と一定の意味を持たせているのが、文字の霊であることに気づく。

文字の精は野鼠のように仔を産んで殖え、人々に悪い作用を与えていることがわかる。
眼が悪くなることは勿論、咳が出始めたり、脚が弱くなったり、傴僂になったり、記憶力が悪くなってしまう、などなど。

自分も文字の霊に毒され重症化しはじめていることに気づいた博士は、文字への盲目的崇拝を改めるよう、大王に進言する。
しかし、その反逆を知った文字の霊は、大地震の時、書庫にいた博士に夥しい書籍(粘土板)を、文字共の凄まじい声とともに降らせ、圧死させてしまう。

この物語を最初に読んだときは、文字の精霊という存在を思いついた中島敦に感心するだけであったが、よくよく考えると、これはアルファベットという文字では、中々イメージが湧きにくいだろうなと思った。

まさに楔形文字や漢字のような象形文字にこそ、文字の精霊は「野鼠のように仔を産んで殖え」そうな気がする。

そして、驚くのは、アシュル・バニ・アパル大王が本当に図書館を建設していたということである。その図書館には、30,000枚以上の粘土板が収められていたというのだから、当時としては大図書館と言っていいだろう。
そこで夜ひそひそ話が聞こえたら、文字の霊を疑ってしまうかもしれないと思わせるリアリティが感じられる。

中島敦の作品は、こういった物語の構想という観点だけでも、感心させられることが多い。



2020年7月25日土曜日

木乃伊/中島敦

ペルシャ人の軍人パリスカスは、「頗る陰鬱な田舎者」で「何処か夢想的な所」があり、「何時も人々の嘲笑」を買うような男であったが、エジプト征服に向けて進軍中、エジプト軍の捕虜共の話している言葉を、エジプトに住んだこともその人々と交際したこともないのに、理解できそうな自分に気づく。

同僚たちも、オベリスクを建てた王とその歴史をよどみなく説明するパリスカスを奇妙に思う。しかし、パリスカスには原因が分からない。

ペルシアのカンビュセス王が、エジプトの先王の墓を暴くことを兵士たちに命じ、パリスカスも探索に加わるが、いつの間にか、たった一人で古そうな地下の墓室にいることに気づく。

そして、その墓室にいた木乃伊の顔に視線を合わせたとき、突然、パリスカスの身体に内的な異変が生じ、この木乃伊が前世の自分であったことに気づく。

前世のパリスカスは祭祀であり、当時の出来事や妻の体臭まで思い出す。

そして、パリスカスはさらに前世の記憶をたどるうちに、前世の自分もまた薄暗い小室でちょうど今起きているように一つの木乃伊(前々世の自分)と対峙している前世の自分を見つけ、慄然とする。

前世、輪廻転生を扱った作品は多いが、まるで合わせ鏡のように、その不気味な無限性を描いている点で怖い物語だ。

前世の自分の臨終の際の表現も現実感がある。
うす眼をあけて見ると、傍で妻が泣いている。 後で老人達も泣いているようだ。急に、雨雲の陰が湖の上を見る見る暗く染めて行くように、蒼い大きな翳が自分の上にかぶさって来る。目の眩むような下降感に思わず眼を閉じる―

 

2020年7月24日金曜日

狐憑/中島敦

狐憑き、という、いかにも日本的なテーマを取り上げながらも、舞台はスキュティア人(スキタイ)の湖上民族の話である。

シャクという平凡な男が、遊牧民の侵略を受けた際、弟を殺されたことをきっかけに、譫言(うわごと)をいうようになり、人々は珍しがって彼の話を聞きに来る。

最初は弟の霊が憑りついたと思われたが、そのうち、関係のない動物や人間の言葉を口にするようになる。

しかし、シャクが話す態度は狂気じみた所がなく、その話は条理が立った内容になっており、憑きものがついた人間の話とは思えない。
シャクも自分が憑きもののせいで話している訳ではないことに気づいているが、自分が何故、このような空想話を次から次へと生み出すのか分からない。そのうち、彼の話を聞きに来る聴衆はますます増え、シャクが作り出す物語の構成も巧緻なものになっていく。

後世の私たちは、その生業を作家と呼ぶのだが、文字もないこの時代、シャクのやっていることは、彼自身も含め誰も理解できない。

そのうち、若い人たちが彼の話を聞いてばかりいて仕事をしないことに腹を立てた長老達が、シャクの排斥にとりかかる。
シャクは釣りや馬の世話をせず、実社会では働かず、彼の話の面白さに惹かれる人々から与えられる食べ物で生きていたが、やがて、シャクが作家的スランプに陥ると、今まで彼の話を好んで聞いていた人々も彼に食べ物を分け与え続けてきたことに腹立ちさえ覚えるようになる。

そして、長老たちの計略により、シャクは雷の夜、処刑されてしまう...という物語だ。

中島敦の作品は、不遇な芸術家を描いたものが多いが、決してウェットな感じにはならない。ある意味、その不幸をも笑いに変えてしまっているような知的な印象を受ける。
この物語の最後の文章も、こうだ。
”ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。”

2020年7月19日日曜日

対訳 ランボー詩集 フランス詩人選(1)中地義和編

ランボーの詩は、一度まとまったものを読んでみたいと思っていたので、原文付きの文庫本は、パラっとページを開いてすぐに読みたくなった。

本書の構成も分かりやすく、前期韻文詩、後期韻文詩、地獄の一季節(全文)、イリュミナシオン、そして、ランボーが最後に残したという詩「夢」、作品解説、年譜と一通りまとまっている。

原文が読めなくても、言葉の持つイメージが伝わってくるので、それを見るだけでも雰囲気を感じ取ることができる。また、特異な表現には注釈がついているで、それを読むのも面白い。

この本を読んでいて興味深かったのは、「地獄の一季節」が、ダンテの「地獄篇」に近い場面設定がされていることが分かったのと、「イリュミナシオン」が「地獄の一季節」の後に書かれたものではなく、その前後(と言っても詩作の期間はたった5年しかない訳だが)の広い期間にランボーが書き残した様々な作品を拾い集めた詩集であるという説だ。

この説は、実質的な詩作の訣別を述べている「地獄の一季節」の後に「イリュミナシオン」が詩作されたという不自然な流れを解消してくれるものだ。

(ビートルズの実質的な最後のアルバムは「Abbey Road」だが、最後のアルバムが「Let It Be」だったのと同じような感じか)

また、こうして訳者が変わっても、好きな詩は好きだ(特に「夜明け」)ということを改めて再確認できたというのもうれしい点であった。

本書には、ランボーをめぐる色々なイラストが掲載されているが、まるでサルのような姿で描かれているイラストもあり、これも、ランボーがパリの芸術家たちに悪い印象を持たれていたせいなのだろうか。(いかにも生意気そうな若僧という雰囲気は伝わってくる)

その点も読んでいて面白かった。


2020年7月5日日曜日

香港国家安全維持法に思う

コロナ禍にある世界が自国の対応に追われる中、間隙を突くように異常なスピードで成立した「香港国家安全維持法」。

この法律は、異様な制定手続で施行された。
香港の人たちに適用される法律にも関わらず、香港の立法会(議会)を通さず、中国全人代常務委員会で6月30日に可決された。しかも同日午後11時をもって施行。
さらに驚くべきことに香港の人たちには、施行されるまでこの法律の全文は公開されなかった。

公開された法律の内容も慄然とするもので、香港の人たちが行ってきたデモ活動や中国共産党や香港政府への批判が、「国家分裂」「政権転覆」「テロ活動」「外国勢力との結託」のいずれかに該当すると判断されると、3年以上10年未満の懲役刑に処せられる。重大な犯罪と認定された場合は、終身刑または10年以上の刑を宣告される。

その判断をする機関は、香港政府が行政長官をトップとして設立する「国家安全維持委員会」であるが、この委員会には、中国政府が顧問を派遣するほか、治安維持機関として香港に新たに設置する「国家安全維持公署」という機関に監督・指導にあたらせる。
司法や警察は「国家安全維持委員会」の配下にある。

「国家安全維持公署」と香港国家安全維持法に従って職務を遂行するその職員は、香港特別行政区の管轄権の対象とはならないとある(第60条)。
つまり、香港の人々はこの機関およびその職員に何も手が出せないということだ。

この規定以外にも、「香港の他の法律と矛盾する場合、香港国家安全維持法が優先される」との規定も盛り込まれている(62条)。

香港特別行政区に居住していない外国人が起訴される可能性もある(第38条)。

他にも問題だと思われる条項が多数ある。

この法律は、香港の人たちの頭に、四六時中、拳銃を突き付けて、自分たちの思い通りに行動を強制している状況に等しい。

この21世紀に、こんな悪法によって人権が侵害される場面を目の当たりにするとは思いもよらなかった。

(参考文献)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60844530W0A620C2I00000/?n_cid=NMB0000

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53259691

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61142

https://transitjam.com/2020/06/30/national-security-law-english-translation/#_Toc44451742

2020年7月4日土曜日

ぜんぶ本の話/池澤夏樹 池澤春菜

まえがきで、池澤春菜が、読書は旅に似ていると書いているが、父と娘が幼年期から読んだ本の話を振り返ると、もはや親子が辿ってきた人生そのものに限りなく近づく行為と言ってもおかしくないかもしれない。

それは、語られている本が、まるで池澤家の書棚のイメージがくっきりと浮かんでしまうほど、鮮やかな好みが示されていること(ほとんど翻訳物)に加え、有名な作家を父に持ったお互いの若い頃の苦労がせきららに語られているせいもあると思う。

池澤春菜が、自分のいじめの経験を話して、
「本に触れることで救われる子、現実のつらさをやりすごせる子、壊れそうになる心をせき止めて、現実に立ち向かう力を持てる子。...だから、家にこもって本を読みふける子供を、親はできるだけ静かに見守ってほしいとわたしは思います」と述べているところや、
池澤夏樹が、自分の小説の主人公が職業を持った女性にするケースが多いのは、母や伯母が時代の制約で女性であるがゆえ活かすことができなかった能力、行動を、代わりにヒロインにさせているからだと思い至ったという告白は、特に胸に残った。

と、重い話を書いてしまったが、全体的には、池澤夏樹・春菜ワールド全開の、冒険小説、SF、ミステリー中心の本が、親子の軽妙な会話でおもしろ楽しく取り上げられていて、あっという間に読み終わった。

読後、あ、この本読んでみたい、と思うものが多かったので、これはいい書評の本だと思う。

2020年6月28日日曜日

蓼喰う虫/谷崎潤一郎

この作品は『卍』の創作の翌年に書かれている。
そのこと自体が谷崎の小説家としての力量が格段に飛躍した時期であることが分かる。

『卍』が関西の女性の派手で過剰な言葉遣いと異常な同性愛を扱っているのに対し、『蓼喰う虫』は関東のクールな話し言葉を基調に、子供と舅と叔父が登場する普通の家庭の夫婦の不和を扱っており、実に対照的な印象を受ける。

『蓼喰う虫』は実に微妙なバランスを保っている作品である。

主人公の要は、妻には全くのセックスレスなため、朝鮮人とロシア人のハーフのルイズという外国人娼婦と定期的に寝ているが、一方で舅が妾にしているお久のまるで日本人形のような和の魅力にも目覚め始めている。

妻の美佐子を阿曽という別の男に譲るというある意味異常な行為も、両親の離婚の危機を感じる子供の弘や、二人の仲を修復しようとする高夏と妻の父親の存在で中和されている。

要がアメリカの映画を好みながらも、義父が好む人形芝居に面白みを見つけ、その奥深さや一種の懐古主義に魅力を感じているところも面白い。

この和と西洋、関東と関西、異常と正常の世界を行き来しつつ、微妙なバランスを保ちながらというか、まるで綱引きの双方の力が拮抗したかのように静かな緊張感に満ちている。
その緊張感は、一見普通を装っている夫婦が別れるのか、別れないのかという複雑な人間関係にも共通していて、まるで現実であるかのように登場人物の精緻な感情の駆け引きが静かに描かれている。

谷崎がこの後『吉野葛』『盲目物語』と日本文化に帰依する作風に舵を切っていったことを考えると、まさにこの『蓼喰う虫』はその分岐点にあった作品だったのかもしれない。


2020年6月27日土曜日

映画「Contracted」と「Thelma」

コロナ禍で家にいたとき、やることもないので映画をやたらと見た。
その時に不思議と心に残ったのがこの「Contracted」と「Thelma」だ。
どちらもレズビアンの主人公だ。

「Contracted」は、契約という意味ではなく、感染するという意味だ。
なぜ、そんな映画を見てしまったのか分からないが、やはり感染症に敏感になっていたからだと思う。
ただ、映画は相当気持ち悪いシーンが続くので、気の弱い方は見ないことをお勧めする。

サマンサというレズビアンの女性が、友達のアリス(この女性もレズビアン)が主催するパーティーに、最近別れた恋人のニッキを電話で誘うのだが来てもらえず、一人でいたところを行きずりの男に話しかけられ、お酒に薬を入れられて、車の中でレイプされてしまう。そのセックスが原因で、サマンサは性病に似たゾンビ化する病気に感染してしまい、グロテスクな症状が発症しはじめるという物語だ。

とにかく、感染した人間というものは、どこでどんな風に感染したのかを正直に医者にも説明しないし(今回の場合、明らかに性的被害者なのだが)、気が動転するとさらに人に感染させる行動をとってしまうという典型的なパターンが描かれている。

ただ、面白いと思ったのは、アリスがサマンサを酔わせようと強い酒を飲ませるやり取りや(アリスはサマンサと寝たいと思っている)、ニッキがレストランでサマンサをナンパしてきた男性に対して「あんたがそこにぶら下げている器具は働かないんだよ(you're not working with the right equipment down there.)」とガラの悪いセリフで撃退するところだ。
サマンサが母親に自嘲気味に自分はdyke(レズビアンの俗語)だというところも、言葉の意味を初めて知った。
全般的にガラの悪い英語が多く、アリスは「fucking」をやたらと使うし、「Holy shit」という言葉も意味を考えると面白い。

「Thelma」は、「Contracted」よりははるかに上品な映画で、まず、主人公のテルマが行くオスロの大学のキャンパスの風景がきれいで静かな雰囲気で描かれている。話す言葉もノルウェー語で聞いていていかにも北欧という感じを受ける。

両親に厳格に育てられたテルマには超能力があり、それを心配した両親が厳格に育てたせいで、人との交際も遠慮がちなテルマであったが、アンニャという同級生と知り合い、少しずつ打ち解けていく。そして、アンニャと両想いになってしまうという物語だ。

こちらは、いかにも自然と両想いになってしまった二人の女性のやり取りが描かれていてる。観劇中にアンニャに膝を触られて恍惚感を覚え動転してしまうテルマの様子や、初めてのキスシーンなんかは、ちょっとリアルな印象を受けた。

物語の最後は意外な形で終わるのだが、自由を獲得したテルマが幸せそうでポジティブな印象を受ける。

「Contracted」と「Thelma」を同列で論じてしまうのは多少無理があったと思うが、レズビアンの世界も面白いなと思った。

2020年6月26日金曜日

卍/谷崎潤一郎

谷崎四十二歳の時に発表された、実に野心的で力に満ちた作品である。

四十歳で関西に移住し、そこでおそらくは全身で感じたであろう女性の魅力的な関西弁の話し言葉。彼にとっては実に新鮮だったに違いない。

二人の女性 園子と光子の間で交わされる愛憎に満ちた会話は、上方言葉によって、あざといと感じるくらいの女らしいにぎやかさと愚かさを感じさせる。

これを例えば東京言葉で表現したら、作品の魅力は半分ぐらい消し飛んでしまうのではないだろうか。

とにかく、谷崎が楽しくて楽しくて仕方がないというくらいの勢いで書いたのではないかと思われるほど、前半の二人の会話は活き活きとしている。

しかし、この作品は中盤から少しずつ影が濃くなってくる。
それは、他愛もない自分の恋愛に関する約束事を契約条項のような文言に仕立てて誓約書に書き、自分の恋人やその恋人を取り合う相手に署名させ、時には血判を押させて、相手の考えや行動を束縛しようとする綿貫という病的な男の影である。

そして実は綿貫より徹底的に恋愛に束縛と隷属を求めていたのは光子だったという結末は、読んでいてぞっとするような気分になるのも事実だ。
前半の一見明るさに満ちたやり取りの後ろに、こんなに濃い影が潜んでいたのかという思いがする。

まるで「陰影礼賛」のような話だが、二人の女性や男との性的な描写も間接的に仄めかす程度に抑えているのも、この作者らしい。

今は何でも赤裸々にしてあっという間に興が冷めるが、実はこういう隠し方が想像力を刺激する一番淫靡なやり方だと思う。



2020年6月13日土曜日

ポゼッション 1981 / アンジェイ・ズラウスキー

この映画、何年かに一度は無性に見たくなる映画で、一度見出すと止まらなくなってしまう。

イザベル・アジャーニの演技がすごいのもあるが、音楽、街の風景、その他の俳優(特にハインリッヒ役の人)がいい。

まだベルリンの壁がある冷戦の雰囲気が漂うおそらくは西ドイツの街並みもいい。
この映画から漂ってくる80年代前半の雰囲気が好きなのかもしれない。

ストーリーは何度見ても理解できない。
最初は夫婦の不和の話が、グロテスクな怪物の話になり、世界の終わりを彷彿させるラストへと変容していく。ただ、物語の疾走していく感覚が見ていて心地よい。

イザベル・アジャーニは、この映画のころ、二十五歳だったと思われるが、最も美しい盛りに出演した、最もグロテスクな映画なのかもしれない。

2020年5月30日土曜日

猫を棄てる 父親について語るとき/村上春樹

非常に短い文章で語られているが、これを書くのに村上春樹氏はどれだけの時間を費やしたのだろうと気になった。

それは文章中に浮かんでくる父親に対しての躊躇いや葛藤がほのかに感じられるからだ。
村上春樹氏は、猫を棄てにいくというエピソードをきっかけに書くことで筆が進んだと言っているが、確かにこの作品は、冒頭と最後に猫に関するエピソードを添えることなくして成り立たなかったように思う。

ただ、ご本人も認めているが、村上春樹氏と父上は、本質的にはかなり似たタイプの人だったことは想像がつく。

安養寺の住職であった祖父の村上弁識(すごい名前)氏が亡くなったとき、家族の期待を退けてその住職の職を引き継がず、自分の家族と生活を最優先した父上の意志は、不和となった父上と二十年以上、音信不通を貫いた村上春樹氏の強固な意志と重なるような気がする。

そして、父上が俳句に情熱を持っていたということも、村上春樹氏に、詩というメンタリティ的な部分で強く影響を与えているような気がする。
村上春樹氏の小説における巧みな比喩は、ある意味、詩的な表現と捉えてもおかしくはない。

この小文でも、高い松の木に登って消えた白い子猫の話を書いており、これは事実ということだが、色々な意味に解釈できる巧みな比喩になっている。

戦争と父、父と息子、その重いテーマを、猫の存在が辛うじて支えているような不思議な印象を持った(珍しく二度読んだ)。


2020年5月16日土曜日

ボーダーライン(Sicario)/ドゥニ・ヴィルヌーヴ

ヴィルヌーヴ監督を知ったのは「ブレードランナー 2049」を見たからで、「ブレードランナー」が大好きだった私は、この続編に全く期待していなかったのだが、その予想を見事に裏切られた。

映像の静かな美しさ、レプリカントの辿る運命の哀しさが見事に表現されていて、何度も繰り返し見ている。
特にウォレスの秘書的な役割を果たすレプリカント ラヴ(Luv)を演じる シルヴィア・フークスの演技は見事だ。
ほかの作品の彼女を見たが、この作品のラヴのような面影を全く感じないところは、演技力の高さを示していると思う。

印象的なシーンは、オフ・ワールドに、ハリソン・フォード演じるデッカードを移送する際、彼からどこに連れていくのか質問を受けた際、彼女が「Home(故郷)」と答えるシーンだ。
ラヴも、過酷なオフ・ワールドの世界で働いていたと思わせるような一言だ。

前置きが長くなってしまったが、そんなヴィルヌーヴ監督の別の作品も見てみたいと思い、『ボーダーライン』(原題 Sicario:スペイン語で「殺し屋」)を見た。

麻薬カルテルが起こした誘拐事件をきっかけに、女性FBI捜査官のケイトが、国防総省のマットが率いるCIAの特別チームに引き抜かれ、カルテルのボスを追跡する物語で、最初は、女性FBI捜査官の活躍を描く作品なのかと思ったが、全くのヒヨコ扱い、果ては彼女のミスをきっかけに汚職警官の捜査のおとりに使われるという容赦のない物語が展開していく。
(特にカルテルの幹部を移送する際で起きた高速道路のシーンはリアルな緊張感がある)

とりわけ、この物語の非情さを体現しているのが、ベニチオ・デル・トロ演じる謎の捜査官アレハンドロだ。

アレハンドロがケイトに最後に言うセリフが一見優しいようで厳しい。
You will not survive here.
You're not a wolf, and this is the land of wolves now.

こういうハードボイルドな映画も作れてしまうヴィルヌーヴは、すごい監督なのかもしれない。


もう一つ、メッセージ(原題:Arrival)という映画も見た。
こちらは、謎の目的で地球に来たタコのような宇宙人とコンタクトする言語学者の女性の物語で、これもテーマ性のあるしっかりとした映画でした。

2020年5月9日土曜日

異端者の悲しみ/谷崎潤一郎

久々にこの作品を読み返してみて、主人公の間室 章三郎がたびたび感じていた死の恐怖を妙に身近なものとして感じた。

鈴木という学友が心臓が弱いせいで腸チフスにかかって死んだことで、章三郎は自分も心臓が弱いからチフスに感染してしまわないかという強迫観念にかられ、次第に神経衰弱に陥る様子が描かれている。

昔読んだ時にはそれほど共感できなかった部分であるが、この新型コロナウイルス感染症の時代に読むと、彼を苛んだ死の恐怖は決して大げさなものではないように感じた。
(明治時代は、腸チフスで毎年数万という患者が出たらしい)

「己はいつ死ぬか分からない。いつ何時、頓死するか分からない。」

章三郎の心配は次第に、脳溢血、心臓麻痺まで拡大していき、瞬間に五体が痺れてしまいそうな感覚が日に五、六度も起こったり、歩いていると不意に胸が痛くなってしまう。

章三郎はこのような神経性の”病気”にかかってしまったのは、自分が今まで行ってきた背徳的な行為に対する天罰なのだと感じる。(このような思いも共感できる)

しかし、章三郎のユニークというか、したたかなところは、海嘯(つなみ)のように襲い来る死の恐怖を払い除けつつ、現実の世を生きられるだけ生き、己の肉体と官能を、悪魔が教える数々の歓楽の海に浸らせたい、という強い欲望を同時に合わせ持っていたところだろう。

たとえ、自分の家が八丁堀の長屋(学友からは貧民窟と言われている)の「垢で汚れて天井の低い、息苦しい室内」であっても、彼は寝そべっている自分の頭の中に醗酵する怪しい悪夢がいずれ「甘美にして芳烈なる芸術」になると信じた。

この強い自己肯定力が、この小説の力強さというか、魅力なのかもしれない。

2020年5月5日火曜日

青青の時代/山岸凉子

山岸凉子が描いた卑弥呼(ヒミコ)の物語。
彼女の作品なのに、珍しく途中で読むのを止めてしまったが、十数年ぶりに読み直してみて、なぜ読むのを止めてしまったのか、想像がついた。

たぶん自分は「日出処の天子」のような作品を期待して、この作品を読んだのだと思う。

シャーマン的な能力を持ち、国を支配した謎の女王。
「日出処の天子」の厩戸王子にぴったりのイメージではないか。

しかし、山岸凉子は「日出処の天子」とは、まるで違う作品を作った。

まず、この作品の主人公は壱与(イヨ)という、山岸凉子らしくない少女漫画風の目が大きい二重の少女なのだ。
彼女はヒミコの姉であった日女(ヒルメ)の孫娘である。

ヒルメは、ヒミコより強い超常能力の能力を有していたが、ヒミコの策略により、強姦され、妊娠してしまい、聞こえさまとしての地位を失ってしまう。なお、ヒルメは気狂いの老婆として描かれている。

イヨも、ヒルメの強い超常能力を受け継ぎ、その力はヒミコを凌駕しているが、積極的にその能力を行使しようという野心はない優しい少女で、物語の冒頭、島の少年たちに輪姦されて、処女を喪失してしまっている。

物語は、伊都国の王 日男(ヒルオ)の死を契機に起こる王位継承の争いが起こり、ヒミコが推す第一王子の日子(ヒルス)に対抗すべく、第四王子の狗智日子(クチヒコ。これも三白眼)が、ヒルメとイヨを伊都国に連れてきて、イヨが争いに巻き込まれるというもの。

唯一、ヒミコが老女でありながら、美貌を失わず、厩戸王子のイメージに近いが、彼女には厩戸が持つほどの強い超常能力はなく、動物の骨を焼いて吉兆を占うことにとどまる。

また、「日出処の天子」のような登場人物間の恋愛模様はなく、むしろ、ヒミコに象徴されるシャーマン(巫女)に支配される女の政治から、権謀詐術を繰り出すクチヒコのような男の政治に取って代わられる現実的な政治への移行の過程を描いている点で、本当にこれは少女漫画なのかという別の意味での驚きを感じた。

「日出処の天子」から十五年経ち、成長した創作者として「同じ作品は描かない」という作者の強い意思を感じる。






2020年5月4日月曜日

神曲 地獄篇 第1歌~第17歌 ダンテ・アリギエーリ/須賀敦子/藤谷道夫 訳

須賀敦子が上智大学の助教授になる前、イタリア語を覚え始めた藤谷道夫氏に「神曲」の読み方をレクチャーする際に使った彼女の自習用ノートの訳を基に、「神曲」の詳細な注釈と解説が記されている。

西暦1300年4月4日、「人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき」、ダンテは暗い森の中をさまよい、詩人ウェルギリウスに出会い、彼に導かれながら、地獄降りをはじめる。

ダンテの描く地獄はとても観念的で、原罪、愛欲、食悦、貪欲・浪費、高慢・嫉妬・憤怒・鬱怒、異端、暴力、自己破壊、男色等々、罪の重さによって地獄圏が異なり、罪人の罰せられ方も違う。

そして、これらの地獄には、旧約聖書、聖書、ギリシア神話の人物、エピソードが登場し、この「神曲」一冊を読むだけで、実質的にこれら3つの物語を読んだことになる。

今回は、須賀敦子の訳詩の美しさにとどまらず、藤谷道夫が付けた濃密な注釈と解説に魅入られてしまった。

詩の一行一行に、日本人の感覚とは相容れない西洋的倫理観が隠されていて、その意味を明らかにしていく過程が読んでいて実にスリリングだ。



2020年2月23日日曜日

モンテ・フェルモの丘の家/ギンズブルグ 須賀敦子 訳

イタリアでの生活を捨て、アメリカに行こうとするジュゼッペを中心に、彼の元恋人 ルクレツィア、彼女の夫 ピエロ、従姉妹のロベルタ、彼の息子 アルベリーコ、彼の兄 フェルッチョ、友人のアルビーナ、エジストとの、それぞれが互いに異なる相手に手紙をやり取りするのだけれど、つながった糸が作ったまるで蜘蛛の巣のように物語が浮かび上がる。

そして、そこで描かれる人々は、決して生き方が器用とは言えない。
親しい友人たちを置いて、住み慣れた我が家を捨てアメリカに行くジュゼッペ。
皆のかけがえのない家だった《マルゲリーテ》を壊す原因を作ったルクレツィア。
けれど、決して憎めない暖かい人たち。

物語は後半、思いがけない方向に進む。
最初は、大した人物ではないと思われたジュゼッペの息子 アルベリーコや、彼の恋人サルヴァトーレ、フェルッチョの妻の娘 シャンタルといった脇役がドラマチックな展開のトリガーをはたしているのも面白い。

作者はこの作品に関して「小説を書くときはいつも、粉々になった鏡を手にしているような感覚で、それをなんとかひとつの鏡にしあげたいと願って書き進める。...けれども今回ばかりは、はじめから願いも何ももたなかった」と言ったそうだが、はたしてそうだったろうか。
大きくはないけれどくっきりとその鏡の一片を取り出すことができたのではないだろうかと、ルクレツィアの最後の手紙を読んで思った。

「都市と家」というシンプルすぎる題名に、《マルゲリーテ》のあった「モンテ・フェルモの丘の家」という温かみのある題名をつけた須賀敦子もすばらしい。


2020年2月2日日曜日

掃除婦のための手引書/ルシア・ベルリン

読んでいて、記憶に突き刺さってくるような作品が多い。
読んだ後で、場所と人物と一つの光景がふっと浮かび上がってくるのだ。
ストーリーではなく、映画のワンシーンのような。

例えば、コインランドリーをテーマにした短編。
わたしはインディアンたちの服が回っている乾燥機を、目をちょっと寄り目にして眺めるのが好きだ。紫やオレンジや赤やピンクが一つに溶け合って、極彩色の渦巻きになる。(エンジェル・コインランドリー店)
「百年」男がぼそっと言った。「百年だとよ」わたしも内心同じことを思った。百年。わたしたちの洗濯機が体を小刻みに揺すり、脱水の小さな赤いランプがいっせいにともった。(今を楽しめ)
あるいは救急救命室の看護師の仕事。
頑としてストレッチャーに乗ろうとしないので、わたしがキングコングみたいに抱えて廊下を運んでいった。彼はおびえて泣いて、涙でわたしの胸が濡れた。(わたしの騎手)
個人的には、「喪の仕事」 が記憶に突き刺さった。
掃除婦として亡くなった老人の家の片づけをする話なのだが、老人の息子と娘とやり取りしながら遺品を整理していく過程が面白い。その人の死を不思議と強く感じる場面なのかもしれない。
どちらにしても悲しいのは、あっという間にすべてが済んでしまうことだ。だって考えてもみて。仮にあなたが死んだとして、あなたの持ち物をぜんぶ片づけるのに、わたしならものの二時間とかからないのだ。
(喪の仕事)


2020年1月19日日曜日

マーシェンカ/ナボコフ

ナボコフの最初の長編小説といわれる本書。
ベルリンの亡命ロシア人が集う下宿屋に住む二十五歳のガーニン。恋人のリュドミーラとの関係にも飽き、倦怠感がただよう下宿屋にも嫌気がさしていたころ、隣の部屋に住みだしたアルフョーロフの部屋で、まもなくベルリンに出てくる予定であるという彼の妻の写真を見せられる。
それは、ガーニンが十六歳の時の初恋の相手 マーシェンカだったという物語だ。

それから、ガーニンが追憶する十六歳のマーシェンカの姿や恋愛が描かれるのだが、このあたりの描写は、後の作品「アーダ」にも似ているし、現在のマーシェンカの姿というより、少女の時の彼女への思い以外描かれていないという意味でも、後の「ロリータ」につながるような要素があふれている。「亡命者」という設定もそうだ。

本書でも細緻な技法がさまざまに用いられていることが解説に書かれているが、おもしろいのは、ナボコフが本書を「イモムシ」と呼んでいたことだ。
まだ蝶に成長しきれていない幼虫のような作品だったということをナボコフ自身、認めていたということだろう。

そして、ある意味、衝撃のラスト。
しかし、ガーニンの決断は賢明なものだったのではないかと思う。
ラストシーンで感じられる過去より前に向かっていくガーニンの姿は、妙にすがすがしくて、ナボコフ作品のなかでは特別なものに感じられる。


2020年1月12日日曜日

レベレーション - 啓示 - 5/山岸凉子

本刊では、次第に運気が下降していくジャンヌが、ついに敵方に捕らえられてしまう。
彼女が絶頂期にいたランスの戴冠から1年も経っていないのに、この運命の変わりよう。

そして、彼女の人気と勢いを今まで利用してきたシャルル7世やその異母ヨランド、大司教たちは自らの保身と政略から、捕らわれた彼女を見限ってしまう。
結末が分かるだけに、読んでいて少しつらい。

まだ続いている啓示の声「すべてを受け入れよ」「汝は解放される」が意味深だ。

個人的に興味をそそられたのは、ジャンヌが二度も牢獄から脱出を図ったこと。
シーツを破いてつなぎ合わせてロープ代わりにして、二十メートル近い高さの塔の部屋から逃げようとするのだが、重みに耐えかねてシーツは切れてしまう。
山岸凉子は、シーツを握りしめたまま、奈落の底に落ちていくようなジャンヌを描いている。

印象的といえば、敵国のイギリスに引き渡され、牢獄に入れられたジャンヌが自身の純潔だけは守りぬこうと決意する場面も。

男装と処女性は、彼女にとって神に選ばれし者であることを証明する最後の砦だったのかもしれない。

彼女を待ち受ける異端審問が今後の見どころになるのだろうか。


2020年1月11日土曜日

イタリアの詩人たち/須賀敦子 その2

本書は、イタリアから日本に帰国した須賀敦子が初期に書いた作品らしいが、そのクオリティの高さと文章の一部に抑えきれないように噴き出す情熱のような激しさが随所に感じられ、読んでいて飽きない。

例えば、これは、一片の詩のような趣がある文章だ。
...老いた詩人は、長い夕暮の道を、ゆっくりと辿りはじめる。なんという長い臨終の季節だったろう。...晩年のウンガレッティは、復活を信じて、自らの吐く白い糸で、薄明の繭に、このうえなく楽観的な幽閉を実現してゆく、哀しくて高貴な幼虫のいとなみを想像させる。(ジュゼッペ・ウンガレッティ)
これは、文明批評。
...いにしえの日に、アレキサンドリアの図書館の火事が、ほとんど象徴的に、古代の文化を葬り去ったように、いま商業主義の猛火が、すべての価値観を浸蝕し、人類が本質的にうたを喪失しはじめたことに...(エウジェニオ・モンターレ)
これも批評(どちらかというと辛辣な)なのだが、なんて美しい言葉で批評するのだろう。
...燃えつづける生命の火のかわりに、クワジーモドが盗んだのは、まさに火花だったのではなかったか。人間の崇高な運命や実存については、一言の約束をも用意してくれぬままに、彼の栄光は、光と風の爽やかな錯覚に彩られた、言葉だけの透明な世界――水子の 儚さにも似た世界にしかもとめられない。(サルヴァトーレ・クワジーモド)