百物語とは、多勢の人が集まって、蝋燭を百本立て、一人が一つずつ化物の話をして、一本ずつ蝋燭を消して行く。百本目の蝋燭が消された時、真の化物が出るということらしい。
この作品も怪談めいたものかと思って読んだが、全く違っていた。
簡単に言うと、森鴎外が催し物(百物語)に参加するため、屋形船に乗り、見知らぬ人々を観察し、屋敷に着いて、催し物の始まらないうちに帰ってしまうだけの物語だ。
鷗外が不機嫌だったのか、何かしら気分が沈んでいた時なのか、とにかく底流に彼の不機嫌さというか、周りの人々との見えない壁というか、すれ違いを強く感じさせるものがある。
その痕跡は至るところに溢れている。
この百物語に誘ってくれた写真を道楽にする男は鷗外の文学を理解しておらず、屋形船の人々の話は白々しく聞こえ、船を降りる際には、自分が履いた下駄は無くなり、歯が斜めにすり減ったものしか残っておらず、屋敷に着いてすれ違ったお酌の女に声をかけても無視され、百物語の主催者の自分に対する挨拶もそっけない。
(下駄については後日、主催者から参加者に新しい下駄が送られたが鷗外には送られなかった)
そういった出来事のせいなのか、鷗外は肝心の百物語についても、にべもない。
…百物語は過ぎ去った世の遺物である。遺物だと云っても、物はもう亡くなって、只空しき名が残っているに過ぎない。客観的には元から幽霊は幽霊であったのだが、昔それに無い内容を嘘き入れて、有りそうにした主観までが、今は消え失せてしまっている。怪談だの百物語だのと云うものの全体が、イブセンのいわゆる幽霊になってしまっている。それだから人を引き附ける力がない。
では、鷗外は何を目的にこの催し物に参加したのかと言いたくなるが、彼は、この催し物を企画した主催者 飾磨屋の主人(鹿島清兵衛がモデル)とその妾さんである太郎(鹿嶋ゑつがモデル)に興味を持つ。
というか、一種の意趣返しのような意地の悪い観察を始めたといった方がよいかもしれない。
鷗外は、二人を見て「病人と看護婦のようだ」と評しているが、これも何かしら悪意を感じる言葉である。
その隠すことのできない悪意のせいなのか、鷗外は突然、自身を”傍観者”だという感情を漏らし、その”傍観者”的気質が飾磨屋の主人にいかにもあるかのように、不自然な共感を抱いている。
僕は生まれながらの傍観者である。子供に交って遊んだ初から大人になって社交上尊卑種々の集会に出て行くようになった後まで、どんなに感興の湧き立った時も、僕はその渦巻きに身を投じて、心から楽んだことがない。僕は人生の活劇の舞台にいたことはあっても、役らしい役をしたことがない。高がスタチスト(端役)なのである。…そう云う心持になっていて、今飾磨屋と云う男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がしてきた。
しかし、飾磨屋の主人を評した次の言葉は、悪意そのものと言っていいだろう。
こんな催しをするのは、彼が忽ち富豪の主人になって、人を凌ぎ世に傲った前生活の惰力ではあるまいか。その惰力に任せて、彼は依然こんな事をして、丁度創作家が同時に批評家の眼で自分の作品を見る様に、過ぎ去った栄華のなごりを、現在の傍観者の態度で見ているのではあるまいか。
そして、太郎についての次の感想は、もはや嫉妬としか思えないレベルである。
あれは一体どんな女だろう。…傍観者は女の好んで択ぶ相手ではない。なぜと云うに、生活だの生活の喜びだのと云うものは、傍観者の傍では求められないからである。そんなら一体どうしたと云うのだろう。僕の頭には、又病人と看護婦と云う印象が浮んで来た。女の生涯に取って、報酬を予期しない看護婦になると云うこと、しかもその看護を自己の生活の唯一の内容としていると云うこと程、大いなる犠牲は又とあるまい。そうして見ると、財産でもなく、生活の喜でもなく、義務でもなく、恋愛でもないとして考えて、僕はあの女の捧げる犠牲のいよいよ大きくなるのに驚かずにはいられなかったのである。
一見同情しているかのようにも思えるが、恋愛ですらないと言い切っているところがすごい。
そして、最後の文章が決定的である。
傍観者と云うものは、やはり多少人を馬鹿にしているに極まっていはしないかと僕は思った。
私には上記のようにしか読めなかったのだが、皆さんはどうでしょう。
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