2020年7月28日火曜日

名人伝/中島敦

弓の名人の話なのだが、非常に解釈が難しい物語だ。

紀昌という男が天下第一の弓の名人になろうと志を立てる。
最初に弟子入りした飛衛の下では、瞬きをしない訓練で二年間、小さいものを視る訓練で三年を費やす。
その目の基礎訓練を終えると、すでに紀昌の弓は百発百中の域に達しており、遂には、紀昌は師匠の飛衛から学ぶものはなくなったとして、師を取り除き、自分が第一の名人になることを企む。

その企みは失敗するが、紀昌の危うさを感じた飛衛は、紀昌に霍山の頂に居る名人 甘蠅師を紹介する。

その甘蠅師はさらに凄い技の持ち主で、弓を持たなくても無形の弓で飛ぶ鳶を打ち落とす技の持ち主だった。
ここで紀昌は九年間修業するが、どのような修業をしたのかは誰も知らない。

九年経って山を下りてきた紀昌はまるで木偶のような人物に変わっており、弓にも触れず、言葉も少なくなっている。
「弓を執らざる弓の名人」と周りは持て囃すが、紀昌の木偶の如き顔はさらに表情を失い、語ることすら稀になる。

そして、死ぬ一二年前に、紀昌は、招かれた家の主人に、この器具は何と呼ぶ物で、何に用いるのか質問する。主人は最初冗談だと思ったが、三度尋ねられて、狼狽しながら叫ぶ。「古今無双の射の名人たる夫子が、弓を忘れ果てられたとや? ああ、弓という名も、その使い途も!」
その話を聞いた都の画家は絵筆を隠し、楽人は琴の絃を断ち、工匠は規矩を手にするのを恥じたという逸話で話は終わる。

この話は、弓の道を究めた名人の話と素直に読むものなのか(A説)、あるいは、行き過ぎた修業は人間の才能を枯らしてしまい、皮肉にも、それすら判らぬというのが世間の常であるという話(B説)なのか、判断が非常に難しい。

A説として考えられる根拠は、紀昌が、師匠を取り除き、自分が唯一の名人になろうとしたり、自分の技の凄さを喧伝するような負けず嫌いな功名心が消え失せ、ある意味老成していることだ。
一方、B説は、山を下りてきた紀昌には、弓の実技に留まらず、道を究めた名人にあるはずの豊かな精神の動きすら失われており、見ようによっては認知機能すら危うくなった廃人と化している点が根拠として考えられるだろう。

常識的に考えるとB説のように思えるが、藝事の名人が終には究めた道具の名前も使い方すら忘れてしまうA説のほうが、アイロニーが利いていて個人的には面白いように思う。


2020年7月27日月曜日

変身(かわりみ)/カフカ/ 多和田葉子 訳

海外文学のメリットは、新訳によって、新しい文章・解釈によって生まれ変われるところにある。

このカフカの「変身」も4、5回は読んだと思うが、その新訳によって、毎回、新たな場面が印象に残る。
今回は、従来、グレゴール青年が変身してしまった「毒虫」又は「虫」という表現が、ウンゲツィーファー(生贄にできないほど汚れた動物或いは虫)と訳されたところがポイントだと思う。

それによって、家族や会社のために身を粉にして働き、過労死寸前だったかもしれないサラリーマンのグレゴール青年が「生贄」になることを自ら拒否するため、ウンゲツィーファーに変身せざるを得なかった背景が感じられ、

また、グレゴール青年が妹を偏愛したことがウンゲツィーファーに変わってしまった原因(罪)であり、その妹がグレゴール青年に死刑宣告のような言葉を突き付けるところが、罪と罰の物語として読み取れる。

もう一つ。解説で、この作品は介護の物語が読み取れるという多和田葉子の指摘は、あまりにも的確すぎると思う。(引きこもり、鬱病という解釈は池澤夏樹も言っていた)

このように、あまりにも現代社会の病癖に即して幾重にも解釈できるカフカ作品の怖ろしさを感じた。



2020年7月26日日曜日

文字禍/中島敦 その2

舞台はアシュル・バニ・アパル大王が治める紀元前650年ごろのアッシリアの話である。
大王が建設した図書館で、毎夜、ひそひそと怪しい話し声がする。

それは、文字の霊の話し声ではないかという噂が立ち、ナブ・アヘ・エリバという老齢の博士が探索を命じられる。

図書館と言っても、メソポタミア文明ではパピルス(紙)は生産をしていないため、文字はすべて粘土板(瓦のようなもの)に記されており、まるで瀬戸物屋の倉庫のような趣がある。

博士は粘土板に記された楔形文字を長く見るうちに、文字が解体し、意味の無い一つ一つの線の交錯にしか見えなくなってしまう。
そして、その単なるバラバラの線に一定の音と一定の意味を持たせているのが、文字の霊であることに気づく。

文字の精は野鼠のように仔を産んで殖え、人々に悪い作用を与えていることがわかる。
眼が悪くなることは勿論、咳が出始めたり、脚が弱くなったり、傴僂になったり、記憶力が悪くなってしまう、などなど。

自分も文字の霊に毒され重症化しはじめていることに気づいた博士は、文字への盲目的崇拝を改めるよう、大王に進言する。
しかし、その反逆を知った文字の霊は、大地震の時、書庫にいた博士に夥しい書籍(粘土板)を、文字共の凄まじい声とともに降らせ、圧死させてしまう。

この物語を最初に読んだときは、文字の精霊という存在を思いついた中島敦に感心するだけであったが、よくよく考えると、これはアルファベットという文字では、中々イメージが湧きにくいだろうなと思った。

まさに楔形文字や漢字のような象形文字にこそ、文字の精霊は「野鼠のように仔を産んで殖え」そうな気がする。

そして、驚くのは、アシュル・バニ・アパル大王が本当に図書館を建設していたということである。その図書館には、30,000枚以上の粘土板が収められていたというのだから、当時としては大図書館と言っていいだろう。
そこで夜ひそひそ話が聞こえたら、文字の霊を疑ってしまうかもしれないと思わせるリアリティが感じられる。

中島敦の作品は、こういった物語の構想という観点だけでも、感心させられることが多い。



2020年7月25日土曜日

木乃伊/中島敦

ペルシャ人の軍人パリスカスは、「頗る陰鬱な田舎者」で「何処か夢想的な所」があり、「何時も人々の嘲笑」を買うような男であったが、エジプト征服に向けて進軍中、エジプト軍の捕虜共の話している言葉を、エジプトに住んだこともその人々と交際したこともないのに、理解できそうな自分に気づく。

同僚たちも、オベリスクを建てた王とその歴史をよどみなく説明するパリスカスを奇妙に思う。しかし、パリスカスには原因が分からない。

ペルシアのカンビュセス王が、エジプトの先王の墓を暴くことを兵士たちに命じ、パリスカスも探索に加わるが、いつの間にか、たった一人で古そうな地下の墓室にいることに気づく。

そして、その墓室にいた木乃伊の顔に視線を合わせたとき、突然、パリスカスの身体に内的な異変が生じ、この木乃伊が前世の自分であったことに気づく。

前世のパリスカスは祭祀であり、当時の出来事や妻の体臭まで思い出す。

そして、パリスカスはさらに前世の記憶をたどるうちに、前世の自分もまた薄暗い小室でちょうど今起きているように一つの木乃伊(前々世の自分)と対峙している前世の自分を見つけ、慄然とする。

前世、輪廻転生を扱った作品は多いが、まるで合わせ鏡のように、その不気味な無限性を描いている点で怖い物語だ。

前世の自分の臨終の際の表現も現実感がある。
うす眼をあけて見ると、傍で妻が泣いている。 後で老人達も泣いているようだ。急に、雨雲の陰が湖の上を見る見る暗く染めて行くように、蒼い大きな翳が自分の上にかぶさって来る。目の眩むような下降感に思わず眼を閉じる―

 

2020年7月24日金曜日

狐憑/中島敦

狐憑き、という、いかにも日本的なテーマを取り上げながらも、舞台はスキュティア人(スキタイ)の湖上民族の話である。

シャクという平凡な男が、遊牧民の侵略を受けた際、弟を殺されたことをきっかけに、譫言(うわごと)をいうようになり、人々は珍しがって彼の話を聞きに来る。

最初は弟の霊が憑りついたと思われたが、そのうち、関係のない動物や人間の言葉を口にするようになる。

しかし、シャクが話す態度は狂気じみた所がなく、その話は条理が立った内容になっており、憑きものがついた人間の話とは思えない。
シャクも自分が憑きもののせいで話している訳ではないことに気づいているが、自分が何故、このような空想話を次から次へと生み出すのか分からない。そのうち、彼の話を聞きに来る聴衆はますます増え、シャクが作り出す物語の構成も巧緻なものになっていく。

後世の私たちは、その生業を作家と呼ぶのだが、文字もないこの時代、シャクのやっていることは、彼自身も含め誰も理解できない。

そのうち、若い人たちが彼の話を聞いてばかりいて仕事をしないことに腹を立てた長老達が、シャクの排斥にとりかかる。
シャクは釣りや馬の世話をせず、実社会では働かず、彼の話の面白さに惹かれる人々から与えられる食べ物で生きていたが、やがて、シャクが作家的スランプに陥ると、今まで彼の話を好んで聞いていた人々も彼に食べ物を分け与え続けてきたことに腹立ちさえ覚えるようになる。

そして、長老たちの計略により、シャクは雷の夜、処刑されてしまう...という物語だ。

中島敦の作品は、不遇な芸術家を描いたものが多いが、決してウェットな感じにはならない。ある意味、その不幸をも笑いに変えてしまっているような知的な印象を受ける。
この物語の最後の文章も、こうだ。
”ホメロスと呼ばれた盲人のマエオニデェスが、あの美しい歌どもを唱ひ出すよりずつと以前に、斯うして一人の詩人が喰はれて了つたことを、誰も知らない。”

2020年7月19日日曜日

対訳 ランボー詩集 フランス詩人選(1)中地義和編

ランボーの詩は、一度まとまったものを読んでみたいと思っていたので、原文付きの文庫本は、パラっとページを開いてすぐに読みたくなった。

本書の構成も分かりやすく、前期韻文詩、後期韻文詩、地獄の一季節(全文)、イリュミナシオン、そして、ランボーが最後に残したという詩「夢」、作品解説、年譜と一通りまとまっている。

原文が読めなくても、言葉の持つイメージが伝わってくるので、それを見るだけでも雰囲気を感じ取ることができる。また、特異な表現には注釈がついているで、それを読むのも面白い。

この本を読んでいて興味深かったのは、「地獄の一季節」が、ダンテの「地獄篇」に近い場面設定がされていることが分かったのと、「イリュミナシオン」が「地獄の一季節」の後に書かれたものではなく、その前後(と言っても詩作の期間はたった5年しかない訳だが)の広い期間にランボーが書き残した様々な作品を拾い集めた詩集であるという説だ。

この説は、実質的な詩作の訣別を述べている「地獄の一季節」の後に「イリュミナシオン」が詩作されたという不自然な流れを解消してくれるものだ。

(ビートルズの実質的な最後のアルバムは「Abbey Road」だが、最後のアルバムが「Let It Be」だったのと同じような感じか)

また、こうして訳者が変わっても、好きな詩は好きだ(特に「夜明け」)ということを改めて再確認できたというのもうれしい点であった。

本書には、ランボーをめぐる色々なイラストが掲載されているが、まるでサルのような姿で描かれているイラストもあり、これも、ランボーがパリの芸術家たちに悪い印象を持たれていたせいなのだろうか。(いかにも生意気そうな若僧という雰囲気は伝わってくる)

その点も読んでいて面白かった。


2020年7月5日日曜日

香港国家安全維持法に思う

コロナ禍にある世界が自国の対応に追われる中、間隙を突くように異常なスピードで成立した「香港国家安全維持法」。

この法律は、異様な制定手続で施行された。
香港の人たちに適用される法律にも関わらず、香港の立法会(議会)を通さず、中国全人代常務委員会で6月30日に可決された。しかも同日午後11時をもって施行。
さらに驚くべきことに香港の人たちには、施行されるまでこの法律の全文は公開されなかった。

公開された法律の内容も慄然とするもので、香港の人たちが行ってきたデモ活動や中国共産党や香港政府への批判が、「国家分裂」「政権転覆」「テロ活動」「外国勢力との結託」のいずれかに該当すると判断されると、3年以上10年未満の懲役刑に処せられる。重大な犯罪と認定された場合は、終身刑または10年以上の刑を宣告される。

その判断をする機関は、香港政府が行政長官をトップとして設立する「国家安全維持委員会」であるが、この委員会には、中国政府が顧問を派遣するほか、治安維持機関として香港に新たに設置する「国家安全維持公署」という機関に監督・指導にあたらせる。
司法や警察は「国家安全維持委員会」の配下にある。

「国家安全維持公署」と香港国家安全維持法に従って職務を遂行するその職員は、香港特別行政区の管轄権の対象とはならないとある(第60条)。
つまり、香港の人々はこの機関およびその職員に何も手が出せないということだ。

この規定以外にも、「香港の他の法律と矛盾する場合、香港国家安全維持法が優先される」との規定も盛り込まれている(62条)。

香港特別行政区に居住していない外国人が起訴される可能性もある(第38条)。

他にも問題だと思われる条項が多数ある。

この法律は、香港の人たちの頭に、四六時中、拳銃を突き付けて、自分たちの思い通りに行動を強制している状況に等しい。

この21世紀に、こんな悪法によって人権が侵害される場面を目の当たりにするとは思いもよらなかった。

(参考文献)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO60844530W0A620C2I00000/?n_cid=NMB0000

https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-53259691

https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/61142

https://transitjam.com/2020/06/30/national-security-law-english-translation/#_Toc44451742

2020年7月4日土曜日

ぜんぶ本の話/池澤夏樹 池澤春菜

まえがきで、池澤春菜が、読書は旅に似ていると書いているが、父と娘が幼年期から読んだ本の話を振り返ると、もはや親子が辿ってきた人生そのものに限りなく近づく行為と言ってもおかしくないかもしれない。

それは、語られている本が、まるで池澤家の書棚のイメージがくっきりと浮かんでしまうほど、鮮やかな好みが示されていること(ほとんど翻訳物)に加え、有名な作家を父に持ったお互いの若い頃の苦労がせきららに語られているせいもあると思う。

池澤春菜が、自分のいじめの経験を話して、
「本に触れることで救われる子、現実のつらさをやりすごせる子、壊れそうになる心をせき止めて、現実に立ち向かう力を持てる子。...だから、家にこもって本を読みふける子供を、親はできるだけ静かに見守ってほしいとわたしは思います」と述べているところや、
池澤夏樹が、自分の小説の主人公が職業を持った女性にするケースが多いのは、母や伯母が時代の制約で女性であるがゆえ活かすことができなかった能力、行動を、代わりにヒロインにさせているからだと思い至ったという告白は、特に胸に残った。

と、重い話を書いてしまったが、全体的には、池澤夏樹・春菜ワールド全開の、冒険小説、SF、ミステリー中心の本が、親子の軽妙な会話でおもしろ楽しく取り上げられていて、あっという間に読み終わった。

読後、あ、この本読んでみたい、と思うものが多かったので、これはいい書評の本だと思う。